2014年3月25日火曜日

348 抵抗方針 I 3/15

エレイソン・コメンツ 第348回 (2014年3月15日)

     今日,教会と世界(きょうかいと せかい)が破滅状態(はめつ じょうたい)にある中(なか)で,ほかの何(なに)にもまして,二つの主要な原則(ふたつの しゅような げんそく)が働(はたら)いています( "In today’s disastrous state of Church and world there are, amongst others, two central principles in play, …" ).ひとつは恒久的,根本的(こうきゅうてき・こんぽんてき)な原則であり,もうひとつは暫定的,副次的(ざんていてき・ふくじてき)な原則です( "… the one permanent and primary, the other temporary and secondary, …" ).だが,二つはともに中心的な働き(ちゅうしんてき な はたらき)をしています( "… but both are central." ).この二つの原則の相互作用(そうごさよう)が私たちの行動を導く(こうどうを みちびく)のに決定的(けっていてき)な働きをするはずです( "Their interplay should be decisive to guide our actions." ).

     恒久的な原則(こうきゅうてきな げんそく)とは「信仰(しんこう)がなければ神を喜ばす(かみを よろこばす)ことはできない」(新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第11章6節."Heb. XI, 6" )というものです( "The permanent principle is that “Without faith it is impossible to please God” (Heb. XI, 6)." ).なぜなら,人はすべて神から生(う)まれたのであり,死(し)にあたって神のもとへ行き,神の至福の姿(しふくの すがた)に接(せっ)することができるように使(つか)える自由意志(じゆう いし)を与(あた)えられているからです( "This is because all men come from God endowed with a free-will which they are meant so to use as to be able to go to God when they die, and enjoy the beatific vision of God for eternity." ).私たちが現世(げんせ)に存在(そんざい)するためにつけられたこの必須条件(ひっす じょうけん)は神がくださったきわめて寛容な提案(かんような ていあん)であり,私たちから見返り(みかえり)に求(もと)められるものがたとえ相対的(そうたい てき)に少(すく)なくても与えられるものです( "旧約聖書・イザイアの書:第64章4節."Is. LXIV, 4" )( "These obligatory terms of our earthly existence constitute an extremely generous offer on God’s part, given how relatively little is required on our part (Is. LXIV, 4), …" ).だが,私たちが先ず(まず)できることは神の存在を認める(かみの そんざいを みとめる)ことです( "… but the very least that we can do, a bare beginning, is to recognize his existence." ).私たちの身の回り(みの まわり)にあふれる神の創造物(=被造物)(そうぞうぶつ=ひぞうぶつ)( "his Creation" )の素晴(すば)らしさを考えれば,神の存在を認めないのは「許(ゆる)されない」ことであり( "新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第1章20節."Rom. I, 20" )( "Given the goodness of his Creation all around us, it is “inexcusable” not to recognize it (Rom. I, 20), …" ),したがって,私たちは神への初歩的(しょほてき)な信仰さえも持(も)たないようでは神を喜ばすことなどできません( "… and therefore without the most elementary faith in him it is impossible to please him. " ).

     暫定的な原則(ざんていてきな げんそく)とは,牧者が倒れ(ぼくしゃが たおれ),羊が散り散りに(ひつじが ちりぢりに)なったとき働く原則です(旧約聖書・ザカリアの預言書:第13章7節."Zach. XIII, 7" )( "The temporary principle is that the Shepherd is struck and the sheep are scattered (Zach.XIII, 7), …" ).これは私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園(その)で引用された一文(いんよう された いちぶん)です(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )( "… text quoted by Our Lord in the Garden of Gethsemane (Mt. XXVI, 31)." )(訳注後記1).人類(じんるい)が4千年(よん せん ねん)にわたって繰り返し(くりかえし)堕落し続けた後(だらく しつづけた あと)( "After 4,000 years of man’s repeated decadence, …" ),神は人間的な姿(にんげんてきな すがた)をおびて(この世に降りて来られて〈おりてこられて〉)(訳注後記2)教会を創設(きょうかいを そうせつ)され( "… God took a human nature to found a Church …" ),その後(ご)2千年(に せん ねん)にわたり諸々の人間(もろもろの にんげん)が自(みずか)らの霊魂(れいこん)を救(すく)えるようにしてくださいました( "… to enable men to save their souls for the last 2,000 years of men’s existence on this earth." ).初めの千年(はじめの せんねん)は堕落(だらく)が著(いちじる)しく食い止め(くい とめ)られました( "For the first thousand of those years the decadence was seriously interrupted, …" ).だが,数世紀(すう せいき)もすると堕落が再び始まり(ふたたび はじまり)( "… but after a few more centuries it picked up again …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)とともに神の教会の指導者たち本人(かみの きょうかい しどうしゃたち ほんにん),すなわち教会の命運(きょうかいの めいうん)を託(たく)された教皇たち(きょうこう たち)までが( "… to the point that with Vatican II the very leaders of God’s own Church, the Popes on whom it was designed to depend, …" )著しく堕落(いちじるしく だらく)してしまいました( "… became seriously infected by the decadence." ).その結果(けっか),霊魂(れいこん)をどう救(すく)うかについて神が示(しめ)された方法(ほうほう)を人々が理解(ひとびとが りかい)するのがますます難(むずか)しくなってしまいました( "Thereupon it became much more difficult for men to see how God meant them to save their souls." ).

