2014年8月23日土曜日

371 抵抗運動は失敗か? 8/23

エレイソン・コメンツ 第371回 (2014年8月23日)

     私が先週のエレイソン・コメンツ(わたくしが せんしゅうの えれいそん・こめんつ)( EC 370回)で「抵抗運動(ていこう うんどう)」が「あまり進展(しんてん)していないように見える(みえる)」と述(の)べたことについて,読者の一部(どくしゃの いちぶ)からはっきりとした異議申し立て(いぎ もうし たて)がありました( "Some readers of these « Comments » no doubt objected to the reference made last week (EC 370) to the « Resistance » presently making « little apparent headway »." ).彼らは私が果敢(かかん)に戦闘準備命令を出した方(せんとう じゅんび めいれいを だした ほう)がよかったのにと思(おも)われたかもしれません( "They might have preferred a valiant call to arms." ).だが,私たちは現実的な態度を持ち続け(げんじつ てきな たいどを もち つづけ)なければなりません( "But we must stay real." ).一例を挙げ(いちれいを あげ)ましょう.ブラジル(ぶらじる)にある伝統派(でんとうは)のカンポス教区(かんぽす きょうく)( "the Traditional diocese of Campos in Brazil" )が2002年(にせんに ねん)に新ローマ(教皇庁)(しんろーま〈きょうこうちょう〉)( "Newrome" )の手中に落ちた時(しゅちゅうに おちた とき)( "For instance, when the Traditional diocese of Campos in Brazil fell back into the arms of Newrome back in 2002, …" ),私たちの何人か(わたくしたちの なんにんか)はディ・カストロ・マイエル司教(でぃ かすとろ まいえる しきょう)( "Bishop de Castro Mayer" )の神学校で養成(しんがっこうで ようせい)されたおよそ25名の司祭(にじゅうごめいの しさい)たちのうち,少(すく)なくとも数名(すうめい)は隊列を離れ反対に回る(たいれつを はなれ はんたいに まわる)だろうと言(い)わなかったでしょうか?( " … did not several of us say that out of some 25 priests formed in Bishop de Castro Mayer’s school, at least a few would break ranks ? " ) だが実際(じっさい)には,司祭たちのなかで自立(じりつ)して,善良な司教による真の伝統擁護(ぜんりょうな しきょう による まことの でんとう ようご)を共に続けた者(ともに つづけた もの)はひとりもいませんでした( "Yet not one of them has gone independent since then to continue the good Bishop’s true defence of Tradition, …" ).彼らはすべて程度の差(ていどの さ)こそあれ今(いま)ではネオモダニスト(ねお もだにすと)( "neomodernist" )の滑り台に乗って(すべりだいに のって)います( "… and so all of them are more or less on the neo-modernist slide." ).それでも,私たちが現実的な態度(げんじつ てきな たいど)を確かに持ち続け(たしかに もちつづけ)ていれば,(そのような事態〈じたい〉が起〈お〉きても)何も言う(なにも いう)ことはありません( "However, if we do stay real, there is not nothing to be said." ).

     先ず初め(まず はじめ)に,神は神(まず はじめに,かみは かみ)です( "First of all, God is God, …" ).ですから神はこのような危機(きき)を私たちの流儀(りゅうぎ)でなく御自ら(おん みずから)の流儀で起(お)こされます( "… and he is conducting this crisis his way and not ours." ).「私の考え(かんがえ)はあなたたちの考えではない,あなたたちの流儀(りゅうぎ)は私の流儀ではない,と主は言われ(しゅは いわれ)ます.」(旧約聖書〈きゅうやく せいしょ〉・イザヤの書:第55章8節〈いざやの しょ:だい ごじゅうご しょう はっせつ〉)( " “My thoughts are not your thoughts, your ways are not my ways, says the Lord” (Is. LV, 8). " )(訳注後記1).私たちは先見の明(せんけんの めい)ある諸々の司祭(もろもろの しさい)たちや一般信徒(いっぱん しんと)が手を取り合って立ち上がり神の敵に立ち向かう(てを とりあって たちあがり かみの てきに たちむかう)ことを夢見(ゆめ み)ます( "We dream of the clear-sighted priests and laity banding together to stand up to his enemies, …" ).だが,神は御自らの羊や教会の世話(おん みずからの ひつじや きょうかいの せわ)をしてもらうために,誰か他の者(だれか ほかの もの)の「抵抗運動(ていこう うんどう)」( " “Resistance” " )など必要(ひつよう)としません( "… but God does not need anybody’s “Resistance” to look after his sheep or save his Church." ).40年前(よんじゅう ねん まえ),ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )は一握りの仲間の司祭(ひとにぎりの なかまの しさい)たちが側(そば)にいてくれて,公会議派の強圧的な力を遮る(こうかいぎはの きょうあつてきな ちからを さえぎる)ためバリケードを打ち立て(ばりけーどを うちたて)てくれればと期待(きたい)しました( "Forty years ago when Archbishop Lefebvre hoped for and looked for a handful of fellow-bishops to stand beside him in public and throw up a real road-block in the way of the Conciliar steam-roller, …" ).本気で探せば(ほんきで さがせば),そのような司祭(しさい)たちは見(み)つかったでしょうが,大司教は決(けっ)してそうしませんでした( "… surely he might have found them, but he never did." ).事実(じじつ),神は現状を救う(かみは げんじょうを すくう)ためきっと介入(かいにゅう)されるでしょうし( "In fact when God intervenes to save the situation, …" ),実際(じっさい)にされるとすれば,それは神が御自身の御母(=聖母)を通して(かみが ごじしんの おんはは〈=せいぼ〉をとおして)なされる御自身の行動(こうどう)であるのは明白(めいはく)です( "… as he certainly will, it will be obvious that the rescue was his doing, through his Mother. " ).

