2014年4月26日土曜日

354 抵抗方針 II 4/26

エレイソン・コメンツ 第354回 (2014年4月26日)

     牧者(ぼくしゃ)が倒れたままの状態(たおれた ままの じょうたい)でも信仰を守り続け(しんこうを まもり つづけ)なければなりません(エレイソン・コメンツ348号を参照)( "The Faith must be preserved despite the Shepherd being struck (cf. EC 348)." ).苦難の時期に( "in stricken times" ),私たちがどうやってミサ聖祭の本当の犠牲(みさ せいさいの ほんとうの ぎせい)(訳注後記1)とカトリック教聖職の本分(かとりっく きょう せいしょくの ほんぶん)を保持(ほじ)し( "by preserving the true sacrifice of the Mass and the true Catholic priesthood" ),信仰を守るかを示す(しんこうを まもるかを しめす)ため( "to show us how to keep the Faith" )神が私たちに与えられた人物(わたしたちに あたえられた じんぶつ)がいるとすれば,その人は間違(まちが)いなくルフェーブル大司教(1950-1991年)(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre (1905-1991) " )です( "If there was one man given to us by God to show us how to keep the Faith in stricken times, by preserving the true sacrifice of the Mass and the true Catholic priesthood, that man was certainly Archbishop Lefebvre (1905-1991)." ).そして,第二公会議派の牧者たち(だいに こうかいぎはの ぼくしゃたち)( “the Consiliar Shepherds” )が教会にもたらした災難(きょうかいに もたらした さいなん)( “the disaster” )は大司教が存命中の頃(ぞんめいちゅうの ころ)から本質的(ほんしつ てき)になにも変(か)わっていないため,彼が話され,書き残されたこと(はなされ,かき のこされた こと)は本質的にそのまま現代(げんだい)にも当て(あて)はまります( "And since the disaster wrought upon the Church by the Conciliar Shepherds has not essentially changed since his time, then what he said and wrote applies essentially today, …" ).この災難(さいなん)を初めて体験(はじめて たいけん)される人々(ひとびと)にとっての最良の方法(さいりょうの ほうほう)は,大司教が残された言葉(だいしきょうが のこされた ことば)をよく読み,学ぶ(よく よみ,まなぶ)ことです( "… and any newcomer to the disaster cannot do better than read and study his words." ).(訳注後記1・ミサ聖祭の本当の犠牲について)

     だが,災難は変わらない(さいなんは かわらない)どころか,大司教の死後(だいしきょうの しご)もっとひどくなっています( "However, the disaster has also grown much worse since his death, …" ).現在,進行中(げんざい,しんこうちゅう)のいわゆる「抵抗運動」(ていこう うんどう)( “Resistance” )に携(たずさ)わる人々は信仰を守る(しんこうを まもる)ため,大司教の並外れた業績(なみはずれた ぎょうせき)により創設(そうせつ)された聖ピオ10世会( "Society of St Pius X",以下 "SSPX" と記す〈しるす〉. )が,崩(くず)れかかっている教会主流派(きょうかい しゅりゅうは)の中(なか)で,破たん(はたん)しかかっている現実(げんじつ)から教訓を学ぶ(きょうくんを まなぶ)といいでしょう( "… and any so-called movement of “Resistance” today will do well to learn the lessons that are there to be learned from the threatening fall of that Society of St Pius X which it was the Archbishop’s stupendous achievement to found, within the collapsing mainstream Church, for the preservation of the Faith." ). SSPX の指導者(しどう しゃ)はなぜ同会を大司教の示した方向(しめした ほうこう)とまったく違う(ちがう)方向へ導(みちび)こうとしているのでしょうか?( "Why is the leadership of the SSPX now taking it in a direction different from the Archbishop’s, …" ) しかも彼らが目指す(めざす)方向をたどれば, SSPXは教会主流派と同じように崩壊へ向かう(ほうかいへ むかう)というのにです( "… a direction that must lead to the SSPX’s entirely similar collapse ? " ).

