エレイソン・コメンツ 第153回 (2010年6月19日)
最近のカスパー枢機卿の微笑(ほほえみ,びしょう)は,私の長年にわたる信念を裏付けるものです(訳注・カスパー枢機卿(すうききょう)…“Walter Kasper”(ヴァルター・カスパー),ドイツ人.現在「他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係」についてのバチカンの関連部門の長(=「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長).).その信念とはすなわち,教皇ヨハネ23世以来,今日までの歴代の公会議主義者の教皇たちが示してきた徹底的なリベラリズム(=自由主義)にもかかわらず,彼らが本当に教皇だったかどうか疑念を抱く必要はないということです.多くの真面目で信心深いカトリック信徒たちは,そのことについて疑問をもっています(解説後記).というのも彼ら信徒には,真のキリストの代理者(訳注・すなわち教皇を指す.)たちがどうして,これらの歴代の教皇たちがこれまでしてきたほどにカトリック信仰とキリストの教会(訳注・カトリック教会のこと.)から遠く逸脱(いつだつ)し得るのかが理解できないからです.実に測り知れないほど深刻で由々しき問題がそこにはあるのです.
こうした人たちは通常「教皇空位主義者」と呼ばれていますが,彼らは,誰でも異端者のように歩き,異端者のように話し,またアメリカ人が言うように,異端者のように騒々しくいんちきを宣伝すれば,それでその者は異端者であると論じます.しかし,異端者とは教会から自身を締め出す人のことです.故にこれら歴代の教皇はカトリック教会から自分たちを締め出してしまったのですから,とうてい教会の長として在位し得るはずがありません.どうして教会の非会員がその長たり得るでしょうか?(解説後記)
私の信念によれば,真実の答えは,唯一の救いの箱を反射的に見捨てるような異端とは極めて深刻なことであり,それを犯す者は,自分がしていることを十分に知り本気でそう行動しなければならない,ということです.その者は神ご自身の権威で神の教会によって定義されたカトリックの真理を否認しているということ,言い換えれば,神に逆らっているのだということを自覚していなければなりません.その自覚がない者は - カトリック教会では「頑固」と呼ばれますが - たとえ数々の神の真理を否認していても,まだ神に逆らっているとか,あるいは教会を見捨てたということにはなりません.
さて,「教皇空位主義者」は,深く教会教育の薫陶(くんとう)を受けた歴代教皇が,多大な影響を与えるような発言をするときに自分が何をしているか分かっていないなどという考え方を,馬鹿げていると一笑に付します.その類(たぐい)の発言の例を多数ある中から唯(ただ)一つ挙げるとすれば,例えば教皇ベネディクト16世が旧約(訳注・神とイスラエル人との間で交わされた旧(ふる)い契約のこと.モーゼの律法.)の正当性についてする発言です.教会が正気だった昔なら,異端者の行動を自覚させるには教皇の異端審問(訳注・原文“the Pope’s Inquisition (or Holy Office)”) に引っ張り出し,自分の犯した間違いに教皇の権威をもって真正面から直面させ,間違いをしないよう促(うなが)したことでしょう.もし,異端者がこれに従うのを拒めば,その時は,その頑固さがだれの目にも明明白白となるわけで,その狼(おおかみ)は羊舎(ようしゃ)から放り出されました.だが,そうした審問には異端者を召喚(しょうかん)することと,犯した間違いを断じることの両方を行える権威が必要です.然(しか)るに,第二バチカン公会議以来,カトリック教会の最高権威とされている同公会議がもはやカトリック教の真実の見極め(みきわめ)ができなくなっているとすれば,一体どうすればよいのでしょうか?(注釈後記)
カスパー枢機卿にご登場いただきましょう.パリで5月4日に行った記者会見で(すでに「エレイソン・コメンツ 第148号」で触れたとおり),彼は自分の担当するカトリック教会と他のキリスト教会との対話に聖ピオ十世会が頑な(かたくな)に反対していると述べたと伝えられます.枢機卿の発言内容は正確です.「彼ら(聖ピオ十世会)は私を異端者だと攻撃しています」と,枢機卿は微笑みながら述べました.
彼が微笑むのはもっともなことです.全キリスト教会間の対話とは,第二バチカン公会議以来の普遍教会(=カトリック教会.“Universal Church”. )の行動指針として実践されてきたことであり,教皇ベネディクト16世がいたるところでその重要性を説き,カスパー枢機卿が教皇の首席代理人を務めてきたわけですが,聖ピオ十世会がいかなる権威によってその対話に異を唱(とな)えているとお考えなのか,差支え(さしつかえ)なければお聞かせください.善良なカスパー枢機卿が記者会見で爆笑するのを慎んだのは,見当違いをしている「伝統主義者」たちへの単なる思いやりだったに違いありません.
人間的な言い方をすれば,教会はもう終焉(しゅうえん)しています.だが,神の見地から言えば,そのようなことはありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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(第1,2パラグラフの解説)
「教皇空位主義者」“Sedevacantist”
…“Sede-”=ローマ教皇座(The Holy See (La Santa Sede) = 聖座).“vacant”=空位の.
カトリック信徒を自称しているが,第二バチカン公会議以降のローマ教皇たちは正統な教皇と認めないと主張する人を指す.彼らによれば,現在のローマ教皇座は「空位」であるという結論になる.
教皇空位主義者は,教皇ヨハネ23世および教皇パウロ6世のもとで推し進められた第二バチカン公会議によるカトリック教会の改革を一切認めない立場に立つ.したがって彼らは,伝統的な典礼(ラテン語のみで執り行われる旧来のトリエント・ミサ典礼= “Tridentine Mass”,聖伝のミサ典礼.)のみを認め,第二バチカン公会議で定められた各国語で行う典礼(新しいミサ典礼=“Novus Ordo”)は認めない.
(第4パラグラフの注釈)
つまり,正当にはカトリック教会の最高権威はローマ教皇であるが,もしそのローマ教皇が異端者ということでもはや教会の長たり得ず,しかも現在教会の最高権威とされている第二バチカン公会議にカトリック教に則った真実の見極めをする能力がない場合,いったい誰がどういう権威で「異端者」を召喚しかつ断罪し得るのだろうか?ということ.)