2014年6月6日金曜日

359 教会の無謬性 V 5/31

エレイソン・コメンツ 第359回 (2014年5月31日) 

     リベラリズム(りべらりずむ)は神に戦いを挑み(かみに たたかいを いどみ)( "Liberalism is war on God, …" ),真実を崩壊(しんじつを ほうかい)させるものです( "… and it is the dissolution of truth." ).リベラリズムが駄目(だめ)にしてしまった今日の教会内(こんにちの きょうかい ない)で( "Within today’s Church crippled by liberalism, …" ),教皇空位論(きょうこう くうい ろん)は一つの反作用(ひとつの はんさよう)として理解(りかい)できます( "… sedevacantism is an understandable reaction, …" ).だが,この理論(りろん)は真実に比(くら)べ権威を重視(けんいを じゅうし)しすぎています( "… but it still credits authority with too much power over truth." ).現代の世界(げんだいの せかい)では自然的真実が見失われ(しぜんてき しんじつが みうしなわれ)ています( "The modern world has lost natural truth, …" ).まして超自然的真実(ちょうしぜん てき しんじつ)はいうに及び(および)ません( "… let alone supernatural truth, …" ).そこに問題の核心(もんだいの かくしん)があります( "… and here is the heart of the problem." ).

     話を進める便宜上(はなしを すすめる べんぎ じょう),教皇(きょうこう)のあらゆる教え(おしえ)を三つに分類して考えて(みっつに ぶんるいして かんがえて)みましょう( "For our purposes we might divide all papal teaching into three parts." ).第1(だいいち)に,教皇が教皇として,全カトリック教徒(ぜん かとりっく きょうと)を固く結びつける(かたく むすび つける)ため信仰や道徳(しんこうや どうとく)について教える場合(おしえる ばあい)( "Firstly, if the Pope teaches as Pope, on Faith or morals, definitively and so as to bind all Catholics, …" ),彼の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)( "Extraordinary Magisterium" =以下EMと省略〈しょうりゃく〉)は必然的に無謬(ひつぜんてきに むびゅう)です( "… then we have his Extraordinary Magisterium (EM for short), necessarily infallible." ).第2(だいに)に,もし教皇が必ず(かならず)しも4条件(よん じょうけん)すべてに従(したが)わなくても,教会がいついかなる場合(ばあい)でも信徒に信じるよう教えて(しんとに しんじるよう おしえて)きたやりかたに従(したが)って教えるなら( "Secondly, if he does not engage all four conditions but teaches in line with what the Church has always and everywhere taught and imposed on Catholics to believe, …" ),いわゆる教会の通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)( “Ordinary Universal Magisterium” =以下OUMと省略)に則(のっと)っていることになり,彼はやはり無謬(むびゅう)です( "… then he is partaking in what is called the Church’s “Ordinary Universal Magisterium” (OUM for short), also infallible." ).第3(だいさん)に教皇のこれ以外(いがい)の教えについて考(かんが)えてみます( "Thirdly we have the rest of his teaching, …" ).もし彼が伝統に外れて(でんとうに はずれて)教えるのであれば( "…which, if it is out of line with Tradition, …" ),その教えは誤りから免れ(あやまりから まぬがれ)ないだけでなく偽物(にせもの)です( "… is not only fallible but also false." ).

