エレイソン・コメンツ 第129回(2009年12月26日)
またクリスマス・デー(キリスト御降誕祭ミサの日)が今年も訪れ,私たちの主がその受肉(“Incarnation”.人と同じように肉の身体を身にまとわれた神の御言葉(=神の御子キリスト)という意味.)と御降誕によって全世界,とくに聖母に大きな喜びをもたらされたことを私たちに思い起こさせて過ぎ去りました.聖母は私たちの主を腕の中に安らかに抱き,母親のように気を配り世話をするのですが,同時に聖母は主を自らの神として崇敬もしているのです,悲しいかな,多少なりとも宗教心を持ち合わせている者なら,私たちの周りの世界がクリスマスの喜びにつけ込み利用はしても肝心の神のことをほとんど忘れてしまっている有様を見て嘆かずにいられるでしょうか?
この点について言えば,今日のクリスマスの喜びはチェシャーキャットの笑顔(“Cheshire Cat”.「不思議の国のアリス」に登場する猫.訳もなく笑う.)と似ています.とくに,資本主義の国々においてそうです.(遡って1931年にローマ教皇ピオ11世は資本主義が世界中に拡大しつつある点に注目しています - 「クアドラジェジモ・アンノ」 “Quadragesimo Anno” 103~104ページ).「不思議の国のアリス」を読んだことがある人は,猫のほかの部分が見えなくなってもその笑顔だけ残っていたことを覚えているでしょう.実体は消えてもその効果は少なくともしばらくの間残るのです.とりわけ第二バチカン公会議のおかげで「神の御子」 “Divine Child” への信心は全滅しつつありますが,クリスマスの喜びだけが残っているというわけです.これは,ひとつには最高に寛大で惜しみなくお与えになる神が,その御子の誕生を毎年人々の間で祝われるときに現実の恵みを洪水のように注がれるので,人々が一年のどの時期よりも少しいい人になってそれに答えるからです.またひとつには喜びは楽しめるからです.だが,こちらの方にはむしろ不安なところがあります.
なぜなら,神に対する真の崇拝は失われ続け,それとともに,私たちの永遠の幸福のために必要不可欠である,救い主の到来が持つ意味についての真の理解もすべて失われ続け,挙句の果てにクリスマスの喜びが私たちすべてが知る通りの商業主義とばか騒ぎに化しているからです.チェシャーキャットの笑顔は猫自体がいなくなったあといつまでも存続することはできません.たとえ最良の「内面の快い感覚 “NIFs” - “Nice Internal Feelings”」でも,その対象物なしにいつまでも存続することはあり得ません.もしイエズス・キリストが神でないのなら,まして人類の唯一の救い主でないのなら,どうして彼の誕生を祝うのでしょうか?私は自分の “NIFs” を愛しますが,もしその感覚がそれ自体だけに基づいて生まれるものだとすれば,それは遅かれ早かれ崩れ去り,苦い幻滅感だけが後に残ることでしょう.私はクリスマス気分にすっかり浸りきる( “feeling all “Christmassy” )ことを愛するかもしれませんが,その気分の基になっているものの代わりに自分の感覚に反応しているのだとしたら,私は感情的な崩壊か何かに向かって進んでいるのだということになります.
これは感傷と感情との違いです.例えば,ひとり息子が墓に運ばれていくのを見てひどく取り乱したナイン(ブルガタ(ラテン語)訳では「ナイム」“Naim” )のやもめに会われたとき(聖書・聖ルカ福音書7.11-15.イエズスは大勢の人々が見ている前で,死んでいたそのひとり息子の若者を生き返らせて母親に渡された.),私たちの主には深い憐れみの感情が心一杯に満ちていました.しかし,そのときの主の心には何の感傷もなかったのです(あえて言えば「人となられた神の詩」“The Poem of the Man-God” においても然りです).(訳注・「エレイソン・コメンツ 第108回」でこの本のことが取り上げられています.E.C.-アーカイブ参照.)なぜなら,どんな感情もそれ自体を目的に求められることは決してないからです.主の感情は常に現実の対象物によって直にかきたてられました.たとえば,ナインのやもめの悲嘆は主御自身が墓に運ばれる時の聖母のやるせない孤独感がどんなものかを主の心に鮮明に浮かび上がらせました.
主観主義( “Subjectivism” )は私たちの時代の厄介者です.すなわち,客観的な現実を締め出し,それを自分の内面で主観的に自分の気に入るように再配置するからです.主観主義は現在カトリック教会を荒廃させている新現代主義( “Neo-modernism” )の核心です.また精神をその外側にある対象物から切り離す主観主義は必然的に心に感傷を抱かせます.なぜなら,それは人の心から感情のためのすべての外面的な対象物を取り去ってしまうからです.資本主義的クリスマスは最終的には感傷によって殺されるでしょう.人々は真の神に,私たち人類の主であるイエズス・キリストに,またその御降誕(=生誕)の真の重要性に立ち返るべきです.さもないと自らの最良の“NIFs”である「クリスマス気分 “NIFs”」(“Christmassy” NIFs )の一部が崩れ去り,「西洋文明」の数少ない遺物に自滅的な不快感の種をまたひとつ残しかねません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年12月28日月曜日
2009年12月21日月曜日
クリスマスの御馳走
エレイソン・コメンツ第128回(2009年12月19日)
クリスマスに良いニュースをお届けしましょう.12月11日付の英国の週刊紙「カトリック・ヘラルド」の記事から引用したものです.アメリカ合衆国からの報告によれば,現在の経済不況は夫婦の結婚生活を手助けしているそうです.今回の不況は2007年末から始まりました.その年,アメリカの離婚率は既婚女性1,000人につき17.5パーセントでした.その翌年は16.9パーセントでした.アメリカ人の言う「実社会生活上の苦境( “The School of Hard Knocks” )」は私たちに大きな痛手を負わせるものですが,私たちはそこから様々な教訓を確実に学び取ることができるものです!
「アメリカにおける結婚:我々の結束の状況2009年( “Marriage in America : The State of Our Unions 2009” )」というのがその報告書のタイトルです.報告書はバージニア大学のアメリカ人の価値観研究所( “Institute for American Values, University of Virginia” )と結婚・家族および全国婚姻計画センター( “Center for Marriage and Families and the National Marriage Project” )が共同でまとめたものです.同センター所長のブライアン・ウィルコックス氏によると,何百万人ものアメリカ人が「自家製の救済戦略」を選択し,「現在の難局を乗り切るため自分たちの夫婦関係や家族関係に依存し合っている」のだそうです.私たちの「(馬のいらない)新しい馬車( “new-fangled world” =自動車のこと)」の世界が破綻したことで,古い諺がいくつも復活しているというのです.たとえば,「どんな雲にも銀の内張りがある」( “Every cloud has a silver lining”.暗雲(=逆境)の縁などから差し込む陽光という意味.苦あれば楽あり.),「血は水よりも濃し」( “Blood is thick and water is thin” 苦境のときには他人よりも血の繋がった親兄弟の方が頼りになるということ.),「我が家に勝る所はない(=我が家が一番)」( “There’s no place like home”. )などなど.
ウィルコックス氏によって引用された経済危機が結婚した男女を助力しているということのもう一つの根拠は,多くの夫婦がクレジットカードによる借金からの解放を決断しているというものです.連邦準備制度理事会の報告によれば,アメリカ人は過去一年間でリボ払いの負債総額を900億ドル減らしたそうです.ウィルコックス氏は景気後退のためアメリカ人がますます食糧を自給自足でまかない,衣料を自力で作るか修理し,外食の頻度を減らすようになったことで「家庭経済」(“home economy”)が蘇ったと言っています.同氏は「多くのカップルは困難なときに結婚が生み出す経済的,社会的支援効果を再評価しているようだ」と述べています.
夫たちよ,男らしくなりなさい.そして妻に支えてもらいなさい.妻たちよ,あなたたちが生来持つ女性特有の天賦の才を誇りとしそれを楽しみなさい.それは男性が女性並みには決して持ち合わせていないものなのです.そして,夫を頼り夫から力と勇気をもらいなさい.男性は女性なしには普通はゼロです(そうです,ゼロです!).女性は男性なしには普通はゼロ以下だとさえ言ってもよく,言い換えれば未完のゼロないしは上が開いたU(アルファベット大文字の)です.しかし,Uを支えとしてゼロの真下に置けば,突然8が得られます!奇跡のメダイ ( “Miraculous Medal”.“Médaille Miraculeuse” (仏語).1830年,フランス・パリの聖ヴァンサン・ドゥ・ポールの愛徳姉妹会で当時修練女だった聖カトリーヌ・ラブレーに聖母マリアが現れ,このメダイを作って世界中の人々に(宗教人種等による一切の差別例外なく)配るように依頼した.聖母マリアは地球を手に持ちそれを高くかかげて神に捧げていた.メダイの絵柄はキリスト信者の信仰を象徴したもの.十字架とマリアのMの文字,槍で刺しぬかれた贖罪主キリストの心臓,剣で刺しぬかれた共贖者聖母マリアの心のシンボル(裏面)と聖母が神に取り次ぐ無数の恵みを示す光線(表面)が描かれ,聖マリア像の周りには「原罪なくして宿られ給いし聖マリア,あなたにより頼む私たちのためにお祈り下さい」と記されている.聖母御出現から2年後の1832年2月にパリで致命的なコレラが流行り2万人以上の死者を出すほどになった時,同会の修道女たちはこのメダイを人々に配り始めた.メダイを通して聖母にすがった多くの人々が聖母の保護と自らの回心によって疫病を癒され,聖母の言葉は瞬く間にパリ中に広がり,人々はこのメダイを「奇跡のメダイ」と呼んだ.[フランスの「奇跡のメダイの聖母聖堂」(聖母が御出現になった聖堂)公式ウェブサイトより引用.日本を含む世界中のカトリック教徒の間でこのメダイは厚く信心されている.信者でなくとも信じるならば例外なく必要な恵みを神に取り次いでいただける.当地の聖堂には世界主要各国語でのパンフレットが置かれている.例年現地の人も含め世界中から巡礼者が聖母に祈りを捧げに訪れる.聖堂には死後の腐敗を免れた聖カトリーヌ・ラブレーの遺体が安置されている.用語集にも情報を記載予定.] )の裏面には、私たちの主の十字架がマリアのMの上に配置されていないでしょうか?私たちの主はその受難の遂行を完全なものとして果たすために,持てるあらゆる神としての能力を完全に放棄したのです.しかし,主はその人間性(人間としての能力)だけで,つまり聖母からの人間的援助なしに,私たちの贖罪を果たし得たでしょうか?それは決して不可能です!
常識を弁えた経済学者はさほど多くいませんが,「おとぎの国( “la-la-land” )」に暮らしていないごく少数の経済学者たちは,今回の不況がさらに悪化すると見ています.母たちよ,家事全般のことを再学習して一家の切り盛りの仕方を身につけなさい.父たちよ,菜園作りを再学習して自力生活の仕方を身につけなさい.真理と現実を愛するすべての人たちよ,家族関係の絆だけでなく近所付き合いの絆も深めて互いに交流し合いなさい.私たちはこれから死活問題に直面するでしょう.これに対し,よほど本気になって真面目に方向性を変えない限り,私たちの政府やマスコミは決して助けてくれようとはしません.「私たちの助けは主の御名のうちに在る.」その主は一年のこの時期に無力な人間の嬰児の姿をとっておられます.だがこの無力な嬰児こそが全能の神なのです!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
クリスマスに良いニュースをお届けしましょう.12月11日付の英国の週刊紙「カトリック・ヘラルド」の記事から引用したものです.アメリカ合衆国からの報告によれば,現在の経済不況は夫婦の結婚生活を手助けしているそうです.今回の不況は2007年末から始まりました.その年,アメリカの離婚率は既婚女性1,000人につき17.5パーセントでした.その翌年は16.9パーセントでした.アメリカ人の言う「実社会生活上の苦境( “The School of Hard Knocks” )」は私たちに大きな痛手を負わせるものですが,私たちはそこから様々な教訓を確実に学び取ることができるものです!
「アメリカにおける結婚:我々の結束の状況2009年( “Marriage in America : The State of Our Unions 2009” )」というのがその報告書のタイトルです.報告書はバージニア大学のアメリカ人の価値観研究所( “Institute for American Values, University of Virginia” )と結婚・家族および全国婚姻計画センター( “Center for Marriage and Families and the National Marriage Project” )が共同でまとめたものです.同センター所長のブライアン・ウィルコックス氏によると,何百万人ものアメリカ人が「自家製の救済戦略」を選択し,「現在の難局を乗り切るため自分たちの夫婦関係や家族関係に依存し合っている」のだそうです.私たちの「(馬のいらない)新しい馬車( “new-fangled world” =自動車のこと)」の世界が破綻したことで,古い諺がいくつも復活しているというのです.たとえば,「どんな雲にも銀の内張りがある」( “Every cloud has a silver lining”.暗雲(=逆境)の縁などから差し込む陽光という意味.苦あれば楽あり.),「血は水よりも濃し」( “Blood is thick and water is thin” 苦境のときには他人よりも血の繋がった親兄弟の方が頼りになるということ.),「我が家に勝る所はない(=我が家が一番)」( “There’s no place like home”. )などなど.
ウィルコックス氏によって引用された経済危機が結婚した男女を助力しているということのもう一つの根拠は,多くの夫婦がクレジットカードによる借金からの解放を決断しているというものです.連邦準備制度理事会の報告によれば,アメリカ人は過去一年間でリボ払いの負債総額を900億ドル減らしたそうです.ウィルコックス氏は景気後退のためアメリカ人がますます食糧を自給自足でまかない,衣料を自力で作るか修理し,外食の頻度を減らすようになったことで「家庭経済」(“home economy”)が蘇ったと言っています.同氏は「多くのカップルは困難なときに結婚が生み出す経済的,社会的支援効果を再評価しているようだ」と述べています.
