エレイソン・コメンツ 第351回 (2014年4月5日)
二人の公会議派教皇(ふたりの こうかいぎは きょうこう),ヨハネ23世(よはね にじゅう さんせい)とヨハネ・パウロ2世(よはね ぱうろ にせい)の列聖(れっせい)が( "The “canonisation”of two Conciliar Popes, John XXIII and John-Paul II, …" ),今月最後の日曜日(こんげつ さいごの にちようび)(4月27日)に予定(よてい)されており( "… is scheduled for the last Sunday of this month, …" ),信仰心の篤い(しんこうしんの あつい)カトリック教信者(かとりっくきょう しんじゃ)の多く(おおく)はこのことに恐怖心(きょうふしん)を抱いて(いだいて)います( "…and many believing Catholics are scared stiff." ).信者たちは両教皇(りょう きょうこう)がいずれも教会の(客観的)破壊者(きょうかいのきゃっかんてき はかいしゃ)だったことを知っている(しっている)からです( "They know that the Conciliar Popes have been (objective) destroyers of the Church." ).信者たちは教会が列聖の不可謬性(れっせいの ふかびゅうせい)を保持していることを知っています( "They know that the Church holds canonisations to be infallible." ).彼ら(かれら)はヨハネ23世,ヨハネ・パウロ2世が聖者(せいじゃ)だと信じるよう強いられる(しんじるよう しいられる)のでしょうか?( "Are they going to be forced to believe that John XXIII and John-Paul II are Saints ? " ) そう考えるとびっくり仰天(ぎょうてん)したくなるでしょう.( "It boggles the mind. " ).だがその必要(ひつよう)はありません.
2013年8月に,私(わたし)はエレイソン・コメンツ(えれいそん・こめんつ)の中(なか)で( "In August of last year these “Comments” …" ),新教会(しんきょうかい)( "Newchurch" )の列聖(れっせい)は公会議以前(こうかいぎ いぜん)の列聖とはまったく異なる現実(ことなる げんじつ)だから,カトリック信徒(しんと)は公会議後(こうかいぎ ご)の列聖を完全無欠(かんぜん むけつ)なものと信じる必要(しんじる ひつよう)はないと述(の)べました( "… stated the fact that Newchurch “canonisations” are such a different reality from pre-Conciliar canonisations that no Catholic need believe that the post-conciliar canonisations are infallible." ).私は間違って(まちがって)いなかったのですが,単に事実を指摘(たんに じじつを してき)しただけで,その理由(りゆう)に触れ(ふれ)ませんでした( "I was not wrong, but while I stated the fact that this is so, I did not give the reason why, …" ).理由は物事を知る(りゆうは ものごとを しる)優れた方法(すぐれた ほうほう)です( "… which is a superior way of knowing something." ).私が(理由に)触れなくても,たぶん1989年のことだったとおもいますが,ある修養会(しゅうよう かい)( "a retreat conference" )の席(せき)でルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )はその本当の理由(ほんとうの りゆう)を私たちに与えて(わたしたちに あたえて)くださいました" )( "On the contrary in a retreat conference, perhaps of 1989, Archbishop Lefebvre gave the deep-down reason why. …" ).大司教が言(い)われたその理由とは ―― モダニスト(近現代主義者)たちの精神腐敗 ( "modernist mind-rot" )(もだにすと〈きんだいしゅぎしゃ〉たちのせいしんふはい)( "… This reason – modernist mind-rot -- …" )―― このことが公会議革命(こうかいぎ かくめい)のすべてを正しく理解する(ただしく りかいする)のに極めて重要なこと(きわめてじゅうようなこと)です( "… -- is crucial to understand correctly the whole Conciliar Revolution." ).
