解説付
エレイソン・コメンツ 第424回 (2015年8月29日)
読者の皆さん,予告ヒントを読み取り,
其の時が来る迄お待ち下さい ―
(どくしゃの みなさん,よこく ひんと を よみ とり,
そのときが くるまで おまち ください ―)
( "Readers, wait for it, take an advance hint – " )
合意が出て来たら,其の細部をお読み下さい!
(ごういが でて きたら,その さいぶを およみ ください!)
( "When the agreement comes, read the fine print ! " )
聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" 以下,"SSPX" と記す)から出て来た噂から判断すると(せいぴお じゅっせい かい から でて きた うわさ から はんだん すると),ローマ(羅馬)教皇庁が同会と一定の合意に達するのを望んで居るのでは無いか(ろーま きょうこう ちょうが どうかいと いっていの ごういに たっする のを のぞんでいる のでは ないか)という(言う・云う・謂う)エレイソン・コメンツの憶測(8月22日付 EC 第423回参照)は如何やら当たっていた様です(と いう えれいそん・こめんつの おくそく〈はちがつ にじゅうに にち づけ えれいそん・こめんつ だい よんひゃく にじゅうさん かい さんしょう〉はどうやらあたっていたようです)( "Rumours coming from the Society of St Pius X seem to confirm the speculation of these “Comments” last week (see EC 423 of Aug. 22) that Rome wants an agreement with the SSPX." ).此の噂に依る(依拠)と,8月初めに秘密の会合が開かれ(このうわさによると,はちがつはじめにひみつのかいごうがひらかれ),其処(其所)で SSPX 指導者達が財政問題と「教理に関する前文」を話し合ったというのです(そこで せいぴお じゅっせい かい しどうしゃ たちが ざいせい もんだいと「きょうりに かんする ぜんぶん」を はなしあった という のです)( "The rumours tell of a secret meeting held at the beginning of this month where SSPX leaders discussed finances and a “doctrinal preamble”." ).其の前文はミュラー枢機卿が8月3日に述べた物と同じ内容だったのでしょうか?(その ぜんぶんは みゅらー すうき きょうが はちがつ みっかに のべた ものと おなじ ないよう だった のでしょう か?)( "Was it the same preamble mentioned by Cardinal Müller on August 3 ? " )ローマ教皇庁が SSPX 署名用に草案を書いたのでしょうか?(ろーま きょうこう ちょうが せいぴお じゅっせい かい しょめい ように そうあんを かいた ので しょうか?)( "Drawn up by Rome for the SSPX to sign ? " )ミュラー枢機卿は此の前文が両者間の如何なる合意に取って必要な物となる(成る)だろうと述べました(みゅらー すうききょうは この ぜんぶんが りょうしゃ かんの いかなる ごういに とっても ひつような ものと なる だろうと のべ ました)( "The Cardinal said that that would be necessary for any agreement, …" ).一方で,シュナイダー司教は此の点につ(就)いて,第二バチカン公会議は最早単なる「牧歌的な物( pastoral )」とな(成・為)っているので,教理上の問題は起きないとの見方でした(いっぽうで,しゅないだー しきょうは この てんに ついて,だいに ばちかん こうかいぎは もはや たんなる「ぼっかてきなもの」と なって いる ので,きょうり じょうの もんだいは おきない との みかた でした)( "while Bishop Schneider saw no doctrinal problem because Vatican II was merely “pastoral”. " ).噂の当否は別に為て,変わる事の無い基本に就いて振り返って考えて見ましょう(うわさの とうひは べつに して,かわる ことの ない きほんに ついて ふりかえって みましょう)( "But let us recall why the Cardinal was the more realistic of the two." ).