夫たちよ,男らしくなりなさい.そして妻に支えてもらいなさい.妻たちよ,あなたたちが生来持つ女性特有の天賦の才を誇りとしそれを楽しみなさい.それは男性が女性並みには決して持ち合わせていないものなのです.そして,夫を頼り夫から力と勇気をもらいなさい.男性は女性なしには普通はゼロです(そうです,ゼロです!).女性は男性なしには普通はゼロ以下だとさえ言ってもよく,言い換えれば未完のゼロないしは上が開いたU(アルファベット大文字の)です.しかし,Uを支えとしてゼロの真下に置けば,突然8が得られます!奇跡のメダイ ( “Miraculous Medal”.“Médaille Miraculeuse” (仏語).1830年,フランス・パリの聖ヴァンサン・ドゥ・ポールの愛徳姉妹会で当時修練女だった聖カトリーヌ・ラブレーに聖母マリアが現れ,このメダイを作って世界中の人々に(宗教人種等による一切の差別例外なく)配るように依頼した.聖母マリアは地球を手に持ちそれを高くかかげて神に捧げていた.メダイの絵柄はキリスト信者の信仰を象徴したもの.十字架とマリアのMの文字,槍で刺しぬかれた贖罪主キリストの心臓,剣で刺しぬかれた共贖者聖母マリアの心のシンボル(裏面)と聖母が神に取り次ぐ無数の恵みを示す光線(表面)が描かれ,聖マリア像の周りには「原罪なくして宿られ給いし聖マリア,あなたにより頼む私たちのためにお祈り下さい」と記されている.聖母御出現から2年後の1832年2月にパリで致命的なコレラが流行り2万人以上の死者を出すほどになった時,同会の修道女たちはこのメダイを人々に配り始めた.メダイを通して聖母にすがった多くの人々が聖母の保護と自らの回心によって疫病を癒され,聖母の言葉は瞬く間にパリ中に広がり,人々はこのメダイを「奇跡のメダイ」と呼んだ.[フランスの「奇跡のメダイの聖母聖堂」(聖母が御出現になった聖堂)公式ウェブサイトより引用.日本を含む世界中のカトリック教徒の間でこのメダイは厚く信心されている.信者でなくとも信じるならば例外なく必要な恵みを神に取り次いでいただける.当地の聖堂には世界主要各国語でのパンフレットが置かれている.例年現地の人も含め世界中から巡礼者が聖母に祈りを捧げに訪れる.聖堂には死後の腐敗を免れた聖カトリーヌ・ラブレーの遺体が安置されている.用語集にも情報を記載予定.] )の裏面には、私たちの主の十字架がマリアのMの上に配置されていないでしょうか?私たちの主はその受難の遂行を完全なものとして果たすために,持てるあらゆる神としての能力を完全に放棄したのです.しかし,主はその人間性(人間としての能力)だけで,つまり聖母からの人間的援助なしに,私たちの贖罪を果たし得たでしょうか?それは決して不可能です!
常識を弁えた経済学者はさほど多くいませんが,「おとぎの国( “la-la-land” )」に暮らしていないごく少数の経済学者たちは,今回の不況がさらに悪化すると見ています.母たちよ,家事全般のことを再学習して一家の切り盛りの仕方を身につけなさい.父たちよ,菜園作りを再学習して自力生活の仕方を身につけなさい.真理と現実を愛するすべての人たちよ,家族関係の絆だけでなく近所付き合いの絆も深めて互いに交流し合いなさい.私たちはこれから死活問題に直面するでしょう.これに対し,よほど本気になって真面目に方向性を変えない限り,私たちの政府やマスコミは決して助けてくれようとはしません.「私たちの助けは主の御名のうちに在る.」その主は一年のこの時期に無力な人間の嬰児の姿をとっておられます.だがこの無力な嬰児こそが全能の神なのです!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年12月15日火曜日
混乱収拾に向けて
エレイソン・コメンツ第127回(2009年12月12日)
リエナール枢機卿が臨終の床で行ったとされる証言内容(エレイソン・コメンツ第121回)は,第二バチカン公会議の後で導入された公会議考案の秘跡授与の典礼によってカトリックの諸典礼の有効性がいかに危険にさらされてきたかということと正確に符節が合うので,容易に真実であると受け入れ得るのではないかという点を解明するのにエレイソン・コメンツ3回分を要しました(エレイソン・コメンツ第124,125,126各回).ある親切な批評家は私が公会議式の諸秘跡を過度に擁護していると考えています.しかし私はその無効性,有効性のいずれも誇張したいと考えていません.
真理を愛する理性的な人間であれば誰しも自分の精神を現実に合わせる以外のことをしようとは望まないからです.なぜなら,真理とは「精神と現実との一致」と定義されるからです.もし状況が黒なら私はそれを黒と呼びたいですし,白なら白と呼びたいです.もしそれが中間で色合いが微妙に変わる灰色であれば,私は心の中でその灰色を実際に見えている以上に灰黒色でも灰白色でもなく実際通りの正確な灰色に認識したいと思います.
さて,実生活において執行されたある一つの秘跡が有効もしくは無効たりえたことは事実です.有効と無効との違いは妊娠と不妊の違いとさして変わりません.しかし,もし公会議式の諸秘跡が常に世界中の「新しい教会」全体(訳注・ウィリアムソン司教の言われる「新しい教会」( “Newchurch” )とは,第二バチカン公会議で取り決められた新しい体制に則って運営される新形態の,すなわち1962年以降から今日に至るまで存続している,第二バチカン公会議下の新体制に則った「新しい形態のカトリック教会」を指している.)で執行されると私たちが見なすなら,私たちはただ,その一部は有効で一部は無効だとだけ言えば済むでしょう.しかし,それら公会議式の諸秘跡はどれもすべて神の宗教を人間の宗教に置き換えることを全面的に押し進める公会議考案の諸典礼によって神の秘跡が無効となるようひっそりと滑り込ませられてきたのです.このことがなぜ「新しい教会」が完全に消滅する過程にあるかということの理由であり,聖ピオ十世会が決してそこに吸収されるわけにはいかないことの理由なのです.
だが,たとえば司祭たちが滑り落ちる道筋のどの地点で教会とは何かについての正確な認識を失ってしまい,もはや教会のなすべきことを行う意向を持つこともできないほどに変わってしまったのでしょうか.このことを知るのは神のみです.多分その地点にたどり着くには私がエレイソン・コメンツ第125回でお示ししたより時間がかかるでしょう.親切な批評家が暗に言っているように,さほど時間がかからないかもしれません.いずれにしても,確かなことを知り得るのは神のみなのですから,私が知る必要はないわけです.私が心の中ではっきりと理解する必要があるのは,公会議考案の諸典礼が神の諸秘跡を神から遠ざける方向に運んだということです.かかる(公会議式の)典礼がカトリック教会の破壊を助長しているということ,それどころかむしろカトリック教会を破壊する目的で考案されたとすら言えることがいったん私にはっきりとわかったからには,私はそうした典礼を避けるべきでしょう.
その一方で,あちこちの司祭が,あるいはそれどころか「新しい教会」全体がどれほど滑り落ちているかについては,私は次の聖アウグスティヌスの偉大な原則に従って判断するつもりです.「(私たちの間では)必然確実なことでは一致(結束)を,(必然性につき)疑わしいことにおいては自由を,あらゆることに慈愛( “charity” )を.」そして,たとえば「新しい教会」内部では,既にすべてがカトリックでなくなってしまったわけでもすべてが依然としてカトリックのまま残っているわけでもないといったような確実なことについて,私は,同じカトリック信徒としての同胞である皆さんに対して不確かなものは何かを判断する自由を認めるつもりです.そして皆さんからも私に対して同じ自由を認めてほしいと望んでいます.神の御母よ,カトリック教会を救出する恵みを神に取り次いで下さい!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
リエナール枢機卿が臨終の床で行ったとされる証言内容(エレイソン・コメンツ第121回)は,第二バチカン公会議の後で導入された公会議考案の秘跡授与の典礼によってカトリックの諸典礼の有効性がいかに危険にさらされてきたかということと正確に符節が合うので,容易に真実であると受け入れ得るのではないかという点を解明するのにエレイソン・コメンツ3回分を要しました(エレイソン・コメンツ第124,125,126各回).ある親切な批評家は私が公会議式の諸秘跡を過度に擁護していると考えています.しかし私はその無効性,有効性のいずれも誇張したいと考えていません.
真理を愛する理性的な人間であれば誰しも自分の精神を現実に合わせる以外のことをしようとは望まないからです.なぜなら,真理とは「精神と現実との一致」と定義されるからです.もし状況が黒なら私はそれを黒と呼びたいですし,白なら白と呼びたいです.もしそれが中間で色合いが微妙に変わる灰色であれば,私は心の中でその灰色を実際に見えている以上に灰黒色でも灰白色でもなく実際通りの正確な灰色に認識したいと思います.
さて,実生活において執行されたある一つの秘跡が有効もしくは無効たりえたことは事実です.有効と無効との違いは妊娠と不妊の違いとさして変わりません.しかし,もし公会議式の諸秘跡が常に世界中の「新しい教会」全体(訳注・ウィリアムソン司教の言われる「新しい教会」( “Newchurch” )とは,第二バチカン公会議で取り決められた新しい体制に則って運営される新形態の,すなわち1962年以降から今日に至るまで存続している,第二バチカン公会議下の新体制に則った「新しい形態のカトリック教会」を指している.)で執行されると私たちが見なすなら,私たちはただ,その一部は有効で一部は無効だとだけ言えば済むでしょう.しかし,それら公会議式の諸秘跡はどれもすべて神の宗教を人間の宗教に置き換えることを全面的に押し進める公会議考案の諸典礼によって神の秘跡が無効となるようひっそりと滑り込ませられてきたのです.このことがなぜ「新しい教会」が完全に消滅する過程にあるかということの理由であり,聖ピオ十世会が決してそこに吸収されるわけにはいかないことの理由なのです.
だが,たとえば司祭たちが滑り落ちる道筋のどの地点で教会とは何かについての正確な認識を失ってしまい,もはや教会のなすべきことを行う意向を持つこともできないほどに変わってしまったのでしょうか.このことを知るのは神のみです.多分その地点にたどり着くには私がエレイソン・コメンツ第125回でお示ししたより時間がかかるでしょう.親切な批評家が暗に言っているように,さほど時間がかからないかもしれません.いずれにしても,確かなことを知り得るのは神のみなのですから,私が知る必要はないわけです.私が心の中ではっきりと理解する必要があるのは,公会議考案の諸典礼が神の諸秘跡を神から遠ざける方向に運んだということです.かかる(公会議式の)典礼がカトリック教会の破壊を助長しているということ,それどころかむしろカトリック教会を破壊する目的で考案されたとすら言えることがいったん私にはっきりとわかったからには,私はそうした典礼を避けるべきでしょう.
その一方で,あちこちの司祭が,あるいはそれどころか「新しい教会」全体がどれほど滑り落ちているかについては,私は次の聖アウグスティヌスの偉大な原則に従って判断するつもりです.「(私たちの間では)必然確実なことでは一致(結束)を,(必然性につき)疑わしいことにおいては自由を,あらゆることに慈愛( “charity” )を.」そして,たとえば「新しい教会」内部では,既にすべてがカトリックでなくなってしまったわけでもすべてが依然としてカトリックのまま残っているわけでもないといったような確実なことについて,私は,同じカトリック信徒としての同胞である皆さんに対して不確かなものは何かを判断する自由を認めるつもりです.そして皆さんからも私に対して同じ自由を認めてほしいと望んでいます.神の御母よ,カトリック教会を救出する恵みを神に取り次いで下さい!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年12月8日火曜日
比類なき過失=その3
エレイソン・コメンツ 第126回(2009年12月5日)
カトリックの秘跡が有効に執り行われるためには,秘跡の執行者は「教会のなすべきことを行う」意向(インテンション “Intention” )を持っていなければなりません(エレイソン・コメンツ第124回).この意向はその執行者に教会とは何かまた何をなすべきなのかについての最小限の適切で正しい認識(考え “an idea” )を持つよう求めます(同第125回).ここでは,第二バチカン公会議がそうした認識を堕落させることで執行者の意向をも徐々に台無しにしてきたこと,またそれ以前には決してなされ得なかったやり方で全教会史上比類のないほどの最悪の堕落を教会にもたらしてしまったことを明らかにしなければなりません.
なぜなら,第二バチカン公会議は少なくとも1400年代のルネッサンス(文芸復興)期に遡る反カトリック的人文主義をカトリック教会内部で正式に容認したからです.ルネッサンス期のあと何世紀もの間,真の神( “true God” )を崇敬するカトリック聖職者たちは神の代わりに人間を崇拝する近代世界に断固として抵抗してきたのですが,500年以上もの間に世界はますます不信心になる傾向を強めていくばかりだったため,遂に聖職者たちは1960年代に抵抗を止めてしまい,近代世界を導く代わりに第二バチカン公会議をきっかけに近代世界に追従する体制づくりに取り掛かったのです.この世の支持者はいつの時代にも教会内に存在していましたが,いまだかつて(第二バチカン公会議以前に)そうした支持が全世界のカトリック教会で公認されたなどということは全くありませんでした!
しかし,公会議に追従する聖職者たちは旧(ふる)くからの信仰( “the old religion” )を完全に放棄しようとはしませんでしたし,またそうすることもできませでした.ひとつには,彼らはまだその旧い信仰を信じていましたし,ひとつには外観を保たねばならなかったからです.公会議の公文書がいずれも曖昧さを特徴としているのはそのためです.神の場における神の宗教を神の場における人間の宗教と混同しているのです.この曖昧さがもたらす意味は,カトリック保守派は公会議文書の文言に訴え第二バチカン公会議が旧信仰を排除していないと主張できるし,カトリック進歩派は同じ文書の精神に訴え公会議は新宗教を推進しているのだと主張できるということです.こうして保守派と進歩派の双方が共に正しいということになるのです!このようなわけで,旧くからの信仰は依然として第二バチカン公会議に存在していたのですが,これまでずっと進歩派から邪魔され続けてきて,いまや絶滅の危機に瀕しているのです.
