2015年8月22日土曜日

423 矛盾するローマ人たち? 8/22

解説付

 エレイソン・コメンツ 第423回 (2015年8月22日) 

教理無しですか? それでは,背教が勝つでしょう.
(きょうり なし ですか?それ では,はいきょうが かつ でしょう.)
( "No doctrine ? Then apostasy will win." )

教理は,厚くても薄くても,保持されなければなりません.
(きょうりは,あつくても うすくても,ほじ されなければ なりません.)
( "Doctrine must be maintained, through thick or thin. " ) 

ローマ教皇庁の二人の聖職者が最近(ろーま きょうこう ちょうの ふたりの せいしょくしゃが さいきん),教皇庁と聖ピオ十世会( 以下,SSPX (The Society of Saint Piux X) と記す.)との関係につ(就)いて発言しましたが(きょうこう ちょうと せい ぴお じゅっせい かい〈いか,えす えす ぴー えくす と しるす.〉との かんけい について はつげん しました が),両者は互いに矛盾している様に見えます(りょうしゃは たがいに むじゅん している ように みえます)( "Two Roman churchmen have seemed to contradict one another in remarks made recently about relations between Rome and the Society of St Pius X, …" ).これについて説明するなら,教皇庁が SSPX に対し,老婆の様な古い警察のトリックを仕掛けているという事でしょう(これに ついて せつめい する なら,きょうこうちょうが えす えす ぴー えくす に たいし,ろうばの ような ふるい けいさつの とりっくを しかけて いると いうこと でしょう)( "… but one explanation of the contradiction may be that Rome is playing on the Society a police trick as old as the hills." ).「善玉警官と悪玉警官」というお定まりの手口だと(「ぜんだま けいかんと あくだま けいかん」という おさだまりの てぐち だと)( "By the “good cop, bad cop” routine, …" ),警察は犯人から自供を引き出すとき(時)(けいさつは はんにん から じきょうを ひきだす とき)( "… when the police want to get a confession out of a criminal, …" ),初めに手荒な警官を送り込み,犯人が惨めな状態になって,お情けを願い出る様になる(成る・為る)まで(迄)痛め付けます(はじめに てあらな けいかんを おくり こみ,はんにんが みじめな じょうたいに なって,おなさけを ねがいでる ように なる まで いため つけ ます)( "… firstly a brutal policeman is sent in to beat up the criminal until he is in a very sorry condition, requiring all kinds of sympathy." ).そこで,優しい警官が現れ,同情を降り注ぎ,犯人が口を割って自白する様仕向けます(そこで,やさしい けいかんが あらわれ,どうじょうを ふりそそぎ,はんにんが くちを わって じはく する よう しむけ ます)( "Then a really nice policeman is sent in, oozing with a sympathy which often makes the criminal open up and confess his crime." ).

今回の場合,「悪玉警官」は他ならぬ教皇庁教理省長官のミュラー枢機卿でしょう(こんかいの ばあい,「あくだま けいかん」は ほか ならぬ きょうこう ちょう きょうり しょう ちょうかんの みゅらー すうききょう でしょう)( "The “bad cop” in this case would be no less than the Prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith, Cardinal Müller, …" ).彼は8月初め,ドイツ司教会の公式ウェブサイト katholisch.de とのインタビューに応じ(かれは はちがつ はじめ,どいつ しきょう かいの こうしき うぇぶさいと katholisch.deとの いんたびゅーに おうじ)( "… who early this month in an interview with katholisch.de, official website of the German Bishops' Conference, …" ),教皇庁とSSPXとの 合意につ(就)いて(次の様に)述べています.(即ち,)「実質的な 新発展は 何も 有りません.教皇は 私達が『執拗 かつ(且つ)根気強く』話し合いを 続ける事を お望み です.全面的な 和解の 前提条件は 信仰の 本質的 問題に ついての 完全な 合意に 向けた 前文の 調印です.過去 数か月の 間,相互信頼を 強める 目的で 異なる 路線の 摺合せが 行われました」(きょうこう ちょうと せい ぴお じゅっせい かい との ごういに ついて〈つぎのように〉のべて います.〈すなわち,〉「じっしつ てきな しん はってんは なにも ありません.きょうこうは わたくし たちが『しつよう かつ こんき づよく』はなしあいを つづける ことを おのぞみ です.ぜんめん てきな わかいの ぜんてい じょうけんは しんこうの ほんしつ てき もんだいに ついての かんぜんな ごういに むけた ぜんぶんの ちょういん です.かこ すうかげつの あいだ,そうご しんらいを つよめる もくてきで ことなる ろせんの すりあわせが おこなわれ ました」 と)( "… said about a Rome-SSPX agreement that “There is no substantial new development. The Holy Father wishes that we keep trying: “con tenacia e pazienza” – “with tenacity and patience.” The precondition for a full reconciliation is the signing of a doctrinal preamble in order to guarantee a full agreement in the essential questions of the Faith. In the past months, there were encounters of different ways which are meant to strengthen the mutual trust.” " ).

