2011年11月1日火曜日

223 高潔な無神論者 (10/22)

エレイソン・コメンツ 第223回 (2011年10月22日)

ブラームス “Brahms” の音楽がいかに魂の偉大さを証明するものであるかに触れたエレイソン・コメンツ(第221回)を読んだ若いブラジル人読者が,自分の内にくすぶっている心のほうが不熱心なカトリック教徒 “a lukewarm Catholic” の内にくすぶっている心よりはまだましなのではないかと尋(たず)ねてきました(マテオ聖福音書・12章20節参照)(訳注後記).この対比は無神論者の徳 “the virtue of the pagan” を強調し「生ぬるい,怠惰な」カトリック教徒たちの徳 “the virtue of “warm, lazy” Catholics” に疑問を呈(てい)するのが目的です.もちろん無神論者の徳 “pagan virtue” は称賛に値するもので,カトリック教の中途半端さ “Catholic lukewarmness” は非難に値しますが,その背後にはもっと大きな疑問が横たわっています.信心深いカトリック信徒 “a believing Catholic” であることはどれほど大切なことでしょうか? 信仰の徳 “the virtue of faith” はどれほど重要でしょうか? 永遠が長く続くと同じように信仰の徳は重要であり続けなければならない,というのがその疑問への答えです.

信仰が最高に価値のある美徳であることは4つの福音書を読めば明らかです.私たちの主イエズス・キリストが,肉体的あるいは霊的な治癒(ちゆ,=癒(いや)し)の奇跡を施された後で,その対象となった人に対し,例えばマグダラのマリア “Mary Magdalene” の場合と同じように(ルカ聖福音7章50節)(訳注後記),癒された人たちに治癒の奇跡をもたらしたのはその人たちの持つ信仰なのだ,とどれほど繰り返し語っておられることでしょうか? しかも聖書はこのことと同じように,称賛に値する信仰は単なる宗教についての系統立った知識よりはるかに深い意味を持つものだということも明らかにしています.例えば,ローマの百夫長(百人隊長)たち “Roman centurions” は当時の真の宗教たる旧約聖書についての知識はほとんど何も持ち合わせていなかったと思われます.にもかかわらず私たちの主イエズス・キリストは,その中のひとりについて,イスラエル(人)の中に彼ほどの大きな信仰を持った人を見たことがない(マテオ聖福音8章10節)と仰せられました.また,もうひとりについては,宗教的な専門家たちが嘲笑(あざわら)った十字架上のイエズスを神の御子と認めたし(マテオ聖福音27章41節),さらに三人目のコルネリウス(訳注・ “Cornelius” .歩兵隊「イタリア」の百人隊長)は真のカトリック教会に入ることになるすべての異教徒のため先駆者として道を切り開きました(使徒行録10,11章)(訳注後記).こうした無神論者の百人隊長たちは,教会の司祭,書士たちや古代人が持たなかった,あるいはかつては持っていながらすでに失ってしまった何を持っていたのでしょうか?

この地上のあらゆる人にとって,人生の始めから終わりまで,無神論者であろうと非無神論者であろうと “pagans and non-pagans” みな一様に,究極的にはすべて神から来るさまざまな善い物事と人間の邪悪さから来るさまざまな悪い物事との相克(そうこく)に絶えず直面します.だが悪人 “wicked men” ははっきり目立つ一方で神御自身は目に見えません.だから善を信じないとか神の存在さえも信じないというのはよくあることです.だが善良な心の持ち主 “men of good heart” は人の善良さを信じる一方で,絶対的ではなくても相対的に悪を割り引いて考えます.それに対し,邪悪な心の持ち主 “men bad of heart” は自分の周りのあらゆる善を軽視します.ところで,どちらの人間も明確な宗教の知識を持ち合わせていないとしても,前述の百夫長のように,善良な心の持ち主は宗教に出会うや否やすぐにそれに気付き理解するのに反して,悪い心の持ち主は多かれ少なかれそれを軽蔑(けいべつ)するものです.かくして純真なアンドレアとヨハネは救世主をすぐに理解しましたが(ヨハネ聖福音1章37-40節),教養あるガマリエル(訳注・ “Gamaliel”.律法学士.)にはかなり多くの時間と説得力が必要でした(使徒行録5章34-39節)(訳注後記).ここで別の言い方をしましょう.明確で意図的な信仰の徳は人の善良性およびその背後に神が存在しておられるあらゆる(善良な)もの(訳注・善良性は神の性質そのものである.)に対する潜在的な信頼,すなわち誤った教理に出会えば崩れたり,例えば醜聞(スキャンダル)に直面すれば揺らいでしまうような信頼と裏腹(隣り合わせ)だということです.(原文 “…that at the heart of the explicit and knowing virtue of faith lies an implicit trust in the goodness of life and in whatever Being lies behind it, a trust that can be undermined by false doctrine or shaken for instance by scandal”. )

