2014年5月29日木曜日

358 教会の無謬性 IV 5/24

エレイソン・コメンツ 第358回 (2014年5月24日) 

     1870年の教皇の無謬性に関する定義(せん はっぴゃく ななじゅう ねんの きょうこうの むびゅうせいに かんする ていぎ)について,ニューマン枢機卿(にゅうまん すうききょう)はいみじくも「これは教皇をありのまま認める(みとめる)ものである」と評(ひょう)しておられます( "To Cardinal Newman is attributed a wise comment on the 1870 definition of Papal infallibility: “It left him as it found him." ).まさしく,この定義は教皇の誤りなく教え導く権限(きょうこうの あやまりなく おしえ みちびく けんげん)になんら変更を加える(へんこうを くわえる)ものではありません( "Indeed that definition will have changed nothing in the Pope’s power to teach infallibly, …" ).なぜなら,教皇の教導権(きょうこうの きょうどうけん)は神の真の教会(かみの まことの きょうかい)がその最高教導権(さいこう きょうどうけん)を行使する限り(こうし する かぎり)過ち(あやまち)をしないよう神が守って(かみが まもって)くださるという教会の本質に根差す(きょうかいの ほんしつに ねざす)ものだからです( "… because it belongs to the nature of God’s true Church that God will protect it from error, at least when its supreme teaching authority is engaged." ).そうした教会のあらゆる教導権行使(きょうどうけん こうし)は今(いま)では,教会の「特別教導権(とくべつ きょうどうけん)」( “Extraordinary Magisterium” )と称(しょう)されていますが( "All such engagement is now called the Church’s “Extraordinary Magisterium”, …" ),1870年当時(せん はっぴゃく ななじゅう ねん とうじ),それは「通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)」( “Ordinary Universal Magisterium” )と同(おな)じように,新しい名称(あたらしい めいしょう)でした( "… but only the name can have been new in 1870, just like the name of the “Ordinary Universal Magisterium”." ).もし,第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)が通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)も無謬(むびゅう)であると宣言(せんげん)したとしたら( "If Vatican I declared the latter also to be infallible, …" ),それは教会が始まった(きょうかいが はじまった)ときからそうだったに違い(ちがい)ありません( "… it must also have been so from the beginning of the Church." ).特別教導権や通常普遍教導権の実態(じったい)がどういうものなのかを理解(りかい)するため,教会の始まりの時期(きょうかいの はじまりの じき)に立ち戻って考えて(たちもどって かんがえて)みましょう( "To discern the realities behind the names, let us go back to that beginning." ).