ここでは, SSPX が教皇庁 との 合意を 望む なら,ネオ・モダニスト〈=新現代主義者〉の 教皇庁が 同意 出来る 教理的 文書に 調印 しなければ ならない だろうと 明示されて います(ここ では,せい ぴお じゅっせい かいが きょうこう ちょう との ごういを のぞむ なら,ねお・もだにすと〈=しん げんだい しゅぎ しゃ〉の きょうこう ちょうが どうい できる きょうり てき ぶんしょ に ちょういん しなければ ならない だろうと めいじ されて います)( "Here it is clearly stated that the SSPX will have to sign a doctrinal text agreeable to neo-modernist Rome if it wishes for an agreement with Rome." ).ミュラー枢機卿は「相互信頼を 強める 目的で」 ローマ教皇庁の人たちと SSPX との間で異なる 路線の 摺合せが 行われた」 事を 明かす 事で「悪玉警官」の 役を 演じて います(みゅらー すうききょう は「そうご しんらいを つよめる もくてきで 」 ローマ教皇庁の人たちとSSPXとの間で「ことなる ろせんの すりあわせが おこなわれた」 ことを あかす ことで「あくだま けいかん」の やくを えんじて います)( "The Cardinal is also being a “bad cop” when he reveals that there were “encounters of different ways” between Romans and the SSPX “to strengthen mutual trust”." ). SSPX は 枢機卿の 発言が 無かったら 表面化 しなかったと 思われる 両者間の 接触に 教皇庁が 光を 当てた 事に 満足 している でしょうか?(せい ぴお じゅっせい かいは すうききょうの はつげんが なかったら ひょうめん か しなかったと おもわれる りょうしゃ かんの せっしょくに きょうこう ちょうが ひかりを あてた ことに まんぞく している でしょうか?)( "Or is the SSPX happy that Rome is shedding the light of day upon contacts otherwise unknown ? " ) だが,カトリック信仰を 持ち続ける 人々の 中で,一体 誰が ネオ・モダニスト(=新現代主義者)達 との 相互 信頼が 築かれる 事で 安心 する でしょうか?(だが,かとりっく しんこうを もち つづける ひとびとの なかで,いったい だれが ねお もだにすと たち との そうご しんらいが きずかれる ことで あんしん する でしょうか?)( "Yet who that has the Catholic faith is re-assured by mutual trust being established with neo-modernists ? " )それは さておき,次は「善玉警官」に つ(就)いて です(それは さておき,つぎは「ぜんだま けいかん」に ついて です)( "But now comes the “good cop”." ).