第二バチカン公会議が出した16の公式文書は神,生命及び人間に就いての新しいビジョンと人間中心の現代社会に同調する新しい宗教像を提示しています(だいに ばちかん こうかいぎが だした じゅうろくの こうしき ぶんしょは かみ,せいめい,および にんげん についての あたらしい びじょんと にんげん ちゅうしんの げんだい しゃかいに どうちょう する あたらしい しゅうきょう ぞうを ていじ して います)( "The 16 official documents of the Second Vatican Council present together a new vision of God, life and man, a new religion in tune with the man-centred modern world, …" ).此の新宗教は1900年以上もの間本質的に変わって居ない神中心の公教(=カトリック教)と真正面から対立する(為る)物です(この しん しゅうきょうは せん きゅうひゃく ねん いじょう もの あいだ ほんしつ てきに かわって いない かみ ちゅうしんの こう きょう〈=かとりっく きょう〉 とまっしょうめん から たいりつ する もの です)( "… but clashing with the God-centred Catholic religion that had not changed essentially for over 1900 years." ).二つの宗教はともに神,生命,人間に就いて其々(其其)のビジョンを説いて居ます(ふたつの しゅうきょうは ともに かみ,せいめい,にんげん について それぞれの びじょんを といて います)( "Both religions teach their vision of God, life and man, …" ).双方とも教理ですが,二つの教理は対立為る物です(そうほう とも きょうり ですが,ふたつの きょうりは たいりつ するもの です)( "… both are doctrinal, but the two doctrines clash." ).然し,巧妙な曖昧さに依(拠・因)り - 曖昧さは16文書の特徴です - 公会議派の司祭達は両者間に何等対立点は無いと説得されて来ました(しかし,こうみょうな あいまいさ により - あいまいさ は じゅうろく ぶんしょの とくちょう です - こうかいぎは の しさい たちは りょうしゃ かんに なんら たいりつ てんは ないと せっとく されて きました)( "However, by skilful ambiguities – ambiguity is the hallmark of the 16 documents – the Council Fathers were persuaded that there was no clash, …" ).従って,司祭達が16文書に賛成票を投じた時,世界中の公教徒(=カトリック教徒)は三つの理由から新宗教に従いました(したがって,しさい たちが じゅうろく ぶんしょに さんせい ひょうを とうじた とき,せかい じゅうの こうきょうと〈かとりっく きょうと〉は みっつの りゆうから しん しゅうきょうに したがい ました)( "… and so when they voted in favour of the documents, there were three reasons why Catholics worldwide went along with the new religion: …" ).一つは新宗教と真の信仰との対立が巧妙に偽装された事(ひとつは しん しゅうきょうと まことの しんこう との たいりつが こうみょうに ぎそう された こと)( "… its clash with the true Faith was skilfully disguised, …" ),二つ目は教皇以下殆んど(殆ど)あらゆる教会当局者達が新宗教を公教徒(=カトリック教徒)に押し付けた事(ふたつめは きょうこう いか ほとんど あらゆる きょうかい とうきょく たち が しん しゅうきょうを こう きょう と〈かとりっく きょうと〉に おしつけた こと)( "… it was imposed on Catholics by almost all Church authorities from the Popes downwards, …" ),三つ目は新宗教が公会議以前の宗教より実践し易かった事です(みっつめは しん しゅうきょうが こうかいぎ いぜんの しゅうきょう より じっせん しやすかった こと です)( "… and it was rather easier to practise than the pre-Conciliar religion." ).
然し,神は一人の本物の牧者,ルフェーブル大司教を遣わされました(しかし,かみは ひとりの ほんものの ぼくしゃ,るふぇーぶる だいしきょうを つかわされ ました)( "But God raised one true shepherd, Archbishop Lefebvre, …" ).彼は二つの宗教の間に教理上の対立が有ると主張し(かれは ふたつの しゅうきょうの あいだに きょうり じょうの たいりつが あると しゅちょうし)( "… to insist on the doctrinal clash, " ),不誠実な教会当局者達( "the unfaithful Church authorities" )に立ち向かい(ふせいじつな きょうかい とうきょく しゃ たち に たちむかい)( "… to stand up to the unfaithful Church authorities, …" ),敢えて(敢て)望む信徒達の為に公会議以前の宗教を実践し続けました(あえて のぞむ しんと たちの ために こうかいぎ いぜんの しゅうきょうを じっせん しつづけ ました)( "… and to continue the practice of the pre-Conciliar religion for any souls wishing to take the trouble." ).此の様な信徒の数は大司教が1991年に亡くなるまで増え続け,彼が率いた SSPX は全世界に広まりました(このような しんとの かずは だいしきょうが せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに なくなる まで ふえ つづけ,かれが ひきいた せいぴお じゅっせい かいは ぜんせかいに ひろまり ました)( "And these were enough in number for the Archbishop's Society to have spread all over the world by the time he died in 1991." ).