     私たちの主(イエズス・キリスト)(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)は天国に昇られる前(てんごくに のぼられる まえ)に,天与の無謬性をもって(てんよの むびゅうせいを もって),使徒たち(しと たち)に世の終わり(よの おわり)まで(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章19-20を参照〈さんしょう〉)教会にそのまま遺される(きょうかいに そのまま のこされる)ことになる一連の教理(いちれんの きょうり)を委託(=委任・預託)されました(いたく〈=いにん・よたく〉されました)( "By the time Our Lord ascended to Heaven, he had with his divine infallibility entrusted to his Apostles a body of doctrine which they were to hand down intact to his Church to the end of the world (Mt. XXVIII, 19-20), …" )(訳注後記1・その1).その教理(きょうり)はあらゆる人々(ひとびと)が天罰により(地獄に)堕落する苦痛(てんばつ により じごくに だらくする くつう)(=真の神〈まことのかみ〉により地獄に落とされ霊魂を滅ぼされる〈じごくに おとされ れいこんを ほろぼされる〉)を恐れ信じる(おそれしんじる)というものでした(新約聖書・マルコ聖福音書:第16章15-16節を参照)( "… doctrine which all souls were to believe on pain of damnation (Mk. XVI, 15-16). " )(訳注後記1・その2).神は偽りを信じようとしない人間(いつわりを しんじようと しない にんげん)を永遠(えいえん)に地獄に落ちたまま(じごくに おちたまま)にできないので,この信仰の遺産(しんこうの いさん),すなわち公的啓示(こうてき けいじ)( “Deposit of the Faith, or public Revelation” )を善意の人々(ぜんいの ひとびと)にとって理解(りかい)でき,近(ちか)づきやすいものにしなければならなかったのです( "This Deposit of the Faith, or public Revelation, God was bound to make recognisable and accessible to souls of good will, because obviously the true God could never condemn eternally a soul for refusing to believe in an untruth. " ).この遺産(いさん)は主(イエズス・キリスト)の最後の使徒が亡くなる(しゅ いえずす・きりすとの さいごの しとが なくなる)まで無謬かつ完全無欠(むびゅう かつ かんぜんむけつ)でした( "By the death of the last Apostle this Deposit was not only infallible but also complete." ). では,使徒(しと)たちがいた頃(ころ)から今日(こんにち)まで,神はあらゆる聖職者(せいしょくしゃ)たちが間違った(まちがった)ことを教(おし)えないよう見守って(みまもって)きたのでしょうか?( "Then from the Apostles onwards would God protect all churchmen from ever teaching error ? " ) 決(けっ)してそうではありません( "By no means." ).主は私たちに「偽(にせ)預言者」(新約聖書・マテオ聖福音書:第7章15節を参照)に気をつけるよう警告(きをつける よう けいこく)されましたし( "Our Lord warned us to beware of “false prophets” (Mt. VII, 15), …" )(訳注後記1・その3),同(おな)じように聖パウロも「飢え狂う狼(うえ くるう おおかみ)」に注意するよう警告(ちゅうい するよう けいこく)されました(新約聖書・使徒行録:第20章29-30節を参照)( "… and St Paul likewise warned against “ravening wolves” (Acts, XX, 29-30)." )(訳注後記1・その4).だが,神は誤りを犯す牧者たち(あやまりを おかす ぼくしゃたち)が羊たち(ひつじたち)にもたらすそのような危険(きけん)をどうしてお認(みと)めになるのでしょうか?( "But how could God permit such a danger to his sheep from erring pastors ? " ) その理由(りゆう)は,神が天国に来てほしいと望む(かみが てんごくに きてほしいと のぞむ)のはロボット牧者たちやロボット羊たち(ろぼっと ぼくしゃ たちや ろぼっと ひつじたち)ではなく( "Because he wants for his Heaven neither robot pastors nor robot sheep, …" ),真実を教え,真実に従う(しんじつを おしえ,しんじつに したがう)ために神から授けられた心や自由意志(かみから さずけられた こころや じゆう いし)を行使する牧者や羊(こうしする ぼくしゃたち や ひつじたち)だからです( "… but pastors and sheep that will both have used the mind and free-will he gave them to teach or follow the Truth." ).もし多くの牧者(おおくの ぼくしゃ)たちが裏切る(うらぎる)なら( "And if a mass of pastors betray, …" ),神はいつでも,例(たと)えば,聖アタナシウス(せい あたなしうす)やルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)のような人物(じんぶつ)を起こし遣わし(おこし つかわし)( "… he can always raise a St Athanasius or an Archbishop Lefebvre, for instance, …" ),人々(ひとびと)がいつでも無謬の真実に近づけるよう(むびゅうの しんじつに ちかづける よう)になさいます( "… to ensure that his infallible Truth remains always accessible to souls." ).(訳注・「牧者(ぼくしゃ)たち "pastors" 」=歴代教皇(れきだい きょうこう)〈および世界各地の歴代司教〈せかいかくちの れきだい しきょう〉,「羊(ひつじ)たち」=世界の司祭〈せかいの しさい〉たち)(訳注後記1・引用聖書の掲載〈いんよう せいしょの けいさい〉)(訳注後記2・「真実(しんじつ)」について)

