エレイソン・コメンツ 第233回 (2011年12月31日)
そしてまた空が地に落ちることなく1年が終ります.私はもう数十年もの間,たとえば最近では5年か7年ほど前にフランスのある小グループの人たちに空が落ちつつあると話してきました.彼らの中には聖ピオ十世会の司祭で1970年代後半と1980年代初期に私がエコン( “Econe” ,スイス)にある同会の神学院で教授をしていたとき神学生だった人がいました.その彼が,「司教閣下,あなたは25年前にそのことを言っておられませんでしたか?」と言いました.彼はそれを微笑(ほほえ)みながら言っていたので,おそらくいつかは私が正しかったということになるのではないかと考えたのかもしれません.
それでは果(は)たして2012年は空が落ちる年となるでしょうか? 世の多数の評論家たちは2012年は世界経済が崩壊(ほうかい)する年になるかもしれないと考えています.確かに借金は過去数十年と同じように増やし続けることはできません.例えば福祉給付金は多くの西欧民主主義国の予算にとり耐え難い負担なのですが,ほぼ当然のこととはいえ民主主義体制下の政治家は財政の健全性を回復するために必要な厳(きび)しい決定を行う能力を備えていません.なぜなら,再選を望む限り彼は福祉給付金に手をつけられないからです.よく言われる通り,民主主義が続くのは国民が国の現金は結局は自分たちのものだと気づいていない間だけです.
そこで2012年は西欧民主主義国が終局的に崩壊する年となるのでしょうか? そうなるかもしれませんし,そうならないかもしれません.今日多くの人々がなんらかの大災難が迫りつつあるという実感を持っています.その日が到来(とうらい)するのにまだあと30年かかるなどということは到底(とうてい)ありえない,と言う人もいます.だが,これまでそのことは何年も言い続けられてきました.もしかすると人々はリベラリズム(自由主義)にあまりにも深く酔いしれていて深まる一方の混乱の度合いに無関心となっているのでしょう.だが,神の御業(みわざ)はゆっくりでも仕業(しわざ)は完璧,という格言があります.言い換えれば,神が出される請求書はすべて支払われなければならず,計算する日がいつか必ず訪れるでしょう.そして,その支払い額はどう見ても単なる福祉給付金よりはるかに膨大(ぼうだい)なものとなるでしょう.
今年,来年,いつか,それともそんな年は決して来ないのでしょうか? その年は間違いなく来ます.それは神が良しとされる時に来るでしょう.( “It will come in God’s good time.” )その年がいつかはさほど重要ではありません.ハムレット(第5幕第2場)が言うように,「一羽の雀(すずめ)が地に落ちる時機のうちに神の摂理(せつり)( “a Providence”,=神の御心〈御意思,配慮,計らい,導き〉)が在(あ)る.神がその時機の到来を今とお計らいになれば,それは後(のち)に到来することはない.もしその時機が後に到来しないなら,今到来し得る.たとえ今到来しなくても,いつか神が良しと思召(おぼしめ)される時機に必ず到来する.(それがいつであろうと)必ず到来するその時機を常に覚悟し,警戒して弛(たゆ)まず人生を過ごすことに自分の存在のすべてがかかっている).」(訳注・意訳.原文… “As Hamlet says (Act V, 2), “There is a providence in the fall of a sparrow. If it be now, ‘tis not to come; if it be not to come, it will be now; if it be not now, yet it will come: the readiness is all.” ” )(訳注後記・1)どんなことにも神の摂理が存在します.どんなときにも唯一の神が常にそこに関わっておられるのであり,その神の思し召(おぼしめ)されるタイミングが最良なのです.「神の時は最良の時である,」 “Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit” と,ドイツのことわざは言っています.(訳注後記・2)
神が易々(やすやす)と私たちの多くに対し現在破滅(はめつ)へ向かっているカトリック教会と世界を食い止めるべく行動するよう求められることもないでしょう.私は世界の公的指導者たちの多くが内心ではひそかに何もすることができないと無力に感じているに違いないと思っています.また私は,がむしゃらに世界支配を目指(めざ)している世界の秘密の管理者たちでさえ,自分たちに勝算(しょうさん)があると常に確信しているわけではないと思います.「私だけが今のあなたがたを助けられます,」と神の御母( “the Mother of God” ,聖母)は仰(おお)せられます.
神が私たちにお求めになるのは神の恩寵(おんちょう)のうちに生きることと神を信頼することです.崩壊(ほうかい)の起きるのが2012年あるいはそれ以外のいつであっても,人間的な観点からはそれはきっと不愉快(ふゆかい)なものに映(うつ)るでしょう.だが神の観点からは神の懲罰(ちょうばつ,“chastisements” )は慈悲(じひ)行為 “acts of mercy” なのです.聖パウロは格言の書( “Proverbs” 〈旧約聖書〉,3章11–12節)を次のように引用しています.「わが子よ,神の懲(こ)らしめをあなどらず,神の懲らしめを受けて,悪意を抱くな.なぜなら,神は愛する者を懲らしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.」( “My son, reject not the correction of the Lord, and do not faint when thou art chastised by him. For whom the Lord loveth, he chastiseth.” )聖パウロはさらに次のように続けます(〈新約聖書〉,ヘブライ人への手紙12章7–8節).「あなたたちが試練を受けるのは懲らしめのためであって,神はあなたたちを子のように扱(あつか)われる.父から懲らしめられない子があろうか.誰にも与えられる懲らしめを受けなかったなら,あなたたちは私生児であって,真実の子ではない.」 ( Heb.XII, 7-8, “Persevere under discipline. God dealeth with you as with his sons. For what son is there whom the father doth not correct ? But if you be without chastisement, whereof all are made partakers, then are you bastards and not sons.” )
すべてはカトリック教に則(のっと)った覚悟(=警戒,準備)のいかんにかかっています,賢い乙女たちのした警戒のように(マテオ聖福音・25章13節)(訳注後記).( “The Catholic readiness is all, as of the wise virgins. (Mt, XXV, 13)” )
新年おめでとう.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第4パラグラフの第1の訳注:
英国の劇作家シェイクスピアの悲劇「ハムレット」(第5幕・第2場)
“There is a providence in the fall of a sparrow. If it be now, ‘tis not to come; if it be not to come, it will be now; if it be not now, yet it will come: the readiness is all.” について.
他の邦訳参照:
(河合祥一郎教授訳「新訳 ハムレット」〈角川文庫〉より引用)
「雀一羽落ちるのにも神の摂理がある.無常の風は,いずれ吹く.今吹くなら,あとでは吹かぬ.あとで吹かぬのなら,今吹く.今でなくとも,いずれは吹く.覚悟がすべてだ.」
* * *
第4パラグラフの第2の訳注:
「ハムレット」の悲劇について.
(悲劇「ハムレット」のあらすじ…「父王を毒殺された王子ハムレットは犯人である叔父と,共謀した母に復讐を遂げ,自らも毒刃に倒れる.「生きるべきか,死ぬべきか,それが問題だ.」四大悲劇のひとつであるシェイクスピアの不朽の名作.」〈洋書ペンギン・ブックス-ペンギン・シェイクスピア「ハムレット」の帯・裏面より引用〉)
(補足説明)
・「ハムレット」がなぜ悲劇かといえば,全能の神の愛と正義に全幅(ぜんぷく)の信頼を置くことができなかった人間の行末(ゆくすえ)の悲惨な結末を描いているからである.神の愛と正義は人間のそれらよりもはるかに偉大で完全であり,ハムレットはその神を信頼しすべての裁きを神に委ねるべきだった.それが真の気高い心の持ち方であるはずだった.すなわち,気高さとは神の摂理に信頼しきる心の潔(いさぎよ)さをいう.
・人間の霊魂の幸福のメイン・ステージは来世にあり,そこには完全な愛,光,正義,善しか存在し得ない,そこでの真の生活を目指して生きることが現世での真の人生目標であり,そのように生きるのが真の気高さである.人間はそう生きるべく創造主たる神に命じられている.
その道を踏み外(はず)せば,来世では罰が待ち受け,その罰がどのようなものかは,すでに現世において,自責の念から解放されない苦しみのようなものとも予想し得る.
・その観点においては,現世で遭遇した災難が必ず来世での不幸につながるのではない.人間の真価はその霊魂の良心の正しさにあり,それにより来世において神の祝福のもとで幸福に生きることにある.
・それに比べれば,現世は不正にまみれた者たちが支配する世界である.自分の欲に負け,弱肉強食のような生き方を通すなら,目先の物質と引き換えに,良心という名の自らの霊魂の生命をどんどん失っていくということを警戒すべきである.
・だが,現世で被った損害はすべて神が来世において完全に埋め合わせて下さり,現世において理不尽な不正を耐え忍んだ者には,最終的に神がそれを数倍にも報い返してくださるのである.
生命は本来,祝福に他ならないのであるから,そのように神に祝福された存在である人間は,自(おの)ずからこのような神の善に対する希望をも信じることができるはずである.
・立派な父王の王子だったハムレットはその父王を不正行為により失ったことで気も動転し逆上して,現世で苦難を雄々しく耐えて気高く生きるべきだ→だが復讐(ふくしゅう)により独りよがりの正義を果たして死んでしまえば気が済んで楽になる→しかしその結果,神の掟に背いた罪深い自分に下されるかもしれない漠然とした死後の裁きの恐怖を覚悟せねばならない→それを思うとつらくても我慢して現世に生き続ける方がましかもしれない→それでも被(こうむ)っている不正は耐え難く,報復せずにはいられない…と最期まで葛藤を繰り返しながら堕ちて行った.
・始めから現世とはあからさまに不正のまかる通る場所であり,不正に逐一取り合うことは愚かなことと覚悟を決めて,警戒を怠らずに一生を過ごすなら,このような結末は避け得る,と考えることも一つの教訓になる.
まとめ…「万物の創造主たる神は愛であり,その被造物たる人間は,神に愛されている.」
・全能の神は完全な善であられ,一寸たりとも不正を見逃して済まされることはない.
・神は公平・公正であり,万物を偏(かたよ)り見られることは全くない.
・「不正」とは完全な義であられる神の無限の生命において神が創造された被造物の存在を傷つけ,また滅ぼすことを意味する.
・目に見える被造物を傷つけることにより,人間は自らの行ったその「不正」行為により同時に自らの霊魂をも傷つけることになる.神の完全な生命の法則から自分を排除したのは他ならぬ自分自身なのであり,神ではない.
・こうして被造物たる不完全な人間による復讐は不正でしかないのであり,復讐・報復は万物の創造主たる神のみが行使し得る権限であってそれは人間には許されないことである.
・不正に手を染めることで自らの命を傷つければ,神の無限の生命との祝福に満ちた交わりの関係から自らを断ってしまうことになり,それは神が最もお望みにならない,ぜひとも避けたい事態なのである.だから神は人間が生き永らえるように,その掟(おきて.=神の十戒)によって人間に罪を犯すことを禁じられるのである.
・神は祝福をもって人間を創造されたのであり,人間にお与えになった生命がいかなる理由・方法によっても滅ぼされることを望まれない.復讐に手を染めた人間を罰して滅ぼすのは神ではない.その人間が自分の行った不正により罪の負い目を負い,自らを滅ぼしてしまうのである.
・人間は御父なる神から自分に注がれている愛と生命の祝福に全面的に信頼し,不正な仕打ちを受けたら,それに対する報復はすべて神に委(ゆだ)ね,自分の霊魂を滅ぼしかねない不正の誘惑から護(まも)って下さるよう神に祈願することで,自らの生命(霊魂=良心)を守るべきである.
・光であられる神のうちに一寸の闇(やみ)もないように,(たとえどのような理屈があろうと)少しでも不正に手を染めれば,完全な光,完全な義,完全な善であられる神の無限の生命から,人間は道を外れ,もはや完全な光のうちにはとどまれなくなる.
・旧約聖書の参照(格言の書・第16章32節):
PROVERB XVI, 32
『忍耐ある人は英雄にまさり,怒りをおさえる人は町の征服者にまさる.』
“The patient man is better than the valiant: and he that ruleth his spirit than he that taketh cities. ”
・聖福音書の参照(ヨハネによる聖福音書:第4章 -5章15節):
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN, 4:1-5:15
(偽預言者)
『愛する者よ,無差別に霊を信じるな.霊が神から出ているかどうかを試せ.多くの偽預言者が世に出たからである.次のことによって神の霊を認めよ.すなわち,イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである.またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく,来るだろうと聞いている反キリストの霊である.それはもう世に来ている.
小さな子らよ,あなたたちは神から出たものであって,もはや彼らに打ち勝った.あなたたちにましますのは,この世にいる者より偉大なお方である.
彼らは世の者であるから世について語り,世は彼らの言うことを聞く.
しかし私たちは神からの者である.神を知る者は私たちのことばを聞き,神からでない者は聞かない.これによって真理の霊と誤謬(ごびゅう)の霊とが区別される.
愛する者よ,互いに愛せよ.愛は神よりのものである.愛する者は神から生まれ,神を知るが,愛のない者は神を知らない.神は愛だからである.
私たちに対する神の愛はここに現れた.すなわち,神はその御独り子を世に遣(つか)わされた.それは私たちをみ子によって生かすためである.
私たちが神を愛したのではなく,神が(先に)私たちを愛し,み子を私たちの罪のあがないのために遣わされた,ここに愛がある.
愛する者よ,神がこれほどに愛されたのなら,私たちもまた互いに愛さねばならない.だれも神を見た者はいないが,私たちが互いに愛するなら,神は私たちの中に住まわれ,その愛も私たちの中に完成される.
私たちが神にとどまり神が私たちにとどまられることは,神がご自分の霊に私たちをあずからせたもうたことによって分かる.私たちは御父がみ子を救世主として送られたことを見て,これを証明する.
イエズスが神のみ子であると宣言する者には,神がその中にとどまられ,彼は神にとどまる.
私たちは神の愛を知り,それを信じた.神は愛である.
愛をもつ者は神にとどまり,神は彼にとどまられる.
愛が私たちの内に完成されるのは,審判の日に私たちに信頼をもたせるためである.私たちは地上において,主と同じものだからである.
愛には恐れがない.完全な愛は恐れを取り除く.恐れは罰を予想する(恐れには罰が含まれている)からである.恐れる者は完全な愛をもつ者ではない.
私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである.
「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は,偽り者である.目で見ている兄弟を愛さない者には,見えない神を愛することができない.
神を愛する者は自分の兄弟も愛せよ.これは私たちが神から受けた掟である.』
第5章
(イエズス・キリストへの信仰)
『イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方(神)を愛する人々は,また神から生まれた者(神の子ら)をも愛する.神を愛してその掟を行なえば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はその掟を守ることにあるが,その掟はむずかしいものではない.
神から生まれた者は,世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.
水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけではなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.
私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.神の子を信じる者は,自分の内に神の証明をもち,神を信じない者は神を偽り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである.み子をもつ者は命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ.
私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった.
私たちは(神の)み旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.』
* * *
最後のパラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第25章13節(1-13節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW, 25:13 (1-13)
十人の乙女のたとえ(25・1-13)
『*¹天の国は,各自のともしびを持って,*²花婿(はなむこ)を迎えに出る十人の乙女(おとめ)にたとえてよい.そのうちの五人は愚(おろ)か者で,五人は賢(かしこ)い.愚か者はともしび(灯火)を持ったが油を持たず,賢いほうはともしびと一緒に器に入れた油も持っていた.
花婿が遅かったので,一同は居眠りをし,やがて眠りこんでしまった.夜半に,〈さあ,花婿だ.出迎えよ〉と声がかかった.
乙女たちはみな起きて,ともしびをつけたが,愚かな方は賢い方に,〈油を分けてください.火が消えかかっていますので〉と言った.賢い方は,〈私たちとあなたたちとのためには,おそらく足りません.商人のところへ行って買っていらっしゃい〉と答えた.
彼女たちの買いに行っている間に花婿が来たので,用意していた乙女たちは一緒に宴席(えんせき)に入り,そして戸は閉ざされた.やがてほかの乙女たちは帰ってきて,〈主よ,主よ,どうぞ開けてください〉と言ったけれど,〈まことに私は言う.私はおまえたちを知らぬ〉と答えられた.
*³警戒(けいかい)せよ,あなたたちはその日その時を知らない.』
(注釈)
*¹ 1-13節 花婿(はなむこ)はイエズス,乙女らは信者,ともしびは信仰,油は愛と善業,眠りはイエズス来臨までの期間,婚宴の席は天国である.
その席からは信仰をもっていても愛と善業を行わなかった者が遠ざけられる.
*² ある写本(ブルガタ〈ラテン語〉訳)には「花婿,花嫁」とある.のちの書き入れである.
*³ 花婿のキリストが遅くなることはあっても,信者の霊魂はこの世の生活の試練の夜において,いつも警戒し続けなければならぬ.あるいは,弱さのために居眠りすることがあっても,警戒のともしびをすぐともせるように準備していなくてはならぬ(ルカ聖福音12・35−38,13・25).
* * * * * *
旧約聖書・コヘレットの書:第1-5章,11-12章を追加掲載いたします.
ECCLESIASTES I-V, XI-XII.
This Book is called Ecclesiastes, or The Preacher, (in Hebrew, Coheleth,) because in it, Solomon, as an excellent preacher, setteth forth the vanity of the things of this world:
to withdraw the hearts and affections of men from such empty toys.
第1章
CHAPTER I
The vanity of all temporal things.
『エルサレムの王,ダビドの子,*¹コヘレットのことば.
*²空(むな)しいことの空しさ,とコレヘットはいう,空しいことの空しさ,すべては空しい.この世の労苦から,人はどんな利益を受けるのだろう.
新しいものはない
一代が去り,また一代がくる.しかし,地は永遠に変わらない.日は昇り,日は沈み,そして,また元のところにかえっていく.風は南に吹き,また北に移り,めぐりにめぐり,その往来を続ける.川はみな海に流れ入るが,海は満ちることがない,川は一たん入ったところに,また立ちもどっていく.
*³すべてが物憂(ものう)い.目は飽(あ)きるほど物を見,耳は飽きるほど聞いた,という人はあるまい.すでに起こったことはまた起こるだろうし,すでに行われたことはまた行われるだろう,太陽の下に新しいものはない.これは新しいものだ,ごらん,といえる何かがあったとする.ところが,それも,先の代にすでにあったものだ.ただ,昔のことは記憶に残っていない,私たちののちの人々のすることも,それよりのちの人々の記憶に残らないだろう.
学問の空しさ
*⁴私,コヘレットはエルサレムでイスラエルの王だった.
私は天下に行われることをすべて,知恵で一心に探ろうと努力した.それは,神が人間に与えられたつらい仕事である.私はこの世で行われることをじっと見きわめたが,すべては空しいことで,風を追うに似ていた.
曲がったものをまっすぐにはできない,
足りぬものは数えられない.
私は心のなかでこう言った,「私は私より先にエルサレムに入った人よりも知恵を蓄(たくわ)え,知恵を積んだ.そして,多くの知恵と学問を身につけた.
私は一心に知識と学問,愚かなこと,ばからしいことを調べた.そして,これも風を追うようなものだと悟(さと)った.
なぜなら,知恵のあるところには苦悩も多く,
知識がふえると,苦痛も多くなると知ったからだ.』
(注釈)
*¹ コヘレットは集会の人,それは司会者だったかもしれないし,講演者だったかもしれない.また,集会の代表者だったかもしれない.
ダビドの子といえばソロモンのことだが,これはフィクションらしい.ソロモンは知恵者中の知恵者といわれた.
*² ヘブライ語では湯気のこと,あるいは吐息のことらしい.かげ,煙,水泡のように,この世の空しさを表す形容である.
新しいものはない(1・4-11)
*³「口で表現する以上に,すべては退屈だ,目は,飽きるほど物を見ず,耳は,飽きるほど聞いたことがない」とも訳する.
学問の空しさ(1・12-18)
*⁴ 栄華のきわみにあったソロモン(列王上10・4以下)は,すぐれた知恵をもっていたにもかかわらず,幸福を知らなかった.
* * *
第2章
CHAPTER II
The vanity of pleasures, riches, and worldly labours.
快楽の空しさ
『私は心のなかでこう言った,「さあ,快楽を味わうがよい,幸福を味わうがよい」,だが,これは空しいことだ.笑いについては、「愚かなことだ」と私は言った.快楽については,「それが何の役に立つのか」と言った.*¹私は心を知恵に向けながら,身体を酔いにまかせようとした.人間の幸福を知り,また,生きている間,この世で人間がどんなことをするかを知るために,愚かさを味わってみようと思った.
私は大事業に手をつけた,自分の住む大邸宅を造り,ぶどう畑を植えつけた.庭園と果樹園を作り,あらゆる種類の果樹を植えた,木の生い茂る森をうるおすために,大きな池をつくった.*²また下男下女を買った.私より先にエルサレムに住んだどんな人よりも,私は多くの雇い人,家畜群,牛,羊を持った.銀と金,また王たちと各州の財宝を集めた.歌い男と歌い女,そして,人間のもつあらゆる贅沢なものと,*³数多い姫君たちを手に入れた.
私は偉大な人間になり,私より先にエルサレムに住んだどんな人よりも偉大になった.しかも,私は自分の知恵を保った.私は目の望みをすべて満足させ,心にどんな快楽も拒絶しなかった.私の心は自分のするあらゆる苦労によって喜ばされていた.それが私の苦労の報いだった.
さて,自分がしたあらゆる事業と,それをするために忍んだあらゆる苦労をふりかえった.ところがどうだ.すべては空しいこと,風を追うようなことだった.この世には何一つ利益になるものはない.
知恵の空しさ
私は知恵と愚かさと無知に思いをめぐらした.*⁴王の後継者は何をするのだろう.すでにされていることを彼もするにすぎない.昼が夜にまさるように,知恵は愚かさにまさると私は知った.
知恵者は自分の前を見る,
愚か者は手探りで歩く.
それは事実だ,しかしその二人とも,同じ運命に会うのだということも知った.そして,心のなかで言った,「私も愚か者と同じ運命に至るのだ,とすると,私の知恵が何の役に立つのだろう」.また,自分にいい聞かせた,「それも空しいことだ」.
つまり,知恵者も愚か者も,人の記憶に長くは残らない.ある日二人とも忘れられてしまう.そして,知恵者も愚か者と同じように死んでしまう.だから,私は生きることがいやになった.この世で行われることがいやになった.すべては空しいことだ,風を追うに似ている.
私は自分がこの世でしたこと,後継者に残すそのことがいやだ.その後継者が知恵者か,愚か者かだれにわかろう.それにしても彼は私が生きている間に苦労と知恵で積み重ねたあらゆるものを支配するようになるのだ.ああ,それもばからしいことだ.私はこの世でしたすべての仕事について,がっかりしてしまった.
どんなに知恵と知識と才能をもって働いても,少しも苦労しなかっただれかにそれを残さなくてはならぬ.これも空しいことだ,非常に悪いことだ.この世でした自分の労苦と努力が,その人に何を残すのだろう.
その毎日は苦しみの連続で,その努力はつらく,夜の間もその心は休まらない.これもまた空しいことだ.*⁵
飲み食いして,自分の仕事を楽しみにする以外,よいことは人間にはない.それらが神の手からくるものだと私は知った.だれが神なしに飲み食いすることができよう.*⁶神は自分でよいと思われる人間に,知恵と知識と楽しみをお与えになる.そして,罪人には,神に喜ばれる人のために,拾い集める仕事をさせられる.これも空しいことだ,風を追うに似ている.』
(注釈)
快楽の空しさ(2・1-11)
*¹ コヘレットは知恵の範囲内で(幸福がこの世のどこにあるかを探ろうとする.しかし,その空しさを知るだけだ.
*²「自分の家で生まれた下男下女」と訳する人もある.
*³「数多い姫君」の原文はわかりにくい.「宝箱に宝箱を積み重ねて」という訳もある.また,「ぶどう酒の杯と器」という訳もある.
知恵の空しさ(2・12-26)
*⁴「王の後継者として,すでに定まっているのはだれだろう」という訳もある.
*⁵ エピキュリアン的な表現法であるが,これはコヘレットの考えではない.彼は行動の最終目的を快楽においてはいない.
コヘレットが目的にしているのは,常に「神」である.真の喜びは神から与えられる恵みである.
*⁶ 知恵者(ヨブ27・16,格言11・8,13・22)は,罪人が財宝を集めても,いつかそれは正しい人のものになると教えている.しかし,コヘレットは正しい人も死んで財宝をあとに残すという.
* * *
第3章
CHAPTER III
All human things are liable to perpetual changes.
We are to rest on God's providence, and cast away fruitless cares.
すべてに時がある
『*¹この世には,すべてに時があり,それぞれ時期がある.
*²生まれる時,死ぬ時がある,
植える時,抜く時がある.
殺す時,治す時がある.
倒す時,建てる時がある.
泣く時,笑う時がある,
嘆く時,踊る時がある.
*³石を投げる時,拾う時がある,
抱擁(ほうよう)する時,抱擁をやめる時がある.
さがす時,失う時がある,
守る時,捨てる時がある.
裂く時,縫(ぬ)い合わせる時がある,
黙る時,話す時がある.
愛する時,憎む時がある,
戦う時,和睦する時がある.
将来はわからない
働く人の耐えしのぶ労苦が,その人にとって何の役に立とう.私は神が人間の子らに与えて,骨折らせる仕事をながめた.*⁴神のなさることはすべて時に適(かな)っている.
神は人の心に,時をすべて見渡せる力を与えられた.だが人間は神のなさることの始終を知ることはできない.
生きている間,*⁵楽しんで安楽に過ごすこと以外,人間にはよいことがないと私は知った.人間が食べ,飲み,仕事を楽しむことは神の恵みである.
神のなさることは,永遠に変わらないことを知った.神のなさることには,加えることも切りとることもない.神がそうなさるのは,人間に神を恐れさすためである.
今あることは,すでにあったことである,また将来あることは,いますでにあることである.神は追われる者を愛される.
社会の不秩序
私はまた,この世にある他のことに気づいた,正義の席に不正がついており,正しい人の席に罪人がいるのを見た.
私は心のなかで言った,「神は正しい人と罪人をさばかれる.どんなことにも時がありさばきがある」.
私はまた心でいった,「人間の子らとはそんなものだ,神はそれをありのままに見せ,本当に自分は獣(けもの)だと彼らに悟らせるのだ」.
*⁶人間の行末(ゆくすえ)と獣の行末とは同じものだ,人間も死に,獣も死ぬ.二つとも同じ息をしている,人間が獣にまさるというのも空しいことだ.二つとも同じところに行く.二つともちりから出でちりに帰る.
*⁷人間の子らの息が上に上がり,獣の息が地の下に下るのだと知っている者があろうか.そして私は,自分の仕事を楽しむこと以外人の幸福はないと知った.それが人の状態である.後に起こることを見る力を,人に与えるのはだれだろうか.』
(注釈)
すべてに時がある(3・1-8)
*¹ 人の行いの半ばはつらいことだけで,生命の初めから人は死におびえる.
*² ヘブライ語本は「生む時」.しかし,ヘブライ語では他動詞を自動詞の意味でつかうことがある.さらに,次の「死ぬ時」と対照させると,「生まれる時」の方がよいように思わる.
*³ 意味はわかりにくい,敵の畑に石を投げこんで,収穫をふいにさせる意味らしい(列王下3・19,25).石を拾うのは畑の石をとり除くことらしい.
将来はわからない(3・9-15)
*⁴神はすべてをうまくはからわれる.
しかし,人間は時のなかで生きているから,神のみ業(わざ)のすべてを理解することができない.
とはいえ,人の心には神の計画を精神の目でながめようとする傾向がある.
しかしこの努力も空しい,神の計画は結局人間にはわからない.
*⁵神の目の下で正しい生活を営むこと.
社会の不秩序(3・16-4・3)
*⁶表面的にはその通りだが,コヘレットは唯物論者ではない.
*⁷「息」(ヘブライ語のルアフ)とは,神が生物をつくる時に入れられる生命の息吹きで(創世2・7,詩篇104・30),霊魂(ネフェシュ)とは違うもの.コヘレットは死の時,霊魂が黄泉(よみ)に下ると考える.
彼は霊魂の不滅を疑ってはいないが,人間と獣との命の息吹きについて疑問をもっている.
* * *
第4章
CHAPTER IV
Other instances of human miseries.
社会の不秩序
『私はまた,この世で行われるしいたげのことを思った.しいたげられている人々は涙にくれ,慰めてくれる人もない.しいたげる人の手は彼らに暴力を加える.彼らを慰める人は一人もいない.そこで私はすでに死んでしまった人の方が,まだ生きている人より幸せだといった.そして,まだ生まれない人,この世の悪行を見ていない人の方がさきの二人よりも幸せだといった.
節度
私はあらゆる努力,あらゆる労苦が人間同士のねたみにすぎないのを知った.これも空しいことだ,風を追うに似ている.
愚か者は手を組んで,
*¹自分の肉を食う.
*²一握りの安楽は,
両手で苦労し,風を追うよりもましだ.
また,私はこの世に空しいことのあるのを見た.ある人がいる,たった一人で仲間もない,彼には兄弟も子もない.それなのに,彼は働き続け,その目は富に飽くことがない.「私はだれのために働き,何のために自分の喜びを犠牲にし続けているのか」ともいわない.これも空しいこと,みじめなことだ.
社会生活のとりえ
一人っ切りより,二人でいるほうがよい.働く場合も能率が上がる.どちらかが倒れれば,片方がそれを助け上げる,だが,一人っ切りで倒れたら不幸なことだ,助け上げてくれる人がいないのだから.*³また,二人いっしょに寝るとどちらも暖(あたた)かいが,一人っ切りで,どうして暖かくなろう.一人の場合は倒(たお)されても,二人でなら抵抗できるし,三本よりの綱は簡単には切れない.
*⁴人の意見を受けつけない年とった愚かな王よりも,貧しいが賢い若者の方がまさっている.たとえ,若者が牢(ろう)から出て王になったとしても,若者が貧しい身分に生まれたとしても.私はこの世のすべての人が,その王位を奪った若者の味方に立つのを見た.
*⁵彼は数知れない人々の先頭に立ったが,後にくる人々は彼を喜び迎えないだろう,これも空しいこと,風を追うようなことだ.
神に対する義務
神の家へいく時には足どりに用心せよ.素直な心で近づくがよい.あなたのいけにえは愚か者の供え物より値打があろう.愚か者が,自分で悪事をしているのだとは知らないにしても.』
(注釈)
社会の不秩序(3・16-4・3)
節度(4・4-8)
*¹ 働かないから今まで蓄えたものを食いこんでいく.
*² この世の悪は節度のない労働に心身を消耗することだ.どんな事をしても節度を守ること,これがコヘレットの考えである.
社会生活のとりえ(4・9-16)
*³ 今でもパレスチナでは,冬になると小さい宿で二人が一枚の毛布にくるまって寝ているのを見かける.
*⁴13-14節 ロボアム,あるいはエジプトのヨゼフのことではないかという人もある.しかし,これが歴史上の人物を暗示しているとは思えない.
*⁵ 民は王座についた若い君主を喜び迎える.しかし,その歓迎も永久的なものではない.
この世の声望の空しさを教えている.
神に対する義務(4・17-5・6)
* * *
第5章
CHAPTER V
Caution in words. Vows are to be paid. Riches are often pernicious:
the moderate use of them is the gift of God.
神に対する義務
『*¹軽々しく口を開くな,神のみ前でものをいうときには,心であせるな.神は天にあり,あなたはこの世にいる.だからことばを少なくせよ.
*²夢はせわしない生活からくるものだ.
ことばが多いと愚かなことをいってしまう.
あなたが神に願を立てたら,急いでそれを実行するように.神は愚か者を喜ばれない.あなたは願を果たすように.願を立ててそれを実行しないよりは,願を立てない方がましだ.*³口の罪をゆるせば,あなた全体が罪人になるのだ,だからそれをゆるすな.
また,*⁴神の聖職者の前で,「あれは故意でしたことではない」というな.そんなことをしたら,神はあなたに怒り,あなたの手の仕事を滅ぼされる.
夢が多いと幻滅も多い.
ことばが多いと失う時間も多い.
だから神を恐れよ.
社会の不正
*⁵ある国で貧しい人がしいたげられ,権利と正義が無視されているのを見ても驚くな.一人の上役の上には,それも見張っているもう一人の上役がいる.またその上には,もっと高い役の人がある.*⁶それは公益のため,王への奉仕のためだといいわけするかも知れない.
*⁷銀の好きな人は銀をどんなに集めても飽きず,
富を好む人は富で得をすることがない.
それも空しいことだ.
財産がふえると,
寄食者もふえる.
その持ち主は財産を自分の目でながめるだけだ,それが何の得になろう.*⁸働く人は,食事が少なくても多くても,ぐっすり眠るが,満腹した金持ちは寝つかれない.
無駄な苦労
私はこの世に悲惨なことがあるのを見た.財産を守っているその持ち主が,自分の身に害を受けていることだ.
不幸な出来事があると,彼は富を失う,そのとき子どもが生まれる,しかも彼は無一文だ.母の胎内から出てきたときのままの裸にかえって,彼は去ってしまう.働いて得九ものを何一つもっていけない.出てきたときのままで去ってしまうというのもつらいことだ.
自分のもうけを風の中に散じてどんな利益があったろう.その一生はくらやみと,悲哀と,労苦と,病気と,憤(いきどお)りのうちに終わる.
よいこと
私が見たよいこととは,神に与えられた一生の間,この世でする仕事によって安楽に暮らし,食べて飲むことだ,それが彼の行く道である.
神は人間に富と財宝を与え,それを味わい,その分け前をとらせ,自分の仕事によって楽しむようにさせる,それは神の恵みである.
*⁸こういう人はもう,自分の生涯の日々のことをあまり考えなくなる.神が彼の心を喜びで満たされるからである.』
(注釈)
神に対する義務(4・17-5・6)
*¹ 神に喜ばれるのは長い祈りではなく,心の真実とうやまいである(マテオ6・7).
*² 悪夢はせわしない生活や,思いわずらいからくるものだ.
*³「口の罪」とは,祭司のつかっていたことばで,「不注意からの罪」をいう(レビ4・2,22,24,荒野15・22,29).
*⁴七十人訳では「神」とある.「天使」と訳する人もある.
社会の不正(5・7-11)
*⁵ 国家の役人には目下の割前をはねる人が多かった.
*⁶ 解釈はいろいろある.「園家の利益は国民みなのためのもの,王は一州の人々を家来にもっている」というのが原文である.「盛大な国の王はみなに利益を与える」の意味らしい.
*⁷ 当時の財宝には銀が多かったからであろう.
無駄な苦労(5・12-16)
よいこと(5・17-19)
*⁸ 彼の仕事は忙しくて,みじめなこの世のことを考える暇がない.それが,この世における最大の幸福である.
* * *
~~~
第11章
CHAPTER XI
Exhortation to works of mercy, while we have time, to diligence in good,
and to the remembrance of death and judgement.
賢明と節制
『*¹パンを水の上に投げよ.しばらくすると,またそれを見つけるだろう.
財産の一部を七人か八人に分けよ.あなたはこの世にどんな不幸が起こるかを知らないのだ.
雲が雨に満ちると大地に注がれる.木が南か北かに倒れると,倒れたところに横たわる.
風に気をつけている人は種がまけない.
雲を見ている人は刈り入れをしない.
あなたは母の胎内で,骨の中にどうして生命の息吹が入るかを知るまい.同様に,すべてをつかさどる神のみ業を知ることはできない.
*²朝から種をまき,
夕方も手を休めるな.
なぜならあなたは,これか,あれか,そのどちらが実るかを知らないからだ,二つともよいかもしれない.
この世の生活法
*³光は快く,目で太陽を見ることは楽しい.
人は長年生きて,すべてを楽しむがよい.だが,暗い日も数多くあることを思い出せ.起こることはみな,空しいものである.
若者よ,若さを楽しめ.
若い日々に,心で幸福を味わえ.
心の望むまま,
目の望むままに従え.
だがそれらすべてについて,あなたは神のさばきを受けることを忘れるな.
心から悲しみを遠ざけよ.
体から苦痛を取り除け.
だが,若さも,髪の黒い年も,空しいものだ.』
(注釈)
賢明と節制(10・16-11・6)
*¹「施し」についての話らしく思われるが,4節を見るとそうではないらしい.作者が教えるのは,賢明と大胆の両立である.
「パン」を「魚のえさ」の意味にとる人もある.また「海運業」の意味にとる人もある.しかし,最初にいった解釈の方が正しいように思われる.パンを水に投げるのは無駄な仕事を表す.
だがこの世には運不運があるにしろ,ことをしようとする時には,勇気と大胆がいることを教える.
*² 朝まいた種か,夕べまいた種か,そのどちらが実るかを人は知らない.
この世の生活法(11・7-10)
*³ 7-10節 これから話すのは長寿についてである.知恵ある人はいつも,「徳の報いは長寿だ」といっている.
だがコへレットはれに賛成しない.老いることは幸せなことではなく死への恐怖であり,若さへの哀惜であり,ただ,死を待つことだという.
* * *
第12章
CHAPTER XII
The Creator is to be remembered in the days of our youth:
all worldly things are vain: we should fear God and keep his commandments.
老いること
『若い内に創造主を記憶するがよい,悪い日がくる前に,
そして,年をとって,「おもしろくない毎日だ」という前に.*¹また,太陽と光,月と星が暗み,雨降ってのちまた雲が広がる前に.
*²そのときになると、家の番人はふるえ,
力持ちは、かがみこみ,
窓に太陽がかげって,
臼(うす)ひき女は仕事を休む.
その時、二つの扉は道を閉ざし,
粉つき場の声は静まり,
小鳥はさえずりをやめ,
歌声はやむ.
*³その時彼らは坂道を恐れ,
道を歩けば息が切れる.
はたんきょうは花をつけ,
いなごは飽きるほど食べ,
風鳥草は実をつける.
だが,人は永遠の家へと歩をすすめ,泣き女は近づく.
そのとき銀の糸は切れ,
黄金のともしびは割れ,
水がめは泉で砕(くだ)け,
滑車(かっしゃ)は井戸で壊(こわ)れる.
*⁴そのとき,塵(ちり)はもとの土(つち)にもどり,生命はそれを下された神にかえる.
「空しいことの空しさ,すべては空しいとコヘレットは言った.
作者について
コヘレットは知恵者で人々に知識を授けた.彼は多くの格言を調べ,比較し,整理し,味わいのあることばを書き残し,真理のことばをよく記そうと努めた.
*⁵知恵者のことばは刺し針のようだ,固く打ちつけた杭のようだ.牧者がそれを利用するのは,羊の群れを導くためである.
また,わが子よ,本をつくる仕事というのはきりがないことだと教えたい.それに,勉強しすぎると体は疲れる.
結局のところ,こうだ.
思い合わせて見るに,神を恐れ,そのおきてを守ることだ.これは,人間すべての義務なのだから.
神はすべての行為をさばき,隠されたことの善悪をすべて見ておられる.』
(注釈)
老いること(12・1-8)
*¹ 暗い光,雨が降る,これは老年の象徴である.
*² 3節,4節は老年の比喩(ひゆ)として解釈されている.「番人」は腕のこと,「力持ち」は腰やひざ,「臼ひき女」は歯,「扉」はくちびるなどである.
しかし,これは,正しい解釈ではなさそうだ.比喩として解釈する理由がないからである.むしろ,文字通りとった方がよい.
老年になるとどんなに強い番人も中風のようにふるえ,どんな力持ちも腰がかがむようになる.老人になると社会活動ができなくなり,家の門が閉じる.耳が遠くなると物音も歌声も聞こえなくなる.
*³ 老人は死の世界へと急ぐが,自然界はそれとかかわりなく,楽しい世界をくりひろげる.
*⁴この本は,始めたことばで今閉じられようとしている(8節).
コヘレットは,人間のみじめさを思い知らせたが,同時に,この世が人間にふさわしくないこと,人間はかくも偉大なものであると教えた.
利己的でない宗教,礼拝である祈り,神の前に自分の空しさを知ること,それを作者は教えた.
作者について(12・9-14)
*⁵ 原文では,特にこの節の後半(「牧者が…」など)がわかりにくい.この訳では,刺し針や杭をつかうのは羊の群れの善のためだ.
知恵者のことばは,人間への愛から出たものである.
* * * * * *
旧約聖書・詩篇:第139篇(すべてを知るもの〈=神〉)を追加掲載いたします.
PSALM 138 "Domine, probasti"
-God's special providence over his servants.-
第139篇(138)
『歌の指揮者に.ダビドの詩.
*¹主よ,あなたは私をさぐり,
私を知りたもう.
私が座るのも,立つのも知られるあなたは,
遠くから私を見通され,
私が歩むのも,伏すのも見られる.
私の道はすべてあなたに近い.
私の舌にことばが上らずとも,
主よ,あなたはそのすべてを知られ,
後ろから,前から,私を包み,
私の上に御手を置かれた.
あなたの知識は私には驚異で,
あまりに高く,およびもつかない.
主の霊を遠く離れられようか.
み顔からどこに逃げられようか.
天にかけ上っても,主はそこにおられ,
黄泉(よみ)を床にしても,主はおられる.
私が暁の翼を駆(か)って,
海のはてに住もうとも,
御手は私に置かれ,
御右は私をとらえる.
「やみよ私をおおえ,
私を囲む光が夜となれ」と言っても,
やみさえも,あなたには暗くなく,
夜は昼のように輝く.
あなたは私の腎をつくり,
母の胎内に織りこまれた.
恐るべき驚異のあなたを,
私はたたえる.
そのみ業は不思議で,
あなたは私の魂を知りつくされる.
私の骨はあなたに隠されていない,
私がひそかにつくられ,地の深みでぬいとりされたとき.
あなたの御目はすでに私の行いを見,
それらはあなたの*²書の中にあって,
日々が記され,集められた,
一日さえもまだなかったのに.
神よ,あなたの思いは私には計りがたく,
その総計は数えきれない.
それを数えれば砂よりも多く,
終わるときもまたあなたに出会う.
ああ,主よ,悪人を殺し,
血を好む者を私から遠ざけたまえ.
彼らは敵意をもって背き,
むなしく主に手をのばそうとする.
私は主を憎む者を憎み,
主の敵をきらっているではないか.
私は彼らをまったく憎む,
彼らは私の敵でもある.
主よ,私を探り,心を知り,
私を試し,秘密を見ぬき,
悪の道に走っていないかを見て,
私をもとの道に導きたまえ.』
(注釈)
すべてを知るもの(詩篇・第139篇)
◎〈詩篇139の注釈〉*¹〈旧約〉ヨブの書7・17-20をこの歌と比較すると興味がある.
→
『(〈苦難に遭遇したヨブの嘆き〉…この苦しみよりも死を望む…)
**¹あなた(=神)がそれほど値打を買われ,
それにみ心を配られる人間とは何者か.
あなたは朝ごとに彼を訪れ,
絶えまなく彼を試される.
いつまであなたは私から目を反(そ)らされないのか.
せめて,私がつばを飲み込むしばしの間許したまえ.
私が罪を犯したにしても,
人の番人であるあなたに何をしたのだろう.
**²なぜ,私をあなたの標的とし,
これほどの重荷を負わされたのか.』
〈ヨブ書の注釈〉**¹詩篇8のことばを皮肉にくり返しているようだ.詩篇139の作者にとって,神が人を見守ってくださることが神への信頼の理由となっていた.ところが,ヨブは自分を看視される神から,自分が敵視されていると感じる.彼は手探りして厳しい神ではなくあわれみの神をさがし求めている.
**¹詩篇8→
創造主の偉大さ(詩篇・第8篇)
『歌の指揮者に.***¹ガトに合わせる,ダビドの詩.