ブラームスの場合に戻ると疑問は次のようになります.彼は少なくとも人の善良さとその背後に存在しておられる神の善良性 “the goodness of life and of the Being behind it” に対してこの潜在的な信頼を持っていたのでしょうか? その答えは疑いなく否です.なぜなら彼は人生の後半すべてを当時の音楽の都,カトリック信仰の都ウィーン(訳注・原文 “…what was then the capital city of music, Catholic Vienna.”,オーストリアの首都.)で過ごしたからです.そこで彼の音楽の美しさに触れた数えきれないほど多くの友人や教会の司祭たちさえもが彼にその天職が生み出す美とウィーンの宗教の実践を明示的に達成するよう促(うなが)したはずですが,彼はそうした訴えをすべて拒(こば)んだに違いありません.したがってブラームスが自分の霊魂を救わなかった可能性が極めて高いと思われるのですが…それは神のみぞ知るです.

それでもなお,私たちは神がブラームスの音楽をお与えくださったことに感謝します.聖アウグスティヌス “St. Augustine” が見事に言い表わしたように,「あらゆる真実は私たちカトリック信徒に属する」のです.あらゆる美もまた然(しか)りです(原文 “ “All truth belongs to us Catholics.” Likewise all beauty,…” ),たとえ無神論者の手によって創作されたものであっても!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第1パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第12章20節(太字部分)(12章全部を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 12:20 (12:1-50)

麦の穂と安息日(12・1-8)
『そのころの安息日に,イエズスは麦畑を通られた.
弟子たちは空腹だったので,麦の穂をつんで食べ始めた.するとファリザイ人がこれを見て,「あなたの弟子は*¹安息日(あんそくじつ)にしてはならぬことをしています」と言ったので,イエズスは答えられた,「ダヴィドが空腹だったとき供の者と何をしたかあなたたちは読んだことがないのか.彼は神の家に入って,司祭以外の者は彼もまた供のものも食べてはならぬ*²供えのパンを食べた.
*³また,安息日に司祭たちが神殿で安息を破っても罪にはならぬと律法に記してあるのも読んだことはないのか.私はいう,神殿よりも偉大な者がここにいる.
〈*⁴私が望むのはあわれみであって,いけにえではない〉とはどういう意味かを知っていれば,罪のない人をとがめることはしなかったであろう.実に,人の子(=神の子イエズス)は安息日の主である」.』

(注釈)

*¹ ファリザイ人は,穂を摘むことさえ刈り入れと同じように考えていたので,律法で禁じられている仕事だと言った(〈旧約〉脱出の書34・21).

*²〈旧約〉レビ24・5-9,サムエル(上)21・5-6参照.

*³ 燔祭をささげるにあたり,司祭はいけにえの獣を殺し,あるいは火を燃やすなどの行いをするが,これは安息日を犯すことにはならぬ.

*⁴〈旧約〉ホゼア6・6参照.


手なえの人(12・9-13)
『イエズスがここを去って彼らの会堂に入られると,*¹片手のなえた人がいた.人々はイエズスを訴えようとして,「安息日に病気を治してもいいのですか」と尋(たず)ねた.*²イエズスは彼らに答えられた,「一頭の羊をもっている人がいるとする,その羊が安息日に穴に落ち引き上げないでいるだろうか.人間は羊よりもはるかに優れたものである.だから安息日に善を行うのはよいことだ」.
またその人に向かい,「手を伸ばせ」と言われた.その人が手を伸ばすともう一方の手と同じように治った.』

(注釈)

*¹ ヒエロニムスの伝えるところによると,この手なえの男は左官だった.

