2012年6月18日月曜日

257 今日のガラツィア人たち 6/16

エレイソン・コメンツ 第257回 (2012年6月16日)

「ああ、愚(おろ)かなガラツィア人,」(ガラツィアの信徒への書簡〈しょかん〉:第3章1節).使徒聖パウロは愛するキリスト信者たちの群れの一人を叱(しか)り飛ばしながら叫(さけ)びます ( “…cries out St Paul (Gal.III, 1), tearing a strip off one of his beloved flocks.” ).その信者は後退,つまりキリスト信者たちを再び「世の要素の下に」(同:第4章3節)仕えさせるべくユダヤ教徒化しようとする人たちを満足させるため新約から旧約の時代へ逆戻(ぎゃくもど)りしようと望んだのでした( “…that was back-sliding, or wanting to go back from the New Testament to the Old Testament so as to satisfy Judaizers that would make them serve again “under the elements of the world” (IV, 3).” ).この使徒パウロの長くて厳しい非難演説を,いま第二バチカン公会議の公文書「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」 “Nostra Aetate” をかなえるため公会議主義権威者の支配下に逆戻りする誘惑にかられている伝統派カトリック教徒たち( “…to the Traditional Catholics who are presently being tempted to slide back under Conciliar authorities…” )に当てはめるのは極(きわ)めて容易(ようい)なことです.だがその結果,そこにあるのは聖パウロが(ガラツィア人への書簡の中で)叱責・非難の対象とした世,肉,悪霊( “…world, flesh and devil,…” )と同じものです.それで,聖パウロには申し訳ありませんが,この書簡からいくつかの部分を引用させていただき私たちの時代(現代)に当てはめてみます:--

「ああ、愚かな伝統派カトリック信徒たち “Tradcats ” ! (訳注・十字架につけられた者としての)私たちの主イエズス・キリストの伝統が目の前に描かれた(=示されている)のに,それに従うべきでないと,だれがあなたたちを(訳注・真実でない偽〈いつわ〉りで)魅惑(みわく)したのか( “Who has bewitched you,…” )? あなたたちはだれに惑(まど)わされたのか? 私はあなたたちから次のことだけを聞きたい.あなたたちがカトリック信徒としての人生を数年にわたり送ってきたのは第二バチカン公会議のおかげか,それともカトリック教の伝統( “Catholic Tradition ” )のおかげか? あなたたちはそれほど愚か者か? カトリック伝統の諸々の果実を味わったから,今度は公会議権威者の支配下に戻って伝統を見限(みかぎ)ろうとするのか( “Are you so foolish that having experienced the fruits of Tradition you now want to give it up by putting yourselves back under the Conciliar authorities? ” )? それらの果実(を味わった経験)はすべて無駄(むだ)だったのか?(第3章1-4節)( “Were all those fruits in vain (III, 1-4) ? ” )

キリストの恩寵(おんちょう)のうちにあなたたちを召されたルフェーブル大司教の路線から( “…from the line of Archbishop Lefebvre who called you into the grace of Christ ” )あなたたちがこれほど早く漂(ただよ)い離れて( “drifting away ” ),代わりに第二バチカン公会議の新しい福音( “the new gospel of Vatican II ” )に向かおうとしていることに私は驚いて( “astonished ”,=唖然〈あぜん〉として)いる.それはとても福音というべきものではない.それどころか,(訳注・その新しい福音を信奉(しんぽう)する)モダニスト(現代主義者)たちがあなたたちを惑わし,キリストの福音を変えようとしている( “…these modernists are troubling you, and they want to pervert the Gospel of Christ.” ).だがもし私たち自身であるにせよ,天からの天使であるにせよ,公会議はさほど悪いというわけではないとあなたたちに話す者があれば,その者を即刻(そっこく)その場で追い出し彼の言うことを聞いてはならない!( “But if ourselves or an angel from Heaven were to try to tell you that the Council was not really that bad, throw him out and don’t listen ! ” )(訳注・ “throw him out ”. =彼をその場で直〈す〉ぐに追い出す.直〈ただ〉ちに,即座〈そくざ〉に,の意味を言外〈げんがい〉に含んでいる.)わたしは前に言ったことを今また繰り返す.ルフェーブル大司教が公会議主義下のローマ教皇庁と(聖ピオ十世会と)の間で今日(=現在)交わされている取り決め(協定,契約,取引)( “a deal today with Conciliar Rome ”,)に賛成されただろうなどという偽(いつわ)りのうわべを,さもありそうなふりをして見せかけている者がいればその者は即刻その場で追い出されるべきである!( “…anyone pretending that the Archbishop would have been in favour of a deal today with Conciliar Rome should be thrown out ! ” ) 私たちは誰の利益を求めているのか? 私たちはメディア(マスコミ)に取り入ろうと努めているのか,それとも神のお気に召そう(=神のみ旨〈むね〉を求めよう)とするのか? もし私がメディアのお気に入りなら,私はもはやキリストの奴隷ではない!(第1章6-10節)( “Whose interests are we seeking ? Are we trying to please the media or to please God ? If the media liked me, I would be no servant of Christ ! (I, 6-10) ” ).