     それでも,主(イエズス・キリスト)が遺された信仰の遺産(しゅ いえずす・きりすと が のこされた しんこうの いさん)は絶え間(たえま)なく飢え狂う狼の危険(うえ くるう おおかみの きけん)に晒(さら)されており( "Nevertheless that Deposit will be unceasingly exposed to ravening wolves, …" ),それに間違いを付け加えられたり(まちがいを つけくわえられ たり),そこから真実を減らされたり(しんじつを へらされ たり)します( "… adding error to it or subtracting truth from it." ).では,神はどうやってそれを守り続けられるのでしょうか?( "So how will God still protect it ? " ) 教皇がその教導権に属するものと属しないもの(その きょうどうけんに ぞくするものと ぞくさないもの)を明確にする(めいかくに する)ため,教導権の定める4条件(きょうどうけんの さだめる よんじょうけん)すべてに従う(したがう)ことを保証する(ほしょうする)ことにより( "By guaranteeing that whenever a Pope engages all four conditions of his full teaching authority to define what does and does not belong to it, …" ),彼は間違いを犯さないよう神から守られ(かれは まちがいを おかさないよう かみ から まもられ)ます ―( "…he will be divinely protected from error – …" ).これは今日,特別教導権と称される(こんにち とくべつ きょうどうけんと しょうされる)ものです.(この特別教導権〈とくべつきょうどうけん〉は通常普遍教導権を前提〈つうじょう ふへん きょうどうけんを ぜんてい〉とするものであり,それ自体(じたい)が真実や無謬性を増大(しんじつや むびゅうせいを ぞうだい)することはなく,ただ私たち人類により大きな確実性をもたらすだけである点に注目してください.)( "… what we call today the “Extraordinary Magisterium”. (Note how this Extraordinary Magisterium presupposes the infallible Ordinary Magisterium, and can add to it no truth or infallibility, but only a greater certainty for us human beings.) " )しかし,教皇(きょうこう)が4条件(よん じょうけん)のいずれかに従わない(したがわない)としても( "But if the Pope engages any less than all four conditions, …" ),そのときには彼の教え(かれの おしえ)は主(しゅ)(イエズス・キリスト)の遺された遺産(のこされた いさん),すなわち今日(こんにち),通常普遍教導権(つうじょう ふつう きょうどうけん)と称(しょう)されるものに合致する限り無謬(がっち するかぎり むびゅう)でしょう( "… then his teaching will be infallible if it corresponds to the Deposit handed down from Our Lord – today called the “Universal Ordinary Magisterium”, …" ).だが,その教えが遺産(いさん)すなわち伝統の範囲内(でんとうの はんい ない)にない場合(ばあい),それは無謬(むびゅう)でなくなります( "but fallible if it is not within that Deposit handed down, or Tradition. " ).伝統から外れると(でんとうから はずれると),教皇の教え(きょうこうの おしえ)は真実(しんじつ)のときもあるでしょうし誤り(あやまり)のときもあるでしょう( "Outside of Tradition, his teaching may be true or false." ).

