2011年12月14日水曜日

229 呪われたリベラル主義者 (12/3)

エレイソン・コメンツ 第229回 (2011年12月3日)

リベラリズム “liberalism” (=自由主義)は恐ろしい病で,何億もの霊魂を地獄に落とします.それは人の精神を客観的な真実から,心(意思や情愛)を客観的な善から「解放し」ます.そこでは主観が君臨します.リベラルな考えでは,神の場にいるのは人間であり,その人間は自分が決めただけ神に重きを置きます.(訳注後記)そして,その度合いはあまり大きくないのが普通です.言ってみれば,全能の神は忠実な子犬のように鎖(くさり)に繋(つな)がれた状態です! 事実,リベラル主義者(=リベラリスト)の「神」は真の神のまがい物です.だが,「神は似せて作るものにあらず」(ガラテア人への手紙6章7節)(訳注後記)です.リベラル主義者は現世ではにせ(偽)の活動家,本物の専制君主,弱々しい(=女性的な)人間になることによって罰を受けます.

ルフェーブル大司教によると,にせ活動家の典型的な例はラテンアメリカに見られる革命的神父たちです.同大司教がよく言われたことですが,教会の近代化運動の影響でカトリック信仰を失った神父が最も恐ろしい革命家になります.というのも,彼らは人々の霊魂の救済のため真の活動 “true crusade” の持つあらゆる力を共産主義に向けてしまうからです.しかも彼らは真の活動のための訓練を受けてきたにもかかわらず,自らのやってきたこと(訳注・真の活動のこと)をもはや信じなくなっているのです.

真実の聖戦 “crusade” (訳注後記)は神,イエズス・キリスト,永遠の救いのためにあるものです.そして,そのような真の意味での聖戦をもはや信じられなくなると,人々の生活にはそれに見合うだけの大きな隙間(すきま)が生じます.そういった人々は他のありとあらゆるものに対する改革を進めることでその隙間を埋めようとします.例えば,タバコの禁止(だがマリファナやヘロインは自由),死刑の廃止(だが有能な右翼主義者の処刑は自由),圧制者〈=暴君〉には反対(だが「民主主義」をもたらすためならいかなる国を爆撃するのも自由),人間の神聖さを強調(だが母の胎内の赤ん坊〈=胎児〉を堕胎〈=人工妊娠中絶〉するのは自由)といった具合で,例を挙げればきりがありません.ここで特に挙げたこうした矛盾の数々は,キリスト教の世界秩序 “Christian world order” に代わるべき新世界秩序を全面的に推(お)し進めようとする “…crusade for a total new world order” リベラル主義者たちにとってはまったく辻(つじ)つまの合うことです.彼らはキリストと戦っていないように装(よそお)っていますが,その化けの皮は剥(は)がれかかっています.

理論的に言えばリベラル主義者たちはまた本物の専制君主にもなります.彼らは自身の上の存在である神,真理,法から自らを「解放」しているので,残るのは自分たちの心,意思の権威だけで,それを誰彼かまわず他の人たちに押し付けます.例えば,教皇パウロ6世です.彼はカトリック教の伝統が自分の権威を制限していることなど忘れてしまって自分の説く新しいミサ典礼の新秩序を1969年にカトリック教会に押しつけました.しかも,そのわずか2年前に相当な数の司教たちが似たようなミサ典礼の試みを拒んだにもかかわらずです.教皇パウロ6世は部下が自分のようにリベラル主義者でなければ,その意見を尊重したでしょうか? 部下たちは自分たちにとって何が良いことなのか分かりませんでした.だが同教皇は分かっていました.

再び理論的に言えば,リベラル主義者は弱々しく(女々しく=感傷的に)なります.なぜなら彼らは何事も個人的なことと受け止めざるを得ない(受け止めずにはいられない)からです.けれども彼らの権威主義に対するどの良識ある反対も彼らが軽蔑(けいべつ)する真理ないし法 “Truth or Law” すなわち全人類の上に君臨するカトリック真理,神の法(十戒)に基づいています.だからこそルフェーブル大司教は教皇パウロ6世の進めたリベラリズムに抵抗したのですが,教皇パウロ6世は単に同大司教が自分に取って代わって教皇になろうとしていると考えました.パウロ6世は自分の権威よりはるかに高い真の神の権威が存在していること,そしてルフェーブル大司教はそのより高い権威に冷静に心を寄せていたのだということを理解できなかったのです.はたして主なる神もいつかは間違いをするのではないかなどと心配する必要があるでしょうか? まったくありません.

イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちがあなただけから生まれ得る良き指導者たちに恵まれますように.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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第1パラグラフの訳注:
新約聖書・ガラテア人への手紙:第6章7節(1-10節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS, 6:7 (6:1-10)

愛の実践(6・1-10)
『兄弟たちよ,もしある人に過失があったら,*¹霊の人であるあなたたちは柔和な心をもってその人を改めさせよ.そして,自分も誘われぬよう気をつけよ.
互いに重荷を負え.そうすれば,あなたたちはキリストの法をまっとうできる.

何者でもないのに,何者であるかのように思うのは,自分を欺(あざ)むくことである.
おのおの自分の行いを調べよ.*²そうすれば,他人についてでなく,自分についてだけ誇る理由を見いだすだろう.おのおの自分の荷を負っているからである.

*³みことばを教えてもらう人は,教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ.
自分を欺むいてはならない.神を侮(あなど)ってはならない.人はまくものを収穫するからである.すなわち自分の肉にまく人は肉から腐敗を刈り取り,霊にまく人は霊から永遠の命を刈り取る.
善を行ない続けて倦(う)んではならない.たゆまず続けているなら,時が来て刈り取れる.
だから,まだ時のある間に,すべての人に,特に信仰における兄弟である人々に善を行え.

(注釈)

*¹ 〈新約〉コリント人への手紙(第1)3・1以下参照.

→(第3章1-23節を後から追加します) 

*² 他人の欠点と自分の行いを比べて,誇りたくなる時がある.しかし非難するのは,自分のことだけでなければならない.
パウロの言葉は皮肉であって,真実に自分をかえりみる人は,自分を誇る理由を見つけるはずがない.

*³ 信徒は宣教師の生活を保証せねばならない.

* * *

第3パラグラフの訳注:
真実の聖戦 “The true crusade” について.

(説明)

・救世主たる神の御子イエズス・キリストの教えを地上の人間社会に宣教し,人々を永遠の救霊に導き入れるための戦い.「改革(運動)」はこの意味で,悪に傾きがちな人間に「真理において善に従う人生を送ることが真の生命へと生き延びることだ」と教えることである.

・霊である神はキリストにおいて人間となられ,十字架上の死から復活されたことにより悪(=肉欲・原罪)の力を征服された.したがって神・カトリック真理(救世主たる神の御子キリストへの信仰)・神の法の勝利は決定的であり,それを否定する悪(リベラリズムすなわち利己主義)は滅亡の一途をたどる一方に終わる.

・したがって真実の聖戦とは,厳密には,肉眼で見える世界での人間や人間社会との戦いというより,目に見えない霊的な世界での悪の霊との戦いを指している.

・現世は悪の霊の支配下にあり,悪は「肉欲・我欲」によって人間を堕落させ,その霊魂を永遠の滅びに落とそうとしている.

・「肉欲・我欲」は人間に,人間の五感(視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚)に触れるあらゆる良いものについて,その創造主たる神に感謝することをさせず,かえってあらゆる良いものによって自らを傲慢(ごうまん)に誇ったり,他者を妬(ねた)んだり貶(おとし)めたりさせる.

・現世は果敢無(はかな)く有限であるが,来世は永遠であり,しかも来世での永福は現世でいかに「我欲を抑(おさ)え・他者を助ける犠牲的精神・他者の幸福を願う善意」などを心がけて過ごしたかにかかっている.

・以上の観点から,「リベラリズム」とは「自由に我欲を追求して生きることを〈人権〉と呼んで正当化し,そのためとあらば平然と他者を否定したりふみつけにすることも許される」ということを意味し,それに基づき現世の人間社会で起こされている様々な不和な現象から,「リベラリズム」がいかに人の霊魂・人の真の幸福を損なわせる危険なものであるかを観察することができる.

(続きを追加いたします)


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