かつて,あなたたちがカトリック教信仰の伝統派へ来る前( “Before you came to Tradition,” ),あなたたちは教会を世に引き渡そうとする(“…were turning the Church over to the world ”)教会聖職者たちの奴隷(どれい)であった.だが今,カトリック教の伝統を見いだした後で,あなたたちはどうして公会議権威者の下で世に戻ろうと望むことができるのか?(第3章8,9節)( “…But now, after you found Tradition, how can you be wanting to go back with the world, under the Conciliar authorities (IV, 8,9) ? ” ) 私が真実を語るゆえに聖ピオ十世会の敵になったのか(“Am I become an enemy of the SSPX because I tell the truth ? ”)? あなたたちを惑わしている人々はあたかもあなたたちの利益に気を配っているかのように装(よそお)っているが,その者たちはあなたたちがルフェーブル大司教のことを忘れ彼らの利益に役立つ者となって欲しいのだ(第4章・16,17節)(“Those misleading you pretend to be looking after your interests, but they want you to forget about the Archbishop so as to serve their own interests (IV, 16,17).”)しっかりと立って,二度と公会議の支配下に入るな(第5章・1節)( “Stand fast, and do not come under the sway of the Council again (V, 1).” ).あなたたちは前はよくやっていた.どうしてあなたたちは今さら(訳注・真の神の教えたる)カトリック教の真理に背を向けよう(=背(そむ)こう)とし得るのか? あなたたちを真理に背(そむ)かせようとしている者はだれでも決して神のしもべではない!( “Whoever is doing this to you is no servant of God ! ” ) 私はあなたたちが迷(まよ)いから覚(さ)めて本心に立ち返るようになると信じている.だが,あなたたちを惑わす者は誰でも重大な責任を負う( “I do believe you will come to your senses, but whoever is misleading you bears a grave responsibility.” ).あなたたちは,もし私が世を宣教していたらこれほどの迫害を受けたと思うか( “Do you think I would be so persecuted if I was preaching the world ? ” )? カトリック教の伝統を堕落(だらく)させている者は誰でも割礼(かつれい)以上の傷(きず)をつけるナイフを必要とする!(第5章7-12節)( “Whoever is corrupting Tradition needs the knife for more than just circumcision (V, 7-12) ! ” )

聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を体験するよう望む人たちは単にキリストの十字架のために迫害されることを避けようとしているにすぎない( “Those wanting the SSPX to go through Vatican II B are merely trying to avoid being persecuted for the Cross of Christ.” ).彼らはあなたたちに,表向きはカトリック伝統の見かけを保(たも)つだけで世俗的でいてほしいのだ( “They want you to be worldly, keeping only the outward appearances of Tradition.” ).彼らはローマのユダヤ教徒化しようとする人たちのもとへ戻りたいのだ( “They want back in with the Judaizers in Rome,…” ).だが神は私たちの主イエズス・キリストの十字架,すなわち,それによって世は私にとって十字架につけられたものとなり,そして私は世にとって十字架につけられたものとされた,その十字架以外のいかなるものをも私が望むことを禁じられる( “…but God forbid that I should want anything other than the Cross of Our Lord Jesus Christ, by whom the world is crucified to me and I to the world.” ).このようにしてカトリック教の伝統に従って歩む人たちすべての上に(神の)平和が,またあわれみがあるように(第6章・12-16節)( “Whoever follows Tradition in this way, peace be to them, and mercy (VI, 12-16).” ).」

それでは聖パウロ自身の書簡をお読みください.どなたも神のみことばはもはや通用(つうよう)しないなどと取り繕(とりつくろ)って自分を偽(いつわ)ることのないように!( “Let nobody pretend that the Word of God no longer applies !” )

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *

訳注:

新約聖書・「(使徒)聖パウロによるガラツィアの信徒への書簡」を全文掲載.
(「エレイソン・コメンツ 第257回」の本文中で引用されている聖書の箇所は太字で示されています.)

新約聖書 ・ ガラツィア人への手紙 : 全章(1-6章)
EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS : CHAPTERS I - VI.

The Galatians, soon after ST. PAUL had preached the Gospel to them, were seduced be some false teachers, who had been Jews, and who were for obliging all Christians, even those who had been Gentiles, to observe circumcision and the other ceremonies of the Mosaical law.
In this Epistle, he refutes the pernicious doctrine of those teachers, and also their calumny against his mission and apostleship. The subject matter of this Epistle is much the same as in that to the Romans.
It was written at Ephesus about twenty-three years after our Lord's Ascension.