     これで明確(めいかく)なのは( "By now it should be clear that …" ),EMとOUMは山を覆う雪と山の関係と同じだということです( "… the EM is to the OUM as snow-cap is to mountain." ).雪は山頂を形作っている(ゆきは さんちょうを かたちづくって いる)のではなく( "The snow-cap does not make the summit of the mountain, …" ),ただ単に山頂をより目立たせている(ただ たんに さんちょうを より めだたせて いる)だけです( "… it merely makes it more visible." ).EMとOUMは召使と主人(めしつかいと しゅじん)のようなものです( "EM is to OUM as servant to master." ).EMはOUMに属(ぞく)するものと属さないものをはっきりさせるためOUMに仕えるべく存在(つかえる べく そんざい)しています( "It exists to serve the OUM by making clear once and for all what does or does not belong to the OUM." ).だが山の残りの部分を目立たせる(やまの のこりの ぶぶんを めだたせる)のは何(なに)なのか( "But what makes the rest of the mountain visible, …" ),言って(いって)みれば,それが私たちの主イエズス・キリストとその使徒たち(しゅ いえずす・きりすとと その しとたち),すなわち,伝統(でんとう)にまで遡る(さかのぼる)ものだからです( "… is its being traceable back to Our Lord and his Apostles, in other words, Tradition." ).EMをどのように定義(ていぎ)するにしても,結局(けっきょく)はそれが伝統の一部(でんとうの いちぶ)だと四苦八苦して示す(しくはっく して しめす)ことになるのはそのためです( "That is why every EM definition is at pains to show that what is being defined was always previously part of Tradition." ).伝統は雪で覆われる以前の山(ゆきで おおわれる いぜんの やま)なのです( "It was mountain before it was covered in snow. " ). もうひとつ明確なのは( "By now it should also be clear that …" ),教皇がなにを教えるべきかを指示(しじ)するのは伝統(でんとう)であり( "… Tradition tells the Popes what to teach, …" ),その逆(ぎゃく)ではないということです( "… and not the other way round." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)はこの前提に基づいて(ぜんていに もとづいて)伝統運動(うんどう)( "the Traditional movement" )を創設(そうせつ)されました( "This is the basis on which Archbishop Lefebvre founded the Traditional movement, …" ).だが,失礼(しつれい)ながら,リベラル派(りべらる は)も教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)もこの前提を理解(りかい)していません( "… yet it is this same basis which, with all due respect, liberals and sedevacantists fail to grasp." ).聖ヨハネの福音書( "the Gospel of St John" )で,私たちの主イエズス・キリスト(しゅ いえずす・きりすと)が,人間(にんげん)として,自分の教え(じぶんの おしえ)は自分自身(じしん)でなく自分の父(ちち)に根差して(ねざして)いると何度も明言(なんども めいげん)されていることに注目(ちゅうもく)してください( "Just see in the Gospel of St John how often Our Lord himself, as man, declares that what he is teaching comes not from himself but from his Father, …" ).たとえば,主は「私の教理(わたしの きょうり)は私のものでなく,私を遣(つか)わされたお方(かた)のものである」(第7章16節)( "… for instance: “My doctrine is not mine but his that sent me” (VII, 16), …" )とか,私は自ら話す(みずから はなす)のではない.父が私を遣わされ,私に命令(めいれい)をくださり,私がなにを言(い)い,なにを話(はな)すか指示(しじ)される」(第12章49節)と述(の)べておられます( "… or, “I have not spoken from out of myself; but the Father who sent me, he gave me commandment, what I should say, and what I should speak” (XII, 49)." ).もちろん,伝統がなんであるかを教会や世界に向けて話す(きょうかいや せかいに むけて はなす)のに,現世(げんせ)で教皇ほど権限を持つ者(きょうこうほど けんげん をもつもの)はほかにいません( "Of course nobody on earth is more authorized than the Pope to tell Church and world what is in Tradition, …" ).しかし,教皇は伝統に含(ふく)まれないものが伝統の中(なか)にあると教会や世界に向かって述べることはできません( "… but he cannot tell Church or world that there is in Tradition what is not in it." ).伝統の中にあるものは客観的(きゃっかん てき)で( "What is in it is objective, …" ),今(いま)では2千年の歴史(に せんねんの れきし)をもっており( "… now 2,000 years old, …" ),教皇より上の存在(うえの そんざい)です( "… it is above the Pope …" ).それは,まさしく父の命令が,キリストが人間として教えることに制限を設けた(せいげんを もうけた)ように,教皇が教皇として教えうる(きょうこうが きょうこうとして おしえうる)ことに制限を設けています( "… and it sets limits to what a Pope can teach, just as the Father’s commandment set limits to what Christ as man would teach." ).