今年に なって から,アタナシウス・シュナイダー司教が「 SSPX の 神学者 グループ および フェレー司教 閣下と 特定の 神学的 議題に ついて 討議する 目的で」 SSPX 主催の 二つの 神学校を 訪れ ました(ことしに なって から,あたなしうす・しゅないだー しきょうが「せい ぴお じゅっせい かいの しんがくしゃ ぐるーぷ および ふぇれー しきょう かっかと とくていの しんがく てき ぎだいに ついて とうぎ する もくてきで」 せい ぴお じゅせい かい しゅさいの ふたつの しんがっこうを おとずれ ました)( "Earlier this year Bishop Athanasius Schneider visited two seminaries of the SSPX “in order to conduct a discussion on a specific theological topic with a group of theologians of the SSPX and with His Excellency Bishop Fellay”." ).つい 最近,彼は スペイン語の ウェブサイト "Rorate Caeli"(訳注・5・1)との インタビューに 応じて います.この中で,彼は 多くの 事を 述べて いますが,特に SSPX 訪問に つ(就)いて 前向きな コメントを して います(つい さいきん,かれは すぺいんご の うぇぶ さいと「ろらーて・かえり」〈やくちゅう・ご てん いち〉との いんたびゅーに おうじて います.この なかで,かれは おおくの ことを のべて いますが,とくに せい ぴお じゅっせい かい ほうもんに ついて まえむきな こめんとを して います)( "Just recently he conducted an interview with a Hispanic website, Rorate Caeli en español, in which among other things he commented favourably on these visits." ).彼は SSPX から 厚遇 された 事に 触れ,インタビューの いたる ところ(至る所)で 現職 教皇 フランシスコ への 敬意を 表明 して います(かれは せい ぴお じゅっせい かい から こうぐう された ことに ふれ,いんたびゅーの いたる ところで げんしょく きょうこう ふらんしすこ への けいいを ひょうめい して います)( "He himself was treated with cordial respect, and he observed a respect all around for the reigning Pontiff, Pope Francis." ).彼は 二度の 訪問を 終えた 後「 SSPX の 聖職者や 信徒達 に対し 教皇庁の 正式な 承認を 与える 事を 拒む 大きな 理由は 見当たらない.公式 承認が 出る まで(迄),彼等を 現状 通りの まま 受け入れる べきだ」 と,述べて います(かれは にどの ほうもんを おえたあと〈のち〉「せい ぴお じゅっせい かいの せいしょくしゃや しんとたちに たいし きょうこうちょうの せいしきな しょうにんを あたえる ことを こばむ おおきな りゆうは みあたらない.こうしき しょうにんが でる まで,かれらを げんじょう どおりの まま うけいれる べきだ」 と,のべて います)( "After his visits he could see “no weighty reasons to deny the clergy and faithful of the SSPX the official canonical recognition, and meanwhile they should be accepted as they are.” " ).シュナイダー司教は第二バチカン公会議の重要性を軽視し,合意を妨げる教理上の問題は見当たらない事を確認しました(しゅないだー しきょうは だいに ばちかん こうかいぎの じゅうようせいを けいし し,ごういを さまたげる きょうりじょうの もんだいは みあたらない ことを かくにん しました)( "Bishop Schneider confirmed that he saw no doctrinal problem in the way of an agreement by downplaying the importance of Vatican II: …" ).彼は公会議は主に牧歌的で,過去の出来事だと述べました(かれは こうかいぎは おもに ぼっか てき で,かこの できごと だと のべました)( "… the Council was primarily pastoral, and of its time, he said." ).

では,誰がローマの本当の代表者なのでしょうか?(では,だれが ろーまの ほんとうの だいひょうしゃ なのでしょうか?)( "So who represents the real Rome ? " )ミュラー枢機卿でしょうか,それともシュナイダー司教でしょうか?(みゅらー すうききょう でしょうか,それとも しゅないだー しきょう でしょうか?)( "Cardinal Müller or Bishop Schneider ? " ) 二人とも代表者なのは明白です(ふたり とも だいひょうしゃ なのは めいはく です)( "Certainly both." ).「善玉警官,悪玉警官」の手口が意図されたもの(物)でないなら,明らかに直感的なもの(物)でしょう(「ぜんだま けいかん,あくだま けいかん」の てぐちが いと された もの でない なら,あきらかに ちょっかん てきな もの でしょう)( "If the “good cop, bad cop” routine is not conscious, it is certainly instinctive." ).教皇庁は選択肢をオープンにして置く事で, SSPX を魚の様に扱い続ける事が出来ます(きょうこうちょうは せんたくしを おーぷんに しておく ことで,せいぴお じゅっせい かいを さかな〈うお〉の ように あつかい つづける ことが できます)( "Rome, by keeping its options open, can continue to play the SSPX like a fish, " ).リールを巻き寄せたり緩めたり,希望を持たせたり挫いたり,やがて(軈て)糸が切れるまで(迄)何度もから(絡)めたり伸ばしたり出来ます(りーるを まきよせたり ゆるめたり,きぼうを もたせたり くじいたり,やがて いとが きれる まで なんども からめたり のばしたり できます)( "… reeling it in, letting it out, raising hopes and then dashing them, bending the wire and straightening it again, and again, until finally it snaps." ).悲しいかな(哉),「摺合せ」 とい(言・謂・云)っても, SSPX 指導者達はローマ演出のゲームにおける共謀者なのです(かなしい かな,「すりあわせ」 といっても,せいぴお じゅっせい かい しどうしゃ たちは ろーま えんしゅつの げーむ における きょうぼう しゃ なのです)( "Alas, one may suspect that by “encounters” the leaders of the SSPX are complicit in this game of Rome." ).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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教理無しですか?それでは,背教が勝つでしょう.
教理は厚くても薄くても保持されなければなりません.
No doctrine ? Then apostasy will win.
Doctrine must be maintained, through thick or thin.

