2012年2月14日火曜日

239 命取りの天使主義 (Angelism) (2/11)

エレイソン・コメンツ 第239回 (2012年2月11日)

T. S. エリオット “T. S. Eliot” (1888-1965)を「疑う余地のない20世紀最大の英文学詩人 “indisputably the greatest poet writing in English in the 20th century” 」と評した現代の保守派の英国人作家ロジャー・スクルートン “Roger Scruton” は,21世紀初頭の今日かろうじて指先一本で自(みずか)らのカトリック信仰にしがみついているカトリック教徒たちについて興味深いことを述べています.彼は簡潔(かんけつ)に,苦しみの中に解決がある! “ …in the pain is the solution ! ” と言い,もし私たちカトリック信徒が身の回りの世俗界から苦しめられ迫害されているとすれば,それは私たちの背負っている十字架だと,彼は断じています.

エリオットは詩の世界では第一級の現代主義者(モダニスト) “Arch-modernist” でした.スクルートンが言うように「彼(エリオット)は19世紀の文学をひっくり返し,自由詩 “free verse”,(伝統からの)疎遠 “alienation”,新手法 “experiment” の時代を立ち上げました.」 エリオットが試みた高度の文化と英国国教会の教義 “Anglicanism” との究極的な結び付けは果たして彼の取り組んだ諸々の問題に満足な答えを出したのだろうかと疑問に思う方もいるでしょう.だが,彼が1922年に著(あらわ)した有名な詩作「荒地」 “the Waste Land” で現代英文詩 “contemporary English poetry” に新境地を切り拓(ひら)いたことを疑うものはいないでしょう.彼の数々の詩作がもたらした大きな影響力は少なくとも彼が時代の鼓動(こどう)に目を向けそれを正確に把握(はあく)していたことを明示しています.エリオットは現代人であり,現代の問題に真っ向(こう)から取り組みました.スクルートンは,エリオットが直面した問題を「分裂 “fragmentation”,異端 “heresy”,不信心 “unbelief” 」と要約しています.

だが,「荒地」が混沌(こんとん)の中からなにか意味あるものを見出さなかったら傑作(けっさく)とは評されなかったでしょう.この作品は第一次世界大戦 (1914-1918) の荒廃(こうはい)の中から現れたヨーロッパの疲れ切った「文明 “civilisation” 」をわずか434行で生き生きと描いています.エリオットはそれをどうやってなし得たのでしょうか? その理由は,スクルートンが言っているように,第一級の現代主義者だったエリオットが同時にまた第一級の保守主義者だったからです.彼は過去の偉大な詩人,とりわけダンテ “Dante”,シェークスピア “Shakespeare” に心酔(しんすい)するかたわらボードレール “Baudelaire”,ワグナー “Wagner” といったより現代の大家たちにも没頭(ぼっとう)しました.エリオットが過去の秩序を理解していたからこそ現代の無秩序を扱い得たことは「荒地」を読めば明白です.

スクルートンは,もしエリオットが19世紀の英詩の持つ偉大なロマン主義(=ロマン派)の伝統 “…the great romantic tradition of 19th century English poetry, ” の吹き飛ばしたとすれば,そのロマン主義 “Romanticism” が彼の時代の現実にもはや合わなくなってしまっていたからだろうと論評し,次のように述べています.「彼(エリオット)は自分と同年代の文学者たちが陳腐(ちんぷ)な詩作の語法やリズムを使う “…his contemporaries’ use of worn-out poetic diction and lilting rhythms” のは道徳的な弱さからくるのであり,生活をありのまま見ず自らの経験することに感ずべきことを感じないからだと考えました.そして,エリオットはその傾向は文学に限ったことではなく,現代生活のあらゆる面にみられると感じていました.」 したがって,エリオットの作品が新しい文学的作風を求めたとすれば,その対象はもっと大きなもの,すなわち「現代の経験の実感」 “for the reality of modern experience.” だったのです.

