2010年12月8日水曜日

六ペニーの芸術

エレイソン・コメンツ 第177回 (2010年12月4日)

フランスの画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848-1903年)は芸術のために社会と絶縁しましたが,(訳注・家庭を捨てるまでして)自由の身になって創作した芸術は彼に心の安らぎをもたらさなかったようです(EC175).英国の作家サマセット・モーム “Somerset Maugham” (1874-1965年)はゴーギャンの没後数年を経て彼の生涯を小説にしました.彼はその中で,ゴーギャンの(訳注・社会との)絶縁と心の安らぎの欠如の双方を確認しているように思えます(EC176). だが,この近代芸術家は,自分が向き合い,自分を支えてくれる社会となぜ折り合いがつかなくなったのでしょうか?また彼の生み出した近代芸術が概(がい)して見苦しいのはなぜなのでしょうか?そしてなぜ人々は見苦しい芸術を支持し続けるのでしょうか?

反逆的な芸術家はロマン派に遡(さかのぼ)ります.ロマン主義はフランス革命とともに繁栄しました.革命そのものは単に1789年に起きただけですが,その影響は今日までずっと玉座と祭壇 “throne and altar” (訳注・ローマ教皇聖座(司教座)とカトリック教会の祭壇(さいだん))をその地位から引きずりおろし続けてきました.近代芸術家たちは自ら住む社会を映し出すものですが(一般に芸術家とはそうせずにはいられないのでしょう),彼らは神の否定を着実に強めながら生きようとします.神が存在しなければ,有史以前から人の心を支配してきた神という錯覚から解き放たれ,新しい自由のもとで芸術が穏(おだ)やかに繁栄するはずだというわけです.だが近代芸術は果たして穏やかなものでしょうか?むしろ自滅的ではないでしょうか?

一方,もし神が存在し,そしてこれまでに数知れない芸術家たちが公言してきたように芸術家の才能は神の栄光のために使うべき天賦のものだとするなら,神を信じない芸術家は自身の持つ天資と折り合えなくなり,彼の天資は彼の属する社会と,社会は彼の天資と敵対するようになるでしょう.こうしたことはむしろ私たちの周りの至る所で目にする光景ではないでしょうか?例えば,現代の物質(唯物)主義者が表面で敬意を装いながらも,陰(かげ)ではあらゆる芸術を深く軽蔑しているというようなことです.

もし神が存在するなら,とにかく上の疑問に答えるのは簡単です.まず第一に,芸術家が社会に反目するのは,自らの内にある神の息吹すなわち自身の天分が神のない社会など卑(いや)しむべきものだと知っているからです.自分が軽蔑する社会が自分を支えてくれているとなると,彼は社会をますます卑しむべきものと捉(とら)えるでしょう.ワーグナー “Wagner” がかつて自分のオーケストラが拡大したため劇場の客席を一列取り除く事態となったとき「聴衆が少なくなる?なお結構!」と言ったのと同じです.第二に,神に敵対する天賦の才能が何か調和のとれた美しいものをどうして生み出せるものでしょうか?近代芸術を美しいと思うためには言葉の意味を逆に解釈しなければならなくなります.「きれいは汚い,汚いはきれい」 "Fair is foul and foul is fair" (マクベス)(訳注・シェークスピアの悲劇「マクベス」 “Macbeth” で登場する三人の魔女の言葉)・・・それにしても,近代芸術家はいつから女性の美を醜さと取り違えるようになったのでしょうか?そして第三に,現代人は神に戦いをいどみ,その手を緩(ゆる)める意思もないため,言葉の意味を逆に取りたがるのでしょう.1453年,コンスタンティノープル*の陥落(かんらく)直前にギリシア人たちは「冠よりトルコ人を」*と言いました.第二次世界大戦後、アメリカの上院議員たちは「カトリシズムよりむしろ共産主義をとる」と言い,その願望を叶えました.(*脚注…訳注後記)

手短にいえば、ワーグナー,ゴーギャン,モーム,その他あらゆる種類の近代芸術家たちが六ペニーの安物になり下がった私たちのキリスト教世界を軽蔑するのは結構ですが,それに対する答えは,近代芸術を用いて神とこれ以上戦うべきでないということです.神との戦いを止め,神本来の栄光を再び神に返し,キリストをキリスト教世界に戻すことです.人間が冠に立ち戻りもう一度カトリシズムを選び取るためには,あとどれだけの醜さが必要なのでしょうか?はたして第三次世界大戦(訳注・という醜さ)ですら(訳注・人間が神に立ち戻るための解決策として)十分たり得るでしょうか?

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第4パラグラフの脚注:

「コンスタンティノープル」 “Constantinople” について:

・現在のイスタンブール(欧州とアジアの境界となるボスポラスBosporus海峡の欧州側に臨(のぞ)むトルコ最大の都市(トルコの現在の首都はアンカラ).)

・古代ギリシア人の植民市ビザンティウムByzantiumとして創建され(紀元前658年),330年コンスタンティヌス1世(大帝)によりローマ帝国の首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)となる.その後ローマ帝国が決定的に東西に分裂した際(395年)コンスタンティヌス一世により東ローマ帝国(=ビザンティン帝国)の首都とされた(-1453年).(西ローマ帝国の首都はローマ.)

・ラテン語の他ギリシア語が公用語として用いられ,ギリシア的キリスト教観をもち,ギリシア文化の伝統のうえに立った東方教会(ギリシア正教会)が発展した.国際大都市として栄えた.

(この時,(既に313年コンスタンティヌス帝によりローマ帝国で公認されていた)ローマ・カトリック教会は西方教会として西ローマ帝国の方へ分かれ,公用語でもあったラテン語が用いられた.西ローマ帝国は,476−480年に滅亡したが,ローマ・カトリック教は,弱体化した西ローマ帝国の属州を次々と征服していった蛮族(異民族)たちが次第にローマ化してローマ・カトリック教に改宗していったため,そこから周辺地域の国々や住民たちに広がり後世に引き継がれていった.)

・その後オスマン・トルコに征服されてビザンティン帝国が滅び(1453年),都市名は「イスタンブール」と改称されオスマン・トルコの首都となった.

「冠よりトルコ人を」 “Rather the Turk than the tiara” について:

・もとは,東ローマ帝国(後のビザンティン帝国)のギリシア正教徒たちが言った言葉「ローマ教皇の冠よりトルコ人のターバンを(とる)」"Rather the turban of the Turk than the tiara of the Pope." に由来する.

・「冠」 “the tiara” =カトリック教会のローマ教皇位・教皇職の意味.

・“tiara” =ローマ教皇の三重冠・教皇冠のこと.ローマ教皇が典礼以外の公式の儀式に着用する冠.教皇の司祭権・司教権・教導権を表す三重の円形の冠で,頂上に十字架がはめられている.
(ブリタニカ国際百科事典参照))