* * *

第1章

あいさつ
『人間からではなく,人間によるのでもなく,イエズス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって使徒に選ばれたパウロ,および私とともにいるすべての兄弟は,ガラツィアの諸教会に手紙を送る.

私たちの父なる神および主イエズス・キリストから,あなたたちに恩寵と平和があるように.主は,私たちの神であり父である方のみ旨によって,私たちをこの悪の世から救い出すために,私たちの罪のためにご自分を与えられた.

神に代々に光栄がありますように.アメン.』

(注釈)
あいさつ(1・1-5)
ガラツィアは小アジアの中央にある.

* * *

福音は一つである
『キリストの恩寵によって召されたあなたたちが,これほど早くその御者を離れてほかの福音に移ったことに,私は驚いている.
それは福音というべきものではない.ある人々があなたたちを惑わし,キリストの福音を変えようとしている.
私たち自身であるにせよ,天からの天使であるにせよ,私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ.私は前に言ったことを今また繰り返す.あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ.
私はいま*⁴人の賛成を求めようとするのか.それとも神のみ旨を求めようとするのか.あるいは人に取り入ろうと努めているのか.私が*⁵今も人に取り入ろうとしているのなら,私はキリストの奴隷ではない.』

(注釈)

福音は一つである(1・6-10)
神のこと.

ユダヤ教から改心した偽宣教者は,パウロの言う信仰が足りないので割礼とモーゼの律法が必要だととなえていた.

*⁴ パウロはティモテオに割礼を受けさせ,一方ティトには割礼を禁じたので、便宜主義者だと言われた.

*⁵ 改心前にパウロがユダヤ教を宣教していた時と同じように,「今も」という意味である.

* * *

パウロの使命はキリストからのもの
『兄弟たちよ,私は宣言する.私の告げた福音は人間によるものではない.また,人間から受けたものでも教えられたものでもなく,イエズス・キリストの*⁶啓示によるものである.

前にユダヤ教にいた時の私の行動を,あなたたちはすでに聞いている.私がきわめて激しく神の教会を迫害し,荒らしていたことを.私は先祖の伝えに対して非常に熱心で,同族の同年輩の多くの人々よりもユダヤ教の教えに進んでいた.

けれども母の胎内から私を選び分け,その恩罷によって私を召されたお方が,異邦人にのべ伝えるために,私のうちにみ子を啓示しようと思召(おぼしめ)したとき,直(ただ)ちに私は*⁷血肉(けつにく)に諮(はか)らず,私より先に使徒となった人々に会うためにエルサレムにも上らず,アラビアに退(しりぞ)いて,そこからふたたびダマスコに帰った.

それから三年経(た)って,私はケファ(=ペトロ)の様子を*⁸知るためにエルサレムに上り,十五日間彼とともにとどまったが,*⁹主の兄弟ヤコボのほかにはどの使徒にも会わなかった.*¹⁰神に誓(ちか)って言うが,私があなたたちに書くことにはうそ偽(いつわ)りはない.その後シリアとキリキアの地方に行った.

ユダヤにおけるキリストの諸教会では私の顔は知られていなかった.ただ,その諸教会の人々は,「前の迫害者が今は,以前荒らした信仰をのべ伝えている」と聞き,私のために神に光栄(こうえい)を帰(き)していた.』

(注釈)

パウロの使命はキリストからのもの(1・11-24)
*⁶ 使徒行録9・1-30参照.

*⁷ 人間の意見に左右されて行動したのではない(コリント〈第一〉15・50,エフェゾ6・12).

*⁸ ギリシア語の原意は「探(さぐ)る」である.

*⁹ コリント15・7参照.

*¹⁰ パウロがケファとの意見の一致を,重視していたことを表す.

* * *

第2章

他の使徒らとの一致
『それから十四年後,私はバルナバとともにまたエルサレムに上り,一緒にティトも連れていった.私が上ったのは啓示を受けたからであった.私は異邦人の中でのべ伝える福音を*¹彼らに示し,*²著名(ちょめい)な人々にはひそかに告げた.それは私が無益(むえき)に走っているか,あるいは走ったのではないかを確かめるためであった.