ところで,私たちは同じような道徳的弱さをカトリック教会内部にも見てきたし,現在も見ているのではないでしょうか? 1950年代の教会の弱さを「50年代主義」  “Fiftiesism” とみなし,これが1960年代の第ニバチカン公会議に直接つながったと言えるでしょう.それは,まさしく近代社会をありのまま直視することを拒(こば)んだことにほかなりません.さもなければそれは何だったのでしょうか? 物事はすべて素晴らしく,人は皆(みな)素晴らしいものと装(よそお)っていたことでしょうか? 自分が天使のような心構(こころがま)えに身を包んでいれば革命的な世界に置かれた教会の諸問題はすべて流れていってしまうものと装っていたことでしょうか? そして今現在,教皇庁が本当はカトリック教の伝統を望んでいるのだと装うとすれば,それは現代社会の実態直視を本質的に拒むのとどれほど違うというのでしょうか? エリオットが感傷主義は本当の詩を殺してしまう “…sentimentality is the death of true poetry” と私たちに教えてくれたように,ルフェーブル大司教はそれが真のカトリック教を死に追いやることだ “…it is the death of true Catholicism.” と私たちに示してくださいました.有数の保守主義者だった同大司教は本当の意味での近代主義的カトリック教徒でした “The arch-conservative Archbishop was the truest of modern Catholics.”.

カトリック信徒の皆さん,今日の現実社会はあらゆる種類の腐敗(ふはい)にあふれ,そのいずれかの手段で私たちを苦しめて( “crucifying” )いることでしょう.だが,喜びなさい,繰り返し,聖パウロは言います,喜びなさい,なぜなら,現代私たちにふりかかっている十字架を私たちが自(みずか)ら引き受けることが私たちにとっての唯一の救いであり,カトリック教義(信仰)の唯一の将来につながるからです “…rejoice, again, says St Paul, rejoice, because in our own acceptance of our modern Cross today is our only salvation, and the only future for Catholicism.” .(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


最後のパラグラフの訳注:
「喜びなさい…」について,新約聖書からの引用:

使徒聖パウロによるフィリッピ人への手紙・第4章4-5節(太字下線部分)(第3章-第4章〈最後まで〉)
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE PHILIPPIANS, IV, 4-5 (CHAPTERS III and IV.)

The Philippians were the first among the Macedonians converted to the faith.
They had a great veneration for ST. PAUL, and supplied his wants when he was a prisoner in Rome, sending to him by Epaphroditus, by whom he sent this Epistle; in which he recommends charity, unity, and humility, and warns them against false teachers, whom he calls dogs, and enemies of the cross of Christ.
He also returns thanks for their benefactions. It was written about twenty-nine years after our Lord’s Ascension
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***
第3章 

偽教師
『…なおまた,兄弟たちよ,主において喜べ.あなたたちに同じことを書くのは,私にとってわずらわしいことではない.また,あなたたちにはこれが拠り所になる.
*¹犬を警戒せよ.*²悪い働き人を警戒せよ.*³切り傷を警戒せよ.神の霊によって崇敬を行い,*⁴肉に信頼するな.キリスト・イエズスを誇る私たちこそ,まことの割礼者である.』

キリストのためにパウロは何をしたか
『しかし私は,*⁵肉にも信頼をかけることができる.他のだれかが肉に信頼できるなら私はなおさらそうである.私は八日目に割礼を受けたイスラエルの民族であり,ベンヤミン族,ヘブライ人から出たヘブライ人,律法についてはファリザイ人,熱心については教会の迫害者,律法の正義については咎(とが)なき者である.

しかし,かつて私にとって益のあったそのことは,キリストのために損だと考えるようになった.
実に,主イエズス・キリストを知るという優れたことに比べれば,その他のことは何でも丸損だと思う.私はキリストのためにすべてを失う.だがキリストを得るためにはそのすべてを芥(あくた)だと思っている.

*⁶律法から出る私の正義ではなく,キリストへの信仰による正義,神から出るところの信仰に基つく正義をもって,キリストに在ることを認められ,キリストとその復活の力を知り,その苦しみにあずかり,*⁷その死をまねることによって死者からの復活に達しようと望む.

