2010年12月27日月曜日

素晴らしい哉,カウンセラー

エレイソン・コメンツ 第180回 (2010年12月25日)

クリスマス・デー(キリスト御降誕の祝日)は,なぜ私たちの主イエズス・キリストの到来を私たちが喜べるかまた喜ぶべきなのかを思い起こすのにふさわしい一時です.唯一キリストのみが,私たち人間が抱えるあらゆる現実の問題を解決することがお出来になります.私たちの直面する問題は人類の起源にまで遡(さかのぼ)るもので,今日(その程度,内容は)かつてないほど深刻です.

(なぜキリストのみに解決可能なのかというと)それは,人間のあらゆる現実問題が罪と関わっているからです.純粋に物質的な障害,不調はどんなものでも,それが何らかの意味で精神的なものである場合に限り深刻な問題となるに過ぎません.たとえば身体的な病が原因で人が呪ったり祝福したりするような場合です.そして私の中で起るいかなる精神的な心の動きも,それが何らかの意味で罪となる場合にだけ障害となるのです.たとえばヨブは自分の身体的な苦痛を深く嘆きましたが,それは罪深い行いではありませんでした.罪に関して言えば,それは何よりもまず第一に神への,第二に自分自身への,そして第三に隣人への無秩序行為あるいは不法行為です.(訳注後記…「ヨブ」について.)

したがって,単に物質的な問題にとどまらない現実の問題はすべて,神の怒りに触れるような行いをした人たちの問題ということになります.極端な例は堕胎の罪を犯した女性の場合です.堕胎によって彼女の問題は表面上解決されたかのように見えます.お腹の赤ちゃんはいなくなり,彼女の人生は「平常に戻って」います.だが心の底では,彼女は心を鬼にして「クリスマスを嫌い,やめさせるような世界に」加わるか,それとも自分がひどく恐ろしい過ちを犯してしまったことを理解してそれを自認するかのどちらかです.どちらにしても,彼女の内には多かれ少なかれ,その後の人生でなにかしら不正確で歪(ゆが)んだものが残るでしょう.そして同じ経験をした女性の多くは,たとえカトリック教徒であって信仰により神が罪の赦しの秘蹟を通して自分たちをお赦しになっているとわかりながらも苦悩を心にとどめることでしょう.罪が心に与える傷はそれほど深いものです.堕胎が最悪の罪というわけではありません.神に直接背(そむ)いて犯す罪のほうがはるかに重い罪です.

クリスマスにしてはなんとも恐ろしい話でしょうか?どちらとも言えません.罪の問題は恐ろしいものですが,実際の解決が可能なことを知れば,その恐ろしさに相応して素晴らしく大きな喜びとなります.もし哀れな少女が告解に訪れれば,たいていの司祭は彼女のために出来るだけの力を尽くし,もし犯した罪を(キリストの弟子ユダ・イスカリオトのではなく使徒ペトロの悲しみをもって)心から悔やむなら,司祭の与える罪の赦しの秘蹟を通して神がその罪をお赦しになっていることを疑う必要はないと彼女を説得するでしょう.どれほど多くの悔悟(かいご)者が,ほかでは得られない安堵(あんど)と喜びを心に抱いて告解場から外へ出てくることでしょうか.それは神に背いて罪を犯してしまったという気持ちが彼らの苦悩の中心を占めていたからであり,(告解により)神がその罪を赦して下さったことを彼らが知るからなのです.(訳注・ユダはキリストを直接裏切って死に渡し,後悔の末絶望して自殺した.ペトロは捕われる恐怖からキリストを知らないと言い,後悔して激しく泣き悲しんだ.)

そしてこの喜びはどこから始まったのでしょうか?それは神が疑いもなく一人のユダヤ人の乙女をへて人性を帯び,(訳注・キリストとして人の姿で)地上に生き,あまたの秘蹟の中でもとりわけ赦しの秘蹟を私たちに与えて下さったことから始まっているのです.その赦しの秘蹟が持つ力は,彼(訳注・キリスト)が,御母となった同じ乙女の助力だけを頼りに耐え抜いた受難と十字架上の死の功徳から導き出されているのです.だが,キリストは生れていなければ死ぬことができたでしょうか?すべては彼が祝福された乙女マリアから人間として生れたことに始まったのです - これがクリスマスです.

こういうわけで,私の同胞や私自身が抱える世界中で最もひどい問題にもその解決策が得られるのです.クリスマスにカトリック教徒が喜ぶのに不思議はありません.また信者でない人たちでさえ特別の喜びに与(あずか)れるのも不思議ではないのです - 彼らが心を鬼にし冷やかな態度で構えていない限りは.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(第2パラグラフの訳注)
・「ヨブ」…英語で “Job”.旧約聖書「ヨブの書」に出てくる,神への信心深い義人.神により信仰を試され,全ての財産と家族を取り去られ全身の不治の病に襲われても神に信頼し,神を呪うことをしなかった.正しい人もまた苦しむことがある〈例えばキリストの受難〉こと,神による救いの約束〈救世主キリスト待望の信仰〉に信頼すべきことを教える.最後にヨブは大きな不幸に耐えた報いを神から豊かに受けた.取り去られた財産や家族などは元の2倍以上増やされ祝福された.)

・「正しい人の苦しみ」について.
以下は,バルバロ神父訳旧約聖書「ヨブの書解説」からの抜粋.

…正しい幸せな生活をおくっていたヨブの上に突如として大きな不幸が襲いかかった.
「正義の神がなぜ正しい人を苦しめられるのか」という疑問に対し,…(神が)宇宙の不思議を語って神の偉大さを示し,人間には無限の知恵である神と相対する権利のないことを教える.
…本書の作者がいおうとするのは,「正しい人の苦しみ」である.ヨブは「正しい生活をしていても災難を受ける」という.読者は序文によって,ヨブの災難が神からではなくサタン(悪魔)からのもので,神への忠実に対する試練であることを知っている.しかしヨブも(ヨブを慰めに来た友人も)このことは知らない.
ヨブは苦しみの中にあっても,神は慈悲であり正義であるという希望にすがりついている.
…この本の宗教的な教えとは,『霊魂はどんなやみ(闇)の中にあっても,神への信頼と信仰を持ち続けよ.』ということである。「罪のない者が苦しむ」という神秘を照らすには来世の賞罰の確証がいる.そしてまたキリストの苦しみと合わせて苦しむ,人間の苦しみの価値を知る必要もある.
…ヨブの切なる疑問に答えるのは聖パウロの書であろう.
「今のときの苦しみはわれわれに現れる光栄とは比較にならないと私は思う」(新約聖書・ローマ人への手紙・第8章18節)
「私は今,あなたたちのために受けた苦しみを喜び,キリストの体なる教会のために私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところを満たそうとする」(新約聖書・コロサイ人への手紙・第1章24節)

・神の知恵は苦しみと死という事実にも,人間の考え及ばぬ意味をもたせうることをヨブは悟った.(ヨブの書・第42章5節の注釈より)

・人間の罪の赦しの秘蹟は,正しい神であると同時に罪なき人たるキリストの受けた「受難と十字架の死」の苦しみを通してもたらされた.その秘蹟の力はキリストへの信仰によって永遠のものである.