2010年7月25日日曜日

「大学」の荒廃

エレイソン・コメンツ 第158回 (2010年7月24日)

数年前に私が,女の子は大学に行くべきではないと書いたところ,多くの読者がショックを受けました.だが,ある英国の『大学』(真の意味での大学とは全く同じではありません!)で最近6年間にわたり英文学を教えていた若い教授の話を聴いてみると,私は男の子も大学に行ってはならないと付け加えなければならないようです.彼らは大学に行くかどうか決める前に少なくともよくよく考えるべきです.また彼らの両親も高額な学費を支払う前に熟考を重ねるべきです.教授がどのような問題を観察し,何をその原因と見なし,どのような救済策を考えているかを,順を追ってご紹介したいと思います.

その教授が教えていた『大学』では,彼は真理の追求についても真理を追究するための教育についても観察することがなかったそうです.「言語は現実と無関係なゲームであり,独自の人工物を生み出している」と,教授は言っています.学生はあらゆるものが相対的だと感じるように仕向けられています.そこには一定の基準や価値観は一切なく,道徳的枠組みも道徳に関する言及も一切ありません.理科系の学問は,宗教に通じる『科学』に反対する進化論によって汚染されています.『文科系』は,あらゆるものの中心に性( “s-x” )というものをおいて解釈するフロイト(訳注・「ジーグムント・フロイト」“Sigmund Freud (1856-1939) ” 精神分析学者.オーストリア出身のユダヤ教徒.)理論によって堕落しています.大学教授たちは学生らに対し「彼らのためになる」から s-x life を持つよう話します.こういった『諸大学』では,自分たちの night life (夜の快楽的生活)につき,学生たちに対して同様の過ごし方をするよう公然と宣伝し,自然に逆らう罪を犯すことを大いに賞賛しています.彼らは完全にs-x の虜(とりこ)となっています.( “s-x” …訳注後記.)

教授は続けて言います.「教授陣について言えば,多くが根深い問題の存在を認めていますが,そのままゲームを続けているのです.彼らはマルクス主義者でないにしても,みなマルクス主義化しています.彼らはあたかもあらゆる権威が息苦しいものであって,すべての伝統が抑圧的であるかのように学生たちを指導します.すなわち進化論が全てを支配しているのです.学生たちについて言えば,何かを切望したいと考えている者は一人以上いますが,彼らは真理を見出すのにもはや『大学』を当てにはしていません.もし彼らが『学位』が欲しいとすれば,それは職を得るだけのためであり,もし彼らが優れた『学位』が欲しいとすれば,それはもっと給料の高い職に就くためなのです.彼らはいろいろな考えを話し合うことはめったにありません.」

それでは,大学が現代の確立されたシステムに仕えるだけの単なる功利主義的情報処理機関に変貌(へんぼう)してしまった原因は何なのでしょうか? 教授は次のように述べています.「基本的な原因は神の喪失にあります.これは御言葉の御托身(訳注後記)をめぐっての幾世紀にも及ぶ戦いの結果としてもたらされたものです.この結果,教育はもはや人が生きてゆくのに必要な真実や道徳を与えることを意味するものではなくなり,むしろ自分が他人とは異なり,より優れていると感じるよう個々人の潜在的可能性を発展させることを意味するものとなったのです.真理の追放によって生じた真空状態の中に入ってくるのは,全ての権威からの解放を引き連れたポップカルチャー(=大衆文化)とフランクフルト・スクール(=学派)です.神を追放した後に残された真空状態の中に入ってくるのは,『諸大学』をテクノクラートや技術者の供給源と考える国家です.絶対的なものに対する関心は一切失われています.唯一つ例外がありますが,それは絶対的な無神論です.」