     それ故(ゆえ),一方(いっぽう)では,客観的に言えば(きゃっかんてきに いえば)( "Therefore on the one hand, objectively speaking, …" ),霊魂救済(れいこん きゅうさい)についての恒久的諸真理(こうじょうてき しょ しんり)( "the permanent truths of salvation" )は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちの堕落(だらく)にかかわらず少(すこ)しも変(か)わっておらず( "… the permanent truths of salvation have not been changed one little bit by the fall of the Conciliar Popes, …" ),救われるべき霊魂が一人(ひとり)でも依然(いぜん)として世に残っているなら(よに のこっているなら)(訳注・=最後の一人の霊魂の救済に至るまで),それら諸真理(しょ しんり)を守り続け(まもり つづけ)なければなりません( "… and these truths must be maintained if any souls at all are still to be saved." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の誇り(ほこり)は,堕落した聖職者(だらくした せいしょくしゃ)たちに対抗(たいこう)してこれらの諸真理(しんり)を守(まも)ることでしたが( "It was Archbishop Lefebvre’s glory to uphold those truths against the fallen churchmen and world, …" ),彼の後継者(かれの こうけいしゃ)たちは,そのような聖職者たちとその世界(せかい)に加(くわ)わるため,これら諸真理を傷(きず)つけ大司教の顔に泥を塗りました(かおに どろを ぬりました)(訳注・「…顔に泥を塗る」 "disgrace" =恥をかかせる〈はじを かかせる〉・面目を失わせた〈めんぼくを うしなわせる〉・名誉を傷つける〈めいよを きずつける〉)( "… while it is his successors’ disgrace to be compromising them for the sake of rejoining those churchmen and their world." ).

     他方(たほう),主観的に言えば(しゅかんてきに いえば),後継者(こうけいしゃ)たちがおこなった不名誉(ふ めいよ)は教皇たちの堕落によって,その偉大な真理(いだいな しんり)が一時的(いちじ てき)に輝きを失った(かがやきを うしなった)ため幾分(いくぶん)弱(よわ)められています( "On the other hand, subjectively speaking, that disgrace is mitigated by the temporary eclipse of those great truths, due to the fall of the Popes." ).司教(しきょう)たちでさえローマの司教(=教皇,"the Bishop of Rome" )が間違って見えても(まちがってみえても),それを見抜く(みぬく)のは容易(ようい)ではありません( "It is not easy even for bishops to see straight when the Bishop of Rome is seeing crooked." ).したがって,神の恩寵(かみの おんちょう) ― それ以外(いがい)のものではありません ― によって見抜く力(みぬく ちから)を得(え)ている人たちは( "It follows that those who by the grace of God – and by nothing else – see straight, …" ),必(かなら)ずしも自分の誤り(じぶんの ほこり)のためでなく混乱に陥った魂(こんらんに おちいった たましい)のために360度の思(おも)いやり( "a 360-degree compassion" )を持(も)たねばならないということになります( "… must have a 360-degree compassion for souls caught in a confusion not entirely their own fault." ).だから,もしジェームスが自分の霊魂を救う(じぶんの れいこんを すくう)ためには新教会(しん きょうかい)( "the Newchurch" )にとどまらねばならないと信(しん)じているなら,私には彼をそこからむりやり引っ張り出す必要(ひっぱりだす ひつよう)はないだろうと思えます( "Therefore, it seems to me, if James is convinced that to save his soul he must stay in the Newchurch, I need not hammer him to get out of it." ).もしクレアが聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )内(ない)に深刻な問題(しんこくな もんだい)などなにもないと思(おも)いこまされているなら,私がそのようなことはないだろうと無理(むり)やり彼女を説得(かのじょを せっとく)する必要はないでしょう( "If Clare is persuaded that there is no grave problem within the Society of St Pius X, I need not ram down her throat why there is." ).そして,もしジョンが教皇の座(ざ)が空位(くうい)だと信(しん)じなければ自分の信仰(じぶんの しんこう)を保(たも)てないと考えるなら,私ができることはせいぜい,その考え方(かんがえ かた)は義務(ぎむ)ではないと彼に伝える(かれに つたえる)ことぐらいでしょう( "And if John can see no way to keep the Faith without believing that the See of Rome is vacant, I need urge upon him no more than that that belief is not obligatory." ).