私とともにいたティトは,ギリシア人であったのに割礼を強いられなかった.そこには,私たちを奴隷(どれい)にしようとし,そしてキリスト・イエズスによって有する私たちの自由を探(さぐ)るために忍びこんだ*³邪魔者の偽兄弟があったので割礼について話し合った.ともあれ,*⁴真(まこと)の福音をあなたたちの中に保つために,私たちはいっときも彼らに譲(ゆず)らなかった.しかし,*⁵その著名な人々――*⁶彼らがどんな人であったにしろ,私にはかかわりがない.神は人について偏(かたよ)られることがない――から私は何も強制されなかった.
むしろ,割礼を受けた人々への宣教をペトロにゆだねられたように,私には割礼を受けていない人々への宣教がゆだねられているのを知った.――割礼ある人の使徒としてペトロを強めたお方は,異邦人のために私をも強められたからである――.
なおまた*⁷柱(はしら)として著名なヤコボとケファ(=ペトロ)とヨハネは,私に与えられている恩寵を認め,*⁸一致のしるしとして私とバルナバの手を握(にぎ)った.それは私たちが異邦人のための使徒となり,彼らは割礼を受けた人々のための使徒となるためである.ただ彼らが貧しい人々を考えてくれと勧(すす)めたので,私もそれを心掛(こころが)けた.』

(注釈)

他の使徒らとの一致(2・1-10)
エルサレムではいろいろな集会が行われていた.パウロは,一般の信者,長老,使徒も含めて自分の宣教のあり方を述べ,のちに別に著名な人たちに話した.

6,9節に出る教会の柱ペトロ,ヤコボ,ヨハネである.

割礼を要求していたユダヤ派のキリスト信者を指している(使徒行録15・5).

*⁴ 「福音の自由」という訳もある.

*⁵ 著名な人々は,割礼を課そうとする偽兄弟と明らかに対立している.

*⁶ 使徒らは無学な・貧しい漁師であったが,それは問題ではない.

*⁷ ペトロたちは,教会という霊的な建物の柱として有名だった.

*⁸ 改宗した異邦人を律法に従わせないでもよいという意見の一致.

* * *

律法からの解放
『ところでケファがアンティオキアに来た時,私は面と向かって,彼に反対した.*⁹彼に非難するところがあったからである.
彼はある人々がヤコボのほうから来るまでは異邦人とともに食事していたのに,その人たちが来ると割礼を受けた人々をはばかって異邦人を避けたからである.他のユダヤ人も彼にならって真実を偽(いつわ)る態度をとり,バルナバもその偽りに誘われたほどであった.
私は彼らが福音の真理に従って正しく歩んでいないのを見て,みなの前でケファに言った,「あなたはユダヤ人であるのにユダヤ人のようにせず,*¹⁰異邦人のように生活している.それならどうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのか」.

私たちは生まれながらのユダヤ人であって,罪人の異邦人ではないが,人間が義とされるのは律法の行いではなく,ただキリスト・イエズスへの信仰によることを知って,私たちもキリスト・イエズスを信じた.律法の行いではなく,キリストへの信仰によって義とされるためである.
生きる人はだれも律法の行いによって義とされない.私たちがキリストにおいて義とされることを望みながらまだ罪人であるなら,キリストは罪に仕える者であろうか.けっしてそうではない.私がもし*¹¹先に倒したものを再び建てるとすれば,私は違反者だと自白することである.

私は神に生きるために*¹²律法によって律法に死に,キリストとともに十字架につけられた.
私は生きているが,もう私ではなく,キリストが私のうちに生きたもうのである.
私は肉体をもって生きているが,私を愛し,私のためにご自身をわたされた神の子への信仰の中に生きている.
私は神の恩寵をむだにはしない.もし私たちが*¹³律法によって義とされるものなら,キリストの死は無益であった.』

(注釈)

律法からの解放(2・11-21)
*⁹ ペトロのこの態度は,原理の問題ではなく,ユダヤ人への遠慮のためだった.
ペトロのやり方は,それ自体理解できないことではなかった.
パウロも,ほかの時に,同じようにしたことがあった(使徒行録16・3,21・26,コリント〈第一〉8・13,ローマ14・21).
しかしこの場合,律法を守る改宗者のユダヤ人だけが,真のキリスト者であるかのように思わせる危険があった.

*¹⁰ ユダヤの律法のこまかいおきてを守らないで生活すること.
ペトロはカイザリアで百夫長のコルネリオ(使徒行録10・24以下)に対してそうした.
彼はその態度をエルサレムの信徒の前で弁明した.ペトロはこまかいおきてを守ることが,改心したユダヤ人にとって義務ではないにしろ,して悪いことではないと考えていた.
パウロもその意見だった.

*¹¹ 律法のおきてのこと.

*¹²「律法によって」の律法は,キリストのおきての意味にもとれる.
「キリストとその信仰によって義とされたいので,私は律法を捨て,モーゼの律法に死んだ」という意味.

*¹³ 律法に立ち返ることによって.

* * *

第3章

旧約はキリストへの新約によって実現される
ああ,愚かなガラツィア人,イエズス・キリストは十字架につけられた者として目の前に描かれたのに,あなたたちはだれに惑わされたのか(3・1).私はあなたたちから次のことだけを聞きたい.あなたたちが霊を受けたのは,律法の行いによるのか,それとも信仰を承知したからかと.あなたたちはそれほど愚か者か.

