2011年10月30日日曜日

先祖代々のプライド

エレイソン・コメンツ 第222回 (2011年10月15日)

数か月前に出版されたイエズス(キリスト)の生涯に関する二作目の著書の中で教皇ベネディクト16世は,ユダヤ人たちはもうこれ以上,神殺し,すなわち神の殺害 (原文・ “deicide, i.e. the killing of God” )の責めを負わされるべきでないとジャーナリストたちに早合点させるような所見を述べられました.もっと悪いことに,5月17日には米国司教会議の世界教会(又は〈世界〉普遍教会・キリスト教会一致運動)および異宗教関係問題事務局の事務局長 (原文・ “the executive director of the US Bishops’ Conference’s Secretariat for Ecumenical and Interreligious Affairs” ) が,歴史上のいつの時代においてもユダヤ人たちを神殺しの罪で告発すれば必ずカトリック教会との交わりが断たれることになると述べました.今日,多くの人々が信じたいと思っていることに反して,いかに手短な形であろうと,イエズスの司法殺人について真実のカトリック教会が常に何を教えてきたかを今こそ思い起こす時です.

まず第一に,イエズスの殺害は本当に「神殺し “deicide” 」,すなわち神の殺害だったのです.なぜならイエズスは神の三つの位格のひとつを備えておられたのであり,神性に加えて人性をもお取りになった方だったからです(原文・ “…Jesus was the one of the three divine Persons who in addition to his divine nature had taken a human nature”. )十字架の上で殺されたのはだったのでしょうか? それはただイエズスの人性(訳注:=人としてのイエズスの身体)だけです.だが十字架の上でイエズスの人性において殺された方はどなた(誰)だったのでしょうか? それは神の第二の位格,すなわち神に他なりません(原文・ “…the second divine Person, i.e. God”. ).つまり神が殺されたのであり,神殺しの罪が犯されたのです.(訳注後記)

第二に,イエズスは私たち罪深い人間をすべてその罪から救うために十字架の上で死なれました.その意味で,あらゆる人間がイエズスの死の目的でしたし今でもそうです.だが,ただユダヤ人(指導者と民衆)だけがその神殺しの第一の主要な仲介者だったのです.なぜなら,複数の福音書から明らかなように,もっとも関わりが強かった異邦人ポンツィオ・ピラト(訳注・原文・ “Pontius Pilate”.当時ユダヤを支配していたローマの総督)は,ユダヤ人指導者たちがユダヤ人民衆をたきつけてイエズスを十字架につけよと強く求めるよう仕向けなければ,決してイエズスに十字架刑を宣告することはなかったからです(マテオ聖福音書・27章20節参照)(訳注後記).確かに聖トマス・アクィナスは学識を持った指導者たちは無学な民衆よりも罪深い,と言っていますが(神学大全・第3章47,5)(原文・ “…says St Thomas Aquinas (Summa III, 47, 5)” ),彼らはみな一斉(いっせい)に叫びイエズスの血が彼ら自身とその子孫の上にしたたるよう求めたのです(マテオ27章25節)(原文・ “…they all cried together for Jesus’ blood to come down upon them and their children (Mt. XXVII, 25)”. )(訳注後記).

第三に,少なくとも教皇レオ13世 “Pope Leo XIII” はイエズスを殺せと強く求めた当時のユダヤ人たちと現代のユダヤ人集合体との間に実際の連帯が存在すると考えました.彼はイエズスの聖心(みこころ)に人類を奉献する行為 “Act of Consecration of the Human Race to the Sacred Heart of Jesus” において,19世紀末以降ずっと,神が「かつて神の選民だったその民族の子孫に対し慈悲の御目を向けて下さるよう,すなわち,昔は救世主の御血が自分たちにかかるようにと叫んだユダヤ人に,今は贖罪(しょくざい)と生命の洗盤(すなわち洗浄)(原文・ “a laver (i.e. washing)” ) が彼らに下りてくるよう」カトリック教会全体に祈るべく仕向けてこなかったでしょうか? (訳注後記)