     したがって,私たちの主(イエズス・キリスト)(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が伝統を権威づけ(でんとうを けんいづけ),その伝統が教導権を権威づける(でんとうが きょうどうけんを けんい づける)わけですから,悪循環(あくじゅんかん)などありません(先週(せんしゅう)のエレイソン・コメンツ〈エレイソン・コメンツ〉357号〈さんびゃく ごじゅう なな ごう〉をご覧〈ごらん〉ください)( "Thus there is no vicious circle (see EC 357 of last week) because Our Lord authorised Tradition and Tradition authorises the Magisterium." ).確か(たしか)に,なにが伝統に属するか(なにが でんとうに ぞくするか)を毅然と宣言(きぜんと せんげん)するのは教皇の職務(きょうこうの しょくむ)です( "Indeed it is the function of the Pope to declare with authority what belongs to Tradition, …" ).そして職務を果たすに当たり(しょくむを はたすに あたり),その権限に完全に従う場合(その けんげんに かんぜんに したがう ばあい),教皇は誤りを犯さない(きょうこうは あやまりを おかさない)よう神から見守(みまも)られます( "… and he will be divinely protected from error if he engages his full authority to do so, …" ).だが,教皇は伝統から外れた宣言(でんとうから はずれた せんげん)を出す(だす)ことができます( "… but he can make declarations outside of Tradition, …" ).ただし,その場合(ばあい),彼が神に見守られる(かれが かみに みまもられる)ことはありません( "in which case he will have no such protection." ).ところで,宗教の自由(しゅうきょうの じゆう)やエキュメニズム(えきゅめにずむ)といった第二バチカン公会議の目新しさ(だいに ばちかん こうかいぎの まあたらしさ)は教会伝統(きょうかい でんとう)から大きくかけ離れた(おおきく かけはなれた)ものです( "Now the novelties of Vatican II such as religious liberty and ecumenism are way outside of Church Tradition." ).したがって,それは教皇の通常教導権,特別教導権(きょうこうの つうじょう きょうどうけん,とくべつ きょうどうけん)のいずれにも入らない(はいらない)ものです( "So they come under neither the Pope’s Ordinary nor his Extraordinary Magisterium, …" ).そして公会議派教皇たち全員(こうかいぎは きょうこうたち ぜんいん)の言う(いう)ばかげたことのために,カトリック信徒の一人(かとりっく しんとの ひとり)たりともリベラル派や教皇空位論者(りべらるは や きょうこう くうい ろんじゃ)になる必要(ひつよう)などまったくありません(訳注・=公会議派歴代教皇の全員(こうかいぎは れきだい きょうこうの ぜんいん)が,どのカトリック教徒〈かとりっくきょうと〉に対してもリベラル派か教皇空位論者のいずれかになるよう義務付け得ない(ぎむづけえない)(=強制〈きょうせい〉する)ことはできない).なぜなら,神たる主イエズス・キリスト(かみ たる しゅ いえずす・きりすと)からの権威(けんい)によって立っていないから.)( "… all the nonsense of all the Conciliar Popes oblige no Catholic to be either a liberal or a sedevacantist." ).

     キリエ・エレイソン.

     伝統は教皇たちを推し量る尺度
     (でんとうは きょうこうたちを おしはかる しゃくど)
      ( "Tradition is of Popes the measuring-rod" )

     伝統こそが神のみから
     初めに授けられたものだから
      (でんとう こそが かみ のみ から
     はじめに さずけられた もの だから)
     ( "Because it came at first only from God." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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◇訳注1
聖書の引用箇所(いんよう かしょ)の掲載
(注・全訳注の最後に追加掲載いたします)

◇訳注2
「真実」について

I. 通常の人間社会(日本など自由主義国における場合)
"in human community, society":

・「真実(しんじつ)」=「真理(しんり)」→「真の理(まことの ことわり)」
→「事実"fact"」(人の目に見える事実によって判断する.)↓

・「真(まこと)」=
①うそやいつわりでないこと.
②いつわりのない心.人に対してよかれと思う心〈こころ〉.まごころ.
誠意.真情(a いつわりのない心.まごころ.b 真の状態〈じょうたい〉.
実情〈じつじょう〉).

・「理(ことわり)」=もっともな事,道理,条理.

→「もっともな」=道理(どうり)合(あ)っているさま.
当然(とうぜん)で」あるさま.

→「どうり(道理)」
="reason"
①物事(ものごと)がそうあるべきすじみち.ことわり.わけ.
②人の行うべき正しい道(ひとの おこなう べき ただしい みち).