霊によって始まったのに,いま肉によって終わろうとするのか.あれほどの恵みを経験したのはむだだったのか.先に言ったことが本当ならむだなことだったろう(3・1-4).あなたたちに霊を与えられ,あなたたちの中で不思議な業(わざ)を行われたお方は,律法の行いのためか,それとも信仰を承知したためにそうなされたのか.
*⁴アブラハムは神を信じた.それは彼の義とされた」と書き記されている.』

(注釈)

旧約はキリストへの新約によって実現される(3・1-6)
聖霊のこと.

「苦しむ」の意味にもとれるが,「経験する」としたほうが正しい.ガラツィア人が受けた聖霊の賜(たまもの)を指す.

ガラツィア人が律法の習慣に立ち返るなら,事実上,福音は彼らにとってむだなものである.パウロはそうならないようにと望んでいる.

*⁴ 創世の書15・6参照.

* * *

信者のみアブラハムの子である
『だから,信仰する者はアブラハムの子であることを理解せよ.
聖書は神が信仰によって異邦人を義とされることを予知し,あらかじめアブラハムによい便(たよ)りを告げ,「あなたにおいてすべての民は祝福される」と言った.
したがって,信仰者のアブラハムとともに祝福されるのは,信仰をもつ人である.

しかし,律法の行いだけを支持する人々はのろいのもとにいる.「律法の書に書き記されているすべてのことを行い続けぬ者はのろわれよ」と書かれているからである.
だれも律法によって神のみ前に義とされないことは明らかである,「義人は信仰によって生きる」からである.
律法は信仰に基づくものではなく,かえって行いに基づく.「*⁴おきてを行う者はそれによって生きる」とあるからである.
キリストは私たちのためにのろわれた者となって,*⁵律法ののろいから私たちをあがなわれた.「*⁶木にかけられた者はのろわれよ」と書かれているからである.
*⁷それはアブラハムに約束された祝福がイエズス・キリストによって異邦人に及ぶためであり,また信仰によって私たちに*⁸約束された霊を受けさせるためであった.

兄弟たちよ,私は人間的な言い方で話そうとしている.人の遺言が公正であればだれもそれを無効にしないし,何一つそれに加えることもできない.
さて約束はアブラハムとその子孫にされたものである.聖書は複数として「子孫たちに」と言わず,単数の形で「子孫に」と言っている.この子孫はキリストである.
だから私はこう言う.神があらかじめ定められた遺言は四百三十年後にできた律法によって廃止されず,約束も無効になることはない.
もし遺産が律法によるのなら,約束によるものではない.しかし*⁹神がアブラハムを嘉(よみ)されたのは約束によってであった.』

(注釈)

信者のみアブラハムの子である(3・7-18)
〈旧約〉創世の書12・3,18・18参照.

〈旧約〉第二法の書27・27・26.律法のおきてを全部守ることはほとんど不可能なことだった.

〈旧約〉ハバククの書2・4参照.

*⁴ 〈旧約〉レビの書18・5参照.

*⁵ 律法の違反と,律法がその機会となる罪のためののろい(10節).

*⁶ 第二法の書21・23参照.

*⁷ 先の節の思想を要約し,補(おぎな)っている.異邦人はキリストによってアブラハムの祝福を受ける.(〈新約〉エフェゾ人への手紙2・14以下).キリストは人間を律法ののろいから(13節)あがなったからである.

*⁸ 原文は「霊の約束」.

*⁹ アブラハムに約束された遺産を受けるために,モーゼの律法を守る必要はない.

* * *

律法には期限がある
『ではなぜ律法があるのか.それは,違反のあるがために加えられたもので,約束された子孫が来られる時までのものであり,天使たちによって,仲立ちの手をとおして布告された.片一方だけの場合には仲立ちというものはありえない.そして神は唯一である.
*⁴それなら律法は神の約束にもとるものか.けっしてそうではない.命を与える律法が出されたとすれば,実に義とされるのは律法によってであろう.
しかし聖書はすべての者を*⁵罪の下に閉じこめた.
それは,信仰をもつ人たちがイエズス・キリストへの信仰によって,約束の恵みを受けるためであった.

信仰の時代が来るまで,私たちはやがて来るはずの信仰を期待しつつ,律法に守られてその囚人であった.こうして律法は信仰によって義とするために,私たちをキリストに導く*⁶守役(もりやく)となった.