われらの主,神よ,地に満ち満ちるみ名のその偉大さ.
天上にある威光を,
***²子どもと乳のみ児の口がうたう.
あなたは刃向かう者を***³砦(とりで)に迎え撃ち,
敵と謀叛者を鎮められる.
御指(おんゆび)でつくられた天と,
あなたの配られた月と星を眺めるにつけ,
私は思う,あなたがみ心にとめられるこの人間とは何者か.
あなたが心を配られるこの人の子とは何者か.
あなたは人を***⁴神よりもやや劣るものとし,
光栄と威厳をきせ,
御手の業をつかさどらせ,
万物をその足の下におかれた,
羊も牛もみな,
野の獣も,
空の鳥,海の魚,
海のみちを走るものも***⁵.
神よ,私の主よ,み名は全地に広まる,その偉大さ.』
(注釈**¹〈詩篇8〉の注釈)
創造主の偉大さ(詩篇・第8篇)
***¹「ジッティト」ともある.竪琴のことか,それともペリシテ人がうたっていた曲のことか.
***² マテオ21・16でイエズスはこの一節を引用する.
***³ これは空のこと,その上に神の住居がある.
***⁴「神」,神の王宮を形づくるもの(天使)のこと(詩篇29・1以下).ギリシア語訳とブルガタでは「天使」となっている.
***⁵ 弱い,だが神に形どってつくられた人間,霊界と物質界の境界に立つ人間が自然界をつかさどる.
* * *
〈ヨブ書の注釈〉**²他の訳では「なぜ,私はあなたの重荷となったのか」.
* * *
◎〈詩篇139篇の注釈〉*² 黙示20・12以下参照.
→
『****¹私はまた,白い厳(おごそ)かな座とそこに座したもうお方(=神)を見た.天も地もそのみ前からあとを残さぬほど遠くに逃れた.
私はまた,****²小さい者も偉大な者もすべての死者が玉座の前に立つのを見た.
あまたの書が開かれ,またもう一つの書が開かれた.それは命の書であり,死者はこれらの書の内容に従い,おのおのの行いによってさばかれた.
そして海はそこにいた死者たちを返し,死も黄泉もそこにいた死者たちを出した.彼らはその行いに従ってさばかれた.
****³すると死と黄泉は火の池に投げこまれた,****⁴火の池は第二の死である.命の書に記されなかった者はみな火の池に投げこまれた.』
(注釈)
最後の審判(ヨハネの黙示録20・11-15)
****¹ 地上の悲劇の最後の場面.「白」は神の正義と慈悲が勝つしるしである.
****² 小さな者も大きな者もみな一人残らず.
****³ 大審判の後には,死もなくなるであろう(〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉15・26).
****⁴ 悪の象徴(〈旧約〉ヨブの書7・12)である池は,エジプトから逃れるヘブライ人の目の前で閉じた紅海のように,新しいイスラエル人である聖人たちの前に永遠に閉ざされるであろう.
* * * * * *
使徒聖パウロのローマ人への手紙:第12章,13章1-7節を追加掲載いたします.
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS XII; XIII, 1-7.
第12章
CHAPTER XII
Lessons of Christian virtues.
『それでは兄弟たちよ,あなたたちの体を生きた清い神に嘉(よみ)せられるいけにえとしてささげるように,私は神のあわれみによってあなたたちに勧める.*¹それは道理にかなった崇敬である.この世にならわず,かえって神のみ旨は何か,神のみ前に,善いこと,嘉せられること,完全なことは何かをわきまえ知るために,考え方を改めて自分を変えよ.
私は受けた恩寵(おんちょう)によって,あなたたちおのおのに実際以上に自分を評価するなと言いたい.神がおのおのに与えられた信仰のはかりに従ってよろしく評価せよ.
*²一つの体にはいくつもの肢体があるが,すべての肢体は同じ働きをしていない.それと同じように,私たちは数多いがキリストにおける一つの体であって,おのおのは互いに肢体である.
*³そして私たちは与えられた恩寵によって異なる賜(たまもの)をもっている.預言の賜であれば信仰の程度に応じてそれを行い,*⁴奉仕であれば奉仕をし,教師であれば教え,勧めるもの者は勧め,分配者は寛大に与え,上に立つ者は熱心につかさどり,あわれむ人は喜びをもって行え.
*⁵愛には偽りのないようにせよ.悪を憎み善に親しめ.兄弟愛をもって愛し合い,互いにきそって尊敬し合え.
勤(つと)めのことはゆるがせにせず,熱い心をもって主の奴隷となれ.希望の喜びをもち,患難(かんなん)に耐え,祈りに倦(う)まず,聖徒の必要を補(おぎな)い,旅人への愛はねんごろであるように努めよ.
*⁶あなたたちを虐(しいた)げる人を祝福せよ.祝福してのろうな.*⁷喜ぶ人とともに喜び,泣く人とともに泣け.互いに心を一つにせよ.高ぶったことを望まず,低いことに甘んじ,自分を知者だと思うな.
*⁸だれに対しても悪に悪を返すな.すべての人の前で善いことを行おうと努めよ.できればすべての人と平和を保て.愛する者よ,自分で復讐(ふくしゅう)するな,かえって神の怒りにゆずれ.「*⁹主は言われる.仇(あだ)は私がとる,報いるのは私である」と記されている.むしろ「敵が飢えているなら食べさせ,渇(かわ)いているなら飲ませよ.こうしてあなたは*¹⁰彼の頭の上に燃える炭火を積む」.悪に勝たれるままにせず,善をもって悪に勝て.』
(注釈)
まことの宗教(12・1-2)
*¹ 身体は主のためのものだからである(コリント人への手紙〈第一〉6・13).
みなのための善(12・3-8)
*² 4-5節 キリストの神秘体の教理(コリント〈第一〉12・12,27).
*³ 6-8節 これらは特能のすべてではない(コリント〈第一〉12・8-10,28-30,エフェゾ人への手紙4・11)
*⁴7-8節 「奉仕」の役と「上に立つ者」は,意味がはっきりしないが,教会に階級が定まる以前,信者の一団体を指導する任務のあった人のことらしい.
兄弟愛(12・9-21)
*⁵ 愛は特能にまさるものであって,愛がなければ,特能さえも無価値である(コリント〈第一〉13・1以下).
*⁶ マテオ5・44参照.
*⁷ コリント〈第一〉12・25-27参照.
*⁸ この節以下は,キリスト者以外の人々との交わりについて.
*⁹〈旧約〉第二法の書32・35参照.
*¹⁰〈旧約〉格言の書25・21.セム人の言い方である.悪に対して善で報いるのを見て,悪人の良心は呵責(かしゃく)を感じ,たぶん改心するであろう.
* * * * * *
第13章
CHAPTER XIII, 1-7.
Lessons of obedience to superiors.
すべての人は上の権威者に服従せよ.*¹なぜなら,神から出ない権威はなく,存在する権威者は神によって立てられたからである.それゆえ*²権威に背(そむ)く者は神の定めに背く.背く者は神のさばきを招(まね)く.
上に立つ者は善い行いのためではなく,悪い行いのために恐れねばならぬ.あなたは権威を恐れないことを望むか.それなら善を行え.そうすれば彼から賞(ほ)められる.彼はあなたを善に導くために神に仕える者である.
もしあなたが悪を行うなら恐れよ.彼はいたずらに剣を帯(お)びているのではないからである.彼は神に仕える者であって,悪をする者に怒りをもって報いる.
ただ怒りを恐れるためだけではなく,良心のためにも服従しなければならぬ.そのためにあなたたちは貢(みつ)ぎを納(おさ)めている.彼らはその役目に絶えず従事する神の奉仕者だからである.
*³すべての人に与えねばならぬものを与えよ.貢ぎを払うべき人には貢ぎを,税を払うべき人には税を,恐れるべき人には恐れを,尊(とうと)ぶべき人には尊敬を与えよ.
(注釈)
権威者への服従(13・1-7)
*¹ 権威者に服従することの神学上の理由.教会法の基礎はこれである.
*² 権威者の命令が神法に背いていない場合のこと.
*³ 社会も神の定めたことであるから,その理由のために,社会を重んじなければならない.
* * *
2011年12月31日土曜日
2011年12月26日月曜日
232 必要な幼子 (12/24)
エレイソン・コメンツ 第232回 (2011年12月24日)
今日のニュースでは四六時中(しろくじちゅう),世界とりわけユーロランド “Euroland” (訳注・欧州統一通貨ユーロ “Euro” を共通通貨として採用している国々により形成される通貨圏)の金融・経済危機の話で持ちきりです.オランダのコメンテーター(courtfool.info)が自国向けに,バンクスターたち(訳注・ “banksters” 悪徳銀行幹部)の手から国家の貨幣 “State money” を取り戻そうという,古典的な解決策を提案しています.クリスマスのひとときにこのような金銭問題を考えるのは奇妙に思えるかもしれませんが,この問題全体は一見良さそうな解決策がみな本当に役立つ解決策かどうかという点に尽きるのです.
ユーロが多種多様な欧州諸国に政治統合を強制する手段として積極的に設計されたものでない限り,それは非常に異なる国々の経済の共通通貨としては最初から欠陥(けっかん)があったということになります.そもそもユーロ共通通貨制度は確かに貧しい加盟国には借入・支出,すなわち借りては支出するということを可能にし,その一方で豊かな国にとっては輸出・融資,すなわち輸出と融資を重ねることに確実に役立ちました.だが,そのプロセス(過程)が長続きするのは不可能だったのです.貧しい国々が抱(かか)えている借金の利息をもはや遣り繰り(やりくり)することすらできなくなったとき,豊かな国々もまた愚(おろ)かな融資をしてきた自国の主要銀行の倒産によって経済が麻痺(まひ)する危険に脅(おびや)かされる羽目(はめ)に陥(おちい)りました.
現在,欧州委員会 “the European Commission”,欧州中央銀行 “the European Central Bank”,国際通貨基金 “the International Monetary Fund (IMF) ” が協力して緊急資金を提供しようとしています.別な言い方をすれば,負債の問題をさらなる負債で解決しようというわけです.だが,お手上げ状態の負債国が資金を受けるには国際的な管理機構の指示に従うことが条件となっています.統治能力が益々(ますます)弱まってきている各国政府は支出を削減(さくげん)するよう求められるでしょう。財政的に豊かな国はどうかといえば,こちらもまた自国の主要銀行が行った愚かな貸出から生じた損失を補(おぎな)うため歳出削減をして不人気とならざるをえないでしょう,とオランダのコメンテーター,デ・ルイター氏 “Mr.de Ruijter” (訳注・オランダ語読み「デ・ロイトル」)は述べています.
さて,同氏の示す解決策に戻ります.彼はきわめて簡単な解決策だと言います.早晩消える定めにあるユーロに数十億もつぎ込み,国際機関に歳出削減を押しつけさせる代わりに,「私たちは国家の通貨を導入すればいいのです.」これは,いまや世界のほとんどの国で民間の支配下にある中央銀行に国有銀行 “State bank” が取って代わるということです.国有銀行にのみ通貨発行の権限を認めるのです.すべての融資は国家の通貨で提供します.あらゆる私有,非国有銀行には希薄(きはく)な空気から融資残高を造り出すのを禁止します.言い換えれば小額準備金銀行制度 “fractional reserve banking” を禁止するのです(エレイソン・コメンツ第224回をご参照ください).非国有銀行は提供するサービスの手数料を受け取るのは構(かま)いませんが利子を取るのは認めません.これが同氏の解決策の概要(がいよう)です.
では,誰がその国有銀行をコントロールするのでしょう? デ・ルイター氏は「国有銀行は財務大臣の管轄下に置き,議会がコントロールする.適格者で構成する委員会が通貨制度の長期的利益を監視する」と,書いています.
なかなか結構です.だが,デ・ルイターさん,誰が「適格者」の養成にあたるのでしょうか? 彼らはどのような学校で公益を忠実に守ることを学べるでしょうか? バンクスターたちに巧(たく)みに買収されるのを防ぐため彼らにどれほど強力なモチベーション(=動機付け,意欲,やる気,自発性)を与えられるでしょうか? それは民主主義でしょうか? 欧州を現在の惨状(さんじょう)に陥(おとしい)れたのはまさしく民主主義です!
本当に役立つ完璧(かんぺき)な解決策は一つしかありません.それはベトレヘムの飼い葉桶(かいばおけ)に生まれた神の御子 “the divine Child in the Crib of Bethlehem” です.親愛なる読者の皆さま,クリスマスおめでとう.(クリスマスカードを送ってくださったすべての皆さまありがとう.そして,カードを頂けなかった皆さまにもありがとう!).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
今日のニュースでは四六時中(しろくじちゅう),世界とりわけユーロランド “Euroland” (訳注・欧州統一通貨ユーロ “Euro” を共通通貨として採用している国々により形成される通貨圏)の金融・経済危機の話で持ちきりです.オランダのコメンテーター(courtfool.info)が自国向けに,バンクスターたち(訳注・ “banksters” 悪徳銀行幹部)の手から国家の貨幣 “State money” を取り戻そうという,古典的な解決策を提案しています.クリスマスのひとときにこのような金銭問題を考えるのは奇妙に思えるかもしれませんが,この問題全体は一見良さそうな解決策がみな本当に役立つ解決策かどうかという点に尽きるのです.
ユーロが多種多様な欧州諸国に政治統合を強制する手段として積極的に設計されたものでない限り,それは非常に異なる国々の経済の共通通貨としては最初から欠陥(けっかん)があったということになります.そもそもユーロ共通通貨制度は確かに貧しい加盟国には借入・支出,すなわち借りては支出するということを可能にし,その一方で豊かな国にとっては輸出・融資,すなわち輸出と融資を重ねることに確実に役立ちました.だが,そのプロセス(過程)が長続きするのは不可能だったのです.貧しい国々が抱(かか)えている借金の利息をもはや遣り繰り(やりくり)することすらできなくなったとき,豊かな国々もまた愚(おろ)かな融資をしてきた自国の主要銀行の倒産によって経済が麻痺(まひ)する危険に脅(おびや)かされる羽目(はめ)に陥(おちい)りました.
現在,欧州委員会 “the European Commission”,欧州中央銀行 “the European Central Bank”,国際通貨基金 “the International Monetary Fund (IMF) ” が協力して緊急資金を提供しようとしています.別な言い方をすれば,負債の問題をさらなる負債で解決しようというわけです.だが,お手上げ状態の負債国が資金を受けるには国際的な管理機構の指示に従うことが条件となっています.統治能力が益々(ますます)弱まってきている各国政府は支出を削減(さくげん)するよう求められるでしょう。財政的に豊かな国はどうかといえば,こちらもまた自国の主要銀行が行った愚かな貸出から生じた損失を補(おぎな)うため歳出削減をして不人気とならざるをえないでしょう,とオランダのコメンテーター,デ・ルイター氏 “Mr.de Ruijter” (訳注・オランダ語読み「デ・ロイトル」)は述べています.
さて,同氏の示す解決策に戻ります.彼はきわめて簡単な解決策だと言います.早晩消える定めにあるユーロに数十億もつぎ込み,国際機関に歳出削減を押しつけさせる代わりに,「私たちは国家の通貨を導入すればいいのです.」これは,いまや世界のほとんどの国で民間の支配下にある中央銀行に国有銀行 “State bank” が取って代わるということです.国有銀行にのみ通貨発行の権限を認めるのです.すべての融資は国家の通貨で提供します.あらゆる私有,非国有銀行には希薄(きはく)な空気から融資残高を造り出すのを禁止します.言い換えれば小額準備金銀行制度 “fractional reserve banking” を禁止するのです(エレイソン・コメンツ第224回をご参照ください).非国有銀行は提供するサービスの手数料を受け取るのは構(かま)いませんが利子を取るのは認めません.これが同氏の解決策の概要(がいよう)です.
では,誰がその国有銀行をコントロールするのでしょう? デ・ルイター氏は「国有銀行は財務大臣の管轄下に置き,議会がコントロールする.適格者で構成する委員会が通貨制度の長期的利益を監視する」と,書いています.
なかなか結構です.だが,デ・ルイターさん,誰が「適格者」の養成にあたるのでしょうか? 彼らはどのような学校で公益を忠実に守ることを学べるでしょうか? バンクスターたちに巧(たく)みに買収されるのを防ぐため彼らにどれほど強力なモチベーション(=動機付け,意欲,やる気,自発性)を与えられるでしょうか? それは民主主義でしょうか? 欧州を現在の惨状(さんじょう)に陥(おとしい)れたのはまさしく民主主義です!
本当に役立つ完璧(かんぺき)な解決策は一つしかありません.それはベトレヘムの飼い葉桶(かいばおけ)に生まれた神の御子 “the divine Child in the Crib of Bethlehem” です.親愛なる読者の皆さま,クリスマスおめでとう.(クリスマスカードを送ってくださったすべての皆さまありがとう.そして,カードを頂けなかった皆さまにもありがとう!).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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2011年12月22日木曜日
231 ローマ教皇庁の主張 (12/17)
エレイソン・コメンツ 第231回 (2011年12月17日)
ローマ教皇庁は2009年から今年の春まで行われた(聖ピオ十世会との)カトリック教理に関する協議(訳注・原文= “the doctrinal discussions”,〈教理上の論議〉)への反応として「教理に関する序文」 “Doctrinal Preamble” を出しましたが,フェレイ司教 “Bishop Fellay” は聖ピオ十世会 “the SSPX” がこれについて明確な説明を求めると明らかにされました.これとほぼ同じ時期に協議に参加した教皇庁の4名の神学者の一人であるモンシニョール・フェルナンド・オカリス “Monsignore Fernando Ocariz” が「第二バチカン公会議への固執について」 “On Adhesion to the Second Vatican Council” と題する小論を発表しました.このタイミングは同モンシニョールの言われることに反して,私たちが依然として困難を脱していないことを示しています.彼の主張は少なくとも論旨が明確ですので,その内容を見てみましょう.
モンシニョール・オカリスは小論の序論でその「司牧的」公会議 “"the pastoral" Council” (訳注・=第二バチカン公会議) は見かけに反して教理に則(のっと)っていると主張しています.彼によれば,司牧的なもの(こと)は教理に基づくものです.司牧的なもの・事柄は魂を救おうとしているのだから教理に関わるものです.同公会議の諸文書は多くの教理を含むものだというのです.結構です! 少なくとも同モンシニョールは公会議の擁護者(ようごしゃ)の多くと違い,公会議が教理に反するものだと装(よそお)うことで公会議に向けられた教理上の数々の非難をはぐらかそうとはしていません.
ついで,彼はカトリック教会の教導権 “Magisterium” 全般について,第二バチカン公会議を構成するのは「真実のカリスマ,キリストの権威,聖霊の光」(原文・ “the charism of truth, the authority of Christ and the light of the Holy Spirit” )をそなえたカトリックの司教たちだと述べています.彼はこれを否定するのは教会の本質的なものを否定するのに等しいと言います.だが,それではモンシニョールにお尋(たず)ねします.教皇リベリウス(西暦352-355年) “Pope Liberius” の下でアリウス主義の異端 “the Arian heresy” に同調した大多数のカトリック司教たちのことはどう説明されるのでしょうか? 例外的に,カトリック司教たちですらそのほぼ全員が教理を見失ってしまうことがあります.ひとたび起きたことは再び起きえます.それが第二バチカン公会議で起きたことはその諸文書が示しています.
モンシニョール・オカリスはさらに議論を進め,同公会議の教えは教義に反し,定義が不明確に見えても,カトリック信徒はこれに「意思と知性の宗教的服従」( “religious submission of will and intellect” )すなわち「教導権に与えられた神の助力に対する信頼に根ざした忠実な行為」( “an act of obedience well-rooted in confidence in the divine assistance given to the Magisterium” )である賛同を示すことが求められると主張しています.だがモンシニョール,アリウス主義の司教たちと同じように第二バチカン公会議派司教たちに対しても神は間違いなく彼らが必要とするあらゆる助力をお与えになられたのですが,それを拒んだのは彼ら自身です.このことは神の伝統から逸脱(いつだつ)した公会議の諸文書が明示しています.
最後にモンシニョール・オカリスは,カトリックの教導権は継続しており,第二バチカン公会議が教導権を継承しているのだから,その教えは過去のものと繋(つな)がっていると論じることで問題をはぐらかしています.そして,もし同公会議の教えが過去のものから断絶しているように見えるとしても,カトリック的になすべきことは,そのような断絶がないようにその教えを解釈することだとしています.これは例えば教皇ベネディクト16世の言われる「継続性の解釈学(継続という〈聖書原典解釈学的〉解釈)」 “hermeneutic of continuity” と同じです.だがモンシニョール,これら諸々の議論の方向を変えることは可能です.事実,同公会議の諸文書そのものを調べれば明らかなように,教理上の断絶は確かに存在します.(例えば,過(あやま)ちの広がりを阻(はば)まれない(訳注・=過ちの拡散が回避できない)人権が,そこにあるのでしょうか(第二バチカン公会議主義の場合はある),それともそこにないのでしょうか(伝統主義の場合はない)? (訳注・それらの諸文書の中身を調べてみればこれらの答えは一目瞭然〈いちもくりょうぜん〉です.)(原文・ “In fact there is a doctrinal break, as is clear from examining the Conciliar documents themselves. (For instance, is there (Vatican II), or is there not (Tradition), a human right not to be prevented from spreading error ?)” )したがって,第二バチカン公会議はカトリック教会の真の教導権を持っていないのです.カトリック的になすべきことはルフェーブル大司教“Archbishop Lefebvre” がなされたように,伝統の断絶が確かにあることを示すことであって,そのようなことがないと装(よそお)うことではありません.
モンシニョール・オカリスは小論の最後の言葉として教導権のみが教導権を解し得ると主張しています.これでは議論が振り出しに戻ってしまいます.
親愛なる読者の皆さま.ローマ教皇庁は決して難局を脱していません.天よ私たちをお救いください.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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ローマ教皇庁は2009年から今年の春まで行われた(聖ピオ十世会との)カトリック教理に関する協議(訳注・原文= “the doctrinal discussions”,〈教理上の論議〉)への反応として「教理に関する序文」 “Doctrinal Preamble” を出しましたが,フェレイ司教 “Bishop Fellay” は聖ピオ十世会 “the SSPX” がこれについて明確な説明を求めると明らかにされました.これとほぼ同じ時期に協議に参加した教皇庁の4名の神学者の一人であるモンシニョール・フェルナンド・オカリス “Monsignore Fernando Ocariz” が「第二バチカン公会議への固執について」 “On Adhesion to the Second Vatican Council” と題する小論を発表しました.このタイミングは同モンシニョールの言われることに反して,私たちが依然として困難を脱していないことを示しています.彼の主張は少なくとも論旨が明確ですので,その内容を見てみましょう.
モンシニョール・オカリスは小論の序論でその「司牧的」公会議 “"the pastoral" Council” (訳注・=第二バチカン公会議) は見かけに反して教理に則(のっと)っていると主張しています.彼によれば,司牧的なもの(こと)は教理に基づくものです.司牧的なもの・事柄は魂を救おうとしているのだから教理に関わるものです.同公会議の諸文書は多くの教理を含むものだというのです.結構です! 少なくとも同モンシニョールは公会議の擁護者(ようごしゃ)の多くと違い,公会議が教理に反するものだと装(よそお)うことで公会議に向けられた教理上の数々の非難をはぐらかそうとはしていません.
ついで,彼はカトリック教会の教導権 “Magisterium” 全般について,第二バチカン公会議を構成するのは「真実のカリスマ,キリストの権威,聖霊の光」(原文・ “the charism of truth, the authority of Christ and the light of the Holy Spirit” )をそなえたカトリックの司教たちだと述べています.彼はこれを否定するのは教会の本質的なものを否定するのに等しいと言います.だが,それではモンシニョールにお尋(たず)ねします.教皇リベリウス(西暦352-355年) “Pope Liberius” の下でアリウス主義の異端 “the Arian heresy” に同調した大多数のカトリック司教たちのことはどう説明されるのでしょうか? 例外的に,カトリック司教たちですらそのほぼ全員が教理を見失ってしまうことがあります.ひとたび起きたことは再び起きえます.それが第二バチカン公会議で起きたことはその諸文書が示しています.
モンシニョール・オカリスはさらに議論を進め,同公会議の教えは教義に反し,定義が不明確に見えても,カトリック信徒はこれに「意思と知性の宗教的服従」( “religious submission of will and intellect” )すなわち「教導権に与えられた神の助力に対する信頼に根ざした忠実な行為」( “an act of obedience well-rooted in confidence in the divine assistance given to the Magisterium” )である賛同を示すことが求められると主張しています.だがモンシニョール,アリウス主義の司教たちと同じように第二バチカン公会議派司教たちに対しても神は間違いなく彼らが必要とするあらゆる助力をお与えになられたのですが,それを拒んだのは彼ら自身です.このことは神の伝統から逸脱(いつだつ)した公会議の諸文書が明示しています.
最後にモンシニョール・オカリスは,カトリックの教導権は継続しており,第二バチカン公会議が教導権を継承しているのだから,その教えは過去のものと繋(つな)がっていると論じることで問題をはぐらかしています.そして,もし同公会議の教えが過去のものから断絶しているように見えるとしても,カトリック的になすべきことは,そのような断絶がないようにその教えを解釈することだとしています.これは例えば教皇ベネディクト16世の言われる「継続性の解釈学(継続という〈聖書原典解釈学的〉解釈)」 “hermeneutic of continuity” と同じです.だがモンシニョール,これら諸々の議論の方向を変えることは可能です.事実,同公会議の諸文書そのものを調べれば明らかなように,教理上の断絶は確かに存在します.(例えば,過(あやま)ちの広がりを阻(はば)まれない(訳注・=過ちの拡散が回避できない)人権が,そこにあるのでしょうか(第二バチカン公会議主義の場合はある),それともそこにないのでしょうか(伝統主義の場合はない)? (訳注・それらの諸文書の中身を調べてみればこれらの答えは一目瞭然〈いちもくりょうぜん〉です.)(原文・ “In fact there is a doctrinal break, as is clear from examining the Conciliar documents themselves. (For instance, is there (Vatican II), or is there not (Tradition), a human right not to be prevented from spreading error ?)” )したがって,第二バチカン公会議はカトリック教会の真の教導権を持っていないのです.カトリック的になすべきことはルフェーブル大司教“Archbishop Lefebvre” がなされたように,伝統の断絶が確かにあることを示すことであって,そのようなことがないと装(よそお)うことではありません.
モンシニョール・オカリスは小論の最後の言葉として教導権のみが教導権を解し得ると主張しています.これでは議論が振り出しに戻ってしまいます.
親愛なる読者の皆さま.ローマ教皇庁は決して難局を脱していません.天よ私たちをお救いください.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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2011年12月15日木曜日
230 国教たるべきか?-2- (12/10)
エレイソン・コメンツ 第230回 (2011年12月10日)
リベラリズム “liberalism” (=自由主義)という宗教によれば - たまにリベラリズムが宗教を代替(だいたい)すると耳にします - 地上のあらゆる国家はカトリック教を支(ささ)えて擁護(ようご)すべきだと主張するのは全くの異端(いたん)だということになります.しかし,もし神が存在するならば,もしイエズス・キリストが神であるならば,もし,国家のように,人類が構成する自然社会が神の被造物 “a creature of God” であるならば,そしてもしイエズス・キリストがカトリック教会を人間を地獄の永遠の炎から救う唯一の手段として築(きず)かれたのだとすれば,国家は人類の敵になろうと望まない限りカトリック教会を擁護する義務を負っています.だが,この結論には複数の反対意見があります.最も共通する反対意見のうち三つを取り上げて見てみましょう.
第1の反対: 私たちの主イエズス・キリスト自らポンティオ・ピラト(ヨハネ聖福音書18章36節参照)(訳注後記)に対し自分の築いた王国はこの世のものではないと告げた.然るに国家はこの世のものである.したがって,国家は神の王国,その教会とは無関係であるべきだ.
解答: 私たちの主はピラトに彼の王国と国家は異なるものだと伝えられましたが,両者を別々(=別個のもの)にすべしとは言っておられません.人間の霊魂と肉体は異なりますが,両者を別々にすることはその人間の死を意味します.親と子供は異なりますが,(現代の児童保護機関がよくするように)両者を別々にすることは家庭の死を意味します.教会と国家が異なるのは現世の命と(来世の)永遠の命が異なるようなものですが,両者を分けるのは先のものと後のもの(訳注・=現世での命と来世での命)との間に溝を作るようなもので,地獄へ墜(お)ちる人の数を増やすことになるでしょう.
第2の反対: カトリック教は真実だが,真実は自ら道を切り開くに任せればいい.したがって,カトリック教は他の宗教の実践を公に抑えるといった教会の威圧(いあつ)的な力など必要としない.
解答: 本質的には(=それ自体では),ラテン人たちが言ったとおり,確かに「真実は力強いもので広く行きわたるもの」です.だが,私たち人間の間では原罪がある故,真実は容易に広まりません.もし,あらゆる人間(私たちの主イエズス・キリストとその聖母マリア “Our Lord and Our Lady” を除き)が無知,悪意,弱さ,不摂生(ふせっせい)の四つの傷で堕落(だらく)して以来(いらい)悩んでいないのであれば,真実がひとりでに行きわたるのを妨げるものは少ないでしょうし,トーマス・ジェファーソン “Thomas Jefferson” (米国第3代大統領)が「真実は市場で開示されるだけで広まる」と言ったのは正しかったかもしれません.だが,カトリック教徒は教会がなにを説いているか知っています.すなわち,人間は洗礼を受けた後でも原罪が下に引きずり降ろそうとする力に弱いので,それなしでは霊魂が救われない真実を探し出すには国家による穏当(おんとう)な助けが必要だということです.この穏当な助けには国家が誰でも手当たり次第カトリック教徒にしてしまうことは含まれません.だが,国家がジェファーソンの言う市場から危険な反真実 “anti-truths” を排除することは含みます.
第3の反対: 強い権力は大いに悪用されうる.今,教会と国家が結び付けば双方(そうほう)の立場を大いに強める.したがって,大きな害が生じうる - このことは,いかに公会議主義の教会と現世的な新世界秩序が互いに力を与えあっているかを見るだけではっきりする!
解答:ラテン人は「悪用は利用を止められない」と言いました.私たちの主イエズス・キリストは悪用されうることを理由に私たちに聖体 “Holy Eucharist” (訳注後記)を授けるのを思いとどまったでしょうか? 公会議主義の教会とリベラルな国家の再結合は教会と国家の結びつきの大いなる悪用です.だが,それが実証するのはリベラリズムの誤りであって,カトリック国家とカトリック教会の結びつきの誤りではありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第18章36節(28-40節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, 18:36 (18:28-40)
ピラトの前で(18・28-40)
『(御受難の日の朝)…人々はイエズスをカヤファのもとから総督官邸に引いていった.夜明けだった.ユダヤ人たちは,過ぎ越しの小羊を食べる際に汚れを受けないように,総督官邸に入らなかった.
ピラトが外にいる彼らの方に出て,「あなたたちはこの人について,何を訴えるのか」と言うと,「その人が悪者でなかったなら,あなたにわたさなかったでしょう」と彼らは答えた.ピラトが,「この人を引き取って,あなたたちの律法に従って裁(さば)け」と言うと,ユダヤ人たちは,「私たちには死刑を行う権限がありません」と言った.
それは,イエズスが自分はどんな死に方で死ぬかを示して言われたみことばを実現するためであった.
ピラトはまた官邸に入りイエズスを呼び出し,「あなたはユダヤ人の王か」と聞いた.
イエズスは,「あなたは自分でそう言うのか.あるいは,ほかの人が私のことをそう告げたのか」と言われた.
するとピラトは,「私をユダヤ人だと思うのか.あなたの国の人と司祭長たちがあなたを私にわたしたのだ.あなたは何をしたのか」と聞いた.
イエズスは答えられた,
「私の国はこの世のものではない.もし私の国がこの世のものなら,私の兵士たちはユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう.だが,私の国はこの世からのものではない.」
ピラトが,「するとあなたは王か」と聞いたので,イエズスは,「あなたの言うとおり私は王である.私は真理を証明するために生まれ,そのためにこの世に来た.真理につく者は私の声を聞く」と答えられた.ピラトは「真理とは何か」と言った.
そう言ってふたたびユダヤ人の前に出て,「私はこの人にどんな罪も見いださない.
過ぎ越しの祭りのときにおまえたちに囚人を一人ゆるす慣例であるが,おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてほしいと望むか」と言うと,彼らはまた「その人ではなく,バラバを」と叫んだ.バラバとは強盗であった.』
(注釈は後から追記します)
* * *
最後のパラグラフ(第7)の訳注:
御聖体 “Holy Eucharist” について.
= “Corpus Christi” .
真の命,すなわち命そのものたる「キリストの御体」のこと.
=「命の糧〈パン〉」 “The bread of life”
参考となる新約聖書からの引用
ヨハネ聖福音書:第1章1-5節,第6章35節 / John 1:1-5, 6:35
(後から追加いたします)
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リベラリズム “liberalism” (=自由主義)という宗教によれば - たまにリベラリズムが宗教を代替(だいたい)すると耳にします - 地上のあらゆる国家はカトリック教を支(ささ)えて擁護(ようご)すべきだと主張するのは全くの異端(いたん)だということになります.しかし,もし神が存在するならば,もしイエズス・キリストが神であるならば,もし,国家のように,人類が構成する自然社会が神の被造物 “a creature of God” であるならば,そしてもしイエズス・キリストがカトリック教会を人間を地獄の永遠の炎から救う唯一の手段として築(きず)かれたのだとすれば,国家は人類の敵になろうと望まない限りカトリック教会を擁護する義務を負っています.だが,この結論には複数の反対意見があります.最も共通する反対意見のうち三つを取り上げて見てみましょう.
第1の反対: 私たちの主イエズス・キリスト自らポンティオ・ピラト(ヨハネ聖福音書18章36節参照)(訳注後記)に対し自分の築いた王国はこの世のものではないと告げた.然るに国家はこの世のものである.したがって,国家は神の王国,その教会とは無関係であるべきだ.
解答: 私たちの主はピラトに彼の王国と国家は異なるものだと伝えられましたが,両者を別々(=別個のもの)にすべしとは言っておられません.人間の霊魂と肉体は異なりますが,両者を別々にすることはその人間の死を意味します.親と子供は異なりますが,(現代の児童保護機関がよくするように)両者を別々にすることは家庭の死を意味します.教会と国家が異なるのは現世の命と(来世の)永遠の命が異なるようなものですが,両者を分けるのは先のものと後のもの(訳注・=現世での命と来世での命)との間に溝を作るようなもので,地獄へ墜(お)ちる人の数を増やすことになるでしょう.
第2の反対: カトリック教は真実だが,真実は自ら道を切り開くに任せればいい.したがって,カトリック教は他の宗教の実践を公に抑えるといった教会の威圧(いあつ)的な力など必要としない.
解答: 本質的には(=それ自体では),ラテン人たちが言ったとおり,確かに「真実は力強いもので広く行きわたるもの」です.だが,私たち人間の間では原罪がある故,真実は容易に広まりません.もし,あらゆる人間(私たちの主イエズス・キリストとその聖母マリア “Our Lord and Our Lady” を除き)が無知,悪意,弱さ,不摂生(ふせっせい)の四つの傷で堕落(だらく)して以来(いらい)悩んでいないのであれば,真実がひとりでに行きわたるのを妨げるものは少ないでしょうし,トーマス・ジェファーソン “Thomas Jefferson” (米国第3代大統領)が「真実は市場で開示されるだけで広まる」と言ったのは正しかったかもしれません.だが,カトリック教徒は教会がなにを説いているか知っています.すなわち,人間は洗礼を受けた後でも原罪が下に引きずり降ろそうとする力に弱いので,それなしでは霊魂が救われない真実を探し出すには国家による穏当(おんとう)な助けが必要だということです.この穏当な助けには国家が誰でも手当たり次第カトリック教徒にしてしまうことは含まれません.だが,国家がジェファーソンの言う市場から危険な反真実 “anti-truths” を排除することは含みます.
第3の反対: 強い権力は大いに悪用されうる.今,教会と国家が結び付けば双方(そうほう)の立場を大いに強める.したがって,大きな害が生じうる - このことは,いかに公会議主義の教会と現世的な新世界秩序が互いに力を与えあっているかを見るだけではっきりする!
解答:ラテン人は「悪用は利用を止められない」と言いました.私たちの主イエズス・キリストは悪用されうることを理由に私たちに聖体 “Holy Eucharist” (訳注後記)を授けるのを思いとどまったでしょうか? 公会議主義の教会とリベラルな国家の再結合は教会と国家の結びつきの大いなる悪用です.だが,それが実証するのはリベラリズムの誤りであって,カトリック国家とカトリック教会の結びつきの誤りではありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第18章36節(28-40節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, 18:36 (18:28-40)
ピラトの前で(18・28-40)
『(御受難の日の朝)…人々はイエズスをカヤファのもとから総督官邸に引いていった.夜明けだった.ユダヤ人たちは,過ぎ越しの小羊を食べる際に汚れを受けないように,総督官邸に入らなかった.
ピラトが外にいる彼らの方に出て,「あなたたちはこの人について,何を訴えるのか」と言うと,「その人が悪者でなかったなら,あなたにわたさなかったでしょう」と彼らは答えた.ピラトが,「この人を引き取って,あなたたちの律法に従って裁(さば)け」と言うと,ユダヤ人たちは,「私たちには死刑を行う権限がありません」と言った.
それは,イエズスが自分はどんな死に方で死ぬかを示して言われたみことばを実現するためであった.
ピラトはまた官邸に入りイエズスを呼び出し,「あなたはユダヤ人の王か」と聞いた.
イエズスは,「あなたは自分でそう言うのか.あるいは,ほかの人が私のことをそう告げたのか」と言われた.
するとピラトは,「私をユダヤ人だと思うのか.あなたの国の人と司祭長たちがあなたを私にわたしたのだ.あなたは何をしたのか」と聞いた.
イエズスは答えられた,
「私の国はこの世のものではない.もし私の国がこの世のものなら,私の兵士たちはユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう.だが,私の国はこの世からのものではない.」
ピラトが,「するとあなたは王か」と聞いたので,イエズスは,「あなたの言うとおり私は王である.私は真理を証明するために生まれ,そのためにこの世に来た.真理につく者は私の声を聞く」と答えられた.ピラトは「真理とは何か」と言った.
そう言ってふたたびユダヤ人の前に出て,「私はこの人にどんな罪も見いださない.
過ぎ越しの祭りのときにおまえたちに囚人を一人ゆるす慣例であるが,おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてほしいと望むか」と言うと,彼らはまた「その人ではなく,バラバを」と叫んだ.バラバとは強盗であった.』
(注釈は後から追記します)
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最後のパラグラフ(第7)の訳注:
御聖体 “Holy Eucharist” について.
= “Corpus Christi” .
真の命,すなわち命そのものたる「キリストの御体」のこと.
=「命の糧〈パン〉」 “The bread of life”
参考となる新約聖書からの引用
ヨハネ聖福音書:第1章1-5節,第6章35節 / John 1:1-5, 6:35
(後から追加いたします)
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ラベル:
カトリック教会,
カトリック教国家,
カトリック真理,
リベラリズム,
公会議主義,
自由主義,
新世界秩序 "The New World Order",
第二バチカン公会議
2011年12月14日水曜日
229 呪われたリベラル主義者 (12/3)
エレイソン・コメンツ 第229回 (2011年12月3日)
リベラリズム “liberalism” (=自由主義)は恐ろしい病で,何億もの霊魂を地獄に落とします.それは人の精神を客観的な真実から,心(意思や情愛)を客観的な善から「解放し」ます.そこでは主観が君臨します.リベラルな考えでは,神の場にいるのは人間であり,その人間は自分が決めただけ神に重きを置きます.(訳注後記)そして,その度合いはあまり大きくないのが普通です.言ってみれば,全能の神は忠実な子犬のように鎖(くさり)に繋(つな)がれた状態です! 事実,リベラル主義者(=リベラリスト)の「神」は真の神のまがい物です.だが,「神は似せて作るものにあらず」(ガラテア人への手紙6章7節)(訳注後記)です.リベラル主義者は現世ではにせ(偽)の活動家,本物の専制君主,弱々しい(=女性的な)人間になることによって罰を受けます.
ルフェーブル大司教によると,にせ活動家の典型的な例はラテンアメリカに見られる革命的神父たちです.同大司教がよく言われたことですが,教会の近代化運動の影響でカトリック信仰を失った神父が最も恐ろしい革命家になります.というのも,彼らは人々の霊魂の救済のため真の活動 “true crusade” の持つあらゆる力を共産主義に向けてしまうからです.しかも彼らは真の活動のための訓練を受けてきたにもかかわらず,自らのやってきたこと(訳注・真の活動のこと)をもはや信じなくなっているのです.
真実の聖戦 “crusade” (訳注後記)は神,イエズス・キリスト,永遠の救いのためにあるものです.そして,そのような真の意味での聖戦をもはや信じられなくなると,人々の生活にはそれに見合うだけの大きな隙間(すきま)が生じます.そういった人々は他のありとあらゆるものに対する改革を進めることでその隙間を埋めようとします.例えば,タバコの禁止(だがマリファナやヘロインは自由),死刑の廃止(だが有能な右翼主義者の処刑は自由),圧制者〈=暴君〉には反対(だが「民主主義」をもたらすためならいかなる国を爆撃するのも自由),人間の神聖さを強調(だが母の胎内の赤ん坊〈=胎児〉を堕胎〈=人工妊娠中絶〉するのは自由)といった具合で,例を挙げればきりがありません.ここで特に挙げたこうした矛盾の数々は,キリスト教の世界秩序 “Christian world order” に代わるべき新世界秩序を全面的に推(お)し進めようとする “…crusade for a total new world order” リベラル主義者たちにとってはまったく辻(つじ)つまの合うことです.彼らはキリストと戦っていないように装(よそお)っていますが,その化けの皮は剥(は)がれかかっています.
理論的に言えばリベラル主義者たちはまた本物の専制君主にもなります.彼らは自身の上の存在である神,真理,法から自らを「解放」しているので,残るのは自分たちの心,意思の権威だけで,それを誰彼かまわず他の人たちに押し付けます.例えば,教皇パウロ6世です.彼はカトリック教の伝統が自分の権威を制限していることなど忘れてしまって自分の説く新しいミサ典礼の新秩序を1969年にカトリック教会に押しつけました.しかも,そのわずか2年前に相当な数の司教たちが似たようなミサ典礼の試みを拒んだにもかかわらずです.教皇パウロ6世は部下が自分のようにリベラル主義者でなければ,その意見を尊重したでしょうか? 部下たちは自分たちにとって何が良いことなのか分かりませんでした.だが同教皇は分かっていました.
再び理論的に言えば,リベラル主義者は弱々しく(女々しく=感傷的に)なります.なぜなら彼らは何事も個人的なことと受け止めざるを得ない(受け止めずにはいられない)からです.けれども彼らの権威主義に対するどの良識ある反対も彼らが軽蔑(けいべつ)する真理ないし法 “Truth or Law” すなわち全人類の上に君臨するカトリック真理,神の法(十戒)に基づいています.だからこそルフェーブル大司教は教皇パウロ6世の進めたリベラリズムに抵抗したのですが,教皇パウロ6世は単に同大司教が自分に取って代わって教皇になろうとしていると考えました.パウロ6世は自分の権威よりはるかに高い真の神の権威が存在していること,そしてルフェーブル大司教はそのより高い権威に冷静に心を寄せていたのだということを理解できなかったのです.はたして主なる神もいつかは間違いをするのではないかなどと心配する必要があるでしょうか? まったくありません.
イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちがあなただけから生まれ得る良き指導者たちに恵まれますように.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注:
新約聖書・ガラテア人への手紙:第6章7節(1-10節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS, 6:7 (6:1-10)
愛の実践(6・1-10)
『兄弟たちよ,もしある人に過失があったら,*¹霊の人であるあなたたちは柔和な心をもってその人を改めさせよ.そして,自分も誘われぬよう気をつけよ.
互いに重荷を負え.そうすれば,あなたたちはキリストの法をまっとうできる.
何者でもないのに,何者であるかのように思うのは,自分を欺(あざ)むくことである.
おのおの自分の行いを調べよ.*²そうすれば,他人についてでなく,自分についてだけ誇る理由を見いだすだろう.おのおの自分の荷を負っているからである.
*³みことばを教えてもらう人は,教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ.
自分を欺むいてはならない.神を侮(あなど)ってはならない.人はまくものを収穫するからである.すなわち自分の肉にまく人は肉から腐敗を刈り取り,霊にまく人は霊から永遠の命を刈り取る.
善を行ない続けて倦(う)んではならない.たゆまず続けているなら,時が来て刈り取れる.
だから,まだ時のある間に,すべての人に,特に信仰における兄弟である人々に善を行え.
(注釈)
*¹ 〈新約〉コリント人への手紙(第1)3・1以下参照.
→(第3章1-23節を後から追加します)
*² 他人の欠点と自分の行いを比べて,誇りたくなる時がある.しかし非難するのは,自分のことだけでなければならない.
パウロの言葉は皮肉であって,真実に自分をかえりみる人は,自分を誇る理由を見つけるはずがない.
*³ 信徒は宣教師の生活を保証せねばならない.
* * *
第3パラグラフの訳注:
真実の聖戦 “The true crusade” について.
(説明)
・救世主たる神の御子イエズス・キリストの教えを地上の人間社会に宣教し,人々を永遠の救霊に導き入れるための戦い.「改革(運動)」はこの意味で,悪に傾きがちな人間に「真理において善に従う人生を送ることが真の生命へと生き延びることだ」と教えることである.
・霊である神はキリストにおいて人間となられ,十字架上の死から復活されたことにより悪(=肉欲・原罪)の力を征服された.したがって神・カトリック真理(救世主たる神の御子キリストへの信仰)・神の法の勝利は決定的であり,それを否定する悪(リベラリズムすなわち利己主義)は滅亡の一途をたどる一方に終わる.
・したがって真実の聖戦とは,厳密には,肉眼で見える世界での人間や人間社会との戦いというより,目に見えない霊的な世界での悪の霊との戦いを指している.
・現世は悪の霊の支配下にあり,悪は「肉欲・我欲」によって人間を堕落させ,その霊魂を永遠の滅びに落とそうとしている.
・「肉欲・我欲」は人間に,人間の五感(視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚)に触れるあらゆる良いものについて,その創造主たる神に感謝することをさせず,かえってあらゆる良いものによって自らを傲慢(ごうまん)に誇ったり,他者を妬(ねた)んだり貶(おとし)めたりさせる.
・現世は果敢無(はかな)く有限であるが,来世は永遠であり,しかも来世での永福は現世でいかに「我欲を抑(おさ)え・他者を助ける犠牲的精神・他者の幸福を願う善意」などを心がけて過ごしたかにかかっている.
・以上の観点から,「リベラリズム」とは「自由に我欲を追求して生きることを〈人権〉と呼んで正当化し,そのためとあらば平然と他者を否定したりふみつけにすることも許される」ということを意味し,それに基づき現世の人間社会で起こされている様々な不和な現象から,「リベラリズム」がいかに人の霊魂・人の真の幸福を損なわせる危険なものであるかを観察することができる.
(続きを追加いたします)
* * *
リベラリズム “liberalism” (=自由主義)は恐ろしい病で,何億もの霊魂を地獄に落とします.それは人の精神を客観的な真実から,心(意思や情愛)を客観的な善から「解放し」ます.そこでは主観が君臨します.リベラルな考えでは,神の場にいるのは人間であり,その人間は自分が決めただけ神に重きを置きます.(訳注後記)そして,その度合いはあまり大きくないのが普通です.言ってみれば,全能の神は忠実な子犬のように鎖(くさり)に繋(つな)がれた状態です! 事実,リベラル主義者(=リベラリスト)の「神」は真の神のまがい物です.だが,「神は似せて作るものにあらず」(ガラテア人への手紙6章7節)(訳注後記)です.リベラル主義者は現世ではにせ(偽)の活動家,本物の専制君主,弱々しい(=女性的な)人間になることによって罰を受けます.
ルフェーブル大司教によると,にせ活動家の典型的な例はラテンアメリカに見られる革命的神父たちです.同大司教がよく言われたことですが,教会の近代化運動の影響でカトリック信仰を失った神父が最も恐ろしい革命家になります.というのも,彼らは人々の霊魂の救済のため真の活動 “true crusade” の持つあらゆる力を共産主義に向けてしまうからです.しかも彼らは真の活動のための訓練を受けてきたにもかかわらず,自らのやってきたこと(訳注・真の活動のこと)をもはや信じなくなっているのです.
真実の聖戦 “crusade” (訳注後記)は神,イエズス・キリスト,永遠の救いのためにあるものです.そして,そのような真の意味での聖戦をもはや信じられなくなると,人々の生活にはそれに見合うだけの大きな隙間(すきま)が生じます.そういった人々は他のありとあらゆるものに対する改革を進めることでその隙間を埋めようとします.例えば,タバコの禁止(だがマリファナやヘロインは自由),死刑の廃止(だが有能な右翼主義者の処刑は自由),圧制者〈=暴君〉には反対(だが「民主主義」をもたらすためならいかなる国を爆撃するのも自由),人間の神聖さを強調(だが母の胎内の赤ん坊〈=胎児〉を堕胎〈=人工妊娠中絶〉するのは自由)といった具合で,例を挙げればきりがありません.ここで特に挙げたこうした矛盾の数々は,キリスト教の世界秩序 “Christian world order” に代わるべき新世界秩序を全面的に推(お)し進めようとする “…crusade for a total new world order” リベラル主義者たちにとってはまったく辻(つじ)つまの合うことです.彼らはキリストと戦っていないように装(よそお)っていますが,その化けの皮は剥(は)がれかかっています.
理論的に言えばリベラル主義者たちはまた本物の専制君主にもなります.彼らは自身の上の存在である神,真理,法から自らを「解放」しているので,残るのは自分たちの心,意思の権威だけで,それを誰彼かまわず他の人たちに押し付けます.例えば,教皇パウロ6世です.彼はカトリック教の伝統が自分の権威を制限していることなど忘れてしまって自分の説く新しいミサ典礼の新秩序を1969年にカトリック教会に押しつけました.しかも,そのわずか2年前に相当な数の司教たちが似たようなミサ典礼の試みを拒んだにもかかわらずです.教皇パウロ6世は部下が自分のようにリベラル主義者でなければ,その意見を尊重したでしょうか? 部下たちは自分たちにとって何が良いことなのか分かりませんでした.だが同教皇は分かっていました.
再び理論的に言えば,リベラル主義者は弱々しく(女々しく=感傷的に)なります.なぜなら彼らは何事も個人的なことと受け止めざるを得ない(受け止めずにはいられない)からです.けれども彼らの権威主義に対するどの良識ある反対も彼らが軽蔑(けいべつ)する真理ないし法 “Truth or Law” すなわち全人類の上に君臨するカトリック真理,神の法(十戒)に基づいています.だからこそルフェーブル大司教は教皇パウロ6世の進めたリベラリズムに抵抗したのですが,教皇パウロ6世は単に同大司教が自分に取って代わって教皇になろうとしていると考えました.パウロ6世は自分の権威よりはるかに高い真の神の権威が存在していること,そしてルフェーブル大司教はそのより高い権威に冷静に心を寄せていたのだということを理解できなかったのです.はたして主なる神もいつかは間違いをするのではないかなどと心配する必要があるでしょうか? まったくありません.
イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちがあなただけから生まれ得る良き指導者たちに恵まれますように.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注:
新約聖書・ガラテア人への手紙:第6章7節(1-10節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS, 6:7 (6:1-10)
愛の実践(6・1-10)
『兄弟たちよ,もしある人に過失があったら,*¹霊の人であるあなたたちは柔和な心をもってその人を改めさせよ.そして,自分も誘われぬよう気をつけよ.
互いに重荷を負え.そうすれば,あなたたちはキリストの法をまっとうできる.
何者でもないのに,何者であるかのように思うのは,自分を欺(あざ)むくことである.
おのおの自分の行いを調べよ.*²そうすれば,他人についてでなく,自分についてだけ誇る理由を見いだすだろう.おのおの自分の荷を負っているからである.
*³みことばを教えてもらう人は,教えてくれる人に自分の持ち物を分け与えよ.
自分を欺むいてはならない.神を侮(あなど)ってはならない.人はまくものを収穫するからである.すなわち自分の肉にまく人は肉から腐敗を刈り取り,霊にまく人は霊から永遠の命を刈り取る.
善を行ない続けて倦(う)んではならない.たゆまず続けているなら,時が来て刈り取れる.
だから,まだ時のある間に,すべての人に,特に信仰における兄弟である人々に善を行え.
(注釈)
*¹ 〈新約〉コリント人への手紙(第1)3・1以下参照.
→(第3章1-23節を後から追加します)
*² 他人の欠点と自分の行いを比べて,誇りたくなる時がある.しかし非難するのは,自分のことだけでなければならない.
パウロの言葉は皮肉であって,真実に自分をかえりみる人は,自分を誇る理由を見つけるはずがない.
*³ 信徒は宣教師の生活を保証せねばならない.
* * *
第3パラグラフの訳注:
真実の聖戦 “The true crusade” について.
(説明)
・救世主たる神の御子イエズス・キリストの教えを地上の人間社会に宣教し,人々を永遠の救霊に導き入れるための戦い.「改革(運動)」はこの意味で,悪に傾きがちな人間に「真理において善に従う人生を送ることが真の生命へと生き延びることだ」と教えることである.
・霊である神はキリストにおいて人間となられ,十字架上の死から復活されたことにより悪(=肉欲・原罪)の力を征服された.したがって神・カトリック真理(救世主たる神の御子キリストへの信仰)・神の法の勝利は決定的であり,それを否定する悪(リベラリズムすなわち利己主義)は滅亡の一途をたどる一方に終わる.
・したがって真実の聖戦とは,厳密には,肉眼で見える世界での人間や人間社会との戦いというより,目に見えない霊的な世界での悪の霊との戦いを指している.
・現世は悪の霊の支配下にあり,悪は「肉欲・我欲」によって人間を堕落させ,その霊魂を永遠の滅びに落とそうとしている.
・「肉欲・我欲」は人間に,人間の五感(視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚)に触れるあらゆる良いものについて,その創造主たる神に感謝することをさせず,かえってあらゆる良いものによって自らを傲慢(ごうまん)に誇ったり,他者を妬(ねた)んだり貶(おとし)めたりさせる.
・現世は果敢無(はかな)く有限であるが,来世は永遠であり,しかも来世での永福は現世でいかに「我欲を抑(おさ)え・他者を助ける犠牲的精神・他者の幸福を願う善意」などを心がけて過ごしたかにかかっている.
・以上の観点から,「リベラリズム」とは「自由に我欲を追求して生きることを〈人権〉と呼んで正当化し,そのためとあらば平然と他者を否定したりふみつけにすることも許される」ということを意味し,それに基づき現世の人間社会で起こされている様々な不和な現象から,「リベラリズム」がいかに人の霊魂・人の真の幸福を損なわせる危険なものであるかを観察することができる.
(続きを追加いたします)
* * *
2011年12月13日火曜日
228 国教たるべきか? (11/26)
エレイソン・コメンツ 第228回 (2011年11月26日)
カトリック教を擁護(ようご),促進(そくしん)するため国家はどのような役割を果たすべきでしょうか? カトリック教義( “Catholicism”,カトリシズム) が唯一の真の神の唯一の真の宗教だと信じるカトリック教徒なら誰しも,国家もまた(訳注・他のすべての被造物と同様)神が創造された被造物の一つなのだから,その神の唯一の真の宗教のために最善のことをすべきだと答えるでしょう.これに対して,宗教はいずれにせよ個々人の問題なのだから国家はどれを真の宗教とするか判断できないと信じるリベラル主義者は誰でも( “any liberal” =リベラリスト,自由主義者),国家がなすべきは国民が自分で選んだ宗教を実践するか無宗教のままでいるかの権利を擁護することだけだと答えるでしょう.この点についてのカトリック教の見地からの議論をいくつか見てみましょう.
人間は神から生まれたものです.人間の性質は神に根ざしています.人間は生まれつき社会的で,その社会的な性質(=社会性)も神から受けたものです.だが,人間は,その人格の一部だけでなく,人格の全部(訳注・=全人格)を挙(あ)げて(神の十戒の第一戒)(訳注後記),神を崇拝すべく(訳注・創造主たる神により)義務づけられています( “…owes worship to God”.) それゆえに人間の社会性は神を崇拝すべき義務を負うことになるのです.だが国家とは単に国民ひとりひとりの持つ社会性がひとつの政治的統一体に結集した一社会にすぎません.したがって国家は神を崇拝する義務を負うのです.現世には相互にどうしても矛盾する諸々の崇拝がありますが(そうでなければどれも相違なくみな同じということになります),必ず存在するただひとつの完全に真実たり得る崇拝を除いて,その他のすべての崇拝は程度の差こそあれまがい物(=偽物)ということになるでしょう.(訳注・原文= “…, maybe all are more or less false but certainly one alone can be fully true.” どれほど多くの崇拝が存在していようと,完全に真実たり得る崇拝はただひとつしか存在しないことは確かであり,そのほかはすべてほぼ偽物だということになるでしょう.)したがってもしそのような崇拝がひとつ存在し,それが完全に真実なものかつ真実だと認め得るものであれば,それがまさしくあらゆる国家が,国家として,神に対し果たすべき崇拝です.だがカトリック教義こそがその崇拝なのです.したがって,いかなる国家であれ,あらゆる国家が,国家として,神に対しカトリック教義に基づいた崇拝を捧げる義務を負うのであり,たとえそれが今日の英国であれイスラエルであれサウジアラビアですらそこに含まれるのです!
だが,崇拝の本質とは個々人が可能な奉仕 “service” を神に捧げるということです.国家ができる奉仕とはどのようなものでしょうか? それはとても大きなものです! 人間は生まれながらに社会性をそなえているため,人間が形成する社会はその構成員がなにを感じ,考え,信仰するかに大きな影響を持ちます.そして,国家の法律は,その国民の社会形成に決定的な影響を持ちます.例えば,堕胎やポルノが合法化されれば,国民の多くはそれについて,ほとんどもしくはまったく問題がないと考えるようになるでしょう.したがって,すべての国家は原則として法律によりカトリック信仰とその教え説く諸々の道徳を擁護し促進する義務があります.
この原則は明瞭なものです.だが,この原則は警察があらゆる非カトリック教徒を取り押さえ火あぶりの刑に処するべきだということまで意味するでしょうか? それはまったく違います.なぜなら神を崇拝し神に奉仕する目的は神に栄光を与え人々の霊魂を救うことだからです.国家の側による軽率な行動は逆効果を生むだけでしょう.つまり,カトリック教義の信用を落とし人々を遠ざけることになるでしょう.したがって,たとえカトリック国家であってもその国がある公共悪に対して然(しか)るべき措置を講じようと行動を起こす場合,その行動を起こすことが却(かえ)ってより大きな悪を引き起こす要因となったり,もしくはより大きな善を妨げることとなったりする恐れのある場合にはその行動をその公共悪に対して起こすことを実際的に慎(つつし)む権利を有するとカトリック教会は教えています.だが,あらゆる国家にカトリック信仰,道徳を擁護する原理的な義務があることに変わりはありません.
そのことは国民にカトリック信仰を強要することを意味するでしょうか? そのようなことはまったくありません.なぜならカトリック信仰は強要できるものではないからです - 「自らの意に反して信じる者など誰もいない」(聖アウグスティヌスの言葉).この言葉がまさに意味するのは,公共悪に対する行動が逆効果を生むとは限らない,もしくは生むべきではないようなカトリック国家においては,カトリック教以外のあらゆる宗教の公的実践を禁じてもよい,もしくは禁じるべきだということです.この理論的結論を否定したのが第二バチカン公会議です.なぜなら第二バチカン公会議はリベラルな路線を取ったからです.だが,この理論的結論は公会議以前には世界各地のカトリック国家で共通に実践され,それにより多くの人々の霊魂が救われる役に立っていたのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
「神の十戒の第一戒」についての聖書からの引用.
新約聖書・マテオによる聖福音書:第22章34-40節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, 22:34-40
最大のおきて(22・34-40)
『*¹イエズスがサドカイ人の口を封じられたと聞いたファリザイ人は相集まった.そしてそのうちの一人(*²の律法学士)が,イエズスを試みようとして,「先生,律法のうちどの掟(おきて)がいちばん大切(たいせつ)ですか」と尋(たず)ねた.
イエズスは,「〈*³すべての心,すべての霊,すべての知恵をあげて,主なる神を愛せよ〉.これが第一の最大の掟である.第二のもこれと似ている,〈*⁴隣人を自分と同じように愛せよ〉.すべての律法と預言者はこの二つの掟による」と答えられた.』
(注釈)
*¹ 34-40節 ルカ聖福音書10・25-28にあるが,話の状態は異なっている.
*² このことばはルカ(10・25)による書き入れらしい.しかし大部分の写本にのっている.
*³ 〈旧約〉第二法の書6・5参照.
→
「(〈4節〉**¹イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.)
〈5節〉**²心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ.
(〈6節〉私が今日命じることばを心に刻(きざ)みつけよ.
〈7節〉そのことばをおまえの子らに教えよ,家にいても道を歩いていても,横になっていても起きていても,つねにそのことばを繰り返し教えよ.
〈8節〉**³それを自分の手にしるしとして結びつけ,目と目の間の下げ飾りとしておけ.
〈9節〉また,家の**⁴側柱(わきばしら)と扉とにそれを書き記せ.」
(注釈)
**¹ 4・35,〈旧約〉ザカリアの書14・9.唯神論の厳かな宣言であり,この章のはじめのことば「シェマ」(聞け)で話が始まる.バビロンに流されて後おそらくアシダイの人々が命じ,現在でもイスラエル人の信仰厚い人々が朝と夕べにとなえる有名な祈りをシェマという.この祈りは「イスラエルよ聞け」で始まり,6・4-9,11・13-21,〈旧約〉荒野の書15・38-41で成り立っている.
**² 神への愛は十戒(〈旧約〉脱出の書20・6)ですでに語られたけれども,第二法の書(10・12,11・1,13,22,13・4,19・9,30・6,16,20)は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.
愛は神の恵みに対する人間の答えであり(12節,10・12以下),神への恐れと敬(うやま)いとおきての遵守(13節,10・12,11・13,11・1,22,19・3,30・16)をも含むものである.キリストは4節と5節とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした(〈新約〉マルコ聖福音書12・18-31,〈新約〉ローマ人への手紙13・8以下).
**³ 8-9節 〈旧約〉脱出の書13・9,16.「しるし」と「下げ飾り」は元来比喩(ひゆ)としてとるべきだったのに後のユダイズムはそれを文字通りとって律法を手に結びつけ額に飾った(〈新約〉マテオ聖福音書23・5).
**⁴ 「側柱」はヘブライ語の「メズザ」で,入口の側にある柱.第二法の書の6・4-9,11・13-21を羊皮紙に書いて小箱に入れ,それを側柱につけていた.これをメズザという.現在でもユダヤ教の信者の中には,入口の右側柱の上にあるメズザに手を触れ,詩篇(121・8)をとなえる人がある.
*⁴ 〈旧約〉レビの書19・18参照.
→「…**¹あだの仕返しをしてはならぬ.民の子らに恨みを含まず,むしろ隣人を自分と同じように愛せよ.私は主である.」
(注釈)
**¹ 当時としては,深い配慮のあるおきてである.マテオ聖福音書(5・43以下),マルコ(12・31),ヨハネ(13・34)において,愛のおきてはまったく一新された.キリストのころ,ユダヤ人の他国人への憎悪はきわめて深かった.
* * *
カトリック教を擁護(ようご),促進(そくしん)するため国家はどのような役割を果たすべきでしょうか? カトリック教義( “Catholicism”,カトリシズム) が唯一の真の神の唯一の真の宗教だと信じるカトリック教徒なら誰しも,国家もまた(訳注・他のすべての被造物と同様)神が創造された被造物の一つなのだから,その神の唯一の真の宗教のために最善のことをすべきだと答えるでしょう.これに対して,宗教はいずれにせよ個々人の問題なのだから国家はどれを真の宗教とするか判断できないと信じるリベラル主義者は誰でも( “any liberal” =リベラリスト,自由主義者),国家がなすべきは国民が自分で選んだ宗教を実践するか無宗教のままでいるかの権利を擁護することだけだと答えるでしょう.この点についてのカトリック教の見地からの議論をいくつか見てみましょう.
人間は神から生まれたものです.人間の性質は神に根ざしています.人間は生まれつき社会的で,その社会的な性質(=社会性)も神から受けたものです.だが,人間は,その人格の一部だけでなく,人格の全部(訳注・=全人格)を挙(あ)げて(神の十戒の第一戒)(訳注後記),神を崇拝すべく(訳注・創造主たる神により)義務づけられています( “…owes worship to God”.) それゆえに人間の社会性は神を崇拝すべき義務を負うことになるのです.だが国家とは単に国民ひとりひとりの持つ社会性がひとつの政治的統一体に結集した一社会にすぎません.したがって国家は神を崇拝する義務を負うのです.現世には相互にどうしても矛盾する諸々の崇拝がありますが(そうでなければどれも相違なくみな同じということになります),必ず存在するただひとつの完全に真実たり得る崇拝を除いて,その他のすべての崇拝は程度の差こそあれまがい物(=偽物)ということになるでしょう.(訳注・原文= “…, maybe all are more or less false but certainly one alone can be fully true.” どれほど多くの崇拝が存在していようと,完全に真実たり得る崇拝はただひとつしか存在しないことは確かであり,そのほかはすべてほぼ偽物だということになるでしょう.)したがってもしそのような崇拝がひとつ存在し,それが完全に真実なものかつ真実だと認め得るものであれば,それがまさしくあらゆる国家が,国家として,神に対し果たすべき崇拝です.だがカトリック教義こそがその崇拝なのです.したがって,いかなる国家であれ,あらゆる国家が,国家として,神に対しカトリック教義に基づいた崇拝を捧げる義務を負うのであり,たとえそれが今日の英国であれイスラエルであれサウジアラビアですらそこに含まれるのです!
だが,崇拝の本質とは個々人が可能な奉仕 “service” を神に捧げるということです.国家ができる奉仕とはどのようなものでしょうか? それはとても大きなものです! 人間は生まれながらに社会性をそなえているため,人間が形成する社会はその構成員がなにを感じ,考え,信仰するかに大きな影響を持ちます.そして,国家の法律は,その国民の社会形成に決定的な影響を持ちます.例えば,堕胎やポルノが合法化されれば,国民の多くはそれについて,ほとんどもしくはまったく問題がないと考えるようになるでしょう.したがって,すべての国家は原則として法律によりカトリック信仰とその教え説く諸々の道徳を擁護し促進する義務があります.
この原則は明瞭なものです.だが,この原則は警察があらゆる非カトリック教徒を取り押さえ火あぶりの刑に処するべきだということまで意味するでしょうか? それはまったく違います.なぜなら神を崇拝し神に奉仕する目的は神に栄光を与え人々の霊魂を救うことだからです.国家の側による軽率な行動は逆効果を生むだけでしょう.つまり,カトリック教義の信用を落とし人々を遠ざけることになるでしょう.したがって,たとえカトリック国家であってもその国がある公共悪に対して然(しか)るべき措置を講じようと行動を起こす場合,その行動を起こすことが却(かえ)ってより大きな悪を引き起こす要因となったり,もしくはより大きな善を妨げることとなったりする恐れのある場合にはその行動をその公共悪に対して起こすことを実際的に慎(つつし)む権利を有するとカトリック教会は教えています.だが,あらゆる国家にカトリック信仰,道徳を擁護する原理的な義務があることに変わりはありません.
そのことは国民にカトリック信仰を強要することを意味するでしょうか? そのようなことはまったくありません.なぜならカトリック信仰は強要できるものではないからです - 「自らの意に反して信じる者など誰もいない」(聖アウグスティヌスの言葉).この言葉がまさに意味するのは,公共悪に対する行動が逆効果を生むとは限らない,もしくは生むべきではないようなカトリック国家においては,カトリック教以外のあらゆる宗教の公的実践を禁じてもよい,もしくは禁じるべきだということです.この理論的結論を否定したのが第二バチカン公会議です.なぜなら第二バチカン公会議はリベラルな路線を取ったからです.だが,この理論的結論は公会議以前には世界各地のカトリック国家で共通に実践され,それにより多くの人々の霊魂が救われる役に立っていたのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
「神の十戒の第一戒」についての聖書からの引用.
新約聖書・マテオによる聖福音書:第22章34-40節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, 22:34-40
最大のおきて(22・34-40)
『*¹イエズスがサドカイ人の口を封じられたと聞いたファリザイ人は相集まった.そしてそのうちの一人(*²の律法学士)が,イエズスを試みようとして,「先生,律法のうちどの掟(おきて)がいちばん大切(たいせつ)ですか」と尋(たず)ねた.
イエズスは,「〈*³すべての心,すべての霊,すべての知恵をあげて,主なる神を愛せよ〉.これが第一の最大の掟である.第二のもこれと似ている,〈*⁴隣人を自分と同じように愛せよ〉.すべての律法と預言者はこの二つの掟による」と答えられた.』
(注釈)
*¹ 34-40節 ルカ聖福音書10・25-28にあるが,話の状態は異なっている.
*² このことばはルカ(10・25)による書き入れらしい.しかし大部分の写本にのっている.
*³ 〈旧約〉第二法の書6・5参照.
→
「(〈4節〉**¹イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.)
〈5節〉**²心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ.
(〈6節〉私が今日命じることばを心に刻(きざ)みつけよ.
〈7節〉そのことばをおまえの子らに教えよ,家にいても道を歩いていても,横になっていても起きていても,つねにそのことばを繰り返し教えよ.
〈8節〉**³それを自分の手にしるしとして結びつけ,目と目の間の下げ飾りとしておけ.
〈9節〉また,家の**⁴側柱(わきばしら)と扉とにそれを書き記せ.」
(注釈)
**¹ 4・35,〈旧約〉ザカリアの書14・9.唯神論の厳かな宣言であり,この章のはじめのことば「シェマ」(聞け)で話が始まる.バビロンに流されて後おそらくアシダイの人々が命じ,現在でもイスラエル人の信仰厚い人々が朝と夕べにとなえる有名な祈りをシェマという.この祈りは「イスラエルよ聞け」で始まり,6・4-9,11・13-21,〈旧約〉荒野の書15・38-41で成り立っている.
**² 神への愛は十戒(〈旧約〉脱出の書20・6)ですでに語られたけれども,第二法の書(10・12,11・1,13,22,13・4,19・9,30・6,16,20)は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.
愛は神の恵みに対する人間の答えであり(12節,10・12以下),神への恐れと敬(うやま)いとおきての遵守(13節,10・12,11・13,11・1,22,19・3,30・16)をも含むものである.キリストは4節と5節とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした(〈新約〉マルコ聖福音書12・18-31,〈新約〉ローマ人への手紙13・8以下).
**³ 8-9節 〈旧約〉脱出の書13・9,16.「しるし」と「下げ飾り」は元来比喩(ひゆ)としてとるべきだったのに後のユダイズムはそれを文字通りとって律法を手に結びつけ額に飾った(〈新約〉マテオ聖福音書23・5).
**⁴ 「側柱」はヘブライ語の「メズザ」で,入口の側にある柱.第二法の書の6・4-9,11・13-21を羊皮紙に書いて小箱に入れ,それを側柱につけていた.これをメズザという.現在でもユダヤ教の信者の中には,入口の右側柱の上にあるメズザに手を触れ,詩篇(121・8)をとなえる人がある.
*⁴ 〈旧約〉レビの書19・18参照.
→「…**¹あだの仕返しをしてはならぬ.民の子らに恨みを含まず,むしろ隣人を自分と同じように愛せよ.私は主である.」
(注釈)
**¹ 当時としては,深い配慮のあるおきてである.マテオ聖福音書(5・43以下),マルコ(12・31),ヨハネ(13・34)において,愛のおきてはまったく一新された.キリストのころ,ユダヤ人の他国人への憎悪はきわめて深かった.
* * *
2011年11月30日水曜日
227 金融問題の解決 (11/19)
エレイソン・コメンツ 第227回 (2011年11月19日)
現在,多数の評論家が世界の金融システムが崩壊の瀬戸際(せとぎわ)にあると書いたり述べたりしています.その時がいつ来るのか誰もはっきり分かっていないようですが,多くはそれがとてつもない崩壊(ほうかい)になるだろうと予測しています.だが,2008年に金融危機が起きる前は,その到来(とうらい)を予期していた人はごく少数でした.人々はしっかり根付いていて前進あるのみと思えていた自らの生活様式に満足していたからです.しかし,評論家の言うことが正しいとすれば,崩壊は間もなく起きることでしょう.
私たちは皆,一体なにが間違っていたのか,どうすればそれを正せるのかを改めて考えてみるべきです.以下にご紹介するのはバーニング・プラットフォーム “Burning Platform” というウェブサイトに最近掲載された記事から抜粋(ばっすい)した実務的な提案です.私は必ずしも皆さんが個々の提案に賛同し,私たちの壊(こわ)れてしまったシステムにとって代わるものが何かを考えるべきと言っているわけではありません.提案は政治にかかわるものと金融にかかわるものに分かれています.金融の方から始めます:--
*「破たんさせるには大きすぎ」 ( “Too Big to Fail” ),それゆえ国を盾にとり身代金(みのしろきん)を要求する “hold the State to ransom” ような銀行はすべて国営化すべきです.その結果生じる損失は責任者,当事者が払うべきで,納税者に負わせるべきではありません.
*(米国の)グラス・スティーガル法 “the Glass-Steagall Act” を復活させ,銀行が再び巨大化するのを防ぐべきです.
*営業・会計規則に望ましい基準を再設定し,銀行が自ら保有する資産価値が市場価値を上回るように見せかけることをやめさせるべきです.
*デリバティブ市場 “the derivatives market” を規制し,金融機関 “financial entity” が巨大化することでひとたびそれが破産するとシステム全体が崩壊するようになることを防ぐべきです(かつての米国で AIG の破たんで同じようなことが起きました).
*現在のわずらわしい所得税 “income tax” 制度を簡素化するか廃止し,消費税“consumer tax” に一本化すべきです.そして,法人税の節税措置 “corporate tax breaks” を廃止すべきです.
提案はいずれも直接的には金融にかかわるもの “…such proposals may be explicitly financial,” ですが,間接的には政治にかかわる “are implicitly political,” 点にご留意ください.というのは,提案の実現には国民全般,とりわけ指導者の政治的考え方が大きく変わることが必要だからです.( “…because to be put into practice they would need a significant change in the political way of thinking of the people and especially of the leaders”.)金融は政治いかんで決まります. ( “Finance depends on politics.” ) つぎに,明らかに政治にかかわる提案を見てみましょう.中には反論を呼ぶ提案もありますが、少なくとも正しい方向を示しています:--
*あまりにもうまくやっている政治家の腐敗(ふはい) “the corruption of too comfortable politicians” を食い止めるため,彼らの任期に厳しい制限をつけましょう.特殊な利益団体による選挙の腐敗 “the corruption of elections by special interests” を食い止めるため,陳情(ちんじょう)やロビイスト “lobbyists” を排除しましょう.
*中央銀行が持つ力 “the power of the central bank” を弱めるため,国の通貨供給 “the nation’s money supply” をコントロールする権限を取り上げましょう.
*米国の福祉給付金制度 “welfare benefits” を再編成すべきです.現在の制度は国の財政 “States’ finances” を急速に枯渇(こかつ)させており,このままでは将来だれの役にも立たなくなくなるでしょう.
*お金や物がなくとも楽しくやっていくよう,生活水準の低下 “a lower standard of living” も受け入れるよう国民を再指導しましょう.そうすれば社会を食い潰(くいつぶ)して無に陥(おとしい)れる “spending society into oblivion” かわりに貯蓄によって社会を立て直す “build it by saving” ことができるでしょう.
*郊外へのスプロール現象 “suburban sprawl” をより自給可能な居住区 “more self-sufficient communities” で代替させるべく実行可能なことから始めましょう.
*たとえば世界各地の軍事基地に駐屯する数万もの兵士を引き揚げることで “by bringing thousands of troops home from their bases all over the world”, 米国の巨額な軍事費 “the enormous military spending of the USA” を削減できるようにするため世界帝国の考え方を放棄(ほうき)“Renounce world empire” しましょう.
もう一度繰り返しますが,こうした提案が実現するには,人々,とりわけ指導者たちの考え方が大きく変わらなければなりません “…they require great changes in the people’s way of thinking, especially in that of the leaders.” . 政治家が何を決定するかはその国の国民がなにをもっとも価値あるものと考えるかによって決まります “Political decisions depend on what people value more, or most.” . 私たちが生きるのはなんのためでしょうか? “Why are we alive ?” この世で楽しむためでしょうか,それとも永遠に続く真の幸福のためでしょうか? “To enjoy on earth, or to be truly happy for eternity ?” この質問への答えは二者択一(にしゃたくいつ)でしょうか? “Is that an either-or question ?” 永遠とは存在するのでしょうか? “Is there an eternity ?” こう考えてくると,政治は宗教によるか,あるいは宗教の欠如(けつじょ)によるところ大です( “Thus politics depend on religion, or on the lack of it.” ). 今日起きる金融制度の崩壊がはたして人々の目を覚(さ)ますことになるでしょうか? (訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
最後のパラグラフの訳注:
原文・“Will today even a financial crash bring anyone to their senses ?”
「今日の金融制度の破綻(はたん)をきっかけに,人々が正気に返る(迷い〈迷夢〉から覚める)でしょうか?」
(解説)
◎「拝金主義」は競争と不安の種であって,最終的に誰をも幸福にしない.
◎ 人間の真の幸福は「平和な(安らかな)心や精神状態」のうちに存在するのであり,それは現世でも来世でも同じことである.
→ 新約聖書・マテオによる聖福音書:第6章19-34節参照.
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, 6:19-34
天の宝(6・19-21)
『自分のためにこの世に宝を積むな.ここではしみと虫が食い,盗人が穴をあけて盗み出す.
むしろ自分のために天に宝を積め.そこではしみも虫もつかず,盗人が穴をあけて盗み出すこともない.
あなたの宝のあるところには,あなたの心もある.』
清い目と心(6・22-23)
『*¹体の明かりは目である.目がよければ全身が明るい.目が悪ければ全身が闇(やみ)の中にいる.あなたの内の光が闇ならその闇はどんなに暗かろう.』
二人の主人,思い煩い,摂理(6・24-34)
『*²人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ.一人を憎んでもう一人を愛するか,一人に従ってもう一人をうとんじるかである.
神と*³マンモンとにともに仕えることはできぬ.
だから私は言う,命のために何を食べようか,何を飲もうか,また体のために何を着ようかなどと心配するな.命は食べ物にまさり,体は衣服にまさるものである.
空の鳥を見よ.播(ま)きも,刈(か)りも,倉に納(おさ)めもせぬに,天の父はそれを養なわれる.あなたたちは鳥よりもはるかに優れたものではないか.あなたたちがどんなに心配しても,*⁴寿命をただの一尺さえ長くはできぬ.
なぜ衣服のために心を煩(わずら)わすのか.
野のゆりがどうして育つかを見よ.苦労もせず紡(つむ)ぎもせぬ.私は言う,ソロモンの栄華のきわみにおいてさえ,このゆりの一つほどの装(よそお)いもなかった.
*⁵今日は野にあり明日はかまどに投げいれられる草をさえ,神はこのように装おわせられる.ましてあなたたちによくしてくださらぬわけがあろうか.
信仰うすい人々よ.何を食べ,何を飲み,何を着ようかと心配するな.それらはみな異邦人(=神を信じない人,神の摂理に信頼しない人)が切に望むことである.
天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる.
だから,まず神の国とその正義を求めよ.そうすれば,それらのものも加えて与えられる.
明日のために心配するな.明日は明日が自分で心配する.一日の苦労は一日で足りる.』
(注釈)
*¹ (22-23節) 明かりが全身を照らすのと同じく,内なる目は人間のすべての行為を照らす.内なる目が欲望にくらまされているならば,人間の道徳生活は闇(やみ)である.
*² 富を有して神に仕えることもできるが,富の奴隷になれば神に仕えない.
*³ マンモンとはカルダイ語で富のこと.
*⁴「身の丈(たけ)」という訳もある.
*⁵ (30-34節)イエズスは将来への予備と働きを禁ずるのではない.ただ摂理(せつり)への信頼を裏切らせるほどの思い煩いを禁ずる.
「摂理」について:
・=神.天地の創造主たる神が,神の法(=神の十戒・自然法=慈愛・正義・生命の法.)において永遠の計画と配慮のもとに万物を支配し治めておられることを指す.
・「神意,神のみ旨(むね),神の御意志,神の御心」
・Providentia divina(ラテン語),Providence(英語)
◎ 限界のある人間の力だけで,あくせくかき集めようとしたり,欲を張ったりせずに,人間の創造主であられる無限(=永遠)の父なる神に信頼し,真面目に善良に,正しく慈悲深い行いを心がけて生活をするなら,必要なものは全て神から必ず備えられる.
なぜなら,神はすべての人間の天の御父であられ,どんな人間をも(善人をも悪人をも)愛しておられるからである.人間が地上に生きる限り,たとえどんな人であっても神は決してお見捨てになることはない.
神を愛しその御子キリストの名を信じる人は,永遠の生命をすでに現世で持っている(ヨハネ聖福音書:第1章12-13節,ヨハネの第一の手紙:第5章13節参照).
限りある現世で善良に生きた人には,限りのない来世で神がその霊魂を引き取られ,永遠の至福をお与えになる.
◎ したがって,人間の真の幸福追求の目当てとしては「拝金主義」(=「すべて金〈カネ〉次第」とか,「金を目安に決めること」)は見当違いな手段である.
* * *
→ 旧約聖書・詩篇:第127篇参照.
THE BOOK OF PSALMS, PSALM 126
摂理によりたのむ
『*¹上京の歌.ソロモンの作.
主が家を建てられないなら,
それを造る者の働きはむなしい.
主が町を守られないなら,
番人の警戒はむなしい.
早く起き,寝るのを遅らせ,
労苦のパンを食べることもむなしい.
主は愛する者に,それを与えられる,
彼らが寝ている間に.
見よ,子らは主の贈り物,
胎の実は主の報いである.
若いときの子らは,
つわものの手にある矢のようだ.
幸せなのはその矢で,
矢筒を満たした者.
*²門で敵と争うとき,
彼らは恥を受けない.』
(注釈)
*¹ 神の助けがなければ,人間の労苦といえど何一つ実をもたらさない.
*² 町の門では裁判や話し合いが行われていた.
* * *
→ 旧約聖書・格言の書:第10章参照(抜粋).
THE BOOK OF PROVERBS,
THE PARABLES OF SOLOMON, CHAPTER 10
『不正な方法で得た宝は身のためにならぬが,
正義は人を死から救い上げる.』 (2節)
『神は正しい人の望みをかなえ,
悪人の欲望をとげさせない.』 (3節)
『怠け者の手は人を貧乏にし,
働き者の手は人を金持ちにする.
夏の間に集めるのは利功者であり,
収穫のときに寝ているのは恥知らずである.』 (4-5節)
『正しい人のもうけは生活に役立ち,
悪人のもうけは悪事を呼ぶ.』 (16節)
『教えを守る人は生命の道を行き,
戒めを軽んじる人は道を迷う.』 (17節)
『*¹正しい人のくちびるは多くの人を養い,
愚かな人は貧しい中で死ぬ.』 (21節)
『神の祝福は人を富ませ,
その上に何の苦労も加えない.』 (22節)
『愚かな人は悪事を行って楽しみ,
利功者は知恵をつちかって楽しむ.』 (23節)
『悪人の恐れていることはその身に起こり,
正しい人の望みはかなえられる.』 (24節)
『嵐が過ぎたとき,悪人はもういないが,
正しい人はいつも立っている.』 (25節)
『神は正しい人の砦(とりで)であり,
悪人にとっては滅びである.』 (29節)
『正しい人は決してゆらがないが,
悪人は地に住めない.』 (30節)
『正しい人のくちびるは慈愛をしたたらせ,
悪人の口は悪をまく.』 (32節)
(注釈)
徳の幸福(10・22-32)
*¹ 正しい人は,自分だけでなく他人のためにも役立つ人である.
* * *
現在,多数の評論家が世界の金融システムが崩壊の瀬戸際(せとぎわ)にあると書いたり述べたりしています.その時がいつ来るのか誰もはっきり分かっていないようですが,多くはそれがとてつもない崩壊(ほうかい)になるだろうと予測しています.だが,2008年に金融危機が起きる前は,その到来(とうらい)を予期していた人はごく少数でした.人々はしっかり根付いていて前進あるのみと思えていた自らの生活様式に満足していたからです.しかし,評論家の言うことが正しいとすれば,崩壊は間もなく起きることでしょう.
私たちは皆,一体なにが間違っていたのか,どうすればそれを正せるのかを改めて考えてみるべきです.以下にご紹介するのはバーニング・プラットフォーム “Burning Platform” というウェブサイトに最近掲載された記事から抜粋(ばっすい)した実務的な提案です.私は必ずしも皆さんが個々の提案に賛同し,私たちの壊(こわ)れてしまったシステムにとって代わるものが何かを考えるべきと言っているわけではありません.提案は政治にかかわるものと金融にかかわるものに分かれています.金融の方から始めます:--
*「破たんさせるには大きすぎ」 ( “Too Big to Fail” ),それゆえ国を盾にとり身代金(みのしろきん)を要求する “hold the State to ransom” ような銀行はすべて国営化すべきです.その結果生じる損失は責任者,当事者が払うべきで,納税者に負わせるべきではありません.
*(米国の)グラス・スティーガル法 “the Glass-Steagall Act” を復活させ,銀行が再び巨大化するのを防ぐべきです.
*営業・会計規則に望ましい基準を再設定し,銀行が自ら保有する資産価値が市場価値を上回るように見せかけることをやめさせるべきです.
*デリバティブ市場 “the derivatives market” を規制し,金融機関 “financial entity” が巨大化することでひとたびそれが破産するとシステム全体が崩壊するようになることを防ぐべきです(かつての米国で AIG の破たんで同じようなことが起きました).
*現在のわずらわしい所得税 “income tax” 制度を簡素化するか廃止し,消費税“consumer tax” に一本化すべきです.そして,法人税の節税措置 “corporate tax breaks” を廃止すべきです.
提案はいずれも直接的には金融にかかわるもの “…such proposals may be explicitly financial,” ですが,間接的には政治にかかわる “are implicitly political,” 点にご留意ください.というのは,提案の実現には国民全般,とりわけ指導者の政治的考え方が大きく変わることが必要だからです.( “…because to be put into practice they would need a significant change in the political way of thinking of the people and especially of the leaders”.)金融は政治いかんで決まります. ( “Finance depends on politics.” ) つぎに,明らかに政治にかかわる提案を見てみましょう.中には反論を呼ぶ提案もありますが、少なくとも正しい方向を示しています:--
*あまりにもうまくやっている政治家の腐敗(ふはい) “the corruption of too comfortable politicians” を食い止めるため,彼らの任期に厳しい制限をつけましょう.特殊な利益団体による選挙の腐敗 “the corruption of elections by special interests” を食い止めるため,陳情(ちんじょう)やロビイスト “lobbyists” を排除しましょう.
