2014年6月15日日曜日

360 公会議派教会とは? 6/7

エレイソン・コメンツ 第360回 (2014年6月7日)

     「公会議派教会」( "Conciliar church" )という表現(こうかいぎ きょうかい という ひょうげん)は,一つの現実(ひとつの げんじつ),実在(じつざい)するもの,つまり自身(じしん)をカトリック教徒だと公言(かとりっく きょうと だと こうげん)しながらも実際には第二バチカン公会議(じっさいには だいに ばちかん こうかいぎ)の新しい人間中心主義的な宗教の実践(あたらしい にんげん ちゅうしん しゅぎ てきな しゅうきょう の じっせん)に滑り落ちている人々や団体の総体を表す表現(すべり おちている ひとびとやだんたいの そうたいを あらわす ひょうげん)であるのは明白(めいはく)です( "The expression “Conciliar church” obviously expresses a reality, something real, namely the mass of people and institutions professing themselves to be Catholic but in fact sliding into the practice of the new humanist religion of the Second Vatican Council." ).なぜ「滑り落ちる」( "sliding" )などという言葉を使う(ことばを つかう)かといえば,公会議主義,すなわち新モダニズム(しん もだにずむ)(=新近現代主義〈しん きんげんだい しゅぎ〉)( "neo-modernism" )はまさしく,カトリック教徒たちが見かけだけは信仰を保ち(しんこうを たもち)ながら,その内容を空に(ないようを からに)してしまうことができるように作(つく)られているからです( " “Sliding”, because Conciliarism, or neo-modernism, is precisely designed to enable Catholics to maintain the appearances of the Faith while they empty out the substance." ).カトリック教徒たちは具体的(ぐたい てき)に,このプロセス(ぷろせす)を早(はや)めるか遅(おく)らせるか意(い)のままにできますが,わざわざ結論(けつろん)までたどりつく必要(ひつよう)などありません( "Catholics in the concrete can make this process as fast or as slow as they wish, they need not even take it all the way to its conclusion, …" ).だが,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)( "Conciliarism" )は理論上(りろん じょう),カトリック教義(かとりっく きょうぎ)( "Catholicism" )に真っ向から反対(まっこうから はんたい)するものであり(=全〈まった〉く反対する),そのプロセスの結論(ぷろせすの けつろん)にたどりついて,初めから意図(はじめから いと)していたように信仰と教会を壊して(しんこうと きょうかいを こわして)しまいます( "… but Conciliarism in the abstract is utterly opposed to Catholicism and, taken to its conclusion, it destroys both Faith and Church, as it was meant to do." ).

     このプロセスを観察(かんさつ)し理解(りかい)するのは難(むずか)しいことではありません( "The process is not difficult to observe or to understand, …" ).だが,聖ピオ十世会(SSPX)(せいぴお じゅっせい かい)を率(ひき)いるリベラル派の人(りべらるはの ひとたち)たちはローマ(ろーま)の公会議派の人(ひと)たちとの和解を求める(わかいを もとめる)なかで( "… but liberals at the head of the Society of St Pius X, seeking reconciliation with the Conciliarists in Rome, …" ),公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)とカトリック教会(かとりっく きょうかい)の問題を混同(もんだいを こんどう)させるべくベストを尽くし(べすとを つくして)てきました( "… have done their best to confuse the question of the Conciliar church and the Catholic Church." ).彼(かれ)らは,たとえば,カトリック教会は目に見える(めに みえる),公会議派教会も目に見える教会である,だから公会議派教会はカトリック教会であると言います( "For instance the Catholic Church is visible, they will say, and the Conciliar church is the visible church, so the Conciliar church is the Catholic Church, …" ).この論法(ろんぽう)はルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)によって何年も前(なんねんも まえ)に「子供(こども)じみている」( "childish" )と,はねつけられています(目に見える教会は多数〈たすう〉ありますが,それがすべてカトリック教会とは限〈かぎ〉りません)( "… an argument dismissed years ago by Archbishop Lefebvre as “childish” (many churches are visible that are not Catholic)." ).同(おな)じように子供じみた論法は,教会はただ一つ(ひとつ)である,だから公会議派教会とカトリック教会は一つで同じ(ひとつで おなじ)ものでなければならないというものです(偽〈にせ〉の教会は何千〈なんぜん〉もあります)( "Equally childish is the argument that there is only one Church, so the Conciliar church and the Catholic Church must be one and the same (there are thousands of false churches)." ).