     私の意見(わたくしのいけん)では,その理由(その りゆう)は,大司教の1991年の死後(しご), SSPX が1994年と2006年の総会(そうかい)( "the General Chapters of 1994 and 2006" )で選出した指導者たち(せんしゅつした しどうしゃたち)が公会議のもたらした災難を正確に受け止め(せいかくに うけとめ)なかったからです( "Because, in my opinion, the leaders which the SSPX chose for itself after the Archbishop’s death in 1991 at the General Chapters of 1994 and 2006, never took the full measure of the Conciliar disaster, …" ).そして,その理由は破壊(はかい)された1950年代や革命的(かくめいてき)1960年代以降(いこう)においてさえ,彼ら指導者たちがまだ子供(こども)だったからです( "… because they were children of the undermined 1950’s or the Revolutionary 1960’s and later still." ).彼らは革命期間中(かくめい きかん ちゅう),言(い)うなれば,母乳を飲んで(ぼにゅうを のんで)いたわけです( "Having drunk in the Revolution with their mothers’ milk, so to speak, …" ).そのため,彼らは革命がいかに外見上(がいけんじょう)カトリック教徒に見える聖職者(かとりっく きょうとに みえる せいしょくしゃ)たちを内部(ないぶ)から蝕む(むしばむ)かまったく理解(りかい)しませんでした( "… they never understood how it wrecks from within churchmen still seeming Catholic without. " ).手短に言えば(てみじかに いえば),彼ら指導者たちは近代主義(モダニズム)(きんだい しゅぎ〈もだにずむ〉)( “modernism” )をまったく学(まな)ばなかったか,学んでもその内容を理解(ないようを りかい)しなかったか( "In brief, these leaders have either never studied modernism, or never understood what they studied, …" ),あるいはあまりにも「敬虔深く(けいけん ふかく)」( “pious” )「超自然的(ちょうしぜんてき)」( “supernatural” )だったため( "… or have been too “pious” or “supernatural” to think that …" ),目の前(めの まえ)にいる主流派聖職者(しゅりゅうは せいしょく しゃ)に近代主義が当(あ)てはまるなどと思(おも)いもしなかったかのいずれかです( "… it could apply to the mainstream churchmen in front of them." ) .

     そのようなわけで,ルフェーブル大司教が公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)はカトリック教会の四つの特徴( "four marks of the Catholic Church" )(かとりっく きょうかいの よっつの とくちょう)(唯一,神聖,普遍的,使徒的)( "(one, holy, catholic, apostolic)" )(ゆいいつ・しんせい・ふへんてき・しとてき)をすべて失(うしな)っているからカトリック教会(=公教会〈こうきょうかい〉)ではないと明確に判断(めいかくに はんだん)したのに対し( "Thus where Archbishop Lefebvre saw clearly that the Conciliar Church, by losing all four marks of the Catholic Church (one, holy, catholic, apostolic), was not the Catholic Church, …" ),フェレー司教(1994年いらいSSPX総長)( "Bishop Fellay (Superior General since 1994) " )とニコラス・フルーガー神父(2006年いらい第1補佐官〈だいいち ほさかん〉)( "Fr Nicholas Pfluger (First Assistant since 2006) " )は現在でも教会は一つ(げんざいでも きょうかいは ひとつ)しかなく,したがって公会議派教会カトリック教会であると主張(しゅちょう)しています( "… Bishop Fellay (Superior General since 1994) and Fr Nicholas Pfluger (First Assistant since 2006) insist today that there can only be one Church, and so the Conciliar Church is the Catholic Church." )(訳注後記2). そのため,当然(とうぜん)のことながら,大司教がSSPXと公会議派教会とのあいだに安全な距離(あんぜんな きょり)を保ち続けた(たもち つづけた)のに対し( "Naturally then, where the Archbishop kept the SSPX at a safe distance from the Conciliar Church, …" ),フェレー司教とフルーガー神父はその距離をなくし,SSPXを公会議派教会内に戻そうと望んで(のぞんで)います( "… Bishop Fellay and Fr Pfluger want to abolish that distance and bring the SSPX back within that Church which is Conciliar." ).そして,二人(ふたり)はいずれも,その目的を成し遂げる(もくてきを なしとげる)までは,自(みずか)らがカトリック信徒(かとりっく しんと)だと感じる(かんじる)( “feel Catholic” )わけにはいかないのです( "And neither Bishop Fellay nor Fr Pfluger will feel Catholic until they have achieved that end." ).(訳注後記3)