だが,大司教の後継者として SSPX 指導者に為った人達は(だが,だいしきょうの こうけいしゃ として せいぴお じゅっせい かい しどうしゃと なった ひと たちは)( "But his successors at the head of his Society …" )第二次世界大戦後に生まれ,第一次世界大戦前に生まれた大司教とは全く違う世界で育ちました(だいにじ せかい たいせん ご に うまれ,だいいちじ せかい たいせん まえ に うまれた だいしきょう とは まったく ちがう せかいで そだち ました)( "… were born after World War II into a very different world from that of the Archbishop, born before World War I." ).彼等は世界や教理に就いて大司教とは異なった見方をしました(かれらは せかいや きょうりに ついて だいしきょう とは ことなった みかたを しました)( "They did not see the world or doctrine as he saw them, …" ).従って,彼等は当時未だ公会議派が教会規律を緩める事等(抔)望んで居ませんでしたが(したがって,かれらは とうじ まだ こうかいぎは が きょうかい きりつを ゆるめる こと など のぞんで いません でしたが)( "… even if they were not yet themselves wanting the Conciliar relaxation of Church discipline" )(今では,益々〈益益〉多くの伝統派の人達が其れを望む様に為って居ます)(〈いまでは,ますます おおくの でんとうは の ひと たちが それを のぞむ ように なって います〉)( "… (wanted now by more and more Traditionalists) ." ),ルフェーブル大司教が教会当局者達に立ち向わざるを得ないと感じた様な動機は持って居ませんでした(るふぇーぶるだいしきょうが きょうかい とうきょくしゃ たち に たち むかわ ざるを えないと かんじた ような どうきは もって いません でした)( "… so they had not the same motivation as he had to go on standing up to the Church authorities, …" ).ローマ教皇庁の磁石が其の吸引力を発揮し始めるのは時間の問題でした(ろーま きょうこう ちょうの じしゃくが その きゅういん りょくを はっき しはじめる のは じかんの もんだい でした)( "It was simply a matter of time before the magnetism of Rome would exert its pull." ).
ローマ教皇庁の人達は如何かと言えば(ろーま きょうこう ちょうの ひと たちは どうか と いえば),彼等は公会議後の新宗教に固執しました(かれらは こうかいぎ ご の しん しゅうきょうに こしつ しました)( "As for the Romans, they were obdurate in their new Conciliar religion, …" ).従って,彼等は2000年以降,SSPXに拠る(依る)あらゆるアプローチを公然と歓迎しました(したがって,かれらは にせんねん いこう,せいぴお じゅっせい かいに よる あらゆる あぷろーちを こうぜんと かんげい しました)( "… and so from 2000 onwards they openly welcomed all approaches being made by the SSPX, …" ) .何故なら, SSPX の教理 "doctrine" と不変の公教(=カトリック教)実践は(なぜなら,せいぴお じゅっせい かいの きょうりと ふへんの こうきょう〈=かとりっくきょう〉じっせんは)( "… because its doctrine and practice of unchanged Catholicism …" )彼等のフリーメーソン的新機軸に取って障害で有り脅威だったからです(かれらの ふりーめーそん てき しんきじくに とって しょうがい であり きょうい だった から です)( "…were a standing rebuke to their Freemasonic novelties, and a constant threat to them, …" ).其れは,上手く運んだ侵攻作戦の背後に残って戦い続ける孤立した敵兵の様な物でした(それは,うまく はこんだ しんこう さくせんの はいごに のこって たたかい つづける こりつ した てきへいの ような もの でした)( "… like an unconquered pocket of the enemy in the rear of an otherwise all-successful invasion." ).今,ローマ(羅馬)人達は SSPX を新教会に吸収したいと望んで居ますし(いま,ろーま じん たちは せいぴお じゅっせい かいを しん きょうかいに きゅうしゅう したいと のぞんで いますし)( "Therefore as the Romans want to absorb the SSPX into their Newchurch, …" ), SSPX の現指導者達はローマ正式教会の支配下に戻りたいと願って居ます(せいぴお じゅっせい かいの しどうしゃ たちは ろーま せいしき きょうかいの しはいかに もどりたいと ねがって います)( "… so the SSPX's present leaders want to put themselves back under Rome's official Church authority." ).其れは地獄での結婚の様な物です(それは じごく での けっこん の ような もの です)( "It is a marriage made in Hell, …" ).シュナイダー司教の様な心優しい新教会人達は,此れに何の問題も無いと考えて居ます(しゅないだー しきょうの ような こころ やさしい しん きょうかい じん たちは,これに なんの もんだいも ないと かんがえて います)( "… and sweet Newchurchmen like Bishop Schneider can see no problem, …" ).何故なら,彼等は両者間に根本的な教理上の対立等(抔)無い,或いは,有るとしても見たく無いと思って居るからです(なぜなら,かれらは りょうしゃ かんに こんぽん てきな きょうり じょうの たいりつ など ない,あるいは,あると しても みたくないと おもって いる から です)( "… because they have not seen, or have not wanted to see, the underlying clash of basic doctrine." ).
