エレイソン・コメンツ 第164回 (2010年9月4日)
「しかし司教閣下,あなたはどうして,三週間前あなたのご友人が自分の住む都市であなたにお見せしたような大都市の抱えるあらゆる社会問題に対する唯一の真の解決策は主なる神お一人のみだと言い切ることがおできになるのでしょうか(EC163)?神は政治や社会の諸問題とどういう関係があるのでしょうか?神は宗教や霊魂や精神の世界といった事柄だけに関わると私はいつも考えてきました!」
ああ,私の親愛なる友よ,神とはどなたでしょうか?神はただ私たち一人ひとりの霊魂を創造され,その霊魂を私たちの両親から生まれてくる身体と合体させるだけでなく,人類が存在し将来も存在し続けるため人類創造の業をたゆまず続けておられるのです.そういうわけで,神は私たちが自分自身に対する以上に私たち人類の一人ひとりと近しい関係にあられるのです.だからカトリック教会( “the Church” )は,私たちが隣人に対しておかすいかなる罪も,まず神に対する罪であると教えるのです.なぜなら神は,私たちが私たち自身の中にいるよりもずっと深くかつ親密に,私たちの中におられるからです.したがって,隣人を傷つける者は誰でも隣人以上に神を深く傷つけているのであり,また神に逆らうことのない者は誰でも隣人を傷つけることはしません.だとすれば,聖ピオ十世会の教区,学校で(EC163)神と神の十戒を第一に置くことを学んでいる教区民や子供たちは,大都市のあらゆる問題を,彼らの根源である隣人と隣人との間で解決することを学んでいることにならないでしょうか?
私の友人が住む大都市の社会問題を振り返ってみましょう.都心から離れた郊外の住民は大半が白人で,彼らは見かけだけの豪邸で収入にそぐわない身分不相応な暮らしをしています.彼らは金持ちのように見えたいと願っており,金持ちになるのを夢見ています.彼らは,物質主義とマンモンつまり富を崇拝しているのではないでしょうか?それとは逆に,聖ピオ十世会の教区では何を教えているでしょうか?「あなたは神とマンモンを同時に崇拝することはできません.どちらか一方だけです」(新約聖書・マテオによる福音書:第6章24節「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ.一人を憎んでもう一人を愛するか,一人に従ってもう一人をうとんずるかである.神とマンモンとにともに仕えることはできぬ.」(注釈・マンモンとはカルダイ語で富のこと)).都心に近い場所では住民の多くが非白人で,彼らはほとんど自分たちの住居をなおざりにしたままで,都市計画者たちは明らかにお手上げの状態です.だが,住居を維持管理することで良い生活や霊魂の善良さを量ろうとするのは物質主義のある種の類似形態ということにならないでしょうか?俗にことわざで,きれい好きは敬神に近い,といいますが,聖ピオ十世会の教区民は何を学んでいるでしょうか? ― 「まず神の国とその正義を求めよ,そうすれば,それらのもの(訳注・飲食物や衣服等生活用品のこと)も加えて与えられる」(マテオ聖福音書:第6章33節).言い換えれば,まず敬神を求めなさい,そうすれば清潔は後からついてくる,ということです.
最後に,都心では産業の血流は失われつつあります.何故でしょうか?産業を金融に従属させ,より大きな利益を追求する中で米国の産業を外注に委ねてしまったのは資本主義そのものではないでしょうか?人間より金銭を優先させたことが,悪化一途の失業,都心部の過疎化,金融業者への全権委譲を引き起こしてしまったのではないでしょうか?彼ら金融業者はその権力を用いて,かつての誇り高き合衆国を彼らの世界警察国家の単なる屈辱的な一部分へと加速的に変容させているのです.
このような事がどうやって起きるのでしょうか?それは,白人たちが神に背を向け,(私の友人が暗にほのめかしたように) 彼らに委ねられた,世界を神の下に導くという神授の使命を放棄し(訳注後記),富を至高の現実として崇拝していることによって起きるのです.願わくば,私が訪れた都市の郊外にある聖ピオ十世会のささやかな教区と学校とによって,神の至上性,私たちの主イエズス・キリストの至上性がいつまでも行きわたらんことを!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(最後のパラグラフの訳注)
「(白人たちに委ねられた)世界を神の下に導くという神授の使命」について
マテオ聖福音書・第28章18-20節
『(イエズスの御復活後)ガリラヤに行った十一人の弟子は,イエズスがご命令になった山に登り,イエズスに出会ってひれ伏した.しかし中には疑う人もあった.イエズスは,かれらに近づいて,おおせられた.