→「じょうり(条理)」
="logic"
①社会における物事の筋道(しゃかいに おける ものごとの すじみち).
道理(どうり).
②《法》法の欠缺(ほうの けんけつ)を補う(おぎなう)解釈上および裁判上の基準(かいしゃく じょう および さいばん じょうの きじゅん).社会通念・公序良俗(しゃかい つうねん・こうじょ りょうぞく).→「情理(じょうり)」

→「じょうり(情理)」(=人間らしい感情と理屈・考え方(かんじょうと
りくつ・かんがえかた)
="emotion and reason, heart and mind"
①人情と道理(にんじょうと どうり).人間らしい感情(にんげん らしい
かんじょう)と,ものごとのあるべき筋道(すじみち).
②物事の筋道(ものごとの すじみち).道理.
〔同音語の「条理」は物事の筋道のことであるが,
それに対して「情理」は人情と道理のことをいう.〕

→「公序良俗」 =
"public order and morals"

→「公序(こうじょ)」=
"public order"
①人々が守るべき社会の秩序(ひとびとが まもるべき しゃかいの
ちつじょ).公の秩序(おおやけの ちつじょ).

→「良俗(りょうぞく)」=
"(public) morals"
よい風俗.よい慣習.(風俗=ならわし・しきたり・身なり・よそおい・
身のこなし)"

→「社会通念(しゃかい つうねん)」=
"social conventions, common sense"
社会一般(しゃかい いっぱん)に
行われている考え方(おこなわれているかんがえかた)"

(国語(日本語)辞典「大辞林」から引用)


II. 神の真理=「至福(しふく)」(=山上の説教・山上の垂訓)(マテオ聖福音書:第5章1-12節,13節-第7章28節)
"Christ's Sermon upon the Mount - The eight beatitudes."
- 神の掟(モーゼの十戒〈「律法〈りっぽう〉」から
救世主・神の御独り子イエズス・キリストによる神の真の掟〈かみの まことの おきて〉)の場合
"St. Matthew, V, 1-12, 13-VII, 28":

『たとえ騙されても,他人を騙さない(だまされても,ひとを だまさない)』
→「他人がどうであろうと,自分は善(ぜん)にとどまる(悪をもって悪に返さない)」
→「全能の創造主たる神は人の全ての業(ひとのすべてのわざ)をご覧(らん)になり
報(むく)いられる(神の摂理〈せつり〉・自然の摂理」
『真の信仰を持つ(まことの しんこうを もつ)ということは,
自分の真の誇り(じぶんの まことの ほこり)を
黙って神に委ねる(だまって かみに ゆだねる)こと.
神は真実である.神が必ず報復(かならず ほうふく)される.』
→時の経過にかかわらず,真実は必ず明らかになる.



『〈汝の隣人を愛し,汝の敵を憎め〉
といわれたのをあなたたちは聞いている.
しかし私(イエズス)はあなたたちに言う,

あなたたちの敵を愛し(てきを あいし),
あなたたちを迫害する者(はくがいする もの)
のために祈れ(いのれ),

それは,天(てん)にまします
あなたたちの父の子(ちちのこ) となるためである, 

天の父(てんの ちち)は,
悪人の上(あくにんの うえ)にも
善人の上(ぜんにんのうえ)にも
日を昇らせ(ひを のぼらせ),

義者にも不義者にも(ぎしゃ にも ふぎしゃ にも)
雨を降らせ給う(あめを ふらせ たまう). 

…天の父が完全にまします如く(ごとく)に,
あなたたちも完全であれ.』
〔新約聖書・マテオ聖福音書:第5章43-45,48〕


『…イエズスはこう話された,
「天地の主なる父よ,あなたに感謝いたします.
あなたはこれらのこと(=真理)を
知恵ある人(ちえ ある ひと),賢い人(かしこい ひと)に
隠し(かくし),
小さな人々に現(あらわ)されました.
父よ,そうです. あなたはそう望(のぞ)まれました.

すべてのものは, 父から私にまかされました.
子が何者かを知っているのは父のほかにはなく,
父が何者かを知っているのは,
子と子が示しを与えた人のほかにはありません.