この状態の救済策として,教授は次のように語っています.「現代の『諸大学』が陥ってしまった落とし穴から抜け出ることはほとんど不可能でしょう.男の子が本当に役立つことを学ぶには,家で休んだり(訳注・これはすなわち不品行〔不信心〕な者たちの悪行に巻き込まれるのを避けるため〔休日や休暇を家で過ごせるよう〕家〔下宿ではなく親の家〕から通える大学に入学する=寄宿舎〔学生寮〕に入らない,という意味合いを含んでいる.),教会の司祭たちと話したり,カトリックの黙想会(=静修会)に参加したりする方がよりよいでしょう.信心深いカトリック信徒たちは自分たちのために様々な事柄に着手し,団結して自らの施設を再建すべきです.たとえばサマースクール(夏期学校)から始めるのもよいでしょう.人文科学は健全な状態に回復されなければなりません.なぜなら,それは人間の存在の基礎,すなわち何が正しく善良で真実であるかを扱う学科だからです.自然科学は,特定の科目についてもそこから派生する科目についても,二次的なものにとどまるべきです.自然科学を人文科学に優先させることはできません.両親が男の子をこれらの『諸大学』に送る場合は,彼らが職を得るためで,人生に本当に役立つ事柄を学ぶためではないことを承知してかかるべきです.

「神の喪失」 - 結局はそれがすべての原因なのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


〔第2パラグラフの( “s-x” )の訳注〕
新約聖書・(使徒聖パウロによる)ローマ人への手紙:第1章26-27節に「恥ずべき欲」とある,いわゆる「自然に逆らう罪」“the sin against nature” に当てはまる類(たぐい)の行為のことを指すと思われる.
参照として,ローマ人への手紙:第1章16節-第2章16節を以下に引用.

ローマ人への手紙:第1章16-32節
使徒として召され,天主(=神)の福音のために選び分けられた,イエズス・キリストの奴隷パウロ,・・・福音は天主があらかじめ聖書の中でその預言者たちによって約束されたものであって,そのみ子に関するものである.み子は,肉としては(=人間として)ダヴィドの子孫から生まれ,聖い霊としては,死者からの*¹復活によって,力強く,天主のみ子とさだめられたもの,すなわち,私たちの主イエズス・キリストである.私たちは,かれによって,そのみ名の光栄のために,すべての異邦人に信仰への従順をつげるために,恩寵と使徒職(=使徒としての使命)とを受けた.その中にイエズス・キリストに召されたあなたたちもいる・・・天主に愛され,聖徳に召された(=召し出しとして聖なるもの),ローマにいるすべての人に手紙をおくる.私たちの父なる天主と主イエズス・キリストからの恩寵と平安が、あなたたちの上にあるように.

・・・私は,福音を恥としない.福音は,すべての信仰者,まずユダヤ人,そしてギリシア人を救う天主の力だからである.天主の正義は,福音のうちにあらわされ,信仰から信仰へとすすむ.「義人は信仰によって生きる」と書きしるされているとおりである.

実に天主の怒りは,不正によって真理をさまたげる人々のすべての不敬と不正にたいして,天からあらわされる.天主について知りうることは,かれらにとっても明白だからである,天主がそれをかれらにあらわされたからである
天主の不可見性,すなわちその永遠の力と天主性とは,世の創造のとき以来,そのみわざについて考える人にとって,見えるものだからである.したがってかれらは言い逃れができない.かれらは天主を知りながらこれを天主として崇めず,感謝しなかったからである.かれらは愚かな思いにふけり,その無知の心はくらんだ.かれらは,みずから知者と称えておろかな者となり,不朽の天主の光栄を,朽ちる人間,鳥,獣,はうものに似た形にかえた.

そこで天主は,かれらの心の欲にまかせ,たがいにその身をはずかしめる淫乱にわたされた.かれらは,天主の真理を偽りに変え,創造主の代りに被造物を拝み,それを尊んだ.天主は世々に賛美されますように.アメン.
ここにおいて天主は,かれらを恥ずべき欲に打ちまかせられた,すなわち,女は自然の関係を,自然にもとった関係に変え,男もまた,女との自然の関係をすてて,たがいに情欲をもやし,男は男とけがらわしいことをおこなって,その迷いに値する報いを身に受けた.
またかれらは,深く天主を知ろうとしなかったので,天主は,かれらのよこしまな心のままに,不当なことをおこなうにまかせられた.かれらは,すべての不正,罪悪,私通,むさぼり,悪意にみちるもの,憎み,殺害,あらそい,狡猾(こうかつ),悪念にみちるもの,そしる者,悪口する者,天主に憎まれる者,暴力をもちいる者,高ぶる者,自慢する者,悪事に巧みな者,親にさからう者,愚かな者,不誠実な者,情のないもの,あわれみのないものである.これらをおこなう者は死に当るという天主の定めを知りながら,かれらはそれをおこなうばかりでなく,それをおこなう人々に賛成するのである

(注釈)
*¹復活はキリストが神であることの証明である.