*中央銀行が持つ力 “the power of the central bank” を弱めるため,国の通貨供給 “the nation’s money supply” をコントロールする権限を取り上げましょう.
*米国の福祉給付金制度 “welfare benefits” を再編成すべきです.現在の制度は国の財政 “States’ finances” を急速に枯渇(こかつ)させており,このままでは将来だれの役にも立たなくなくなるでしょう.
*お金や物がなくとも楽しくやっていくよう,生活水準の低下 “a lower standard of living” も受け入れるよう国民を再指導しましょう.そうすれば社会を食い潰(くいつぶ)して無に陥(おとしい)れる “spending society into oblivion” かわりに貯蓄によって社会を立て直す “build it by saving” ことができるでしょう.
*郊外へのスプロール現象 “suburban sprawl” をより自給可能な居住区 “more self-sufficient communities” で代替させるべく実行可能なことから始めましょう.
*たとえば世界各地の軍事基地に駐屯する数万もの兵士を引き揚げることで “by bringing thousands of troops home from their bases all over the world”, 米国の巨額な軍事費 “the enormous military spending of the USA” を削減できるようにするため世界帝国の考え方を放棄(ほうき)“Renounce world empire” しましょう.
もう一度繰り返しますが,こうした提案が実現するには,人々,とりわけ指導者たちの考え方が大きく変わらなければなりません “…they require great changes in the people’s way of thinking, especially in that of the leaders.” . 政治家が何を決定するかはその国の国民がなにをもっとも価値あるものと考えるかによって決まります “Political decisions depend on what people value more, or most.” . 私たちが生きるのはなんのためでしょうか? “Why are we alive ?” この世で楽しむためでしょうか,それとも永遠に続く真の幸福のためでしょうか? “To enjoy on earth, or to be truly happy for eternity ?” この質問への答えは二者択一(にしゃたくいつ)でしょうか? “Is that an either-or question ?” 永遠とは存在するのでしょうか? “Is there an eternity ?” こう考えてくると,政治は宗教によるか,あるいは宗教の欠如(けつじょ)によるところ大です( “Thus politics depend on religion, or on the lack of it.” ). 今日起きる金融制度の崩壊がはたして人々の目を覚(さ)ますことになるでしょうか? (訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
最後のパラグラフの訳注:
原文・“Will today even a financial crash bring anyone to their senses ?”
「今日の金融制度の破綻(はたん)をきっかけに,人々が正気に返る(迷い〈迷夢〉から覚める)でしょうか?」
(解説)
◎「拝金主義」は競争と不安の種であって,最終的に誰をも幸福にしない.
◎ 人間の真の幸福は「平和な(安らかな)心や精神状態」のうちに存在するのであり,それは現世でも来世でも同じことである.
→ 新約聖書・マテオによる聖福音書:第6章19-34節参照.
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, 6:19-34
天の宝(6・19-21)
『自分のためにこの世に宝を積むな.ここではしみと虫が食い,盗人が穴をあけて盗み出す.
むしろ自分のために天に宝を積め.そこではしみも虫もつかず,盗人が穴をあけて盗み出すこともない.
あなたの宝のあるところには,あなたの心もある.』
清い目と心(6・22-23)
『*¹体の明かりは目である.目がよければ全身が明るい.目が悪ければ全身が闇(やみ)の中にいる.あなたの内の光が闇ならその闇はどんなに暗かろう.』
二人の主人,思い煩い,摂理(6・24-34)
『*²人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ.一人を憎んでもう一人を愛するか,一人に従ってもう一人をうとんじるかである.
神と*³マンモンとにともに仕えることはできぬ.
だから私は言う,命のために何を食べようか,何を飲もうか,また体のために何を着ようかなどと心配するな.命は食べ物にまさり,体は衣服にまさるものである.
空の鳥を見よ.播(ま)きも,刈(か)りも,倉に納(おさ)めもせぬに,天の父はそれを養なわれる.あなたたちは鳥よりもはるかに優れたものではないか.あなたたちがどんなに心配しても,*⁴寿命をただの一尺さえ長くはできぬ.
なぜ衣服のために心を煩(わずら)わすのか.
野のゆりがどうして育つかを見よ.苦労もせず紡(つむ)ぎもせぬ.私は言う,ソロモンの栄華のきわみにおいてさえ,このゆりの一つほどの装(よそお)いもなかった.
*⁵今日は野にあり明日はかまどに投げいれられる草をさえ,神はこのように装おわせられる.ましてあなたたちによくしてくださらぬわけがあろうか.
信仰うすい人々よ.何を食べ,何を飲み,何を着ようかと心配するな.それらはみな異邦人(=神を信じない人,神の摂理に信頼しない人)が切に望むことである.
天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる.
だから,まず神の国とその正義を求めよ.そうすれば,それらのものも加えて与えられる.
明日のために心配するな.明日は明日が自分で心配する.一日の苦労は一日で足りる.』
(注釈)
*¹ (22-23節) 明かりが全身を照らすのと同じく,内なる目は人間のすべての行為を照らす.内なる目が欲望にくらまされているならば,人間の道徳生活は闇(やみ)である.
*² 富を有して神に仕えることもできるが,富の奴隷になれば神に仕えない.
*³ マンモンとはカルダイ語で富のこと.
*⁴「身の丈(たけ)」という訳もある.
*⁵ (30-34節)イエズスは将来への予備と働きを禁ずるのではない.ただ摂理(せつり)への信頼を裏切らせるほどの思い煩いを禁ずる.
「摂理」について:
・=神.天地の創造主たる神が,神の法(=神の十戒・自然法=慈愛・正義・生命の法.)において永遠の計画と配慮のもとに万物を支配し治めておられることを指す.
・「神意,神のみ旨(むね),神の御意志,神の御心」
・Providentia divina(ラテン語),Providence(英語)
◎ 限界のある人間の力だけで,あくせくかき集めようとしたり,欲を張ったりせずに,人間の創造主であられる無限(=永遠)の父なる神に信頼し,真面目に善良に,正しく慈悲深い行いを心がけて生活をするなら,必要なものは全て神から必ず備えられる.
なぜなら,神はすべての人間の天の御父であられ,どんな人間をも(善人をも悪人をも)愛しておられるからである.人間が地上に生きる限り,たとえどんな人であっても神は決してお見捨てになることはない.
神を愛しその御子キリストの名を信じる人は,永遠の生命をすでに現世で持っている(ヨハネ聖福音書:第1章12-13節,ヨハネの第一の手紙:第5章13節参照).
限りある現世で善良に生きた人には,限りのない来世で神がその霊魂を引き取られ,永遠の至福をお与えになる.
◎ したがって,人間の真の幸福追求の目当てとしては「拝金主義」(=「すべて金〈カネ〉次第」とか,「金を目安に決めること」)は見当違いな手段である.
* * *
→ 旧約聖書・詩篇:第127篇参照.
THE BOOK OF PSALMS, PSALM 126
摂理によりたのむ
『*¹上京の歌.ソロモンの作.
主が家を建てられないなら,
それを造る者の働きはむなしい.
主が町を守られないなら,
番人の警戒はむなしい.
早く起き,寝るのを遅らせ,
労苦のパンを食べることもむなしい.
主は愛する者に,それを与えられる,
彼らが寝ている間に.
見よ,子らは主の贈り物,
胎の実は主の報いである.
若いときの子らは,
つわものの手にある矢のようだ.
幸せなのはその矢で,
矢筒を満たした者.
*²門で敵と争うとき,
彼らは恥を受けない.』
(注釈)
*¹ 神の助けがなければ,人間の労苦といえど何一つ実をもたらさない.
*² 町の門では裁判や話し合いが行われていた.
* * *
→ 旧約聖書・格言の書:第10章参照(抜粋).
THE BOOK OF PROVERBS,
THE PARABLES OF SOLOMON, CHAPTER 10
『不正な方法で得た宝は身のためにならぬが,
正義は人を死から救い上げる.』 (2節)
『神は正しい人の望みをかなえ,
悪人の欲望をとげさせない.』 (3節)
『怠け者の手は人を貧乏にし,
働き者の手は人を金持ちにする.
夏の間に集めるのは利功者であり,
収穫のときに寝ているのは恥知らずである.』 (4-5節)
『正しい人のもうけは生活に役立ち,
悪人のもうけは悪事を呼ぶ.』 (16節)
『教えを守る人は生命の道を行き,
戒めを軽んじる人は道を迷う.』 (17節)
『*¹正しい人のくちびるは多くの人を養い,
愚かな人は貧しい中で死ぬ.』 (21節)
『神の祝福は人を富ませ,
その上に何の苦労も加えない.』 (22節)
『愚かな人は悪事を行って楽しみ,
利功者は知恵をつちかって楽しむ.』 (23節)
『悪人の恐れていることはその身に起こり,
正しい人の望みはかなえられる.』 (24節)
『嵐が過ぎたとき,悪人はもういないが,
正しい人はいつも立っている.』 (25節)
『神は正しい人の砦(とりで)であり,
悪人にとっては滅びである.』 (29節)
『正しい人は決してゆらがないが,
悪人は地に住めない.』 (30節)
『正しい人のくちびるは慈愛をしたたらせ,
悪人の口は悪をまく.』 (32節)
(注釈)
徳の幸福(10・22-32)
*¹ 正しい人は,自分だけでなく他人のためにも役立つ人である.
* * *
2011年11月29日火曜日
226 トマトの支柱 -2- (11/12)
エレイソン・コメンツ 第226回 (2011年11月12日)
以前「エレイソン・コメンツ」(9月10日付,第217回)で女性と男性の関係をトマトの苗とその苗がよじ登りやがて実を結ぶための支柱になぞらえたロシアのことわざを引用しました.その例えを用いたのは女性の性質と役割を詳しく説明するためでした.その際ある女性読者がその例えが男性にどう当てはまるのか尋(たず)ねてきました.悲しいことに,私たちの住む狂った現代は人間性のあらゆる本質を一掃(いっそう)しようとしています.
神が設計された男性と女性は著(いちじる)しく異なっていながらも崇高(すうこう)なほど相互補完(そうごほかん)的であり,菜園から引き出した単なる例え話などよりはるかに多くを語ってしかるべきものです.いかなるカトリック教会の婚礼ミサ聖祭 “Catholic wedding Mass” でも,そこで読まれる使徒書簡(新約聖書) “the Epistle” は夫と妻の関係( “the relations between husband and wife” )をキリストと彼の(体〈からだ〉たる)教会(=カトリック教会. “ those between Christ and his Church” )の関係に例えています.その書簡の一句(エフェゾ人への手紙,5章22-23節)(訳注後記)で注目に値(あたい)するのは,聖パウロが婚姻(こんいん)の結果生じる夫の責務(せきむ)について長々と記述しているのに対し妻のそれについては手短にしか記していないということです.すでに私たちは,現代の男女関係が健全性を喪失(そうしつ)してしまったのは今日の男性に大きな責任があるのではないかと疑い得るのですが,この超自然的な神秘についての話は別の機会に残すとして菜園の話に戻りましょう.というのも,今日,神と人間にとっての諸々の敵たちが攻撃の対象としているのはまさしく人間性の本質だからです.
トマトの支柱がトマトの苗に役立つためには二つのことが必要です.支柱は高くなければならず “must stand tall”,しかもしっかりと立っていなければなりません “must stand firm”.もし支柱が高くなければ,苗は高くよじ登ることができません.しっかりと揺らがずに立っていなければ,苗はそれにしがみついたり巻きついたりできません.まさしく,男性の堅固(けんこ)さ “The firmness” は彼がどれほど仕事に没頭(ぼっとう)しているかによって決まる( “depends on a man’s wrapping himself around his work” )一方,その高さ “the tallness” は彼がどれほど神の域(いき)に達(たっ)しようとしているか( “depends upon his reaching for God” =より高い理想を見据(す)えているか、目指しているか)によって決まります.
堅固さについて言えば,いつの時代,どの場所にあっても人間性への認識が歪(ゆが)んでいない限り,男性の生活は彼の仕事を中心に展開するのに対し女性の生活は夫をはじめとする家族を中心に展開するものです.もし男性が自分の生活の中心に女性を置くなら,それはちょうど二本のトマトの苗がともにしがみつきあっているようなものです.もし女性が男性の役割を受け入れなければ,二人ともぬかるみにはまって行き詰(ゆきづ)まりに終わるでしょう.それは女性が決してしてはならないことですし,少なくともそうしたいと望むことでもありません.賢(かしこ)い女性は自分の夫が仕事を見つけそれを愛する男性であることを選びます.そうすることで,夫が仕事に没頭している間,妻は夫に巻きついていることができるのです.
高さについて言えば,トマトの支柱が真っ直ぐ(まっすぐ)空に向(むか)っていなければならないように,男性も真っ直ぐ天国を目指していなければなりません.指導者は霊感を与えて元気づけたり先頭に立って導(みちび)くためのビジョン(=先を見通す眼,先見,展望,構想)を持っている必要があります.ルフェーブル大司教は真のカトリック教会の復興というビジョンを持っておられました.同様にピィ枢機卿Cardinal Pie (1815-1880)(訳注・ “Cardinal Louis-Édouard Pie”.フランス・ポワティエの司教.19世紀における聖伝カトリック信仰の熱烈な擁護〈ようご〉者)は,自分を取り巻く19世紀の男性たちの柔弱(にゅうじゃく)さを見たとき,その柔弱さは彼らの信仰の欠如(けつじょ)に起因(きいん)すると考えました.信仰が存在しなければ信念は存在しない,と彼は言いました.信念なしには堅固な人格は存在しません.人格の堅固さなしには男性は男性たり得ません.聖パウロが「すべての男性の頭(かしら)はキリストであり,女性の頭は男性であり,キリストの頭は神である」(コリント人への第一の手紙・第11章3節)(訳注後記)と語ったとき,彼は同じ線に沿(そ)って考えていました.そういうわけですから,男性の男らしさを回復するには男性を神に向かわせ,神の下に従わせることです.そうすれば,妻が夫の下に従い,子供たちが両親の下に従うことがはるかに容易になるでしょう.
だが「下に」という言い方は夫の妻に対する,あるいは両親の子どもたちに対するいかなる種類の暴虐(ぼうぎゃく)とも解(かい)すべきではありません.支柱はトマトのためにこそ存在しているのです.男性がその子供たちのためにできる最良のことは彼らの母親を愛することだと言ったのはある賢明(けんめい)なイエズス会士でした.男性は女性のように愛に走ることはないので,女性がどれほど愛すること,愛されることを必要としているかを簡単に忘れがちです.小さじ一杯分の愛情があれば彼女はさらに百マイル持ちこたえます.聖霊はこのことをもっと優雅(ゆうが)に言い表わしています.「夫たちよ,妻を愛しなさい,妻を苦々しくあしらってはならない」(コロサイ人への手紙・3章19節)(訳注後記).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
新約聖書・使徒聖パウロによるエフェゾ人への手紙:第5章22-23節(太字下線部分)(21-33節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE EPHESIANS, 5:22-23 (21-33)
家族の愛(5・22-33)
『キリストを恐れて互いに従え.
妻よ,主に従うように自分の夫に従え.キリストがその*¹体であり,それを救われた教会のかしらであるように,夫は妻のかしらである.教会がキリストに従うように,妻はすべてにおいて夫に従え.
夫よ,キリストが教会を愛し,そのために命を与えられたように,あなたたちも妻を愛せよ.
キリストが命を捨てられたのは,水を注ぐことと,それに伴(ともな)う*²ことばによって教会を清め聖とするためであり,また汚点(しみ)もしわもすべてそのようなもののない,輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった.
*³(28節)「そのように夫も自分の体のように妻を愛さねばならない.妻を愛する人は自分を愛する人である.(29節)だれも自分の体を憎む者はなく,みなそれを養い育む.
キリストも教会のためにそうされる.(30節)私たちは*⁴キリストの体の肢体だからである.
「*⁵(31節)これがために男は父と母を離れ,妻と合って二人は一体となる」.
*⁶この奥義は偉大なものである.私がそう言うのは,キリストと教会についてである.
あなたたちはおのおの自分の妻を自分のように愛せよ.妻もまたその夫を敬え.』
(注釈)
*¹ この「体」は教会である.
*² 洗礼文.
(28-31節)自然の愛だけではなく,信仰と愛に満ちたキリストの教える超自然の愛.
*³ ブルガタ訳,「その肉と骨で成り立っている」.
*⁴〈旧約〉創世の書2・24参照.
→創世の書からの引用:
『…神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた』(1章27節).
2章18節から
『…主なる神は仰せられた,「人間が一人きりでいるのはよくない.私は彼に似合った助け手を与えよう」.
主なる神は,地から野の獣と空の鳥とをつくり,人間のもとに連れてゆかれた.それは,人間がそのものを,どのように呼ぶかを見たいと思われたからだった.その生き物を人間がどう呼ぶか,その呼び方がそれらの名となるはずであった.
さて,人間はすべての家畜と,空の鳥と,野の獣とに名をつけたが,人間に似合った助け手はまだ見つからなかった.
そのとき,主なる神は人間を深い眠りに入らせた.人間は眠りに入った.
神は人間のあばら骨の一本を取りだし,肉をもとのように閉じた.
主なる神は人間から取りだしたあばら骨で女を作って,それを人間のもとに連れてゆかれた.そのとき,人間は言った,
「さて,これこそ,わが骨の骨,わが肉の肉.これを女(ヘブライ語でイシャ)と名づけよう.男(イシュ)から取りだされたものなのだから」.(2章18-23節)
だからこそ,人間は父母を離れて,女とともになり,二人は一体となる(2章24節).
*⁵ 婚姻が「偉大な奥義」なのは,それが教会とキリストの神秘的な関係をかたどるからである.
* * *
第5パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコリント人への第一の手紙:第11章3節(太字部分)(1-16節を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE CORINTHIANS. 11:3 (1-16)
『私がキリストに倣(なら)っているように,あなたたちは私に倣え.
あなたたちがすべてのことについて私を思い出し,私の伝えたとおり,*¹伝えを守っていることに喜びを言おう.私はあなたたちに次のことを知ってもらいたい.*²すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である.
頭にかぶり物をして祈りや預言をする男はみな,その*³かしらを辱(はずかし)める.頭にかぶり物をしないで祈りや預言をする女もみなそのかしらを辱める.その女は剃髪(ていはつ)しているのと同じだからである.女がかぶり物をしないなら髪も切ればよい.神を切ったり剃(そ)ったりするのが女の恥であるなら,かぶり物をするがよい.
男は神のすがたであり光栄であるから,頭にかぶり物をしてはならぬ.女は男の光栄である.
男が女から出たのではなく,女が男から出たのであって,*⁴男が女のために造られたのではなく,女が男のために造られたからである.
そのため女は,*⁵天使たちのために,*⁶権威に服するしるしを頭にかぶらねばならぬ.
といっても*⁷主においては,男なしでは女もなく,女なしでは男もない.
女が男から出たように男は女から生まれ,そしてすべては神から出る.
あなたたちは自ら判断せよ.女がかぶり物なしで神に祈るのはよいことであろうか.
自然そのものも教えているではないか.男が長い髪をしているのは恥であって、女が長い髪をしていれば誇りであることを.女の神はかぶり物として与えられたからである.
だれかこれについて抗弁しようとするなら,私たちにはそういう習慣はなく,神の諸教会にも例がないと答えたい.』
(注釈)
*¹ 「伝え」とは初代教会の聖伝の教えのことである.
*² キリスト教的社会における階級.女性の服従の理由は,神の創造にある.しかし,その順序は,徳ではなく単に権威のことだけである.
*³ かしらの意味にも,頭の意味にもとれる.
*⁴ 〈旧約〉創世の書2・22-23参照.
*⁵ 創世の書6・2.ユダヤ系の偽典書に基づけば,昔のある学者は,この「天使」が天から落ちた天使のことだと言っていた.また,信者の集会のかしらの意味にとった人もあった.
しかしこの天使は,信者の集会のとき,祈りを神の座まで運ぶ(〈新約〉黙示録8・3,エフェゾ人への手紙3・10)よい天使のことと思われる.
*⁶ ここでは自分に対する他人の権利のこと.
*⁷男も女も不完全なもので,主のみ前にあっては平等である. 』
* * *
第6パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコロサイ人への手紙:第3章19節(太字下線部分)(18-21節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE COLOSSIANS, 3:19 (3:18-21)
『*¹妻たちよ,主にふさわしいように自分の夫に従え.
夫たちよ,妻を愛せよ,苦々しくあしらうな.
子どもたちよ,すべて両親に従え.それは主に喜ばれることである.
父達よ、子どもを怒らせるな.彼らを落胆させないためである.』
(注釈)
家庭の人たちに(3・18-)
*¹ この節(18節)以下にキリストの愛という見地に立って生きる自然倫理が説かれる(エフェゾ5・22).
(→エフェゾ5章22節)
『妻よ,主に従うように自分の夫に従え.』
* * *
以前「エレイソン・コメンツ」(9月10日付,第217回)で女性と男性の関係をトマトの苗とその苗がよじ登りやがて実を結ぶための支柱になぞらえたロシアのことわざを引用しました.その例えを用いたのは女性の性質と役割を詳しく説明するためでした.その際ある女性読者がその例えが男性にどう当てはまるのか尋(たず)ねてきました.悲しいことに,私たちの住む狂った現代は人間性のあらゆる本質を一掃(いっそう)しようとしています.
神が設計された男性と女性は著(いちじる)しく異なっていながらも崇高(すうこう)なほど相互補完(そうごほかん)的であり,菜園から引き出した単なる例え話などよりはるかに多くを語ってしかるべきものです.いかなるカトリック教会の婚礼ミサ聖祭 “Catholic wedding Mass” でも,そこで読まれる使徒書簡(新約聖書) “the Epistle” は夫と妻の関係( “the relations between husband and wife” )をキリストと彼の(体〈からだ〉たる)教会(=カトリック教会. “ those between Christ and his Church” )の関係に例えています.その書簡の一句(エフェゾ人への手紙,5章22-23節)(訳注後記)で注目に値(あたい)するのは,聖パウロが婚姻(こんいん)の結果生じる夫の責務(せきむ)について長々と記述しているのに対し妻のそれについては手短にしか記していないということです.すでに私たちは,現代の男女関係が健全性を喪失(そうしつ)してしまったのは今日の男性に大きな責任があるのではないかと疑い得るのですが,この超自然的な神秘についての話は別の機会に残すとして菜園の話に戻りましょう.というのも,今日,神と人間にとっての諸々の敵たちが攻撃の対象としているのはまさしく人間性の本質だからです.
トマトの支柱がトマトの苗に役立つためには二つのことが必要です.支柱は高くなければならず “must stand tall”,しかもしっかりと立っていなければなりません “must stand firm”.もし支柱が高くなければ,苗は高くよじ登ることができません.しっかりと揺らがずに立っていなければ,苗はそれにしがみついたり巻きついたりできません.まさしく,男性の堅固(けんこ)さ “The firmness” は彼がどれほど仕事に没頭(ぼっとう)しているかによって決まる( “depends on a man’s wrapping himself around his work” )一方,その高さ “the tallness” は彼がどれほど神の域(いき)に達(たっ)しようとしているか( “depends upon his reaching for God” =より高い理想を見据(す)えているか、目指しているか)によって決まります.
堅固さについて言えば,いつの時代,どの場所にあっても人間性への認識が歪(ゆが)んでいない限り,男性の生活は彼の仕事を中心に展開するのに対し女性の生活は夫をはじめとする家族を中心に展開するものです.もし男性が自分の生活の中心に女性を置くなら,それはちょうど二本のトマトの苗がともにしがみつきあっているようなものです.もし女性が男性の役割を受け入れなければ,二人ともぬかるみにはまって行き詰(ゆきづ)まりに終わるでしょう.それは女性が決してしてはならないことですし,少なくともそうしたいと望むことでもありません.賢(かしこ)い女性は自分の夫が仕事を見つけそれを愛する男性であることを選びます.そうすることで,夫が仕事に没頭している間,妻は夫に巻きついていることができるのです.
高さについて言えば,トマトの支柱が真っ直ぐ(まっすぐ)空に向(むか)っていなければならないように,男性も真っ直ぐ天国を目指していなければなりません.指導者は霊感を与えて元気づけたり先頭に立って導(みちび)くためのビジョン(=先を見通す眼,先見,展望,構想)を持っている必要があります.ルフェーブル大司教は真のカトリック教会の復興というビジョンを持っておられました.同様にピィ枢機卿Cardinal Pie (1815-1880)(訳注・ “Cardinal Louis-Édouard Pie”.フランス・ポワティエの司教.19世紀における聖伝カトリック信仰の熱烈な擁護〈ようご〉者)は,自分を取り巻く19世紀の男性たちの柔弱(にゅうじゃく)さを見たとき,その柔弱さは彼らの信仰の欠如(けつじょ)に起因(きいん)すると考えました.信仰が存在しなければ信念は存在しない,と彼は言いました.信念なしには堅固な人格は存在しません.人格の堅固さなしには男性は男性たり得ません.聖パウロが「すべての男性の頭(かしら)はキリストであり,女性の頭は男性であり,キリストの頭は神である」(コリント人への第一の手紙・第11章3節)(訳注後記)と語ったとき,彼は同じ線に沿(そ)って考えていました.そういうわけですから,男性の男らしさを回復するには男性を神に向かわせ,神の下に従わせることです.そうすれば,妻が夫の下に従い,子供たちが両親の下に従うことがはるかに容易になるでしょう.
だが「下に」という言い方は夫の妻に対する,あるいは両親の子どもたちに対するいかなる種類の暴虐(ぼうぎゃく)とも解(かい)すべきではありません.支柱はトマトのためにこそ存在しているのです.男性がその子供たちのためにできる最良のことは彼らの母親を愛することだと言ったのはある賢明(けんめい)なイエズス会士でした.男性は女性のように愛に走ることはないので,女性がどれほど愛すること,愛されることを必要としているかを簡単に忘れがちです.小さじ一杯分の愛情があれば彼女はさらに百マイル持ちこたえます.聖霊はこのことをもっと優雅(ゆうが)に言い表わしています.「夫たちよ,妻を愛しなさい,妻を苦々しくあしらってはならない」(コロサイ人への手紙・3章19節)(訳注後記).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
新約聖書・使徒聖パウロによるエフェゾ人への手紙:第5章22-23節(太字下線部分)(21-33節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE EPHESIANS, 5:22-23 (21-33)
家族の愛(5・22-33)
『キリストを恐れて互いに従え.
妻よ,主に従うように自分の夫に従え.キリストがその*¹体であり,それを救われた教会のかしらであるように,夫は妻のかしらである.教会がキリストに従うように,妻はすべてにおいて夫に従え.
夫よ,キリストが教会を愛し,そのために命を与えられたように,あなたたちも妻を愛せよ.
キリストが命を捨てられたのは,水を注ぐことと,それに伴(ともな)う*²ことばによって教会を清め聖とするためであり,また汚点(しみ)もしわもすべてそのようなもののない,輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった.
*³(28節)「そのように夫も自分の体のように妻を愛さねばならない.妻を愛する人は自分を愛する人である.(29節)だれも自分の体を憎む者はなく,みなそれを養い育む.
キリストも教会のためにそうされる.(30節)私たちは*⁴キリストの体の肢体だからである.
「*⁵(31節)これがために男は父と母を離れ,妻と合って二人は一体となる」.
*⁶この奥義は偉大なものである.私がそう言うのは,キリストと教会についてである.
あなたたちはおのおの自分の妻を自分のように愛せよ.妻もまたその夫を敬え.』
(注釈)
*¹ この「体」は教会である.
*² 洗礼文.
(28-31節)自然の愛だけではなく,信仰と愛に満ちたキリストの教える超自然の愛.
*³ ブルガタ訳,「その肉と骨で成り立っている」.
*⁴〈旧約〉創世の書2・24参照.
→創世の書からの引用:
『…神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた』(1章27節).
2章18節から
『…主なる神は仰せられた,「人間が一人きりでいるのはよくない.私は彼に似合った助け手を与えよう」.
主なる神は,地から野の獣と空の鳥とをつくり,人間のもとに連れてゆかれた.それは,人間がそのものを,どのように呼ぶかを見たいと思われたからだった.その生き物を人間がどう呼ぶか,その呼び方がそれらの名となるはずであった.
さて,人間はすべての家畜と,空の鳥と,野の獣とに名をつけたが,人間に似合った助け手はまだ見つからなかった.
そのとき,主なる神は人間を深い眠りに入らせた.人間は眠りに入った.
神は人間のあばら骨の一本を取りだし,肉をもとのように閉じた.
主なる神は人間から取りだしたあばら骨で女を作って,それを人間のもとに連れてゆかれた.そのとき,人間は言った,
「さて,これこそ,わが骨の骨,わが肉の肉.これを女(ヘブライ語でイシャ)と名づけよう.男(イシュ)から取りだされたものなのだから」.(2章18-23節)
だからこそ,人間は父母を離れて,女とともになり,二人は一体となる(2章24節).
*⁵ 婚姻が「偉大な奥義」なのは,それが教会とキリストの神秘的な関係をかたどるからである.
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第5パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコリント人への第一の手紙:第11章3節(太字部分)(1-16節を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE CORINTHIANS. 11:3 (1-16)
『私がキリストに倣(なら)っているように,あなたたちは私に倣え.
あなたたちがすべてのことについて私を思い出し,私の伝えたとおり,*¹伝えを守っていることに喜びを言おう.私はあなたたちに次のことを知ってもらいたい.*²すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である.
頭にかぶり物をして祈りや預言をする男はみな,その*³かしらを辱(はずかし)める.頭にかぶり物をしないで祈りや預言をする女もみなそのかしらを辱める.その女は剃髪(ていはつ)しているのと同じだからである.女がかぶり物をしないなら髪も切ればよい.神を切ったり剃(そ)ったりするのが女の恥であるなら,かぶり物をするがよい.
男は神のすがたであり光栄であるから,頭にかぶり物をしてはならぬ.女は男の光栄である.
男が女から出たのではなく,女が男から出たのであって,*⁴男が女のために造られたのではなく,女が男のために造られたからである.
そのため女は,*⁵天使たちのために,*⁶権威に服するしるしを頭にかぶらねばならぬ.
といっても*⁷主においては,男なしでは女もなく,女なしでは男もない.
女が男から出たように男は女から生まれ,そしてすべては神から出る.
あなたたちは自ら判断せよ.女がかぶり物なしで神に祈るのはよいことであろうか.
自然そのものも教えているではないか.男が長い髪をしているのは恥であって、女が長い髪をしていれば誇りであることを.女の神はかぶり物として与えられたからである.
だれかこれについて抗弁しようとするなら,私たちにはそういう習慣はなく,神の諸教会にも例がないと答えたい.』
(注釈)
*¹ 「伝え」とは初代教会の聖伝の教えのことである.
*² キリスト教的社会における階級.女性の服従の理由は,神の創造にある.しかし,その順序は,徳ではなく単に権威のことだけである.
*³ かしらの意味にも,頭の意味にもとれる.
*⁴ 〈旧約〉創世の書2・22-23参照.
*⁵ 創世の書6・2.ユダヤ系の偽典書に基づけば,昔のある学者は,この「天使」が天から落ちた天使のことだと言っていた.また,信者の集会のかしらの意味にとった人もあった.
しかしこの天使は,信者の集会のとき,祈りを神の座まで運ぶ(〈新約〉黙示録8・3,エフェゾ人への手紙3・10)よい天使のことと思われる.
*⁶ ここでは自分に対する他人の権利のこと.
*⁷男も女も不完全なもので,主のみ前にあっては平等である. 』
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第6パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコロサイ人への手紙:第3章19節(太字下線部分)(18-21節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE COLOSSIANS, 3:19 (3:18-21)
『*¹妻たちよ,主にふさわしいように自分の夫に従え.
夫たちよ,妻を愛せよ,苦々しくあしらうな.
子どもたちよ,すべて両親に従え.それは主に喜ばれることである.
父達よ、子どもを怒らせるな.彼らを落胆させないためである.』
(注釈)
家庭の人たちに(3・18-)
*¹ この節(18節)以下にキリストの愛という見地に立って生きる自然倫理が説かれる(エフェゾ5・22).
(→エフェゾ5章22節)
『妻よ,主に従うように自分の夫に従え.』
* * *
2011年11月7日月曜日
225 陰謀説 (11/5)
エレイソン・コメンツ 第225回 (2011回11月5日)
神殺し "deicide" について述べた最近の「エレイソン・コメンツ」(第222回)に続き,一部の読者は「エレイソン・コメンツ」が世界情勢でユダヤ人が果たす役割について頻繁(ひんぱん)に言及(げんきゅう)するのをお望みかもしれません.だが,その人たちは失望する恐れがあります.私がこれまでに取り上げてきた225件の諸問題の中で,ユダヤ人を名指(なざ)しで取り上げたのは6回を大幅に超えてはいないと思います.というのも,ユダヤ人にからむ問題の有無にかかわらず,彼らは決して主要な問題ではないからです.最大の問題は現代人が神を信じないことにあるのであり,私はそのことが「エレイソン・コメンツ」の主要な懸念(けねん)だということを大部分の読者の皆さんに理解していただければと望んでいます.
陰謀(いんぼう)説 “Conspiracy theories” ,すなわちユダヤ人が世界制覇を企(たくら)んでいる "conspiring to dominate the world" といった陰謀説は現在も存在していますが,そこにはふたつの誇張(こちょう)があり,その間の正しいバランスを保つことが賢明(けんめい)なのですが容易(ようい)にできることではありません.ほとんどの人々はあらゆる陰謀説はナンセンスで,それを信じる人々は「陰謀オタク」 “conspiracy nuts” だけだとするマスメディアの見方に従っています.他方で,少数派の人々は強い確信をもって,あらゆる世界の出来事は何らかの陰謀,とりわけユダヤ人の陰謀により説明されると考えています.1800年前の一人の著名なカトリック作家 “a famous Church writer” が本質的な真理をもっとも正しく語っています.
テルトゥリアヌス “Tertullian” (160-220年) はカトリック信仰とユダヤ人の権力は秤(はかり)のふたつの天秤皿(てんびんざら)に似ていると言いました.カトリック信仰が上がるにつれてユダヤ人権力が下がり,カトリック信仰が下がるとユダヤ人権力が上がるというわけです.だが,カトリック信仰は権力に勝(まさ)るものです.主要な問題がユダヤ人ではなく,人々の間のカトリック信仰の増減(ぞうげん)如何(いかん)にあるというのはそのためです.だからこそ諸々の陰謀が確かに存在するのであり,それは重要な役割を果たしており単に軽視して済ませるべきではありません.しかし,主要な問題は人々が唯一の真の教会(訳注・=カトリック教会)におられる真の神に背を向けていることにあるのです.手短に言えば - ここが重要なポイントです - ユダヤ人の権力が今日これほど強大であるとすれば,その責任はユダヤ人以外の人々(=非ユダヤ人) “the Gentiles” 自身にあるのです.
したがって,とりわけディズレーリ “Disraeli” (英国首相)とウッドロー・ウィルソン“Woodrow Wilson” (米国大統領)が暗にほのめかしながらもほとんど公言できなかったこと,すなわち世界の出来事を差配(さはい)する様々な場面の背後では一つの闇の権力が働いているということを理解し始めた人は誰でも,照明派(光明会)(訳注・原語 “the Illuminati”. イルミナティ.秘密結社)(訳注後記),ユダヤ人,フリーメーソンなどをのろう際にバランス感覚を失わないよう気をつけ,教皇ピオ10世 “Pius X” が言われた「誰もが自分の義務を果たすようになれば,すべてが良い方向にいく」という言葉の持つ知恵を正しく理解するようにしましょう.なぜならモーゼの十戒の第一戒が示すように,私たちの第一の義務は神に対するものであり,もし私たちすべてが自分の義務を果たし神に立ち帰るなら,神にとってさまざまな敵たちが現在振るっている権力を阻(はば)もうと介入することなしに元に戻すことはいとも簡単なこととなるからです.そうした敵を彼らが最初にいた場所に留め置けるのは神だけです.
こういうわけで,1917年に聖母マリアがポルトガルのファティマ “Fatima” にご出現になる前には,反カトリック主義者たち “the anti-Catholics” がポルトガル政府を完全に支配下に置いていましたが,ポルトガル国民のほぼ全体が聖母マリアの望みどおり祈りと償(つぐな)いを捧げたとき、聖母は反カトリック主義者たちの権力を無血の革命のうちにたやすく解消させてしまわれました.世界各地で共産主義が勝利を収(おさ)め誰もが神を信じなくなっていた20世紀において,ポルトガルはカトリック国家の見本となったのです.
神の敵のなかで最も賢明なものは,自分たちが神に役立つのは神に不誠実な人々の背中に災難のもとを振りかけることだとよく知っています.もし神の友が自分たちが敵から災難を負わされているのは全ての霊魂が神に目を向け天国に入れるようになるためだと理解しさえすれば,諸々の陰謀説はすべてそれが持つ実際の重要さより重すぎも軽すぎもしない場所に落ちることでしょう.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて,
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第4パラグラフの訳注:
照明派(光明会) “the Illuminati” 「イルミナティ」について.
1776年バイエルン(Bavaria)の大学教授だった元イエズス会士アダム・ワイズハウプトによって創設された秘密団体.クニッゲの協力のもとにキリスト教に代る啓蒙主義的自由思想ないし理性宗教を広めようとした.会員は「完全可能者」と呼ばれたが,盛時でも2000人をこえなかった.ゲーテ,ヘルダーらもその会員であったといわれている.85年無政府主義的傾向のためバイエルン政府の手で禁圧された.
(ブリタニカ国際大百科事典参照)
* * *
神殺し "deicide" について述べた最近の「エレイソン・コメンツ」(第222回)に続き,一部の読者は「エレイソン・コメンツ」が世界情勢でユダヤ人が果たす役割について頻繁(ひんぱん)に言及(げんきゅう)するのをお望みかもしれません.だが,その人たちは失望する恐れがあります.私がこれまでに取り上げてきた225件の諸問題の中で,ユダヤ人を名指(なざ)しで取り上げたのは6回を大幅に超えてはいないと思います.というのも,ユダヤ人にからむ問題の有無にかかわらず,彼らは決して主要な問題ではないからです.最大の問題は現代人が神を信じないことにあるのであり,私はそのことが「エレイソン・コメンツ」の主要な懸念(けねん)だということを大部分の読者の皆さんに理解していただければと望んでいます.
陰謀(いんぼう)説 “Conspiracy theories” ,すなわちユダヤ人が世界制覇を企(たくら)んでいる "conspiring to dominate the world" といった陰謀説は現在も存在していますが,そこにはふたつの誇張(こちょう)があり,その間の正しいバランスを保つことが賢明(けんめい)なのですが容易(ようい)にできることではありません.ほとんどの人々はあらゆる陰謀説はナンセンスで,それを信じる人々は「陰謀オタク」 “conspiracy nuts” だけだとするマスメディアの見方に従っています.他方で,少数派の人々は強い確信をもって,あらゆる世界の出来事は何らかの陰謀,とりわけユダヤ人の陰謀により説明されると考えています.1800年前の一人の著名なカトリック作家 “a famous Church writer” が本質的な真理をもっとも正しく語っています.
テルトゥリアヌス “Tertullian” (160-220年) はカトリック信仰とユダヤ人の権力は秤(はかり)のふたつの天秤皿(てんびんざら)に似ていると言いました.カトリック信仰が上がるにつれてユダヤ人権力が下がり,カトリック信仰が下がるとユダヤ人権力が上がるというわけです.だが,カトリック信仰は権力に勝(まさ)るものです.主要な問題がユダヤ人ではなく,人々の間のカトリック信仰の増減(ぞうげん)如何(いかん)にあるというのはそのためです.だからこそ諸々の陰謀が確かに存在するのであり,それは重要な役割を果たしており単に軽視して済ませるべきではありません.しかし,主要な問題は人々が唯一の真の教会(訳注・=カトリック教会)におられる真の神に背を向けていることにあるのです.手短に言えば - ここが重要なポイントです - ユダヤ人の権力が今日これほど強大であるとすれば,その責任はユダヤ人以外の人々(=非ユダヤ人) “the Gentiles” 自身にあるのです.
したがって,とりわけディズレーリ “Disraeli” (英国首相)とウッドロー・ウィルソン“Woodrow Wilson” (米国大統領)が暗にほのめかしながらもほとんど公言できなかったこと,すなわち世界の出来事を差配(さはい)する様々な場面の背後では一つの闇の権力が働いているということを理解し始めた人は誰でも,照明派(光明会)(訳注・原語 “the Illuminati”. イルミナティ.秘密結社)(訳注後記),ユダヤ人,フリーメーソンなどをのろう際にバランス感覚を失わないよう気をつけ,教皇ピオ10世 “Pius X” が言われた「誰もが自分の義務を果たすようになれば,すべてが良い方向にいく」という言葉の持つ知恵を正しく理解するようにしましょう.なぜならモーゼの十戒の第一戒が示すように,私たちの第一の義務は神に対するものであり,もし私たちすべてが自分の義務を果たし神に立ち帰るなら,神にとってさまざまな敵たちが現在振るっている権力を阻(はば)もうと介入することなしに元に戻すことはいとも簡単なこととなるからです.そうした敵を彼らが最初にいた場所に留め置けるのは神だけです.
こういうわけで,1917年に聖母マリアがポルトガルのファティマ “Fatima” にご出現になる前には,反カトリック主義者たち “the anti-Catholics” がポルトガル政府を完全に支配下に置いていましたが,ポルトガル国民のほぼ全体が聖母マリアの望みどおり祈りと償(つぐな)いを捧げたとき、聖母は反カトリック主義者たちの権力を無血の革命のうちにたやすく解消させてしまわれました.世界各地で共産主義が勝利を収(おさ)め誰もが神を信じなくなっていた20世紀において,ポルトガルはカトリック国家の見本となったのです.
神の敵のなかで最も賢明なものは,自分たちが神に役立つのは神に不誠実な人々の背中に災難のもとを振りかけることだとよく知っています.もし神の友が自分たちが敵から災難を負わされているのは全ての霊魂が神に目を向け天国に入れるようになるためだと理解しさえすれば,諸々の陰謀説はすべてそれが持つ実際の重要さより重すぎも軽すぎもしない場所に落ちることでしょう.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて,
リチャード・ウィリアムソン司教
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第4パラグラフの訳注:
照明派(光明会) “the Illuminati” 「イルミナティ」について.
1776年バイエルン(Bavaria)の大学教授だった元イエズス会士アダム・ワイズハウプトによって創設された秘密団体.クニッゲの協力のもとにキリスト教に代る啓蒙主義的自由思想ないし理性宗教を広めようとした.会員は「完全可能者」と呼ばれたが,盛時でも2000人をこえなかった.ゲーテ,ヘルダーらもその会員であったといわれている.85年無政府主義的傾向のためバイエルン政府の手で禁圧された.
(ブリタニカ国際大百科事典参照)
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2011年11月5日土曜日
224 不良金融 -1- (10/29)
エレイソン・コメンツ 第224回 (2011回10月29日)
差し迫った世界金融の崩壊,もしくは,その崩壊が意図した世界政府設立に向けた世界金融の到来(原文 “…the advent of global finance on the way to global government which that collapse has been designed to bring on, …” )という局面を見て人々は「一体どうしてこんな混乱に陥ったのか,どうしたらそこから脱出できるのだろうか? 」と考えさせられることでしょう.もし全能の神がこのような深刻な危機に一役買っておられるのだとすれば,神は当然事態をあまり深刻には受け止められず,心地よい日曜日の気晴らし程度にお考えでしょう.だが反対に,中世の教会を建築した人たちが明らかに考えたように,神がこの危機に重要な役割を果たしておられるとすれば,神を無視することは今日のように金融が現実を打ち負かせていること(原文 “today’s triumph of finance over reality” )に大きな役割を果たしていることになるでしょう.