*² 安息日に善業をするなと言うのではない.一頭の獣の命を救うことがゆるされるなら,人の命を助けることは当然ゆるされているはずである.
こういう対人論証は,ユダヤの学者たちがよく使っていた方法である.


イエズスの柔和(12・14-21)
『ファリザイ人は出ていって,イエズスを亡き者にする手段について相談した.それを知ったイエズスはその地方を去っていかれた.
多くの人がイエズスについてきたので,イエズスはその人たちをみな治し,そして,このことを人に知らせるなと戒められた.
こうして,*¹預言者イザヤの預言は実現した,
「*²私(=神)の選んだしもべ(=イエズス),私の喜びとする愛する者,私は彼の上に霊をおこう.
彼は異邦人に*³まことの信仰を告げる.
彼は争いもせず叫びもせぬ.だれも大路でその声を聞かぬ.
彼は傷んだ葦(あし)も折らず,煙(けむ)る灯心も消さぬ,まことの信仰を勝利に導くまでは
異邦人も彼の名に希望をかける」.』

(注釈)

*¹ イザヤの預言した「ヤベのしもべ」の謙遜と慎みを,イエズスは示された.

*² 18-21節 〈旧約〉イザヤの書42・1-4参照.

「まことの信仰」とは,ヘブライ語の「正義」の現代語訳である
このことばは,神と人間の関係を指し示し神の権利を教える.
神の権利は,天の示しとまことの信仰によってあらわされる.


盲人で唖の悪魔つき(12・22-32)
『そのとき,盲人で唖の悪魔つきが連れ出されたので,イエズスはそれを治された.すると唖は話し目は見えるようになった.人々は驚いて,「この人は*¹ダヴィドの子ではなかろうか」と言い合った.
これをきいたファリザイ人は,「あの人が悪魔を追い払うのは,ただ悪魔のかしら*²ベルゼブルがついているからだ」と言った.
イエズスは彼らの考えを見抜きこう言われた,「分かれ争う国は滅び,分かれ争う町や家もながらえない.もしサタンがサタンを追い払うのなら,みずから分かれ争うことになる.それなら,どうしてその国がながらえよう.*³私がベルゼブルによって悪魔を追い出すなら,あなたたちの*⁴弟子は何によって追い出すのか.こうして彼らがあなたたちをさばく者となる.
ところで私が神の霊によって悪魔を追い出すなら,神の国は到来しているのである.
また強い人を先に縛っておかぬと,強い人の家に入ってその家財を奪えるものではない.縛っておけばその家のものを奪うことができる.
私の味方でない人は私に背き,私とともに集めぬ者は散らしてしまう.
私は言う,*⁵人間のどんな罪も冒瀆(ぼうとく)もゆるされるが,霊に対する冒瀆はゆるされぬ.ことばで人の子に逆らう者はゆるされるが,ことばで聖霊に逆らう者はこの世においても来世においてもゆるされることはない.』

(注釈)

*¹ マテオ9・27参照.メシア(救世主)を指すことば.

*² ブルガタ(ラテン語)訳,「ベルゼブブ」.

*³ ヘブライ人の中にも悪魔をはらう人がいた.それは〈新約〉使徒行録19・12以下にも書かれている.

*⁴「弟子たち」,「子たち」の訳もある.

*⁵ 31-32節 聖霊に反する罪とは,意識的に頑固に真理を拒むこと,イエズスの業を悪魔の業とすることである.こういう人の罪はゆるされない.


ファリザイ人の悪意(12・33-37)
『実がよければその木もよいとされ,実が悪ければその木も悪いとされる.木はその実でわかる.
まむし族の人間よ,悪者のあなたたちにどうしてよいことが言えよう.
口は心に満ちたものを語る.よい人はよいものをよい倉から出し,悪い人は悪いものを悪い倉から出す.
私は言う.人が話した*¹むだごとは,すべてさばきの日にさばかれるであろう.人は自分のことばによって義とされ,また自分のことばによって罪とされる」.』

(注釈)

*¹ 直訳は「根拠のない,客観性のない悪口」.単にむなしいむだごとだけではない.