ローマ教皇庁の二人の聖職者が最近,教皇庁と聖ピオ十世会("the Society of St Pius X",以下,「SSPX」と記す) との関係について発言しましたが,両者は互いに矛盾しているように見えます.これについて説明するなら,教皇庁が SSPX に対し,老婆のような古い警察のトリックを仕掛けているということでしょう.「善玉警官と悪玉警官」というお定まりの手口だと,警察は犯人から自供を引き出すとき,初めに手荒な警官を送り込み,犯人がみじめな状態になって,お情けを願いでるようになるまで痛めつけます.そこで,優しい警官が現れ,同情を降り注ぎ,犯人が口を割って自白するよう仕向けます.
Two Roman churchmen have seemed to contradict one another in remarks made recently about relations between Rome and the Society of St Pius X, but one explanation of the contradiction may be that Rome is playing on the Society a police trick as old as the hills. By the “good cop, bad cop” routine, when the police want to get a confession out of a criminal, firstly a brutal policeman is sent in to beat up the criminal until he is in a very sorry condition , requiring all kinds of sympathy. Then a really nice policeman is sent in, oozing with a sympathy which often makes the criminal open up and confess his crime.

今回の場合,「悪玉警官」はほかならぬ教皇庁教理省長官のミュラー枢機卿でしょう.彼は8月初め,ドイツ司教会の公式ウェブサイト katholisch.de とのインタビューに応じ,教皇庁と SSPX との合意について「実質的な新発展はなにもありません.教皇は私たちが『執拗かつ根気強く』話し合いを続けることをお望みです.全面的な和解の前提条件は信仰の本質的問題についての完全な合意に向けた前文の調印です.過去数か月のあいだ,相互信頼を強める目的で異なる路線の摺合せが行われました」 と述べています.
The “bad cop” in this case would be no less than the Prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith, Cardinal Müller, who early this month in an interview with katholisch.de, official website of the German Bishops' Conference, said about a Rome-SSPX agreement that “There is no substantial new development. The Holy Father wishes that we keep trying: “con tenacia e pazienza” – “with tenacity and patience.” The precondition for a full reconciliation is the signing of a doctrinal preamble in order to guarantee a full agreement in the essential questions of the Faith. In the past months, there were encounters of different ways which are meant to strengthen the mutual trust.”

ここでは,SSPX が教皇庁との合意を望むなら,ネオ・モダニスト(新現代主義者)の教皇庁が同意できる教理的文書に調印しなければならないだろうと明示されています.ミュラー枢機卿は「相互信頼を強める目的で」 ローマ教皇庁の人たちと SSPX との間で「異なる路線の摺合せが行われた」 ことを明かすことで「悪玉警官」の役を演じています.SSPX は枢機卿の発言がなかったら表面化しなかったとおもわれる両者間の接触に教皇庁が光を当てたことに満足しているでしょうか?だが,カトリック信仰を持ち続ける人々の中で,一体だれがネオ・モダニストたちとの相互信頼が築かれることで安心するでしょうか?それはさておき,次は「善玉警官」についてです.
Here it is clearly stated that the SSPX will have to sign a doctrinal text agreeable to neo-modernist Rome if it wishes for an agreement with Rome. The Cardinal is also being a “bad cop” when he reveals that there were “encounters of different ways” between Romans and the SSPX “to strengthen mutual trust”. Or is the SSPX happy that Rome is shedding the light of day upon contacts otherwise unknown ? Yet who that has the Catholic faith is re-assured by mutual trust being established with neo-modernists ? But now comes the “good cop”.

