2010年10月12日火曜日

教理は不可欠

エレイソン・コメンツ 第169回 (2010年10月9日)

1986年イタリアのアッシジで開催された諸宗教同士のうわべだけの和合(訳注・原英文 “the all-religion love-fest at Assisi”.1986年に前教皇ヨハネ・パウロ二世が,世界の諸宗教の指導者たちを呼び集めて開催した世界平和を祈る合同祈祷集会のこと)が測り知れないほどの悪影響を及ぼしたことを認識しているカトリック伝統派の信徒たちがいかに少ないかについてルフェーブル大司教が驚いていたのを私は覚えています.だが,これが私たちの生きている現代社会の堕落の度合いを示すものです.今日,思想や真実はどうでもよいことになっています.なぜなら,「愛こそがすべて」(訳注・原英文 “All you need is love”.英ロックバンド The Beatles の歌のタイトル) だからです.だが実際には,私たちはみな教理と愛の双方を絶対的に必要としているのです.

教理とは単なる常套句(じょうとうく)の羅列ではありません.私たちのような計り知れないほど貴重な価値のあるカトリックの信仰の賜物を神から与えられたカトリック信者たちは,現世の短い人生の後に来世での想像を絶するような永遠の至福か恐怖が待ち受けていることを知っています.そして,私たちカトリック信者はカトリック信仰の有無にかかわらず,それがあらゆる人間の宿命であることを知っています.洗礼を受けていない罪のない者の霊魂が古聖所(原英語 “Limbo”.キリストの死によるあがないの前に死んだ義人の霊魂がとどまっていたところ)に入るのが唯一の例外です.だとすれば、神が無慈悲でない限り ― 多くの哀れな霊魂が神に対する自らの反抗を正当化しようとするのは理にかなっています! ― (現世での死後に)天国を勝ち取り地獄に墜ちるのを何としても避けたいと願うすべての人々に対し,神はいつでも,そのために(彼らの霊魂にとって)必要な光と力とを与えて下さるのです.だが,カトリック信仰をもたない人の場合,その光や力はどのような形を取りうるでしょうか?

その答えを二人の非カトリック教徒に求めてみましょう.18世紀の英国の良識を代表する偉人サミュエル・ジョンソン博士は「ロンドンが嫌いな者は人生が嫌いなのだ」と言いました.これは言い換えれば,日常生活の細々(こまごま)した日課に埋もれ慌ただしく過ごしながら,人は日々人生に対する一般的な態度を構築していると言うことです.またレオ・トルストイ伯爵は大作「戦争と平和」の中で,ある登場人物に「人生を愛する者は神を愛す」と言わせています.言い換えれば,人間の人生に対する一般的態度は実際にはその人の神に対する態度を示すものだということです.もちろん,現代人の多くは,自分の人生に対する姿勢が「存在もしない」神と関係があることなど強く否定するでしょう.にもかかわらず,神はそういう人を,彼個人のみならず日常的に彼を取り巻くその他の彼の周囲の人たちまでも一緒に含めて,その双方の存在をともに支えておられる方なのです.そしてなおかつ,神は常に彼個人に対して,こうした彼の全人生に内在されかつ彼の全人生において万事を背後から支えておられる神御自身を(個人的に)愛するか嫌うかを彼自ら決める自由意思( “the free-will” )を,お与えになっておられるのです.かくして,共産主義者は無神論者になる宿命にあり,しかもレーニンはかつて「神はわが敵なり」と言っています.(訳注・原英文は “God is my personal enemy”.つまり,レーニンは〈神との一対一の個人的な関係において,自らの生命の源であるはずの〉神御自身を自ら憎み拒否したということになる.) そうした共産主義者たちは人生も神も愛しません.

では,人生や神に対する正しい態度とはどういうものでしょうか?モーゼの十戒の第一戒で神は,あらゆる知性,精神(感情),魂を尽くして神を愛せよ,と命じておられます.(訳注後記・1).だが,まだあまりよく知らない人をどうして愛することができるでしょうか?人生と神に対する正しい態度は,人生と神,あるいはそのいずれかがもつ善良さに多少なりとも信仰もしくは信頼を置けなければ生まれません.そういうわけで,四つの聖福音書において,無学な人々が奇蹟を願って私たちの主イエズス・キリストの下に来ると,主は奇跡をお許しになる際にしばしば彼らの心に「信仰」があるかどうかをお試しになったり,あるいは彼らが持つ信仰をお褒(ほ)めになり,その信仰に対して報いられます.ここでいう信仰とは何に対する信仰でしょうか?それは神への信仰です.だが神とはいったい誰なのでしょうか?

