2012年2月26日日曜日

241 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義) -1- (2/25)

エレイソン・コメンツ 第241回 (2012年2月25日)

バチカン公会議のエキュメニズム “conciliar ecumenism” (訳注・=世界教会主義,世界統一主義)に関する貴重な研究論文がヴォルフガング・シューラー博士 “Dr. Wolfgang Schüler” という人物によって書かれ数年前にドイツで刊行されました.その著書 “Benedict XVI and How the Church Views Itself” (訳注・直訳「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」の中で,シューラ―博士は第二バチカン公会議によって解放されたエキュメニズムがカトリック教会の自己理解を変質させたと論じ,一連の引用を用いてジョセフ•ラッツィンガー “Joseph Ratzinger” (訳注・教皇ベネディクト16世の本名) が司祭,枢機卿さらに教皇として,第二バチカン公会議の時から今日に至るまで一貫してこの変質を推進してきたことを証明しています.博士によると,同教皇は自ら行ってきたことを恥じる可能性もなさそうです.

論理的な順序にしたがって - これには「エレイソン・コメンツ」一回分以上の分量を要します - まず真のカトリック教会の自己認識について目を向けてみましょう.そしてシューラ―博士の助けを借りて,この真の教会の持つべき本来の正当な自己認識が第二バチカン公会議によりどのように変えられたか,教皇ベネディクト16世がいかに一貫してこの変質を推進してきたかを見ることにしましょう.最後に,真のカトリック信仰を維持したいと願っているカトリック信徒たちのために出てくる諸々の結論を引き出してみることにしましょう.

真のカトリック教会は常にひとつの有機的統一体,すなわち,カトリック信仰,諸秘蹟そしてローマの階層(階級)制度により結ばれる人たちで構成される唯一にして神聖かつ普遍的な使徒継承たる一社会と自認してきました.( “The true Catholic Church has always seen itself as an organic whole, a society one, holy, catholic and apostolic, consisting of human beings united by the Faith, the sacraments and the Roman hierarchy.” )この教会は限りなく唯一の存在であって,教会がカトリック(普遍・公〈おおやけ〉・万人〈ばんにん〉の)たることを止めない限りその破片のひとつたりともそこから断ち切ったり取り除いたりは決してできません(ヨハネ聖福音書:第15章4-6節を参照してください)( “This Church is so much one, that no piece can be broken off or taken away without its ceasing to be Catholic (cf. Jn. XV, 4-6).” )(訳注後記).たとえば,カトリック信者の主要構成要素たるカトリック信仰は断片的に少しずつ持つということはできず,そのすべてを(少なくとも暗黙のうちに)持つか,さもなければ全く持たないかのいずれかです.( “For instance, that Faith which is the prime constituent of the Catholic believer cannot be held piecemeal, but must be held either altogether (at least implicitly) or not at all.” )これは何故かと言えば,私が信じるカトリック信仰の諸条項は神の権威の上に基づき明らかにされるものですから,もし私が諸条項のただ一つでも信じないとすれば,他のすべての条項の背後にある神の権威を拒否したということになり,その場合たとえ他の条項をすべて信じるとしても,私の信仰はもはや神の権威の上にではなく,ただ私自身の選択の上に基づいているだけということになるからです.

事実,「異教徒」 “heretic” という言葉はギリシア語の「選択する」 “to choose” ( hairein )から来ています.したがって,異教徒の信仰は自らの選択にすぎず,それで信仰の超自然的な徳( “the supernatural virtue of faith” )を失っているわけですから,たとえ信仰個条の一条項だけを拒否しているにすぎなくても,彼はもはやカトリック教徒ではないのです.アウグスティヌス “Augustine” のある有名な言葉に次のようなものがあります.「あなたはほとんど私と共にあり,私と共にないことはわずかしかない.だがその私と共にないわずかのために,ほとんど私と共にあることがあなたにとってなんの役にも立たなくなる.」( “In much you are with me, in little you are not with me, but because of that little in which you are not with me, the much in which you are with me is of no use to you.” )

たとえば,プロテスタント信者は神を信じ,ナザレトの人間イエズスの神性 “the divinity of the man Jesus of Nazareth” まで信じているかもしれません.だが,もしミサ聖祭で聖別された後のパンとぶどう酒の外観の下(もと)で,神の実在,すなわち(神たるキリストの)御聖体,御聖血,御霊魂そして神性がそこに現実に存在しておられること( “…the Real Presence of God, body, blood, soul and divinity, beneath the appearances of bread and wine after their consecration at Mass,…” )を信じなければ,彼はイエズス・キリストおよび彼の信じる神の愛についてまったく異なる不完全な概念を持っているということになります.では真のプロテスタント教と真のカトリック教は同じ神を信仰していると言えるでしょうか? 第二バチカン公会議はそう言えるとしており,カトリック教徒とあらゆる非カトリック教徒が多かれ少なかれ共有していると想像される信念を土台に(訳注・同公会議流の)世界主義 “its ecumenism” を構築しています.これとは逆に,シューラー博士は一連の比較を用いて,同じ信念のように見えるようでも,それが二つの異なる信条の一部を形成する場合は,実際には全く同じでないことを例証しています.ひとつ実例を挙(あ)げましょう.酸素(さんそ)分子は窒素(しっそ)と混合しても水素(すいそ)と混合しても同一分子ですが,私たちが飲む水( H20 )と呼吸する空気( O+4N )という2例においては相異なるものです! 引き続き次回をお楽しみに.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第3パラグラフの訳注:
新約聖書・ ヨハネによる聖福音書:第15章4-6節 (太字部分)(15章全章を掲載いたします).
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN XV, 4-5 (XV, 1-27)