似たような曖昧さは,うわべで神への崇敬に敬意を払っているように見せかけながら実は人間崇拝の宗教を容認する公会議の精神のもとに書き直された秘跡授与の諸典礼をも悩ませています.数々の秘跡の形式(有効性を支えるための本質的な文言)は原則として自動的に無効となるわけではないので旧い信仰はそのまま残存し得ますが,同時にその形式を取り巻くあらゆる典礼は新しい宗教に向かって傾斜を強めています.したがって,神の場に人間を置くために柔和に見えても猛烈な圧力を近代世界からかけられるため,また秘跡執行者はすべて圧力をかけられれば容易に安易な方法を選んでしまうという私たち人類皆に共通する哀れな古くからの人間性を持っているため,こうした新しい典礼は聖職執行者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与の執行の際に必要な意向)とそれにともなう秘跡の有効性を徐々に台無しにしていくのにおあつらえ向きとなっているのです.
カトリック信徒の皆さん,この新しい典礼を避けながらも,真実( “truth” )を正しく見分けて認識し続けることができるよう常にバランス感覚を維持していてください.新しい典礼は自動的に無効であるとか,あるいはそれらは有効になり得るから無害だなどと言ってはなりません.たとえ新しい典礼が有効であっても,それはカトリック信仰を損なう性質のものなのです.その典礼を使用する聖職者について言えば,もし彼らが新しい典礼を使用するなら彼らはカトリック信仰を失ってしまったのだとか,あるいは彼らがその典礼を使用しても無害であるなどと言ってはなりません.そうした聖職執行者たちはまだカトリック信仰を持ち続けているのでしょうが,もしあなたのカトリック信仰を損なうように考案された典礼を使用するなら,彼らはあなたに害を及ぼす危険を冒していることになるのです.(第二バチカン公会議以前から続いている)旧い典礼とそれを使用する聖職者を探し求めなさい.そうすることで,あなたは神の光栄,神の真の宗教( “true religion” ),そしてその真の宗教を知ることなしに失われてしまった多くの霊魂を救う手助けをすることになるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
カトリックの秘跡が有効に執り行われるためには,秘跡の執行者は「教会のなすべきことを行う」意向(インテンション “Intention” )を持っていなければなりません(エレイソン・コメンツ第124回).この意向はその執行者に教会とは何かまた何をなすべきなのかについての最小限の適切で正しい認識(考え “an idea” )を持つよう求めます(同第125回).ここでは,第二バチカン公会議がそうした認識を堕落させることで執行者の意向をも徐々に台無しにしてきたこと,またそれ以前には決してなされ得なかったやり方で全教会史上比類のないほどの最悪の堕落を教会にもたらしてしまったことを明らかにしなければなりません.
なぜなら,第二バチカン公会議は少なくとも1400年代のルネッサンス(文芸復興)期に遡る反カトリック的人文主義をカトリック教会内部で正式に容認したからです.ルネッサンス期のあと何世紀もの間,真の神( “true God” )を崇敬するカトリック聖職者たちは神の代わりに人間を崇拝する近代世界に断固として抵抗してきたのですが,500年以上もの間に世界はますます不信心になる傾向を強めていくばかりだったため,遂に聖職者たちは1960年代に抵抗を止めてしまい,近代世界を導く代わりに第二バチカン公会議をきっかけに近代世界に追従する体制づくりに取り掛かったのです.この世の支持者はいつの時代にも教会内に存在していましたが,いまだかつて(第二バチカン公会議以前に)そうした支持が全世界のカトリック教会で公認されたなどということは全くありませんでした!
しかし,公会議に追従する聖職者たちは旧(ふる)くからの信仰( “the old religion” )を完全に放棄しようとはしませんでしたし,またそうすることもできませでした.ひとつには,彼らはまだその旧い信仰を信じていましたし,ひとつには外観を保たねばならなかったからです.公会議の公文書がいずれも曖昧さを特徴としているのはそのためです.神の場における神の宗教を神の場における人間の宗教と混同しているのです.この曖昧さがもたらす意味は,カトリック保守派は公会議文書の文言に訴え第二バチカン公会議が旧信仰を排除していないと主張できるし,カトリック進歩派は同じ文書の精神に訴え公会議は新宗教を推進しているのだと主張できるということです.こうして保守派と進歩派の双方が共に正しいということになるのです!このようなわけで,旧くからの信仰は依然として第二バチカン公会議に存在していたのですが,これまでずっと進歩派から邪魔され続けてきて,いまや絶滅の危機に瀕しているのです.
似たような曖昧さは,うわべで神への崇敬に敬意を払っているように見せかけながら実は人間崇拝の宗教を容認する公会議の精神のもとに書き直された秘跡授与の諸典礼をも悩ませています.数々の秘跡の形式(有効性を支えるための本質的な文言)は原則として自動的に無効となるわけではないので旧い信仰はそのまま残存し得ますが,同時にその形式を取り巻くあらゆる典礼は新しい宗教に向かって傾斜を強めています.したがって,神の場に人間を置くために柔和に見えても猛烈な圧力を近代世界からかけられるため,また秘跡執行者はすべて圧力をかけられれば容易に安易な方法を選んでしまうという私たち人類皆に共通する哀れな古くからの人間性を持っているため,こうした新しい典礼は聖職執行者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与の執行の際に必要な意向)とそれにともなう秘跡の有効性を徐々に台無しにしていくのにおあつらえ向きとなっているのです.
カトリック信徒の皆さん,この新しい典礼を避けながらも,真実( “truth” )を正しく見分けて認識し続けることができるよう常にバランス感覚を維持していてください.新しい典礼は自動的に無効であるとか,あるいはそれらは有効になり得るから無害だなどと言ってはなりません.たとえ新しい典礼が有効であっても,それはカトリック信仰を損なう性質のものなのです.その典礼を使用する聖職者について言えば,もし彼らが新しい典礼を使用するなら彼らはカトリック信仰を失ってしまったのだとか,あるいは彼らがその典礼を使用しても無害であるなどと言ってはなりません.そうした聖職執行者たちはまだカトリック信仰を持ち続けているのでしょうが,もしあなたのカトリック信仰を損なうように考案された典礼を使用するなら,彼らはあなたに害を及ぼす危険を冒していることになるのです.(第二バチカン公会議以前から続いている)旧い典礼とそれを使用する聖職者を探し求めなさい.そうすることで,あなたは神の光栄,神の真の宗教( “true religion” ),そしてその真の宗教を知ることなしに失われてしまった多くの霊魂を救う手助けをすることになるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年11月30日月曜日
比類なき過失=その2
エレイソン・コメンツ 第125回(2009年11月28日)
先週の「エレイソン・コメンツ」で,第二バチカン公会議が,その巧妙に仕組まれた曖昧さによって長期間のうちに結局は(「50年後に」と,リエナール枢機卿が臨終の床で明かした)聖職者にとって必要不可欠なサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を堕落させてしまうような秘跡授与の典礼を導入することによって教会の諸秘跡を無効にするために考案されたことをお示しするとお約束しました.しかし,第二バチカン公会議についての話は来週まで待たなければならないでしょう.今週は,秘跡授与を執り行う聖職者自身が教会とは何なのか,何をなすべきなのかについて,いかに根本から健全な考えを頭脳に持つ必要があるかを理解するため,私たちは人間の意図のメカニズムについてさらに詳しく考えてみる必要があります.
人が何かをしようと思うとき,あるいは何らかの目標を達成しようと考えるとき,その達成したいと思う目標についての考え(“an idea”)をあらかじめ頭に思い浮かべなければなりません.人は誰でも,実際まず頭に目標についての考えが浮かばない限りその実現に向かって行動することなどできません.言い換えれば,目標の達成についての考えがはっきりしているときだけ,つまり自分の頭で思い浮かべた考え(=目標達成のためのやり方)を通してだけ,人はその達成を目指して行動できるのです.ただし,頭の中の考えが頭の外の現実と一致することもあるでしょうし,しないこともあるでしょう.もし考えが現実に即していれば,人は目標を達成できますが,そうでなければ,考えは達成できても目標は達成できません.
一例を挙げましょう.子供たちを幸せにしたいと思う家庭の父親が,それを実現するアイディアとして家庭内のあらゆる規律を緩めて子供たちを甘やかそうと思いついたとします.悲しいかな,無規律は子どもたちを幸せどころか不幸にします.したがって,その父親が規律を緩めたとき彼は規律緩和というアイディアは達成しても子供たちの幸せという目標達成には至らないのです.彼が自分のアイディアをやり遂げてもその目標を達成できないのは,彼のアイディアが現実に即していないからです.
さて,秘跡が有効なものとなるには,先週説明したとおり,聖職執行者(司教,司祭あるいは一般信徒ないし一般人)が,すべての秘跡上の恩寵の唯一の源泉である神の根源的行為の下にその道具たる行為(訳注・当聖職者は神の道具である)を置くために,「教会のなすべきことを行う」意向をもつ必要があります.したがって,執行者は秘跡授与を執り行う前にまず「教会が何をなすべきなのか」についての考えをあらかじめ持つべきであり,そのことは自ずから教会とは何かについての考えを事前に持つことを要求します.そのとき,もし教会とは何かそして何をなすべきなのかについての彼の考えがカトリック教の本質に合致していなければ,執行者はどうやって真正のカトリック教会がなすべきことを行う意向を持つことができるでしょうか?そしてそれ(真正な意向を持つこと)が出来なければ,どうやって真正な秘跡を執行することができるでしょうか?もし執行者が,教会とは信者同士が互いに愛想のよい社交辞令を交わし合うクラブのようなものだと本心から考えているなら,そこで執行されるミサはその団体のピクニックであり,洗礼式はそこに加わるための入会式にすぎなくなります.その聖職執行者はピクニックと入会式をやり遂げるかもしれませんが,決してカトリックのミサ聖祭あるいは洗礼の秘跡という目標に達することはありません.
ここで,その聖職執行者は「教会がなすべきこと,これまで常になしてきたこと」を執り行う潜在的意向を持っていると反論する方もいらっしゃるでしょう.だが,それでも,そのサクラメンタル・インテンションは不確かなまま残るでしょう.例えば,新しい教会が「聖書解釈学的継続性」を言い出して以来このかた,カトリック教会と新しい教会との間,あるいはミサ聖祭とピクニックとの間に解釈上なんらの断絶もありえず,すべては調和のとれた発展としてのみ解釈すべきだとされています!したがって,ピクニックなしのミサ聖祭を執り行う意向も,ミサ聖祭なしのピクニックを楽しむ意向も,いずれも「マピクニス(原文 “Mapicniss”)」(訳注・→Mass+picnic.つまりミサとピクニックの合成語. )をもたらすための同一の意向を意味することになるというのです!このような「解釈学」によれば,現実には妥協不可能な事柄を何でも一切妥協させてしまうことができてしまうわけです!しかし,このような「解釈学」を念頭に置く者が現実に有効な秘跡を組み立てることなど可能でしょうか?アメリカ人風に言えば「何か変じゃないですか!(“Go figure!” )」と言いたくなります.神のみぞ知るです.
ここに教会中がほとんど絶望的な混乱に陥っている理由があります.どうしたら猫は猫であって犬ではなく,また犬は犬であって猫ではないという正常な認識の持ち方に再び聖職者たちを連れ戻すことができるでしょうか?それは一大異変です!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
先週の「エレイソン・コメンツ」で,第二バチカン公会議が,その巧妙に仕組まれた曖昧さによって長期間のうちに結局は(「50年後に」と,リエナール枢機卿が臨終の床で明かした)聖職者にとって必要不可欠なサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を堕落させてしまうような秘跡授与の典礼を導入することによって教会の諸秘跡を無効にするために考案されたことをお示しするとお約束しました.しかし,第二バチカン公会議についての話は来週まで待たなければならないでしょう.今週は,秘跡授与を執り行う聖職者自身が教会とは何なのか,何をなすべきなのかについて,いかに根本から健全な考えを頭脳に持つ必要があるかを理解するため,私たちは人間の意図のメカニズムについてさらに詳しく考えてみる必要があります.
人が何かをしようと思うとき,あるいは何らかの目標を達成しようと考えるとき,その達成したいと思う目標についての考え(“an idea”)をあらかじめ頭に思い浮かべなければなりません.人は誰でも,実際まず頭に目標についての考えが浮かばない限りその実現に向かって行動することなどできません.言い換えれば,目標の達成についての考えがはっきりしているときだけ,つまり自分の頭で思い浮かべた考え(=目標達成のためのやり方)を通してだけ,人はその達成を目指して行動できるのです.ただし,頭の中の考えが頭の外の現実と一致することもあるでしょうし,しないこともあるでしょう.もし考えが現実に即していれば,人は目標を達成できますが,そうでなければ,考えは達成できても目標は達成できません.
一例を挙げましょう.子供たちを幸せにしたいと思う家庭の父親が,それを実現するアイディアとして家庭内のあらゆる規律を緩めて子供たちを甘やかそうと思いついたとします.悲しいかな,無規律は子どもたちを幸せどころか不幸にします.したがって,その父親が規律を緩めたとき彼は規律緩和というアイディアは達成しても子供たちの幸せという目標達成には至らないのです.彼が自分のアイディアをやり遂げてもその目標を達成できないのは,彼のアイディアが現実に即していないからです.
さて,秘跡が有効なものとなるには,先週説明したとおり,聖職執行者(司教,司祭あるいは一般信徒ないし一般人)が,すべての秘跡上の恩寵の唯一の源泉である神の根源的行為の下にその道具たる行為(訳注・当聖職者は神の道具である)を置くために,「教会のなすべきことを行う」意向をもつ必要があります.したがって,執行者は秘跡授与を執り行う前にまず「教会が何をなすべきなのか」についての考えをあらかじめ持つべきであり,そのことは自ずから教会とは何かについての考えを事前に持つことを要求します.そのとき,もし教会とは何かそして何をなすべきなのかについての彼の考えがカトリック教の本質に合致していなければ,執行者はどうやって真正のカトリック教会がなすべきことを行う意向を持つことができるでしょうか?そしてそれ(真正な意向を持つこと)が出来なければ,どうやって真正な秘跡を執行することができるでしょうか?もし執行者が,教会とは信者同士が互いに愛想のよい社交辞令を交わし合うクラブのようなものだと本心から考えているなら,そこで執行されるミサはその団体のピクニックであり,洗礼式はそこに加わるための入会式にすぎなくなります.その聖職執行者はピクニックと入会式をやり遂げるかもしれませんが,決してカトリックのミサ聖祭あるいは洗礼の秘跡という目標に達することはありません.