今年になってから,アタナシウス・シュナイダー司教が「 SSPX の神学者グループおよびフェレー司教閣下と特定の神学的議題について討議する目的で」 SSPX 主催の二つのセミナーを訪れました.つい最近,彼はスペイン語のウェブサイト Rorate Caeli とのインタビューに応じています.この中で,彼は多くの事を述べていますが,特に SSPX 訪問について前向きなコメントをしています.彼は SSPX から厚遇されたことに触れ,インタビューのいたるところで現職フランシスコ教皇への敬意を表明しています.彼は二度の訪問を終えた後「 SSPX の聖職者や信徒たちに対し教皇庁の正式な承認を与えることを拒む大きな理由は見当たらない.公式承認が出るまで,彼らを現状通りのまま受け入れるべきだ」 と,述べています.シュナイダー司教は第二バチカン公会議の重要性を軽視し,合意を妨げる教理上の問題は見当たらないことを確認しました.彼は公会議は牧歌的で,過去の出来事だと述べました.
Earlier this year Bishop Athanasius Schneider visited two seminaries of the SSPX “in order to conduct a discussion on a specific theological topic with a group of theologians of the SSPX and with His Excellency Bishop Fellay”. Just recently he conducted an interview with a Hispanic website, Rorate Caeli en español, in which among other things he commented favourably on these visits. He himself was treated with cordial respect, and he observed a respect all around for the reigning Pontiff, Pope Francis. After his visits he could see “no weighty reasons to deny the clergy and faithful of the SSPX the official canonical recognition, and meanwhile they should be accepted as they are.” Bishop Schneider confirmed that he saw no doctrinal problem in the way of an agreement by downplaying the importance of Vatican II: the Council was primarily pastoral, and of its time, he said.

では,誰がローマの本当の代表者なのでしょうか?ミュラー枢機卿でしょうか,それともシュナイダー司教でしょうか?二人とも代表者なのは明白です.「善玉警官,悪玉警官」の手口が意図されたものでないなら,明らかに直感的なものでしょう.教皇庁は選択肢をオープンにしておくことで,SSPX を魚のように扱い続けることができます.リールを巻き寄せたり緩めたり,希望を持たせたりくじいたり,やがて糸が切れるまで何度もからめたり伸ばしたりできます.悲しいかな,「摺合せ」 といっても,SSPX 指導者たちはローマ演出のゲームにおける共謀者なのです.
So who represents the real Rome ? Cardinal Müller or Bishop Schneider ? Certainly both. If the “good cop, bad cop” routine is not conscious, it is certainly instinctive. Rome, by keeping its options open, can continue to play the SSPX like a fish, reeling it in, letting it out, raising hopes and then dashing them, bending the wire and straightening it again, and again, until finally it snaps. Alas, one may suspect that by “encounters” the leaders of the SSPX are complicit in this game of Rome.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注・5・1 )"Rorate Caeli" について.

・スペイン語のウェブサイト "Rorate Caeli" =ウェブサイト "Rorate Cæli" のスペイン語版.

・"Rorate Cæli" 読み「ロラーテ・カエリ」.

・"Rorate Cæli" はラテン語〈ウルガタ訳〉の「旧約聖書・イザヤ預言書:第45章8節」からの引用で,邦訳聖書(バルバロ神父訳版)では 『天よ,高くから水をしたたらせ,… 』となっており,続いて 『… 雲は,公正を降らせよ.地が開かれて,救いが生え,正義も芽生えよ.主なる私(=神御自身)がそれをつくった.…』となっている.