ルフェーブル大司教はそのとき,二人の公会議派教皇(ふたりの こうかいぎは きょうこう)は現代の大衆(げんだいの たいしゅう)と同じ(おなじ)ように,いかなる真実(しんじつ)も不変(ふへん)なものだとは信じて(しんじて)いないと言われました( "The Archbishop said that like a mass of modern men, the Conciliar Popes do not believe in any truth being stable." ).たとえば,ヨハネ・パウロ2世の思考形成(しこう けいせい)は真実は時代と共に(しんじつは じだいと ともに)進化(しんか),変化(へんか)し,科学(かがく)などの進歩(しんぽ)につれ発展(はってん)するという考え(かんがえ)に基(もと)づいています( "For instance John-Paul II’s formation was based on truth evolving, moving with the times, progressing with the advance of science, etc.. " ).同教皇は1988年に聖ピオ10世会( "SSPX" )がおこなった一連の聖別(いちれんの せいべつ)を無効(むこう)としましたが,真実は決(けっ)して固定的(こていてき)なものでないから,というのがその理由でした( "Truth never being fixed is the reason why in 1988 John-Paul II condemned the SSPX’s Episcopal Consecrations, …" ).彼は,カトリック教の伝統(でんとう)は生き物(いきもの)で変化(へんか)するのに対(たい)し, SSPX の列聖(れっせい)はそれが固定的だという考え方(かんがえ かた)に基(もと)づいていると指摘(してき)しました( "… because they sprang from a fixed and not living or moving idea of Catholic Tradition." ).確か(たしか)にカトリック信徒は信仰宣言(しんこう せんげん)(=使徒信経〈しとしんきょう〉・クレド)( "the Credo" )のすべての言葉(ことば)は不可変(ふかへん)のものと信(しん)じています( "For indeed Catholics hold, for example, every word in the Credo to be unchangeable, …" ).なぜなら,そこに含(ふく)まれる言葉は信仰の不変の真実(しんこうの ふへんの しんじつ)を可能な限り(かのうな かぎり)完全に表す(かんぜんに あらわす)ため長期間(ちょう きかん)にわたって打ち出された(うち だされた)もので( "… because the words have been hammered out over the ages to express as perfectly as possible the unchanging truths of the Faith, …" ),間違い(まちがい)なく教会の過去(きょうかいの かこ)の歴代教皇(れきだい きょうこう)や公会議(こう かいぎ)によって定(さだ)められてきたものだからです( "… and these words have been infallibly defined by the Church’s Popes and Councils." ).
もう一つ別の例(もうひとつ べつの れい)とした本来の意味の列聖(ほんらいの いみのれっせい)を挙(あ)げます( "True canonisations are another example: …" ).(1)教皇は教皇として宣言します.(すなわち)( " (1) the Pope pronounces as Pope, …" ) (2)信仰と倫理(しんこうと りんり)のモデル(もでる)たりうる然(しか)るべき人物(じんぶつ)を( " (2) such and such a person to be a model of faith and morals, …" ) ,(3)最終的(さいしゅうてき)に( " (3) once and for all (nobody used to get uncanonised), …" ),(列聖は決して取り消されない〈けっして とりけされない〉ものとされてきました),(4)教会全体(きょうかい ぜんたい)がこのようなモデルとして受け入れる(うけいれる)ように(宣言します)( " (4) for all the Church to accept as such a model." ).本来(ほんらい)はそういうものですから( "As such, …" ),これまでの列聖は無謬の教会(むびゅうの きょうかい)の教(おし)えたりうる4条件(よん じょうけん)を満(み)たしてきましたし( "… canonisations used to fulfil the four conditions of infallible Church teaching, …" ),それは完全無欠(かんぜん むけつ)(=無謬〈むびゅう〉=絶対正しい〈ぜったい ただしい〉=絶対正義〈ぜったいせいぎ〉)だと信(しん)じられてきました( "… and they were held to be infallible." ).だが,真実は不変・不可変(しんじつは ふへん・ふかへん)というこのカトリック教の考え(かとりっくきょうの かんがえ)は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちのような不安定な現代人(ふあんていな げんだいじん)( "…fluid modern minds" )にとっては考(かんが)えられないものなのです( "…But this Catholic idea of an unchangeable truth is inconceivable for fluid modern minds like those of the Conciliar Popes." ).彼ら(かれら)にとって,真実(しんじつ)とは人生であり,ある人生が完成に向かって(かんせいに むかって)発展(はってん),進化(しんか),成長(せいちょう)し続(つづ)けるようなものです( "For them, truth is life, a life developing, evolving, growing towards perfection. " ).だとしたら,公会議派教皇が無謬の列聖(むびゅうの れっせい)をどうして執り行(とりおこな)えるでしょうか( "How then can a Conciliar Pope perform, …" ).それを信徒(しんと)に押し付ける(おし つける)など,とんでもないじゃありませんか?( "… let alone impose, an infallible canonisation ? " )