*⁷しかし信仰が来れば,私たちはもはや守役の下にはいない.
あなたたちはみなキリスト・イエズスへの信仰によって神の子である.キリストの洗礼を受けたあなたたちはみな,キリストを着たからである.
もう,ユダヤ人もギリシア人もなく,奴隷も自由民もなく,男も女もない.みなキリスト・イエズスにおいて一つだからである.
あなたたちがもしキリストの者であれば,アブラハムの子孫であって約束の世継ぎである.』

(注釈)

律法には期限がある(3・19-29)
*¹ ローマ5・20参照.

*² モーゼのこと.

*³ 約束されたのは神だけであるから,仲立ちはいらない.

*⁴ 律法は罪がどこにあるかを知らせる(19節)が,命を与えるものではない.すなわち,罪を避ける力を与えてくれないからである.

*⁵ 律法には罪を避けさせる力がない.

*⁶ ギリシア語の「パイダゴゴス」で,元の意は主人の子を学校に連れていく奴隷であった.

*⁷ 25-26節 信仰が来て律法は終わり,守役は暇(ひま)を出された.アブラハムの子孫であるかどうかは,別問題とされ,信仰によってみなが神の子となった(28,29節).

* * *

第4章

子の精神
私はこう言う.世継ぎはすべての者の主人であるが,子どもの間は奴隷と異なるところがない.父の定めた日までは後見人と管理者の下にいる.私たちもそうであって,子どもの間は,奴隷として,世の要素の下にあった(4・3).しかし時満ちて,女から生まれさせ,律法の下に生まれさせたみ子を神は遣わされた.それは律法の下にある者をあがない,私たちを養子にするためであった.

あなたたちが神の子である証拠は,「アッバ,父よ」と叫(さけ)ぶみ子の霊を,神が私たちの心に遣わされたことである.だから,もはやあなたは奴隷ではなく子である.子であればまた神によって世継ぎである.

かつて,あなたたちは神を知らず,*⁴本質として神でないものの奴隷であった.今あなたたちは神を知った.いやむしろ神に知られる者となったのに,どうしてまた,*⁵弱い不完全な要素にもどってその奴隷になろうとするのか(4・8-9).あなたたちは日と月と季節と年をこまかく守っている.私はあなたたちのために,無益に苦労したのではないかと恐れる.』

勧め
『兄弟たちよ,私があなたたちのようになったのだから,あなたたちは私のようになってほしいと願う.あなたたちは私に何の不正なこともしなかった.

*⁶ご存じのように初めてあなたたちに福音をのべる機会になったのは,私の体の病であった.あなたたちにとって試練であった私の*⁷この体の病気に,あなたたちは軽蔑(けいべつ)も嫌悪(けんお)も見せず,かえって私を神の天使のように,キリスト・イエズスのように迎(むか)えてくれた.その時のあなたたちの喜(よろこ)びはどうなったのか.あなたたちができれば自分の目をえぐって私に与えようとまで思っていたことを*⁸私は忘れていない.

私があなたたちに真実を話したから,敵になったのか.
彼らがあなたたちに示す愛はよい心から出たものではない.彼らが望むのは,あなたたちの愛を自分たちだけに向けさせ,私たちから引き離すことである(4・16,17)

よいことの場合,人から愛情を向けられるのは常によいことである.だが私がともにいるときだけではなく常にそうでなければならない.小さな子らよ,あなたたちのうちにキリストが形づくられるまで,私はまた生みの苦しみを受ける.私は今どんなにあなたたちの側(そば)にいたいことだろう.あなたたちに対してどうすればよいかに迷っている.私はどんなに自分の*⁹声音(こわね)を変えたいことだろう.』

(注釈)

子の精神(4・1-11)
ユダヤの宗教暦と祝日と儀式などを定める天体運行のことを言うのであろう.

〈新約〉ローマ人への手紙8・15.アラマイ語の「父」.

聖霊はみ子から発出するという教理の根拠になる.

*⁴ 異教徒の神々を指す(〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉8・4).

*⁵ パウロはユダヤ教の改宗者を椙手にしているので,世の要素とは天体運行によって定められた安息日,断食,祝日などのユダヤ年中行事の意味らしい.

「不完全」なのは,それが義を与えず,その遵守(じゅんしゅ)が困難だったからであろう.

勧め(4・12-20)
*⁶ 病気になってそこに立ち寄らざるをえなくなったので,ガラツィアに福音をのべた.

*⁷ この体の病気のことは,コリント〈第二〉12・7に出ている病気とは別である.コリント人への手紙の場合は,隠(かく)れた病気であるが,ここの場合は,だれの目にも見える外の病気だった.

*⁸ 原文,「私はあなたたちに証明する」.

*⁹ 厳しい口調(3・1)ではなく,優しいことばで彼らを納得させたい.

* * *

サラとハガル
『律法に服従しようとするあなたたちは私に言うがよい.あなたたちには律法が分かっているのか.