*²異邦人はユダヤ人の受けた天の示しを受けなくても,天主の真理を教えられたが,それを実行しようとしなかったから,天主の怒りを買った.

第2章1-16節
*³したがって,他人を是非する者よ,何ものであるにせよ,あなたには弁解する余地がない.他人を是非することによって,あなたは自分をさばいている.他人をさばくあなた自身が,同じことをおこなっているからである.こういうことをおこなう人に対する天主の裁きが,真理にあうものであることを,私たちは知っている.それをおこなう人をさばいて,自分も同じことをおこなっている者よ,あなたは天主の裁きをのがれられると思うのか.あるいは,天主の仁慈があなたをくいあらために導くことを知らないで,その仁慈と忍耐と寛容との富を無視するのか.こうすれば,あなたはかたくなさとくいあらためない心とによって,天主の正しい裁きがあらわれる怒りの日に,自分のために怒りを積み重ねるであろう.天主はおのおのの業にしたがって報い,根気よく善業をおこなって,光栄と名誉と不滅とを求める人々には,永遠の生命をお報いになる.真理にしたがわず不義にしたがう反逆者のためには,怒りといきどおりとを返される.悪をおこなって生きる者にはすべて,まずユダヤ人に,そしてギリシア人にも,患難と苦悶があり,善をおこなう者にはすべて,まずユダヤ人に,そしてギリシア人にも,光栄と名誉と平和とがある.天主は人を区別されないからである.
*⁴律法なしに罪を犯した者は,律法なしに亡(ほろ)び,律法の下に罪を犯した者は,律法によって裁かれる.天主のみまえに義とされるのは,律法を聞く人ではなく,律法をまもった人が義とされる.*⁵律法のない異邦人が,自然に律法の掟を実行するなら,律法がなくても自分自身に律法となる.かれら自身,自分の心にきざまれているこの*⁶法の存在を示している.それを証明するのは,かれらの良心である.またかれら同士が相手に対してもつ非難や賞賛の内部的な判断もそれを証明する.*⁷私が福音にいうように,天主がイエズス・キリストによって人間の秘事を裁かれるとき,それがあらわれるであろう.

(注釈)
*³以下は,直接ユダヤ人に向けることば.ユダヤ人は特権があっても,異邦人をさばく権利がない.律法が禁ずる行いをユダヤ人自身が行っているからである.

*⁴律法と自然法に反するユダヤ人と異邦人は,それぞれのおきてによってさばかれる.

*⁵天主は彼らの心に自然法をきざんだからである.

*⁶「法」とは自然法のこと.

*⁷使徒パウロが異邦人に伝える福音.


* * *


(第4パラグラフの「御言葉の御托身」“Incarnation” の訳注)

「御言葉」=イエズス・キリストを指す.「御托身」=「受肉」ともいう.
「托身」(たくしん)“Incarnation”…三位一体の神の第二の位格たるロゴス(=言葉)が人間の肉体をまとわれた,すなわち,キリストにおいて神が顕現されたということを意味する.

→「御言葉は肉体となって,私たち(=人間)のうちに住まわれた」…新約聖書・ヨハネ福音:第1章14節.
〈注釈〉…人に対する神の「無限の愛の奥義」である.御言葉は神性を保ちながら,人性をとられた.)

「ロゴス」の意味:=ここでは「(神の)御言葉」.神の御子キリストを指す.〈「御言葉は神であった.」…新約聖書・ヨハネ福音:第1章1節.〉)