エレイソン・コメンツ 第356回 (2014年5月10日)
1972年に取り入れられた新たな叙階式(とりいれられた あらたな じょかいしき)(以下,「叙階式(新)」または「叙階(新)」と記(しる)す.)( "the new rite of Ordination of 1972" )で叙階(新)された司祭たちは場合によりそれ以前の正当な授品式(じゅひんしき)( "the old and certainly valid rite of Ordination" )でもう一度(いちど)品級(ひんきゅう)( "Ordination" )を受け直す(うけなおす)( "re-ordained" )べきでしょうか?( "Should priests ordained with the new rite of Ordination of 1972 be conditionally re-ordained with the old and certainly valid rite of Ordination ? " )(訳注後記1) 諸(カトリック)秘蹟の正当性(有効性)(せいとうせい〈ゆうこうせい〉)に関するカトリック教の原則(=教理)(げんそく〈=きょうり〉)は明確(めいかく)ですが,新教会(しん きょうかい)( "the Newchurch" )の諸々(もろもろ)のカトリック秘蹟に関わる祭儀(=儀式)( "the sacramental rites of the Newchurch" )は徐々に無効(じょじょに むこう)なものへ向(む)かうよう意図(いと)されているようです(2009年10月31日付のエレイソン・コメンツ第121回を参照)( "Catholic doctrine on the validity of sacraments is clear, but the sacramental rites of the Newchurch seem to have been designed to lead gradually to invalidity (See EC 121 of October 31, 2009.). " ).ここで問題なのは「徐々に」( "gradually" )という点です( "The « gradually » is the problem." ).この徐々にという過程(かてい)は具体的にどの程度の期間(ぐたいてきに どのていどの きかん)なのでしょうか?( "How far along was that gradual process in any given case ? " )おそらく確かなことは神のみぞ知る(かみのみぞ しる)です( "Perhaps God alone knows for sure. " ).それは別(べつ)にして,今回(こんかい)は明確なカトリック教の原則(げんそく)から始(はじ)めることにします( "But let us begin with the clear doctrine. " ).(訳注1・「1972年に取り入れられた新たな叙階式」の Ordination は「叙階(新)」と記し,1972年以前の Ordination は「授品(じゅひん)」,1972年以前の Consecration (=司教叙階 / 聖別)は「叙階(=聖別)(じょかい・せいべつ)〈旧〉」と記(しる)します.〈「叙階(旧)」は1972年以前において,ある司祭を「司教」に叙する際(じょする さい)に使われた用語(つかわれた ようご).〉)
普通カトリック教の秘蹟(ひせき)は5つの要素(いつつの ようそ)を含(ふく)みます( "One can say a Catholic sacrament involves five elements : …" ).このうちの4つ(よっつ),すなわち祭儀(=儀式)を執り行う〈さいぎ〈=ぎしき〉を とりおこなう〉(=執行〈しっこう〉する)カトリック司祭(かとりっくしさい)(=カトリック聖職者・祭主司祭)(かとりっく しさい・さいしゅ しさい)( "Minister" ),意向(いこう)( "Intention" ),内容(ないよう)( "Matter" ),形式(けいしき)( "Form" )は秘蹟を正当(有効)(せいとう・ゆうこう)なものにするためには必要不可欠(ひつよう ふかけつ)です( "… Minister, Intention, Matter and Form are essential for validity, …" ).残りの一つ(のこりの ひとつ),形式にかかわる儀式(祭儀)(けいしきに かかわる ぎしき〈さいぎ〉)( "the Rite surrounding the Form" )は,それが祭主司祭の意向( "Minister's Intention" )に直(ただ)ちに関係(かんけい)するのか徐々に(じょじょに)( "gradual" )関係するのかによって,秘蹟の正当性(有効性)(せいとうせい・ゆうこうせい)に重要な意味(じゅうような いみ)を持ち得ます(もちえます)( "… the Rite surrounding the Form can be important for validity by its sudden or gradual bearing on the Minister's Intention." ).