労苦する人(ろうくするひと),
重荷を負う人(おもにを おうひと)は,
すべて私のもとに来るがよい.
私はあなたを休(やす)ませよう.
私は心の柔和(こころの にゅうわ)な
へりくだった者であるから,
くびきをとって私に習(なら)え.
そうすれば霊魂は休む(れいこんは やすむ).
私のくびきは快く(こころよく),
私の荷は軽い(には かるい)」.』

(注釈)

・「小さな人々(ちいさな ひとびと)」とは,神を見る(かみを みる)であろうと 約束(やくそく)された素直な清い心(すなおな きよい こころ)の人である.

・神を完全に知る(かみを かんぜんに しる)には,神と同じ(かみと おなじ) 「無限の知恵(むげんの ちえ)」がいる.
すなわち,イエズスは神の真(まこと)の子であると宣言したことになる.

〔マテオ聖福音書:第11章25-30節〕


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訳注1
新約聖書の引用:

その1
マテオ聖福音書:第28章19-20節(28章全章を掲載)

『さて,安息日を終えて,週のはじめの日の夜明けごろ,マグダラのマリアと他のマリアは墓を訪(おとず)れた.
すると大地震(だいじしん)が起こり,主の天使が天から下(くだ)って石をわきに転(ころ)ばし,その上に座(すわ)った.その姿は稲妻(いなずま)のように輝(かがや)き,その服(ふく)は雪(ゆき)のように白(しろ)かった.番兵(ばんぺい)たちは恐(おそ)れおののいて死人(しにん)のようになった,
そのとき天使は婦人たちに向かって言われた,「恐(おそ)れるな.私はあなたたちが,十字架につけられたイエズスをさがしているのを知っている.だがもうここにはましまさぬ.おことばどおり復活された.イエズスが納(おさ)められたその場所を見に来るがよい.それからすぐ弟子たちに知らせに行き,〈イエズスは死者の中からよみがえられた.みなに先立ってガリラヤに行かれるからそこで会える〉と言え.これが私の告げることのすべてだ」.
婦人たちは恐れと同時に非常な喜びを感じ,すぐ墓を去って弟子たちに知らせに走った.
するとイエズスは彼女たちと出会い,「あなたたちにあいさつする」と言われた.女たちは進み出て,足を抱(いだ)いてひれ伏(ふ)した.
イエズスは言われた,「恐れることはない.兄弟たちにガリラヤに行けと知らせに行け.向こうで私に会えるだろう」.

婦人たちが去ると,数人の番兵が町に行って,起こったことをすべて司祭長たちに告げた.
司祭長たちは長老と集まって協議し,兵卒たちに多くの金を与えて言い含めた,「〈あの男の弟子たちが夜中に来て,われわれの眠っている間に屍(しかばね)を盗(ぬす)んでいった〉といえ.これがもし総督(そうとく)の耳(みみ)にはいっても,われわれがなだめておまえたちには迷惑をかけぬ」.
兵卒たちは金をもらって,言い含められたとおりにしたので,この話はユダヤ人の間に言い広められ今日に至っている.

ガリラヤに行った十一人の弟子は,イエズスが命令された山に登(のぼ)り,イエズスに会ってひれ伏した.けれども中には疑う者もあった.
イエズスは彼らに近づいて言われた,「私には天と地のいっさいの権威が与えられている.
行け,諸国の民に教え,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授(さず)け,(19節)
私が命じたことをすべて守(まも)るように教えよ.私は,世の終わりまで常(つね)におまえたちとともにいる(20節)」.』


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続きを追加いたします.

訳注1
その2・マテオ聖福音書:第28章19-20
その3・マルコ聖福音書:第16章15-16節
その4・新約聖書・マテオ聖福音書:第7章15節
その5・新約聖書・使徒行録:第20章29-30節

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