だが,数世紀にわたりユダヤ人の間に存在するそのような連続性を感知したのは決して教皇レオ13世だけではありません.今日,彼らユダヤ人自身は旧約聖書の神により与えられた権利を根拠にパレスチナの土地に対する自らの所有権を主張しているのではないでしょうか? 今までに地球上に彼ら以上に誇らしげに自らを昔から全く同一のものとして識別している(原文・ “…proudly self-identifying as identical down the ages” )民族国家(原文・ “a race-people-nation” )が他にあるでしょうか? そもそも神により救世主を抱くよう育てられながら,悲しいかな,その救世主が現れたとき彼らユダヤ人は,集団的に,彼を認めることを拒否したのです.また集団的に,そこには常にいくつかの高貴な例外があるという意味で,彼らユダヤ人はその拒否に忠節を守ってきたのであり,それによって彼らはアブラハム,モーゼ,旧約聖書 “Abraham and Moses and the Old Testament” の宗教からアンナ,カイファ,タルムード “Annas, Caiphas and the Talmud” の宗教へと自らの宗教を変えたのです(訳注後記).悲劇的なことに,まさに神から受けたメシア信仰の(救世主的な)教えそのものが彼らユダヤ人が偽の救世主だと固執する一人の人(訳注・=イエズス・キリスト)を拒否するよう追い立てているのです.カトリック教会は常に彼らユダヤ人がこの世の終りに改心するだろうと教えてきましたが(ローマ人への手紙・11章26-27節参照)(訳注後記),彼らは実際にそうするときまで,集団的に真の救世主の敵として行動し続けることを選択する運命にあるようです.教皇がそのような古代から続く諸真理を排除することができるものでしょうか?

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第2パラグラフの訳注:
神の三つの位格のひとつ “the one of the three divine Persons” について.
“聖三位”,"The Holy Trinity" (英),"Trinitas Sanctus" (ラテン語)

神の三つの位格を表わす聖書からの引用例:

・(新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第1章1-18節)
はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった
みことばははじめに神とともにあり,万物はみことばによって創られた.創られた物のうちに,一つとしてみことばによらずに創られたものはない.
みことばに生命があり,生命は人の光であった.光はやみに輝いたがやみはそれを悟らなかった(それに勝てなかった).

みことばは肉体となって,私たちのうちに住まわれた.私たちはその栄光を見た.それは,御独り子として御父から受けられた栄光であって,恩寵と真理に満ちておられた
…そうだ,私たちはそのみちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けた.なぜなら,律法はモーゼを通じて与えられたが,恩寵と真理はイエズス・キリストによって私たちの上に来たからである.

神を見た人は一人もいない.御父のふところにまします御独り子の神がこれを示された.』

(注)「みことば」とは「父なる神の御独り子イエズス・キリスト」を指している.

(注釈)
福音史家ヨハネは,みことばの永続性を主張し,時が始まる先に,みことばは,父なる神と同じ神性を有しながら異なる位格をもつものとして,存在していたという.
みことばは三位一体の第二の位格である.「みことば」といわれる理由は,父なる神の内的,本質的みことばだからである(創世の書〈旧約〉1章1-5節参照).

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・(新約聖書・マテオによる聖福音書:第28章16-20節)
『(イエズスの御復活後)ガリラヤに行った十一人の弟子は,イエズスが命令された山に登り,イエズスに会ってひれ伏した.けれども中には疑う者もあった.
イエズスは彼らに近づいて言われた,
私には天と地のいっさいの権威が与えられている.行け,諸国の民に教え,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授け,*私が命じたことをすべて守るように教えよ.私は世の終りまで常におまえたちとともにいる」.』

(注釈)
*キリスト紀元以後の歴史家が,すでに実現したと認めている尊い約束である.キリストの教会において生き,行い,勝利を得るのは,キリスト・イエズスである.

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・(新約聖書・使徒パウロのコリント人への第二の手紙:第13章13節)
『…主イエズス・キリストの恩寵,神の愛,聖霊の交わりが一同とともにあるように.』


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第3パラグラフの最初の訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第27章20節(太字部分)(15-26節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:20 (27:15-26)

第3パラグラフの2つ目の訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第27章25節(太字部分)(上記掲載部分に含まれる)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:25

『祝日のたびに総督は民の望む囚人を一人赦免するのを例年のしきたりとしていた.そのころバラバという有名な囚人が獄(ごく)に入っていた.
民が集まったときピラトは聞いた,「おまえたちはだれの赦免を望むのか,バラバなのか,キリストと称するイエズスなのか」.ピラトはイエズスが訴えられたのはねたみのためだと知っていた.
ピラトがまだ法廷にいるときその妻から使者が来て伝言を伝えた,「あの義人(=イエズス)にかかわりをもたないでください.私は今日夢の中であの人を見,たいそう苦しい思いをしました」と.
司祭長と長老は,バラバをゆるしイエズスを殺すよう民をそそのかした.だから総督が「二人のうちだれをゆるしてほしいのか」と聞いたとき,彼らは「バラバを」と答えた.
ピラトは「ではキリストと称するイエズスをどうしたいのか」と聞いた.民は「十字架につけよ」と叫びたてるばかりであった.
自分の努力も実らず,むしろ騒動の起こらんとする気配を察したピラトは,水を取って民の前で手を洗い,「この男の血について私には責任がない.おまえたちで責任を取れ」と言った.
民は「その血はわれわれとわれわれの子孫の上にかかってよい」と答えた
ピラトはバラバをゆるし,イエズスをむち打たせ,十字架につけるために引きわたした.』

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第4パラグラフの訳注:
洗盤 “a laver (i.e. washing)” について.