ヨナのしるし(12・38-42)
『そのとき,ある律法学士とファリザイ人がイエズスに言った,「先生,私たちはあなたがなさる*¹しるしを見たいと思います」.
イエズスはこう答えられた,「この悪いよこしまな代はしるしを望むが,預言者ヨナのしるし以外のしるしは与えられぬ.すなわち*²ヨナは三日三晩海の怪物の腹の中にいたが,同様に人の子は三日三晩地の中にいる.
*³さばきの日,ニネヴェの人は今の代の人とともに立ち上がり,今の代を罪に定めるだろう.彼らはヨナのことばを聞いて悔い改めたからである.しかもヨナにまさる者がここにいる.
さばきの日,*⁴南の女王は今の代の人とともに立ち上がり,今の代を罪に定めるだろう.女王はソロモンの知恵を聞こうとして地の果てから来たからである.しかもソロモンにまさる者がここにいる.』

(注釈)

*¹ イエズスが主張する権利を証明する不思議な奇跡のこと.

*²〈旧約〉ヨナの書2・1参照.

*³ ニネヴェの人々葉、改心を説くヨナの説教を信じた.ユダヤ人たちは,これほどの奇跡を見てもイエズスのことばを信じようとしない.

*⁴南の女王とは,パレスチナの南にあるサバの国の女王である(〈旧約〉列王(上)10・1-10).


悪霊(12・43-45)
『*¹汚れた霊は人から出るとき,休みを求めて荒れ地をさまよっても休める所を見つけない.そこで,〈出てきた元の家に帰ろう〉と帰ってみると,その家は空いていて掃(は)き清められ,整えられているので,自分より悪い七つの霊を連れにいき,帰ってきてそこに住む.そうなるとその人の後の状態は前よりも悪くなる.悪いこの代もまたそれと同じことである」.』

(注釈)

*¹ 43-45節 ユダヤ人の将来を暗示する.彼らは洗者ヨハネとイエズスの宣教によっていくらか悔い改める様子を見せたが,のちに,不信仰のまま残り,悪魔の鎖にしめつけられた.


イエズスの家族(12・46-50)
『イエズスがなお群衆に話しておられると,彼の母と*¹兄弟たちが話しかけようとして外に来た.(*²ある人が「ほら,あなたの母と兄弟が話そうとして外に立っています」と言った.)
*³イエズスはその人に向かい,「私の母とはだれのことか,兄弟とはだれのことか」と仰せられ,弟子たちのほうを手で指し示して,「ごらん,これが私の母,私の兄弟である.天にまします父のみ旨を果たす人はすべて私の兄弟,私の姉妹,私の母である」と仰せられた.』

(注釈)

*¹ 中近東の用語では,従兄弟,近い親戚をも「兄弟」と言う.

*² 主な古写本,権威ある翻訳本にないこの節を,マルコとルカにまねた後世の書き入れと考える聖書学者が多い.

*³ イエズスの教えを受け入れる誠実さがないならば,肉親関係といえども神の国の前に無価値である.
イエズスの母としてマリアの権威は偉大であるが神のみことばを聞くにあたって,彼女の誠実さはそれよりも偉大である


* * *

第2パラグラフ4行目の訳注:
新約聖書・ルカによる聖福音書:第7章50節(太字部分)(36節から掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE – 7:50 (7:36-50)