ここで,その聖職執行者は「教会がなすべきこと,これまで常になしてきたこと」を執り行う潜在的意向を持っていると反論する方もいらっしゃるでしょう.だが,それでも,そのサクラメンタル・インテンションは不確かなまま残るでしょう.例えば,新しい教会が「聖書解釈学的継続性」を言い出して以来このかた,カトリック教会と新しい教会との間,あるいはミサ聖祭とピクニックとの間に解釈上なんらの断絶もありえず,すべては調和のとれた発展としてのみ解釈すべきだとされています!したがって,ピクニックなしのミサ聖祭を執り行う意向も,ミサ聖祭なしのピクニックを楽しむ意向も,いずれも「マピクニス(原文 “Mapicniss”)」(訳注・→Mass+picnic.つまりミサとピクニックの合成語. )をもたらすための同一の意向を意味することになるというのです!このような「解釈学」によれば,現実には妥協不可能な事柄を何でも一切妥協させてしまうことができてしまうわけです!しかし,このような「解釈学」を念頭に置く者が現実に有効な秘跡を組み立てることなど可能でしょうか?アメリカ人風に言えば「何か変じゃないですか!(“Go figure!” )」と言いたくなります.神のみぞ知るです.
ここに教会中がほとんど絶望的な混乱に陥っている理由があります.どうしたら猫は猫であって犬ではなく,また犬は犬であって猫ではないという正常な認識の持ち方に再び聖職者たちを連れ戻すことができるでしょうか?それは一大異変です!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年11月23日月曜日
比類なき過失=その1
エレイソン・コメンツ 第124回 (2009年11月21日)
第二バチカン公会議(1962年-1965年)の犯した過失を再度強調するため,3週間前(10月31日)の「エレイソン・コメンツ」の議論に対するある読者からの妥当な反論に今回と次回の二度にわたってお答えします.問題の重要性を考えれば,2週連続はそれほど長すぎることはないでしょう.10月31日の議論では,第二バチカン公会議を受けて導入された新しい教会の秘跡(“Sacrament” 「サクラメント」)授与の典礼が結局は教会の秘跡を無効にする性格のものだと述べました.理由は新しい教会の典礼が,秘跡の有効な成立に不可欠な聖職者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を損なうよう曖昧に考案されているからです.聖職者がこのサクラメンタル・インテンションを正当に有することなしに秘跡は成立し得ません.
読者の反論は,秘跡授与の典礼にかかわる聖職者に信仰が欠けているほどの個人的な欠陥があっても,彼は教会の信仰の名においてその典礼を執行するのだから,教会の信仰が彼の欠陥を埋め合わすという古くからの教会の教え(神学大全・第3部,第64問題第9項-1参照.“cf. Summa Theologiae, 3a, LXIV, 9 ad 1” )(訳注…ラテン語.「スンマ・テオロジエ」略して「スンマ」.邦訳は「神学大全」.教会博士・聖トマス・アクィナス著.第3部・第64問題の表題は「秘跡の原因について」.)に基づくものです.この読者はカトリック信仰を全くもたないユダヤ人でも,教会が洗礼を授けるとき何かすることを知っていて,教会がなすべきそのことを行うつもりがある限り,死にかけている彼の友人に正当に洗礼を授けることができる,という典型例を挙げています.この場合,ユダヤ人は教会のなすべきことを行う自分の意向を,教会の洗礼式用に定められた言葉を口にし,定められた行いを演ずることで示すのです.
したがって,その読者の論理によれば,たとえ新しい教会が聖職者のカトリック信仰を堕落させたとしても,永遠不変の教会が聖職者の信仰の欠如を埋め合わせるから,彼の執り行う秘跡は有効のまま残るというのです.これに対する答えは,もし新しい教会の秘跡のための典礼が聖職者の信仰のみを堕落させたのであれば,この反論は有効に成り立つでしょうが,もし同時に聖職者のサクラメンタル・インテンションをも堕落させるとすれば,秘跡はまったく成立しないということです.
他の典型例を挙げれば論点がより明確になるはずです.金属管を水が流れ落ちる場合,管が金製だろうと鉛製だろうと問題ではありません.だが,水がどちらを流れるにしても,その管が蛇口に繋がれていなければなりません.ここでは,水は秘跡上の恩寵を意味しています.蛇口はその恩寵の主源泉であり,それは神お一人のみです.管は道具,すなわち秘跡の典礼を執り行う聖職者で,その行為を通して神から秘跡の恩寵が流れ出るのです.管が金製か鉛製かは聖職者個人の聖性の有無を意味します.したがって,秘跡の有効性は聖職者個人の信仰の有無によっては決まらなくても,聖職者が秘跡上の恩寵の主源泉たる神に繋がっているかどうかで決まるのです.
この神との繋がりは,教会のなすべきことを行う(ところに則った)秘跡の遂行にあたっての聖職者の意向(インテンション)そのものによって成立するのです.なぜなら,その意向によって,聖職者は神が秘跡の恩寵を注ぐための道具として自身を神の御手に委ねるからです.聖職者にかかるサクラメンタル・インテンションがなければ.彼と彼自身の信仰が金であっても鉛であっても,彼は蛇口から断絶しているのです.第二バチカン公会議がどう考案されたか,いかに聖職者の信仰だけでなく彼が持つべきサクラメンタル・インテンションまでも堕落させがちなのか,次週にお示しすることにします.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
第二バチカン公会議(1962年-1965年)の犯した過失を再度強調するため,3週間前(10月31日)の「エレイソン・コメンツ」の議論に対するある読者からの妥当な反論に今回と次回の二度にわたってお答えします.問題の重要性を考えれば,2週連続はそれほど長すぎることはないでしょう.10月31日の議論では,第二バチカン公会議を受けて導入された新しい教会の秘跡(“Sacrament” 「サクラメント」)授与の典礼が結局は教会の秘跡を無効にする性格のものだと述べました.理由は新しい教会の典礼が,秘跡の有効な成立に不可欠な聖職者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を損なうよう曖昧に考案されているからです.聖職者がこのサクラメンタル・インテンションを正当に有することなしに秘跡は成立し得ません.
読者の反論は,秘跡授与の典礼にかかわる聖職者に信仰が欠けているほどの個人的な欠陥があっても,彼は教会の信仰の名においてその典礼を執行するのだから,教会の信仰が彼の欠陥を埋め合わすという古くからの教会の教え(神学大全・第3部,第64問題第9項-1参照.“cf. Summa Theologiae, 3a, LXIV, 9 ad 1” )(訳注…ラテン語.「スンマ・テオロジエ」略して「スンマ」.邦訳は「神学大全」.教会博士・聖トマス・アクィナス著.第3部・第64問題の表題は「秘跡の原因について」.)に基づくものです.この読者はカトリック信仰を全くもたないユダヤ人でも,教会が洗礼を授けるとき何かすることを知っていて,教会がなすべきそのことを行うつもりがある限り,死にかけている彼の友人に正当に洗礼を授けることができる,という典型例を挙げています.この場合,ユダヤ人は教会のなすべきことを行う自分の意向を,教会の洗礼式用に定められた言葉を口にし,定められた行いを演ずることで示すのです.
したがって,その読者の論理によれば,たとえ新しい教会が聖職者のカトリック信仰を堕落させたとしても,永遠不変の教会が聖職者の信仰の欠如を埋め合わせるから,彼の執り行う秘跡は有効のまま残るというのです.これに対する答えは,もし新しい教会の秘跡のための典礼が聖職者の信仰のみを堕落させたのであれば,この反論は有効に成り立つでしょうが,もし同時に聖職者のサクラメンタル・インテンションをも堕落させるとすれば,秘跡はまったく成立しないということです.
他の典型例を挙げれば論点がより明確になるはずです.金属管を水が流れ落ちる場合,管が金製だろうと鉛製だろうと問題ではありません.だが,水がどちらを流れるにしても,その管が蛇口に繋がれていなければなりません.ここでは,水は秘跡上の恩寵を意味しています.蛇口はその恩寵の主源泉であり,それは神お一人のみです.管は道具,すなわち秘跡の典礼を執り行う聖職者で,その行為を通して神から秘跡の恩寵が流れ出るのです.管が金製か鉛製かは聖職者個人の聖性の有無を意味します.したがって,秘跡の有効性は聖職者個人の信仰の有無によっては決まらなくても,聖職者が秘跡上の恩寵の主源泉たる神に繋がっているかどうかで決まるのです.
この神との繋がりは,教会のなすべきことを行う(ところに則った)秘跡の遂行にあたっての聖職者の意向(インテンション)そのものによって成立するのです.なぜなら,その意向によって,聖職者は神が秘跡の恩寵を注ぐための道具として自身を神の御手に委ねるからです.聖職者にかかるサクラメンタル・インテンションがなければ.彼と彼自身の信仰が金であっても鉛であっても,彼は蛇口から断絶しているのです.第二バチカン公会議がどう考案されたか,いかに聖職者の信仰だけでなく彼が持つべきサクラメンタル・インテンションまでも堕落させがちなのか,次週にお示しすることにします.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年11月16日月曜日
女性らしさの再発見
エレイソン・コメンツ 第123回 (2009年11月14日)
城壁都市が包囲され,敵が絶えず城壁の一角に集中攻撃を仕掛けるときには,そこの住民は城壁のその部分を守り続けなければなりません.今日,人類の敵であるサタン(悪魔)は,本当の(true)女性らしさを攻撃し続けています.なぜなら,本当の女性なしには本当の母親も,本当の家族生活も,本当に幸福な子供たちも,最終的には本当の人間も存在し得ないからです.私は数か月前,かつてフェミニスト(男女同権論者)だった女性から手紙をいただきました.彼女は現在,私が「女性としての私たちの本質を確認し支援してくれた」と感じているそうで,そのことについて私に感謝したい,というのがその内容でした.私はその手紙に書かれた証言を全文ここで引用できればと思います.彼女の手紙はまさしく一級品ですが,以下がその簡潔な要約です.
1960年代半ばに生まれたときから暴力的で虐待的な父親に育ったため,私には初めからずっと父親像が欠落していました.私が14才の時に父親が死んでから,私はカトリックの信仰を拒絶して教会を去りました.自分の両親に愛されていなければ愛する神を信じることは困難なことです.教会を離れて私は過激なフェミニズム(男女同権主義)と異教信仰の信奉者となり,男の子の服装に劣る形で表現されているという理由からドレスの着用を嫌うようになりました.女性は弱いという考え方を私はいったいどこで得たのでしょうか?今の私は,女性は弱い存在ということでは全くなく,男性と違ったいろいろな面で強い存在なのだということを理解しています.
私は男性ができることは何でも自分にもできるということを証明しようと決心して大学に進学しましたが,その後,警察官として7年間を過ごすうちに,職務で必要とされる攻撃的積極性と支配性は全く自分の性分に合わない,またどんなに頑張っても決して男性と同じ位に身体的に強くなることはできないと実感しました.そこで私は自分の中の女性らしさを示すどんな兆候も弱さと同一視しました.同時に,急進的フェミニストとして,私は男性を憎み,男性は一人として必要とせず,その全てのフェミニストの遺物ゆえに,私はもう少しで結婚せずに終わるところでした.しかし年齢が30代半ばにさしかかった時,私は自分が余生を独りで過ごすリスクを冒していることを悟ったので,男性と付き合おうと決心しました.それからほどなく私は未来の夫と出逢いました.
魅力的になるからドレスを着て欲しいと夫に頼まれた時,私は激怒しました!しかし,彼を満足させるだけのために私はドレスを着てみました.それから,私の挙動は徐々に変化して,より女性らしく振舞い女性らしい気持ちの持ち方をするようになり,そのうち,その方が自分にとってより自然に感じられたので,自分が女性らしいと感じるのはとても気持ちが良いことだと発見しました.私たちが結婚してからしばらくすると,私の優先事項の順位は変化して,私は家に留まっていることをとても強く望むようになりました.私は職場でしっかりと自己主張することはできますが,それを楽しむことはありません.指導者の立場に立たないことを選ぶのは女性としての私には普通のことで,神が私をそのように設計されたからなのだと今の私は理解しています.私は自分の全職業人生を男性と競争して男性のようになろうと頑張って過ごしてきましたが,それは私を不幸にし失敗感を残しました.なぜなら,私は男性ではないので,どんなに試みても私は男性のようではないし,そのようになることもあり得ないからです.
私を26年後に教会に復帰できるようにしてくれたのは,夫の愛でした.私はじたばたして大騒ぎしましたが,神が私を呼ばれたのです!教会で,あらゆることが自分の記憶と少し違うことがわかりました.私はまず女性にかかわる問題すべてについての教会の立場に異を唱えることから始めました.しかし,聖書を読み進めていくうちに目が開けて,ほかの何にもまして,自分がどういう服装をするかによって自分の感情や人格さえも形作られるのだということを実感したのです.ドレスやスカートを着ると私は優しく女性らしい気持ちでより自然になれます.今私が受講中の女性の役割に関する教会の教えについての教育は,「神学院長からの書簡集」も含め,私が疑似男性ではなく一人の女性としての自尊心を得る助けとなっています.私たちの文化にフェミニズムが深くしみ込んで根付いてしまっているのは,すべての個人に不利益をもたらすことです.(証言の終わり.)
祝福された神の御母よ,私たちのために男らしい男性をもたらしてください.男らしい男性なしには女らしい女性をもつことなどほとんどできないからです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
城壁都市が包囲され,敵が絶えず城壁の一角に集中攻撃を仕掛けるときには,そこの住民は城壁のその部分を守り続けなければなりません.今日,人類の敵であるサタン(悪魔)は,本当の(true)女性らしさを攻撃し続けています.なぜなら,本当の女性なしには本当の母親も,本当の家族生活も,本当に幸福な子供たちも,最終的には本当の人間も存在し得ないからです.私は数か月前,かつてフェミニスト(男女同権論者)だった女性から手紙をいただきました.彼女は現在,私が「女性としての私たちの本質を確認し支援してくれた」と感じているそうで,そのことについて私に感謝したい,というのがその内容でした.私はその手紙に書かれた証言を全文ここで引用できればと思います.彼女の手紙はまさしく一級品ですが,以下がその簡潔な要約です.