ぶどうの木と枝
『「私はほんとうのぶどうの木で,私の父は栽培する者である.*¹父は私にあって実を結ばぬ枝をすべて切り取り,実を結ぶ枝をすべて,もっと豊かに結ばせるために刈り込まれる.あなたたちは,私の語ったことばを聞いたことによってすでに刈り込まれた者である.

私にとどまれ,私があなたたちにとどまっているように.木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが,あなたたちも私にとどまらぬならそれと同じである.
私はぶどうの木で,あなたたちは枝である.私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ.私がいないとあなたたちには何一つできぬからである.
私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ、枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう
.(4-6節)

あなたたちが私にとどまり,私のことばがあなたたちにとどまっているなら,あなたたちは望みのままにすべてを願え.そうすればかなえられるだろう.*³あなたたちが多くの実をつけることは,私の父の光栄であり,そして,あなたたちは私の弟子になる.
父が私を愛されるように私はあなたたちを愛した.私の愛にとどまれ.私が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう.
私がこう話したのは,*⁴私の喜びがあなたたちにあり,あなたたちに完全な喜びを受けさせるためである.』

まことの愛
『私が愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと,これが私のおきてである.
友人のために命を与える以上の大きな愛はない.
私の命じることを守れば私の友人である.これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない.しもべは主人のしていることを知らぬものである.私は父から聞いたことをみな知らせたから,あなたたちを友人と呼ぶ.
あなたたちが私を選んだのではなく,私があなたたちを選んだ.私があなたたちを立てたのは,あなたたちが行って実を結び,その実を残すためである.私の名によってあなたたちが父に求めるものをすべて父は与えられる.
私があなたたちに命じるのは互いに愛し合うことである.』

世の憎しみ
『*⁵この世があなたたちを憎むとしても,あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ.
あなたたちがこの世のものなら,この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう.しかしあなたたちはこの世のものではない.私があなたたちを選んでこの世から取り去った.だからこの世はあなたたちを憎む.
〈*⁶奴隷は主人より偉大ではない〉と先に私が言ったことを思い出せ.彼らが私を迫害したなら,あなたたちにも迫害を加えるだろう.彼らが私のことばを守ったなら,あなたたちのことばも守るだろう.しかし彼らは,私を遣わされたお方を知らぬから,私の名のために,あなたたちにそうするだろう.
もし私が来なかったなら,また語らなかったなら,彼らには罪はなかった.しかし今彼らは自分たちの罪の言い逃れができぬ.私を憎む者は私の父をも憎む.
今までだれ一人したことのない業を私が彼らの間で行わなかったなら,彼らには罪がなかった.しかし今彼らは,それを見ながら私たちを,私と私の父を憎んだ.それは〈*⁷彼らは理由なく私を憎んだ〉という律法のことばを実現するためだった.
私が父からあなたたちに送る弁護者,父から出る真理の霊が来るとき,それが私について証明されるであろう.あなたたちも私を証明するだろう.あなたたちは初めから私とともにいたからである」.』

(注釈)

ぶどうの木と枝(15・1-11)
*¹ 弟子は恩寵によって,イエズス自身の生命に生きる.
神は善業を行わぬ者を捨て,真実に神を愛するものに苦しみと迫害を送ってその愛を清められる
おきてに忠実な実,聖徳の実のことをいう(15・12-17,〈旧約〉イザヤの書5・7,エレミアの書2・21).

霊的な命の泉はイエズスである
信仰と愛をもってイエズスに一致しない人に救いはない.聖霊がなければ,人は永遠の救いを得るに足ることを何もなしえない.

*³ 御父は「み子」によって光栄を受けられる(14・13,21・19).

*⁴ 神のみ子,メシアとしての喜び.

まことの愛(15・12-17)

世の憎しみ(15・18-27)
*⁵ 弟子たちの愛に対立するものは,世の憎しみである.弟子たちの生活は,先生と同じ道をたどるであろう.
弟子たちを迫害することによって,世が迫害するのは,イエズス自身である(〈新約〉使徒行録9・5,コロサイ人への手紙1・24).

*⁶ 13・16,マテオ10・24参照.

*⁷ 詩篇25・19参照.

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キリストの「エルサレム入城」から「弟子ユダによる裏切り」の直前の場面まで(ヨハネによる聖福音書:第12章から17章まで)を後から追加掲載いたします.


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