     真実(しんじつ)とはさほど複雑難解(ふくざつ なんかい)なものではありません( "The truth is not too complicated." ).カトリック教会は生きた組織(いきた そしき)で( "The Catholic Church is a living organism, …" ),その創設者(そうせつ しゃ)イエズス・キリスト(いえずす・きりすと)のように,神聖な面と人間的な面(しんせいな めんと にんげん てきな めん)を兼ね備え(かね そなえ)ています( "… both divine and human, like its Founder, Jesus Christ." ).神聖な面としては,教会はキリストの汚れなき花嫁(けがれなき はなよめ)( “his Immaculate Bride” )ですから,堕落(だらく)したものではありませんし堕落することもありません( "As divine, as being his Immaculate Bride, it cannot be corrupt or corrupted, …" ).だが,教会は罪深い人間(つみぶかい にんげん)によって構成(こうせい)されているものですから( "… but as being made up of sinful human beings, …" ),ほかの生きた組織と同じ(いきた そしきと おなじ)ように部分的に腐敗(ぶぶん てきに ふはい)することがあります( "… it can partially rot just like any other living organism." ).したがって,公会議派教会とカトリック教会の関係(かんけい)を理解(りかい)するのに役立つ方法(やくだつ ほうほう)は腐った林檎(くさった りんご)を考(かんが)えてみることです( "So one useful way to understand how the Conciliar church relates to the Catholic Church is to think of a rotten apple." ).

     一方の見方(いっぽうの みかた)では,腐食(ふしょく)は林檎(りんご)に所属(しょぞく)します( "On the one hand the rot belongs to the apple." ).その腐った部分(くさった ぶぶん)は,すべて一度(いちど)は林檎でした( "All rot was once apple." ).腐食は林檎を腐敗(ふはい)させるもの,林檎の寄生物(きせいぶつ)で,林檎なしには生存(せいぞん)できず,腐った部分が落(お)ちるまで林檎に固(かた)くしがみついています( "The rot is a corruption of the apple, a parasite on the apple, it could not exist without the apple and it remains firmly attached to the apple unless and until the rotten part falls off. " ).同(おな)じように公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はそのあらゆる部分(ぶぶん)が一度はカトリック(かとりっく)だったという限(かぎ)りにおいてカトリック教会に所属します( "Likewise Conciliarism belongs to the Catholic Church insofar as everything Conciliar was once Catholic, …" ).それはカトリック教会を腐敗させるもの,カトリック教会の寄生物で,カトリック教会なしには生存できず( "… it is a corruption of the Catholic Church, a parasite on the Catholic Church, it could not exist without the Catholic Church, …" ),カトリック教会のどこかの部分に,それを意図(いと)した通(とお)り壊(こわ)してしまわない限(かぎ)り,そこに固くしがみついています( "… and it remains firmly attached to some part of the Catholic Church unless and until it destroys that part, as it was designed to do." ).

