エレイソン・コメンツ 第165回 (2010年9月11日)
カトリック教徒にとって教理一般(訳注・以下,原文 “doctrine” のまま記す)がそれほど重要なのはなぜでしょうか?そして,かつてはルフェーブル大司教に,今日ではフェレー司教に従う聖ピオ十世会が,公会議主義下のローマ教皇庁との間で,とりわけ教理上の合意が他のあらゆる種類の合意に先行すべきと主張するのはなぜでしょうか?聖ピオ十世会が,まずローマ教皇庁から正規に認めてもらい後で互いの教理上の相違点を詰めるやり方を受け入れられないのはなぜでしょうか?ここでは,互いに関連しながらもそれぞれ異なる疑問を二つ取り上げたいと思います.まず,一般的な疑問から始めましょう.
“doctrine”という言葉はラテン語で「教える」を意味する “doceo” ,“docere” に由来しています.つまり “doctrine” は教育です.人間各人が考えたいように考え,話したいように話す私たちの自由主義世界では, “indoctrination” (洗脳,教化)という言葉は禁句となっています.しかしこの “indoctrination” を終わらせるには,すべての学校を閉鎖しなければならないでしょう.なぜなら,学校が一つでもある限り “indoctrination” が継続するからです.仮にある教師があらゆる “doctrine” はナンセンスだと教えるとしても,その教え自体が “doctrine” なのです!
しかしながら,実際は誰もが “doctrine” の必要性を認めています.例えば,設計者が空気力学の古典原理(=理論.原語は “the classic doctrine of aerodynamics” )に逆らって両翼を逆に作った飛行機だとあらかじめ聞かされたとしたら,はたしてその飛行機に乗り込む人はいるでしょうか?誰一人乗らないでしょう!正しい空気力学理論とは例えば,両翼は機体の後方に後ろ向きに先細りで取り付けられなければならず前向きではだめですが,その理論は天から降って湧(わ)いたように出てきて話されたり書かれたりしているわけではありません.それは生死にかかわる現実( “life and death reality” )なのです.飛行機が飛び立ち墜落しないためには,細部にわたって正確な空気力学理論がその設計に不可欠です.
同様に,もし霊魂が天国に向って飛び立ち地獄に墜ちないためには,何を信じどう行動すべきかを教えるカトリック教義が不可欠です.「神は存在しておられる」,「すべての人間は不死の霊魂を持っている」,「天国と地獄は永遠に存在する」,「私は救われるために洗礼を受けなければならない」などの教義は,人々に信じるよう押しつけられている言葉ではなく,(訳注・上述した空気力学理論と同様)生死を分ける現実( “life and death realities” )として実際に存在するものであり,永遠の生命と永遠の死のことを指したものなのです.聖パウロはティモテオに救霊に必要なこうした真理を常に人々に教えるよう説き(ティモテオへの第二の手紙:第4章2節),自身には,「私が福音を説かないときは,禍(わざわい)を与えたまえ」(コリント人への第一の手紙:第9章16節)と述べています.カトリック教会の無謬(むびゅう)の教義を人々に説かないカトリック司祭に禍あれ!(訳注後記)
だが疑問は残ります.はたして聖ピオ十世会は貴重な正規化についての許可を,唯一許諾権を持つローマ教皇庁から取得するため,カトリック教義が否定されることなしではあっても,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間の教理上の相違を単に当分の間まとめて棚上げにする実務協定に達することができるでしょうか?その場合,上に述べたような救霊のための偉大な真理に対する裏切りが一切ないことが必要ではないでしょうか?フェレー司教自身はこの疑問に対し,今年5月「レムナント」紙(訳注・原語 “The Remnant”.米国の聖伝(伝統)カトリック情報紙.1967年に第二バチカン公会議体制が推進する新典礼や近代・自由・世俗各主義に抵抗する主目的で立ち上げられた.)で発表されたインタビューの中でブライアン・マーション氏( Brian Mershon )に簡潔に答えています.以下が彼の言葉です.「どのようなものであれ,理にかなった正しい教義上の根拠を欠いたままの実務的解決策が災難に直結し得るのは極めてはっきりしています・・・私たちはそれを証明するあらゆる実例を持っています - 聖ペトロ会( “the Fraternity of St. Peter” ),王たるキリスト会( “the Institute of Christ the King” )やその他あらゆる会が教義レベルで完全に行き詰まっているのは最初に実務協定を受け入れたからです.」 だが何故(なぜ)そうする必要があるのでしょうか?興味深い疑問です・・・
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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(第4パラグラフ終り部分の訳注)
(バルバロ神父訳・新約聖書の引用)
〈使徒聖パウロによる〉ティモテオへの第二の手紙:第4章2節
「みことばを宣教せよ.よい折があろうとなかろうと繰り返し論じ,反駁(はんばく)し,とがめ,すべての知識と寛容をもって勧めよ.」
〈使徒聖パウロによる〉コリント人への第一の手紙:第9章16節
「私が福音をのべていても,それは誇りではなく,そうしなければならぬことだからである.ああ,私が福音をのべないなら,禍(わざわい)なことだ.」