諸々の司祭職(もろもろの しさいしょく)の授品(じゅひん)(=品級を授与(ひんきゅうを じゅよ)すること・品級に叙〈じょ〉すること)に当(あ)たっては( "For priestly Orders," ),その(品級の秘蹟を授与する祭儀(=儀式/ミサ聖祭・ "the Rite" )を執行する祭主司祭( "the Minister" )は正当(有効)に聖別された司教(せいべつされた しきょう)( "validly consecrated bishop" )でなければなりません( "For priestly Orders, the Minister has to be a validly consecrated bishop ; …" ).司祭職の授品(しさいしょくの じゅひん)をするに当たっての祭主司祭の意向( "the Intention" )とは授品式(じゅひんしき)において教会(きょうかい)が為すことを為す(なすことをなす)という(信仰においてキリストの聖体の神秘〈奥義〉にかかわる)(しんこうにおいて きりすとの せいたいの しんぴ〈おくぎ〉に かかわる)秘蹟(ひせき)としての(感情的〈かんじょうてき〉でなく)その司教の意向を意味(いみ)します( "… the Intention is his sacramental (not moral) intention, in ordaining, to do what the Church does ; …" ).品級の秘蹟の授与の内容(ないよう)( "the Matter" )は司教が品級を受ける男性(女性〈じょせい〉はキリストの司祭職として正当に品級を受けられません)の頭上に両手を添える(ずじょうに りょうてを そえる)(=按手する〈あんしゅする〉)ことです( "the Matter is his laying of both hands on the head of the man to be ordained (women cannot be validly ordained to the priesthood of Christ) ; …" ).授品式の形式( "the Form" )は重要な常套句(じょうとうく)すなわち祭儀で司祭職の授与を表明(ひょうめい)する一連の言葉(いちれんの ことば)です( "the Form is the crucial formula or series of words in the rite which express the conferring of the priesthood ; …" ).祭儀はその形式にまつわる他(ほか)のすべての言葉(ことば)であり,授品式典礼書(じゅひんしき てんれいしょ)( "the ceremonial rite of Ordination" )に規定(きてい)されています( "the Rite is all the other words surrounding that Form, and prescribed in the ceremonial rite of Ordination. " ).
新形式(しんけいしき)の叙階式(新)(じょかいしき〈しん〉)( "a new rite Ordination" )について言(い)えば,もし両手が頭上に添えられていれば,内容( "the Matter" )の点(てん)で問題(もんだい)はありません( "In a new rite Ordination, if both hands are laid on the head, the Matter is no problem." ).ラテン語での新形式(らてんご での しんけいしき)( "The new Form in Latin" )は,どちらかと言えばラテン語での旧形式(きゅうけいしき)より正当性(=有効性)に強(つよ)くこだわっています(「ut」の代わりに「et」が使われているため)が( "The new Form in Latin is, if anything, stronger for validity than the old Form in Latin (by the « et » instead of an « ut »), …" ),他の言語(ほかの げんご・たの げんご)による訳語(やくご)を点検(てんけん)し,その司祭職( "the priesthood" )の恩寵(おんちょう)を明確(めいかく)に表(あらわ)しているかどうか確かめる必要(たしかめる ひつよう)があります( "… but vernacular translations need to be checked to make sure that they clearly express the grace of the priesthood to be conferred." ).ほとんどの訳語がそれを明確に表しているのは確かです( "Most of them surely do." ).正当性(=有効性)について実際(じっさい)に問題が持ち上がる(もんだいが もちあがる)のは祭主司祭( "the Minister" )と意向( "the Intention" )についてです( "Where real problems of validity arise is with the Minister and the Intention, …" ).その理由は,カトリック教の意向( "Catholic Intention" )が非カトリック教の新形式儀式によって徐々に浸食(しんしょく)されるからです( "… because of the gradual erosion of Catholic Intention by the uncatholic new Rites." ).
