2010年6月14日月曜日

公会議主義の「神学者」その2

エレイソン・コメンツ 第152回 (2010年6月12日)

先週の「エレイソン・コメンツ」で第二バチカン公会議の草分け的な神学者であるマリー=ドミニク・シュニュ神父のおかした6つの誤りを示した際,私は Si Si No No が挙げた6つの誤りの順番を変え,それに関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと示唆しました.そのお話とは,現代が人間の心を悲惨なまでに失墜させたことについてのものです.

Si Si No No は,6つの誤りのうち感傷主義を1位に挙げています.そのあとに主観主義,歴史的相対主義(=歴史主義),人間の方を向き人間に頼ること(訳注・=人間に救いを求める,人間を当てにする.)(人間中心主義),進化論そして背徳主義が続きます.感傷主義から始めるということは,今日わたしたちが見かける人間,言い換えれば,人間が様々な感情にどっぷり漬かって溺れている状態から始めるということです.その例は数百,数千ありますが,ここでは2つだけ挙げます:まず宗教について「神はきわめて寛容なので一人の人間の霊魂も地獄に送ることはない」という考え方です.また;政治では「誰が背後で9・11事件を仕組んだかを問うのは愛国的でない」という考えです.

エレイソン・コメンツ」では,6つの誤りをそれぞれの即時性よりむしろ深さの順に並べる選択をしました.その結果,神に背を向けるという意味で人間中心主義を1番目に置きました.なぜなら,神を拒むことがあらゆる罪と過ちの根源だからです.次に来るのは人の心を襲う3つの誤り,すなわち主観主義,歴史的相対主義,そしてその帰結である進化論です.これら4つの誤りはいずれも感傷主義より前に来ます.なぜなら - ここが興味深い点ですが - 正当な王を失脚させ退位させないかぎり強奪者は王位を奪えないからです.同じように,心が無能力にされない限り感情が心に取って代わることはあり得ません.いずれの順位表でも最後に来るのは背徳主義すなわち善悪の否定です.なぜなら,霊魂と心のあらゆる無秩序が最終的には行動の無秩序に行き着くからです.

感情に対する心の自然な優位性 - この優位性は多くの現代人には顕著でありませんが - を理解するため,私たちは航海中の船と比較してみましょう.もし船長が故意に舵(かじ)から手を放し,船が風と波に流され難破するまで操縦を止めてしまったとしても,再び舵を取ることを選択すれば,彼に船の操縦を可能にし,風と波を上手(うま)く活用しながら港にたどり着かせるのは,舵の特質がなせることなのです.同様に,人間が故意に理性を捨て,心を感情や熱情にゆだね,永遠の地獄に向って漂流し続けることになったとしても,再び心を蘇らせる選択をすれば,初めのうちは熱情や感情を抑える理性が心許(こころもと)ないにしても,やがて天国に導かれるようになるのは心の特質によるものなのです.

では,人はどうやって自分の心を取り戻し,それを再び玉座に座らせることができるでしょうか?それは,神に立ち戻る(=神に立ち帰る)ことです.なぜなら,人が心を玉座から退位させてしまったのは,先ず(まず)はじめに神を拒(こば)んだからであり,いったん神を拒むと直(ただ)ちに理性を取り壊し始めなければならなくなったからです.それでは,人が最も容易に神に立ち戻る方法は何でしょうか?まず「アヴェマリア(めでたし,マリア)」(訳注・“Ave, Maria” 祈祷文「天使祝詞」の冒頭のところ)を1度だけ唱えることから始めてみましょう.少し進んで,その言葉をあと数回繰り返して唱えてみましょう.それからさらに進んでロザリオの祈りを1連(アヴェマリアを10回),最終的には毎日5連唱えてみましょう.こうすれば人は誰でも再び思考し始めるでしょう.

神の御母よ,私たちの心をお救いください.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教