ルフェーブル大司教は,ある公会議派教皇がそのような列聖を行(おこな)った後,自身の考えかた(じしんの かんがえかた)にどう反応(はんのう)するだろうか想像(そうぞう)したことがあります( "The Archbishop imagines how a Conciliar Pope might react to the idea of his having done any such thing: …" ).その教皇(きょうこう)は「オー・ノー(おー・のー)!もし将来(しょうらい),私が列聖した人物(じんぶつ)が必要な資質(ひつような ししつ)に欠けて(かけて)いるとわかったら( "… “Oh no ! If ever in the future it turns out that the person I canonised did not have all the qualities required, …" ),私は彼の今回一度限りの神聖さ(しんせいさ)( "sanctity" )(に基(もと)づいて)でなく彼の美徳(びとく)( "virtue" )に基(もと)づいて決定(けってい)したと,私の後継者の誰(わたしの こうけいしゃの だれか)かが宣言(せんげん)してもよいではないか」と言うのでしょうか( " … well, some successor of mine may well declare that I made a declaration on that person’s virtue but not a once and for all definition of their sanctity.” " ).教皇の「宣言」( "declaration" )により行(おこな)われた「列聖(れっせい)」( "canonising" )は,出身国の大統領(しゅっしんこくの だいとうりょう)や地元のキリスト教徒(じもとの きりすと きょうと)を喜(よろこ)ばせ( "Meanwhile the “canonising” Pope’s “declaration” has made the President of the local Republic and the local Christians happy, …" ),彼らに祝賀会を開く(しゅくがかいを ひらく)口実を与えた(こうじつを あたえた)ことでしょう( "… and he has given them all an excuse to have a party to celebrate." ).
もし,このことを考えるなら( "If one thinks about it, …" ),ルフェーブル大司教の行った説明(せつめい)は新教会(しんきょうかい)のあらゆることに当て(あて)はまります( "… this explanation of the Archbishop applies to the Newchurch across the board..第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)がしていることは( "What we have in Vatican II is …" ),天国に通じる(てんごくに つうじる)神の不変の真理の美しさ(かみの ふへんの しんりの うつくしさ)という難題(なんだい)を( "… is the demanding beauty of God’s unchangeable Truth, which leads to Heaven, …" ),人間(にんげん)の変わり易い幻想(かわりやすい げんそう)という安易な醜さ(あんいな みにくさ)に置き換える(おきかえる)ことです( "… being replaced by the undemanding ugliness of man’s fluid fantasy, which may lead to Hell but enables man, as he thinks, to take the place of God." ).後者(こうしゃ)は人を地獄に陥れる(ひとを じごくに おとしいれる)かもしれませんが,人が(ひとが)神に取って代わる(かみに とって かわる)ことを可能(かのう)にすると,大司教は考えます.このプロセス(ぷろせす)でカギとなる一歩(かぎとなる いっぽ)は人の心(ひとの こころ)を現実(げんじつ)から外れ(はずれ)させることです( "The key step in this process is the unhooking of the mind from reality." ).このプロセスを近代主義(きんだい しゅぎ)(=モダニズム〈もだにずむ〉)( "modernism" )として今日の教会(こんにちの きょうかい)に当てはめるなら( "When the process is applied today to the Church as modernism, …" ),結果(けっか)は以前に起きた(いぜんに おきた)ことまったく異(こと)なるため( "… the results are so totally unlike what went before …" ),新しい現実(あたらしい げんじつ)には,どうしても新教会(しん きょうかい)( "Newchurch" ),新列聖(しん れっせい)( "Newcanonisations" ),新聖人(しん せいじん)( "Newsaints" )等々(とうとう)といった新しい名前(あたらしい なまえ)が必要(ひつよう)になるでしょう( "… that the new realities absolutely call for new names: Newchurch, Newcanonisations, Newsaints, etc.." ).結局(けっきょく)のところ,公会議派の人々(こうかいぎはの ひとびと)はなにもかも新しく(あたらしく)することに誇り(ほこり)をもっているということではないでしょうか?( "After all, are not the Conciliarists proud of making everything new ? " )
キリエ・エレイソン.
カトリック信徒は間近(まぢか))にせまった公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)の列聖(れっせい)に誤りはないと信じる必要(あやまりは ない と しんじる ひつよう)などありません( "No Catholic need believe that the imminent canonisation of Conciliar Popes will be infallible, …" ).なぜなら,それは精神腐敗(せいしん ふはい)から生(しょう)じた結果(けっか)なのですから( "… because it will proceed from mind-rot. " ).
リチャード・ウィリアムソン司教
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(訳注)
「人間の生命(にんげんの せいめい)」について.