そう言う(謂う・云う)訳で,此の問題に就いてはミュラー枢機卿の方が正しい訳です(そういう わけで,この もんだいに ついては みゅらー すうききょうの ほうが ただしい わけ です)( "So Cardinal Müller is right in this respect. " ).若し,ミュラー枢機卿とシュナイダー司教が神,生命,人間について異なるビジョンを持って居ると為れば(もし,みゅらー すうききょうと しゅないだー しきょうが かみ,せいめい,にんげんに ついて ことなる びじょんを もっていると すれば),二人の間の意見一致は単なる見かけだけの物でしょう(ふたりの あいだの いけん いっちは たんなる みかけ だけの もの でしょう)( "If two men have different visions of God, life and man, any agreement between them can only be relatively superficial." ).従って, SSPX が教義 "dogma" を放棄するか(せいぴお じゅっせい かいが きょうぎを ほうき するか),或いは,あらゆる教義はドロドロのお粥 "mush" の様な物だと為るメーソン式超教義( "super-dogma" )を受け入れ公教(=カトリック教)の全ての教義( "all Catholic dogma" )を台無しに為る様仕向けられ無くても(あるいは,あらゆる きょうぎは どろどろの おかゆの ような ものだ とする めーそん しき ちょう きょうぎを うけいれ こうきょう〈かとりっく きょう〉の すべての きょうぎを だいなしに する よう しむけられ なくても), SSPX はローマ教皇庁の壁の中でトロイの馬の様に振る舞う事に為るでしょう(せいぴお じゅっせい かいは ろーま きょうこう ちょうの かべの なかで とろいの うまの ように ふるまう ことに なる でしょう)( "So if the SSPX cannot be brought to abandon dogma, or rather to undermine all Catholic dogma with the Masonic super-dogma that all dogma is mush, then the SSPX is bound to act within the walls of Rome like a Trojan horse." ).ミュラー枢機卿が前文が必要だと主張為るのは此の為です(みゅらー すうききょうが ぜんぶんが ひつよう だと しゅちょう する のは このため です)( "That is why the Cardinal will insist on a preamble, …" ).其の前文をローマが書いたのか SSPX が書いたのかは然して重要な事では有りません(その ぜんぶんを ろーまが かいた のか せいぴお じゅっせい かいが かいた のかは さして じゅうような こと では ありません)( "… whether written by Rome or by the SSPX is of no importance, …" ).伝統派の多くが,第二バチカン公会議後の公教徒(=カトリック教徒)の多くと同じ様に(でんとうは の おおくが,だいに ばちかん こうかいぎ ご の かとりっく きょうとの おおくと おなじ ように)( "… so long as the mass of Traditionalists, just like the mass of Catholics after Vatican II, …" ),教理の曖昧さに騙される様に為りさえ〈語源は「添え」〉為ればいい(好い・良い・善い)訳です(きょうりの あいまいさに だまされる ように なり さえ すれば いい わけです)( "… will let themselves be deceived by the doctrinal ambiguities." ).其の曖昧さは見事な物と為るでしょう(その あいまいさ は みごとな ものと なる でしょう)( "Brilliant these will be." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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本投稿記事・第424回エレイソン・コメンツ「執拗なローマ人たち」 "RELENTLESS ROMANS"( 2015年8月29日付)の解説付邦訳文は2015年9月11日23時50分に掲載されました.
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解説無し
エレイソン・コメンツ 第424回 (2015年8月29日)
読者の皆さん,予告ヒントを読み取り,
その時が来るまでお待ちください ―
合意が出てきたら,
その細部をお読みください!
