2010年9月26日日曜日

教理の過小評価

エレイソン・コメンツ 第167回 (2010年9月25日)

概して思慮深い雑誌といえる「カルチャーウォーズ」( “Culture Wars” )の編集長が最近,聖ピオ十世会とならんで私個人について,カトリック教会の主流派との関係を意図的に断ち切っていると切り込んできました.ここではE・マイケル・ジョーンズ編集長の見解をなるべく簡潔かつ公平にご紹介したいと思います.私の回答を容易にするため主な議論点ごとにアルファベット文字を付しました:--

第二バチカン公会議の問題は教理上の事柄に関するものではない,というのが彼の主要論点です.彼によれば,「(A) 公会議の諸文書そのものは,公会議後にその「精神」の名の下にはびこる狂気じみた状況にいささかも責任はない.文書自体に関しては,内容が曖昧(あいまい)な場合もあるが,(B) 神は常に御自身の(カトリック)教会と共にある( “with His Church” )としており,その理由から,(C) わずかでもカトリック教的なものは,第二バチカン公会議で行われたように,全世界から集まる司教たちの賛同を得ることができる.(D) したがって,ルフェーブル大司教がかつて提案されたように,その文書の曖昧さをカトリック教会の伝統( “Tradition” ) の視点に基づいて解釈すれば十分であり,かつそうすべきである.」

「したがって(E) 第二バチカン公会議はカトリック教会の伝統に則(のっと)っており( “is Traditional” ),ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間のいかなる問題も教理上のものたり得ない.(F) ゆえに,聖ピオ十世会の真の問題は同会が(霊魂の)汚染・堕落を恐れて(教会主流派側との)交わりを拒否していることであって,その姿勢は(G) 教会分離論者ゆえの寛容・愛徳( “charity” )の欠如から生じているのである.(H) 同会は結果として犯している罪を,第二バチカン公会議の反教理的姿勢のためにカトリック教会史上類を見ない緊急事態が起きているかのごとく見せかけることで覆(おお)い隠している.(I) そのために,聖ピオ十世会は,カトリック教会はその使命遂行に失敗しており,聖ピオ十世会こそがカトリック教会である,と言っているのである.これはばかげている!聖ピオ十世会の司教たちよ,(合意文書に)署名して(すべてを)ローマ教皇庁に譲渡せよ!」

回答:第二バチカン公会議の問題は本質的に教理にかかわる問題です.(A) 悲しいかな,第二バチカン公会議の「精神」とその常軌を逸した余波はまさしく同会議の諸文書のなせるわざです.E・M・J 編集長が認める文書の曖昧さこそが,その狂気の沙汰を野放図にしてきたのです.(B) 確かに神は御自身の(カトリック)教会と共にあります.だが同時に神は,その教会の聖職者たちの思いのままにお任せになり,教会に対して甚大ではあっても決して致命的でない程度の害をもたらすような選択を彼らが為(な)すことをお許しになっておられるのです(新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節を参照.)(訳注後記)(C) かくして,神は4世紀に多くのカトリック司教たちが恐るべきアリウス主義者による危機に陥ることをもお許しになったのです.かつて起きたことは再び起きます.ただ事態はさらに悪化するだけです.(D) 第二バチカン公会議後のカトリック伝統派の闘いの初期には,同公会議にカトリック伝統の視点から解釈するよう訴えるのは穏当(おんとう)だったかもしれませんが,その段階はとうの昔に過ぎています.公会議の諸文書の曖昧さが生んだ苦い果実によって,微妙に毒の入った諸文書が救い難いと証明されてからすでに相当の時が経過しています.

こういうわけで(E) 第二バチカン公会議はカトリック伝統的ではなく( “is not Traditional” ),ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との対立は本質的に教理上の問題に起因するものです.したがって(F) 第二バチカン公会議の誤った教理による(霊魂の)汚染・堕落を恐れる理由が十分に存在しているのです - 同公会議の教理は霊魂を地獄に導くものです.(G) さらに伝統主義者たち(非教皇空位主義者)の間には教会分離主義的思考は何ら存在しません.たとえ (H) カトリック教会がその全歴史上最悪の緊急事態の真っただ中にあるとしても,です.(I) だが,ちょうどアリウス主義による危機のときと同じように,カトリック信仰( “the Faith” )を持ち続ける少数の司教たちはカトリック教会が決して失敗していないことを証明しています.それ故,聖ピオ十世会は,カトリック教会に取って代わるふりをしたり,あるいはカトリック教会そのものになりすましたりすることなく,カトリック教会に所属してその信仰を持ち続けているのです.

マイケルにお尋(たず)ねしますが,カトリック教会の全歴史の中で,いつ司教たちが意図的に曖昧な態度をとったことがあったでしょうか?あなたは第二バチカン公会議の曖昧さを認めています.過去においていつ,教会聖職者たちが,異端に道を開く以外の目的のために,曖昧さという手段を用いたことがあったでしょうか?私たちの主イエズス・キリストの(カトリック)教会( “In Our Lord’s Church” )では,然(しか)りは然り,否(いな)は否たるべきなのです(新約聖書・マテオ聖福音書:第5章37節).(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

・第4パラグラフ(B)で引用された〈新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節〉の訳注:

ルカ聖福音書・第18章1-8節(太字部分が8節)
またイエズスはうまずたゆまず祈れと教えて,たとえを話された,「*¹ある町に神を恐れず人を人とも思わぬ裁判官があった.またその町に一人のやもめがいて,その裁判官に〈私の敵手(あいて)に対して正邪をつけてください〉と頼みに来た.彼は久しい間その願いを聞き入れなかったが,とうとうこう考えた,〈私は神も恐れず人を人とも思わぬが,あのやもめはわずらわしいからさばいてやろう.そうすればもうわずらわしに来ることはあるまい〉」.主は,「不正な裁判官の言ったことを聞いたか.*²神が昼夜ご自分に向かって叫ぶ選ばれた人々のために,正邪をさばかれぬことがあろうか,その日を遅れさすであろうか.私は言う.神はすみやかに正邪をさばかれる.とはいえ,人の子(救世主イエズス・キリスト)の来る時,地上に信仰を見いだすだろうか・・・」と言われた.

(注釈)
*¹2-8節…このたとえは,特に世の終わりの苦しみにあたって不断に祈れと教える.
*²7節…神は選ばれた人々を忘れておられるようにみえても,けっしてそうではない.ただ待たれる.彼らの正義はやがて証明されるだろう.


・第6パラグラフ最後に引用されている〈新約聖書・マテオ聖福音書:第5章37節〉の訳注:

マテオ聖福音書・第5章37節
〈はい〉なら〈はい〉,〈いいえ〉なら〈いいえ〉とだけ言え.それ以上のことは悪魔から出る.」(イエズス・キリストの御言葉)