1960年代半ばに生まれたときから暴力的で虐待的な父親に育ったため,私には初めからずっと父親像が欠落していました.私が14才の時に父親が死んでから,私はカトリックの信仰を拒絶して教会を去りました.自分の両親に愛されていなければ愛する神を信じることは困難なことです.教会を離れて私は過激なフェミニズム(男女同権主義)と異教信仰の信奉者となり,男の子の服装に劣る形で表現されているという理由からドレスの着用を嫌うようになりました.女性は弱いという考え方を私はいったいどこで得たのでしょうか?今の私は,女性は弱い存在ということでは全くなく,男性と違ったいろいろな面で強い存在なのだということを理解しています.
私は男性ができることは何でも自分にもできるということを証明しようと決心して大学に進学しましたが,その後,警察官として7年間を過ごすうちに,職務で必要とされる攻撃的積極性と支配性は全く自分の性分に合わない,またどんなに頑張っても決して男性と同じ位に身体的に強くなることはできないと実感しました.そこで私は自分の中の女性らしさを示すどんな兆候も弱さと同一視しました.同時に,急進的フェミニストとして,私は男性を憎み,男性は一人として必要とせず,その全てのフェミニストの遺物ゆえに,私はもう少しで結婚せずに終わるところでした.しかし年齢が30代半ばにさしかかった時,私は自分が余生を独りで過ごすリスクを冒していることを悟ったので,男性と付き合おうと決心しました.それからほどなく私は未来の夫と出逢いました.
魅力的になるからドレスを着て欲しいと夫に頼まれた時,私は激怒しました!しかし,彼を満足させるだけのために私はドレスを着てみました.それから,私の挙動は徐々に変化して,より女性らしく振舞い女性らしい気持ちの持ち方をするようになり,そのうち,その方が自分にとってより自然に感じられたので,自分が女性らしいと感じるのはとても気持ちが良いことだと発見しました.私たちが結婚してからしばらくすると,私の優先事項の順位は変化して,私は家に留まっていることをとても強く望むようになりました.私は職場でしっかりと自己主張することはできますが,それを楽しむことはありません.指導者の立場に立たないことを選ぶのは女性としての私には普通のことで,神が私をそのように設計されたからなのだと今の私は理解しています.私は自分の全職業人生を男性と競争して男性のようになろうと頑張って過ごしてきましたが,それは私を不幸にし失敗感を残しました.なぜなら,私は男性ではないので,どんなに試みても私は男性のようではないし,そのようになることもあり得ないからです.
私を26年後に教会に復帰できるようにしてくれたのは,夫の愛でした.私はじたばたして大騒ぎしましたが,神が私を呼ばれたのです!教会で,あらゆることが自分の記憶と少し違うことがわかりました.私はまず女性にかかわる問題すべてについての教会の立場に異を唱えることから始めました.しかし,聖書を読み進めていくうちに目が開けて,ほかの何にもまして,自分がどういう服装をするかによって自分の感情や人格さえも形作られるのだということを実感したのです.ドレスやスカートを着ると私は優しく女性らしい気持ちでより自然になれます.今私が受講中の女性の役割に関する教会の教えについての教育は,「神学院長からの書簡集」も含め,私が疑似男性ではなく一人の女性としての自尊心を得る助けとなっています.私たちの文化にフェミニズムが深くしみ込んで根付いてしまっているのは,すべての個人に不利益をもたらすことです.(証言の終わり.)
祝福された神の御母よ,私たちのために男らしい男性をもたらしてください.男らしい男性なしには女らしい女性をもつことなどほとんどできないからです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年11月9日月曜日
フランクフルト・スクール
エレイソン・コメンツ 第122回 (2009年11月7日)
あるカリフォルニアの心理学教授による1960年代におけるアメリカ合衆国の左傾化の分析から,「西洋文明」の擁護者あるいは愛好者にとっての数々の貴重な教訓が抜粋できます.以下でアクセス可能です.http://www.theoccidentalobserver.net/articles/MacDonald-WheatlandII.html .
ケビン・マクドナルド教授は,「ザ・フランクフルト・スクール・イン・エグザイル」(「国を逃れたフランクフルト・スクール」の意)に関する著書の中でなされている大衆文化に対する批評について論評しています.
フランクフルト・スクール(「フランクフルト学派」)はもっとよく世間に知られる必要があります.それは小規模だが高い影響力をもった非キリスト教識者団体で,ヒトラーが政権に就いた時ドイツからアメリカ合衆国へ逃がれ,志を同じくするニューヨークのトロツキー信奉者団体と結託して,その人数に全く不釣り合いなほど大きな影響力をふるい続けたのです.マクドナルド教授によれば,「伝統的英国系アメリカ人文化」から疎外されているという根深い感情から,彼らは家族に対して個人を,白人主導に対して多文化を,またあらゆる分野,特に芸術の伝統に対して近代主義を助長することによって英国系アメリカ文化に戦争を仕掛けたということです.「社会主義革命に対する熱望からテオドール・アドルノは,聴く者を不満足感や疎外感を味わわせたままにしておくような近代音楽 - 意識的に調和や予測可能性を避けた音楽 - を好むようになったのです.」 フランクフルト・スクールは「ソナタを生んだ秩序の終わり」を望んだのです.
フランクフルト・スクールは,アメリカ人の革命に対する願望の欠如を軽蔑し,人々の「消極性,現実逃避および体制順応主義」を,また,例えばハリウッドに道徳的規準を押し付ける保守団体のような,大衆文化を支配する「近頃の資本主義者」を非難した,と教授は言います。しかしながら,1960年代に,彼ら自身がマスメディア,数々の大学および政治を支配するようになると,大衆文化とハリウッドを最大限に食い物にして搾取し,人々の惰眠状態につけこんで左派(革新)傾向に揺れ動くように散々マスコミ操作を仕掛けたと言います.教授は結果的に生じた彼らの「白人の利益」,「白人の主体性」および「欧州の伝統的な民族と文化」に対する悪意ある攻撃を深く嘆いています.
マクドナルド教授はいくつかの点で的を得ています.例えば,フランクフルト・スクールが仕掛けた戦争は主として,左翼主義者が当初考えていたような,またいまだに多くのアメリカ人がそうだと考えているような,資本主義と共産主義との間におけるものではないということです.物質的な安楽は,それ以前同様に1960年代以降のアメリカの人々を眠らせてしまいました.また,規制されていようがいまいが,ハリウッドと文化は大衆の精神にかびを生やさせるのに巨大な役割を果たしています(「エレイソン・コメンツ」で文化の話題を頻繁に取り上げるのはこのためです).また,「伝統的な西洋文化」に対する意図的で決然たる意志を持った敵対者である,高い影響力を持つ小規模の団体が存在することは確かです.
しかし,「白人の利益」を守るためには,教授は上述したような白人の利益を超えたそれ以外の他の利益の部分にも目を向ける必要があります.本当の問題は宗教的な理由にあるのです.なぜ白人の欧州人は他人に施すほど多くのものをもっていたのでしょうか?それは,何世紀にもわたってカトリック信仰による神からの恩寵を最大限に得てきたからです.なぜこの小さな左翼団体はそれほど「西洋文化」を憎んだのでしょうか?それは,その(カトリック)信仰の遺物だからです.そして,なぜその小団体は1960年代以降これほどまでに強力になったのでしょうか?それは,第二バチカン公会議で行われたカトリック当局のカトリック信仰に対する裏切り行為について,同じ「白人」に主として責任があるからです.今日の左翼主義者の勝利は神からの正しい罰以上でも以下でもないのです.
教授,あなたは眠ってはいけません.さあ,ロザリオを手に取りましょう!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
あるカリフォルニアの心理学教授による1960年代におけるアメリカ合衆国の左傾化の分析から,「西洋文明」の擁護者あるいは愛好者にとっての数々の貴重な教訓が抜粋できます.以下でアクセス可能です.http://www.theoccidentalobserver.net/articles/MacDonald-WheatlandII.html .
ケビン・マクドナルド教授は,「ザ・フランクフルト・スクール・イン・エグザイル」(「国を逃れたフランクフルト・スクール」の意)に関する著書の中でなされている大衆文化に対する批評について論評しています.
フランクフルト・スクール(「フランクフルト学派」)はもっとよく世間に知られる必要があります.それは小規模だが高い影響力をもった非キリスト教識者団体で,ヒトラーが政権に就いた時ドイツからアメリカ合衆国へ逃がれ,志を同じくするニューヨークのトロツキー信奉者団体と結託して,その人数に全く不釣り合いなほど大きな影響力をふるい続けたのです.マクドナルド教授によれば,「伝統的英国系アメリカ人文化」から疎外されているという根深い感情から,彼らは家族に対して個人を,白人主導に対して多文化を,またあらゆる分野,特に芸術の伝統に対して近代主義を助長することによって英国系アメリカ文化に戦争を仕掛けたということです.「社会主義革命に対する熱望からテオドール・アドルノは,聴く者を不満足感や疎外感を味わわせたままにしておくような近代音楽 - 意識的に調和や予測可能性を避けた音楽 - を好むようになったのです.」 フランクフルト・スクールは「ソナタを生んだ秩序の終わり」を望んだのです.
フランクフルト・スクールは,アメリカ人の革命に対する願望の欠如を軽蔑し,人々の「消極性,現実逃避および体制順応主義」を,また,例えばハリウッドに道徳的規準を押し付ける保守団体のような,大衆文化を支配する「近頃の資本主義者」を非難した,と教授は言います。しかしながら,1960年代に,彼ら自身がマスメディア,数々の大学および政治を支配するようになると,大衆文化とハリウッドを最大限に食い物にして搾取し,人々の惰眠状態につけこんで左派(革新)傾向に揺れ動くように散々マスコミ操作を仕掛けたと言います.教授は結果的に生じた彼らの「白人の利益」,「白人の主体性」および「欧州の伝統的な民族と文化」に対する悪意ある攻撃を深く嘆いています.
マクドナルド教授はいくつかの点で的を得ています.例えば,フランクフルト・スクールが仕掛けた戦争は主として,左翼主義者が当初考えていたような,またいまだに多くのアメリカ人がそうだと考えているような,資本主義と共産主義との間におけるものではないということです.物質的な安楽は,それ以前同様に1960年代以降のアメリカの人々を眠らせてしまいました.また,規制されていようがいまいが,ハリウッドと文化は大衆の精神にかびを生やさせるのに巨大な役割を果たしています(「エレイソン・コメンツ」で文化の話題を頻繁に取り上げるのはこのためです).また,「伝統的な西洋文化」に対する意図的で決然たる意志を持った敵対者である,高い影響力を持つ小規模の団体が存在することは確かです.
しかし,「白人の利益」を守るためには,教授は上述したような白人の利益を超えたそれ以外の他の利益の部分にも目を向ける必要があります.本当の問題は宗教的な理由にあるのです.なぜ白人の欧州人は他人に施すほど多くのものをもっていたのでしょうか?それは,何世紀にもわたってカトリック信仰による神からの恩寵を最大限に得てきたからです.なぜこの小さな左翼団体はそれほど「西洋文化」を憎んだのでしょうか?それは,その(カトリック)信仰の遺物だからです.そして,なぜその小団体は1960年代以降これほどまでに強力になったのでしょうか?それは,第二バチカン公会議で行われたカトリック当局のカトリック信仰に対する裏切り行為について,同じ「白人」に主として責任があるからです.今日の左翼主義者の勝利は神からの正しい罰以上でも以下でもないのです.
教授,あなたは眠ってはいけません.さあ,ロザリオを手に取りましょう!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年11月2日月曜日
正当な司教?
エレイソン・コメンツ 第121回(2009年10月31日)
新しい教会がもたらす秘跡(英語でsacrament. 訳注…神がカトリック教会の司教・司祭を通してカトリック信徒に授ける, 目に見えない神の恩寵 (神秘=secret,mystery)の目に見えるしるしをいう. 洗礼, 堅振(堅信), 聖体, 罪の赦し(罪の痛悔, 告白, 償いを含む. いわゆる告解), 病者の塗油, 叙階, 婚姻の7つ. ) の正当性に関する聖ピオ十世会のバランスのとれた立場を顕著に立証する記事が, 先週, ある闘うフランス人の会報誌 「クリエ・ドゥ・ティシィック “Courrier de Tychique” 」( “Tychique” は聖ティキコのフランス語訳. )に掲載されました. 「信頼筋」によれば, カトリック教会の古くからの敵であるフリーメーソンの組織が, カトリック教会の秘跡を無効にする目的で公会議革命を企てたようです. そのやり方は, 秘跡の形態を改変することでそれを自動的に無効にするのではなく, むしろカトリック教の典礼の意義を総じて曖昧にぼかしてしまうことによって, 司式司祭にとって欠かすことのできないサクラメンタル・インテンション( “Sacramental Intention”. 「秘跡授与に際しての意向」. 訳注…秘跡が有効に成立するためにはその秘跡を授ける司教・司祭の側と受ける側の双方が授受の正当な意向を有しかつその意向通りの行為を双方が正当に実行する必要がある. )を結局は骨抜きにしてしまおうというものです.
その「信頼筋」とは, リエナール枢機卿( Achille Liénart (1884-1973). フランス人枢機卿 )が死の床である老司祭に告白した話の一部をその司祭から直接聞いたフランス人の男性です. 枢機卿は疑いなく地獄に堕ちることを恐れて, 自分の告白を世間に明らかにし, そうすることで自分を告解の封印から解いてほしいとその司祭に請いました. 以来その老司祭は公の場からは距離を置くようにしていましたが, 非公式には枢機卿が自分に明かしたフリーメーソン組織のカトリック教会破壊にむけた三点からなる計画について率直に包み隠さず公表しました. その枢機卿は, 十七歳の若さでフリーメーソンに入会した後, 会によく仕え, 第二バチカン公会議が開幕したわずか二日後, カトリック伝統派が周到に用意した文書はすべて否決すべきと要求して, 公会議を完全に脱線させてしまったのです.
