2010年7月23日金曜日

近代芸術その2

エレイソン・コメンツ 第157回 (2010年7月17日)

近代芸術は,その非常な醜(みにく)さゆえに神の存在と高潔さを示してくれます.エレイソン・コメンツ第144回いらい3か月経ちますが,もう一度この逆説に戻ってみましょう.芸術における美しさと醜さの常識的違いを認識する人は,さらに進んで神の存在なしには美と醜さの違いも存在しないことを理解することになるのではないかと期待するからです.

「芸術」という言葉は技能,もしくは人間の技能による産物を意味します.それは絵画,描画,彫刻,衣服のファッション,音楽,建築,その他いろいろあります.「近代芸術」という表現は通常,特に絵画や彫刻について触れるときに使われるもので,1900年代初期以降に,20世紀以前に理解されていた美に対するあらゆる基準,尺度を故意に拒んだ,また現在も拒み続けている,芸術家たちの運動から生まれました.近代以前の芸術と近代芸術との相違は,ここロンドンのミルバンクにある古典的なテイト美術館と,10年前にテムズ川の対岸にあるその生みの親から少しボートで下流に下ったところに開設された新しい美術館であるテイト近代美術館(「テイト・モダン」“Tate Modern” )との相違と同じくらい現実的かつ明快なものです.それはあたかも近代芸術が近代以前の芸術と同じ屋根の下で静かに座っていることができないかのようです.両者は,ちょうど古い教会建築と新典礼がそうであるように,互いに競い合っています.

この意味での近代芸術とは,その醜さで特徴づけられています.この点では,常識は(旧ソ連の)共産主義指導者フルシチョフ(“Kruschev, Nikita Sergeevich”(1894-1971))と一致します.彼はロシアでの近代芸術展について,「ロバが尻尾で描いた方がずっとましなものができるだろう」と酷評したと伝えられています.ところで,醜さとは何でしょうか?それは不調和のことです.アリアンナ・ハフィングトン (“Arianna Huffington”) は,その賞賛に値する著書「創作者かつ破壊者たるピカソ」(“Picasso, Creator and Destroyer”)の中で,ピカソが6人の(主な)女性たちと恋に落ちる度に描いた絵画のどれもが穏やかで,彼女たちの自然な美しさを反映したものであったが,再び失恋するや否やたちまち彼の激怒がその絵画の美しさを粉々に引き裂いてしまい,その時の作品が近代芸術の「最高傑作」と化した,ということを実証しています.そのパターンはピカソの中で,まるで時計仕掛けのように規則正しく繰り返されているというわけです!

このように,芸術における美は単にこの世の調和であっても,霊魂における調和から生まれます.これに対し,醜さは,憎しみと同じように霊魂における不調和から発生するのです.だが調和は,それが存在するための相手として不調和を必要としません.これに反して,不調和は,その言葉が示唆するように,本質的に競い合う相手たる調和を前提として必要とします.ですから,調和は不調和に先立つものです.そして,あらゆる不調和はなんらかの意味で調和を立証するものとして存在するのです.だが,愛らしい女性たちを描いたどんな絵画にも増して美しく深い調和に満ちあふれているのは聖母を描いた絵画でしょう.なぜなら,神の御母(訳注・神の御母=聖母すなわち神であるイエズス・キリストの御母.)を描いている画家の霊魂における調和は,いかに美しく愛らしかろうと単なる人間の女性モデルを描くときに生じる霊感(ひらめき)をはるかに超える高貴かつ深遠な極みにまで到達することができるからです.なぜそうなるのでしょうか?それは,聖母の美しさが彼女の神との近しい親密さに由来するものだからです.神の調和は - 神聖であり,全く飾り気がなく,完全な純真さと無邪気さ,また統一性に満ちており - 単なる被造物のなかで最も美しいというだけに過ぎない人間的な調和を無限に凌(しの)ぐものです.(訳注後記)

したがって,お粗末な近代芸術はそれ自体が欠いている調和を指し示すものであり,あらゆる調和は神を指し示すものです.そうであるならば,トリエント公会議式ミサ典礼(訳注後記)を格納するのに近代建築の醜さを用いることをするような人が誰も出ないようにしましょう.もしそのような醜さを欲する人があれば,その人は新しい典礼(訳注・“Novus Ordo Mass”.第二バチカン公会議で定められた新典礼のこと.)の不調和を欲しているかそれに仕えていると推測されることになるでしょう!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



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(下から2つ目のパラグラフ最後の訳注)

被造物=地上の全ての生き物.地上の生物はすべて神の創造により存在する.
「単なる被造物」 (“mere creatures” ) という言い方には「いつかは腐敗して滅びる儚(はかな)い存在(人間と自然界・動植物)」という意味合いが含まれている.神は永遠(無限)であり,被造物は有限である.
原罪の下にある被造物の世界(地上)で人間が決める「美」には(「罪の支払う報酬は死である」との聖書の言葉通り)さまざまな意味で限界があり,人間が傍(はた)から見てどんなに美しいと評価する存在であっても,神との間に調和的な関係にないものの霊魂は,罪に汚れて醜いまま残り,いつかは罪ゆえに地上での姿は腐敗し廃(すた)れて滅びる運命にある.
しかし,神から美しいと評価されるような神の美(=神の調和)をその霊魂の内側に宿(やど)し備えているものは,聖母のように神により原罪を免れ,霊魂の神聖さを保ち永遠に神の国に生き続けることができる.