今日の災難がどこから始まったかを理解するには,どうしても中世時代に遡(さかのぼ)る必要があります.中世の絶頂期以降にカトリック教の信仰が低下し始めるとともに,人々は生活のもう一つの大きな動機付けである富( “Mammon”,かね)への関心を募(つの)らせるようになりました(マテオ聖福音書6・24)(訳注後記).かくして,財貨およびサービスの交換で召使("servant",使用人)の役をするはずのお金が,その本来の性質を離れ,世界経済の主("master",あるじ,主人)である近代金融へと姿を変えてしまいました.このプロセスの中で,あらゆる分野で山のように膨(ぼう)大な支払い不能な負債が発生したり,世界を目に見える銀行もしくはそれを陰で操(あやつ)る目に見えない管理者たちの奴隷にしていますが,ここでカギとなる役割を果たしているのは中世以降に広まった小額準備金銀行(原文: “fractional reserve banking” )制度です.
お金が経済に役立つとなると,賢明な国家は流通するお金の全体量を自国経済で交換される財貨の全体量に合わせて上下させ,お金の価値が安定するように努めます.財貨の供給が少ないのにお金が多すぎればインフレによってお金の価値は下がります.逆に,財貨供給が多いのにお金の流通量が少なすぎると,デフレでお金の価値が上昇します.どちらになっても,お金の価値が変動し財貨の交換を不安定なものにしてしまいます.さて,預金者がお金を預ける銀行はどう行動するでしょうか.現金( “real money” )のわずかな部分だけを準備金として残し,はるかに大量の流通紙幣( “paper money” )を支えればいいと考えます.そして,流通紙幣の量を増減させることによってお金の価値を操作し,安いお金を貸し出し高いお金の返済を求めて大金を儲けます.このようにして金融業は国家から支配権を奪うことが可能になります.
もっとひどいことに,小額準備銀行システムで銀行がお金を実社会から切り離し,それを意のままに変える( “fabricate”.=でっち上げる,ねつ造する)ことができ,さらに保有するおかしなお金( “funny money” )にわずかなりとも複利をかけることができるとすれば,経済からあらゆる実価値( “real value” )を吸い上げることが理論的に可能ですし,実際にそのように行動します.銀行は預金者を借り手に,大半の借り手を絶望的な借金奴隷,住宅ローン奴隷に陥(おとしい)れ,自らの利益のために金の卵を産むガチョウを完全に殺さない程度(ていど)に面倒を見るだけです.神の啓示を受けた律法(神授の法)授与者モーゼの知恵は,全ての貸し手の権限を抑(おさ)えるため負債はすべて7年ごとに棒引(ぼうび)きにする(第二法〈申命〉書 15・1-2参照),あらゆる資産は50年ごとに元の持ち主に戻す(レビ書15・10参照)こととする,と定めました! (訳注後記)
偉大な神の人であり神よりの深い霊性を湛(たた)えたモーゼが,このように物質的な諸問題にまで関心を寄せたのはなぜでしょうか? それは,荒廃した経済が人々を絶望に追いやり,神から引き離し地獄に向けさせるからです - 今日,それより明日がどうなるかあなたの周(まわ)りを見渡してください - 経済がうまくいけば,拝金主義( “worships Mammon” )などが幅をきかせない賢明な繁栄が可能になり,人々が神の善意を信じ神を崇拝し愛することがもっと容易になるでしょう.人はしょせん霊魂と肉体から成るものなのです.(訳注後記)
モーゼならきっと小額準備銀行システムなど粉砕(ふんさい)したでしょう.ちょうど彼が金の子牛 “Golden Calf” をこなごなに砕(くだ)いたように.(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第2パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第6章24節
* * *
第4パラグラフの2つの訳注:
①旧約聖書・第二法の書:第15章1-2節
②同・レビの書:第15章10節
* * *
第5パラグラフ最後の訳注:
「人はしょせん霊魂と肉体から成るものなのです.」について.
人間は霊魂だけでなく,身体も一緒にかかえて生きているので,生きていく為には実生活面(経済)のケアも必要なのだ,という意味合い.
→主祷文〈主の祈り〉から…
・「…我らの日用の糧を今日我らに与え給え.」…経済面のケア
・「我らが人に赦すごとく我らの罪を赦(ゆる)し給え.我らを試みに引き給わざれ.我らを悪より救い給え.」…霊魂のケア
→新約聖書・マテオ聖福音書:第6章24-33節参照.
(31節から〈33節…太字〉)
『…何を食べ,何を飲み,何を着ようかと心配するな.それらはみな異邦人(=不信心な人)が切に望むことである.天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる.だから,まず神の国とその正義を求めよ.そうすれば,それらのものも加えて与えられる.明日のために心配するな.明日は明日が自分で心配する.一日の苦労は一日で足りる.』
* * *
第6パラグラフの訳注:
「金の子牛 “Golden Calf” 」について:
旧約聖書・脱出の書:第32章を参照.
(エジプトを脱出してきたイスラエルの民は,預言者モーゼの留守中に金の子牛をつくり祭壇を設けてその鋳物の子牛を民を導く神として拝んだ.)
* * *
引用されている聖書の箇所は後から追加いたします.
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差し迫った世界金融の崩壊,もしくは,その崩壊が意図した世界政府設立に向けた世界金融の到来(原文 “…the advent of global finance on the way to global government which that collapse has been designed to bring on, …” )という局面を見て人々は「一体どうしてこんな混乱に陥ったのか,どうしたらそこから脱出できるのだろうか? 」と考えさせられることでしょう.もし全能の神がこのような深刻な危機に一役買っておられるのだとすれば,神は当然事態をあまり深刻には受け止められず,心地よい日曜日の気晴らし程度にお考えでしょう.だが反対に,中世の教会を建築した人たちが明らかに考えたように,神がこの危機に重要な役割を果たしておられるとすれば,神を無視することは今日のように金融が現実を打ち負かせていること(原文 “today’s triumph of finance over reality” )に大きな役割を果たしていることになるでしょう.
今日の災難がどこから始まったかを理解するには,どうしても中世時代に遡(さかのぼ)る必要があります.中世の絶頂期以降にカトリック教の信仰が低下し始めるとともに,人々は生活のもう一つの大きな動機付けである富( “Mammon”,かね)への関心を募(つの)らせるようになりました(マテオ聖福音書6・24)(訳注後記).かくして,財貨およびサービスの交換で召使("servant",使用人)の役をするはずのお金が,その本来の性質を離れ,世界経済の主("master",あるじ,主人)である近代金融へと姿を変えてしまいました.このプロセスの中で,あらゆる分野で山のように膨(ぼう)大な支払い不能な負債が発生したり,世界を目に見える銀行もしくはそれを陰で操(あやつ)る目に見えない管理者たちの奴隷にしていますが,ここでカギとなる役割を果たしているのは中世以降に広まった小額準備金銀行(原文: “fractional reserve banking” )制度です.
お金が経済に役立つとなると,賢明な国家は流通するお金の全体量を自国経済で交換される財貨の全体量に合わせて上下させ,お金の価値が安定するように努めます.財貨の供給が少ないのにお金が多すぎればインフレによってお金の価値は下がります.逆に,財貨供給が多いのにお金の流通量が少なすぎると,デフレでお金の価値が上昇します.どちらになっても,お金の価値が変動し財貨の交換を不安定なものにしてしまいます.さて,預金者がお金を預ける銀行はどう行動するでしょうか.現金( “real money” )のわずかな部分だけを準備金として残し,はるかに大量の流通紙幣( “paper money” )を支えればいいと考えます.そして,流通紙幣の量を増減させることによってお金の価値を操作し,安いお金を貸し出し高いお金の返済を求めて大金を儲けます.このようにして金融業は国家から支配権を奪うことが可能になります.
もっとひどいことに,小額準備銀行システムで銀行がお金を実社会から切り離し,それを意のままに変える( “fabricate”.=でっち上げる,ねつ造する)ことができ,さらに保有するおかしなお金( “funny money” )にわずかなりとも複利をかけることができるとすれば,経済からあらゆる実価値( “real value” )を吸い上げることが理論的に可能ですし,実際にそのように行動します.銀行は預金者を借り手に,大半の借り手を絶望的な借金奴隷,住宅ローン奴隷に陥(おとしい)れ,自らの利益のために金の卵を産むガチョウを完全に殺さない程度(ていど)に面倒を見るだけです.神の啓示を受けた律法(神授の法)授与者モーゼの知恵は,全ての貸し手の権限を抑(おさ)えるため負債はすべて7年ごとに棒引(ぼうび)きにする(第二法〈申命〉書 15・1-2参照),あらゆる資産は50年ごとに元の持ち主に戻す(レビ書15・10参照)こととする,と定めました! (訳注後記)
偉大な神の人であり神よりの深い霊性を湛(たた)えたモーゼが,このように物質的な諸問題にまで関心を寄せたのはなぜでしょうか? それは,荒廃した経済が人々を絶望に追いやり,神から引き離し地獄に向けさせるからです - 今日,それより明日がどうなるかあなたの周(まわ)りを見渡してください - 経済がうまくいけば,拝金主義( “worships Mammon” )などが幅をきかせない賢明な繁栄が可能になり,人々が神の善意を信じ神を崇拝し愛することがもっと容易になるでしょう.人はしょせん霊魂と肉体から成るものなのです.(訳注後記)
モーゼならきっと小額準備銀行システムなど粉砕(ふんさい)したでしょう.ちょうど彼が金の子牛 “Golden Calf” をこなごなに砕(くだ)いたように.(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第2パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第6章24節
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第4パラグラフの2つの訳注:
①旧約聖書・第二法の書:第15章1-2節
②同・レビの書:第15章10節
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第5パラグラフ最後の訳注:
「人はしょせん霊魂と肉体から成るものなのです.」について.
人間は霊魂だけでなく,身体も一緒にかかえて生きているので,生きていく為には実生活面(経済)のケアも必要なのだ,という意味合い.
→主祷文〈主の祈り〉から…
・「…我らの日用の糧を今日我らに与え給え.」…経済面のケア
・「我らが人に赦すごとく我らの罪を赦(ゆる)し給え.我らを試みに引き給わざれ.我らを悪より救い給え.」…霊魂のケア
→新約聖書・マテオ聖福音書:第6章24-33節参照.
(31節から〈33節…太字〉)
『…何を食べ,何を飲み,何を着ようかと心配するな.それらはみな異邦人(=不信心な人)が切に望むことである.天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる.だから,まず神の国とその正義を求めよ.そうすれば,それらのものも加えて与えられる.明日のために心配するな.明日は明日が自分で心配する.一日の苦労は一日で足りる.』
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第6パラグラフの訳注:
「金の子牛 “Golden Calf” 」について:
旧約聖書・脱出の書:第32章を参照.
(エジプトを脱出してきたイスラエルの民は,預言者モーゼの留守中に金の子牛をつくり祭壇を設けてその鋳物の子牛を民を導く神として拝んだ.)
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引用されている聖書の箇所は後から追加いたします.
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2011年11月1日火曜日
223 高潔な無神論者 (10/22)
エレイソン・コメンツ 第223回 (2011年10月22日)
ブラームス “Brahms” の音楽がいかに魂の偉大さを証明するものであるかに触れたエレイソン・コメンツ(第221回)を読んだ若いブラジル人読者が,自分の内にくすぶっている心のほうが不熱心なカトリック教徒 “a lukewarm Catholic” の内にくすぶっている心よりはまだましなのではないかと尋(たず)ねてきました(マテオ聖福音書・12章20節参照)(訳注後記).この対比は無神論者の徳 “the virtue of the pagan” を強調し「生ぬるい,怠惰な」カトリック教徒たちの徳 “the virtue of “warm, lazy” Catholics” に疑問を呈(てい)するのが目的です.もちろん無神論者の徳 “pagan virtue” は称賛に値するもので,カトリック教の中途半端さ “Catholic lukewarmness” は非難に値しますが,その背後にはもっと大きな疑問が横たわっています.信心深いカトリック信徒 “a believing Catholic” であることはどれほど大切なことでしょうか? 信仰の徳 “the virtue of faith” はどれほど重要でしょうか? 永遠が長く続くと同じように信仰の徳は重要であり続けなければならない,というのがその疑問への答えです.
信仰が最高に価値のある美徳であることは4つの福音書を読めば明らかです.私たちの主イエズス・キリストが,肉体的あるいは霊的な治癒(ちゆ,=癒(いや)し)の奇跡を施された後で,その対象となった人に対し,例えばマグダラのマリア “Mary Magdalene” の場合と同じように(ルカ聖福音7章50節)(訳注後記),癒された人たちに治癒の奇跡をもたらしたのはその人たちの持つ信仰なのだ,とどれほど繰り返し語っておられることでしょうか? しかも聖書はこのことと同じように,称賛に値する信仰は単なる宗教についての系統立った知識よりはるかに深い意味を持つものだということも明らかにしています.例えば,ローマの百夫長(百人隊長)たち “Roman centurions” は当時の真の宗教たる旧約聖書についての知識はほとんど何も持ち合わせていなかったと思われます.にもかかわらず私たちの主イエズス・キリストは,その中のひとりについて,イスラエル(人)の中に彼ほどの大きな信仰を持った人を見たことがない(マテオ聖福音8章10節)と仰せられました.また,もうひとりについては,宗教的な専門家たちが嘲笑(あざわら)った十字架上のイエズスを神の御子と認めたし(マテオ聖福音27章41節),さらに三人目のコルネリウス(訳注・ “Cornelius” .歩兵隊「イタリア」の百人隊長)は真のカトリック教会に入ることになるすべての異教徒のため先駆者として道を切り開きました(使徒行録10,11章)(訳注後記).こうした無神論者の百人隊長たちは,教会の司祭,書士たちや古代人が持たなかった,あるいはかつては持っていながらすでに失ってしまった何を持っていたのでしょうか?
この地上のあらゆる人にとって,人生の始めから終わりまで,無神論者であろうと非無神論者であろうと “pagans and non-pagans” みな一様に,究極的にはすべて神から来るさまざまな善い物事と人間の邪悪さから来るさまざまな悪い物事との相克(そうこく)に絶えず直面します.だが悪人 “wicked men” ははっきり目立つ一方で神御自身は目に見えません.だから善を信じないとか神の存在さえも信じないというのはよくあることです.だが善良な心の持ち主 “men of good heart” は人の善良さを信じる一方で,絶対的ではなくても相対的に悪を割り引いて考えます.それに対し,邪悪な心の持ち主 “men bad of heart” は自分の周りのあらゆる善を軽視します.ところで,どちらの人間も明確な宗教の知識を持ち合わせていないとしても,前述の百夫長のように,善良な心の持ち主は宗教に出会うや否やすぐにそれに気付き理解するのに反して,悪い心の持ち主は多かれ少なかれそれを軽蔑(けいべつ)するものです.かくして純真なアンドレアとヨハネは救世主をすぐに理解しましたが(ヨハネ聖福音1章37-40節),教養あるガマリエル(訳注・ “Gamaliel”.律法学士.)にはかなり多くの時間と説得力が必要でした(使徒行録5章34-39節)(訳注後記).ここで別の言い方をしましょう.明確で意図的な信仰の徳は人の善良性およびその背後に神が存在しておられるあらゆる(善良な)もの(訳注・善良性は神の性質そのものである.)に対する潜在的な信頼,すなわち誤った教理に出会えば崩れたり,例えば醜聞(スキャンダル)に直面すれば揺らいでしまうような信頼と裏腹(隣り合わせ)だということです.(原文 “…that at the heart of the explicit and knowing virtue of faith lies an implicit trust in the goodness of life and in whatever Being lies behind it, a trust that can be undermined by false doctrine or shaken for instance by scandal”. )
ブラームスの場合に戻ると疑問は次のようになります.彼は少なくとも人の善良さとその背後に存在しておられる神の善良性 “the goodness of life and of the Being behind it” に対してこの潜在的な信頼を持っていたのでしょうか? その答えは疑いなく否です.なぜなら彼は人生の後半すべてを当時の音楽の都,カトリック信仰の都ウィーン(訳注・原文 “…what was then the capital city of music, Catholic Vienna.”,オーストリアの首都.)で過ごしたからです.そこで彼の音楽の美しさに触れた数えきれないほど多くの友人や教会の司祭たちさえもが彼にその天職が生み出す美とウィーンの宗教の実践を明示的に達成するよう促(うなが)したはずですが,彼はそうした訴えをすべて拒(こば)んだに違いありません.したがってブラームスが自分の霊魂を救わなかった可能性が極めて高いと思われるのですが…それは神のみぞ知るです.
それでもなお,私たちは神がブラームスの音楽をお与えくださったことに感謝します.聖アウグスティヌス “St. Augustine” が見事に言い表わしたように,「あらゆる真実は私たちカトリック信徒に属する」のです.あらゆる美もまた然(しか)りです(原文 “ “All truth belongs to us Catholics.” Likewise all beauty,…” ),たとえ無神論者の手によって創作されたものであっても!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第1パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第12章20節(太字部分)(12章全部を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 12:20 (12:1-50)
麦の穂と安息日(12・1-8)
『そのころの安息日に,イエズスは麦畑を通られた.
弟子たちは空腹だったので,麦の穂をつんで食べ始めた.するとファリザイ人がこれを見て,「あなたの弟子は*¹安息日(あんそくじつ)にしてはならぬことをしています」と言ったので,イエズスは答えられた,「ダヴィドが空腹だったとき供の者と何をしたかあなたたちは読んだことがないのか.彼は神の家に入って,司祭以外の者は彼もまた供のものも食べてはならぬ*²供えのパンを食べた.
*³また,安息日に司祭たちが神殿で安息を破っても罪にはならぬと律法に記してあるのも読んだことはないのか.私はいう,神殿よりも偉大な者がここにいる.
〈*⁴私が望むのはあわれみであって,いけにえではない〉とはどういう意味かを知っていれば,罪のない人をとがめることはしなかったであろう.実に,人の子(=神の子イエズス)は安息日の主である」.』
(注釈)
*¹ ファリザイ人は,穂を摘むことさえ刈り入れと同じように考えていたので,律法で禁じられている仕事だと言った(〈旧約〉脱出の書34・21).
*²〈旧約〉レビ24・5-9,サムエル(上)21・5-6参照.
*³ 燔祭をささげるにあたり,司祭はいけにえの獣を殺し,あるいは火を燃やすなどの行いをするが,これは安息日を犯すことにはならぬ.
*⁴〈旧約〉ホゼア6・6参照.
手なえの人(12・9-13)
『イエズスがここを去って彼らの会堂に入られると,*¹片手のなえた人がいた.人々はイエズスを訴えようとして,「安息日に病気を治してもいいのですか」と尋(たず)ねた.*²イエズスは彼らに答えられた,「一頭の羊をもっている人がいるとする,その羊が安息日に穴に落ち引き上げないでいるだろうか.人間は羊よりもはるかに優れたものである.だから安息日に善を行うのはよいことだ」.
またその人に向かい,「手を伸ばせ」と言われた.その人が手を伸ばすともう一方の手と同じように治った.』
(注釈)
*¹ ヒエロニムスの伝えるところによると,この手なえの男は左官だった.
*² 安息日に善業をするなと言うのではない.一頭の獣の命を救うことがゆるされるなら,人の命を助けることは当然ゆるされているはずである.
こういう対人論証は,ユダヤの学者たちがよく使っていた方法である.
イエズスの柔和(12・14-21)
『ファリザイ人は出ていって,イエズスを亡き者にする手段について相談した.それを知ったイエズスはその地方を去っていかれた.
多くの人がイエズスについてきたので,イエズスはその人たちをみな治し,そして,このことを人に知らせるなと戒められた.
こうして,*¹預言者イザヤの預言は実現した,
「*²私(=神)の選んだしもべ(=イエズス),私の喜びとする愛する者,私は彼の上に霊をおこう.
彼は異邦人に*³まことの信仰を告げる.
彼は争いもせず叫びもせぬ.だれも大路でその声を聞かぬ.
彼は傷んだ葦(あし)も折らず,煙(けむ)る灯心も消さぬ,まことの信仰を勝利に導くまでは.
異邦人も彼の名に希望をかける」.』
(注釈)
*¹ イザヤの預言した「ヤベのしもべ」の謙遜と慎みを,イエズスは示された.
*² 18-21節 〈旧約〉イザヤの書42・1-4参照.
*³ 「まことの信仰」とは,ヘブライ語の「正義」の現代語訳である.
このことばは,神と人間の関係を指し示し神の権利を教える.
神の権利は,天の示しとまことの信仰によってあらわされる.
盲人で唖の悪魔つき(12・22-32)
『そのとき,盲人で唖の悪魔つきが連れ出されたので,イエズスはそれを治された.すると唖は話し目は見えるようになった.人々は驚いて,「この人は*¹ダヴィドの子ではなかろうか」と言い合った.
これをきいたファリザイ人は,「あの人が悪魔を追い払うのは,ただ悪魔のかしら*²ベルゼブルがついているからだ」と言った.
イエズスは彼らの考えを見抜きこう言われた,「分かれ争う国は滅び,分かれ争う町や家もながらえない.もしサタンがサタンを追い払うのなら,みずから分かれ争うことになる.それなら,どうしてその国がながらえよう.*³私がベルゼブルによって悪魔を追い出すなら,あなたたちの*⁴弟子は何によって追い出すのか.こうして彼らがあなたたちをさばく者となる.
ところで私が神の霊によって悪魔を追い出すなら,神の国は到来しているのである.
また強い人を先に縛っておかぬと,強い人の家に入ってその家財を奪えるものではない.縛っておけばその家のものを奪うことができる.
私の味方でない人は私に背き,私とともに集めぬ者は散らしてしまう.
私は言う,*⁵人間のどんな罪も冒瀆(ぼうとく)もゆるされるが,霊に対する冒瀆はゆるされぬ.ことばで人の子に逆らう者はゆるされるが,ことばで聖霊に逆らう者はこの世においても来世においてもゆるされることはない.』
(注釈)
*¹ マテオ9・27参照.メシア(救世主)を指すことば.
*² ブルガタ(ラテン語)訳,「ベルゼブブ」.
*³ ヘブライ人の中にも悪魔をはらう人がいた.それは〈新約〉使徒行録19・12以下にも書かれている.
*⁴「弟子たち」,「子たち」の訳もある.
*⁵ 31-32節 聖霊に反する罪とは,意識的に頑固に真理を拒むこと,イエズスの業を悪魔の業とすることである.こういう人の罪はゆるされない.
ファリザイ人の悪意(12・33-37)
『実がよければその木もよいとされ,実が悪ければその木も悪いとされる.木はその実でわかる.
まむし族の人間よ,悪者のあなたたちにどうしてよいことが言えよう.
口は心に満ちたものを語る.よい人はよいものをよい倉から出し,悪い人は悪いものを悪い倉から出す.
私は言う.人が話した*¹むだごとは,すべてさばきの日にさばかれるであろう.人は自分のことばによって義とされ,また自分のことばによって罪とされる」.』
(注釈)
*¹ 直訳は「根拠のない,客観性のない悪口」.単にむなしいむだごとだけではない.
ヨナのしるし(12・38-42)
『そのとき,ある律法学士とファリザイ人がイエズスに言った,「先生,私たちはあなたがなさる*¹しるしを見たいと思います」.
イエズスはこう答えられた,「この悪いよこしまな代はしるしを望むが,預言者ヨナのしるし以外のしるしは与えられぬ.すなわち*²ヨナは三日三晩海の怪物の腹の中にいたが,同様に人の子は三日三晩地の中にいる.
*³さばきの日,ニネヴェの人は今の代の人とともに立ち上がり,今の代を罪に定めるだろう.彼らはヨナのことばを聞いて悔い改めたからである.しかもヨナにまさる者がここにいる.
さばきの日,*⁴南の女王は今の代の人とともに立ち上がり,今の代を罪に定めるだろう.女王はソロモンの知恵を聞こうとして地の果てから来たからである.しかもソロモンにまさる者がここにいる.』
(注釈)
*¹ イエズスが主張する権利を証明する不思議な奇跡のこと.
*²〈旧約〉ヨナの書2・1参照.
*³ ニネヴェの人々葉、改心を説くヨナの説教を信じた.ユダヤ人たちは,これほどの奇跡を見てもイエズスのことばを信じようとしない.
*⁴南の女王とは,パレスチナの南にあるサバの国の女王である(〈旧約〉列王(上)10・1-10).
悪霊(12・43-45)
『*¹汚れた霊は人から出るとき,休みを求めて荒れ地をさまよっても休める所を見つけない.そこで,〈出てきた元の家に帰ろう〉と帰ってみると,その家は空いていて掃(は)き清められ,整えられているので,自分より悪い七つの霊を連れにいき,帰ってきてそこに住む.そうなるとその人の後の状態は前よりも悪くなる.悪いこの代もまたそれと同じことである」.』
(注釈)
*¹ 43-45節 ユダヤ人の将来を暗示する.彼らは洗者ヨハネとイエズスの宣教によっていくらか悔い改める様子を見せたが,のちに,不信仰のまま残り,悪魔の鎖にしめつけられた.
イエズスの家族(12・46-50)
『イエズスがなお群衆に話しておられると,彼の母と*¹兄弟たちが話しかけようとして外に来た.(*²ある人が「ほら,あなたの母と兄弟が話そうとして外に立っています」と言った.)
*³イエズスはその人に向かい,「私の母とはだれのことか,兄弟とはだれのことか」と仰せられ,弟子たちのほうを手で指し示して,「ごらん,これが私の母,私の兄弟である.天にまします父のみ旨を果たす人はすべて私の兄弟,私の姉妹,私の母である」と仰せられた.』
(注釈)
*¹ 中近東の用語では,従兄弟,近い親戚をも「兄弟」と言う.
*² 主な古写本,権威ある翻訳本にないこの節を,マルコとルカにまねた後世の書き入れと考える聖書学者が多い.
*³ イエズスの教えを受け入れる誠実さがないならば,肉親関係といえども神の国の前に無価値である.
イエズスの母としてマリアの権威は偉大であるが神のみことばを聞くにあたって,彼女の誠実さはそれよりも偉大である.
* * *
第2パラグラフ4行目の訳注:
新約聖書・ルカによる聖福音書:第7章50節(太字部分)(36節から掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE – 7:50 (7:36-50)
罪の女(7・36-50)
『あるファリザイ人がともに食事をしてくれるようにイエズスを招いたので,イエズスはその家に行き,食卓につかれた.
*¹イエズスがファリザイ人の家で食卓につかれたのを知って,その町で罪女(ざいじょ)とうわさのある女が,香油をいれた壷(つぼ)を持って入ってきた.その女は泣きながら,*²イエズスのうしろ,その御足の近くに立ち,涙で御足をぬらし,自分の髪の毛でそれをぬぐい,御足にくちづけして香油をぬった.
これを見た招待主のファリザイ人は心の中で,「この人がもし預言者なら,自分に触れた女が何者で,どんな人間かを知っているはずだ.この女は罪人なのに」と考えた.
そのときイエズスは,「シモン,私はあなたに言いたいことがある」と言われた.彼が,「先生,何ですか」と言うと,「ある貸し主に二人の負債人がいて,一人は五百デナリオ,一人は五十デナリオの負債があった.返すあてがなかったので,貸し主は二人をゆるした.すると,この二人のうちどちらがより多くその人を愛するだろうか」と言われた.シモンは,「多くゆるしてもらったほうだろうと思います」と答えた.イエズスは「その判断はよろしい」と言われた.
それから女をふりかえり,シモンに向かい,
「この婦人をごらん.あなたは私が入ってきても,足に水をそそいでくれなかったのに,この人は私の足を涙でぬらし,自分の髪の毛でふいてくれた.あなたはくちづけしなかったけれど,この人は*³私が入ったときから,たえず私の足にくちづけした.あなたは私の頭に油をぬらなかったけれど,この人は足に香油をぬってくれた.
だから私は言う.*⁴この人の罪,その多くの罪はゆるされた.多く愛したのだから.少しゆるされる人は,またすこししか愛さない」と言われた.
それから女に向かい,「あなたの罪はゆるされた」と言われたので,列席の人は,「罪さえもゆるすこの人は何者か」と心の中で思った.
イエズスは女に向かい,「あなたの信仰があなたを救った.安心して行きなさい」と言われた.』
(注釈)
*¹ この話を,マテオ福音(26・6-13),マルコ福音(14・3-9),ヨハネ福音(12・1-8)の記すベタニアの出来事と混同してはならない.
ルカは慎みをもって,その女の名を記すことをさけているが昔の典礼ではあったように次のルカ福音(8・2)のマグダラのマリアのことであると考えても福音書にそむくとはいえない.
→ ルカ聖福音書8・1-3
「(…イエズスは,説教し,神の国の良い便りを告げながら,町々村々を巡られた.十二使徒も彼に同行していた.さらに,かつて悪霊や病気から解放された婦人たち,すなわち七つの悪魔が去った*¹マグダラと言われるマリア…その他にも多くの婦人たちが自分たちの財産で彼らを助けていた.」
(注釈・ *¹ 前章に記された罪の女とも考えられる.するとヨハネが記すマルタとラザロの妹マリアと同一人物となる.)
*² 中近東の人々は,腰掛けのようなものの上に座り,足を横に出して食べる.部屋に入る前には履物をとるので,素足である.主人は来客の頭に油をぬる習慣であった.
*³ ブルガタ(ラテン語)訳では「彼女が入ってきてから」となっているが,テキストの訂正でまちがいである.
*⁴ふつうは「彼女が多く愛したから,その多くの罪がゆるされた」と訳す.
* * *
第2パラグラフのあとの3つの訳注:
①新約聖書・マテオによる聖福音書:第8章10節(太字部分)(1-17節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 8:10 (8:1-17)
らい病人の治癒(8・1-4)
『*¹イエズスが山を下られると,多くの人々が後について来た.そのとき一人のらい病人がきてひれ伏し,「主よ,あなたがそうしようと望まれるなら,私を治してください」と言った.イエズスは手を伸ばして触れ,「私は望む.治れ」と言われた.するとすぐらい病は治った.
*²イエズスは,「だれにも言わぬように,口を慎め.ただ,司祭のところに行って自分を見せ,その回復の*³証拠としてモーゼが命じたささげ物をせよ」と言われた.』
(注釈)
*¹ 1-4節 白らいは,小アジアにおいてもっとも恐ろしい悲惨な皮膚病で,いまもまだパレスチナに相当ある.
*² モーゼのおきてでは(〈旧約〉レビ14・2),治ったら病人はまた社会に受け入れられる前に,司祭たちのわたす回復証明書を受けねばならなかった.
*³「証拠として」には,二つの解釈がある.その一つ,「エルサレムの司祭にとって,らい病人さえも治す人が現れたという証拠になる」.もう一つ,「この場合のささげ物は,らい病が治った証拠である」.
百夫長の下男(8・5-13)
『イエズスがカファルナウムに入られると,一人の百夫長が来て,「主よ,私の下男が家で寝ています.中風で大変苦しんでいます」と言った.イエズスは「私が行って治そう」と言われた.
百夫長は,「主よ,私はあなたを私の屋根の下に迎える値打のない人間です.あなたがただ一言おっしゃってくだされば,私の下男は治ります.私自身も権威の下についていますが,私の下にも兵卒がいます.そして,こちらの者に〈行け〉と言えば行き,あちらの者に〈来い〉と言えば来ます.また下男に〈これをしろ〉と言えばそうします」と答えた.
これを聞いて感心されたイエズスは,ついてきた人々に向かって,「まことに私は言う.イスラエルのだれにも,私はこれほどの信仰を見たことがない.
*¹私は言う.多くの人が東西から来て,アブラハム,イザク,ヤコブとともに天の国の宴席に入るが,*²国の子らは外の闇(やみ)に投げ出され,そこで泣いて歯ぎしりするだろう」と言われ,百夫長に向かって,「行け.あなたが信じたとおりになるように」と言われた.下男はそのとき病気が治った.』
(注釈)
*¹ 永遠の生命は,よく宴会にたとえられる.
*²「国の子」とはユダヤ人である.彼らは天の国に対して,異邦人よりも権利をもっていた.しかしキリストを信じないから永遠の宴席から追い出され,百夫長のように信仰厚(あつ)い異邦人がそれに代わるであろう.
ペトロの義理の母(8・14-17)
イエズスがペトロの家に来られた.ペトロの義理の母が熱病で寝ていた.それを見て,ペトロの義理の母の手に触れられると,熱は去り,彼女は起き上がってイエズスをもてなした.夕暮れ時になると人々が悪魔つきを大ぜい連れてきたので,一言で悪霊を追い出し,病人を治された.
こうして,預言者イザヤのことばは実現した,
「*¹彼はわれわれのわずらいを取り去り,われわれの病気を背負った」.
(注釈)*¹ 預言者イザヤがメシア(ヤベのしもべ)について言っているとおり,イエズスは罪の償いをみずから背負ったけれども,同時に罪の結果である病気の上に権威を有する(〈旧約〉イザヤ53・4).
* * *
②同・マテオによる聖福音書:第27章41節(太字部分)(27-54節を掲載予定)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:41 (27:27-54)
* * *
③新約聖書・使徒行録:第10,11章
THE ACTS OF THE APOSTLES – CHAPTERS 10 & 11
* * *
第3パラグラフの訳注:
①ヨハネ聖福音1章37-40節(太字部分)(35-42節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN - 1:37-40 (1:35-42)
最初の弟子(1・35-51)
『次の日,二人の弟子とともにそこに立っていたヨハネ(洗者)は,イエズスが通りかかられるのに目をとめ,「神の小羊を見よ」と言った.それを聞いた二人の弟子はイエズスについていった.
ふり向いて二人の弟子がついてくるのを見られたイエズスは,「何をしてほしいのか」と尋(たず)ねられた.二人は,「ラビ――これは〈先生〉の意味である――,あなたはどこに泊まっておられますか」と言った.イエズスは「見に来い」と言われた.二人はついていって,イエズスの泊まっておられる所を見,その日はそこに泊まった.時は午後四時ごろであった.
ヨハネのことばを聞いてイエズスについていった二人のうちの一人に,シモン・ペトロの兄弟アンドレアがいた.夜明けごろ,兄弟シモンに出会ったアンドレアは,「メシア ――キリストの意味――に会った」と言って,シモンをイエズスのところに連れてきた.イエズスは彼を見つめて,「あなたはヨハネの子シモンだが,*¹ケファ――岩(ペトロ)の意味――と呼ばれるだろう」と言われた.…』
(注釈)*¹ 新しい名をつけたのは,神からの新しい使命を与えるというしるしである.イエズスがのちにペトロに与える使命は,教会の土台,すなわちかしらである.
* * *
②使徒行録5章34-39節(太字部分)(12-42節を掲載予定)
THE ACTS OF THE APOSTLES – 5:34-39 (5:12-42)
* * *
(注)訳注の未完成の部分は,後から補充・追加いたします.
* * *
ブラームス “Brahms” の音楽がいかに魂の偉大さを証明するものであるかに触れたエレイソン・コメンツ(第221回)を読んだ若いブラジル人読者が,自分の内にくすぶっている心のほうが不熱心なカトリック教徒 “a lukewarm Catholic” の内にくすぶっている心よりはまだましなのではないかと尋(たず)ねてきました(マテオ聖福音書・12章20節参照)(訳注後記).この対比は無神論者の徳 “the virtue of the pagan” を強調し「生ぬるい,怠惰な」カトリック教徒たちの徳 “the virtue of “warm, lazy” Catholics” に疑問を呈(てい)するのが目的です.もちろん無神論者の徳 “pagan virtue” は称賛に値するもので,カトリック教の中途半端さ “Catholic lukewarmness” は非難に値しますが,その背後にはもっと大きな疑問が横たわっています.信心深いカトリック信徒 “a believing Catholic” であることはどれほど大切なことでしょうか? 信仰の徳 “the virtue of faith” はどれほど重要でしょうか? 永遠が長く続くと同じように信仰の徳は重要であり続けなければならない,というのがその疑問への答えです.
信仰が最高に価値のある美徳であることは4つの福音書を読めば明らかです.私たちの主イエズス・キリストが,肉体的あるいは霊的な治癒(ちゆ,=癒(いや)し)の奇跡を施された後で,その対象となった人に対し,例えばマグダラのマリア “Mary Magdalene” の場合と同じように(ルカ聖福音7章50節)(訳注後記),癒された人たちに治癒の奇跡をもたらしたのはその人たちの持つ信仰なのだ,とどれほど繰り返し語っておられることでしょうか? しかも聖書はこのことと同じように,称賛に値する信仰は単なる宗教についての系統立った知識よりはるかに深い意味を持つものだということも明らかにしています.例えば,ローマの百夫長(百人隊長)たち “Roman centurions” は当時の真の宗教たる旧約聖書についての知識はほとんど何も持ち合わせていなかったと思われます.にもかかわらず私たちの主イエズス・キリストは,その中のひとりについて,イスラエル(人)の中に彼ほどの大きな信仰を持った人を見たことがない(マテオ聖福音8章10節)と仰せられました.また,もうひとりについては,宗教的な専門家たちが嘲笑(あざわら)った十字架上のイエズスを神の御子と認めたし(マテオ聖福音27章41節),さらに三人目のコルネリウス(訳注・ “Cornelius” .歩兵隊「イタリア」の百人隊長)は真のカトリック教会に入ることになるすべての異教徒のため先駆者として道を切り開きました(使徒行録10,11章)(訳注後記).こうした無神論者の百人隊長たちは,教会の司祭,書士たちや古代人が持たなかった,あるいはかつては持っていながらすでに失ってしまった何を持っていたのでしょうか?
この地上のあらゆる人にとって,人生の始めから終わりまで,無神論者であろうと非無神論者であろうと “pagans and non-pagans” みな一様に,究極的にはすべて神から来るさまざまな善い物事と人間の邪悪さから来るさまざまな悪い物事との相克(そうこく)に絶えず直面します.だが悪人 “wicked men” ははっきり目立つ一方で神御自身は目に見えません.だから善を信じないとか神の存在さえも信じないというのはよくあることです.だが善良な心の持ち主 “men of good heart” は人の善良さを信じる一方で,絶対的ではなくても相対的に悪を割り引いて考えます.それに対し,邪悪な心の持ち主 “men bad of heart” は自分の周りのあらゆる善を軽視します.ところで,どちらの人間も明確な宗教の知識を持ち合わせていないとしても,前述の百夫長のように,善良な心の持ち主は宗教に出会うや否やすぐにそれに気付き理解するのに反して,悪い心の持ち主は多かれ少なかれそれを軽蔑(けいべつ)するものです.かくして純真なアンドレアとヨハネは救世主をすぐに理解しましたが(ヨハネ聖福音1章37-40節),教養あるガマリエル(訳注・ “Gamaliel”.律法学士.)にはかなり多くの時間と説得力が必要でした(使徒行録5章34-39節)(訳注後記).ここで別の言い方をしましょう.明確で意図的な信仰の徳は人の善良性およびその背後に神が存在しておられるあらゆる(善良な)もの(訳注・善良性は神の性質そのものである.)に対する潜在的な信頼,すなわち誤った教理に出会えば崩れたり,例えば醜聞(スキャンダル)に直面すれば揺らいでしまうような信頼と裏腹(隣り合わせ)だということです.(原文 “…that at the heart of the explicit and knowing virtue of faith lies an implicit trust in the goodness of life and in whatever Being lies behind it, a trust that can be undermined by false doctrine or shaken for instance by scandal”. )
ブラームスの場合に戻ると疑問は次のようになります.彼は少なくとも人の善良さとその背後に存在しておられる神の善良性 “the goodness of life and of the Being behind it” に対してこの潜在的な信頼を持っていたのでしょうか? その答えは疑いなく否です.なぜなら彼は人生の後半すべてを当時の音楽の都,カトリック信仰の都ウィーン(訳注・原文 “…what was then the capital city of music, Catholic Vienna.”,オーストリアの首都.)で過ごしたからです.そこで彼の音楽の美しさに触れた数えきれないほど多くの友人や教会の司祭たちさえもが彼にその天職が生み出す美とウィーンの宗教の実践を明示的に達成するよう促(うなが)したはずですが,彼はそうした訴えをすべて拒(こば)んだに違いありません.したがってブラームスが自分の霊魂を救わなかった可能性が極めて高いと思われるのですが…それは神のみぞ知るです.
それでもなお,私たちは神がブラームスの音楽をお与えくださったことに感謝します.聖アウグスティヌス “St. Augustine” が見事に言い表わしたように,「あらゆる真実は私たちカトリック信徒に属する」のです.あらゆる美もまた然(しか)りです(原文 “ “All truth belongs to us Catholics.” Likewise all beauty,…” ),たとえ無神論者の手によって創作されたものであっても!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第12章20節(太字部分)(12章全部を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 12:20 (12:1-50)
麦の穂と安息日(12・1-8)
『そのころの安息日に,イエズスは麦畑を通られた.
弟子たちは空腹だったので,麦の穂をつんで食べ始めた.するとファリザイ人がこれを見て,「あなたの弟子は*¹安息日(あんそくじつ)にしてはならぬことをしています」と言ったので,イエズスは答えられた,「ダヴィドが空腹だったとき供の者と何をしたかあなたたちは読んだことがないのか.彼は神の家に入って,司祭以外の者は彼もまた供のものも食べてはならぬ*²供えのパンを食べた.
*³また,安息日に司祭たちが神殿で安息を破っても罪にはならぬと律法に記してあるのも読んだことはないのか.私はいう,神殿よりも偉大な者がここにいる.
〈*⁴私が望むのはあわれみであって,いけにえではない〉とはどういう意味かを知っていれば,罪のない人をとがめることはしなかったであろう.実に,人の子(=神の子イエズス)は安息日の主である」.』
(注釈)
*¹ ファリザイ人は,穂を摘むことさえ刈り入れと同じように考えていたので,律法で禁じられている仕事だと言った(〈旧約〉脱出の書34・21).
*²〈旧約〉レビ24・5-9,サムエル(上)21・5-6参照.
*³ 燔祭をささげるにあたり,司祭はいけにえの獣を殺し,あるいは火を燃やすなどの行いをするが,これは安息日を犯すことにはならぬ.
*⁴〈旧約〉ホゼア6・6参照.
手なえの人(12・9-13)
『イエズスがここを去って彼らの会堂に入られると,*¹片手のなえた人がいた.人々はイエズスを訴えようとして,「安息日に病気を治してもいいのですか」と尋(たず)ねた.*²イエズスは彼らに答えられた,「一頭の羊をもっている人がいるとする,その羊が安息日に穴に落ち引き上げないでいるだろうか.人間は羊よりもはるかに優れたものである.だから安息日に善を行うのはよいことだ」.
またその人に向かい,「手を伸ばせ」と言われた.その人が手を伸ばすともう一方の手と同じように治った.』
(注釈)
*¹ ヒエロニムスの伝えるところによると,この手なえの男は左官だった.
*² 安息日に善業をするなと言うのではない.一頭の獣の命を救うことがゆるされるなら,人の命を助けることは当然ゆるされているはずである.
こういう対人論証は,ユダヤの学者たちがよく使っていた方法である.
イエズスの柔和(12・14-21)
『ファリザイ人は出ていって,イエズスを亡き者にする手段について相談した.それを知ったイエズスはその地方を去っていかれた.
多くの人がイエズスについてきたので,イエズスはその人たちをみな治し,そして,このことを人に知らせるなと戒められた.