枢機卿によれば, 公会議におけるフリーメーソンの第一の目的は, 司式司祭の「教会のなすべきことを執り行う」ためのインテンション( “Intention”. 上述のサクラメンタル・インテンションの注釈に同旨)を終局的に弱体化させる程度に典礼を変えることでミサ聖祭を壊すことでした. 形の変わった典礼により, 司祭も信徒も, ミサ聖祭を神の怒りを和らげるためのなだめの犠牲としてよりはむしろ「追悼」あるいは「聖餐」として受け止めるように誘導されるというわけです. フリーメーソンの第二の目的は, 最終的に司教の叙階権を弱体化させることにつながる, 司教叙階式のための新しい典礼によって, カトリック教会の使徒継承 (注釈…神なるイエズス・キリストから使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)およびその後継者(カトリックの司教を指す. ローマ教皇はローマの司教である. )へと正統に継承されていること. カトリック教会は唯一かつ普遍(=公, カトリック)の使徒継承教会(公教会)である. ) を壊すことです. それも, 自動的にそれを壊すよほど新たな形態によってではなく, 疑いの種をまく程度に曖昧に変えられた典礼によって, 前述のように, その新しい典礼が総じて, 叙階する司教のサクラメンタル・インテンションを弱体化させるようにしようというわけです. このやり方は, 誰も気づかないほどひっそりと使徒継承を壊す利点を持つでしょう. これこそまさに, 現在の全ての敬虔なカトリック教徒が恐れる事態ではないでしょうか?
「信頼筋」による話ではありますが,いずれにせよ, 今日の新しい教会のミサ典礼および司教聖別(訳注…聖別とは, 神への永久の奉仕のために、人または物を世俗から引き離して区別し神に奉献する行為)の典礼は, まさに件の枢機卿が告白したフリーメーソンの計画に一致しています. 1960年代後半から1970年代初めにかけてこの新しい典礼が導入されて以来, 多くの真面目なカトリック教徒はそれが正しく活用され得ると信じるのを拒んできました. 嘆かわしいことに, 新しい形態の典礼は, かならずしも自動的に正当なものでないと分かるわけではありません(もしそうなら事はどんなに簡単でしょうか!). 実態はそれよりもなお悪いのです!新しい秘跡の形態は, 正当なものだと多くの司式司祭に信じ込ませるほど十分にカトリック的でありながら, 総じて曖昧かつ非カトリック的な解釈を暗示するように設計されているため, 「従順」すぎるか十分に気をつけずに祈る(訳注…つまり, 常に霊的に目を覚まして祈っていることをしない)ようなあらゆる司式司祭のインテンションを堕落させることによって, カトリック教の秘跡をやがて台無しにしていくのです.
新しい典礼はこうして, 短期的にはほぼ全員のカトリック教徒に受け入れられるほど有効であっても, 長期的にはあらゆる秘跡を無効にしてしまうほど曖昧であり, 悪魔的に巧妙な罠となっています. これを避けるためには, カトリック教徒はこうした新しい形態の典礼との関わりを一切避ける一方, 正しいカトリック教理から逸脱した大げさな神学上の告発を聞いても, カトリック信徒としての自身の健全な直感を疑うようなことがあってはなりません. 両者の均衡を保つのは必ずしも容易ではありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
新しい教会がもたらす秘跡(英語でsacrament. 訳注…神がカトリック教会の司教・司祭を通してカトリック信徒に授ける, 目に見えない神の恩寵 (神秘=secret,mystery)の目に見えるしるしをいう. 洗礼, 堅振(堅信), 聖体, 罪の赦し(罪の痛悔, 告白, 償いを含む. いわゆる告解), 病者の塗油, 叙階, 婚姻の7つ. ) の正当性に関する聖ピオ十世会のバランスのとれた立場を顕著に立証する記事が, 先週, ある闘うフランス人の会報誌 「クリエ・ドゥ・ティシィック “Courrier de Tychique” 」( “Tychique” は聖ティキコのフランス語訳. )に掲載されました. 「信頼筋」によれば, カトリック教会の古くからの敵であるフリーメーソンの組織が, カトリック教会の秘跡を無効にする目的で公会議革命を企てたようです. そのやり方は, 秘跡の形態を改変することでそれを自動的に無効にするのではなく, むしろカトリック教の典礼の意義を総じて曖昧にぼかしてしまうことによって, 司式司祭にとって欠かすことのできないサクラメンタル・インテンション( “Sacramental Intention”. 「秘跡授与に際しての意向」. 訳注…秘跡が有効に成立するためにはその秘跡を授ける司教・司祭の側と受ける側の双方が授受の正当な意向を有しかつその意向通りの行為を双方が正当に実行する必要がある. )を結局は骨抜きにしてしまおうというものです.
その「信頼筋」とは, リエナール枢機卿( Achille Liénart (1884-1973). フランス人枢機卿 )が死の床である老司祭に告白した話の一部をその司祭から直接聞いたフランス人の男性です. 枢機卿は疑いなく地獄に堕ちることを恐れて, 自分の告白を世間に明らかにし, そうすることで自分を告解の封印から解いてほしいとその司祭に請いました. 以来その老司祭は公の場からは距離を置くようにしていましたが, 非公式には枢機卿が自分に明かしたフリーメーソン組織のカトリック教会破壊にむけた三点からなる計画について率直に包み隠さず公表しました. その枢機卿は, 十七歳の若さでフリーメーソンに入会した後, 会によく仕え, 第二バチカン公会議が開幕したわずか二日後, カトリック伝統派が周到に用意した文書はすべて否決すべきと要求して, 公会議を完全に脱線させてしまったのです.
枢機卿によれば, 公会議におけるフリーメーソンの第一の目的は, 司式司祭の「教会のなすべきことを執り行う」ためのインテンション( “Intention”. 上述のサクラメンタル・インテンションの注釈に同旨)を終局的に弱体化させる程度に典礼を変えることでミサ聖祭を壊すことでした. 形の変わった典礼により, 司祭も信徒も, ミサ聖祭を神の怒りを和らげるためのなだめの犠牲としてよりはむしろ「追悼」あるいは「聖餐」として受け止めるように誘導されるというわけです. フリーメーソンの第二の目的は, 最終的に司教の叙階権を弱体化させることにつながる, 司教叙階式のための新しい典礼によって, カトリック教会の使徒継承 (注釈…神なるイエズス・キリストから使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)およびその後継者(カトリックの司教を指す. ローマ教皇はローマの司教である. )へと正統に継承されていること. カトリック教会は唯一かつ普遍(=公, カトリック)の使徒継承教会(公教会)である. ) を壊すことです. それも, 自動的にそれを壊すよほど新たな形態によってではなく, 疑いの種をまく程度に曖昧に変えられた典礼によって, 前述のように, その新しい典礼が総じて, 叙階する司教のサクラメンタル・インテンションを弱体化させるようにしようというわけです. このやり方は, 誰も気づかないほどひっそりと使徒継承を壊す利点を持つでしょう. これこそまさに, 現在の全ての敬虔なカトリック教徒が恐れる事態ではないでしょうか?
「信頼筋」による話ではありますが,いずれにせよ, 今日の新しい教会のミサ典礼および司教聖別(訳注…聖別とは, 神への永久の奉仕のために、人または物を世俗から引き離して区別し神に奉献する行為)の典礼は, まさに件の枢機卿が告白したフリーメーソンの計画に一致しています. 1960年代後半から1970年代初めにかけてこの新しい典礼が導入されて以来, 多くの真面目なカトリック教徒はそれが正しく活用され得ると信じるのを拒んできました. 嘆かわしいことに, 新しい形態の典礼は, かならずしも自動的に正当なものでないと分かるわけではありません(もしそうなら事はどんなに簡単でしょうか!). 実態はそれよりもなお悪いのです!新しい秘跡の形態は, 正当なものだと多くの司式司祭に信じ込ませるほど十分にカトリック的でありながら, 総じて曖昧かつ非カトリック的な解釈を暗示するように設計されているため, 「従順」すぎるか十分に気をつけずに祈る(訳注…つまり, 常に霊的に目を覚まして祈っていることをしない)ようなあらゆる司式司祭のインテンションを堕落させることによって, カトリック教の秘跡をやがて台無しにしていくのです.
新しい典礼はこうして, 短期的にはほぼ全員のカトリック教徒に受け入れられるほど有効であっても, 長期的にはあらゆる秘跡を無効にしてしまうほど曖昧であり, 悪魔的に巧妙な罠となっています. これを避けるためには, カトリック教徒はこうした新しい形態の典礼との関わりを一切避ける一方, 正しいカトリック教理から逸脱した大げさな神学上の告発を聞いても, カトリック信徒としての自身の健全な直感を疑うようなことがあってはなりません. 両者の均衡を保つのは必ずしも容易ではありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年10月26日月曜日
「トリスタン」 - 和音
エレイソン・コメンツ 第120回 (2009年10月24日)
音楽の客観的な構造は人間の魂の客観的な構造に相応しています. 双方とも人々の不調和な選択によって調和を乱されますが, 主観的な自由意思は, これらの構造もその相応関係も変えることができません. 女性たちの購買意欲をそそるためにスーパーマーケットの店内で柔らかい音楽が流されるのと同じように, 軍隊行進で兵士を鼓舞するような活発な音楽が演奏されるときにも, そこには同様な相応関係があるというのが常識的ではないでしょうか?マーケティングと戦闘は, 自由主義のさまざまな夢想がそこに介入するにはあまりにも現実的すぎる活動です.
とはいっても, 自由主義者は夢想するものです. それで, 先週の「エレイソン・コメンツ」で説明したとおり, 現在コベント・ガーデンで上演中の「トリスタンとイゾルデ」の演出も疑いなくワーグナーの名作を「脱構築(解体構築)」しようと奮闘しているという訳です. だが, 「トリスタンとイゾルデ」の演出についてプログラムに書かれた2ページの記事は, さまざまな音楽とさまざまな人間の反応との間で生ずる客観的な相応関係を鮮やかに説明しています. できれば記事を全文引用したいのですが, 読者の皆さん, そこで触れられている技術的な詳細については恐れないでください. 私が述べたいポイントを正確に表していますので.
その記事は, 存命中のドイツ人指揮者インゴ・メッツマッハー (Ingo Metzmacher) の書いた「開幕!」 (“Vorhang Auf!”-ドイツ語) という本から抜粋されたもので, 前奏曲の第三小節目に現れる有名な「トリスタン和音」が主題です. この和音は三全音(トライトーン) “tritone” (または増四度 “augmented 4th” という)(訳注・いずれも同じ和音. きれいに響く和音ではなくかつて「音楽の悪魔」とも称された. ), ヘ音ならびに中央ハ音より低いロ音, およびその上の四度, 嬰ニ音ならびに中央ハ音より高い嬰ト音から成り立っています. 著者によれば, この和音は安定した協和音への解決(訳注・「解決」とは不安定な音(不協和音)からより安定した音(協和音)に移ることをいう. )に到達しようとして懸命にもがく激しい内的な葛藤を現わしているのですが, 前奏曲の初めの十四小節の中で4回現れるその和音のどれも属七の和音 “dominant 7th” へと解決するだけで, 和音それ自体は解決しないままに協和音を呼び求めているのです. そして遂に十八小節において安定した長ヘ和音に到達するや否や, 1小節半遅れで即座に半音上昇調の低音によって不安定化されるといった感じで続きます.
ワーグナーが「トリスタン」で, ロマンティックな愛の果てしない思慕を描くため創り出した新和声体系の鍵を握るのは, 実は半音にあるのだとメッツマッハーは言います. その半音は「ウィルスのような役割をし, どの音もその影響から免れることはできず, どの音符も音程(音名)の上下動の対象となりうる」と, 彼は言っています. ワーグナーの和音は, かくして絶え間なく破壊され, 修復されては即座にまた破壊され, そうして解決されない葛藤状態を容赦なく連続して創り出します. この状態が音楽では, 「決して満たされることがないゆえに計り知れぬほど増大してゆく」恋人たちの互いの慕情に完全に符合する, というのです.
しかし、メッツマッハーはその払うべき代償について指摘しています. さまざまな調の体系に基づく音楽, すなわち全音と半音からなる混合構成は「ある特定の調で私たちに安堵感を与えてくれますが, それが, その音楽の活力となります. 」ところが, トリスタンの体系では, 「安心感は実はごまかしではないかと不安になるのです. 」かくして, トリスタン和音は「音楽だけでなく全人類の歴史上の分岐点をなすものです」と, メッツマッハーは言っています. 彼は「音楽の旋法が変わると街中の壁が揺れる」という中国の古い諺をよく理解しているのではないでしょうか.
もしかしたら「トリスタン」が調性音楽(訳注・いわゆるきれいな和音から成る古典的な音楽のこと. 対概念は現代に登場した無調音楽. )を覆したように, このコベント・ガーデンでの演出家も「トリスタン」を覆そうとしたのかもしれません. それでは, 生命と音楽の脱構築はどこで止まるのでしょうか?それは真のミサ聖祭の執行においてです!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
音楽の客観的な構造は人間の魂の客観的な構造に相応しています. 双方とも人々の不調和な選択によって調和を乱されますが, 主観的な自由意思は, これらの構造もその相応関係も変えることができません. 女性たちの購買意欲をそそるためにスーパーマーケットの店内で柔らかい音楽が流されるのと同じように, 軍隊行進で兵士を鼓舞するような活発な音楽が演奏されるときにも, そこには同様な相応関係があるというのが常識的ではないでしょうか?マーケティングと戦闘は, 自由主義のさまざまな夢想がそこに介入するにはあまりにも現実的すぎる活動です.