私は決勝点に達したとも,あるいはもう完成したとも言ってはいない.ただ,私はキリスト・イエズスに*⁸捕らえられた者なので,キリストを捕らえようとして*⁹走り続けている.

いやいや兄弟たちよ,私はすでに捕らえたとは思っていない.私が念じているのは一つだけである.うしろにあることを何も見ずに前に向かって驀進(ばくしん)し,まっすぐ目標をめざし,神がキリスト・イエズスによって上から私を呼ぶお召しの栄冠に向かって走る.

だから*¹⁰完成した私たちは,みなこう考えねばならない.もしある点について異なる考えがあれば,神がそれを示されるであろう.今のところ私たちの達したその点から,いつも同じ歩調で歩み続けねばならない.』

パウロの模範
『兄弟たちよ,*¹¹私にならえ.あなたたちの模範である私たちに従って生活している人々を見よ.

私がしばしば話し,今また涙とともに訴えることであるが,多くの人はキリストの十字架の*¹²敵として生活している.彼らの行く先は滅びである.彼らの神は自分の腹であり,自分の恥に誇りをおいている.彼らはこの世のことだけにしか興味をもたない.

しかし,私たちの国籍は天にあり,そこから来られる救世主イエズス・キリストを待っている.キリストは万物を支配下に置く力によって,私たちの卑(いや)しい体を*¹³光栄の体のかたどりに変えられるであろう.』

(注釈)

偽教師(3・1-3)
*¹ ユダヤ人は異邦人を犬といった.パウロはここでユダヤ教からの改宗者の中の偽教師を犬と呼ぶ.

*² 割礼と律法を強いようとする偽教師への警戒.

*³ ある異教が行っていた「切り傷」(身体の一部を傷つける行事).本来は割礼のことであるが,それを皮肉って切り傷という.「カタトメ」ということばは律法の禁じる傷であった(〈旧約〉レビ21・5,列王〈上〉18・28).

*⁴ 旧律法の制度を指す.

キリストのためにパウロは何をしたか(3・4-16)
*⁵ パウロはイスラエル人,熱心なファリサイ人として誇れるが,しかしそれは今の彼にとって無に等しい(8節,コリント人への手紙〈第二〉11・22).

*⁶ 〈新約〉ローマ人への手紙1・17,3・21,9・30,ガラツィア人への手紙2・16参照.

*⁷ 〈新約〉コロサイ人への手紙2・12,3・1参照.

*⁸ ダマスコへの途上で.

*⁹ パウロは使徒,信徒たる活躍を,競技場の競走にたとえる(コリント人への手紙〈第一〉9・26,ガラツィア人への手紙2・2,ティモテオへの手紙〈第二〉4・7).

*¹⁰ 信仰の熟した人々(コリント人への手紙〈第一〉2・6,ヘブライ人への手紙2・10).

パウロの模範(3・17-4・1)
*¹¹ キリストをまねる人としてパウロは,自分をあえて人々の模範とする(テサロニケ人への手紙〈第一〉1・6,コリント人への手紙〈第一〉4・1).

*¹² 悪い信者を暗示する.

*¹³ 復活によって(コリント人への手紙〈第ニ〉3・18).


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第4章

パウロの模範
『私の慕い愛する兄弟たちよ,私の喜びと栄冠なる者よ,愛する者よ,主において固く立て.』

さまざまの勧め
『私は*¹エウオディアに勧め,シンティケに勧める,主において仲よくせよ.私の*²まことの仲間シジゴに頼む,彼女たちを助けよ.
命の書に名を記されている*³クレメンテ,その他の協力者と同様に、彼女たちも福音のために私とともに戦った人々だからである.

主において常に喜べ.繰り返し言う,喜べ.すべての人に柔和を示せ.*⁴主は近い(4-5節).