・現世(げんせ)で如何なる宗教(いかなるしゅうきょう)に入信(にゅうしん)していようと
していまい(=無宗教)と,
事実(じじつ)として「世の真の理は唯一(よの まことの ことわりは ゆいいつ)」であり,
カトリック教(公教〈こうきょう〉)ではその「世の唯一の真の理」を「神」と呼ぶ.
・また,現世が存在するように,来世(らいせ)も確かに存在(たしかに そんざい)する.
・現世での生き様(いきざま)の正しさ如何(ただしさ いかん)で,
来世での生命(いのち)が決まる(きまる)のは事実(じじつ)である.
・現世(人生〈じんせい〉)で善人(ぜんにん)であった者(もの),人生の最後の一瞬(じんせいの さいごの いっしゅん)でも悔悛(かいしゅん)して善人となった者(もの)には,
来世での永遠の安息(えいえんの あんそく)(=安らかな休息〈やすらかな きゅうそく〉)が約束(やくそく)されている(=永遠の生命〈えいえんのいのち〉)が,
・現世で他者に憐みを持たない悪人(たしゃに あわれみを もたない あくにん)であった者や,
・人生の最後の瞬間まで悔悛(=回心)(じんせいの さいごの しゅんかんまで かいしゅん〈=かいしん〉)しなかった者は,
・天賦の生命に感謝(てんぷの せいめいに かんしゃ)して人生を正しく全う(じんせいを ただしくまっとう)しなかったため,
また,他人が天賦の生命を全うすることを悪意をもって妨げた(あくいを もって さまたげた)ため,永劫の罰(えいごうの ばつ)を真の神から受ける(まことの かみから うける).
・この真(まこと)の理(ことわり)に,現世の宗教の名前や正邪の如何(しゅうきょうの なまえや せいじゃの いかん)は関係(かんけい)しない.
・この「真理」を
「遍く(あまねく)古今東西(ここんとうざい)の
カトリック(公〈おおやけ〉)の神・公の教え(おおやけの おしえ)」と呼ぶ.
・人間は自分から生まれたのではなく,天の御父なる唯一の真の神から生命(いのち)を授かって(さずかって)父母を通じて(ふぼを つうじて)生まれてくる.
自分の生命(じぶんの せいめい)は,自分ひとりの持ち物(もちもの)ではなく,真の神に対して責任(せきにん)がある.
・神の所有物に関わる事物(かみの しょゆうぶつに かかわる ことぶつ)を,人間が好き勝手に操作する(にんげんが すきかってに そうさする)ことは,万物の創造主たる神(ばんぶつの そうぞうしゅたる かみ)に対する越権行為(えっけん こうい)であり,
・それは神の善に反逆したあらゆる悪の霊(かみの ぜんに はんぎゃくした あらゆる あくの れい)と同様の行為(どうようの こうい)である.
・全能の神(ぜんのうの かみ)は,この世の万物の所業(このよの ばんぶつの しょぎょう)を熟知(じゅくち)される.
・この神の「真理・真実」に手を加える(てを くわえる)者があれば,その者は必然的(ひつぜん てき)に,その「真理」により断罪(だんざい)される.
・この世の万物(このよの ばんぶつ)はすべてこの「真理(=神)」の摂理のうちに存在(「しんり〈=かみ〉」の せつりの うちに そんざい))しており,不滅・不変の普遍的真理(ふめつ・ふへんの ふへんてき しんり)は,決(けっ)して人間の手(にんげんの て)によって移り変わって(うつり かわって)いくようなものにすることはできない.
・唯一の真の神は,御子イエズス・キリストの姿を取られて(おんこ いえずす・きりすとのすがたを とられて),地上に降りて来られ(ちじょうに おりて こられ),聖マリアよりお生まれになり,この「真の理(まことの ことわり)」を証明(しょうめい)された.
・キリストの御母(きりすとの おんはは),聖母(せいぼ)マリア(せいぼ まりあ)は,神の御母(かみの おんはは)であり,キリストを証明される方(しょうめい される かた)であり,私たち人間の信仰(わたしたち にんげんの しんこう)によって人類の御母(じんるいの おんはは)となられ,私たち人類の救霊(きゅうれい)を救世主(きゅうせいしゅ)キリストにとりなされる.
・このカトリックの真理は不変であり,神の被造物にすぎない有限の地上の人間(かみのひぞうぶつに すぎない ゆうげんの ちじょうの にんげん)のように移り変わって(うつり かわって)いくことはない.
・新約聖書・聖ヨハネによる福音書,聖ヨハネによる第一の書簡,聖ヨハネの黙示録,使徒聖パウロの書簡などを参照.
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