     それなのに,リベラル派や教皇空位論者たちは教皇がEMやOUMを外れて教え(はずれて おしえ)ても無謬(むびゅう)であると,どうして言い張れる(いい はれる)のでしょうか?( "Then how can liberals and sedevacantists alike claim, in effect, that the Pope is infallible even outside of both EM and OUM ? " ) それは,両者(りょうしゃ)がともに真実より権威を過大評価(しんじつより けんいを かだい ひょうか)し,教会の権威(きょうかいの けんい)は真実の召使でなく主人(しんじつの めしつかい でなく しゅじん)だと見(み)るからです( "Because both overrate authority in relation to truth, and so they see Church authority no longer as the servant but as the master of truth." ).どうしてなのでしょうか?( "And why is that ? " ) その理由(りゆう)は彼らがいずれも,プロテスタント主義(ぷろてすたんと しゅぎ)が真実を拒み(しんじつを こばみ),フランス革命以降(ふらんす かくめい いこう)のリベラリズムが客観的真実(きゃっかんてき しんじつ)を壊(こわ)してきた近代世界の子供(きんだい せかいの こども)たちだからです( "… Because they are both children of the modern world where Protestantism defied the Truth and liberalism ever since the French Revolution has been dissolving objective truth." ).もし,客観的真実などもう存在(そんざい)しないのであれば( "And if there is no longer any objective truth, …" ),むろん権力者(けんりょくしゃ)たちはなにをしても意(い)のままでしょう( "… then of course authority can say whatever it can get away with, …" ).それは今私(いま わたくし)たちが身の回り(みの まわり)に眺めている状態(ながめて いる じょうたい)です( "… which is what we observe all around us, …" ).そして,教皇パウロ6世やフェレー司教(きょうこう ぱうろ ろくせいや ふぇれー しきょう)のような人たち( "a Paul VI or a Bishop Fellay" )がますます気まぐれで暴君的(きまぐれで ぼうくんてき)になるのを止(と)めさせるものは何一つ残って(なに ひとつ のこって)いません( "… and there is nothing left to stop a Paul VI or a Bishop Fellay from becoming more and more arbitrary and tyrannical in the process." ).

     神の御母(聖母マリア)よ,あなたの御子イエズス・キリスト(おんこ いえずす・きりすと)が人間(にんげん)として「死ぬまで,しかも十字架上の死に至るまで(しぬまで,しかも じゅうじかじょうの しに いたるまで)」従(したが)われた御父の与えし(おんちちの あたえし)超自然,自然の双方における,普遍の(ふへんの)(=カトリックの)真実と命令(ちょうしぜん,しぜんの そうほうにおける ふへんの〈=かとりっくの〉しんじつと めいれい)を,どうぞ私が愛し(あいし),理解し(りかいし),守れ(まもれ)ますよう,(神の恩寵を願い求める私の祈願〈かみの おんちょうを ねがい もとめる わたくしの きがん〉を)神にとりなし私のため必要な恩寵を神より獲得して下さい(かみに とりなし ひつような おんちょうを わたくしの ため かみより かくとくして ください)(訳注後記).( "Mother of God, obtain for me to love, discern and defend that Truth and order coming from the Father, both supernatural and natural, to which your own Son was as man subject, “unto death, even to the death of the Cross”." ).

     キリエ・エレイソン.

     客観的真実の大きな喪失
     (きゃかんてき しんじつの おおきな そうしつ)
     ( "The loss of objective truth in depth explains" )

     それが教会の教皇空位論者やリベラル派の苦悩の根源
     (それが きょうかいの きょうこう くうい ろんじゃや       
      りべらるはの くのうの こんげん)
     ( "The Church’s sedevac and liberal pains. " )


     リチャード・ウィリアムソン司教






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第6パラグラフの訳注:
「十字架の死にいたるまで」について

・当時(とうじ),「十字架に架けられた者は呪われる(じゅうじかに かけられた ものは のろわれる)」と言われていた.

・人類の罪を贖うための犠性〈じんるいの つみを あがなう ための いけにえ〉として,真の神の御独り子イエズス・キリストは十字架刑を受けられた.

・人類の罪を贖う(じんるいの つみを あがなう)ことができるのは唯一(ゆいいつ),
神の御独り子(かみの おん ひとりご)のみだからである.




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訳注を続けます.

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