2010年12月13日月曜日

真理は人を自由にする

エレイソン・コメンツ 第178回 (2010年12月11日)

先週までの三回の 「エレイソン・コメンツ」 (第175-177回) での議論はただ単にフランス人画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848-1903年) によって触発されたにすぎません.なぜなら彼は並みいる近代芸術家たちの中でも決して最悪ではないからです.私の論点は,神は存在する,したがって近代芸術は 「くだらない」 “bosh” (イブリン・ウォーの 「ブライズヘッド再訪」 “Evelyn Waugh’s “Brideshead Revisited” I, 6 をご覧ください) ということではありません.むしろ,近代芸術はくだらない,したがって神は存在する,ということです.原因から結果に降りることと結果から原因に昇ることの間には重要な相違があるのです.

仮に私が,神の存在を前提として始め,たとえば近代芸術,近代音楽,近代オペラ演出などが誤りだと結論づけるなら,まず第一に,神とその存在はそれによって証明されません.そして第二に,神の宗教は私たちの自由を束縛する車輪止め(駐車違反車に取り付けるクランプ)みたいに私たちを急襲するもののように受け止められるでしょう.ところで,私は私であり,どんなものであろうと好きな芸術を自由に選びたいのはこの私なのです.だが,そこへ天国から舞い降りたとおぼしき駐車違反監視員が自由を取り締まりに来たとします.余計なお世話です!

一方,もし私が近代芸術についての私自身の体験から取り掛かれば,私はまず私が直に知っていることから始めます.そしてもしそれについての私の体験が,正直なところ,不満足なものであれば - ここでは必ずしも当てはまりませんが,もし当てはまるとすれば - その時,私は高く称賛されている近代芸術家たちの作品を前になぜこのように不安を感じるのか不思議に思い始めるかもしれません.私はもう一度その称賛に耳を傾けてみます.それでも私は確信できません.なぜでしょう?近代芸術が見苦しいからです.見苦しさのどこがいけないのでしょうか?それは美を欠いているからです.もし私が,たとえば絵に描かれた風景や女性の美しさを通して,それが持つ自然な本来の美,作品にみなぎる各部分の調和へと上昇し続けるなら,私の思考は私自身の個人的な体験から出発して万物の創造主に向けかなりの道のりを上昇することになるでしょう.

この後者の場合,神はもはや車輪止めを手に持つ駐車違反監視員のように映らなくなります.逆に,神は私たちの自由を抑圧するどころか,醜(みにく)さ (訳注・=見苦しさ. “ugliness” ) は世界を吹き抜けるカオス(混沌,こんとん.“chaos” )を造り出すものだと宣言する自由意思を人間に残してくれるかのように思えるのです.神はおそらく,醜さが不快を極めるあまり,私たちの思考を真理と善に向かわせるのではないかと望まれているのかもしれません.この時点では,神の宗教はもはや私たちの内なる自由に対する外からの車輪止めとは似つかぬものとなり,むしろ私の内にある最悪のものを退け最良のものを引きだす手助け,解放者となります.なぜなら,私が高慢でないかぎり,私は自分の内にあるものすべてが必ずしも秩序づけられ調和したものではないことを認めざるをえないからです.

その時点で,神の愛 ( “supernatural grace” .超自然の恩寵.) は,ある種の警官のように私の生来の性分に背後から乗り移って私のすることを何でも力ずくで制御しようとするものではないのだと思えるようになります.むしろそれはとてもよい友人で,もし私が願えば,私の内にある最悪なものから最良のものを解放するか,少なくともそうなるよう努めてくれるものなのです.

第二バチカン公会議と公会議の宗教の背後にある一つの原動力は,カトリックの伝統とはあたかもすべての人間生来の衝動を悪と決めつける鼻持ちならない警察官のような存在だという共有感覚でしたし,それは今でも変わっていません.確かに,私の堕落した性質から出る衝動は悪です ( “…the impulses of my fallen nature are bad,…” ). だが人間の性分には悪と裏腹に善良なものが隠れており ( “…there is good in our nature underneath the bad,” ),その善良な部分が息つくようにしてあげなければなりません.なぜなら私たちの内にあるその善は外からくる神の真実な宗教と完全に同調するからです.そうでなければ,私は自分の内なる悪の衝動から偽の宗教をねつ造しているということになるのです - まるで第二バチカン公会議のように.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教