とはいっても, 自由主義者は夢想するものです. それで, 先週の「エレイソン・コメンツ」で説明したとおり, 現在コベント・ガーデンで上演中の「トリスタンとイゾルデ」の演出も疑いなくワーグナーの名作を「脱構築(解体構築)」しようと奮闘しているという訳です. だが, 「トリスタンとイゾルデ」の演出についてプログラムに書かれた2ページの記事は, さまざまな音楽とさまざまな人間の反応との間で生ずる客観的な相応関係を鮮やかに説明しています. できれば記事を全文引用したいのですが, 読者の皆さん, そこで触れられている技術的な詳細については恐れないでください. 私が述べたいポイントを正確に表していますので.
その記事は, 存命中のドイツ人指揮者インゴ・メッツマッハー (Ingo Metzmacher) の書いた「開幕!」 (“Vorhang Auf!”-ドイツ語) という本から抜粋されたもので, 前奏曲の第三小節目に現れる有名な「トリスタン和音」が主題です. この和音は三全音(トライトーン) “tritone” (または増四度 “augmented 4th” という)(訳注・いずれも同じ和音. きれいに響く和音ではなくかつて「音楽の悪魔」とも称された. ), ヘ音ならびに中央ハ音より低いロ音, およびその上の四度, 嬰ニ音ならびに中央ハ音より高い嬰ト音から成り立っています. 著者によれば, この和音は安定した協和音への解決(訳注・「解決」とは不安定な音(不協和音)からより安定した音(協和音)に移ることをいう. )に到達しようとして懸命にもがく激しい内的な葛藤を現わしているのですが, 前奏曲の初めの十四小節の中で4回現れるその和音のどれも属七の和音 “dominant 7th” へと解決するだけで, 和音それ自体は解決しないままに協和音を呼び求めているのです. そして遂に十八小節において安定した長ヘ和音に到達するや否や, 1小節半遅れで即座に半音上昇調の低音によって不安定化されるといった感じで続きます.
ワーグナーが「トリスタン」で, ロマンティックな愛の果てしない思慕を描くため創り出した新和声体系の鍵を握るのは, 実は半音にあるのだとメッツマッハーは言います. その半音は「ウィルスのような役割をし, どの音もその影響から免れることはできず, どの音符も音程(音名)の上下動の対象となりうる」と, 彼は言っています. ワーグナーの和音は, かくして絶え間なく破壊され, 修復されては即座にまた破壊され, そうして解決されない葛藤状態を容赦なく連続して創り出します. この状態が音楽では, 「決して満たされることがないゆえに計り知れぬほど増大してゆく」恋人たちの互いの慕情に完全に符合する, というのです.
しかし、メッツマッハーはその払うべき代償について指摘しています. さまざまな調の体系に基づく音楽, すなわち全音と半音からなる混合構成は「ある特定の調で私たちに安堵感を与えてくれますが, それが, その音楽の活力となります. 」ところが, トリスタンの体系では, 「安心感は実はごまかしではないかと不安になるのです. 」かくして, トリスタン和音は「音楽だけでなく全人類の歴史上の分岐点をなすものです」と, メッツマッハーは言っています. 彼は「音楽の旋法が変わると街中の壁が揺れる」という中国の古い諺をよく理解しているのではないでしょうか.
もしかしたら「トリスタン」が調性音楽(訳注・いわゆるきれいな和音から成る古典的な音楽のこと. 対概念は現代に登場した無調音楽. )を覆したように, このコベント・ガーデンでの演出家も「トリスタン」を覆そうとしたのかもしれません. それでは, 生命と音楽の脱構築はどこで止まるのでしょうか?それは真のミサ聖祭の執行においてです!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年10月20日火曜日
「トリスタン」 - 演出
エレイソン・コメンツ 第119回 (2009年10月17日)
ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスへ行かなくなってからもう40年以上になりますが, 先週, 嬉しいことに友人たちがワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」のチケットを提供してくれました. おかげでその晩は素晴らしいひと時を過ごすことができました. だが, おやまあ, なんとも当世風の演出でした!ひと昔前の古典と今日の舞台で上演される作品とではこうも違うものでしょうか!
1865年初演の「トリスタンとイゾルデ」のような古典は, あらゆる時代に当てはまるさまざまな人間関係の問題や解決法をうまく表現しているために古典となるのです. たとえば, 古典は男女愛の情熱を今日の歌劇「トリスタン」ほど巧みかつ力強く表現してはいません. しかし, ある古典戯曲が上演される場合, その都度, 上演される時代に合うように演出されることは明白です. 従って, 古典作品の内容自体は作者で決まりますが, その制作は演出家の考え方次第で, 演出家がその古典作品をどう理解するかによって決まります.
今ではワーグナーは特に, 絶え間なく変化する「トリスタン」の半音階的和声(トリスタン和声)がもたらした革命のために, 近代音楽の父と呼ぶことができます. ワーグナーが近代的でないとは誰もいえません. それなのに, 現在コベント・ガーデンで上演されている作品が示すのは, ワーグナーの時代と私たちの時代との間にさえ非常に大きな隔たりがあるということです. 多分二つの小さな例が示す通り, この演出家はワーグナーの原典について全く理解していないか, ほとんど重きを置いていないかのどちらかです. 第三幕の, クルヴェナルがイゾルデの乗った船が来る海の方を見ているはずの場面では, 彼はずっとトリスタンの方を見たままなのです. 逆に, 最後にイゾルテがトリスタンの死に際に駆けつけた時, ワーグナーの原作ではもちろん, 彼女はかすかでも生存の兆候を確かめようとトリスタンの全身をくまなく調べ回すのですが, この演出家は, トリスタンに背を向けて彼女を横たわらせているのです!この, 原典と良識に対するあからさまな違反は, その上演中終始繰り返されたのです.
その演出家は何をしているつもりだったのでしょうか?私はそれが知りたいです. 良識が欠けていたのか, あるいは良識は持った上で, 意図的にそれに逆らうことを試みたのでしょうか?さらに悪いことに, 恐らくロイヤル・オペラ・ハウスは今日の聴衆が反逆的な態度を好んで楽しむだろうと判断し, 演出家にそうするように頼んで最高水準の金額を支払ったのでしょう. かつてピカソが, 自分の絵がつまらないのは分かっているが, 人々がそれを求めていることも知っている, と話していたのを思い出す人もいるでしょう. 実際, 先週ロイヤル・オペラ・ハウスにいた聴衆はそのような馬鹿さ加減をやじり倒すべきでしたが, 舞台を大人しく見て温かい拍手を送っていました. 私が勘違いしていない限り, 今ドイツではどこへいっても, ワーグナーのオペラ作品が古典的に演出されることはめったにありません.
良識はどうなっているのかと尋ねざるを得ません. 今日の聴衆はどこへ向かっていくのでしょうか?たとえば, 恋人同士が互いに背中を向け合う姿を好むような人たちがどうやって長生きできるのでしょうか?反論:たかが演劇じゃないですか. 応え:劇は社会を映す鏡ですよ. 結論:今日の社会にはもはや良識はなくなっており, わずかでも残っているとすれば, それさえも踏みにじっています. 良識とは現実感覚のことですから, そのような社会は生き残れないでしょう.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスへ行かなくなってからもう40年以上になりますが, 先週, 嬉しいことに友人たちがワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」のチケットを提供してくれました. おかげでその晩は素晴らしいひと時を過ごすことができました. だが, おやまあ, なんとも当世風の演出でした!ひと昔前の古典と今日の舞台で上演される作品とではこうも違うものでしょうか!
1865年初演の「トリスタンとイゾルデ」のような古典は, あらゆる時代に当てはまるさまざまな人間関係の問題や解決法をうまく表現しているために古典となるのです. たとえば, 古典は男女愛の情熱を今日の歌劇「トリスタン」ほど巧みかつ力強く表現してはいません. しかし, ある古典戯曲が上演される場合, その都度, 上演される時代に合うように演出されることは明白です. 従って, 古典作品の内容自体は作者で決まりますが, その制作は演出家の考え方次第で, 演出家がその古典作品をどう理解するかによって決まります.
今ではワーグナーは特に, 絶え間なく変化する「トリスタン」の半音階的和声(トリスタン和声)がもたらした革命のために, 近代音楽の父と呼ぶことができます. ワーグナーが近代的でないとは誰もいえません. それなのに, 現在コベント・ガーデンで上演されている作品が示すのは, ワーグナーの時代と私たちの時代との間にさえ非常に大きな隔たりがあるということです. 多分二つの小さな例が示す通り, この演出家はワーグナーの原典について全く理解していないか, ほとんど重きを置いていないかのどちらかです. 第三幕の, クルヴェナルがイゾルデの乗った船が来る海の方を見ているはずの場面では, 彼はずっとトリスタンの方を見たままなのです. 逆に, 最後にイゾルテがトリスタンの死に際に駆けつけた時, ワーグナーの原作ではもちろん, 彼女はかすかでも生存の兆候を確かめようとトリスタンの全身をくまなく調べ回すのですが, この演出家は, トリスタンに背を向けて彼女を横たわらせているのです!この, 原典と良識に対するあからさまな違反は, その上演中終始繰り返されたのです.
その演出家は何をしているつもりだったのでしょうか?私はそれが知りたいです. 良識が欠けていたのか, あるいは良識は持った上で, 意図的にそれに逆らうことを試みたのでしょうか?さらに悪いことに, 恐らくロイヤル・オペラ・ハウスは今日の聴衆が反逆的な態度を好んで楽しむだろうと判断し, 演出家にそうするように頼んで最高水準の金額を支払ったのでしょう. かつてピカソが, 自分の絵がつまらないのは分かっているが, 人々がそれを求めていることも知っている, と話していたのを思い出す人もいるでしょう. 実際, 先週ロイヤル・オペラ・ハウスにいた聴衆はそのような馬鹿さ加減をやじり倒すべきでしたが, 舞台を大人しく見て温かい拍手を送っていました. 私が勘違いしていない限り, 今ドイツではどこへいっても, ワーグナーのオペラ作品が古典的に演出されることはめったにありません.
良識はどうなっているのかと尋ねざるを得ません. 今日の聴衆はどこへ向かっていくのでしょうか?たとえば, 恋人同士が互いに背中を向け合う姿を好むような人たちがどうやって長生きできるのでしょうか?反論:たかが演劇じゃないですか. 応え:劇は社会を映す鏡ですよ. 結論:今日の社会にはもはや良識はなくなっており, わずかでも残っているとすれば, それさえも踏みにじっています. 良識とは現実感覚のことですから, そのような社会は生き残れないでしょう.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年10月12日月曜日
神を畏れぬ欧州
エレイソン・コメンツ 第118回 (2009年10月10日)
哀れなアイルランド! 哀れな欧州!わずか16か月前, アイルランド国民は, アイルランドをより堅く欧州連合(EU)に結びつけるはずのリスボン条約(2007年)の承認を国民投票で否決しましたが, この国民総意的な「ノー」はアイルランドや欧州の政治家たちが望んだ決定ではありませんでした. そこで彼らはいくつかの譲歩を示した上で新たな国民投票をアイルランドに押し付け, 先週, 望み通りの票決を得ました. これで欧州連合は, ブリュッセルでの意思決定を効率化し, 欧州委員会の中央集権的統治権限を強化するための大幅な改革への道筋を整えたことになります. だが, これは各加盟国が欧州委員会の諸決定を拒否する機能を犠牲にすることになります.
アイルランド全有権者の3分の1以上が先週選択したと思われるものは, 1973年に欧州共同体に加盟する以前には同国で知られていなかった物質的繁盛と大量消費主義であることは確かです. 1932年から1968年までポルトガルの首相を務めた敬虔なカトリック教徒のサラザル博士と対比してみてください. 彼は, 生活, 政治, 経済とは単に黄金の砂浜に安く飛べるようにするだけが目的ではないと知り, 自国のために, とりわけ国際的銀行業者から「たとえ生活が貧しかろうと独立する」道を選んだのです. 堕落したマスメディアは即座に彼に「国粋主義の独裁者」という汚名を着せましたが, ポルトガル国民は喜んで彼に従ったのです. 何故なら, ファティマの奇跡(1017年)により彼らのカトリック信心が復興したことが, そもそもサラザルを首相の座につけることになったからです.
だが, 彼が亡くなってからわずか16年後にポルトガルは欧州共同体に加盟しました. 今日の世界における神の敵対者たちの前進は, まことに情け容赦もない冷酷無情そのものです. 反キリストに向かって進んでいく彼らの行く手に抵抗しようとするいかなる試みも, 寄せ波に抵抗している砂の城のように次第に切り崩されるばかりです. もし城がサラザルのポルトガルのようにしっかりと造られていれば, しばらくは持ちこたえるでしょうが, やがては洗い流そうとする波のなかに全部消えてしまうでしょう. かくして全欧州は自らを神のない新世界秩序の中に封じ込め, サッカーや海水浴に興じているというわけです!
哀れな欧州!もし, かつてなく強くなったブリュッセルの欧州政府の内部において, 「表向きの体裁や見かけ倒しの虚飾, そしていかに欧州連合が素晴らしくかつ必要欠くべからざる存在であるかを物語る出版物の雪崩の裏側で」本当は何が起きているのかを知りたかったら, info@stewardspress.co.uk で, 欧州議会議員(MEP)のマルタ・アンドレアセン夫人が簡潔にまとめた著書「暴かれたブリュッセル(原題“Brussels Laid Bare”by Marta Andreasen)」を注文して一読すべきです. 欧州連合に2002年1月から首席会計士として採用され, 連合全体の予算についての責任を一任された彼女は, すぐに同連合の財政体制全体に及ぶ大がかりな悪政ぶりにぶつかり, 職業上, 上手く波長を合わせて同調していくことなどとてもできなかったと言っています. 彼女は急速に孤立して信用を傷つけられ, それから5か月も経たないうちに職務を正しく遂行しようとしたために解雇されたのです.