「神の調和」を示す例として,
新約聖書・(使徒聖パウロによる)ガラツィア人への手紙:第5章13-26節(特に16-23または24節)参照.(以下に引用)

…兄弟たちよ,あなたたちは自由のために召された.ただその自由を肉への刺激として用いてはならない.むしろ愛によって互いに奴隷となれ.全律法は「自分と同じように隣人を愛せよ」という一言に含まれているからである.互いにかみ合い食い合って,ともに食い尽くされぬように注意せよ.
私は言う.霊によって歩め.そうすれば肉の欲を遂げさせることはない.*¹実に肉の望むことは霊に反し,霊の望むことは肉に反する.あなたたちが望みのままに行わぬように,それらは相反している.もしあなたたちが霊に導かれているのなら,律法の下(もと)にはいない.
*²〈肉の行いは明白である.すなわち,淫行(いんこう),不潔,猥褻(わいせつ),偶像崇拝,魔術,憎悪,紛争,嫉妬,憤怒(ふんぬ),徒党(ととう),分離,異端(いたん),羨望(せんぼう),泥酔(でいすい),遊蕩(ゆうとう),そしてそれらに似たことなどである.
私は前にも言ったように,またあらかじめ注意する.上のようなことを行う者は神の国を継がない.〉
それに反して,霊の実は,愛,喜び,平和,寛容(かんよう),仁慈(じんじ),善良,誠実,柔和(にゅうわ),節制(せっせい)であって,*³これらのことに反対する律法はない
*⁴キリスト・イエズスにある者は,肉をその欲と望みとともに十字架につけた.
私たちが霊によって生きているのなら,また霊によって歩もう.いどみ合い,ねたみ合って,虚栄(きょえい)を求めることのないようにしよう.


(注釈)

「律法」=神が人間を死の滅びから救うために預言者モーゼを通して人間にお与えになった掟(おきて)のこと.神の十戒.しかし,「律法」はかえって人間を罪に定める根拠となり,罪の罰である「死」に定める原罪から人間を解放することができなかった.人間は,「律法(を行うこと)による義」によってではなく,人間の罪の贖(あがな)いとしての十字架上の死から復活された罪のない神の御独り子イエズス・キリストに対する「信仰による義(キリストを通じて注がれる神の恵み)」によって原罪から解放され,神からの聖寵を回復することにより死から救われる.
(ヨハネによる福音書・第1章1-18節参照)

*¹肉が選ぶと霊はそれに反対する.霊が選ぶと肉がそれに反対する.すなわち,コリント人への第一の手紙・第2章14節,ローマ人への手紙・第8章1節以下にあるように,自然の人間と恩寵(おんちょう=神の恵み)に生きる人間との対立が述べられている.

(新約聖書・コリント人への第一の手紙:第2章14節)…*動物的な人間は神の霊のことを受け入れぬ.その人にとっては愚かなことに思えるので理解することができぬ.なぜなら霊のことは霊によって判断すべきものだからである.〈注釈:*「動物的な人間」=原文は「プシケ」の人とある.これは「プネウマ」(の人と対立するもので,自然の能力に従って生きる人のことである.〉

(新約聖書・ローマ人への手紙:第8章1節以下と,下記の注釈の中で引用されている聖書の箇所については,後で追加するか用語集の方に記載します.)

*²〈 〉内…ローマ人への手紙・第1章19-31節,コリント人への第一の手紙・第6章9-10節参照.

*³「こういう生活の人に対して」という訳もある.これらのことを行う人は律法の罰を受けない

*⁴ローマ人への手紙・第6章2-6節,第8章13節参照.



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(最後のパラグラフの訳注)

トリエント公会議式ミサ典礼
英語で“Tridentine Mass”.北イタリアの都市トレント(“Trento”=トリエント(ドイツ語))で開催された公会議(1545-63)で定められた形式のミサ典礼.伝統(聖伝)のミサ典礼とも呼ばれる.トレント公会議では,当時の宗教改革の危機を克服するためカトリックの正統教義を確認するとともにその教義の強化とそれに則った教会の改革がなされた.