・「イザヤ預言書:第45章8節」は,クリスマス時節,「降誕節」に入る直前の「待降節」第3週目の「四季の水曜日(断食の曜日)」のミサ聖祭に於ける「入祭文」で誦(よ)まれる.

・「待降節の四季の水曜日のミサ聖祭」は,待降節中でも特に特色がある.〈聖福音〉は,聖母お告げの場面であり,書簡の代わりに,イザイアの予言を語る.それで,この日は,聖母マリアの祝いともいいうるほどである.

・→「待降節第4主日」について.昔は,この日のミサ聖祭は行わなかった.なぜなら,(待降節の)四季の土曜日の典礼と叙品式(現「叙階式」)とが,土曜日の夜から日曜日にかけて行われたからである.それで,この日のミサ典礼のほとんどは,他のミサ聖祭からとったものである(1955年ローマ・ミサ典書).

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BIBLIA SACRA: PROPHETIA ISAIÆ XLV(45), 8 (latine)

LA SAINTE BIBLE SELON LA VULGATE LATINE : ISAÏE (en hébreu, Yescha ’yahu (Jéhova sauve)) XLV, 8 (français)

THE HOLY BIBLE, DOUAY-RHEIMS VERSION TRANSLATED FROM THE LATIN VULGATE : THE PROPHECY OF ISAIAS XLV, 8 (English)

聖書 旧約/新約 Auctor: Federico Barbaro, s. d. b. / NIHIL OBSTAT Dominicus Kaneko s.d.b. Censor Delegatus Die 24 decembris, 1973 / IMPRIMATUR Petrus S. Shirayanagi Archiepiscopus Tokiensis Die 29 decembris 1973(1980年 カトリックサレジオ修道会)(東京司教認可)(「講談社」発行) … 旧約聖書  第45章8節(日本語)


"Rorate cæli desuper, et nubes pluant iustum: aperiatur terra, et germinet salvatorem: et iustitia oriatur simul: ego Dominus creavi eum."

"Cieux, versez votre rosée d’en haut, et les nuées pleuvent un juste ; que la terre s’ouvre, que la justice naisse en même temps ; moi, le Seigneur, je l’ai créé."

"Drop down dew, ye heavens, from above, and let the clouds rain the just: let the earth be opened, and bud forth a saviour: and let justice spring up together: I the Lord have created him."

天よ,高くから水をしたたらせ,雲は,*公正を降らせよ.地が開かれて,救いが生え,正義も*芽生えよ.主なる私がそれをつくった.

(注釈)

救い45・7-8 )
* 8-1 ヘブライ語の「セデク」は,一般に「正義」と訳されている.「勝利」よりもこのほうが近いと思われる.

* 8-2 イザヤは,メシア(=救世主)的な王をダビドから出る新しい「芽生え」にたとえた(6・13,11・1).エレミアの書(23・5,33・15)と,ザカリアの書(3・8,6・12)にもある「芽生え」はメシアを指す.

(解説:1955年ローマ・ミサ典書より抜粋)
・「四季の断食」は,ローマの教会において,使徒の頃から伝わった風習らしい.

・初代教会では元々毎週水・金・土曜に断食を行う風習があった.四世紀にこの風習がなくなり,四季だけにこの断食の風習が残った.

・現在の「四季の日」は教皇聖グレゴリオ七世(1073‐1085)により定められ(四旬節第一週,聖霊降臨の週間,九月の第三週,待降節第三週),季節を主にささげて,各季節の恵みをこい求めること以外に,神から聖なる司祭をこい求めるために断食と祈りをした.

・昔の習慣によると,十二月の四季に,司祭と助祭の叙任式を行っていたので,教皇ジェラジオ一世(492‐496)のころから,四旬節・聖霊降臨・九月の四季にも行われるようになった.

・ローマの公教会が,この日の指定巡礼聖堂を聖マリア大聖堂としたのは,司祭を神の御母の保護の下に置こうとしたからである.

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本投稿記事・第423回エレイソン・コメンツ「矛盾するローマ人たち?」 "CONTRADICTORY ROMANS ? "( 2015年8月22日付)は2015年9月03日05時35分に掲載されました.
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