エレイソン・コメンツ 第151回 (2010年6月5日)
第二バチカン公会議は1960年代に多くのカトリック司教たちを崩壊させるという大混乱を起こしましたが,それが世界中の霊魂に及ぼした影響は計り知れません.従って,わたしたちはその本質的な問題についていくら考えても考え過ぎということはありません.なぜなら,問題は依然として,かなりの度合いでまだ私たちの身の回りに存在しており,それによる被害の度合いは過去にもましてますます強まってきているからです.第二バチカン公会議の行ったことは私たちすべての霊魂を地獄へ落とそうとしています.去年,イタリアの隔週刊行誌「シ・シ・ノ・ノ」 “Si Si No No” (訳注:「然り・然り・ 否・否」の意味.→新約聖書・マテオによる福音書第5章37節参照.…「〈はい〉なら〈はい〉,〈いいえ〉なら〈いいえ〉とだけ言え.それ以上のことは悪魔から出る.」…イエズス・キリストの御言葉.)が、第二バチカン公会議の草分け的「神学者」であるドミニコ会(訳注・1215年,聖ドミニコによって設立されたローマ・カトリックの修道会)所属のフランス人神父,マリ-=ドミニク・シュニュ神父 (Fr. Marie-Dominique Chenu ) のおかした主要な誤(あやま)りをまとめた記事を発表しました.以下はそれをさらに簡潔に要約したものです.ここで指摘された同神父の6つの誤りとは,神の場に人間を置くという問題の核心に触れるものです.(私は6つの誤りについて記述の順番を変えました.関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと考えたからです.)
1.人間に目を向けること.すなわち,あたかも神が現代人に適合すべきで,現代人が神に適合するのではないというふうに人間に目を向けることです.しかし,カトリック信仰とは常に人間を神に合わせようと努めるものであり,その逆ではありません.
2.神の啓示を現代的な考え方の下に置くこと.現代的な考え方とは,例えば,デカルト,カント,ヘーゲルの考え方です.そこにはもはや絶対的かつ客観的な真理は全く存在しません.あらゆる宗教上の見解は単なる相対的かつ主観的なものにすぎなくなります.
3.神の啓示を歴史的手法の下に置くこと.これは,真理はすべて,単に歴史的な背景から生じたものであり,歴史的な状況はいずれも変化してきたか現在も変化しているのだから,不変の,あるいは変え得ない(=変更不能な)真理など存在しない(訳注・原文 “so no truth is unchanging or unchangeable”. )という意味です.
4.汎神論的な進化を信じること.これが意味するところは,神はもはや地上の生物とは本質的に異なる創造主ではないということです.神は地上の生き物,すなわち動植物や人間となんら異なるものではなく,彼らと同じように進化によって生まれ,進化によって絶えず変化している,という考え方です.
5.宗教のことでは感情を最優先させること.たとえば,心における超自然的なカトリック信仰または意志における超自然的な神の慈愛のいずれよりも,宗教的な感傷体験を上位に置いて重視するということです.
6.善悪の相違を否定すること.すなわち,単なる人の行為の存在だけが世の中を良くすると主張することによって善悪の相違を否定します.今では,実際に行われるあらゆる人間の行為につき,その存在自体は善であるとし,それぞれの行為についてはその最終目的,すなわち究極的には神の御意思にそぐう(=合う)場合だけに限り道徳的な善となり得るにすぎず,神の御意思にそぐわない人間の行為のみが道徳的な悪となるにすぎないとする,とするのが事実です.
この6つの誤りは明らかに相互に関連しています.もし(1)宗教が私中心だとするなら,そのときは(2 と 3),私は神中心の宗教という現実から自分の心を隔てなければなりません.そして心が機能しなくなると,今度は(4)「どうしたってなにもないのだから」ということになり (訳注後記),その結果,すべてのものは進化すると考えるようになり,かくして(5)感情が支配することになります.(すると,宗教は人々が女性化されるという過(あやま)ちによって支配されることになります.なぜなら感情は女性の特権だからです.)こうして最終的には,感情が真理に取って代わり(6)道徳が崩壊するのです.
第二バチカン公会議の文書自体は,こうした誤りを明白に示しておらず,むしろ間接的に曖昧に(あいまいに)ぼかして表現しています.その理由は,同公会議に出席してはいたものの実情を十分に知らされていなかった多くのカトリック司教たちの支持票を得るために彼らの目を誤魔化(ごまか)す必要があったからです.だが,ここに挙(あ)げた誤りは,公会議が目指している最新の「第二バチカン公会議精神」そのものです.そしてそれが理由で過去45年間にもわたり,すなわち1965年から2010年まで,公的なカトリック教会が自壊の道をたどり続けているのです.この状態は今後あと何年続くのでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(下から2番目のパラグラフの(4)の訳注と解説)
(4)… 原文 “nothing is but what is not”. シェイクスピア作悲劇「マクベス」第1幕第3場におけるマクベスの傍白(ぼうはく・観客に向かってしゃべる内心のつぶやきを表すセリフ)より引用されている.
自分の心に抱く欲望を恐ろしいものだと認識しながらも,その感情に支配されてしまい,神からの良心の声は全く封殺され,心はその欲望で一杯に支配されてしまう.
つまり,人間がその心に「神」ではなく「私」を中心に置いて生きるなら,たとえば反道徳的な欲望という感情(激情)にかられたとき,その欲望を抑制する客観的基準(つまり神による勧善懲悪の基準)を自分の中心に行動の判断基準として持たないため,激情に理性や良心が簡単に屈服してしまい,感情の赴(おもむ)くままにその欲望を実行に移そうとし,その際に神という客観的基準を全面否定しようとすることになる.しかし,良心に反して反道徳的な欲望を実行に移すならば,結局は自分自身で欲望に取りつかれ発狂するなどして精神に異常をきたし,社会的にも身の破滅を招き,心身ともにわが身を滅ぼすことになる,ということ.