何事も心配するな.すべてにおいて祈り,願い,感謝し,求めることを神に言え.
あらゆる人知を超える神の平和は,あなたたちの心と思いをキリスト・イエズスにおいて見守りたもうであろう.

*⁵なおまた,兄弟たちよ,すべての真(まこと),すべての気高いこと,すべての正しいこと,すべての聖なること,すべての愛すべきこと,すべての誉(ほま)れあること,すべての徳,すべての賞賛に値すること,これらのことを念頭に置け.
あなたたちは,私から習ったこと,受けたこと,聞いたこと,見たことを行え.
そうすれば平和の神はあなたたちとともにいますであろう.』

援助に感謝する
『*⁶あなたたちの私への関心が今またきざしたのを見て,主における私の喜びは深い.あなたたちはいつもそう思っていたのであろうが,よいおりがなかったのである.

乏しいからこう言うのではない.どんな場合にも私は足ることを学んできた.
私は*⁷窮乏(きゅうぼう)も富も知っている.飽くことにも,飢えることにも,富にも,貧しさにも慣れている.
私を強めたもうお方において私にはすべてができる.
ともあれ,あなたたちが私の苦難にあずかったのはよいことである.

フィリッピ人よ,福音をのべ始めるにあたり,私がマケドニアから出発したときには,どんな教会とも*⁸やりとりをせず,援助を受けたことがなかった.あなたたちだけが例外だった.
あなたたちは,私がテサロニケにいた時,一度ならず二度まで私の乏しさを助けるために,物を贈ってくれた.
私はあなたたちの贈り物を欲しがるのではない.私が望むのは,*⁹あなたたちのために利子が増えることである.私は必要な物をみな余るほど持っている.
エパフロディトからあなたたちの*¹⁰贈り物を受けたのでそれで足りる.それは神が喜んで受けて嘉(よみ)される芳(かんば)しい香りの供え物である.

私の神は,ただ神のみにできる豊かさで,キリスト・イエズスにおいてあなたたちの乏(とぼ)しさを豊富に満たしてくださるであろう.
父なる神に代々に光栄があるように.アメン.』

あいさつ
『キリスト・イエズスにおいてすべての聖徒によろしく.私とともにいる兄弟たちがあいさつを送る.すべての聖徒,とくに*¹¹チェザルの家の人々があいさつを送る.
主イエズス・キリストの恩寵があなたたちの霊とともにあるように.(*¹²アメン).』

(注釈)

パウロの模範(3・17-4・1)

さまざまの勧め(4・2-9)
*¹ 仲が悪かった婦人たち.

*²「くびきをともにする」,「忠実な友」という訳もある.シジゴという名はその意味である.
「まことの」シジゴと原文にある.「まことの」が男性形容詞なので,シジゴは男性である.

*³ クレメンテはローマの第三代教皇クレメンテだという伝説があるが,証拠はない.

*⁴ パウロは来臨が近いと言うのではない(〈新約〉テサロニケ人への手紙〈第一〉(4・15,同〈第二〉2・2).
しかし,すべての人が審判者キリストの前に出る日はいつも近い.

*⁵ この節はパウロの倫理上の訓戒を大略してある.

援助に感謝する(4・10-20)
*⁶ フィリッピからエパフロディトがもって来た援助の品々に対する感謝.

*⁷「私はすべての秘教に通じ……」という訳もある.
いくぶんユーモアをもって,キリスト教の奉仕者が味わわねばならぬ貧しさと苦しみを語る.

*⁸ パウロはフィリッピ人だけから物質的援助を受けた.
他の教会からは,物質的援助をいっさい受けずにみことばをのべた(テサロニケ人への手紙〈第一〉2・9,コリント人への手紙〈第二〉11・8-12).

*⁹ パウロに与えた寄付は,霊的利益となってもどってくる.

*¹⁰ 物質的なものを期待してはいないが,贈り物には心から感謝するパウロの温情である.

あいさつ(4・21-23)
*¹¹ 皇帝に仕える人々(奴隷も含めて).

*¹² 典礼による後の書き入れ.



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