     第二(だいに)に,5世紀以上(ごせいき いじょう)もはびこり続(つづ)ける人間中心主義の中(にんげん ちゅうしん しゅぎの なか)で,人間(にんげん)があまりにもひどく神,すなわち万軍の主なる神(ばんぐんの しゅ なる かみ)を,無視(むし)するようになってしまったため( "Secondly, more than five centuries of rampant humanism have made man so ignorant of God, the Lord God of Hosts, …" ),人類(じんるい)は教訓(きょうくん)を学(まな)ばなければならなくなっており,それも手荒な方法(てあらな ほうほう)でなければ学べないほどの状態(じょうたい)です( "… that mankind has to be taught a lesson which it will not learn except the hard way." ).聖イグナティウス(=イグナシオ)(せい いぐなてぃうす〈=いぐなしお〉)( "St Ignatius" )の諸霊魂識別(しょ れいこん しきべつ)のための14の法則(じゅうよんの ほうそく)( "14 Rules for the Discernment of Spirits" )の第9条(第1週目)(だい きゅう じょう〈だい いっしゅう め〉)は人間の精神的荒廃(せいしんてき こうはい)が起(お)こる3つの主な理由(みっつの おもな りゆう)を以下の通り挙げ(いかの とおり あげ)ています( "The ninth of St Ignatius’ 14 Rules for the Discernment of Spirits (first week) gives three main reasons for a soul’s spiritual desolation, …" ).これは,今日の教会の荒廃(こんにちの きょうかいの こうはい)にも当て(あて)はめうるものです:--( "… which can be applied to the Church’s present desolation:-- " )

     1 神は私たちの精神的中途半端さや怠慢(せいしんてき ちゅうと はんぱさや たいまん)を罰(ばっ)します( "1 God punishes us for our spiritual lukewarmness and negligence." ).世界的な背教や物質主義,快楽主義(せかいてきなはいきょうやぶっしつしゅぎ,かいらくしゅぎ)がどのような世界的な罰に値(せかい てきな ばつに あたい)するのかを知(し)っておられるのは神だけです( "God alone knows today just what a worldwide chastisement is deserved by our worldwide apostasy and plunge into materialism and hedonism." ).

     2 神は私たちの心の内に本当は何(こころの うちに ほんとうは なに)があるのか,私たちがどれほど神に依存(かみに いぞん)しているのかを示(しめ)すため私たちを試練に遭遇(しれんに そうぐう)させ試(ため)されます(=裁〈さば〉きにかけます)( "2 God puts us to the trial to show us what is really inside us, and how we depend on him." ).現代人(げんだい じん)は自分(じぶん)たちの方(ほう)が万能の神(ばんのうの かみ)より宇宙(うちゅう)をうまく取り仕切(とりしき)れると真面目に考え(まじめに かんがえ)ているのではないでしょうか?( "Does not modern man seriously think that he can do a better job of running the universe than Almighty God ? " )そして,人間のちっぽけな努力が失敗(どりょくが しっぱい)するまで神の真実が沈む(かみの しんじつが しずむ)ことはないと思(おも)っているのではないでしょうか?( "And might it be that God’s truth will not sink in until all of man’s own little efforts have failed ? " )