アブラハムには二人の子があった.一人は奴隷女から,一人は自由民の女から生まれたと書き記されている.奴隷女の子は肉体によって生まれ.自由民の女の子は約束によって生まれた.
そのことは前兆として語られている.すなわちこの女たちは二つの契約である.

一つはシナイの山から出て奴隷を生む,これがハガルである.
また,ハガルはアラビアではシナイの山を指す.ハガルはその子らとともに奴隷になっている今のエルサレムと同列である.

しかし上にあるエルサレムは自由であって,私たちの母である.
はたしてこう書き記されている,「*⁴うまずめで子を生まぬ者,喜べ.生みの苦しみを知らぬ者,声をあげて喜べ.一人住まいの女の子どもは夫のある女の子どもより多い」.

兄弟たちよ,あなたたちはイサクのように約束の子である.
そのころ*⁵肉体によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害したように,今もそうしている.
聖書には何と言われているか.「*⁶奴隷女とその子を追い出せ.奴隷女の子は自由民の女の子とともに遺産を受けられぬ」とある.

そして兄弟たちよ,私たちは奴隷女の子ではなく,自由民の女の子である.』

(注釈)

サラとハガル(4・21―31)
彼らに律法がよく分かれば,パウロが次の節から実例をあげて言っているように,
約束の世継ぎとなるために,肉体的にアブラハムの子であるだけでは足りないと分かるだろう.
精神的にその子とならねばならない(〈新約〉ローマ人への手紙6・9以下).

写本が不ぞろいなので,読み方は一致しない.「シナイの山はアラビアにあって……」という写本もある.

軍隊用語で縦列のこと.
一方の列には,ハガル,その子ら,シナイ山と律法の奴隷である今のユダヤ人.
他の列には自由民のサラ,その子イサク,新約の子ら,福音の自由の子ら,キリスト信者.

*⁴〈旧約〉イザヤの書54・1参照.

*⁵ イスマエルがイサクを迫害したこと(〈旧約〉創世の書21・9).

*⁶ 創世の書21・10参照.

* * *

第5章

キリスト信者の自由
この自由のために,キリストは私たちを解放されたのであるから,しっかりと立って,二度と奴隷のくびきをかけられるな(5・1).

見よ,私パウロはあなたたちに言う.あなたたちが割礼を受けるなら,キリストは何の役にも立たなくなる.また,割礼を受けようとする人ならその人は律法全体を守る義務があると,私はふたたび宣言する.律法によって義とされることを望む者は,キリストから切り離され,恩寵から落とされる.
私たちが希望をもって正義の実現を待っているのは,霊により信仰によってである.なぜなら,キリスト・イエズスにおいては,割礼を受けることも受けないこともいずれも価値がなく,愛によって働く信仰だけに価値がある.

前はよく走っていたのに,今あなたたちが真理に服従するのをはばんだのは何者か.そういう思いつきは,あなたたちを呼ばれた方からのものではない.少しのパンだねは練り粉全体をふくらませる.
あなたたちが他の考えを抱かぬように私は主によって切に望む.ともあれ,あなたたちを乱す者は,だれであろうとそのさばきを受けるであろう.
兄弟たちよ,*⁴私が今なお割礼を宣教しているなら,なぜ迫害されるのだろうか.それなら十字架のつまずきはやんだわけである.あなたたちを乱す人々は*⁵自分で切ればよい(5・7-12).

(注釈)

キリスト信者の自由(5・1-12)
14・21から言い始めた律法のことは,いつかキリストの福音に変わる.キリストは私たちをユダヤの律法から解放し,信仰から来る自由を与えられた.

ほんとうの信仰は愛によって人を動かす.

ユダヤ派の信者を指している.

*⁴ 割礼をまだ守らねばならないとパウロが宣教していたら,ユダヤの信者から迫害されるはずはない.

*⁵ かつて異邦人であったガラツィア人の中には,チベレ女神の信心がはやっていた.その信心家の間では,よく去勢をした.そのことの暗示らしい.つまり「あなたたちを乱すような人は,何もかも切ってしまえ」という皮肉であろう.

* * *

自由を乱すことは許されない
『兄弟たちよ,あなたたちは自由のために召された.ただその自由を肉への刺激として用いてはならない.むしろ愛によって互いに奴隷となれ.全律法は「自分と同じように隣人を愛せよ」という一言に含まれているからである.互いにかみ合い食い合って,ともに食い尽くされぬように注意せよ.

私は言う.霊によって歩め.そうすれば肉の欲を遂(と)げさせることはない.実に肉の望むことは霊に反し,霊の望むことは肉に反する.あなたたちが望みのままに行わぬように,それらは相反(あいはん)している.もしあなたたちが霊に導かれているのなら,律法の下にはいない.