* * *
(以下は,新訳『マクベス』 シェイクスピア・原作/河合祥一郎・訳 (角川文庫)15-21頁を参照.)
(前提のあらすじ)
(スコットランド国王ダンカンに仕える将軍マクベスに対する3人の魔女の3つの挨拶(①「万歳,マクベス,グラームズの領主!」(マクベスの)現在の名誉に挨拶. ②「…コーダーの領主!」(マクベスの)未来の出世を予言. ③「…やがて王となるお方!」(マクベスの)王になる望みを予言.)の②が実現した時,③の「王となる」という予言に対する野望がマクベスの心に芽生えてしまった.)
…
(マクベス)
〔傍白〕グラームズ,そしてコーダーの領主.
最大のものがそのあとに控えている.〔ロスらに〕ご苦労であった.
〔バンクォー(スコットランドの将軍)に〕君の子供も王になるかも知れぬな,
俺をコーダーの領主にしてくれた連中(3人の魔女)は,
君にそう約束したのだから.
(バンクォー)
あまり信じすぎると,
コーダーの領主のみならず,王冠にまで
手を伸ばしたくなるぞ.〔傍白〕だが,不思議だ.
暗闇の使い手は人を破滅させるために,
しばしば真実を告げ,
つまらぬご利益で信頼させ,土壇場で裏切るという.
〔ロスらに〕お二人に話がある.
(マクベス)
〔傍白〕二つの真実が語られた.
壮大な芝居にはうってつけの幕開けだ.
主題は王になること.〔ロスらに〕――ありがとう,君たち,――
〔傍白〕この自然ならざる誘い(いざない)は,
悪いはずはない.よいはずもない.
悪いなら,なぜ,まず真実を語り,
成功の手付けをくれるのだ? 俺はコーダーの領主となった.
よいなら,なぜ,俺は王殺しの誘惑に屈しようとする?
その恐ろしい光景を思い描くだけで総毛立ち,
いつもの自分に似合わず,心臓が激しく鼓動し,
肋骨にぶつかるようだ.目の前にある恐怖など,
恐ろしい想像と比べたら大したことはない.
まだ殺人を想像しただけなのに,その思いは
この体をがたつかせる.思っただけで
五感の働きがとまってしまう.あると思えるものは,
実際にはありもしないものだけだ(注).
(バンクォー)
わが友はすっかり上の空だな.
(マクベス)
〔傍白〕運が俺を王にするなら,運が王冠をくれよう,
自分で動かずとも.
(バンクォー)
新たな名誉を賜ったが,
着慣れぬ服同様,なじまぬうちは,
しっくりこぬ,か.
(マクベス)
〔傍白〕どうなろうとも,
時は過ぎる,どんなひどい日でも.
…
(注)訳者(河合祥一郎教授)による注釈:
Nothing is, but what is not. 原意は「何も存在しない,ないもの以外は」=「存在するのは実在しないものだけだ」.存在=非存在.
『ジュリアス・シーザー』第二幕第一場で「恐ろしいことを行うことと,それを最初に思いつくことのあいだは,まるで幻か悪夢だ….そのとき人間という小さな国は,小王国のように,叛乱に遭う」というブルータスの台詞で示された想像世界の脅威というテーマが,『ハムレット』を経て『マクベス』に至る.人間の世界は人間の頭から生まれるというシェイクスピアの発想に基づいている.
* * *
(悲劇マクベス・英原文)
MACBETH.
[Aside.] Glamis, and Thane of Cawdor:
The greatest is behind.----Thanks
for your pains.----
Do you not hope your children
shall be kings,
When those that gave the
Thane of Cawdor to me
Promis’d no less to them?
BANQUO.
That, trusted home,
Might yet enkindle you unto
the crown,
Besides the Thane of Cawdor.
But ‘tis strange:
And oftentimes to win us to
our harm,
The instruments of darkness tell
us truths;
Win us with honest trifles, to
betray’s
In deepest consequence.----
Cousins, a word, I pray you.
MACBETH
[Aside.] Two truths are told,
As happy prologues to the swelling act
Of the imperial theme.----I thank you,
gentlemen.----
[Aside.] This supernatural soliciting
Cannot be ill; cannot be good:
----if ill,
Why hath it given me earnest of success,
Commencing in a truth? I am Thane of Cawdor:
If good, why do I yield to that suggestion
Whose horrid image doth unfix my hair,
And make my seated heart knock at my ribs,
Against the use of nature? Present fears
Are less than horrible imaginings:
My thought, whose murder yet is but fantastical,
Shakes so my single state of man, that function
Is smother’d in surmise; and
nothing is
But what is not.
BANQUO.
Look, how our partner’s rapt.
MACBETH.
[Aside.] if chance will have me
king, why, chance may crown me
Without my stir.
BANQUO.
New honors come upon him,
Like our strange garments,
cleave not to their mould
But with the aid of use.
MACBETH.
[Aside.] Come what come may,
Time and the hour runs
through the roughest day.
* * *
(この後,マクベスはダンカン王を殺して王位についたが,王位を失うことを恐れるあまり狂気に陥り次々と殺戮を重ね続け,遂にスコットランドの貴族マクダフ(イングランドに逃亡していたダンカン王の長男である王子マルカムの軍に加わった)に殺され,マルカムが正当に王位についた.)