2010年9月20日月曜日

なぜ 教理なのか? その2

エレイソン・コメンツ 第166回 (2010年9月18日)

教理,すなわち教育は,まさしくカトリック教会の根幹です.人々の霊魂は先(ま)ず最初にどうすれば天国に入れるのかを教えられる必要があり,さもなければ決して天国に入ることはできません.「出かけて行って,諸国の民を教えよ」は,最後の最後まで私たちの主(イエズス・キリスト)が弟子たちに与えておられた数々の指示のひとつです(新約聖書・マテオ聖福音:第28章19節)(訳注・EC164の「訳注後記」参照).だからこそルフェーブル大司教のカトリック伝統を守るための英雄的な闘い(1970-1991年)では,何よりもまず教義を第一にしてきたのです.

まただからこそ,EC165で引用したように,フェレー司教は昨年5月ブライアン・マーション氏に対し,聖ピオ十世会はローマ教皇庁との間でたとえ魅力的であろうと実務協定に達する目的で両者間の教理上の相違を棚上げにすることはできない,と話したのです.聖ピオ十世会が教会法規的もしくは実務的な解決策を拒否するのは,「頑固さあるいは悪意を示す証し」とならないかと聞かれ,同司教は次のように答えました(彼の言葉は「レムナント」紙 “The Remnant” のウェブサイト上で入手することができます)(訳注→インタビュー記事へのアクセスはこちらから).「・・・どのようなものであれ,理にかなった正しい教義上の根拠を欠いたままの実務的解決策が災難に直結し得るのは極めてはっきりしています・・・私たちはそれを証明するあらゆる実例を持っています - 聖ペトロ会( “the Fraternity of St. Peter” ),王たるキリスト会( “the Institute of Christ the King” )やその他あらゆる会が教義レベルで完全に行き詰まっているのは最初に実務協定を受け入れたからです. 」

カトリック教義がいかなる実務協定によっても「妨害」される理由は世間の常識です.今日のローマ教皇庁は依然としてその公会議(第二バチカン公会議)に強いこだわりを持ち続けています.公会議は本質的には神の宗教たるカトリック伝統から逸脱し,新しい人間の宗教へと堕落してしまっているのです.ですからもし彼らがカトリック伝統に対して,たとえば聖ピオ十世会の正則化といった大きな譲歩をするときは,当然カトリック伝統の側からも譲歩を要求するでしょう.今や彼らローマ教皇庁の者たちは,聖ピオ十世会が先に述べたあらゆる理由からカトリック教義に固執していることを知っています.したがって,彼らが要求できる最低限のことは教理上の相違については当分のあいだ避けて通ることくらいです.

だが,ローマ教皇庁にとって目的を果たすには,それで十分なのです!「当分のあいだ」という点について言えば,ひとたび(ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で)実務的な再結合が成立すれば,カトリック伝統派の者たちはみな,もはや主流から外されてローマによる不承認の冷たい空気(彼らがそう感じている)にこれ以上さらされないですむという,いわばカトリック教理とは無関係の幸福感に酔いしれてしまい,それでもし - もちろん,偶然にですが - 「当分のあいだ」が無限の時間へと変わるようなことになってしまったら,聖ピオ十世会が後戻りするのはかなり難しくなってしまうでしょう.そのような罠(わな)は聖ピオ十世会に徐々に忍び寄ることになるでしょう.

そして「避けて通る」点については,教理,特に,神の宗教と人間の宗教との間の根本的な教理上の相違を後回しにするということは,神御自身を後回しあるいは棚上げするに等しいことです.だが,神の僕(しもべ)が神を棚上げにし,あるいは後回しにしながら,どうやって神に仕えることができるでしょうか?もしそのようなことを考えるなら,それは背教に向かって第一歩を踏み出すということです!

フェレー司教が指摘しておられる通り,40年間の経験がこうした原理原則の裏付けとなっています - カトリック伝統の戦場には,はじめは立派に活動を開始しながらも,ローマ教皇庁の古典的な交渉術を見抜けなかった諸々の組織が死体となってあちこちに散乱しています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教