意向( "the Intention" )(いこう)について言(い)えば,今日(こんにち),司祭を叙階(新)する司教(しさいを じょかいする しきょう)は誰しも今日の教会が為すことをよろしく為そう(こんにちの きょうかいが なすことを よろしく なそう)と意向しているのは確か(たしか)でしょうが,問題(もんだい)は彼がそのことを心の中(こころの なか)でどう考(かんが)えているかです( "For, as to the Intention, any bishop today ordaining a priest surely intends to do what today's Church does, well and good, but what is that in his mind ? " ).新教会の司祭(しんきょうかいの しさい)とはどのようなものなのでしょうか?( "What is a priest in the Newchurch ? " ) 聖体の秘蹟の内に真に実在されるキリスト(せいたいの ひせきの うちに まことに じつざいされる きりすと)によってかつてのカルワリオの丘の上(かるわりお の おかの うえ)で十字架刑に処せられた真の神の御独り子イエズス・キリストの死の犠牲(じゅうじかけいに しょせられた まことの かみの おんひとりご いえずす・きりすとの しの ぎせい)( "the Sacrifice of Calvary" )(=新約=神と人との間に結ばれた新しい契約)(かみと ひととの あいだに むすばれた あたらしい けいやく)の往年の更新(おうねんの こうしん)を説いてきた司祭(といてきた しさい)が,ゆっくりながらも着実(ちゃくじつ)に聖体(拝領の)ピクニック(せいたい はいりょうの ぴくにっく)の取りまとめ役(とりまとめ やく)に取って代わられ(とって かわられ)つつあるのではないでしょうか?( "Is not yesteryear's renewer of the Sacrifice of Calvary by the Real Presence being slowly but steadily replaced by today's co-ordinator of eucharistic picnics ? " ) 世界中の司教区(せかいじゅうの しきょうく)でこの変化(へんか)がどの程度進んで(どのていど すすんで)いるのでしょうか?( "How far along is this process in any given diocese of the world ? " ) 司教(しきょう)たちが教会が為す(きょうかいが なす)こととして,犠牲(ぎせい)のいけにえを捧げる者(ささげる もの)とピクニックを楽しむ者(たのしむ もの)のどちらを念頭に置いて(ねんとうに おいて)きたのでしょうか?( "Did this or that bishop have in mind a sacrificer or a picnicker as being what the Church does ? " ) 叙階(じょかい)(新)を与(あた)える司教の上辺の振る舞い(うわべのふるまい)は彼の意向を示す(かれの いこうを しめす)でしょうが,その真意は神のみぞ知る(しんいは かみのみぞ しる)です( "The ordaining bishop's outward behaviour will indicate his Intention, but God alone may know for sure. " ).新式ミサ聖祭祭儀(みさ せいさい さいぎ)( "new Rites of Mass" )の多く(おおく)はピクニックの方(ほう)へ傾(かたむ)いているのは確(たし)かで( "Certainly many new Rites of Mass incline towards the picnicker, …" ),形式(けいしき)にかかわる新式叙階式(しんしき じょかい しき)にはカトリック的な内容( "the Form" )が著しく減って(いちじるしく へって)きているため,叙階を施す司教(じょかいを ほどこす しきょう)のカトリック秘蹟としての意向(かとりっく ひせき としての いこう)( "the sacramental Intention" )を徐々に蝕んで(じょじょに むしばんで)います( "… and the new Rite of Ordination surrounding the Form can only help by its severely diminished catholic content to undermine gradually the sacramental Intention of an ordaining bishop. " ).
そして,祭主司祭(=祭儀を執行する聖職者)( "the Minister" )について言えば( "And as to the Minister, …" ),もし授品(=品級を授ける/叙すること)を施す司教自身が新式叙階式(新)で叙階(新)された司教であるなら( "… if the ordaining bishop was himself consecrated bishop with the new rite of consecration, …" ),新形式の叙階(新)の曖昧さは膨らむ(あいまいさは ふくらむ)でしょうが( "… let us assume that the ambiguity of the new Form of consecration is lifted by the words immediately following, …" ),それでも司教の意向( "the Intention of the bishop" )について上に述べたような疑問が生じる(ぎもんが しょうじる)と言わざるを得ません( "… nevertheless doubts like those above as to the Intention of the bishop consecrating must arise: …" ).つまり,彼は今日の教会がいけにえを捧げる者とピクニックを楽しむ者のどちらを聖別すると考え,それを自らの意向としたのでしょうか?( "… did he consider, and therefore have as his Intention, that today's Church consecrates makers of the Sacrifice, or of picnics ? " )多くの場合この疑問には明確な答えは得られません( "Such questions can often lack clear answers. " ).