     3 神は私たちの誇(ほこ)りやうぬぼれを止(や)めさせるため,私たちを惨(みじ)めにして,誇りと虚栄(=自尊心と虚飾)を傷つけます(ほこりと きょえい〈=じそんしんと きょしょく〉を きずつけます)( "3 God humbles us with desolation to cut short our pride and vainglory." ).唯一の真の神の唯一の真の教会の指導者(ゆいいつの まことの かみの ゆいいつの きょうかいの しどうしゃ)たちから生(う)まれた第二バチカン公会議(だいに ばちかん こう かいぎ)は,神の不変の教会(かみの ふへんの きょうかい)( "God’s unchanging Church" )より人間の現代世界(にんげんの げんだい せかい)( "man’s modern world" )を優先(ゆうせん)させるという前代未聞(ぜんだい みもん)の人間のうぬぼれが突出した結果(とっしゅつ した けっか)ではなかったでしょうか?( "Coming from the chief ministers of the one true religion of the one true God, was not Vatican II an unprecedented outburst of human vainglory, preferring man’s modern world to God’s unchanging Church? " )そして,ちっぽけな聖ピオ十世会(せい ぴお じゅっせい かい)( SSPX )はその教会を救(すく)えると考(かんが)えたのでしょうか?( "And the little Society of St Pius X thought that it could save the Church ? " )「抵抗運動」が正当に謙虚さ(せいとうに けんきょさ)をもってその諸々の要求や大志(もろもろの ようきゅうや たいし)を追及(ついきゅう)しなくなれば,目的達成前に消える運命(もくてき たっせい まえに きえる うんめい)を辿(たど)るでしょう( "Unless the “Resistance” remains duly modest in its claims and ambitions, it is doomed in advance." ).

     その大志とは何(なん)であるべきでしょうか?( "Then what should those ambitions be ? " )なによりも先(ま)ず,信仰を守る(しんこうを まもる)ことです( "First and foremost, to keep the Faith, …" ).信仰なくしては神に満足して(=喜んで)(しんこう なくしては かみに まんぞく して〈=よろこんで〉)いただくことはできません(新約聖書・ヘブライ人への手紙:第11章6節)(訳注後記2)( "… without which it is impossible to please God (Heb. XI, 6) " ).そして信仰についてはカトリック教信仰宣言に明示される(かとりっくきょう しんこう せんげんに めいじ される)教理,に示されています( "… and which is expressed in doctrine, in the Catholic Creed." ).第二に,その信仰をとくに具体的(ぐたいてき)に,必要(ひつよう)とあれば殉教(じゅんきょう)によって実証(じっしょう)することです(martyr〈=殉教者〈じゅんきょう しゃ〉〉は「witness〈=証人〈しょうにん〉〉」を意味〈いみ〉するギリシア語〈ぎりしあ ご〉です)( "Secondly, to give witness to that Faith, especially by example, if necessary unto martyrdom (“martyr” is the Greek word for “witness”). " ).したがって「抵抗運動(ていこう うんどう)」がどのように組織(そしき)されようと,あるいはされまいと( "So howsoever the “Resistance” is or is not organized, …" ),それは持てる資源(もてる しげん)をたとえわずかなりとも,人々の霊魂が信仰を守る(ひとびとの れいこんが しんこうを まもる)手助け(てだすけ)をすることに捧げ(ささげ)なければなりません( "… it must devote its resources, however meagre, to whatever will help souls to keep the Faith." ).そうすれば,「抵抗運動」の真実(しんじつ)に向(む)けられた立場(たちば)はしかるべく認識(にんしき)されるはずですから( "Then, since its stand for the Truth is bound to be recognizable as such, …" ),それが存在(そんざい)するだけで信仰擁護を実証(しんこうようごを じっしょう)していることになり,失敗に終わる(しっぱいに おわる)ことはありません, ( "… merely by existing it will not be failing, because it will be giving witness." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


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第2パラグラフの訳注1:

旧約聖書・イザヤの書:第55章8節 
Isaias LV, 8

  『私の考えはおまえたちの考えと異なり, 私の道はおまえたちの道とは違う. 
――主のお告げ――』 

"For my thoughts are not your thoughts: nor your ways my ways, saith the Lord. " 


『…
主が,見いだされたいとおぼしめす間に,主をさがし求めよ.
主が近くにおられる間にこいねがえ.
悪人はその道を,
邪悪な者はその小道を捨てて,主に帰れ.
主はあわれまれる,
寛大にゆるしをくださる神に帰れ.
私の考えはおまえたちの考えと異なり,
私の道はおまえたちの道とは違う.
――主のお告げ――
天が地よりも高いように,
私の道はおまえたちの道より高く,
私の考えは,おまえたちの考えよりすぐれている.
雨と雪は,天からくだって地をうるおし,肥やし,芽生えさせる.
それは,種まく者に種をまかせ,食べる者にパンを与えるためであり,そうするまで天にはもどらない.そのように,私の口から出たことばは望みどおり行わず,また,私の送ったことを実現せぬままにからでもどってくることはない.
そうだ,おまえたちは喜んで出発し,
平和のうちに連れもどされる.
山と丘は喜びの叫びをあげ,
野の木々は手をうつ.
茨のかわりにいとすぎがのび,
いらくさのかわりにミルトの木が生える.
これは主の光栄のため,
消えることのない永遠のしるしとしてである.』





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訳注を続けます.

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(注:本投稿記事〈第371回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月18日23:30に公開されました.)