「私には,天と地との一切の権力が与えられている.だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき(=諸国の民に教え),聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ,*私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ.私は,世の終わりまで,常にあなたたちとともにいる」.』
(*注釈・キリスト紀元以後の歴史家が,すでに実現したと認めている尊い約束である.キリスト教会において生き,行い,勝利を得るのは,キリスト・イエズスである.)
マルコ聖福音書・第16章15-20節
『そして(イエズスは),「あなたたちは,全世界に行って,すべての人々に福音をのべ伝えよ.信じて洗礼をうける人は救われ,信じない人は亡(滅)ぼされる.信じる人々は,私の名によって悪魔をおい出し,新しいことばを話し,へびを握り,毒をのんでも害をうけず,病人に手をおいてなおすなどのしるしを見せるだろう」とお話しになった.
そう話しおえて,主イエズスは天にあげられ,神の右におすわりになった.弟子たちは,いたるところに福音をのべつたえに出発した.*主はかれらとともにはたらかれ,みことばを,それにともなう奇跡をもって,確認された.
(*注釈・使徒らが宣教する教えの真実性の証明は,彼らの学問や雄弁にあるのではなく,イエズスからの超自然的確認すなわち奇跡にある.)
「福音」についての福音書の一個所:
ヨハネ聖福音書・第3章1-21節
『さて,ファリザイ人の中に,ニコデモというユダヤ人の貴人がいた.この人は,ある夜イエズスのところにきて,「ラビ,私たちは,あなたこそ,天主からおいでになった先生だと知っています.天主がともにおいでにならないかぎり,あなたのなさっているような奇跡のできる人はないからです」といった.
イエズスが,「まことにまことに,私はいう.人は,上から(新たに)生まれないと,天主の国を見ることができない」とお答えになった.ニコデモは,「すでに年とっている人が,どうして生まれることができましょう.もう一度,母の胎内にはいって生まれることができるのですか?」といった.イエズスは,「まことにまことに,私はいう.水と霊とによって(=超自然の生活に生まれるために受ける必要がある「洗礼」を指す)生まれない人は,天の一国(=神の国)には,はいれない.肉から生まれた人は肉で,霊から生まれた人は霊である.上から生まれなければならないといってもおどろいてはいけない.*¹風は自分の思いのままに吹いているが,あなたはその声をきいても風がどこから来てどこへ行くかを知るまい.霊から生まれた人もそれと同じである」とおおせられた.そこでニコデモが,「どうしてそんなことができるのですか?」ときくと,イエズスはお答えになった.「あなたは,イスラエルの教師でありながら,そんなことを知らないのか.まことにまことに,私はいう.私たちは知っていることを話し,見たことを証明しているのに,あなたたちは私たちの証明をうけいれない.私が,地上のことを話してあなたたちが信じなかったのなら,天のことを話して信じるだろうか.
天から下った人(=天にまします人の子)のほか,天に昇ったものはない,それが人の子(=キリスト)である.*²モイゼが荒れ野で蛇を上げたように,人の子もあげられなければならない.それは,信じるすべての人が,かれによって永遠の命をえるためである.
天主はおん独子(キリスト)をお与えになるほど,この世を愛された.それは,かれを信じる人々がみな亡びることなく,永遠の命をうけるためである.天主がみ子を世におくられたのは,世をさばくためではなくて,それによって世を救うためである.み子を信じる人は裁かれないが,信じない人は,天主の*³おん独り子の名を信じなかったがために,すでに裁かれている.その審判というのは,次のようなことである.光(=天主なるキリスト)は世に来たが,人々は,その悪いおこないのために,光よりも闇を好んだ.悪をおこなう人は,光を憎み,そのおこないがあらわれることをおそれて光の方に来ないが,*⁴真理をおこなう人は,天主によってそのことがおこなわれていることをあらわすために,光のほうに来る」.』
(注釈)
*¹霊的な事柄は,風のように,人間の目で見ることのできないものである.しかし風が確かに存在していると同様に,天主の現される奥義も確かに存在する.
*²荒野の書21・4-9.ヘブライ人はモイゼがたてさせた青銅のへびを見て救われた〈上げられたへびを仰いだ者は死ななかった.〉同様に,十字架に上げられるイエズスによって,人に救いがもたらされた.
*³セム風の言い方で,「名」とはその人のことである.
*⁴光を捨てるのは,真理の要求を生活に生かそうとしないからである.真理を行う人は,恐れなく光に近寄る.
* * *
(イエズス・キリストの福音によって証された神の正義と神の愛は,イエズスの弟子(使徒)たちによりまず当時のユダヤ・パレスチナ地方を支配していたローマ帝国から入って全西洋世界へと宣べ伝えられた.そこから東洋世界やアフリカ大陸等の諸国の民への宣教は,西洋人(白人)たちに委ねられた神授の使命であったはずである.)