手短に言えば,もし私が教皇なら,「新式」( "renewed" )諸儀式( "rites" )で(品級の)授品や聖別を受けたすべての司祭あるいは司教に対し場合によってはもう一度授品(じゅひん)し(=品級を授かる〈ひんきゅうを さずかる〉),聖別を受ける(せいべつを うける)( "re-ordained or re-consecrated" )よう求めるかもしれません( "In brief, were I Pope, I think I might require that all priests or bishops ordained or consecrated with the « renewed » rites should be conditionally re-ordained or re-consecrated, …" ).その理由は彼らが正当な司祭,司教でないと考えるからではなく( "… not because I would believe that none of them were true priests or bishops, …" ),むしろ逆に聖別に関するあらゆる深刻な疑念(しんこくな ぎねん)は取り除く(とりのぞく)べきで( "… on the contrary, but because when it comes to the sacraments all serious doubts must be removed, …" ),そうすることが起こりうる疑念(おこりうる ぎねん)をなくす最も簡潔な方法(もっとも かんけつな ほうほう)だと考(かんが)えるからです( "… and that would be the simplest way of removing all possible doubts." ).このように諸々のカトリック教の秘蹟( "the sacraments" )についての新教会の腐敗( "Newchurch rot" )は放置されたままにしておいてはいけません( "Newchurch rot of the sacraments could not be left hanging around." ).(訳注後記)
キリエ・エレイソン.( "Kyrie eleison." )
新教会の司祭は品級を受け直させるべきか?
( "Should a Newchurch priest be re-ordained, or not ?" )
新教会が徐々に腐敗(じょじょに ふはい)しているため,
答えは定まらない(こたえは さだまらない).
( "Answer unsure, from gradual Newchurch rot." )
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注:
最後のパラグラフの訳注:
『司教聖別』"Consecration" と『司祭授品』"Ordination" の秘跡 "the Sacraments" について
・日本では伝統的には『司教聖別』はまた『司教叙階』ともいわれ,「司祭に叙する『司祭授品』〈=司教が品級を授けること)とは区別された.」
「新式叙階」について,何が問題となるか?についての解説
・現在の「叙階」は,昔の『叙階』と意味が異なる.昔の『叙階』はまた『聖別』と呼ばれ,「司祭」の場合ではなく,『司教』の場合についてのみ使われる用語である.
・現在,日本におけるカトリック教会では,ある男子修道士を『司教』に叙する場合も『司祭』に叙する場合も総じて「叙階〈じょかい〉」と呼ばれている.
・かつては伝統的に,司教に叙せられる儀式が『叙階式』または『聖別式』( = "consecratio" )と呼称され,司祭に叙せられる場合の『授品式』( "ordinatio" )と区別されていた.
・したがって,ここで議論になるのは,
「ローマ司教たる『ローマ教皇』も含めて,『司教』を第二バチカン公会議体制下における新しい形式に則(のっと)って『叙階』するということの問題点」,すなわち,
「『司祭』授品の段階以前に『司教』を人間的創設された(つまり真の神が関わらない)新しい形式に従って〈現〉叙階(=〈旧〉聖別・〈旧〉叙階)(= "consecratio" ))をすることの,カトリック秘蹟の真実性に鑑(かんが)みた問題点」
についてである.
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第二バチカン公会議以前
・司祭の場合:旧『授品』= "ordinatio"(ラテン語), "ordination", "to ordain"(英語)
・司教の場合:旧『聖別』(=旧『叙階』)= "consecratio"(ラテン語), "consecration", "to consecrate"(英語)
…両者は別用語だった.
第二バチカン公会議以降現在まで
・現「叙階」とは … 「司祭」の『授品』+「司教」の『聖別(=旧『叙階』)』
…両者とも一緒に同一用語「叙階(新)」に統一・定義されている.
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カトリック教会の正当・有効な秘蹟は,救世・救霊のために必須のものである.
・神は真実(真)であり,真の神の教会(=カトリック教会)の秘跡もまた然り,真実そのものである.