     ほかの見方(みかた)では,腐食は林檎に所属(ふしょくは りんごに しょぞく)しません( "On the other hand the rot does not belong to the apple." ).初めから腐る(はじめから くさる)つもりの林檎などありません( "No apple was ever meant to go rotten." ).あらゆる腐食は林檎の一部分を変質(いちぶぶんを へんしつ)させるもの,林檎を腐敗(りんごを ふはい)させるもの,林檎の寄生物(りんごの きせいぶつ)であり,林檎を悪(わる)いものに変質(へんしつ)させ,結果的(けっかてき)に林檎とはまったく異質(いしつ)なものに変(か)えてしまうものです( "All rot is a transformation of some apple, a corruption and parasite of apple, transforming it for the worse, resulting in something quite different from apple, …" ).それは気の確かな者(きの たしかな もの)なら食(た)べたいとか,林檎と少しも変わらない(りんごと すこしも かわらない)じゃないかなどという思い(おもい)にならないものです( "… something which nobody in his right mind would dream of eating or of saying that it was no different from apple." ).同じ(おなじ)ように,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はカトリック教会(かとりっく きょうかい)に所属(しょぞく)しません( "Likewise Conciliarism does not belong to the Catholic Church, …" ).それはカトリック的(てき)ななにかを腐敗(ふはい)させるもの,カトリック的なものによりかかる寄生物(きせいぶつ)です( "… it is a corruption of something Catholic and is a parasite on whatever is Catholic." ).それはカトリック教会(の人間的な部分〈にんげんてきな ぶぶん〉)を悪いものに変質(わるいものに へんしつ)させ( "It transforms (a human part of) the Catholic Church for the worse, …" ),結果(けっか)としてその部分(ぶぶん)を本質的(ほんしつてき)にカトリック的でない何か(かとりっく てき でない なにか)に変えて(かえて)しまいます( "… resulting in something essentially non-Catholic …" ).気の確かなカトリック信徒(きの たしかな かとりっく しんと)ならだれ一人(ひとり)として,それをカトリック的だと称(しょう)したり自らの信仰(みずからの しんこう)を犠牲(ぎせい)にして,それと付き合い(つきあい)たいなどという思(おも)いにならないものです( "… which no Catholic in his right mind would call Catholic or want to associate with, on pain of losing his faith." ).

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),公会議主義は腐食(こうかいぎ しゅぎは ふしょく)で( "Conciliarism is rot, …" ),「公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)」は一つの神聖的・人間的教会(ひとつの しんせいてき・にんげんてき きょうかい)( "the one divine-human Church" )であり,その人間的側面の一部(にんげんてき そくめんの いちぶ)が腐敗した状態(ふはいした じょうたい)にあるものです( "… and the “Conciliar church” is the one divine-human Church being rotted in one or other of its human aspects." ).もちろんカトリック教会(かとりっく きょうかい)は末世まで続く(まっせまで つづく)(訳注後記)でしょう(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章20節)( "Of course the Catholic Church will last to the end of the world (Mt. XXVIII, 20), …" ).だが,「公会議派教会」は昔(むかし)からあった数多い寄生教会(かず おおい きせい きょうかい)( "parasite churches" )の一つ(ひとつ)にしかすぎません( "… while the “Conciliar church” is merely one in a long line of parasite churches down the ages, …" ).それは,自ら(みずから)が腐敗(ふかい)させるものによりかかって生き(いき),自らよりかかって生きているものを腐敗させます( "… living on what they rot and rotting what they live on. " ).あらゆるリベラル派の人々(りべらるはの ひとびと),自ら混乱し他人を混乱させる人々に天罰を!(みずから こんらん し たにんを こんらん させる ひとびとに てんばつを!)( "A plague on all liberals, confused and confusing ! " )

     キリエ・エレイソン.

     教会は神と人を分かち,かつ結びつける
     (きょうかいは かみと ひとを わかち,かつ むすび つける)
     ( "The Church does parts from God and man
      combine." )

     人は腐敗するが,神が腐敗することはない
     (ひとは ふはいする が,かみが ふはいする ことはない)
     ( "The human can be rotted, not the divine." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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第6パラグラフの訳注:
「…カトリック教会は末世まで続く…」の「末世(まっせ)」について

「末世(まっせ)」( "the end of the world" )の意味=
・道義が衰え乱れた世の中(どうぎが おとろえ みだれた よのなか).

「道義(どうぎ)」=
・人としてふみ行うべき道(ひと として ふみ おこなう べき みち).道徳(どうとく).

(国語〈日本語〉辞書「大辞林」より)