*⁴肉の行いは明白である.すなわち、淫行(いんこう),不潔(ふけつ),猥褻(わいせつ),偶像崇拝(ぐうぞうすうはい),魔術(まじゅつ),憎悪(ぞうお),紛争(ふんそう),嫉妬(しっと),憤怒(ふんぬ),徒党(ととう),分離(ぶんり),異端(いたん),羨望(せんぼう),泥酔(でいすい),遊蕩(ゆうとう),そしてそれらに似たことなどである.私は前にも言ったように,またあらかじめ注意する.以上のようなことを行う者は神の国を継がない.

それに反して霊の実は,慈愛(じあい),喜び,平和(へいわ),寛容(かんよう),仁慈(じんじ),善良(ぜんりょう),誠実(せいじつ),柔和(にゅうわ),節制(せっせい)であって,*⁵これらのことに反対する律法はない.*⁶キリスト・イエズスにある者は,肉をその欲と望みとともに十字架につけた.

私たちが霊によって生きているのなら,また霊によって歩もう.いどみ合い,ねたみ合って,虚栄(きょえい)を求めることのないようにしよう.』

(注釈)

自由を乱すことは許されない(5・13-26)
〈旧約〉レビの書19・18参照.

ガラツィア人同士の争いのこと.

肉が選ぶと霊はそれに反対する.霊が選ぶと肉がそれに反対する.すなわち,〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉2・14,ローマ人への手紙8・1以下にあるように,自然の人間と恩寵に生きる人間との対立が述べられている.

*⁴ 19-21節 ローマ人への手紙1・19-31,コリント人への手紙〈第一〉6・9-10参照.

*⁵ 「こういう生活の人に対して」という訳もある.
これらのことを行う人は律法の罰を受けない.

*⁶ ローマ人への手紙6・2-6,8・13参照.

* * *

第6章

愛の実践
『兄弟たちよ,もしある人に過失があったら,霊の人であるあなたたちは柔和な心をもってその人を改(あらた)めさせよ.そして,自分も誘(さそ)われぬように気をつけよ.

互いに重荷を負え.そうすれば,あなたたちはキリストの法をまっとうできる.
何者でもないのに,何者かであるかのように思うのは,自分を欺(あざむ)くことである.おのおの自分の行いを調べよ.そうすれば,他人についてでなく,自分についてだけ誇(ほこ)る理由を見いだすであろう.おのおの自分の荷を負っているからである.
みことばを教えてもらう人は,教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ.
自分を欺いてはならない.神を侮(あなど)ってはならない.人は,まくものを収穫するからである.すなわち自分の肉にまく人は肉から腐敗を刈り取り,霊にまく人は霊から永遠の命を刈り取る.
善を行い続けて倦(う)んではならない.たゆまず続けているなら,時が来て刈り取れる.だから,まだ時のある間に,すべての人に,特に信仰における兄弟である人々に善を行え.』

(注釈)

愛の実践(6・1-10)
*¹ 〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉3・1以下参照.

他人の欠点と自分の行いを比べて,誇りたくなる時がある.しかし非難(ひなん)するのは,自分のことだけでなければならない.パウロのこのことばは皮肉であって,真実に自分をかえりみる人は,自分を誇る理由を見つけるはずがない.

信徒は宣教師の生活を保証せねばならない.

* * *

最後の勧め
『*¹私がなんと大きな文字で手ずからあなたたちに書いているかを見よ.
*²肉において見栄(みえ)を飾(かざ)ろうとする者は,あなたたちに割礼を強制する.
それは,ただキリストの十字架のために迫害されないためだけである.
割礼を受けた人さえ律法を守ってはいない.しかもあなたたちに割礼させようと望むのは,あなたたちの肉を誇りにしたいからである.

かえって私は,主イエズス・キリストの十字架のほかなにものをも誇りとはしない.
*³キリストによって,世は私にとって十字架につけられたものとなり,そして私は世にとって十字架につけられた者とされた.

つまり,割礼を受けることも受けないこともともにむなしいことである.
ただ尊(とうと)いのは新しい人だけである.
この法に従って歩むすべての人々と,神のイスラエルの上に平和とあわれみがあるように(6・12-16).

これからのち,だれも私を煩(わずら)わすな.私はイエズスの*⁴印(しるし)を身につけているからである.
兄弟たちよ,主イエズス・キリストの恩寵があなたたちの霊とともにあるように.アメン.』

(注釈)

最後の勧め(6・11-18)
*¹ パウロの自筆.「大きな文字」はパウロの目が悪かったから、大きな字で書いたという意味ではない.むしろ,重大なことをよく相手の心にきざみたいからこう言ったのである.

*² ユダヤ人の信徒の態度.

*³ 世間と十字架のキリストとは両立しない.

*⁴ 奴隷につける焼印.または,キリストのために忍んだ迫害の傷跡(きずあと)(コリント〈第一〉6・4-5,11・23).

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