     だが,信仰(しんこう)は先ず初め(まず はじめ)に心の中(こころの なか)にあるものであり,感情の中(かんじょうの なか)にあるものではありません( "But the Faith is firstly in the mind and not in the feelings." ).したがって,いかなる理由(りゆう)にせよ,現SSPX指導部が間違った道を歩んで(まちがった みちを あゆんで)いると気づき始めた人(きづき はじめた ひと)は誰(だれ)でも革命,近代主義,第二バチカン公会議(かくめい・きんだい しゅぎ・だいに ばちかん こうかいぎ)についてのあらゆる問題点(もんだい てん)を学び続け(まなび つづけ)なければならないということになります( "It follows that whoever has, for whatever reason, begun to recognize that the present leadership of the SSPX is on the wrong track, must continue by studying the total problem of the Revolution, of modernism and of Vatican II." ).これは難題(なんだい)でしょう.革命については教科書(きょうかしょ)から得られる程度(えられる ていど)の知識(ちしき)はあっても,身近(みぢか)にはっきりと認識(にんしき)することはできないからです( "That is a tall order, because one can have a text-book knowledge of the Revolution and still not recognize it right under one’s nose. " ).私はほかの人々が気分爽快(きぶん そうかい)だと感(かん)じていると自分自身(じぶん じしん)も気分爽快になり( "I feel so nice when I feel that everybody else is nice …" ),神が私たちのほとんどについて客観的に偽って(きゃっかんてきに いつわって)いると見ている(みている)ことを見失って(みうしなって)しまいます( "… that I lose from view the objective falsity of almost all of us as seen by God." ).神が偽りと見ている(いつわりとみている)ことを私たちが慈悲心を失わずに理解(じひ しんを うしなわずに りかい)するには,神の特別の恩寵(かみの とくべつな おんちょう)がなければ無理(むり)だという人(ひと)がいるかもしれません( "One may say that it requires a special grace from God to see that falsity as he sees it, without losing one’s compassion, …" ).だが,人はとりわけ祈り(いのり)のなかで神を真剣に求め(かみを しんけんに もとめ)れば神の恩寵を得られる(かみの おんちょうを えられる)ものです( "… but a soul can obtain that grace if it seeks God seriously, especially in prayer." ).

     神は神を求める者に優しい(かみは かみを もとめる ものに やさしい)と,聖書(せいしょ)はいたるところで述べて(のべて)います( "God is good to those that seek him, says Scripture in many places." ).神が存在(かみが そんざい)するとすれば,神を求める者にとって神ほど優しい存在(そんざい)はほかにあるでしょうか?( "Assuming he exists, what could he be other than supremely good to those that seek him ? " )(訳注後記4)

     キリエ・エレイソン.

     今日の世界は自らを素晴らしいと感じているが,
    (こんにちの せかいは みずからを すばらしいと かんじて いるが,)
    ( "All of today’s world feels that it is nice, …" )

     神の御目には,それは自己欺瞞の悪徳と映る.
    (かみの おんめ には,それは じこ ぎまんの あくとくと うつる.)
    ( "But in God’s eyes that’s self-deceiving vice." )


    リチャード・ウィリアムソン司教




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訳注メモ


第1パラグラフの訳注1:
ミサ聖祭の本当の犠牲について


第4パラグラフの訳注2:
カトリック教会の四つの特徴(唯一,神聖,普遍的,使徒的) について
four marks of the Catholic Church (one, holy, catholic, apostolic)


同パラグラフの訳注後記3:
カトリック教会(=公教会)の意味について

・世界の人間の誰にとっても正しくあてはまる,唯一の真(まこと)の神による人生をどう生きるべきかについての教えは,古今東西において普遍的な真理・真実であり,それを公の教え(おおやけのおしえ)すなわち普遍的な教え(ふへんてきなおしえという.(聖ヨハネ聖福音書:第1章を参照).

・神に創造された人間がその唯一の真の教えに則(のっと)って生きるために,

・公教会すなわち日本では現在「カトリック教会」と呼ばれる場所で学ぶ.

・神の使者・救世主・人類の罪の贖い主たる神の御独り子イエズス・キリストの定められた代理者(=聖ペトロ〈最初のローマ司教〈=ローマ教皇〉〉及び

・その使徒的継承者たる歴代ローマ司教〈=歴代ローマ教皇〉を通じて,唯一の真の神からの権威を授けられている全世界各地の司教を通して,

・諸々の秘蹟(ひせき)(洗礼・堅振〈堅信〉・聖体・悔悛〈かいしゅん〉〈=ゆるし〉・終油〈病者の塗油〉・品級〈叙階〉・婚姻〈結婚〉の諸秘蹟)を受け,

・神の御加護のもとに,地上の天職に与(あずか)り,

・神の慈愛と正義による法(=モーゼの十戒・キリストの教え)に則って,また天の神なる主(自分の生命の源)のもとに召されるまで,

・一生涯を現世(地上)で正しく遂げるよう,

・義務づけられている.

・義務なのは,これは世に存在する万物の創造主たる神の命令だからである.


第6パラグラフの訳注4:

・現世に全く裏切られた不幸な人にとって,
神ほど最高に優しく,善良で,真実な存在は他にない.

・人生が順調に進んでいる時は,自分も死の前に必然的な心の災難・自分の存在の危機・恐怖感に直面するということを,人はなかなか理解できない.

・悪の誘惑は諸々の娯楽・快楽を通して来る.それが人間の心身を不穏にし滅びをもたらす.

・「自分」を慎む習慣が節制・摂生で,こうして我欲を戒めることを忘れると,たやすく悪に流れる.

・神の御加護のもとで正しく(つまり他者を傷つけることなく)楽しみを得ることが,心身の健康に肝心である.




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訳注を追補いたします.
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