     だが,羊(ひつじ)たちが散り散り(ちりぢり)になっている現代の状況下(げんだいの じょうきょう か)では( "Yet in all this scattering of the sheep, …" ),誰(だれ)かがお粗末な人(おそまつな ひと)たちに代(か)わって,客観的な真理(きゃっかんてきな しんり)を守り抜き(まもり ぬき),それを羊たちに提供(ていきょう)しなければなりません(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第19章40節."Lk. XIX, 40" )( "… somebody must maintain and make available to them the objective Truth if the poor stones are not to have to do it (Lk. XIX, 40), …" ).なぜなら,私たちの霊魂(れいこん)を救(すく)えるかどうかは,最低限(さいてい げん)でもその真理を求(もと)めるかどうかにかかっているからです( "… because upon at least the seeking of that Truth depends the saving of our souls." ).だが,私たちカトリック教徒(きょうと)は,真理を求める(しんりを もとめる)仲間の羊(なかまの ひつじ)たちが盲目(もうもく)であることに十分気を配る(じゅうぶん きを くばる)ようにしましょう( "However, let Catholics seek it with all due regard for the blindness of their fellow-sheep, …" ).少(すく)なくとも牧者(ぼくしゃ)が倒(たお)れているあいだは( "… for at least as long as the Shepherd remains struck." ).

     キリエ・エレイソン.

     要約:牧者が倒れて(ぼくしゃが たおれて)いるときは,救済の真理(きゅうさいの しんり)が破(やぶ)られないよう守(まも)らなければなりません( "Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, …" ). だが,「毛(け)を刈り取られた(かり とられた)羊(ひつじ)たちには風を和らげて(かぜを やわらげて)あげなければなりません.」( "… but "The wind must be tempered to the shorn lambs". Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, but "The wind must be tempered to the shorn lambs". " )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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第3パラグラフの訳注1
「私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園で引用された一文」
(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )
について

マテオ第26章31節
EVANGELIUM SECUNDUM MATTÆUM XXVI, 31
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST
SELON SAINT MATTHIEU XXVI, 31
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST,
ACCORDING TO ST. MATTHEW XXVI, 31

『そのときイエズスは弟子たちに言われた,
「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.
〈*私は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.」』

"Tunc dicit illis Iesus:
Omnes vos scandalum patiemini in me, in ista nocte.
Scriptum est enim: Percutiam pastorem, et dispergentur
oves gregis."

"Alors Jésus leur dit:
Vous tout vous prendrez du scandale à mon sujet pendant cette nuit ;
car il est écrit : Je frapperai le pasteur, et les brebis
du troupeau seront dispersées."

"Then Jesus said to them:
All you shall be scandalized in me this night.
For it is written:
I will strike the shepherd, and the sheep
of the flock shall be dispersed."


この後,
30-35節「ペトロのつまずきの預言」
→36-46節「ゲッセマニにて」
→47-56節「イエズスの捕らわれ」へと続く.

(注釈)
*31節 旧約聖書・ザカリアの書13章7節.
弟子たちはイエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.
そのイエズスが何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.


牧者〈ぼくしゃ〉
=救世主(メシア)・神の御独子イエズス・キリスト,
また,その代理者たるローマ教皇・諸々の司教.

羊〈ひつじ〉=諸々の司祭.


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第3パラグラフの訳注2

・「全能・唯一(ぜんのう・ゆいいつ)の
*三位一体(聖父+聖子+聖霊)の神」は
また「みことば(御言葉)」と呼ばれる.

・「みことば」は聖霊によって童貞聖マリアの御胎内に宿られ,
人間と同じ肉体を取ってお生まれになった.
(「みことばは人となられた」…新約聖書・ヨハネ聖福音書)

・人「聖マリア」の子となられた「みことば」たる
神の御子イエズス・キリストは,
人間と同じ様に苦難に満ちた人生を生き,
この世の悪〈闇〉の権力に迫害され,「十字架上の死に至るまで」,
神御自身の性質である「無限の愛と真理」に忠実に従った.

*「三位一体の神」=「聖父+聖子+聖霊(ちちと こと せいれい) の神」

・聖マリアは「神の御母」と呼ばれる.

・聖ヨハネ聖福音書,
「使徒信経」("CREDO"),
「御告げの祈り」("ÁNGELUS DÓMINI")
を参照.



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訳注の続きを追補いたします.

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