こうして,*¹預言者イザヤの預言は実現した,
「*²私(=神)の選んだしもべ(=イエズス),私の喜びとする愛する者,私は彼の上に霊をおこう.
彼は異邦人に*³まことの信仰を告げる.
彼は争いもせず叫びもせぬ.だれも大路でその声を聞かぬ.
彼は傷んだ葦(あし)も折らず,煙(けむ)る灯心も消さぬ,まことの信仰を勝利に導くまでは.
異邦人も彼の名に希望をかける」.』
(注釈)
*¹ イザヤの預言した「ヤベのしもべ」の謙遜と慎みを,イエズスは示された.
*² 18-21節 〈旧約〉イザヤの書42・1-4参照.
*³ 「まことの信仰」とは,ヘブライ語の「正義」の現代語訳である.
このことばは,神と人間の関係を指し示し神の権利を教える.
神の権利は,天の示しとまことの信仰によってあらわされる.
盲人で唖の悪魔つき(12・22-32)
『そのとき,盲人で唖の悪魔つきが連れ出されたので,イエズスはそれを治された.すると唖は話し目は見えるようになった.人々は驚いて,「この人は*¹ダヴィドの子ではなかろうか」と言い合った.
これをきいたファリザイ人は,「あの人が悪魔を追い払うのは,ただ悪魔のかしら*²ベルゼブルがついているからだ」と言った.
イエズスは彼らの考えを見抜きこう言われた,「分かれ争う国は滅び,分かれ争う町や家もながらえない.もしサタンがサタンを追い払うのなら,みずから分かれ争うことになる.それなら,どうしてその国がながらえよう.*³私がベルゼブルによって悪魔を追い出すなら,あなたたちの*⁴弟子は何によって追い出すのか.こうして彼らがあなたたちをさばく者となる.
ところで私が神の霊によって悪魔を追い出すなら,神の国は到来しているのである.
また強い人を先に縛っておかぬと,強い人の家に入ってその家財を奪えるものではない.縛っておけばその家のものを奪うことができる.
私の味方でない人は私に背き,私とともに集めぬ者は散らしてしまう.
私は言う,*⁵人間のどんな罪も冒瀆(ぼうとく)もゆるされるが,霊に対する冒瀆はゆるされぬ.ことばで人の子に逆らう者はゆるされるが,ことばで聖霊に逆らう者はこの世においても来世においてもゆるされることはない.』
(注釈)
*¹ マテオ9・27参照.メシア(救世主)を指すことば.
*² ブルガタ(ラテン語)訳,「ベルゼブブ」.
*³ ヘブライ人の中にも悪魔をはらう人がいた.それは〈新約〉使徒行録19・12以下にも書かれている.
*⁴「弟子たち」,「子たち」の訳もある.
*⁵ 31-32節 聖霊に反する罪とは,意識的に頑固に真理を拒むこと,イエズスの業を悪魔の業とすることである.こういう人の罪はゆるされない.
ファリザイ人の悪意(12・33-37)
『実がよければその木もよいとされ,実が悪ければその木も悪いとされる.木はその実でわかる.
まむし族の人間よ,悪者のあなたたちにどうしてよいことが言えよう.
口は心に満ちたものを語る.よい人はよいものをよい倉から出し,悪い人は悪いものを悪い倉から出す.
私は言う.人が話した*¹むだごとは,すべてさばきの日にさばかれるであろう.人は自分のことばによって義とされ,また自分のことばによって罪とされる」.』
(注釈)
*¹ 直訳は「根拠のない,客観性のない悪口」.単にむなしいむだごとだけではない.
ヨナのしるし(12・38-42)
『そのとき,ある律法学士とファリザイ人がイエズスに言った,「先生,私たちはあなたがなさる*¹しるしを見たいと思います」.
イエズスはこう答えられた,「この悪いよこしまな代はしるしを望むが,預言者ヨナのしるし以外のしるしは与えられぬ.すなわち*²ヨナは三日三晩海の怪物の腹の中にいたが,同様に人の子は三日三晩地の中にいる.
*³さばきの日,ニネヴェの人は今の代の人とともに立ち上がり,今の代を罪に定めるだろう.彼らはヨナのことばを聞いて悔い改めたからである.しかもヨナにまさる者がここにいる.
さばきの日,*⁴南の女王は今の代の人とともに立ち上がり,今の代を罪に定めるだろう.女王はソロモンの知恵を聞こうとして地の果てから来たからである.しかもソロモンにまさる者がここにいる.』
(注釈)
*¹ イエズスが主張する権利を証明する不思議な奇跡のこと.
*²〈旧約〉ヨナの書2・1参照.
*³ ニネヴェの人々葉、改心を説くヨナの説教を信じた.ユダヤ人たちは,これほどの奇跡を見てもイエズスのことばを信じようとしない.
*⁴南の女王とは,パレスチナの南にあるサバの国の女王である(〈旧約〉列王(上)10・1-10).
悪霊(12・43-45)
『*¹汚れた霊は人から出るとき,休みを求めて荒れ地をさまよっても休める所を見つけない.そこで,〈出てきた元の家に帰ろう〉と帰ってみると,その家は空いていて掃(は)き清められ,整えられているので,自分より悪い七つの霊を連れにいき,帰ってきてそこに住む.そうなるとその人の後の状態は前よりも悪くなる.悪いこの代もまたそれと同じことである」.』
(注釈)
*¹ 43-45節 ユダヤ人の将来を暗示する.彼らは洗者ヨハネとイエズスの宣教によっていくらか悔い改める様子を見せたが,のちに,不信仰のまま残り,悪魔の鎖にしめつけられた.
イエズスの家族(12・46-50)
『イエズスがなお群衆に話しておられると,彼の母と*¹兄弟たちが話しかけようとして外に来た.(*²ある人が「ほら,あなたの母と兄弟が話そうとして外に立っています」と言った.)
*³イエズスはその人に向かい,「私の母とはだれのことか,兄弟とはだれのことか」と仰せられ,弟子たちのほうを手で指し示して,「ごらん,これが私の母,私の兄弟である.天にまします父のみ旨を果たす人はすべて私の兄弟,私の姉妹,私の母である」と仰せられた.』
(注釈)
*¹ 中近東の用語では,従兄弟,近い親戚をも「兄弟」と言う.
*² 主な古写本,権威ある翻訳本にないこの節を,マルコとルカにまねた後世の書き入れと考える聖書学者が多い.
*³ イエズスの教えを受け入れる誠実さがないならば,肉親関係といえども神の国の前に無価値である.
イエズスの母としてマリアの権威は偉大であるが神のみことばを聞くにあたって,彼女の誠実さはそれよりも偉大である.
* * *
第2パラグラフ4行目の訳注:
新約聖書・ルカによる聖福音書:第7章50節(太字部分)(36節から掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE – 7:50 (7:36-50)
罪の女(7・36-50)
『あるファリザイ人がともに食事をしてくれるようにイエズスを招いたので,イエズスはその家に行き,食卓につかれた.
*¹イエズスがファリザイ人の家で食卓につかれたのを知って,その町で罪女(ざいじょ)とうわさのある女が,香油をいれた壷(つぼ)を持って入ってきた.その女は泣きながら,*²イエズスのうしろ,その御足の近くに立ち,涙で御足をぬらし,自分の髪の毛でそれをぬぐい,御足にくちづけして香油をぬった.
これを見た招待主のファリザイ人は心の中で,「この人がもし預言者なら,自分に触れた女が何者で,どんな人間かを知っているはずだ.この女は罪人なのに」と考えた.
そのときイエズスは,「シモン,私はあなたに言いたいことがある」と言われた.彼が,「先生,何ですか」と言うと,「ある貸し主に二人の負債人がいて,一人は五百デナリオ,一人は五十デナリオの負債があった.返すあてがなかったので,貸し主は二人をゆるした.すると,この二人のうちどちらがより多くその人を愛するだろうか」と言われた.シモンは,「多くゆるしてもらったほうだろうと思います」と答えた.イエズスは「その判断はよろしい」と言われた.
それから女をふりかえり,シモンに向かい,
「この婦人をごらん.あなたは私が入ってきても,足に水をそそいでくれなかったのに,この人は私の足を涙でぬらし,自分の髪の毛でふいてくれた.あなたはくちづけしなかったけれど,この人は*³私が入ったときから,たえず私の足にくちづけした.あなたは私の頭に油をぬらなかったけれど,この人は足に香油をぬってくれた.
だから私は言う.*⁴この人の罪,その多くの罪はゆるされた.多く愛したのだから.少しゆるされる人は,またすこししか愛さない」と言われた.
それから女に向かい,「あなたの罪はゆるされた」と言われたので,列席の人は,「罪さえもゆるすこの人は何者か」と心の中で思った.
イエズスは女に向かい,「あなたの信仰があなたを救った.安心して行きなさい」と言われた.』
(注釈)
*¹ この話を,マテオ福音(26・6-13),マルコ福音(14・3-9),ヨハネ福音(12・1-8)の記すベタニアの出来事と混同してはならない.
ルカは慎みをもって,その女の名を記すことをさけているが昔の典礼ではあったように次のルカ福音(8・2)のマグダラのマリアのことであると考えても福音書にそむくとはいえない.
→ ルカ聖福音書8・1-3
「(…イエズスは,説教し,神の国の良い便りを告げながら,町々村々を巡られた.十二使徒も彼に同行していた.さらに,かつて悪霊や病気から解放された婦人たち,すなわち七つの悪魔が去った*¹マグダラと言われるマリア…その他にも多くの婦人たちが自分たちの財産で彼らを助けていた.」
(注釈・ *¹ 前章に記された罪の女とも考えられる.するとヨハネが記すマルタとラザロの妹マリアと同一人物となる.)
*² 中近東の人々は,腰掛けのようなものの上に座り,足を横に出して食べる.部屋に入る前には履物をとるので,素足である.主人は来客の頭に油をぬる習慣であった.
*³ ブルガタ(ラテン語)訳では「彼女が入ってきてから」となっているが,テキストの訂正でまちがいである.
*⁴ふつうは「彼女が多く愛したから,その多くの罪がゆるされた」と訳す.
* * *
第2パラグラフのあとの3つの訳注:
①新約聖書・マテオによる聖福音書:第8章10節(太字部分)(1-17節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 8:10 (8:1-17)
らい病人の治癒(8・1-4)
『*¹イエズスが山を下られると,多くの人々が後について来た.そのとき一人のらい病人がきてひれ伏し,「主よ,あなたがそうしようと望まれるなら,私を治してください」と言った.イエズスは手を伸ばして触れ,「私は望む.治れ」と言われた.するとすぐらい病は治った.
*²イエズスは,「だれにも言わぬように,口を慎め.ただ,司祭のところに行って自分を見せ,その回復の*³証拠としてモーゼが命じたささげ物をせよ」と言われた.』
(注釈)
*¹ 1-4節 白らいは,小アジアにおいてもっとも恐ろしい悲惨な皮膚病で,いまもまだパレスチナに相当ある.
*² モーゼのおきてでは(〈旧約〉レビ14・2),治ったら病人はまた社会に受け入れられる前に,司祭たちのわたす回復証明書を受けねばならなかった.
*³「証拠として」には,二つの解釈がある.その一つ,「エルサレムの司祭にとって,らい病人さえも治す人が現れたという証拠になる」.もう一つ,「この場合のささげ物は,らい病が治った証拠である」.
百夫長の下男(8・5-13)
『イエズスがカファルナウムに入られると,一人の百夫長が来て,「主よ,私の下男が家で寝ています.中風で大変苦しんでいます」と言った.イエズスは「私が行って治そう」と言われた.
百夫長は,「主よ,私はあなたを私の屋根の下に迎える値打のない人間です.あなたがただ一言おっしゃってくだされば,私の下男は治ります.私自身も権威の下についていますが,私の下にも兵卒がいます.そして,こちらの者に〈行け〉と言えば行き,あちらの者に〈来い〉と言えば来ます.また下男に〈これをしろ〉と言えばそうします」と答えた.
これを聞いて感心されたイエズスは,ついてきた人々に向かって,「まことに私は言う.イスラエルのだれにも,私はこれほどの信仰を見たことがない.
*¹私は言う.多くの人が東西から来て,アブラハム,イザク,ヤコブとともに天の国の宴席に入るが,*²国の子らは外の闇(やみ)に投げ出され,そこで泣いて歯ぎしりするだろう」と言われ,百夫長に向かって,「行け.あなたが信じたとおりになるように」と言われた.下男はそのとき病気が治った.』
(注釈)
*¹ 永遠の生命は,よく宴会にたとえられる.
*²「国の子」とはユダヤ人である.彼らは天の国に対して,異邦人よりも権利をもっていた.しかしキリストを信じないから永遠の宴席から追い出され,百夫長のように信仰厚(あつ)い異邦人がそれに代わるであろう.
ペトロの義理の母(8・14-17)
イエズスがペトロの家に来られた.ペトロの義理の母が熱病で寝ていた.それを見て,ペトロの義理の母の手に触れられると,熱は去り,彼女は起き上がってイエズスをもてなした.夕暮れ時になると人々が悪魔つきを大ぜい連れてきたので,一言で悪霊を追い出し,病人を治された.
こうして,預言者イザヤのことばは実現した,
「*¹彼はわれわれのわずらいを取り去り,われわれの病気を背負った」.
(注釈)*¹ 預言者イザヤがメシア(ヤベのしもべ)について言っているとおり,イエズスは罪の償いをみずから背負ったけれども,同時に罪の結果である病気の上に権威を有する(〈旧約〉イザヤ53・4).
* * *
②同・マテオによる聖福音書:第27章41節(太字部分)(27-54節を掲載予定)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:41 (27:27-54)
* * *
③新約聖書・使徒行録:第10,11章
THE ACTS OF THE APOSTLES – CHAPTERS 10 & 11
* * *
第3パラグラフの訳注:
①ヨハネ聖福音1章37-40節(太字部分)(35-42節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN - 1:37-40 (1:35-42)
最初の弟子(1・35-51)
『次の日,二人の弟子とともにそこに立っていたヨハネ(洗者)は,イエズスが通りかかられるのに目をとめ,「神の小羊を見よ」と言った.それを聞いた二人の弟子はイエズスについていった.
ふり向いて二人の弟子がついてくるのを見られたイエズスは,「何をしてほしいのか」と尋(たず)ねられた.二人は,「ラビ――これは〈先生〉の意味である――,あなたはどこに泊まっておられますか」と言った.イエズスは「見に来い」と言われた.二人はついていって,イエズスの泊まっておられる所を見,その日はそこに泊まった.時は午後四時ごろであった.
ヨハネのことばを聞いてイエズスについていった二人のうちの一人に,シモン・ペトロの兄弟アンドレアがいた.夜明けごろ,兄弟シモンに出会ったアンドレアは,「メシア ――キリストの意味――に会った」と言って,シモンをイエズスのところに連れてきた.イエズスは彼を見つめて,「あなたはヨハネの子シモンだが,*¹ケファ――岩(ペトロ)の意味――と呼ばれるだろう」と言われた.…』
(注釈)*¹ 新しい名をつけたのは,神からの新しい使命を与えるというしるしである.イエズスがのちにペトロに与える使命は,教会の土台,すなわちかしらである.
* * *
②使徒行録5章34-39節(太字部分)(12-42節を掲載予定)
THE ACTS OF THE APOSTLES – 5:34-39 (5:12-42)
* * *
(注)訳注の未完成の部分は,後から補充・追加いたします.
* * *
2011年10月30日日曜日
先祖代々のプライド
エレイソン・コメンツ 第222回 (2011年10月15日)
数か月前に出版されたイエズス(キリスト)の生涯に関する二作目の著書の中で教皇ベネディクト16世は,ユダヤ人たちはもうこれ以上,神殺し,すなわち神の殺害 (原文・ “deicide, i.e. the killing of God” )の責めを負わされるべきでないとジャーナリストたちに早合点させるような所見を述べられました.もっと悪いことに,5月17日には米国司教会議の世界教会(又は〈世界〉普遍教会・キリスト教会一致運動)および異宗教関係問題事務局の事務局長 (原文・ “the executive director of the US Bishops’ Conference’s Secretariat for Ecumenical and Interreligious Affairs” ) が,歴史上のいつの時代においてもユダヤ人たちを神殺しの罪で告発すれば必ずカトリック教会との交わりが断たれることになると述べました.今日,多くの人々が信じたいと思っていることに反して,いかに手短な形であろうと,イエズスの司法殺人について真実のカトリック教会が常に何を教えてきたかを今こそ思い起こす時です.
まず第一に,イエズスの殺害は本当に「神殺し “deicide” 」,すなわち神の殺害だったのです.なぜならイエズスは神の三つの位格のひとつを備えておられたのであり,神性に加えて人性をもお取りになった方だったからです(原文・ “…Jesus was the one of the three divine Persons who in addition to his divine nature had taken a human nature”. )十字架の上で殺されたのは何だったのでしょうか? それはただイエズスの人性(訳注:=人としてのイエズスの身体)だけです.だが十字架の上でイエズスの人性において殺された方はどなた(誰)だったのでしょうか? それは神の第二の位格,すなわち神に他なりません(原文・ “…the second divine Person, i.e. God”. ).つまり神が殺されたのであり,神殺しの罪が犯されたのです.(訳注後記)
第二に,イエズスは私たち罪深い人間をすべてその罪から救うために十字架の上で死なれました.その意味で,あらゆる人間がイエズスの死の目的でしたし今でもそうです.だが,ただユダヤ人(指導者と民衆)だけがその神殺しの第一の主要な仲介者だったのです.なぜなら,複数の福音書から明らかなように,もっとも関わりが強かった異邦人ポンツィオ・ピラト(訳注・原文・ “Pontius Pilate”.当時ユダヤを支配していたローマの総督)は,ユダヤ人指導者たちがユダヤ人民衆をたきつけてイエズスを十字架につけよと強く求めるよう仕向けなければ,決してイエズスに十字架刑を宣告することはなかったからです(マテオ聖福音書・27章20節参照)(訳注後記).確かに聖トマス・アクィナスは学識を持った指導者たちは無学な民衆よりも罪深い,と言っていますが(神学大全・第3章47,5)(原文・ “…says St Thomas Aquinas (Summa III, 47, 5)” ),彼らはみな一斉(いっせい)に叫びイエズスの血が彼ら自身とその子孫の上にしたたるよう求めたのです(マテオ27章25節)(原文・ “…they all cried together for Jesus’ blood to come down upon them and their children (Mt. XXVII, 25)”. )(訳注後記).
第三に,少なくとも教皇レオ13世 “Pope Leo XIII” はイエズスを殺せと強く求めた当時のユダヤ人たちと現代のユダヤ人集合体との間に実際の連帯が存在すると考えました.彼はイエズスの聖心(みこころ)に人類を奉献する行為 “Act of Consecration of the Human Race to the Sacred Heart of Jesus” において,19世紀末以降ずっと,神が「かつて神の選民だったその民族の子孫に対し慈悲の御目を向けて下さるよう,すなわち,昔は救世主の御血が自分たちにかかるようにと叫んだユダヤ人に,今は贖罪(しょくざい)と生命の洗盤(すなわち洗浄)(原文・ “a laver (i.e. washing)” ) が彼らに下りてくるよう」カトリック教会全体に祈るべく仕向けてこなかったでしょうか? (訳注後記)
だが,数世紀にわたりユダヤ人の間に存在するそのような連続性を感知したのは決して教皇レオ13世だけではありません.今日,彼らユダヤ人自身は旧約聖書の神により与えられた権利を根拠にパレスチナの土地に対する自らの所有権を主張しているのではないでしょうか? 今までに地球上に彼ら以上に誇らしげに自らを昔から全く同一のものとして識別している(原文・ “…proudly self-identifying as identical down the ages” )民族国家(原文・ “a race-people-nation” )が他にあるでしょうか? そもそも神により救世主を抱くよう育てられながら,悲しいかな,その救世主が現れたとき彼らユダヤ人は,集団的に,彼を認めることを拒否したのです.また集団的に,そこには常にいくつかの高貴な例外があるという意味で,彼らユダヤ人はその拒否に忠節を守ってきたのであり,それによって彼らはアブラハム,モーゼ,旧約聖書 “Abraham and Moses and the Old Testament” の宗教からアンナ,カイファ,タルムード “Annas, Caiphas and the Talmud” の宗教へと自らの宗教を変えたのです(訳注後記).悲劇的なことに,まさに神から受けたメシア信仰の(救世主的な)教えそのものが彼らユダヤ人が偽の救世主だと固執する一人の人(訳注・=イエズス・キリスト)を拒否するよう追い立てているのです.カトリック教会は常に彼らユダヤ人がこの世の終りに改心するだろうと教えてきましたが(ローマ人への手紙・11章26-27節参照)(訳注後記),彼らは実際にそうするときまで,集団的に真の救世主の敵として行動し続けることを選択する運命にあるようです.教皇がそのような古代から続く諸真理を排除することができるものでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
神の三つの位格のひとつ “the one of the three divine Persons” について.
“聖三位”,"The Holy Trinity" (英),"Trinitas Sanctus" (ラテン語)
神の三つの位格を表わす聖書からの引用例:
・(新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第1章1-18節)
『はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった.
みことばははじめに神とともにあり,万物はみことばによって創られた.創られた物のうちに,一つとしてみことばによらずに創られたものはない.
みことばに生命があり,生命は人の光であった.光はやみに輝いたがやみはそれを悟らなかった(それに勝てなかった).
…みことばは肉体となって,私たちのうちに住まわれた.私たちはその栄光を見た.それは,御独り子として御父から受けられた栄光であって,恩寵と真理に満ちておられた.
…そうだ,私たちはそのみちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けた.なぜなら,律法はモーゼを通じて与えられたが,恩寵と真理はイエズス・キリストによって私たちの上に来たからである.
神を見た人は一人もいない.御父のふところにまします御独り子の神がこれを示された.』
(注)「みことば」とは「父なる神の御独り子イエズス・キリスト」を指している.
(注釈)
福音史家ヨハネは,みことばの永続性を主張し,時が始まる先に,みことばは,父なる神と同じ神性を有しながら異なる位格をもつものとして,存在していたという.
みことばは三位一体の第二の位格である.「みことば」といわれる理由は,父なる神の内的,本質的みことばだからである(創世の書〈旧約〉1章1-5節参照).
* * *
・(新約聖書・マテオによる聖福音書:第28章16-20節)
『(イエズスの御復活後)ガリラヤに行った十一人の弟子は,イエズスが命令された山に登り,イエズスに会ってひれ伏した.けれども中には疑う者もあった.
イエズスは彼らに近づいて言われた,
「私には天と地のいっさいの権威が与えられている.行け,諸国の民に教え,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授け,*私が命じたことをすべて守るように教えよ.私は世の終りまで常におまえたちとともにいる」.』
(注釈)
*キリスト紀元以後の歴史家が,すでに実現したと認めている尊い約束である.キリストの教会において生き,行い,勝利を得るのは,キリスト・イエズスである.
* * *
・(新約聖書・使徒パウロのコリント人への第二の手紙:第13章13節)
『…主イエズス・キリストの恩寵,神の愛,聖霊の交わりが一同とともにあるように.』
* * *
第3パラグラフの最初の訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第27章20節(太字部分)(15-26節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:20 (27:15-26)
第3パラグラフの2つ目の訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第27章25節(太字部分)(上記掲載部分に含まれる)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:25
『祝日のたびに総督は民の望む囚人を一人赦免するのを例年のしきたりとしていた.そのころバラバという有名な囚人が獄(ごく)に入っていた.
民が集まったときピラトは聞いた,「おまえたちはだれの赦免を望むのか,バラバなのか,キリストと称するイエズスなのか」.ピラトはイエズスが訴えられたのはねたみのためだと知っていた.
ピラトがまだ法廷にいるときその妻から使者が来て伝言を伝えた,「あの義人(=イエズス)にかかわりをもたないでください.私は今日夢の中であの人を見,たいそう苦しい思いをしました」と.
司祭長と長老は,バラバをゆるしイエズスを殺すよう民をそそのかした.だから総督が「二人のうちだれをゆるしてほしいのか」と聞いたとき,彼らは「バラバを」と答えた.
ピラトは「ではキリストと称するイエズスをどうしたいのか」と聞いた.民は「十字架につけよ」と叫びたてるばかりであった.
自分の努力も実らず,むしろ騒動の起こらんとする気配を察したピラトは,水を取って民の前で手を洗い,「この男の血について私には責任がない.おまえたちで責任を取れ」と言った.
民は「その血はわれわれとわれわれの子孫の上にかかってよい」と答えた.
ピラトはバラバをゆるし,イエズスをむち打たせ,十字架につけるために引きわたした.』
* * *
第4パラグラフの訳注:
洗盤 “a laver (i.e. washing)” について.
または水盤とも言う.
ユダヤ教の祭司が祭式に供せられる物の洗浄や手足を洗い清める(沐浴・洗手・洗足)ために用いた青銅(又は真鍮〈しんちゅう〉)の大きなたらいのこと.
* * *
第5パラグラフのはじめの訳注:
・アブラハム “Abraham” …イスラエル民族(ユダヤ人・ヘブライ人)の始祖.名はヘブライ語で,「私はおまえを多くの民(諸国民)の父とする」と,神がアブラムの名をアブラハムと改称したときに仰せられたことに由来する.(旧約聖書・創世の書:15,17,21,22章参照)
・モーゼ “Moses” …紀元前13世紀のイスラエル(ヘブライ)の預言者.エジプトの奴隷状態だったイスラエル民族を解放し,彼らを率いてエジプト脱出からカナンの地へと導いた.途中シナイ山において神から「十戒」を含む律法を授けられた.
・旧約聖書 “the Old Testament” …本来ユダヤ教の正典で,正式の名は「律法・預言書と諸書」.
「旧約」とは神が預言者モーゼを通して人類に与えた契約を意味する.
キリスト教の立場からの名称であり,「新約」と区別して使われる.
①律法〈モーゼ五書〉…歴史書(創世書・脱出〈出エジプト〉書・レビ書・荒野〈民数〉書,第二法〈申命〉書など)
②預言書…(イザヤ書・エレミア書など)
③諸書…教訓書(詩篇・格言書・ヨブ書など)
・アンナ “Annas” …イエズス・キリストの公生活当時(ユダヤ教の大司祭経験者として)非常な権力を有し,ユダヤ教のかしらとして考えられていた.キリストの受難当時に大司祭だったカヤファの義父.イエズスの殺害をカヤファらと策謀した.
・カイファ(カヤファ) “Caiphas” …アンナの継子.
(新約聖書・ルカ聖福音書3:2,ヨハネ聖福音書11:49-53,18:13,14節参照)
・タルムード “the Talmud” …ヘブライ語で教訓,教義の意.前2世紀から5世紀までのユダヤ教ラビたちがおもにモーゼの律法を中心に行なった口伝,解説を集成したもので,ユダヤ教においては旧約聖書に続く聖典とされる.
…歴史的にもユダヤ精神,ユダヤ文化の精華であり,その生活の模範となり創造力の根源となっている.
(以上,フェデリコ・バルバロ神父訳聖書(講談社),ブリタニカ国際大百科事典,大辞泉,リーダーズ英和辞典,ジーニアス英和大辞典,ランダムハウス英和大辞典他を参照.)
* * *
第5パラグラフの2つ目の訳注:
使徒聖パウロによるローマ人への手紙:第11章26-27節(太字部分)(25-36節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS – 11:26-27 (11:25-36)
『兄弟たちよ,私はあなたたちが自分の知識に自負しないように,この奥義を知ってもらいたい.その奥義とはイスラエル(ユダヤ人)の幾分かがかたくなになったのは,異邦人が入ってその数が満ちるまでである.
こうして全イスラエルは救われるであろう.「シオンから解放者が出てヤコブから不敬を取り除く.それは私(=神)が彼ら(イスラエル)の罪を除くとき,彼らと交わす私の契約である」と書かれている.
福音についてはあなたたち(=異邦人)のためにイスラエルが敵にされ,選びについては先祖のためにイスラエルは愛されている(注・神の選民として).神の賜と召し出しは後悔のもとになるものではない.
あなたたちは前には神に不従順であり,今は彼ら(イスラエル)の不従順のために(神の)あわれみを受けたのであるが,彼ら(イスラエル)もあなたたち(異邦人)の受けたあわれみによって今は不従順な者となった.それは彼らもいつかあわれみを受けるためである.
こうして神は,すべての人にあわれみを現すために,すべての人を不従順に閉じ込められた.
ああ,神の富と上知と知識の深さよ,そのさばきは計り知れず,その道はきわめがたい.
「主の思いを知った者がいるか.だれがそのはかりごとの相談役であったか.先に神に与えて,のちにその報いを受けた者があったか」.
すべては神からであり,神によってであり,神のためである.神に代々に光栄あれ.アメン.』
(注)前後の部分(ローマ人への手紙第11章9-11章)(+〈注釈〉)参照.
* * *
数か月前に出版されたイエズス(キリスト)の生涯に関する二作目の著書の中で教皇ベネディクト16世は,ユダヤ人たちはもうこれ以上,神殺し,すなわち神の殺害 (原文・ “deicide, i.e. the killing of God” )の責めを負わされるべきでないとジャーナリストたちに早合点させるような所見を述べられました.もっと悪いことに,5月17日には米国司教会議の世界教会(又は〈世界〉普遍教会・キリスト教会一致運動)および異宗教関係問題事務局の事務局長 (原文・ “the executive director of the US Bishops’ Conference’s Secretariat for Ecumenical and Interreligious Affairs” ) が,歴史上のいつの時代においてもユダヤ人たちを神殺しの罪で告発すれば必ずカトリック教会との交わりが断たれることになると述べました.今日,多くの人々が信じたいと思っていることに反して,いかに手短な形であろうと,イエズスの司法殺人について真実のカトリック教会が常に何を教えてきたかを今こそ思い起こす時です.
まず第一に,イエズスの殺害は本当に「神殺し “deicide” 」,すなわち神の殺害だったのです.なぜならイエズスは神の三つの位格のひとつを備えておられたのであり,神性に加えて人性をもお取りになった方だったからです(原文・ “…Jesus was the one of the three divine Persons who in addition to his divine nature had taken a human nature”. )十字架の上で殺されたのは何だったのでしょうか? それはただイエズスの人性(訳注:=人としてのイエズスの身体)だけです.だが十字架の上でイエズスの人性において殺された方はどなた(誰)だったのでしょうか? それは神の第二の位格,すなわち神に他なりません(原文・ “…the second divine Person, i.e. God”. ).つまり神が殺されたのであり,神殺しの罪が犯されたのです.(訳注後記)
第二に,イエズスは私たち罪深い人間をすべてその罪から救うために十字架の上で死なれました.その意味で,あらゆる人間がイエズスの死の目的でしたし今でもそうです.だが,ただユダヤ人(指導者と民衆)だけがその神殺しの第一の主要な仲介者だったのです.なぜなら,複数の福音書から明らかなように,もっとも関わりが強かった異邦人ポンツィオ・ピラト(訳注・原文・ “Pontius Pilate”.当時ユダヤを支配していたローマの総督)は,ユダヤ人指導者たちがユダヤ人民衆をたきつけてイエズスを十字架につけよと強く求めるよう仕向けなければ,決してイエズスに十字架刑を宣告することはなかったからです(マテオ聖福音書・27章20節参照)(訳注後記).確かに聖トマス・アクィナスは学識を持った指導者たちは無学な民衆よりも罪深い,と言っていますが(神学大全・第3章47,5)(原文・ “…says St Thomas Aquinas (Summa III, 47, 5)” ),彼らはみな一斉(いっせい)に叫びイエズスの血が彼ら自身とその子孫の上にしたたるよう求めたのです(マテオ27章25節)(原文・ “…they all cried together for Jesus’ blood to come down upon them and their children (Mt. XXVII, 25)”. )(訳注後記).
第三に,少なくとも教皇レオ13世 “Pope Leo XIII” はイエズスを殺せと強く求めた当時のユダヤ人たちと現代のユダヤ人集合体との間に実際の連帯が存在すると考えました.彼はイエズスの聖心(みこころ)に人類を奉献する行為 “Act of Consecration of the Human Race to the Sacred Heart of Jesus” において,19世紀末以降ずっと,神が「かつて神の選民だったその民族の子孫に対し慈悲の御目を向けて下さるよう,すなわち,昔は救世主の御血が自分たちにかかるようにと叫んだユダヤ人に,今は贖罪(しょくざい)と生命の洗盤(すなわち洗浄)(原文・ “a laver (i.e. washing)” ) が彼らに下りてくるよう」カトリック教会全体に祈るべく仕向けてこなかったでしょうか? (訳注後記)
だが,数世紀にわたりユダヤ人の間に存在するそのような連続性を感知したのは決して教皇レオ13世だけではありません.今日,彼らユダヤ人自身は旧約聖書の神により与えられた権利を根拠にパレスチナの土地に対する自らの所有権を主張しているのではないでしょうか? 今までに地球上に彼ら以上に誇らしげに自らを昔から全く同一のものとして識別している(原文・ “…proudly self-identifying as identical down the ages” )民族国家(原文・ “a race-people-nation” )が他にあるでしょうか? そもそも神により救世主を抱くよう育てられながら,悲しいかな,その救世主が現れたとき彼らユダヤ人は,集団的に,彼を認めることを拒否したのです.また集団的に,そこには常にいくつかの高貴な例外があるという意味で,彼らユダヤ人はその拒否に忠節を守ってきたのであり,それによって彼らはアブラハム,モーゼ,旧約聖書 “Abraham and Moses and the Old Testament” の宗教からアンナ,カイファ,タルムード “Annas, Caiphas and the Talmud” の宗教へと自らの宗教を変えたのです(訳注後記).悲劇的なことに,まさに神から受けたメシア信仰の(救世主的な)教えそのものが彼らユダヤ人が偽の救世主だと固執する一人の人(訳注・=イエズス・キリスト)を拒否するよう追い立てているのです.カトリック教会は常に彼らユダヤ人がこの世の終りに改心するだろうと教えてきましたが(ローマ人への手紙・11章26-27節参照)(訳注後記),彼らは実際にそうするときまで,集団的に真の救世主の敵として行動し続けることを選択する運命にあるようです.教皇がそのような古代から続く諸真理を排除することができるものでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
神の三つの位格のひとつ “the one of the three divine Persons” について.
“聖三位”,"The Holy Trinity" (英),"Trinitas Sanctus" (ラテン語)
神の三つの位格を表わす聖書からの引用例:
・(新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第1章1-18節)
『はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった.
みことばははじめに神とともにあり,万物はみことばによって創られた.創られた物のうちに,一つとしてみことばによらずに創られたものはない.
みことばに生命があり,生命は人の光であった.光はやみに輝いたがやみはそれを悟らなかった(それに勝てなかった).
…みことばは肉体となって,私たちのうちに住まわれた.私たちはその栄光を見た.それは,御独り子として御父から受けられた栄光であって,恩寵と真理に満ちておられた.
…そうだ,私たちはそのみちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けた.なぜなら,律法はモーゼを通じて与えられたが,恩寵と真理はイエズス・キリストによって私たちの上に来たからである.
神を見た人は一人もいない.御父のふところにまします御独り子の神がこれを示された.』
(注)「みことば」とは「父なる神の御独り子イエズス・キリスト」を指している.
(注釈)
福音史家ヨハネは,みことばの永続性を主張し,時が始まる先に,みことばは,父なる神と同じ神性を有しながら異なる位格をもつものとして,存在していたという.
みことばは三位一体の第二の位格である.「みことば」といわれる理由は,父なる神の内的,本質的みことばだからである(創世の書〈旧約〉1章1-5節参照).
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・(新約聖書・マテオによる聖福音書:第28章16-20節)
『(イエズスの御復活後)ガリラヤに行った十一人の弟子は,イエズスが命令された山に登り,イエズスに会ってひれ伏した.けれども中には疑う者もあった.
イエズスは彼らに近づいて言われた,
「私には天と地のいっさいの権威が与えられている.行け,諸国の民に教え,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授け,*私が命じたことをすべて守るように教えよ.私は世の終りまで常におまえたちとともにいる」.』
(注釈)
*キリスト紀元以後の歴史家が,すでに実現したと認めている尊い約束である.キリストの教会において生き,行い,勝利を得るのは,キリスト・イエズスである.
* * *
・(新約聖書・使徒パウロのコリント人への第二の手紙:第13章13節)
『…主イエズス・キリストの恩寵,神の愛,聖霊の交わりが一同とともにあるように.』
* * *
第3パラグラフの最初の訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第27章20節(太字部分)(15-26節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:20 (27:15-26)
第3パラグラフの2つ目の訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第27章25節(太字部分)(上記掲載部分に含まれる)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:25
『祝日のたびに総督は民の望む囚人を一人赦免するのを例年のしきたりとしていた.そのころバラバという有名な囚人が獄(ごく)に入っていた.
民が集まったときピラトは聞いた,「おまえたちはだれの赦免を望むのか,バラバなのか,キリストと称するイエズスなのか」.ピラトはイエズスが訴えられたのはねたみのためだと知っていた.
ピラトがまだ法廷にいるときその妻から使者が来て伝言を伝えた,「あの義人(=イエズス)にかかわりをもたないでください.私は今日夢の中であの人を見,たいそう苦しい思いをしました」と.
司祭長と長老は,バラバをゆるしイエズスを殺すよう民をそそのかした.だから総督が「二人のうちだれをゆるしてほしいのか」と聞いたとき,彼らは「バラバを」と答えた.
ピラトは「ではキリストと称するイエズスをどうしたいのか」と聞いた.民は「十字架につけよ」と叫びたてるばかりであった.
自分の努力も実らず,むしろ騒動の起こらんとする気配を察したピラトは,水を取って民の前で手を洗い,「この男の血について私には責任がない.おまえたちで責任を取れ」と言った.
民は「その血はわれわれとわれわれの子孫の上にかかってよい」と答えた.
ピラトはバラバをゆるし,イエズスをむち打たせ,十字架につけるために引きわたした.』
* * *
第4パラグラフの訳注:
洗盤 “a laver (i.e. washing)” について.
または水盤とも言う.
ユダヤ教の祭司が祭式に供せられる物の洗浄や手足を洗い清める(沐浴・洗手・洗足)ために用いた青銅(又は真鍮〈しんちゅう〉)の大きなたらいのこと.
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第5パラグラフのはじめの訳注:
・アブラハム “Abraham” …イスラエル民族(ユダヤ人・ヘブライ人)の始祖.名はヘブライ語で,「私はおまえを多くの民(諸国民)の父とする」と,神がアブラムの名をアブラハムと改称したときに仰せられたことに由来する.(旧約聖書・創世の書:15,17,21,22章参照)
・モーゼ “Moses” …紀元前13世紀のイスラエル(ヘブライ)の預言者.エジプトの奴隷状態だったイスラエル民族を解放し,彼らを率いてエジプト脱出からカナンの地へと導いた.途中シナイ山において神から「十戒」を含む律法を授けられた.
・旧約聖書 “the Old Testament” …本来ユダヤ教の正典で,正式の名は「律法・預言書と諸書」.
「旧約」とは神が預言者モーゼを通して人類に与えた契約を意味する.
キリスト教の立場からの名称であり,「新約」と区別して使われる.
①律法〈モーゼ五書〉…歴史書(創世書・脱出〈出エジプト〉書・レビ書・荒野〈民数〉書,第二法〈申命〉書など)
②預言書…(イザヤ書・エレミア書など)
③諸書…教訓書(詩篇・格言書・ヨブ書など)
・アンナ “Annas” …イエズス・キリストの公生活当時(ユダヤ教の大司祭経験者として)非常な権力を有し,ユダヤ教のかしらとして考えられていた.キリストの受難当時に大司祭だったカヤファの義父.イエズスの殺害をカヤファらと策謀した.
・カイファ(カヤファ) “Caiphas” …アンナの継子.
(新約聖書・ルカ聖福音書3:2,ヨハネ聖福音書11:49-53,18:13,14節参照)
・タルムード “the Talmud” …ヘブライ語で教訓,教義の意.前2世紀から5世紀までのユダヤ教ラビたちがおもにモーゼの律法を中心に行なった口伝,解説を集成したもので,ユダヤ教においては旧約聖書に続く聖典とされる.
…歴史的にもユダヤ精神,ユダヤ文化の精華であり,その生活の模範となり創造力の根源となっている.
(以上,フェデリコ・バルバロ神父訳聖書(講談社),ブリタニカ国際大百科事典,大辞泉,リーダーズ英和辞典,ジーニアス英和大辞典,ランダムハウス英和大辞典他を参照.)
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第5パラグラフの2つ目の訳注:
使徒聖パウロによるローマ人への手紙:第11章26-27節(太字部分)(25-36節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS – 11:26-27 (11:25-36)
『兄弟たちよ,私はあなたたちが自分の知識に自負しないように,この奥義を知ってもらいたい.その奥義とはイスラエル(ユダヤ人)の幾分かがかたくなになったのは,異邦人が入ってその数が満ちるまでである.
こうして全イスラエルは救われるであろう.「シオンから解放者が出てヤコブから不敬を取り除く.それは私(=神)が彼ら(イスラエル)の罪を除くとき,彼らと交わす私の契約である」と書かれている.
福音についてはあなたたち(=異邦人)のためにイスラエルが敵にされ,選びについては先祖のためにイスラエルは愛されている(注・神の選民として).神の賜と召し出しは後悔のもとになるものではない.
あなたたちは前には神に不従順であり,今は彼ら(イスラエル)の不従順のために(神の)あわれみを受けたのであるが,彼ら(イスラエル)もあなたたち(異邦人)の受けたあわれみによって今は不従順な者となった.それは彼らもいつかあわれみを受けるためである.
こうして神は,すべての人にあわれみを現すために,すべての人を不従順に閉じ込められた.
ああ,神の富と上知と知識の深さよ,そのさばきは計り知れず,その道はきわめがたい.
「主の思いを知った者がいるか.だれがそのはかりごとの相談役であったか.先に神に与えて,のちにその報いを受けた者があったか」.
すべては神からであり,神によってであり,神のためである.神に代々に光栄あれ.アメン.』
(注)前後の部分(ローマ人への手紙第11章9-11章)(+〈注釈〉)参照.
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2011年10月15日土曜日
無神論者の有神論?
エレイソン・コメンツ 第221回 (2011年10月8日)
ドイツの有名な作曲家ヨハネス・ブラームス “Johannes Brahms” (1833-1899) が遺(のこ)した興味をそそる言葉があります.それは宗教心などまったく持たない人間がそれでも客観的秩序の存在を認めていることを示すものです.そうした認識は現実観察に役立つものであり,ブラームスが彼の音楽に表現されている美しさを探り出すのを可能にしました.現代に生きる多くの人々にとっての危機は彼らが世の中には客観的なことなど全く存在しないと信じ切っていることです.彼らは自らの主観に閉じこもっており,そのことがまるで殺風景な牢屋(ろうや),自殺的(=自滅的・自暴自棄)な音楽を生み出しています.
ブラームスは1978年,当時著名なバイオリン演奏家で彼の友人だったヨーゼフ・ヨアヒム “Joseph Joachim” (1931-1907) のために「バイオリン協奏曲ニ長調」を作曲しました.彼の作品のなかでも最も素晴らしく広く愛されている曲のひとつです.ブラームスはヨアヒムがこの曲を演奏するのを聴き「なるほど,こういう演奏もあるのだ」と言いました.言い換えれば,ブラームスは協奏曲を作曲する間中,具体的にここはこういう風に演奏すべきだと心の耳で聴いていたのですが,他人がそれとは多少違った演奏をしたとしても理にかなったものだと認識したのです.