Readers, wait for it, take an advance hint –
When the agreement comes, read the fine print !
聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" 以下,"SSPX" と記す)から出てきた噂から判断すると,ローマ教皇庁が同会と一定の合意に達するのを望んでいるのではないかというエレイソン・コメンツの憶測(8月22日付 EC 第423回参照)はどうやら当たっていたようです.この噂によると,8月初めに秘密の会合が開かれ,そこで SSPX 指導者たちが財政問題と「教理に関する前文 “doctrinal preamble” 」を話し合ったというのです.その前文はミュラー枢機卿が8月3日に述べたものと同じ内容だったのでしょうか? ローマ教皇庁が SSPX 署名用に草案を書いたのでしょうか? ミュラー枢機卿はこの前文が両者間のいかなる合意にとっても必要なものとなるだろうと述べました.一方で,シュナイダー司教はこの点について,第二バチカン公会議はもはや単なる「牧歌的なもの( "pastoral" )」となっているので,教理の問題は起きないとの見方でした.噂の当否は別にして,変わることのない基本について振り返って考えてみましょう.
Rumours coming from the Society of St Pius X seem to confirm the speculation of these “Comments” last week (see EC 423 of Aug. 22) that Rome wants an agreement with the SSPX. The rumours tell of a secret meeting held at the beginning of this month where SSPX leaders discussed finances and a “doctrinal preamble”. Was it the same preamble mentioned by Cardinal Müller on August 3 ? Drawn up by Rome for the SSPX to sign ? The Cardinal said that that would be necessary for any agreement, while Bishop Schneider saw no doctrinal problem because Vatican II was merely “pastoral”. But let us recall why the Cardinal was the more realistic of the two.
第二バチカン公会議が出した16の公式文書は神,生命および人間についての新しいビジョンと人間中心の現代社会( "the man-centred modern world" )に同調する新しい宗教像を提示しています.この新宗教は1900年以上ものあいだ本質的に変わっていない神中心のカトリック教(=公教)( "the God-centred Catholic religion" )と真正面から対立するもの( "clashing" )です.二つの宗教はともに神,生命,人間についてそれぞれのビジョンを説いています.双方とも教理ですが,二つの教理は対立するものです.しかし,巧妙な曖昧さにより - 曖昧さは16文書の特徴です - 公会議派の司祭たちは両者間になんら対立点はないと説得されてきました.したがって,司祭たちが16文書に賛成票を投じたとき,世界中のカトリック教徒は三つの理由から新宗教に従いました.ひとつは新宗教と真の信仰との対立が巧妙に偽装されたこと,二つ目は教皇以下ほとんどあらゆる教会権力者たちが新宗教をカトリック教徒に押しつけたこと,三つ目は新宗教が公会議以前の宗教より実践しやすかったことです.
The 16 official documents of the Second Vatican Council present together a new vision of God, life and man, a new religion in tune with the man-centred modern world, but clashing with the God-centred Catholic religion that had not changed essentially for over 1900 years. Both religions teach their vision of God, life and man, both are doctrinal, but the two doctrines clash. However, by skilful ambiguities – ambiguity is the hallmark of the 16 documents – the Council Fathers were persuaded that there was no clash, and so when they voted in favour of the documents, there were three reasons why Catholics worldwide went along with the new religion: its clash with the true Faith was skilfully disguised, it was imposed on Catholics by almost all Church authorities from the Popes downwards, and it was rather easier to practise than the pre-Conciliar religion.
しかし,神はひとりの本物の牧者,ルフェーブル大司教を遣わされました.彼は二つの宗教の間に教理上の対立( "the doctrinal clash" )があると主張し,不誠実な教会当局者( "the unfaithful Church authorities" )たちに立ち向かい,あえて望む信徒たちのために公会議以前の宗教を実践し続けました.このような信徒の数は大司教が1991年に亡くなるまで増え続け,彼が率いた SSPX は全世界に広まりました.だが,大司教の後継者として SSPX 指導者になった人たちは第二次世界大戦後に生まれ,第一次世界大戦前に生まれた大司教とはまったく違う世界で育ちました.彼らは世界や教理について大司教とは異なった見方をしました.したがって,彼らは当時まだ公会議派が教会規律を緩めることなど望んでいませんでしたが(いまでは,ますます多くの伝統派の人たちがそれを望むようになっています),ルフェーブル大司教が教会当局者たちに立ち向わざるを得ないと感じたような動機は持っていませんでした.ローマ教皇庁の磁石がその吸引力を発揮し始めるのは時間の問題でした.