罪の女(7・36-50)
『あるファリザイ人がともに食事をしてくれるようにイエズスを招いたので,イエズスはその家に行き,食卓につかれた.
*¹イエズスがファリザイ人の家で食卓につかれたのを知って,その町で罪女(ざいじょ)とうわさのある女が,香油をいれた壷(つぼ)を持って入ってきた.その女は泣きながら,*²イエズスのうしろ,その御足の近くに立ち,涙で御足をぬらし,自分の髪の毛でそれをぬぐい,御足にくちづけして香油をぬった.
これを見た招待主のファリザイ人は心の中で,「この人がもし預言者なら,自分に触れた女が何者で,どんな人間かを知っているはずだ.この女は罪人なのに」と考えた.
そのときイエズスは,「シモン,私はあなたに言いたいことがある」と言われた.彼が,「先生,何ですか」と言うと,「ある貸し主に二人の負債人がいて,一人は五百デナリオ,一人は五十デナリオの負債があった.返すあてがなかったので,貸し主は二人をゆるした.すると,この二人のうちどちらがより多くその人を愛するだろうか」と言われた.シモンは,「多くゆるしてもらったほうだろうと思います」と答えた.イエズスは「その判断はよろしい」と言われた.
それから女をふりかえり,シモンに向かい,
「この婦人をごらん.あなたは私が入ってきても,足に水をそそいでくれなかったのに,この人は私の足を涙でぬらし,自分の髪の毛でふいてくれた.あなたはくちづけしなかったけれど,この人は*³私が入ったときから,たえず私の足にくちづけした.あなたは私の頭に油をぬらなかったけれど,この人は足に香油をぬってくれた.
だから私は言う.*⁴この人の罪,その多くの罪はゆるされた.多く愛したのだから.少しゆるされる人は,またすこししか愛さない」と言われた.
それから女に向かい,「あなたの罪はゆるされた」と言われたので,列席の人は,「罪さえもゆるすこの人は何者か」と心の中で思った.
イエズスは女に向かい,「あなたの信仰があなたを救った.安心して行きなさい」と言われた.』

(注釈)

*¹ この話を,マテオ福音(26・6-13),マルコ福音(14・3-9),ヨハネ福音(12・1-8)の記すベタニアの出来事と混同してはならない.
ルカは慎みをもって,その女の名を記すことをさけているが昔の典礼ではあったように次のルカ福音(8・2)のマグダラのマリアのことであると考えても福音書にそむくとはいえない.
→ ルカ聖福音書8・1-3
「(…イエズスは,説教し,神の国の良い便りを告げながら,町々村々を巡られた.十二使徒も彼に同行していた.さらに,かつて悪霊や病気から解放された婦人たち,すなわち七つの悪魔が去った*¹マグダラと言われるマリア…その他にも多くの婦人たちが自分たちの財産で彼らを助けていた.」
(注釈・ *¹ 前章に記された罪の女とも考えられる.するとヨハネが記すマルタとラザロの妹マリアと同一人物となる.)

*² 中近東の人々は,腰掛けのようなものの上に座り,足を横に出して食べる.部屋に入る前には履物をとるので,素足である.主人は来客の頭に油をぬる習慣であった.

*³ ブルガタ(ラテン語)訳では「彼女が入ってきてから」となっているが,テキストの訂正でまちがいである.

*⁴ふつうは「彼女が多く愛したから,その多くの罪がゆるされた」と訳す.


* * *

第2パラグラフのあとの3つの訳注:
①新約聖書・マテオによる聖福音書:第8章10節(太字部分)(1-17節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 8:10 (8:1-17)

らい病人の治癒(8・1-4)
『*¹イエズスが山を下られると,多くの人々が後について来た.そのとき一人のらい病人がきてひれ伏し,「主よ,あなたがそうしようと望まれるなら,私を治してください」と言った.イエズスは手を伸ばして触れ,「私は望む.治れ」と言われた.するとすぐらい病は治った.
*²イエズスは,「だれにも言わぬように,口を慎め.ただ,司祭のところに行って自分を見せ,その回復の*³証拠としてモーゼが命じたささげ物をせよ」と言われた.』

(注釈)

*¹ 1-4節 白らいは,小アジアにおいてもっとも恐ろしい悲惨な皮膚病で,いまもまだパレスチナに相当ある.

*² モーゼのおきてでは(〈旧約〉レビ14・2),治ったら病人はまた社会に受け入れられる前に,司祭たちのわたす回復証明書を受けねばならなかった.

*³「証拠として」には,二つの解釈がある.その一つ,「エルサレムの司祭にとって,らい病人さえも治す人が現れたという証拠になる」.もう一つ,「この場合のささげ物は,らい病が治った証拠である」.