ブラームスが受け入れられない演奏スタイルが何通りかあったのは疑いのないところですが,演奏者が彼が作曲する際に目指した目標に違う方法で近づこうとしている限り,ブラームスは自分自身の演奏方法を主張する必要はないと感じていました.彼の考えでは,肝心なことは客観的な目標であり,そこへ向う主観的なアプローチではありませんでした.したがって,彼は自分の作曲でその目標に向う道筋をあらゆるタイプの演奏者に提供したのだから - 一定の許容範囲内であれば - 演奏者が好きなように演奏すればいいと考えていました.つまり,客観は主観に優(まさ)るということです.
突き詰めれば,このことは神が人間の上に存在することを意味します.だが,ブラームスはこのことを信じていませんでした.彼の友人で称賛者でもあるカトリック信者のチェコ人作曲家アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904) “The Catholic Czech composer, Antonin Dvorak” はかつてブラームスについてつぎのように述べています.「何と偉大な人間だろう! とてつもなく偉大な魂だ! それなのに彼は何も信じていない! 何一つ信じていないのだ! 」 (訳注・原文: “What a great man ! Such a great soul ! And he believes in nothing ! He believes in nothing !” ) ブラームスは全くキリスト信者ではありませんでした - 彼は意図的に自作のドイツ・レクイエム “German Requiem” の中でイエズス・キリストに触れることを避けました.彼は自分が何かの信奉者であるとも認めませんでした - 彼は自分がそのレクイエムの中で聖書の文章を用いたのは宗教の告白などでなく感じを表現したかったからだと言っています.これは主観が客観より優位ということです.ブラームスが公言する不信心は彼の音楽の多くにおおらかさや喜びが欠けることにつながっていると言えるかもしれません.
だがブラームスの作品には秋を思わせる美しさと周到に作り出された秩序とがなんとあふれていることでしょうか! 例えば「バイオリン協奏曲」に見る職人技と自然美に触れると (訳注・原文: “This craftsmanship and reflection of the beauties of Nature…” ),どうすれば私を口先で否定しながら行動で称賛する人が出てくるだろうかと仰せられている私たちの主イエズス・キリストに思い当たります(マテオ聖福音:21・28-29).ほとんどの人々が彼キリストを口先で否定する今日,何らかの方法たとえば音楽や大自然を通じて,私たちの主が自ら創造した世界に植え付けた秩序を最低限でも重んじようとする人が何人いるでしょうか.そのような誠実さとは決してカトリック信仰だけが救いということからでなく,くすぶり続ける灯心(灯芯)を消してはならないということから生まれるでしょう(マテオ聖福音:12・20).
十分なカトリックの信仰心に恵まれたカトリック信徒の皆さん,自分たちの身の周りにいるそのような人たちを見分ける力を持ちましょう.そして,音楽であれほかのあらゆる分野であれ,神のもとから神の様々な敵たちにより引き離される群衆に対して思いやり (=深い同情,哀れみ,慈悲 )を持つようにしましょう(マルコ聖福音:8・2).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
引用された聖書の箇所を追記いたします.
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ドイツの有名な作曲家ヨハネス・ブラームス “Johannes Brahms” (1833-1899) が遺(のこ)した興味をそそる言葉があります.それは宗教心などまったく持たない人間がそれでも客観的秩序の存在を認めていることを示すものです.そうした認識は現実観察に役立つものであり,ブラームスが彼の音楽に表現されている美しさを探り出すのを可能にしました.現代に生きる多くの人々にとっての危機は彼らが世の中には客観的なことなど全く存在しないと信じ切っていることです.彼らは自らの主観に閉じこもっており,そのことがまるで殺風景な牢屋(ろうや),自殺的(=自滅的・自暴自棄)な音楽を生み出しています.
ブラームスは1978年,当時著名なバイオリン演奏家で彼の友人だったヨーゼフ・ヨアヒム “Joseph Joachim” (1931-1907) のために「バイオリン協奏曲ニ長調」を作曲しました.彼の作品のなかでも最も素晴らしく広く愛されている曲のひとつです.ブラームスはヨアヒムがこの曲を演奏するのを聴き「なるほど,こういう演奏もあるのだ」と言いました.言い換えれば,ブラームスは協奏曲を作曲する間中,具体的にここはこういう風に演奏すべきだと心の耳で聴いていたのですが,他人がそれとは多少違った演奏をしたとしても理にかなったものだと認識したのです.
ブラームスが受け入れられない演奏スタイルが何通りかあったのは疑いのないところですが,演奏者が彼が作曲する際に目指した目標に違う方法で近づこうとしている限り,ブラームスは自分自身の演奏方法を主張する必要はないと感じていました.彼の考えでは,肝心なことは客観的な目標であり,そこへ向う主観的なアプローチではありませんでした.したがって,彼は自分の作曲でその目標に向う道筋をあらゆるタイプの演奏者に提供したのだから - 一定の許容範囲内であれば - 演奏者が好きなように演奏すればいいと考えていました.つまり,客観は主観に優(まさ)るということです.
突き詰めれば,このことは神が人間の上に存在することを意味します.だが,ブラームスはこのことを信じていませんでした.彼の友人で称賛者でもあるカトリック信者のチェコ人作曲家アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904) “The Catholic Czech composer, Antonin Dvorak” はかつてブラームスについてつぎのように述べています.「何と偉大な人間だろう! とてつもなく偉大な魂だ! それなのに彼は何も信じていない! 何一つ信じていないのだ! 」 (訳注・原文: “What a great man ! Such a great soul ! And he believes in nothing ! He believes in nothing !” ) ブラームスは全くキリスト信者ではありませんでした - 彼は意図的に自作のドイツ・レクイエム “German Requiem” の中でイエズス・キリストに触れることを避けました.彼は自分が何かの信奉者であるとも認めませんでした - 彼は自分がそのレクイエムの中で聖書の文章を用いたのは宗教の告白などでなく感じを表現したかったからだと言っています.これは主観が客観より優位ということです.ブラームスが公言する不信心は彼の音楽の多くにおおらかさや喜びが欠けることにつながっていると言えるかもしれません.
だがブラームスの作品には秋を思わせる美しさと周到に作り出された秩序とがなんとあふれていることでしょうか! 例えば「バイオリン協奏曲」に見る職人技と自然美に触れると (訳注・原文: “This craftsmanship and reflection of the beauties of Nature…” ),どうすれば私を口先で否定しながら行動で称賛する人が出てくるだろうかと仰せられている私たちの主イエズス・キリストに思い当たります(マテオ聖福音:21・28-29).ほとんどの人々が彼キリストを口先で否定する今日,何らかの方法たとえば音楽や大自然を通じて,私たちの主が自ら創造した世界に植え付けた秩序を最低限でも重んじようとする人が何人いるでしょうか.そのような誠実さとは決してカトリック信仰だけが救いということからでなく,くすぶり続ける灯心(灯芯)を消してはならないということから生まれるでしょう(マテオ聖福音:12・20).
十分なカトリックの信仰心に恵まれたカトリック信徒の皆さん,自分たちの身の周りにいるそのような人たちを見分ける力を持ちましょう.そして,音楽であれほかのあらゆる分野であれ,神のもとから神の様々な敵たちにより引き離される群衆に対して思いやり (=深い同情,哀れみ,慈悲 )を持つようにしましょう(マルコ聖福音:8・2).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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引用された聖書の箇所を追記いたします.
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2011年10月11日火曜日
10周年
エレイソン・コメンツ 第220回 (2011年10月1日)
三週間前の9月11日に9・11事件(訳注・=英原語: “9/11”.米同時多発テロ事件)の十周年が来て過ぎていきました.この報道をめぐりアメリカのメディアでは感傷の嵐が巻き起こり,そのため最近東部沿岸地域を襲った集中豪雨がただの軽い夕立に見えてしまったほどだったようです.だが同事件について問題提起するだけで「反ユダヤ主義」 “Anti-semitic” と見られる前に,私たちは紛れもない知性と品格の持ち主であるあるアメリカ人評論家とともにいったい何が事件の真相だったかを問うてみることにしましょう.
その評論家とは数か月前に執筆活動から引退すると発表したポール・クレイグ・ロバーツ博士 “Dr Paul Craig Roberts” のことです.博士は真実に関心のある読者の欠如に落胆してしまったのです.幸い彼の引退は長くは続きませんでした.彼は真実の語り部 “a truth-teller” であり,周囲に彼のような人物はほとんどいません.「アメリカでは真実の尊重は死んだ」 “In America Respect for Truth is Dead” というのが彼がインターネット上の infowars.com で発表した9月12日付記事のタイトルです.博士が暗に示している通り,この真実の喪失 “the loss of truth” こそが単にアメリカ合衆国だけでなく実際には世界中における9・11事件とその後の10年間の本当のドラマなのです.
ロバーツ博士自身は科学的経歴 “a scientific background” の持ち主で,それだけに彼は9月8日から11日までカナダ・トロントのライアソン大学 “Ryerson University, Toronto, Canada” で開催された9・11事件に関する会合に提出された科学的証拠に完全に納得したと述べています.4日間の会合で著名な科学者,研究者,建築家,技術者が9・11事件関連の出来事についての研究成果を発表しました(この調査結果はインターネット上 http://www.ustream.tv/channel/thetorontohearings でまだアクセス可能かもしれません).ロバーツ博士は彼ら専門家たちの調査により「ワールド・トレード・センター7・ビル」 “WTC7 building” が標準制御解体 (原文: “a standard controlled demolition” ) だったこと,複数の発火装置と爆薬がツイン・タワー “Twin Towers” の倒壊をもたらしたことが証明されました.これについては全く疑いの余地はありません.これに異を唱える者は誰一人として拠(よ)って立つ科学的根拠を持ち合わせていません.公式の話(当局の表向きの話)を信じる人たちは物理学の法則を否定するような奇跡を信じているのです」と記しています.
ロバーツ博士はカナダの会合に提出された多数の科学的証拠から何点かを引用しています.ツイン・タワーの崩壊で生じた粉塵の中から最近発見されたナノ酸化鉄(注:ナノは10億分の1)がその一例です.だが彼は「悪意の暴露があまりにも強烈なため(そうした証拠に接する)読者のほとんどはそれが自分たちの感情的,精神的な力に対する挑戦だと受けとめる」(訳注・原文= “the revelation of malevolence is so powerful that most readers will find it a challenge to their emotional and mental strength.” と書いています.博士によると,政府の宣伝や「メディア権力」(原語: “Presstitute media” )が人心を強くつかんでいるため,ほとんどの人々は政府の発表に異を唱えるのは「陰謀をめぐらすような変人」 “conspiracy kooks” だけだと真面目に信じているというのです.(訳注・原文=“Government propaganda and the “Prestitute media” have such a grip on minds that most people seriously believe that only “conspiracy kooks” challenge the government’s story”.事実,科学,証拠といったものはもはや何の役にも立たなくなっています(私の知り合いの誰かさんはまさにそのような状態に陥っています!).ロバーツ博士によると,シカゴ大学とハーバード大学で法学部教授をしているある学者は政府の宣伝に対し事実に基づいて疑いを差しはさむような人物はすべて黙らせるべきだとさえ主張しているそうです!
G.K.チェスタートン(訳注・原文 “G. K. Chesterton” 〈1874-1936年〉英国の作家)がかつて述べた有名な言葉ですが,神を信じなくなる人たちはなにも信じなくなるか,なんでも信じるようになります “…when people stop believing in God, they do not believe in nothing, they will believe in anything”. 9・11事件についての真相を見失った “9/11 truth-losers” 数百万の人たちのなかで最も深刻なのは,事件が内部の仕業 “an inside job” であることを理解しない,あるいは理解しようとしないカトリック信徒たち,9・11事件が象徴するようなショッキングな嘘が世界中で勝ち誇り(=世界中を征服し)まかり通ること “the worldwide triumph of such a mind-bending lie” の真に宗教的な側面 “the truly religious dimensions” を理解しない,あるいは理解したがらないカトリック信徒たちです.そのようなカトリック信徒の皆さんどうかご注目ください.カトリック信仰を失う恐れがあるなどと言えばひどい誇張と映るかもしれませんが,あのゾッとするような第二バチカン公会議が実例としてちょうど期を合わせて私たちの身に起きたではありませんか? 1960年代には,多くのカトリック信徒が現代世界の風潮に同調する見方を取り,カトリック教会もそれに順応すべきだと考えたのではないでしょうか? 第二バチカン公会議はその結果起きたのではないでしょうか? それが彼らのカトリック信仰に何をもたらしたというのでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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三週間前の9月11日に9・11事件(訳注・=英原語: “9/11”.米同時多発テロ事件)の十周年が来て過ぎていきました.この報道をめぐりアメリカのメディアでは感傷の嵐が巻き起こり,そのため最近東部沿岸地域を襲った集中豪雨がただの軽い夕立に見えてしまったほどだったようです.だが同事件について問題提起するだけで「反ユダヤ主義」 “Anti-semitic” と見られる前に,私たちは紛れもない知性と品格の持ち主であるあるアメリカ人評論家とともにいったい何が事件の真相だったかを問うてみることにしましょう.
その評論家とは数か月前に執筆活動から引退すると発表したポール・クレイグ・ロバーツ博士 “Dr Paul Craig Roberts” のことです.博士は真実に関心のある読者の欠如に落胆してしまったのです.幸い彼の引退は長くは続きませんでした.彼は真実の語り部 “a truth-teller” であり,周囲に彼のような人物はほとんどいません.「アメリカでは真実の尊重は死んだ」 “In America Respect for Truth is Dead” というのが彼がインターネット上の infowars.com で発表した9月12日付記事のタイトルです.博士が暗に示している通り,この真実の喪失 “the loss of truth” こそが単にアメリカ合衆国だけでなく実際には世界中における9・11事件とその後の10年間の本当のドラマなのです.
ロバーツ博士自身は科学的経歴 “a scientific background” の持ち主で,それだけに彼は9月8日から11日までカナダ・トロントのライアソン大学 “Ryerson University, Toronto, Canada” で開催された9・11事件に関する会合に提出された科学的証拠に完全に納得したと述べています.4日間の会合で著名な科学者,研究者,建築家,技術者が9・11事件関連の出来事についての研究成果を発表しました(この調査結果はインターネット上 http://www.ustream.tv/channel/thetorontohearings でまだアクセス可能かもしれません).ロバーツ博士は彼ら専門家たちの調査により「ワールド・トレード・センター7・ビル」 “WTC7 building” が標準制御解体 (原文: “a standard controlled demolition” ) だったこと,複数の発火装置と爆薬がツイン・タワー “Twin Towers” の倒壊をもたらしたことが証明されました.これについては全く疑いの余地はありません.これに異を唱える者は誰一人として拠(よ)って立つ科学的根拠を持ち合わせていません.公式の話(当局の表向きの話)を信じる人たちは物理学の法則を否定するような奇跡を信じているのです」と記しています.
ロバーツ博士はカナダの会合に提出された多数の科学的証拠から何点かを引用しています.ツイン・タワーの崩壊で生じた粉塵の中から最近発見されたナノ酸化鉄(注:ナノは10億分の1)がその一例です.だが彼は「悪意の暴露があまりにも強烈なため(そうした証拠に接する)読者のほとんどはそれが自分たちの感情的,精神的な力に対する挑戦だと受けとめる」(訳注・原文= “the revelation of malevolence is so powerful that most readers will find it a challenge to their emotional and mental strength.” と書いています.博士によると,政府の宣伝や「メディア権力」(原語: “Presstitute media” )が人心を強くつかんでいるため,ほとんどの人々は政府の発表に異を唱えるのは「陰謀をめぐらすような変人」 “conspiracy kooks” だけだと真面目に信じているというのです.(訳注・原文=“Government propaganda and the “Prestitute media” have such a grip on minds that most people seriously believe that only “conspiracy kooks” challenge the government’s story”.事実,科学,証拠といったものはもはや何の役にも立たなくなっています(私の知り合いの誰かさんはまさにそのような状態に陥っています!).ロバーツ博士によると,シカゴ大学とハーバード大学で法学部教授をしているある学者は政府の宣伝に対し事実に基づいて疑いを差しはさむような人物はすべて黙らせるべきだとさえ主張しているそうです!
G.K.チェスタートン(訳注・原文 “G. K. Chesterton” 〈1874-1936年〉英国の作家)がかつて述べた有名な言葉ですが,神を信じなくなる人たちはなにも信じなくなるか,なんでも信じるようになります “…when people stop believing in God, they do not believe in nothing, they will believe in anything”. 9・11事件についての真相を見失った “9/11 truth-losers” 数百万の人たちのなかで最も深刻なのは,事件が内部の仕業 “an inside job” であることを理解しない,あるいは理解しようとしないカトリック信徒たち,9・11事件が象徴するようなショッキングな嘘が世界中で勝ち誇り(=世界中を征服し)まかり通ること “the worldwide triumph of such a mind-bending lie” の真に宗教的な側面 “the truly religious dimensions” を理解しない,あるいは理解したがらないカトリック信徒たちです.そのようなカトリック信徒の皆さんどうかご注目ください.カトリック信仰を失う恐れがあるなどと言えばひどい誇張と映るかもしれませんが,あのゾッとするような第二バチカン公会議が実例としてちょうど期を合わせて私たちの身に起きたではありませんか? 1960年代には,多くのカトリック信徒が現代世界の風潮に同調する見方を取り,カトリック教会もそれに順応すべきだと考えたのではないでしょうか? 第二バチカン公会議はその結果起きたのではないでしょうか? それが彼らのカトリック信仰に何をもたらしたというのでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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2011年10月3日月曜日
2本の危機映画
エレイソン・コメンツ 第219回 (2011年9月24日)
2008年以来,アメリカ合衆国に出現した金融経済危機は西洋式生活様式全体の土台を揺るがしかねない状況ですが,この危機を描いた興味深い2本の映画がこれまでに登場しています.どちらもよくできた説得力のある作品です.2作品のうち一本は登場する銀行家たちをヒーローとして扱い,もう一本の方は彼らを悪役に仕立てています.もし西洋社会にいくらかでも未来があるとすれば,この扱いの違いは一考に値します.
ドキュメンタリー映画「インサイド・ジョブ・世界不況の知られざる真実(邦題)」(原題: “Inside Job” )は複数の銀行家,政治家,経済専門家,実業家,ジャーナリスト,学者,金融顧問などとの一連のインタビューで構成されています.そこに現れるのはこれらすべての領域でアメリカ社会の最上部が繰り広げる拝金主義と詐欺の共謀の驚くべき姿です.自由企業体制が1980年代,1990年代に行われた金融規制撤廃を正当化する理由でしたが,それは投資管理者たちにより大きな権力を着実に与えたため,彼らはそれによってあらゆる有力政治家,ジャーナリスト,学者たちを自分たちの支配下に置くことが可能になりました.こうして中産階級や労働者階級に対する情け容赦のない略奪行為が今もなお進行中です.犠牲となった人たちの怒りは爆発寸前ですが,少なくとも当面の間,投資管理者たちは自分たちのために巧みに作り出した景気の底でがつがつと貪(むさぼ)り食い続けるしかないでしょう.映画の中で「貪欲は良いことだ.それが世の中を動かすのだから」と銀行の幹部連中は言います.
二つ目の映画, “Too Big to Fail” (仮訳:「破綻するには大きすぎる」)では,主要なニューヨークの投資銀行リーマン・ブラザーズ “Lehman Brothers” の破綻を中心とした2008年秋の劇的な数々の出来事が再現されています.当時の合衆国財務長官ハンク・ポールソン “Hank Paulson” は,リーマン・ブラザーズの破産を狙(ねら)って政府の救済策を拒否するという古典的な自由企業の決定を下す役として描かれています.だがその結果は世界中の銀行,商業のメルトダウン(崩壊)をもたらしかねないようなショックを国際金融界にもたらし,ポールソンは政府内の同僚とニューヨークのすべての主要銀行家たちの支援をかりて,破綻させるわけにはいかない大手銀行を対象に税金投入に基づく救済案を合衆国議会が承認するよう説得しなければならなくなります.映画では,彼はまさしく成功し金融システムは救われます.政府と銀行家たちは時代のヒーローとなります.またしても資本主義は私たちが思っていた通りの驚異であることが証明されます - 社会主義の介入のおかげで!
では,ここに出てくる銀行家たちはヒーローでしょうか? それとも悪役でしょうか?その答えは,せいぜい短期的にはヒーローあっても,長期的には間違いなく悪党です.なぜなら,無私無欲を要求する社会や身勝手さを意味する貪欲の上に建てることのできる社会などないことを悟(さと)るにはほんのわずかな一般常識があれば十分だからです.どんな社会でも持てる者と持たざる者とが常に存在します(ヨハネ聖福音書12章8節をご参照ください)(訳注後記).金と権力を持つ社会の管理者たちはそのどちらも持たない大衆に何としても気配りすべきです.さもないと革命や大混乱が起きるでしょう.むろん世界主義者たちは大混乱を明日起こして,その翌日には自分たちが世界の権力を手中にできるよう画策します.だが,彼らが事を計っても,決着をつけるのは神なのです( “…while they may propose, it is God who disposes” ).
カトリック教徒や将来を案じる人たちは誰でもこの2本の映画を観に行き資本主義と自由企業について真剣に自問すべきです.いったい資本主義が今回のように社会主義によってのみ救済されたのはどうしてでしょうか? 時の政府が本当にそれほど悪かったのでしょうか? 資本主義が本当にそれほど良かったのでしょうか? ひとつの社会が生き残るためにはどうすれば強欲な人間たちを当てにすることができるのでしょうか? どうすればそのような依存にのめり込むことができたのでしょうか? そして今現在,このような疑問を投げかけている人がいるという兆候(ちょうこう)が何かあるでしょうか? あるいはあらゆる人々のマンモン崇拝(拝金主義) - 私たちは物事をその本当の名で呼ぶことにしましょう - が野放(のばな)しに蔓延(はびこ)っているのでしょうか?
イエズス・キリストが彼の司祭たちを通して罪人たちの罪を免除してくださらない限り,究極的に機能し得る御託身後 (訳注・原語 “post-Incarnation”,キリスト御降誕後の時代.) の社会システムなどありません.資本主義はこれまでの数世紀の間カトリシズム( “Catholicism”,カトリック教) のすねをかじっていただけにすぎません.資本主義の死をもたらしているのは今日のカトリシズムの疲弊(ひへい)なのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第4パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第12章8節(太字部分)(11章38節-12章19節までを掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 12:8 (11:38-12:19)
第11章(38-57節)
ラザロがよみがえる(11・1-46)(注・ここでは38-46節)
『(イエズスは)…それから墓に行かれた.イエズスは,「石を取りのけなさい」と言われた.死人の姉妹マルタは,「主よ、四如日も経っていますから臭くなっています」と言ったが,イエズスは,「もしあなたが信じるなら,神の光栄を見るだろうと言ったではないか」と言われた.石は取りのけられた.
イエズスは目を上げて話された,「父よ,私の願いを聞き入れてくださったことを感謝いたします.私はあなたが常に私の願いを聞き入れてくださることをよく知っています.私がこう言いますのは,この回りにいる人々のためで,あなたが私を遣わされたことをこの人たちに信じさせるためであります」.そう言ってのち,声高く「ラザロ外に出なさい」と呼ばれた.すると死者は,手と足を布でまかれ顔を汗ふきで包まれたまま出てきた.イエズスは人々に,「それを解いて,行かせよ」と言われた.
マリアのところに来ていて,イエズスのされたことを見た多くのユダヤ人は彼を信じた.しかし,その中のある人はファリサイ人のところに行き,イエズスのされたことを告げたので,…』
イエズスの死を謀る(11・47-57)
『…司祭長たちとファリサイ人たちは,議会を開き,「どうしたらよかろう.彼は多くの奇跡を行っているから,もしこのまま捨てておいたら,人はみな彼を信じるようになるだろう.そしてローマ人が来て,われわれの聖なる地と民を滅ぼすだろう」と言った.
その中の一人で,その年の大司祭だったカヤファは,「あなたたちには何一つわかっていない.一人の人が民のために死ぬことによって全国の民の滅びぬほうが,あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」と言った.*彼は自分からこう言ったのではない.この年の大司祭だった彼は,イエズスがこの民のために,また,ただこの民のためだけではなく,散っている神の子らを一つに集めるために死ぬはずだったことを預言したのである.
イエズスを殺そうと決めたのはこの日からであった.そこでイエズスは,もう公にユダヤ人の中を巡らず,ここを去って荒野に近いエフライムという町に行き,弟子たちとともにそこにとまられた.
ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づき,多くの人々は清めをするために,過ぎ越しの祭りの前に,地方からエルサレムに上ってきた.彼らはイエズスを捜し求め,神殿に立って,「どう思う.イエズスは祭りに来ないだろうか」と言い合った.司祭長たちとファリサイ人たちがイエズスを捕らえようとして,彼の居所を知っている者は届け出よと命じていたからである.』
(注釈)
イエズスの死を謀る
*(51節)カヤファは,ユダヤが滅びるよりも,イエズス一人を犠牲にするほうが正しいと考えた.しかし,神の御計画として,イエズスは全人類のために死ぬのである.
***
第12章(1-19節)
ベタニアの食事(12・1-11)
『*¹過ぎ越しの祭りの六日前に,イエズスはベタニアに行かれた.それは,イエズスが死者の中からよみがえらせたラザロのいる所だった.さて,イエズスのために,食事の席が設けられると,マルタが給仕し,ラザロ(マルタの兄弟)はイエズスとともに食卓についた人々の中にいた.
そのときマリア(マルタの姉妹)は高価な純粋のナルドの香油一斤を持ってきてイエズスの御足に塗り,自分の髪の毛でそれをふいたので,香油の香りは家中に漂(ただよ)った.
弟子の一人で,のちにイエズスをわたすイスカリオトのユダが,「なぜ,この香油を三百デナリオに売って,貧しい人に施さないのか」と言った.そう言ったのは,貧しい人のことを思いやったからではなくて,彼は盗人であり,預かっている財布の中身を盗んでいたからである.
イエズスは,「この婦人のするようにさせておけ.この人は私の*²葬(ほうむ)りの日のためにこの香料をとっておいたのだ.貧しい人はいつもあなたたちとともにいるが,私はいつもあなたたちとともにいるわけではない」と言われた.
大ぜいのユダヤ人は,イエズスがここにおられると知って,イエズスを見るためばかりでなく,イエズスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためにも,そこに来た.そこで司祭長たちは,ラザロをも殺してしまおうと決めた.この人のために多くのユダヤ人が彼らを去り,イエズスを信じるようになったからである.
エルサレムに入る(12・12-19)
翌日,祭りに来ていた大群衆は,イエズスがエルサレムに行かれる時,しゅろの枝をとって出迎え,「*³ホザンナ,賛美されよ,主のみ名によって来られる御者,*⁴イスラエルの王」と叫んだ.イエズスは子ろばを見つけてそれに乗られた.「*⁵シオンの娘よ,恐れるな.見よ,あなたの王は雌ろばの子に乗ってこられる」と記されているとおりだった.
弟子たちはその時はこれらのことがわからなかった.しかし,イエズスが光栄を受けられたのちに,弟子らは,それらのことがイエズスについて記されていたことであり,人々はそういうふうにイエズスに対して行ったのだと思い出した.
イエズスがラザロを墓から呼び出して,死者の中からよみがえらせたとき,イエズスとともにいた群衆がそれを証言した.人々がイエズスを迎えたのは,そのしるしを行われたと聞いたからであった.
ファリサイ人たちは,「あなたたちは何もできなかった.どうだ,みなあの人について行ったではないか」と言い合った.…』
(注釈)
ベタニアでの食事(12・1-11)
*¹ ヨハネは過ぎ越しの祭りとイエズスの死との関係を重視している(11・55,13・1,18・28,19・14,42).
イエズスの公生活の最後の週である.最初の週(2・1以下)(注・イエズスがその光栄を現される最初の奇跡<ガリラヤのカナの婚礼で水をぶどう酒に変えられた>)を詳しく述べたヨハネは,最後の週のことも詳しく伝えている.「神の子が光栄を受ける時が来た」(12・23,13・31,17・1,5).これらはイエズスの光栄の現れによって幕を閉じる.
*² イエズスは,マリアのこの行為を,自分の死骸をあらかじめ尊(たっと,とうと)んだことと見られた.
エルサレムに入る(12・12-19)
*³ 詩篇118・26参照.
→「主のみ名によってくるもの,祝されよ.
われらは主の家から,あなたを祝そう」
*⁴イスラエルの王とはメシアなる王のこと.
*⁵ 〈旧約〉ザカリアの書9・9参照.
→「*シオンの娘よ,喜びいさめ,
エルサレムの娘よ,喜びおどれ.
見よ,王がこられる,
正しいもの,勝利のものが.
彼は,謙虚なもので,
ろばに乗ってこられる.
子ろば,雌ろばの子に乗って.」
(注釈)*メシアは,謙虚なものであり,不正な,おごり高ぶる暴君とは,完全に別のものである.
彼は,昔の王の乗り物に乗っておられる(〈旧約〉創世の書49・11→「ユダは子ろばをぶどうの木につなぎ,雌ろばの子をよきぶどうの木につなぐ.彼はぶどう酒で服を洗い,ぶどうの液で衣を洗う.」)
(注・ユダはヤコブ〈=イスラエル〉の12人の息子のうち上から4番目(ユダ族の祖)で,メシアたるキリストはこのユダ族から出ている.).
この預言は,イエズス・キリストの枝の日,エルサレム入城の日に,実現された(〈新約〉マテオ21・5,6,11・29).
* * *
2008年以来,アメリカ合衆国に出現した金融経済危機は西洋式生活様式全体の土台を揺るがしかねない状況ですが,この危機を描いた興味深い2本の映画がこれまでに登場しています.どちらもよくできた説得力のある作品です.2作品のうち一本は登場する銀行家たちをヒーローとして扱い,もう一本の方は彼らを悪役に仕立てています.もし西洋社会にいくらかでも未来があるとすれば,この扱いの違いは一考に値します.
ドキュメンタリー映画「インサイド・ジョブ・世界不況の知られざる真実(邦題)」(原題: “Inside Job” )は複数の銀行家,政治家,経済専門家,実業家,ジャーナリスト,学者,金融顧問などとの一連のインタビューで構成されています.そこに現れるのはこれらすべての領域でアメリカ社会の最上部が繰り広げる拝金主義と詐欺の共謀の驚くべき姿です.自由企業体制が1980年代,1990年代に行われた金融規制撤廃を正当化する理由でしたが,それは投資管理者たちにより大きな権力を着実に与えたため,彼らはそれによってあらゆる有力政治家,ジャーナリスト,学者たちを自分たちの支配下に置くことが可能になりました.こうして中産階級や労働者階級に対する情け容赦のない略奪行為が今もなお進行中です.犠牲となった人たちの怒りは爆発寸前ですが,少なくとも当面の間,投資管理者たちは自分たちのために巧みに作り出した景気の底でがつがつと貪(むさぼ)り食い続けるしかないでしょう.映画の中で「貪欲は良いことだ.それが世の中を動かすのだから」と銀行の幹部連中は言います.
二つ目の映画, “Too Big to Fail” (仮訳:「破綻するには大きすぎる」)では,主要なニューヨークの投資銀行リーマン・ブラザーズ “Lehman Brothers” の破綻を中心とした2008年秋の劇的な数々の出来事が再現されています.当時の合衆国財務長官ハンク・ポールソン “Hank Paulson” は,リーマン・ブラザーズの破産を狙(ねら)って政府の救済策を拒否するという古典的な自由企業の決定を下す役として描かれています.だがその結果は世界中の銀行,商業のメルトダウン(崩壊)をもたらしかねないようなショックを国際金融界にもたらし,ポールソンは政府内の同僚とニューヨークのすべての主要銀行家たちの支援をかりて,破綻させるわけにはいかない大手銀行を対象に税金投入に基づく救済案を合衆国議会が承認するよう説得しなければならなくなります.映画では,彼はまさしく成功し金融システムは救われます.政府と銀行家たちは時代のヒーローとなります.またしても資本主義は私たちが思っていた通りの驚異であることが証明されます - 社会主義の介入のおかげで!
では,ここに出てくる銀行家たちはヒーローでしょうか? それとも悪役でしょうか?その答えは,せいぜい短期的にはヒーローあっても,長期的には間違いなく悪党です.なぜなら,無私無欲を要求する社会や身勝手さを意味する貪欲の上に建てることのできる社会などないことを悟(さと)るにはほんのわずかな一般常識があれば十分だからです.どんな社会でも持てる者と持たざる者とが常に存在します(ヨハネ聖福音書12章8節をご参照ください)(訳注後記).金と権力を持つ社会の管理者たちはそのどちらも持たない大衆に何としても気配りすべきです.さもないと革命や大混乱が起きるでしょう.むろん世界主義者たちは大混乱を明日起こして,その翌日には自分たちが世界の権力を手中にできるよう画策します.だが,彼らが事を計っても,決着をつけるのは神なのです( “…while they may propose, it is God who disposes” ).
カトリック教徒や将来を案じる人たちは誰でもこの2本の映画を観に行き資本主義と自由企業について真剣に自問すべきです.いったい資本主義が今回のように社会主義によってのみ救済されたのはどうしてでしょうか? 時の政府が本当にそれほど悪かったのでしょうか? 資本主義が本当にそれほど良かったのでしょうか? ひとつの社会が生き残るためにはどうすれば強欲な人間たちを当てにすることができるのでしょうか? どうすればそのような依存にのめり込むことができたのでしょうか? そして今現在,このような疑問を投げかけている人がいるという兆候(ちょうこう)が何かあるでしょうか? あるいはあらゆる人々のマンモン崇拝(拝金主義) - 私たちは物事をその本当の名で呼ぶことにしましょう - が野放(のばな)しに蔓延(はびこ)っているのでしょうか?
イエズス・キリストが彼の司祭たちを通して罪人たちの罪を免除してくださらない限り,究極的に機能し得る御託身後 (訳注・原語 “post-Incarnation”,キリスト御降誕後の時代.) の社会システムなどありません.資本主義はこれまでの数世紀の間カトリシズム( “Catholicism”,カトリック教) のすねをかじっていただけにすぎません.資本主義の死をもたらしているのは今日のカトリシズムの疲弊(ひへい)なのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第4パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第12章8節(太字部分)(11章38節-12章19節までを掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 12:8 (11:38-12:19)
第11章(38-57節)
ラザロがよみがえる(11・1-46)(注・ここでは38-46節)
『(イエズスは)…それから墓に行かれた.イエズスは,「石を取りのけなさい」と言われた.死人の姉妹マルタは,「主よ、四如日も経っていますから臭くなっています」と言ったが,イエズスは,「もしあなたが信じるなら,神の光栄を見るだろうと言ったではないか」と言われた.石は取りのけられた.
イエズスは目を上げて話された,「父よ,私の願いを聞き入れてくださったことを感謝いたします.私はあなたが常に私の願いを聞き入れてくださることをよく知っています.私がこう言いますのは,この回りにいる人々のためで,あなたが私を遣わされたことをこの人たちに信じさせるためであります」.そう言ってのち,声高く「ラザロ外に出なさい」と呼ばれた.すると死者は,手と足を布でまかれ顔を汗ふきで包まれたまま出てきた.イエズスは人々に,「それを解いて,行かせよ」と言われた.
マリアのところに来ていて,イエズスのされたことを見た多くのユダヤ人は彼を信じた.しかし,その中のある人はファリサイ人のところに行き,イエズスのされたことを告げたので,…』
イエズスの死を謀る(11・47-57)
『…司祭長たちとファリサイ人たちは,議会を開き,「どうしたらよかろう.彼は多くの奇跡を行っているから,もしこのまま捨てておいたら,人はみな彼を信じるようになるだろう.そしてローマ人が来て,われわれの聖なる地と民を滅ぼすだろう」と言った.
その中の一人で,その年の大司祭だったカヤファは,「あなたたちには何一つわかっていない.一人の人が民のために死ぬことによって全国の民の滅びぬほうが,あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」と言った.*彼は自分からこう言ったのではない.この年の大司祭だった彼は,イエズスがこの民のために,また,ただこの民のためだけではなく,散っている神の子らを一つに集めるために死ぬはずだったことを預言したのである.
イエズスを殺そうと決めたのはこの日からであった.そこでイエズスは,もう公にユダヤ人の中を巡らず,ここを去って荒野に近いエフライムという町に行き,弟子たちとともにそこにとまられた.
ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づき,多くの人々は清めをするために,過ぎ越しの祭りの前に,地方からエルサレムに上ってきた.彼らはイエズスを捜し求め,神殿に立って,「どう思う.イエズスは祭りに来ないだろうか」と言い合った.司祭長たちとファリサイ人たちがイエズスを捕らえようとして,彼の居所を知っている者は届け出よと命じていたからである.』
(注釈)
イエズスの死を謀る
*(51節)カヤファは,ユダヤが滅びるよりも,イエズス一人を犠牲にするほうが正しいと考えた.しかし,神の御計画として,イエズスは全人類のために死ぬのである.
***
第12章(1-19節)
ベタニアの食事(12・1-11)
『*¹過ぎ越しの祭りの六日前に,イエズスはベタニアに行かれた.それは,イエズスが死者の中からよみがえらせたラザロのいる所だった.さて,イエズスのために,食事の席が設けられると,マルタが給仕し,ラザロ(マルタの兄弟)はイエズスとともに食卓についた人々の中にいた.
そのときマリア(マルタの姉妹)は高価な純粋のナルドの香油一斤を持ってきてイエズスの御足に塗り,自分の髪の毛でそれをふいたので,香油の香りは家中に漂(ただよ)った.
弟子の一人で,のちにイエズスをわたすイスカリオトのユダが,「なぜ,この香油を三百デナリオに売って,貧しい人に施さないのか」と言った.そう言ったのは,貧しい人のことを思いやったからではなくて,彼は盗人であり,預かっている財布の中身を盗んでいたからである.
イエズスは,「この婦人のするようにさせておけ.この人は私の*²葬(ほうむ)りの日のためにこの香料をとっておいたのだ.貧しい人はいつもあなたたちとともにいるが,私はいつもあなたたちとともにいるわけではない」と言われた.
大ぜいのユダヤ人は,イエズスがここにおられると知って,イエズスを見るためばかりでなく,イエズスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためにも,そこに来た.そこで司祭長たちは,ラザロをも殺してしまおうと決めた.この人のために多くのユダヤ人が彼らを去り,イエズスを信じるようになったからである.
エルサレムに入る(12・12-19)
翌日,祭りに来ていた大群衆は,イエズスがエルサレムに行かれる時,しゅろの枝をとって出迎え,「*³ホザンナ,賛美されよ,主のみ名によって来られる御者,*⁴イスラエルの王」と叫んだ.イエズスは子ろばを見つけてそれに乗られた.「*⁵シオンの娘よ,恐れるな.見よ,あなたの王は雌ろばの子に乗ってこられる」と記されているとおりだった.
弟子たちはその時はこれらのことがわからなかった.しかし,イエズスが光栄を受けられたのちに,弟子らは,それらのことがイエズスについて記されていたことであり,人々はそういうふうにイエズスに対して行ったのだと思い出した.
イエズスがラザロを墓から呼び出して,死者の中からよみがえらせたとき,イエズスとともにいた群衆がそれを証言した.人々がイエズスを迎えたのは,そのしるしを行われたと聞いたからであった.
ファリサイ人たちは,「あなたたちは何もできなかった.どうだ,みなあの人について行ったではないか」と言い合った.…』
(注釈)
ベタニアでの食事(12・1-11)
*¹ ヨハネは過ぎ越しの祭りとイエズスの死との関係を重視している(11・55,13・1,18・28,19・14,42).
イエズスの公生活の最後の週である.最初の週(2・1以下)(注・イエズスがその光栄を現される最初の奇跡<ガリラヤのカナの婚礼で水をぶどう酒に変えられた>)を詳しく述べたヨハネは,最後の週のことも詳しく伝えている.「神の子が光栄を受ける時が来た」(12・23,13・31,17・1,5).これらはイエズスの光栄の現れによって幕を閉じる.
*² イエズスは,マリアのこの行為を,自分の死骸をあらかじめ尊(たっと,とうと)んだことと見られた.
エルサレムに入る(12・12-19)
*³ 詩篇118・26参照.
→「主のみ名によってくるもの,祝されよ.
われらは主の家から,あなたを祝そう」
*⁴イスラエルの王とはメシアなる王のこと.
*⁵ 〈旧約〉ザカリアの書9・9参照.
→「*シオンの娘よ,喜びいさめ,
エルサレムの娘よ,喜びおどれ.
見よ,王がこられる,
正しいもの,勝利のものが.
彼は,謙虚なもので,
ろばに乗ってこられる.
子ろば,雌ろばの子に乗って.」
(注釈)*メシアは,謙虚なものであり,不正な,おごり高ぶる暴君とは,完全に別のものである.
彼は,昔の王の乗り物に乗っておられる(〈旧約〉創世の書49・11→「ユダは子ろばをぶどうの木につなぎ,雌ろばの子をよきぶどうの木につなぐ.彼はぶどう酒で服を洗い,ぶどうの液で衣を洗う.」)
(注・ユダはヤコブ〈=イスラエル〉の12人の息子のうち上から4番目(ユダ族の祖)で,メシアたるキリストはこのユダ族から出ている.).
この預言は,イエズス・キリストの枝の日,エルサレム入城の日に,実現された(〈新約〉マテオ21・5,6,11・29).
* * *
2011年10月1日土曜日
永遠の危険
エレイソン・コメンツ 第218回 (2011年9月17日)
「私たち人間はなぜこの地球上にいるのでしょう? 」 つい最近,古い友人が私にそう問いかけました.それはもちろん「神を賛美し,愛しかつ神に仕えるため,そしてそれにより救いを…」と答えると,彼は私をさえぎって,「そうじゃないんです.私が知りたいのはそういう答えではないのです.」と言いました.「つまり私が言いたいのはこういうことです.私が(地球に)生まれてくる前は,私は地上に存在していなかった.だから私はいかなる危険にもさらされていなかったのです.それが今こうしてここに存在しているために私は自分の霊魂を失う危険にひどくさらされている状態です.なぜ私は,自分で承諾(しょうだく)もしていないのに,いったん与えられてしまった以上は拒(こば)めないこの危険な存在(=生命)を与えられたのでしょうか? 」
こう言われてみると,友人の疑問は深刻なものです.なぜならそれは神の善良性に疑問を投げかけるものだからです.確かに私たち一人ひとりに生命をお与えになるのは神であり,その結果私たちの目の前には誰も逃れられない選択肢が置かれています.それは天国に通じる険しく切り立った狭い細道と地獄に至る広くたやすい道路のどちらを選ぶかというものです(マテオ聖福音・書7章13-14節参照)(訳注後記).たしかに私たちの霊魂の救済にとっての諸々の敵たち,すなわちこの世 “the world” (=現世,俗世界,世俗),肉欲 “the flesh” ,悪魔 “the Devil” はいずれも危険な存在です.なぜなら大多数の霊魂が地上での人生の最期に地獄に陥(おちい)るというのが悲しい事実だからです(マテオ聖福音書・20章16節参照)(訳注後記).では,自分が選択の余地なしにそのような危険の中に置かれた身であることをどうやって公明正大なことと受け止めうるでしょうか?