But God raised one true shepherd, Archbishop Lefebvre, to insist on the doctrinal clash, to stand up to the unfaithful Church authorities, and to continue the practice of the pre-Conciliar religion for any souls wishing to take the trouble. And these were enough in number for the Archbishop's Society to have spread all over the world by the time he died in 1991. But his successors at the head of his Society were born after World War II into a very different world from that of the Archbishop, born before World War I. They did not see the world or doctrine as he saw them, so they had not the same motivation as he had to go on standing up to the Church authorities, even if they were not yet themselves wanting the Conciliar relaxation of Church discipline (wanted now by more and more Traditionalists). It was simply a matter of time before the magnetism of Rome would exert its pull.
ローマ教皇庁の人たちはどうかと言えば,彼らは公会議後の新宗教に固執しました.したがって,彼らは2000年以降, SSPX によるあらゆるアプローチを公然と歓迎しました.なぜなら, SSPX の教理と不変のカトリック教実践は彼らのフリーメーソン的新機軸にとって障害であり脅威だったからです.それは,うまく運んだ侵攻作戦の背後に残って戦い続ける孤立した敵兵のようなものでした.いま,ローマ人たちは SSPX を新教会に吸収したいと望んでいますし, SSPX の現指導者たちはローマ正式教会の支配下に戻りたいと願っています.それは地獄での結婚のようなものです.シュナイダー司教のような心優しい新教会人たちは,これに何の問題もないと考えています.なぜなら,彼らは両者間に根本的な教理上の対立などない,あるいは,あるとしても見たくないとおもっているからです.
As for the Romans, they were obdurate in their new Conciliar religion, and so from 2000 onwards they openly welcomed all approaches being made by the SSPX, because its doctrine and practice of unchanged Catholicism were a standing rebuke to their Freemasonic novelties, and a constant threat to them, like an unconquered pocket of the enemy in the rear of an otherwise all-successful invasion. Therefore as the Romans want to absorb the SSPX into their Newchurch, so the SSPX's present leaders want to put themselves back under Rome's official Church authority. It is a marriage made in Hell, and sweet Newchurchmen like Bishop Schneider can see no problem, because they have not seen, or have not wanted to see, the underlying clash of basic doctrine.
そういうわけで,この問題についてはミュラー枢機卿の方が正しいわけです.もし,ミュラー枢機卿とシュナイダー司教が神,生命,人間について異なるビジョンを持っているとすれば,二人の間の意見一致は単なる見かけだけのものでしょう.したがって, SSPX が教義を放棄するか,あるいは,あらゆるカトリック教義( "all Catholic dogma" )はドロドロのお粥( "mush" )のようなものだとするメーソン式超教義( "the Masonic super-dogma" )を受け入れカトリック(公)教のすべての教義( "all Catholic dogma" )を台無しにするよう仕向けられなくても, SSPX はローマ教皇庁の壁の中でトロイの馬のように振る舞うことになるでしょう.ミュラー枢機卿が前文が必要だと主張するのはこのためです.その前文をローマが書いたのか SSPX が書いたのかはさして重要なことではありません.伝統派の多くが,第二バチカン公会議後のカトリック教徒の多くと同じように,教理の曖昧さに騙されるようになりさえすればいいわけです.その曖昧さは見事なものとなるでしょう.
So Cardinal Müller is right in this respect. If two men have different visions of God, life and man, any agreement between them can only be relatively superficial. So if the SSPX cannot be brought to abandon dogma, or rather to undermine all Catholic dogma with the Masonic super-dogma that all dogma is mush, then the SSPX is bound to act within the walls of Rome like a Trojan horse. That is why the Cardinal will insist on a preamble, whether written by Rome or by the SSPX is of no importance, so long as the mass of Traditionalists, just like the mass of Catholics after Vatican II, will let themselves be deceived by the doctrinal ambiguities. Brilliant these will be.
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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本投稿記事・第424回エレイソン・コメンツ「執拗なローマ人たち」 "RELENTLESS ROMANS"( 2015年8月29日付)は2015年9月07日23時50分に掲載されました.
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