それは学識ある人々が教理の中で明確に説明すべき事柄です.この神の教理は時代の流れとともに洗練されるかもしれませんが,神を変えることができないのと同様,決して変えることのできないものです.その教理は私たちが,永遠に想像を絶するほどに幸福になりたいとか不幸になりたくないと願う限り,私たちの生命・人生に対する姿勢また神への姿勢を継続的に矯正してくれるものです.カトリック教理は真理です.神は(そのカトリック教理が示す)真理です.真理は不可欠なものなのです.(訳注後記・2).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(第4パラグラフの訳注・1)

モーゼの十戒の第一戒について
(バルバロ神父訳聖書から引用)

旧約聖書・第二法の書:第6章4-5節

イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ.」

(注記・キリストの御復活以降の新約の時代においては,聖書における「イスラエル」という言葉は,ユダヤ民族に限らず,「キリストによって唯一の真の神を信じる世界のすべての人に対してあてはめられる.)

(注釈)

神への愛は(モーゼの)十戒(脱出の書・第20章6節)ですでに語られたけれども,第二法の書は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.愛は神の恵みに対する人間の答えであり,神への畏れ(=恐れ)と敬いとおきての遵守をも含むものである.キリストは4節と5節(上に引用した部分)とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした.(①新約聖書・マルコ聖福音:第12章28-34節と②聖パウロによるローマ人への手紙:第13章8-10節を以下に引用).

(マルコ聖福音12,28-34)

『…イエズスのみごとな答えを聞いた一人の律法学士はそばに来て,「すべてのおきての中でどれが第一のものですか」とイエズスに尋(たず)ねた.イエズスは答えられた,「*¹第一のおきてはこれである,〈イスラエルよ聞け.われわれの主なる神は唯一の主である.すべての心,すべての霊,すべての知恵,すべての力をあげて,主なる神を愛せよ〉.また第二は,これである,*²〈隣人を自分と同じように愛せよ〉.これより重大なおきてはない」.すると律法学士は,「先生,〈神は唯一のもので他に神はない〉とは実に仰せのとおりです.〈すべての心,すべての知恵,すべての力をあげて神を愛し,また自分と同じように隣人を愛すること〉これはどんな燔祭(はんさい)にも,いけにえにもまさるものです」と言った.その答えを聞かれたイエズスは,「あなたは神の国から遠くない人だ」と言われた.』

(脚注)

*¹ 旧約聖書・第二法の書6:4-5.
*² 旧約聖書・レビの書19:18.


(ローマ人への手紙13,8-14)

『互いに,*¹愛を負う以外にはだれにも負い目をもつな.人を愛する者は律法を果すからである.「*²姦通するな,殺すな,盗むな,偽証(ぎしょう)するな,貪(むさぼ)るな」,その他のすべてのおきては,「隣人を自分と同じように愛せよ」ということばに要約される.愛は隣人を損なわぬ.したがって,愛は律法の完成である
時を知っているあなたたちは,ますますそうせねばならぬ.今は眠りから目覚める時である.いま私たちの救いは,私たちが信じはじめた時よりも近い.*³夜はふけて日が近づいた.だからやみに行われる業を捨てて,光のよろいをつけよう.昼のように慎んで行動しよう.酒盛り,酔い,淫乱,好色,争い,ねたみを行わず,主イエズス・キリストを着よ.よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることはするな.』

(注釈)

*¹ 隣人への愛の負債は,十分に支払きれない.

*² 旧約聖書・レビの書:19章18節参照.

*³ 「夜」は罪と死の支配下にある世をさす(新約聖書・コリント人への第一の手紙:7章26,29-31節).

*「日」はキリストの来臨のこと(新約聖書・聖パウロのコリント人への第一の手紙:7章29節,聖パウロのテサロニケ人への第一の手紙:4章15節).(注記:キリストはこの世の終わりの際に再びこの世(地上)に来臨される)

* * *

(第5パラグラフ最後の訳注・2)

① 詳解すると,「神とは真理」であり,その「真理」はカトリック教理〈=公教要理〉によって明確に説明される.この「真理」を抜きにして,「神への信仰」を持ち得ることはあり得ない.

② 真に神を信仰するためには,「愛こそがすべて」にいう「愛」のみでは足りない.「愛」が「真の愛(=神の愛)」たりうる所以・根拠としての「真理」を知り,かつその真理を自分の心に受け入れていることもまた前提条件として必要不可欠である.なぜなら,「神は愛」であると同時に「神は真理」だからである.

③したがって,かかる「真理」について説明する「神の(=カトリック)教理」は,人の霊魂が唯一の真の神への信仰により救われて永遠の天国に至るためには絶対になくてはならないものである.

④ 故に「教理は不可欠」であるとの結論に至ると思われる.原英文では “Catholic doctrine is truth. God is Truth. Truth is indispensable”.とある.)