確かな答えとしては,もしその危険が全く私自身のあやまり(誤り)から生じたものでないとすれば,生命はまさしく毒入りの贈り物(=賜)だということになるかもしれないということです.だがよくあることですが,もしその危険の大半が私自身のあやまりから生じたものであり,かつもし誤って使われれば私を地獄に落とすことができるその同じ自由意志が,正しく使われたときには人の想像も及ばぬほどの無上の喜びに満ちた永遠の世界へと私が入ることもまた可能にしてくれるものであるとすれば(原文・ “… if the very same free-will that when used wrongly enables me to fall into Hell, also enables me when used rightly to enter upon an eternity of unimaginable bliss, …” ),生命は毒入りの贈り物なのではないというばかりでなく,(それどころか生命とは)私が地上で危険を避け自分の自由意志を正しく使うためにするわずかな努力をはるかに上回るほどの大きな素晴らしいご褒美(ほうび,輝かしい報〈むく〉い)を受けさせようと私を招(まね)いている最高の申し出(勧め,オファー)そのものなのだということになります(原文・ “… then not only is life not a poisoned gift, but it is a magnificent offer of a glorious reward out of all proportion to the relatively slight effort which it will have cost me on earth to avoid the danger and make the right use of my free-will.” )(イザヤ書64章4節参照)(訳注後記).
だが質問者(=友人)は彼の霊魂の救済にとっての三つの敵のうちどれ一つとして自分の責任ではないと次のように反論するかもしれません:-- 「私たちを俗事と目の欲に駆(か)り立てるこの世はゆりかごから墓場まで(=一生)ついて回り,私は死によってのみそこから逃れうるばかりです.肉体(肉欲)の弱さは原罪に付きもので,アダムとイブに遡(さかのぼ)ります.その頃私はまだ地上に存在していませんでした! 悪魔も私が生れるずっと前から存在していて,現代もいたるところにはびこっています! 」
これに対する答えは,その三つの敵はどれも私たち自身の過(あやま)ちのせいにするにはあまりにも頻発(ひんぱつ)しすぎるということです.この世について言えば,私たちはその中に身を置かざるをえませんが,それに同化しなければならないわけではありません(ヨハネ聖福音書・17章14-16節参照)(訳注後記).この世の物事を愛するか,それより天上の事を選ぶかは私たち次第で決まることです.ミサ典書の中に天上の事の方を選び取れるよう恩寵を神に願い求める祈りがどれほど沢山含まれていることでしょうか! 肉欲については,私たちは内なる情欲から逃れれば逃れるほど,その刺(とげ)を失わせることができます.だが,私たちのうちの誰が,欲望とそれがもたらす危険を弱める代わりにむしろ増強させたのは決して自分自身の誤(あやま)りのせいではないと言いきれるでしょうか? そして悪魔について言えば,その誘惑の力は全能の神によって厳しく制御(せいぎょ)されており,神御自身のみことば(原文・ “God’s own Scripture” =聖書)は神がお許しになった誘惑を(人が)乗り越えるのに必要な恩寵を神自らが私たちにお与え下さると約束しています.(コリント人への手紙〈第一〉・10章13節参照)(訳注後記).手短に言えば,悪魔について聖アウグスティヌスが言っていることはこの世と肉欲についても当てはまります - いずれも鎖(くさり)につながれた犬のようなもので,人間の側から近寄りすぎることを選択しない限りは,吠えることはできても噛(か)みつけないということです.
そういうわけで,人生には避けて通れないほどの霊的な危険があるのは確かですが,神の恩寵とともにその危険を制御するかどうかは私たち次第です.報いはこの世での(訳注・私自身がした善悪・正邪の選択から出る)行いからくるのです.(コリント人への手紙〈第一〉・2章9節参照)(訳注後記).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
○第2パラグラフの先の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW – 7:13-14
『狭(せま)い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(注釈)*ブルガタ(ラテン語)訳も,その他のいくつかの写本も,「門は大きく,道は広い…」とある.
○第2パラグラフの後の訳注:
マテオ聖福音書:第20章16節(太字部分)(20章1-16節を掲載)
THE HOLY GOSPEL ACCORDING TO ST. MATTHEW - 20:16 (20:1-16)
(神の御子・救世主・贖い主イエズス・キリストのみことば)
ぶどう畑の雇い人(20・1-16)
『*¹天の国は,ぶどう畑で働く人を雇おうと朝早く出かける主人のようである.
主人は一日一デナリオの約束で働く人をぶどう畑に送った.
また九時ごろ出てみると,仕事がなくて市場に立っている人たちを見たので,〈あなたたちも私のぶどう畑に行け,正当な賃金をやるから〉と言うと,その人たちも行った.
十二時ごろと三時ごろに出ていって,また同じようにした.
五時ごろまた出てみると,ほかにも立っている者がいたので,〈どうして一日じゅう仕事もせずにここに立っているのか〉と聞くと,彼らは〈だれも雇ってくれぬからです〉と答えた.主人は〈おまえたちも私のぶどう畑に行け〉と言った.
日暮れになったので,ぶどう畑の主人は会計係に言った,〈働く人を呼んで,後の人から始めて最初の人まで賃金を払え〉.
五時ごろ雇われた人たちが来て,一人一デナリオずつもらった.
最初の人たちが来て,自分はもっと多いだろうと思っていたが,やはり一人一デナリオずつもらった.もらったとき主人に向かい,〈あの人たちは一時間働いただけなのに,一日じゅう労苦と暑さを忍んだ私たちと同じように待遇なさった〉と不平を言った.
すると主人はその人に,〈友よ,私は不当なことをしたのではない.あなたは私と一デナリオで契約したではないか.自分の分け前をもらって行け.私はこの後の人にもそれと同じ賃金を与えようと思っている.
自分のものを思うままにすることがなぜ悪いのか.それとも私がよいからねたましく思うのか〉と答えた.
このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう*²」.』
(注釈)
*¹ (1-15節)
主人はイエズス,働く人は神に奉仕するために呼ばれる人である.
最初の働く人はファリサイ人,最後のは罪人である.
ぶどう畑の仕事は天国に入るための善業,賃金は天国に入る恵みである.しかし神に召されるのはただ神自身の無償の恩寵による.この恩寵に応ずることが救いの条件である.
しかし善業を行うことができるのも恩寵によるものであり,改心の恵みを受けた罪人に対する神の寛大さについて不平を言うことはできぬ.
*² 16節「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある.これは22章14節(「実に招かれる人は多いが,選ばれる人は少ない」〈キリストによる「王の子の婚宴」のたとえ話の結び〉)による書き入れらしい.
* * *
○第3パラグラフの訳注:
旧約聖書・イザヤの書:第64章4節(太字部分)(64章全文(1-11節)を掲載)
THE PROPHECY OF ISAIAS - 64:4 (64:1-11)
『水が,火でつきはてるように,
火は敵を滅ぼし尽くすがよい.
そして,敵の間にみ名は知られ,
もろもろの民はみ前でおののくのだ.
私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを
主は果たされた.
そのことについては,昔から話を聞いたこともない.
あなた以外の神が,
自分によりたのむ者のために,
これほどのことをされたと,
耳に聞いたこともなく,
目で見たこともない.
主は正義を行い,
道を思い出す人を迎えられる.
見よ,主は怒られたが,私たちは罪を犯し,
ずっと以前から主に逆らい,
みな,汚れた者となり,
正義の行いも,汚れた布のようだった.
みな,木の葉のようにしぼみ,
風のように悪に運び去られた.
だれも,み名をこいねがわず,
めざめて,よりすがろうとしなかった.
それは,主がみ顔を隠し,
罪におちる私たちを見すごされたからだ.
それでも,主は私たちの父,
粘土(ねんど)である私たちを
形づくられたのは主だった.
私たちはみな,御手によってつくられた.
主よ,ふたたび怒りたもうことなく,
いつまでも罪を思い出さず,
私たちを見て下りたまえ.
私たちはあなたの民である.
主の町々は荒れ,
シオンは荒れ地となり,
エルサレムはみじめになった.
先祖が主をたたえた,
あの高貴壮麗な神殿は
火のえじきとなり,
貴重なものはみな壊された.
主よ,これらのことに
冷淡であられるのですか.
私たちをかぎりなく辱(はずかし)めるために
黙したもうのですか.』
* * *
○第4パラグラフの先の訳注:
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第17章14-16節(太字部分)(17章全文〈1-26節〉を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 17:14-16 (17:1-26)
(最後の晩餐〈聖木曜日〉の後,人の罪の贖いとして犠牲のいけにえとなるため受難・十字架刑に向かわれる直前の神の御子,主イエズス・キリストの祈り)
第17章
イエズスの祈り(17・1-26)
『イエズスはこう話し終えてからへ天を仰いで言われた,
「父よ,時が来ました.あなたの子に光栄を与えたまえ,子があなたに光栄を帰するように.そして,*¹あなたが子に授けられた万民を治める力によって,子に与えられたすべての人に永遠の命を与えたもうように.
永遠の命とは,唯一のまことの神であるあなたと,*²あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります.
私はあなたがさせようと思召した業を成し遂げ,この世にあなたの光栄を現しました.父よ,この世が存在するより先に,私があなたのみもとで有していたその光栄をもって,いま私に光栄を現してください.
私に賜うために,あなたがこの世から取り去られた人々に,私は*³み名を現しました.その人たちはあなたのものであったのに,あなたは私に賜い,そして彼らはあなたのみことばを守りました.
いまや彼らは,あなたが私に与えたもうたものがみな,あなたから出ていることを知っています.なぜなら,私があなたから賜ったみことばを彼らに与えたからです.
彼らはそれを受け入れ,私があなたから出たものであることをほんとうに認め,あなたが私を遣わされたことも信じました.*⁴その彼らのために私は祈ります.
この祈りはこの世のためではなく,あなたが与えたもうた人々のためであります.彼らはあなたのものだからです.私のものはみなあなたのもの,あなたのものはみな私のものです.そして私は彼らにおいて光栄を受けています.
これから,私はもうこの世にはいませんが,彼らはこの世にいます.私はあなたのみもとに行きます.*⁵聖なる父よ,私に与えられたあなたのみ名において,私たちが一つであるがごとく,彼らもそうなるようにお守りください.私は彼らとともにいた間,私に与えられたあなたのみ名において彼らを守りました.彼らを見守りましたから,そのうちの一人も滅びることなく,ただ*⁶聖書を実現するために滅びの子だけが滅びました.
今こそ,私はあなたのもとに行きます.この世にあって私がこう語るのは,彼ら自身に,私のもつ完全な喜びをもたせるためであります.
私は彼らにあなたのみことばを与え,そしてこの世は彼らを憎みました.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではないからです.私は彼らをこの世から取り去ってくださいと言うのではなく,悪から守ってくださいと願います.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではありません.
彼らを真理において*⁷聖別してください.あなたのみことばは真理であります.あなたが私をこの世に送られたように,私も彼らを世に送ります.そして私は彼らを真理によって聖別するために,*⁸彼らのために自らいけにえにのぼります.
*⁹また,彼らのためだけではなく,彼らのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります.父よ,あなたが私の中にましまし,私があなたの中にあるように,みなが一つになりますように.彼らも私たちにおいて一つになりますように.それは,あなたが私を遣わされたことを世に信じさせるためであります.
私はあなたの与えたもうた光栄を彼らに与えました,私たちが一つであるように彼らも一つでありますように.私は彼らの中にあり,あなたは私の中においでになります,彼らが完全に一つになりますように.
あなたが私を遣わし,私を愛されるように,彼らをも愛しておいでになることを,この世に知らせるためであります.父よ,あなたの与えたもうた人々が,私のいる所に,私とともにいることを望みます.それは,あなたが私に与えたもうた光栄を,彼らに見せるためであります.
あなたは,世の始まるよりも前に,私を愛したまいました.正しい父よ,この世はあなたを知りませんが,私はあなたを知り,この人たちもあなたが私を遣わされたことを知るに至りました.あなたが私を愛されたその愛が,彼らにもありますように.また,私が彼らの中にいるように,私はみ名を知らせ,また知らせましょう」.』
(注釈)
イエズスの祈り
*¹ 新約の大司祭として最高のいけにえを行うにあたり,イエズスは,ご自分のため,弟子らのため,教会のために祈られた.
*² 旧約ではモーゼの律法によって神の啓示があったが,今はキリストによって啓示が行われる.
*³ キリストがこの世に遣わされたのは,父のみ名すなわちその位格を示すためであった(17・3-6,26,12・28以下,14・7-11,3・11).
しかし,父の本性は「愛」である(ヨハネの手紙〈第一〉4・8,16).
父はその愛を,ひとり子を私たちにわたすことによって証明された(3・16-18,ヨハネの手紙〈第一〉4・9,10,14,16,ローマ人への手紙8・32).
ゆえに,イエズスが神のひとり子であると信じることは,この偉大な愛を認めるための条件である(20・21,ヨハネの手紙〈第一〉2・23).
*⁴使徒らのための祈りである.
イエズスは十字架上において敵のためにも祈ったのであるから,いつも世のために祈っておられる.全教会のための祈り.
*⁵ 他の写本には,「聖なる父よ,あなたが与えたもうた人々を,あなたのみ名において守り」とある.12節も同じである.
*⁶ 詩篇41・10参照.→「私の信頼していた親友,私のパンを食べた者さえ,私に向かってかかとを上げた.」(注・現在のアラビア人も人への軽蔑のしるしとしてかかとをあげる.この一句はヨハネ聖福音書13・18に引用されている.)
*⁷ 文字どおりの意味は「神のために別にとっておく」で,一般に「聖別する」,「聖とする」という意味に用いられる.
羊などを「いけにえにするため,神のためにとっておく」,あるいは単に「いけにえに定める」,「いけにえにする」,人を「神の奉仕や信心のために,神にささげる」,あるいは「聖別する」(ヨハネ聖福音書10・36),その聖務にふさわしいように「聖とする」,一般に「清める,清くする」(ヨハネの手紙〈第一〉3・3,ヘブライ人への手紙9・13).
*⁸ 元来の意味で(17節の注(*⁷)参照),「彼らのために自らを聖別します」と訳してもよい.
イエズスはその使徒たちを使徒職のために聖別し,聖とするために,神の小羊として自らをいけにえにされた.
*⁹ 将来の信仰者のためにするイエズスの祈りである.世はさまざまに分裂しているが,弟子たちは真理と愛によって一致しなければならない.信者間の分裂を戒(いまし)めるパウロのことばをここに思い出すがよい(エフェゾ人への手紙4・2,コロサイ人への手紙3・12-15).
* * *
○第4パラグラフの後の訳注:
新約聖書・使徒パウロによるコリント人への第一の手紙:第10章13節(太字部分)(10章全文〈1-33節〉を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 10:13 (10:1-33)
イスラエルの罰(10・1-13)
『兄弟たちよ,次のことをあなたたちに知ってもらいたい.
私たちの先祖はみな*¹雲の下にいて,みな*²海を通り,みな雲と海の中で*³モーゼにおいて洗われた.みな同じ*⁴霊的な食べ物を食べ,みな同じ霊的な飲み物を飲んだ.すなわち*⁵彼らについてきた霊的な岩から飲んだが,その岩はキリストであった.けれども彼らの多くは神のみ心を喜ばせなかったので,*⁶荒野で倒された.
これらのことは私たちへの*⁷戒(いまし)めとして起こったのであって,彼らが貧(むさぼ)ったように悪を貧ることを禁じるためである.
あなたたちは彼らのうちの何人かのように偶像崇拝者になるな.「*⁸民は座って飲食し,立って戯(たわむ)れた」と書き記されている.
彼らのうちの何人かが淫行したように淫行にふけるな.彼らは一日で*⁹二万三千人死んだ.
彼らのうちの何人かが試みたように主を試みるな.彼らは*¹⁰へびに滅ぼされた.
あなたたちは彼らのうちの何人かが言ったように不平を言うな.彼らは*¹¹滅ぼす者によって滅ぼされた.
彼らに起こったこれらのことは前兆であって,書き記されたのは,*¹²世の末にある私たちへの戒(いまし)めのためであった.
立っていると自ら思う人は倒れぬように注意せよ.あなたたちは人の力を超える試みには会わなかった.*¹³神は忠実であるから力以上の試みには会わせたまわない.あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも,ともに備えたもうであろう.』
(注釈)
イスラエルの罰
*¹ 〈旧約〉脱出の書13・21参照.
*² 脱出の書14・22参照.
*³ かしらとしてのモーゼに従ったこと.「洗われる」はキリスト教の洗礼を暗示する.この「洗い」によって,ヘブライ人がモーゼにゆだねられたことを意味する.
*⁴マンナのこと(脱出の書16・4-35).
(注・エジプトを脱出し荒野に出たイスラエルの民のために神が天から降らせた食べ物(パン).)
→脱出の書16・31「イスラエルの民は,それをマンナと呼んだ.マンナは,こえんどろの実のように白くて,蜜の入った堅(かた)パンのような味であった.」
(注釈・「マンナ」はヘブライ語の「マンフ」「これは何か」という意味.今でもアラブの人は,マンナのことを「マンヌ」と呼ぶが,それはヘブライ語からきているのだろう.「こえんどろ」の木は,セリ科の植物,今もシナイ地方と,ヨルダン川の谷によく生えている.)
*⁵ 脱出の書17・5-6.モーゼの泉の岩は,イスラエル人が荒野を通っていく間,ずっとついてきていたという(ラビたちの伝説による).
*⁶ 荒野の書14・16参照.
*⁷ 原文には「前兆」とある.歴史的な意味もさることながら,旧約のある事件は,未来の出来事のかたどりだからである.
*⁸ 荒野の書32・6参照.
*⁹ 荒野の書25・1-9.ヘブライ語原典,七十人訳ギリシア語聖書にも「二万四千人」とある.二万三千人としたのは,書き写した人のまちがいらしい.
*¹⁰ 荒野の書21・5-6参照.
*¹¹ 荒野の書17・6-15.神の罰を下す天使のこと.
*¹² メシアの時代.
*¹³ 〈旧約〉シラの書15・11-20参照.
実際上の解決とつまずきを避ける(10・14-11・34)
『愛する人々よ,偶像崇拝を避けよ.私は道理をわきまえる人に話すようにあなたたちに話すのであるから,私の言おうとすることを判断せよ.
私たちが祝する祝聖の杯は,キリストの御血にあずかることではないか.私たちが裂くパンはキリストのお体にあずかることではないか.パンは一つであるから私たちは多数であっても一体である.みな一つのパンにあずかるからである.
*¹肉のイスラエルを見よ.供え物を食べる人々は祭壇(さいだん)にあずかるではないか.私は何を言おうとしているのか.供え物の肉が何物かであると言うのか.あるいは偶像が何物かであると言うのか.いや,*²異邦人が供える物は神にではなく悪魔に供えるのだと私は言う.あなたたちが悪魔と交わるのを私は望まない.あなたたちは主の杯と悪魔の杯を同時に飲むことはできぬ.また主の食卓と悪魔の食卓にともにつくことはできぬ.それとも私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのか.私たちは主よりも強いのだろうか.
〈*³私なら何でもしてよい〉と言う人があろう.だがすべてが利益になるのではない.〈私なら〉何でもしてよいという人でもすべてが徳を立てる役にたつものではない.
みな自分の益を求めず,他人の益を求めよ.良心のためにあれこれ聞かずに,市場で売っている物は何でも食べよ.なぜなら地上と*⁴地上を満たす物は主のものだからである.
信者でない人に招かれていくなら,良心にあれこれ尋(たず)ねることをせずに,あなたの前に出された物を食べよ.
だがもしある人が,これは偶像に供えた肉だと言うなら,そう知らせた人のために,また良心のために,それを食べてはならぬ.良心というのは,あなたの良心ではなく,その人の良心のことである.どうして,*⁵私の自由が他人の良心によって判断されようか.感謝して食卓につくなら,その感謝した物についてどうして非難されることがあろう.
食べるにつけ飲むにつけ,何事をするにもすべて神の光栄のために行え.ユダヤ人にもギリシア人にも,また神の教会にもつまずきとなるな.私はどんなことでもみなを喜ばせるように努めている.人々が救われるように,私は自分の利益ではなく多くの人の利益を求めている.
(注釈)
実際上の解決とつまずきを避ける
*¹ キリスト教に改宗しなかったイスラエル人のこと(〈新約〉ローマ人への手紙7・5).
キリスト信者は「神のイスラエル」(ガラツィア人への手紙6・16節),すなわち,まことのイスラエルである.
*² 偶像への供え物は,悪魔に供えるものである.それで供え物にもその後の宴会にもキリスト信者は参加できない.
*³ 偶像の宴会でないかぎり,偶像の供え物の肉を食べてよい(8・4,8-9).しかし弱い者をかえりみて,愛をもって(27-28節)時にはそれも食べないほうがよい場合がある.
*⁴ 詩篇24・1参照.→「地とそこにあるもの,世とそこに住む者,すべて主のもの.」
*⁵ 自分の良心の自由のこと.良心の判断は,他人の考え方に左右されるものではない.ゆえに,この場合,供え物となった肉について,自分の判断を変えねばならないとは言わない.
しかし,弱い人のつまずきにならぬように,時として遠慮しなければならない.
* * *
○第5パラグラフの訳注:
コリント人への第一の手紙:第2章9節
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 2:9
『書き記されているとおり,「*目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.』
(注釈)* 旧約聖書・イザヤの書64・3参照.
* * *
「私たち人間はなぜこの地球上にいるのでしょう? 」 つい最近,古い友人が私にそう問いかけました.それはもちろん「神を賛美し,愛しかつ神に仕えるため,そしてそれにより救いを…」と答えると,彼は私をさえぎって,「そうじゃないんです.私が知りたいのはそういう答えではないのです.」と言いました.「つまり私が言いたいのはこういうことです.私が(地球に)生まれてくる前は,私は地上に存在していなかった.だから私はいかなる危険にもさらされていなかったのです.それが今こうしてここに存在しているために私は自分の霊魂を失う危険にひどくさらされている状態です.なぜ私は,自分で承諾(しょうだく)もしていないのに,いったん与えられてしまった以上は拒(こば)めないこの危険な存在(=生命)を与えられたのでしょうか? 」
こう言われてみると,友人の疑問は深刻なものです.なぜならそれは神の善良性に疑問を投げかけるものだからです.確かに私たち一人ひとりに生命をお与えになるのは神であり,その結果私たちの目の前には誰も逃れられない選択肢が置かれています.それは天国に通じる険しく切り立った狭い細道と地獄に至る広くたやすい道路のどちらを選ぶかというものです(マテオ聖福音・書7章13-14節参照)(訳注後記).たしかに私たちの霊魂の救済にとっての諸々の敵たち,すなわちこの世 “the world” (=現世,俗世界,世俗),肉欲 “the flesh” ,悪魔 “the Devil” はいずれも危険な存在です.なぜなら大多数の霊魂が地上での人生の最期に地獄に陥(おちい)るというのが悲しい事実だからです(マテオ聖福音書・20章16節参照)(訳注後記).では,自分が選択の余地なしにそのような危険の中に置かれた身であることをどうやって公明正大なことと受け止めうるでしょうか?
確かな答えとしては,もしその危険が全く私自身のあやまり(誤り)から生じたものでないとすれば,生命はまさしく毒入りの贈り物(=賜)だということになるかもしれないということです.だがよくあることですが,もしその危険の大半が私自身のあやまりから生じたものであり,かつもし誤って使われれば私を地獄に落とすことができるその同じ自由意志が,正しく使われたときには人の想像も及ばぬほどの無上の喜びに満ちた永遠の世界へと私が入ることもまた可能にしてくれるものであるとすれば(原文・ “… if the very same free-will that when used wrongly enables me to fall into Hell, also enables me when used rightly to enter upon an eternity of unimaginable bliss, …” ),生命は毒入りの贈り物なのではないというばかりでなく,(それどころか生命とは)私が地上で危険を避け自分の自由意志を正しく使うためにするわずかな努力をはるかに上回るほどの大きな素晴らしいご褒美(ほうび,輝かしい報〈むく〉い)を受けさせようと私を招(まね)いている最高の申し出(勧め,オファー)そのものなのだということになります(原文・ “… then not only is life not a poisoned gift, but it is a magnificent offer of a glorious reward out of all proportion to the relatively slight effort which it will have cost me on earth to avoid the danger and make the right use of my free-will.” )(イザヤ書64章4節参照)(訳注後記).
だが質問者(=友人)は彼の霊魂の救済にとっての三つの敵のうちどれ一つとして自分の責任ではないと次のように反論するかもしれません:-- 「私たちを俗事と目の欲に駆(か)り立てるこの世はゆりかごから墓場まで(=一生)ついて回り,私は死によってのみそこから逃れうるばかりです.肉体(肉欲)の弱さは原罪に付きもので,アダムとイブに遡(さかのぼ)ります.その頃私はまだ地上に存在していませんでした! 悪魔も私が生れるずっと前から存在していて,現代もいたるところにはびこっています! 」
これに対する答えは,その三つの敵はどれも私たち自身の過(あやま)ちのせいにするにはあまりにも頻発(ひんぱつ)しすぎるということです.この世について言えば,私たちはその中に身を置かざるをえませんが,それに同化しなければならないわけではありません(ヨハネ聖福音書・17章14-16節参照)(訳注後記).この世の物事を愛するか,それより天上の事を選ぶかは私たち次第で決まることです.ミサ典書の中に天上の事の方を選び取れるよう恩寵を神に願い求める祈りがどれほど沢山含まれていることでしょうか! 肉欲については,私たちは内なる情欲から逃れれば逃れるほど,その刺(とげ)を失わせることができます.だが,私たちのうちの誰が,欲望とそれがもたらす危険を弱める代わりにむしろ増強させたのは決して自分自身の誤(あやま)りのせいではないと言いきれるでしょうか? そして悪魔について言えば,その誘惑の力は全能の神によって厳しく制御(せいぎょ)されており,神御自身のみことば(原文・ “God’s own Scripture” =聖書)は神がお許しになった誘惑を(人が)乗り越えるのに必要な恩寵を神自らが私たちにお与え下さると約束しています.(コリント人への手紙〈第一〉・10章13節参照)(訳注後記).手短に言えば,悪魔について聖アウグスティヌスが言っていることはこの世と肉欲についても当てはまります - いずれも鎖(くさり)につながれた犬のようなもので,人間の側から近寄りすぎることを選択しない限りは,吠えることはできても噛(か)みつけないということです.
そういうわけで,人生には避けて通れないほどの霊的な危険があるのは確かですが,神の恩寵とともにその危険を制御するかどうかは私たち次第です.報いはこの世での(訳注・私自身がした善悪・正邪の選択から出る)行いからくるのです.(コリント人への手紙〈第一〉・2章9節参照)(訳注後記).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
○第2パラグラフの先の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW – 7:13-14
『狭(せま)い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(注釈)*ブルガタ(ラテン語)訳も,その他のいくつかの写本も,「門は大きく,道は広い…」とある.
○第2パラグラフの後の訳注:
マテオ聖福音書:第20章16節(太字部分)(20章1-16節を掲載)
THE HOLY GOSPEL ACCORDING TO ST. MATTHEW - 20:16 (20:1-16)
(神の御子・救世主・贖い主イエズス・キリストのみことば)
ぶどう畑の雇い人(20・1-16)
『*¹天の国は,ぶどう畑で働く人を雇おうと朝早く出かける主人のようである.
主人は一日一デナリオの約束で働く人をぶどう畑に送った.
また九時ごろ出てみると,仕事がなくて市場に立っている人たちを見たので,〈あなたたちも私のぶどう畑に行け,正当な賃金をやるから〉と言うと,その人たちも行った.
十二時ごろと三時ごろに出ていって,また同じようにした.
五時ごろまた出てみると,ほかにも立っている者がいたので,〈どうして一日じゅう仕事もせずにここに立っているのか〉と聞くと,彼らは〈だれも雇ってくれぬからです〉と答えた.主人は〈おまえたちも私のぶどう畑に行け〉と言った.
日暮れになったので,ぶどう畑の主人は会計係に言った,〈働く人を呼んで,後の人から始めて最初の人まで賃金を払え〉.
五時ごろ雇われた人たちが来て,一人一デナリオずつもらった.
最初の人たちが来て,自分はもっと多いだろうと思っていたが,やはり一人一デナリオずつもらった.もらったとき主人に向かい,〈あの人たちは一時間働いただけなのに,一日じゅう労苦と暑さを忍んだ私たちと同じように待遇なさった〉と不平を言った.
すると主人はその人に,〈友よ,私は不当なことをしたのではない.あなたは私と一デナリオで契約したではないか.自分の分け前をもらって行け.私はこの後の人にもそれと同じ賃金を与えようと思っている.
自分のものを思うままにすることがなぜ悪いのか.それとも私がよいからねたましく思うのか〉と答えた.
このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう*²」.』
(注釈)
*¹ (1-15節)
主人はイエズス,働く人は神に奉仕するために呼ばれる人である.
最初の働く人はファリサイ人,最後のは罪人である.
ぶどう畑の仕事は天国に入るための善業,賃金は天国に入る恵みである.しかし神に召されるのはただ神自身の無償の恩寵による.この恩寵に応ずることが救いの条件である.
しかし善業を行うことができるのも恩寵によるものであり,改心の恵みを受けた罪人に対する神の寛大さについて不平を言うことはできぬ.
*² 16節「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある.これは22章14節(「実に招かれる人は多いが,選ばれる人は少ない」〈キリストによる「王の子の婚宴」のたとえ話の結び〉)による書き入れらしい.
* * *
○第3パラグラフの訳注:
旧約聖書・イザヤの書:第64章4節(太字部分)(64章全文(1-11節)を掲載)
THE PROPHECY OF ISAIAS - 64:4 (64:1-11)
『水が,火でつきはてるように,
火は敵を滅ぼし尽くすがよい.
そして,敵の間にみ名は知られ,
もろもろの民はみ前でおののくのだ.
私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを
主は果たされた.
そのことについては,昔から話を聞いたこともない.
あなた以外の神が,
自分によりたのむ者のために,
これほどのことをされたと,
耳に聞いたこともなく,
目で見たこともない.
主は正義を行い,
道を思い出す人を迎えられる.
見よ,主は怒られたが,私たちは罪を犯し,
ずっと以前から主に逆らい,
みな,汚れた者となり,
正義の行いも,汚れた布のようだった.
みな,木の葉のようにしぼみ,
風のように悪に運び去られた.
だれも,み名をこいねがわず,
めざめて,よりすがろうとしなかった.
それは,主がみ顔を隠し,
罪におちる私たちを見すごされたからだ.
それでも,主は私たちの父,
粘土(ねんど)である私たちを
形づくられたのは主だった.
私たちはみな,御手によってつくられた.
主よ,ふたたび怒りたもうことなく,
いつまでも罪を思い出さず,
私たちを見て下りたまえ.
私たちはあなたの民である.
主の町々は荒れ,
シオンは荒れ地となり,
エルサレムはみじめになった.
先祖が主をたたえた,
あの高貴壮麗な神殿は
火のえじきとなり,
貴重なものはみな壊された.
主よ,これらのことに
冷淡であられるのですか.
私たちをかぎりなく辱(はずかし)めるために
黙したもうのですか.』
* * *
○第4パラグラフの先の訳注:
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第17章14-16節(太字部分)(17章全文〈1-26節〉を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 17:14-16 (17:1-26)
(最後の晩餐〈聖木曜日〉の後,人の罪の贖いとして犠牲のいけにえとなるため受難・十字架刑に向かわれる直前の神の御子,主イエズス・キリストの祈り)
第17章
イエズスの祈り(17・1-26)
『イエズスはこう話し終えてからへ天を仰いで言われた,
「父よ,時が来ました.あなたの子に光栄を与えたまえ,子があなたに光栄を帰するように.そして,*¹あなたが子に授けられた万民を治める力によって,子に与えられたすべての人に永遠の命を与えたもうように.
永遠の命とは,唯一のまことの神であるあなたと,*²あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります.
私はあなたがさせようと思召した業を成し遂げ,この世にあなたの光栄を現しました.父よ,この世が存在するより先に,私があなたのみもとで有していたその光栄をもって,いま私に光栄を現してください.
私に賜うために,あなたがこの世から取り去られた人々に,私は*³み名を現しました.その人たちはあなたのものであったのに,あなたは私に賜い,そして彼らはあなたのみことばを守りました.
いまや彼らは,あなたが私に与えたもうたものがみな,あなたから出ていることを知っています.なぜなら,私があなたから賜ったみことばを彼らに与えたからです.
彼らはそれを受け入れ,私があなたから出たものであることをほんとうに認め,あなたが私を遣わされたことも信じました.*⁴その彼らのために私は祈ります.
この祈りはこの世のためではなく,あなたが与えたもうた人々のためであります.彼らはあなたのものだからです.私のものはみなあなたのもの,あなたのものはみな私のものです.そして私は彼らにおいて光栄を受けています.
これから,私はもうこの世にはいませんが,彼らはこの世にいます.私はあなたのみもとに行きます.*⁵聖なる父よ,私に与えられたあなたのみ名において,私たちが一つであるがごとく,彼らもそうなるようにお守りください.私は彼らとともにいた間,私に与えられたあなたのみ名において彼らを守りました.彼らを見守りましたから,そのうちの一人も滅びることなく,ただ*⁶聖書を実現するために滅びの子だけが滅びました.
今こそ,私はあなたのもとに行きます.この世にあって私がこう語るのは,彼ら自身に,私のもつ完全な喜びをもたせるためであります.
私は彼らにあなたのみことばを与え,そしてこの世は彼らを憎みました.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではないからです.私は彼らをこの世から取り去ってくださいと言うのではなく,悪から守ってくださいと願います.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではありません.
彼らを真理において*⁷聖別してください.あなたのみことばは真理であります.あなたが私をこの世に送られたように,私も彼らを世に送ります.そして私は彼らを真理によって聖別するために,*⁸彼らのために自らいけにえにのぼります.
*⁹また,彼らのためだけではなく,彼らのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります.父よ,あなたが私の中にましまし,私があなたの中にあるように,みなが一つになりますように.彼らも私たちにおいて一つになりますように.それは,あなたが私を遣わされたことを世に信じさせるためであります.
私はあなたの与えたもうた光栄を彼らに与えました,私たちが一つであるように彼らも一つでありますように.私は彼らの中にあり,あなたは私の中においでになります,彼らが完全に一つになりますように.
あなたが私を遣わし,私を愛されるように,彼らをも愛しておいでになることを,この世に知らせるためであります.父よ,あなたの与えたもうた人々が,私のいる所に,私とともにいることを望みます.それは,あなたが私に与えたもうた光栄を,彼らに見せるためであります.
あなたは,世の始まるよりも前に,私を愛したまいました.正しい父よ,この世はあなたを知りませんが,私はあなたを知り,この人たちもあなたが私を遣わされたことを知るに至りました.あなたが私を愛されたその愛が,彼らにもありますように.また,私が彼らの中にいるように,私はみ名を知らせ,また知らせましょう」.』
(注釈)
イエズスの祈り
*¹ 新約の大司祭として最高のいけにえを行うにあたり,イエズスは,ご自分のため,弟子らのため,教会のために祈られた.
*² 旧約ではモーゼの律法によって神の啓示があったが,今はキリストによって啓示が行われる.
*³ キリストがこの世に遣わされたのは,父のみ名すなわちその位格を示すためであった(17・3-6,26,12・28以下,14・7-11,3・11).
しかし,父の本性は「愛」である(ヨハネの手紙〈第一〉4・8,16).
父はその愛を,ひとり子を私たちにわたすことによって証明された(3・16-18,ヨハネの手紙〈第一〉4・9,10,14,16,ローマ人への手紙8・32).
ゆえに,イエズスが神のひとり子であると信じることは,この偉大な愛を認めるための条件である(20・21,ヨハネの手紙〈第一〉2・23).
*⁴使徒らのための祈りである.
イエズスは十字架上において敵のためにも祈ったのであるから,いつも世のために祈っておられる.全教会のための祈り.
*⁵ 他の写本には,「聖なる父よ,あなたが与えたもうた人々を,あなたのみ名において守り」とある.12節も同じである.
*⁶ 詩篇41・10参照.→「私の信頼していた親友,私のパンを食べた者さえ,私に向かってかかとを上げた.」(注・現在のアラビア人も人への軽蔑のしるしとしてかかとをあげる.この一句はヨハネ聖福音書13・18に引用されている.)
*⁷ 文字どおりの意味は「神のために別にとっておく」で,一般に「聖別する」,「聖とする」という意味に用いられる.
羊などを「いけにえにするため,神のためにとっておく」,あるいは単に「いけにえに定める」,「いけにえにする」,人を「神の奉仕や信心のために,神にささげる」,あるいは「聖別する」(ヨハネ聖福音書10・36),その聖務にふさわしいように「聖とする」,一般に「清める,清くする」(ヨハネの手紙〈第一〉3・3,ヘブライ人への手紙9・13).
*⁸ 元来の意味で(17節の注(*⁷)参照),「彼らのために自らを聖別します」と訳してもよい.
イエズスはその使徒たちを使徒職のために聖別し,聖とするために,神の小羊として自らをいけにえにされた.
*⁹ 将来の信仰者のためにするイエズスの祈りである.世はさまざまに分裂しているが,弟子たちは真理と愛によって一致しなければならない.信者間の分裂を戒(いまし)めるパウロのことばをここに思い出すがよい(エフェゾ人への手紙4・2,コロサイ人への手紙3・12-15).
* * *
○第4パラグラフの後の訳注:
新約聖書・使徒パウロによるコリント人への第一の手紙:第10章13節(太字部分)(10章全文〈1-33節〉を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 10:13 (10:1-33)
イスラエルの罰(10・1-13)
『兄弟たちよ,次のことをあなたたちに知ってもらいたい.
私たちの先祖はみな*¹雲の下にいて,みな*²海を通り,みな雲と海の中で*³モーゼにおいて洗われた.みな同じ*⁴霊的な食べ物を食べ,みな同じ霊的な飲み物を飲んだ.すなわち*⁵彼らについてきた霊的な岩から飲んだが,その岩はキリストであった.けれども彼らの多くは神のみ心を喜ばせなかったので,*⁶荒野で倒された.
これらのことは私たちへの*⁷戒(いまし)めとして起こったのであって,彼らが貧(むさぼ)ったように悪を貧ることを禁じるためである.
あなたたちは彼らのうちの何人かのように偶像崇拝者になるな.「*⁸民は座って飲食し,立って戯(たわむ)れた」と書き記されている.
彼らのうちの何人かが淫行したように淫行にふけるな.彼らは一日で*⁹二万三千人死んだ.
彼らのうちの何人かが試みたように主を試みるな.彼らは*¹⁰へびに滅ぼされた.
あなたたちは彼らのうちの何人かが言ったように不平を言うな.彼らは*¹¹滅ぼす者によって滅ぼされた.
彼らに起こったこれらのことは前兆であって,書き記されたのは,*¹²世の末にある私たちへの戒(いまし)めのためであった.
立っていると自ら思う人は倒れぬように注意せよ.あなたたちは人の力を超える試みには会わなかった.*¹³神は忠実であるから力以上の試みには会わせたまわない.あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも,ともに備えたもうであろう.』
(注釈)
イスラエルの罰
*¹ 〈旧約〉脱出の書13・21参照.
*² 脱出の書14・22参照.
*³ かしらとしてのモーゼに従ったこと.「洗われる」はキリスト教の洗礼を暗示する.この「洗い」によって,ヘブライ人がモーゼにゆだねられたことを意味する.
*⁴マンナのこと(脱出の書16・4-35).
(注・エジプトを脱出し荒野に出たイスラエルの民のために神が天から降らせた食べ物(パン).)
→脱出の書16・31「イスラエルの民は,それをマンナと呼んだ.マンナは,こえんどろの実のように白くて,蜜の入った堅(かた)パンのような味であった.」
(注釈・「マンナ」はヘブライ語の「マンフ」「これは何か」という意味.今でもアラブの人は,マンナのことを「マンヌ」と呼ぶが,それはヘブライ語からきているのだろう.「こえんどろ」の木は,セリ科の植物,今もシナイ地方と,ヨルダン川の谷によく生えている.)
*⁵ 脱出の書17・5-6.モーゼの泉の岩は,イスラエル人が荒野を通っていく間,ずっとついてきていたという(ラビたちの伝説による).
*⁶ 荒野の書14・16参照.
*⁷ 原文には「前兆」とある.歴史的な意味もさることながら,旧約のある事件は,未来の出来事のかたどりだからである.
*⁸ 荒野の書32・6参照.
*⁹ 荒野の書25・1-9.ヘブライ語原典,七十人訳ギリシア語聖書にも「二万四千人」とある.二万三千人としたのは,書き写した人のまちがいらしい.
*¹⁰ 荒野の書21・5-6参照.
*¹¹ 荒野の書17・6-15.神の罰を下す天使のこと.
*¹² メシアの時代.
*¹³ 〈旧約〉シラの書15・11-20参照.
実際上の解決とつまずきを避ける(10・14-11・34)
『愛する人々よ,偶像崇拝を避けよ.私は道理をわきまえる人に話すようにあなたたちに話すのであるから,私の言おうとすることを判断せよ.
私たちが祝する祝聖の杯は,キリストの御血にあずかることではないか.私たちが裂くパンはキリストのお体にあずかることではないか.パンは一つであるから私たちは多数であっても一体である.みな一つのパンにあずかるからである.
*¹肉のイスラエルを見よ.供え物を食べる人々は祭壇(さいだん)にあずかるではないか.私は何を言おうとしているのか.供え物の肉が何物かであると言うのか.あるいは偶像が何物かであると言うのか.いや,*²異邦人が供える物は神にではなく悪魔に供えるのだと私は言う.あなたたちが悪魔と交わるのを私は望まない.あなたたちは主の杯と悪魔の杯を同時に飲むことはできぬ.また主の食卓と悪魔の食卓にともにつくことはできぬ.それとも私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのか.私たちは主よりも強いのだろうか.
〈*³私なら何でもしてよい〉と言う人があろう.だがすべてが利益になるのではない.〈私なら〉何でもしてよいという人でもすべてが徳を立てる役にたつものではない.
みな自分の益を求めず,他人の益を求めよ.良心のためにあれこれ聞かずに,市場で売っている物は何でも食べよ.なぜなら地上と*⁴地上を満たす物は主のものだからである.
信者でない人に招かれていくなら,良心にあれこれ尋(たず)ねることをせずに,あなたの前に出された物を食べよ.
だがもしある人が,これは偶像に供えた肉だと言うなら,そう知らせた人のために,また良心のために,それを食べてはならぬ.良心というのは,あなたの良心ではなく,その人の良心のことである.どうして,*⁵私の自由が他人の良心によって判断されようか.感謝して食卓につくなら,その感謝した物についてどうして非難されることがあろう.
食べるにつけ飲むにつけ,何事をするにもすべて神の光栄のために行え.ユダヤ人にもギリシア人にも,また神の教会にもつまずきとなるな.私はどんなことでもみなを喜ばせるように努めている.人々が救われるように,私は自分の利益ではなく多くの人の利益を求めている.
(注釈)
実際上の解決とつまずきを避ける
*¹ キリスト教に改宗しなかったイスラエル人のこと(〈新約〉ローマ人への手紙7・5).
キリスト信者は「神のイスラエル」(ガラツィア人への手紙6・16節),すなわち,まことのイスラエルである.
*² 偶像への供え物は,悪魔に供えるものである.それで供え物にもその後の宴会にもキリスト信者は参加できない.
*³ 偶像の宴会でないかぎり,偶像の供え物の肉を食べてよい(8・4,8-9).しかし弱い者をかえりみて,愛をもって(27-28節)時にはそれも食べないほうがよい場合がある.
*⁴ 詩篇24・1参照.→「地とそこにあるもの,世とそこに住む者,すべて主のもの.」
*⁵ 自分の良心の自由のこと.良心の判断は,他人の考え方に左右されるものではない.ゆえに,この場合,供え物となった肉について,自分の判断を変えねばならないとは言わない.
しかし,弱い人のつまずきにならぬように,時として遠慮しなければならない.
* * *
○第5パラグラフの訳注:
コリント人への第一の手紙:第2章9節
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 2:9
『書き記されているとおり,「*目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.』
(注釈)* 旧約聖書・イザヤの書64・3参照.
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