または水盤とも言う.
ユダヤ教の祭司が祭式に供せられる物の洗浄や手足を洗い清める(沐浴・洗手・洗足)ために用いた青銅(又は真鍮〈しんちゅう〉)の大きなたらいのこと.

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第5パラグラフのはじめの訳注:

・アブラハム “Abraham” …イスラエル民族(ユダヤ人・ヘブライ人)の始祖.名はヘブライ語で,「私はおまえを多くの民(諸国民)の父とする」と,神がアブラムの名をアブラハムと改称したときに仰せられたことに由来する.(旧約聖書・創世の書:15,17,21,22章参照)

・モーゼ “Moses” …紀元前13世紀のイスラエル(ヘブライ)の預言者.エジプトの奴隷状態だったイスラエル民族を解放し,彼らを率いてエジプト脱出からカナンの地へと導いた.途中シナイ山において神から「十戒」を含む律法を授けられた.

・旧約聖書 “the Old Testament” …本来ユダヤ教の正典で,正式の名は「律法・預言書と諸書」.
「旧約」とは神が預言者モーゼを通して人類に与えた契約を意味する.
キリスト教の立場からの名称であり,「新約」と区別して使われる.
①律法〈モーゼ五書〉…歴史書(創世書・脱出〈出エジプト〉書・レビ書・荒野〈民数〉書,第二法〈申命〉書など)
②預言書…(イザヤ書・エレミア書など)
③諸書…教訓書(詩篇・格言書・ヨブ書など)

・アンナ “Annas” …イエズス・キリストの公生活当時(ユダヤ教の大司祭経験者として)非常な権力を有し,ユダヤ教のかしらとして考えられていた.キリストの受難当時に大司祭だったカヤファの義父.イエズスの殺害をカヤファらと策謀した.

・カイファ(カヤファ) “Caiphas” …アンナの継子.

(新約聖書・ルカ聖福音書3:2,ヨハネ聖福音書11:49-53,18:13,14節参照)

・タルムード “the Talmud” …ヘブライ語で教訓,教義の意.前2世紀から5世紀までのユダヤ教ラビたちがおもにモーゼの律法を中心に行なった口伝,解説を集成したもので,ユダヤ教においては旧約聖書に続く聖典とされる.
…歴史的にもユダヤ精神,ユダヤ文化の精華であり,その生活の模範となり創造力の根源となっている.

(以上,フェデリコ・バルバロ神父訳聖書(講談社),ブリタニカ国際大百科事典,大辞泉,リーダーズ英和辞典,ジーニアス英和大辞典,ランダムハウス英和大辞典他を参照.)

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第5パラグラフの2つ目の訳注:
使徒聖パウロによるローマ人への手紙:第11章26-27節(太字部分)(25-36節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS – 11:26-27 (11:25-36)

『兄弟たちよ,私はあなたたちが自分の知識に自負しないように,この奥義を知ってもらいたい.その奥義とはイスラエル(ユダヤ人)の幾分かがかたくなになったのは,異邦人が入ってその数が満ちるまでである.
こうして全イスラエルは救われるであろう.「シオンから解放者が出てヤコブから不敬を取り除く.それは私(=神)が彼ら(イスラエル)の罪を除くとき,彼らと交わす私の契約である」と書かれている
福音についてはあなたたち(=異邦人)のためにイスラエルが敵にされ,選びについては先祖のためにイスラエルは愛されている(注・神の選民として).神の賜と召し出しは後悔のもとになるものではない.
あなたたちは前には神に不従順であり,今は彼ら(イスラエル)の不従順のために(神の)あわれみを受けたのであるが,彼ら(イスラエル)もあなたたち(異邦人)の受けたあわれみによって今は不従順な者となった.それは彼らもいつかあわれみを受けるためである.
こうして神は,すべての人にあわれみを現すために,すべての人を不従順に閉じ込められた.
ああ,神の富と上知と知識の深さよ,そのさばきは計り知れず,その道はきわめがたい.
「主の思いを知った者がいるか.だれがそのはかりごとの相談役であったか.先に神に与えて,のちにその報いを受けた者があったか」.
すべては神からであり,神によってであり,神のためである.神に代々に光栄あれ.アメン.』

(注)前後の部分(ローマ人への手紙第11章9-11章)(+〈注釈〉)参照.

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