百夫長の下男(8・5-13)
『イエズスがカファルナウムに入られると,一人の百夫長が来て,「主よ,私の下男が家で寝ています.中風で大変苦しんでいます」と言った.イエズスは「私が行って治そう」と言われた.
百夫長は,「主よ,私はあなたを私の屋根の下に迎える値打のない人間です.あなたがただ一言おっしゃってくだされば,私の下男は治ります.私自身も権威の下についていますが,私の下にも兵卒がいます.そして,こちらの者に〈行け〉と言えば行き,あちらの者に〈来い〉と言えば来ます.また下男に〈これをしろ〉と言えばそうします」と答えた.
これを聞いて感心されたイエズスは,ついてきた人々に向かって,「まことに私は言う.イスラエルのだれにも,私はこれほどの信仰を見たことがない
*¹私は言う.多くの人が東西から来て,アブラハム,イザク,ヤコブとともに天の国の宴席に入るが,*²国の子らは外の闇(やみ)に投げ出され,そこで泣いて歯ぎしりするだろう」と言われ,百夫長に向かって,「行け.あなたが信じたとおりになるように」と言われた.下男はそのとき病気が治った.』

(注釈)

*¹ 永遠の生命は,よく宴会にたとえられる.

*²「国の子」とはユダヤ人である.彼らは天の国に対して,異邦人よりも権利をもっていた.しかしキリストを信じないから永遠の宴席から追い出され,百夫長のように信仰厚(あつ)い異邦人がそれに代わるであろう.


ペトロの義理の母(8・14-17)
イエズスがペトロの家に来られた.ペトロの義理の母が熱病で寝ていた.それを見て,ペトロの義理の母の手に触れられると,熱は去り,彼女は起き上がってイエズスをもてなした.夕暮れ時になると人々が悪魔つきを大ぜい連れてきたので,一言で悪霊を追い出し,病人を治された.
こうして,預言者イザヤのことばは実現した,
「*¹彼はわれわれのわずらいを取り去り,われわれの病気を背負った」.

(注釈)*¹ 預言者イザヤがメシア(ヤベのしもべ)について言っているとおり,イエズスは罪の償いをみずから背負ったけれども,同時に罪の結果である病気の上に権威を有する(〈旧約〉イザヤ53・4).

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②同・マテオによる聖福音書:第27章41節(太字部分)(27-54節を掲載予定)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:41 (27:27-54)


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③新約聖書・使徒行録:第10,11章
THE ACTS OF THE APOSTLES – CHAPTERS 10 & 11

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第3パラグラフの訳注:
①ヨハネ聖福音1章37-40節(太字部分)(35-42節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN - 1:37-40 (1:35-42)

最初の弟子(1・35-51)
『次の日,二人の弟子とともにそこに立っていたヨハネ(洗者)は,イエズスが通りかかられるのに目をとめ,「神の小羊を見よ」と言った.それを聞いた二人の弟子はイエズスについていった.
ふり向いて二人の弟子がついてくるのを見られたイエズスは,「何をしてほしいのか」と尋(たず)ねられた.二人は,「ラビ――これは〈先生〉の意味である――,あなたはどこに泊まっておられますか」と言った.イエズスは「見に来い」と言われた.二人はついていって,イエズスの泊まっておられる所を見,その日はそこに泊まった.時は午後四時ごろであった.
ヨハネのことばを聞いてイエズスについていった二人のうちの一人に,シモン・ペトロの兄弟アンドレアがいた
.夜明けごろ,兄弟シモンに出会ったアンドレアは,「メシア ――キリストの意味――に会った」と言って,シモンをイエズスのところに連れてきた.イエズスは彼を見つめて,「あなたはヨハネの子シモンだが,*¹ケファ――岩(ペトロ)の意味――と呼ばれるだろう」と言われた.…』

(注釈)*¹ 新しい名をつけたのは,神からの新しい使命を与えるというしるしである.イエズスがのちにペトロに与える使命は,教会の土台,すなわちかしらである.

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②使徒行録5章34-39節(太字部分)(12-42節を掲載予定)
THE ACTS OF THE APOSTLES – 5:34-39 (5:12-42)


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(注)訳注の未完成の部分は,後から補充・追加いたします.

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