・真実を人為的(じんいてき)に曲(ま)げれば,人間は神から授かった自(みずか)らの生命を曲げて死の滅びに追いやる(せいめいをまげて しのほろびに おいやる)ことになる.
・カトリック教会の秘跡は,神からの授かりもの(さずかりもの)=天為(てんい)のものである.
・地上において奉献される「ミサ聖祭」は,地上で安息(あんそく)を得るために「地上において」まだ地上に生きているうちに「天国の安息」を味わうことではない.
・人類の罪を贖(あがな)う犠牲の生け贄(ぎせいの いけにえ)(=神の羔〈仔羊〉〈かみの こひつじ〉)〈訳注・神の羔は神の御独り子であり,罪の汚れが全くない〉を奉献(ほうけん)し,
・犠牲の生け贄によって贖われる(あがなわれる)ことなしには決してなだめることが出来ない
・人類の重い罪(じんるいの おもい つみ)(神からの諸々の恩寵に逆らう忘恩〈かみからの もろもろの おんちょうに さからう ぼうおん〉)
・に対する神の激しい御怒り(かみの はげしい おんいかり)をなだめ,
・犠牲の生け贄を神に奉献することにより人類の犯した罪(じんるいの おかした つみ)のゆるしを神に請(こ)うための祭儀(儀式)が,カトリック教会のミサ聖祭祭儀である.
・それゆえ,真の神の正義の御怒りをなだめるための「神の羔」として,人類史上でただ一度だけ,
・御自身を犠牲の生け贄として差し出されて世を罪の呪い(=死の罰)から救われた「救世主」たる神の御独り子「イエズス・キリスト」の救霊の御業(きゅうれいの おんわざ)を記念(きねん)して,
・「ミサ聖祭」すなわち「過ぎ越し(すぎこし)(ほふられた神の仔羊の御血(かみの こひつじの おんち)により死すべき運命から命を救われる)」が,
・現世で罪深い人類が生き続ける限り代々行われる(じんるいが いきつづけるかぎり よよ おこなわれる)のである.
・こうして,罪の全くない神の御独り子が成し遂げた(かみの おんひとりごが なしとげた)救世の御業(きゅうせいの おんわざ)を,真のミサ聖祭の祭儀(まことの みさせいさいの さいぎ)を通(とお)して,代々の人類に告げ知らせて(よよの じんるいに つげしらせて)いくのである.
・地上のすべての生命体は,無意味に突然ふってわいてきたものではない.
・「科学」があらゆる存在を証明するのではなく,全知全能の創造主たる神が「あらゆる科学的法則」のもとに万物を創造された.
・そして,人間は肉体だけで存在しているのではなく,霊的な存在として生きている.
・地上で身体が死に,腐敗した後は,全てがなくなり終わるのではなく,霊魂は生き続け,善くも悪くも来世へとつながり,
・現世を善人として過ごした者には,永遠の生命たる神の御祝福(かみの おんしゅくふく),また
・現世を悪人(他者に害を加えた者)として過ごした者には,神の摂理(かみの せつり)によって下される永劫の罰(えいごうの ばつ)による神の呪い(かみの のろい)へと,
・霊魂の生命は続いていく.
・それで,人類は誰しも,生まれながらに神に備えられている霊感によって,「死者を弔う(ししゃを とむらう)」ことを人生で心に覚える.
・「霊」の存在することをわきまえない人間が,現世で(宇宙・地上の)万物を支配・操作しようとするのは,無知の為せる業(むちの なせる わざ)である.
・人間は「肉体だけの存在ですべて終わる」のではないからである.
・他者を私利私欲(しり しよく)のために犠牲にした罪は,必ず償(つぐな)わなければならない.
・慈愛と正義の神の御目(じあいと せいぎの かみの おんめ)は,決して節穴(ふしあな)ではない.
・聖ヨハネによる聖福音書:第1章1-18節を参照.
『みことばの神性とその托身』
みことば=真の光(まことのひかり)=イエズス・キリスト
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(I)
・現在の世界における,人類社会状況の問題点について,
・第二バチカン公会議体制のいかなる点が問題となるのか,
・更なる議論・考察等を追補したいと思います.
(II)
・神の御言葉(聖書)からの引用箇所を追補いたします.
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