彼女は, 自身の実体験をもとに, ブリュッセルは「無法状態で, 腐敗しており, 間違いだらけで,非民主的, 官僚的かつ過剰統制的で, 結局は運営不可能」な余計な政府だと書いています. こういうことは, 欧州連合に事実上何の説明責任もないことに起因していると彼女は指摘しています. 彼女は, 欧州連合が御しやすい腐敗した公務員を重用したがる使用者たちを隠蔽してしまったのではないかと感じたのではないでしょうか? 彼女の本には, そうした疑念を思わせる痕跡は何も見当たりません. 彼女は欧州議会議員として戦い続ける決心を公言しています. だが, 悲しいかな, 不誠実な欧州には彼女のような人物はもうこれ以上ふさわしくありません. しかし, もし彼女が戦い続けるなら, 何らかの形で, 必要とあれば子供の世代まで含めて押し潰される危険を冒すことになるでしょう.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
哀れなアイルランド! 哀れな欧州!わずか16か月前, アイルランド国民は, アイルランドをより堅く欧州連合(EU)に結びつけるはずのリスボン条約(2007年)の承認を国民投票で否決しましたが, この国民総意的な「ノー」はアイルランドや欧州の政治家たちが望んだ決定ではありませんでした. そこで彼らはいくつかの譲歩を示した上で新たな国民投票をアイルランドに押し付け, 先週, 望み通りの票決を得ました. これで欧州連合は, ブリュッセルでの意思決定を効率化し, 欧州委員会の中央集権的統治権限を強化するための大幅な改革への道筋を整えたことになります. だが, これは各加盟国が欧州委員会の諸決定を拒否する機能を犠牲にすることになります.
アイルランド全有権者の3分の1以上が先週選択したと思われるものは, 1973年に欧州共同体に加盟する以前には同国で知られていなかった物質的繁盛と大量消費主義であることは確かです. 1932年から1968年までポルトガルの首相を務めた敬虔なカトリック教徒のサラザル博士と対比してみてください. 彼は, 生活, 政治, 経済とは単に黄金の砂浜に安く飛べるようにするだけが目的ではないと知り, 自国のために, とりわけ国際的銀行業者から「たとえ生活が貧しかろうと独立する」道を選んだのです. 堕落したマスメディアは即座に彼に「国粋主義の独裁者」という汚名を着せましたが, ポルトガル国民は喜んで彼に従ったのです. 何故なら, ファティマの奇跡(1017年)により彼らのカトリック信心が復興したことが, そもそもサラザルを首相の座につけることになったからです.
だが, 彼が亡くなってからわずか16年後にポルトガルは欧州共同体に加盟しました. 今日の世界における神の敵対者たちの前進は, まことに情け容赦もない冷酷無情そのものです. 反キリストに向かって進んでいく彼らの行く手に抵抗しようとするいかなる試みも, 寄せ波に抵抗している砂の城のように次第に切り崩されるばかりです. もし城がサラザルのポルトガルのようにしっかりと造られていれば, しばらくは持ちこたえるでしょうが, やがては洗い流そうとする波のなかに全部消えてしまうでしょう. かくして全欧州は自らを神のない新世界秩序の中に封じ込め, サッカーや海水浴に興じているというわけです!
哀れな欧州!もし, かつてなく強くなったブリュッセルの欧州政府の内部において, 「表向きの体裁や見かけ倒しの虚飾, そしていかに欧州連合が素晴らしくかつ必要欠くべからざる存在であるかを物語る出版物の雪崩の裏側で」本当は何が起きているのかを知りたかったら, info@stewardspress.co.uk で, 欧州議会議員(MEP)のマルタ・アンドレアセン夫人が簡潔にまとめた著書「暴かれたブリュッセル(原題“Brussels Laid Bare”by Marta Andreasen)」を注文して一読すべきです. 欧州連合に2002年1月から首席会計士として採用され, 連合全体の予算についての責任を一任された彼女は, すぐに同連合の財政体制全体に及ぶ大がかりな悪政ぶりにぶつかり, 職業上, 上手く波長を合わせて同調していくことなどとてもできなかったと言っています. 彼女は急速に孤立して信用を傷つけられ, それから5か月も経たないうちに職務を正しく遂行しようとしたために解雇されたのです.
彼女は, 自身の実体験をもとに, ブリュッセルは「無法状態で, 腐敗しており, 間違いだらけで,非民主的, 官僚的かつ過剰統制的で, 結局は運営不可能」な余計な政府だと書いています. こういうことは, 欧州連合に事実上何の説明責任もないことに起因していると彼女は指摘しています. 彼女は, 欧州連合が御しやすい腐敗した公務員を重用したがる使用者たちを隠蔽してしまったのではないかと感じたのではないでしょうか? 彼女の本には, そうした疑念を思わせる痕跡は何も見当たりません. 彼女は欧州議会議員として戦い続ける決心を公言しています. だが, 悲しいかな, 不誠実な欧州には彼女のような人物はもうこれ以上ふさわしくありません. しかし, もし彼女が戦い続けるなら, 何らかの形で, 必要とあれば子供の世代まで含めて押し潰される危険を冒すことになるでしょう.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年10月5日月曜日
ミサ聖祭の誤り
エレイソン・コメンツ 第117回 (2009年10月4日)
10日前に, カストリリョン・オヨス枢機卿が南ドイツの新聞とのインタビューの中で聖ピオ十世会に対する興味深い批判をしました. その大部分は事実に反していましたが, わずかに真実な部分もありました(インタビュー記事はインターネット上で閲覧可能). 同枢機卿によれば, 2000年に彼が会った聖ピオ十世会の指導者たちは, 新しい(典礼による)ミサ聖祭がまるで「世界のすべての悪の根源」であるかの如き考えで凝り固まっていたような印象を受けたとのことです.
勿論, 第二バチカン公会議(1962年-1965年)の後で行われたミサ聖祭の伝統ローマ式典礼(トリエント公会議式の典礼)の改革が必ずしも世界のすべての悪について責任があるというわけではありませんが, 現代世界における悪のかなりの部分について責任があります. 第一に, ローマ・カトリック教は, 唯一の真実の神が2000年前に一度, つまりただ一度だけ人の性質を身につけて, 神すなわち人であるイエズス・キリストとして(人類の罪の購いとして)この世に来られた時に, 当の神御自身によって始められた唯一の宗教です. 第二に, イエズス・キリストの流血を伴った十字架上の自己犠牲だけが唯一, 今日の世界的な人類の背信行為によって燃え上がった神の正義の怒りをなだめることができるのであり, かかる懐柔を維持していくことは, ミサ聖祭での真正な犠牲の奉献において, 前述のキリストの血まみれの犠牲を流血無しに更新することによってのみ可能であるということです. 第三に, かかるミサ聖祭の古来ローマ式典礼の本質的な部分は, カトリック教会の初期の時代に遡って以来存続してきたものですが, 教皇パウロ6世指揮下の第二バチカン公会議の後に当教皇自身が友人のジャン・ギトンに語ったように, (キリスト教)プロテスタント会派を満足させるために考案したやり方で大幅に変更されたのです.
しかし, プロテスタント会派はカトリシズムに対して抗議するところからその名称をとっています. 「第二バチカン公会議の精神の下で」改革されたミサ典礼が数々の本質的なカトリックの真理の表現をひどく弱めているのはこのためです. 即ち, 順に挙げれば, (1)パンと葡萄酒を聖変化させ, これが(2)ミサ聖祭の(十字架上のキリストと同じく, 人の罪を購うための)犠牲の捧げ物となり, ついで, 同様に(3)司祭職も聖変化して(犠牲のキリストと一体となって)犠牲の捧げ物となり, これらすべては(4)祝福された神の御母のとりなしによって執り行われる, というものです. 事実は, 完全な古来ローマ式典礼こそが完全なカトリック教理の表現なのです.
もし, 多くのカトリック教徒が本を読んだり講義に出席するのではなく, まずミサ聖祭に与ることによって数々のカトリック教理を吸収し, それを実生活で活かし, 誤りを正す世の光, 堕落を防ぐ世の塩(訳注・聖書の各聖福音書参照のこと. 聖マテオ5.13~, 聖マルコ9.49~, 聖ルカ14.34~)として振る舞うようになるのだとすれば, 世界が今日のような混乱と不道徳に陥っていることはさしたる不思議ではないということになります. 「ミサ聖祭を壊せばカトリック教会を壊すことになる」とルターは言いました. 「世界は太陽の光がなくてもやっていけるが, ミサ聖祭によるキリストの犠牲なしではやっていけないだろう」とピオ神父は言いました.
司祭の養成を目的に聖ピオ十世会を設立するに当たっての急務がミサ聖祭の古来ローマ式典礼の救済だったのは, まさしくこのためです. 神に感謝すべきことに, その典礼は, 徐々にではあっても確実に, 主流派教会に戻りつつあります(反キリスト者の下ではそうはならないでしょう). しかし, ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会は, この伝統的典礼に基づくミサ聖祭の完全な教理上の土台を, いまだに頑としてローマに身を潜めている第二バチカン公会議の犠牲者たちおよび加担者たちから救わなければなりません. 私たちはローマと聖ピオ十世会の間で今月開かれる予定の「教理上の論議」のために懸命に祈らなければなりません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
10日前に, カストリリョン・オヨス枢機卿が南ドイツの新聞とのインタビューの中で聖ピオ十世会に対する興味深い批判をしました. その大部分は事実に反していましたが, わずかに真実な部分もありました(インタビュー記事はインターネット上で閲覧可能). 同枢機卿によれば, 2000年に彼が会った聖ピオ十世会の指導者たちは, 新しい(典礼による)ミサ聖祭がまるで「世界のすべての悪の根源」であるかの如き考えで凝り固まっていたような印象を受けたとのことです.
勿論, 第二バチカン公会議(1962年-1965年)の後で行われたミサ聖祭の伝統ローマ式典礼(トリエント公会議式の典礼)の改革が必ずしも世界のすべての悪について責任があるというわけではありませんが, 現代世界における悪のかなりの部分について責任があります. 第一に, ローマ・カトリック教は, 唯一の真実の神が2000年前に一度, つまりただ一度だけ人の性質を身につけて, 神すなわち人であるイエズス・キリストとして(人類の罪の購いとして)この世に来られた時に, 当の神御自身によって始められた唯一の宗教です. 第二に, イエズス・キリストの流血を伴った十字架上の自己犠牲だけが唯一, 今日の世界的な人類の背信行為によって燃え上がった神の正義の怒りをなだめることができるのであり, かかる懐柔を維持していくことは, ミサ聖祭での真正な犠牲の奉献において, 前述のキリストの血まみれの犠牲を流血無しに更新することによってのみ可能であるということです. 第三に, かかるミサ聖祭の古来ローマ式典礼の本質的な部分は, カトリック教会の初期の時代に遡って以来存続してきたものですが, 教皇パウロ6世指揮下の第二バチカン公会議の後に当教皇自身が友人のジャン・ギトンに語ったように, (キリスト教)プロテスタント会派を満足させるために考案したやり方で大幅に変更されたのです.
しかし, プロテスタント会派はカトリシズムに対して抗議するところからその名称をとっています. 「第二バチカン公会議の精神の下で」改革されたミサ典礼が数々の本質的なカトリックの真理の表現をひどく弱めているのはこのためです. 即ち, 順に挙げれば, (1)パンと葡萄酒を聖変化させ, これが(2)ミサ聖祭の(十字架上のキリストと同じく, 人の罪を購うための)犠牲の捧げ物となり, ついで, 同様に(3)司祭職も聖変化して(犠牲のキリストと一体となって)犠牲の捧げ物となり, これらすべては(4)祝福された神の御母のとりなしによって執り行われる, というものです. 事実は, 完全な古来ローマ式典礼こそが完全なカトリック教理の表現なのです.
もし, 多くのカトリック教徒が本を読んだり講義に出席するのではなく, まずミサ聖祭に与ることによって数々のカトリック教理を吸収し, それを実生活で活かし, 誤りを正す世の光, 堕落を防ぐ世の塩(訳注・聖書の各聖福音書参照のこと. 聖マテオ5.13~, 聖マルコ9.49~, 聖ルカ14.34~)として振る舞うようになるのだとすれば, 世界が今日のような混乱と不道徳に陥っていることはさしたる不思議ではないということになります. 「ミサ聖祭を壊せばカトリック教会を壊すことになる」とルターは言いました. 「世界は太陽の光がなくてもやっていけるが, ミサ聖祭によるキリストの犠牲なしではやっていけないだろう」とピオ神父は言いました.
司祭の養成を目的に聖ピオ十世会を設立するに当たっての急務がミサ聖祭の古来ローマ式典礼の救済だったのは, まさしくこのためです. 神に感謝すべきことに, その典礼は, 徐々にではあっても確実に, 主流派教会に戻りつつあります(反キリスト者の下ではそうはならないでしょう). しかし, ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会は, この伝統的典礼に基づくミサ聖祭の完全な教理上の土台を, いまだに頑としてローマに身を潜めている第二バチカン公会議の犠牲者たちおよび加担者たちから救わなければなりません. 私たちはローマと聖ピオ十世会の間で今月開かれる予定の「教理上の論議」のために懸命に祈らなければなりません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
2009年9月27日日曜日
…そして仮に…とすれば
エレイソン・コメンツ 第116回
…そして仮にローマと聖ピオ十世会の間でいかような論議が行われるとしても, 双方の間で非教理的「実務的な協定」を結ぶという結論に達するように見えたとすれば, その場合には, 救われたいと思うカトリック教徒は全員, その「協定」を綿密に, 特にその細則に至るまで検討し, ローマに承認された聖ピオ十世会における指導者あるいは指導者たち, および彼らの後継者たちを, 将来誰が任命することになるのかを確かめなければならないでしょう.
彼はいずれの当事者も満足させる肩書きを与えられるでしょう. 「総長」か, あるいは「属人区 (訳注・カトリック教会の一組織オプス・デイ (Opus Dei) を意味する)」か, はたまた「死刑執行大臣殿」(身分の高い貴族の階級および称号を持つある登場人物のこと)(訳注・英国の喜歌劇「ミカド(Mikado)」の中の登場人物のことと思われる) か. いずれにせよ名前は重要ではありません. 誰がその決定者だったのか, またその決定者を誰が任命するのか?が極めて重要なのです。教皇によって任命されるのか, 聖職者省によってなのか, またはその他のローマの高官によるのか, あるいは聖ピオ十世会の中から現行のように引き続いて, 12年毎に40人ほどの有力な司祭の中から選挙されて(次回選挙は2018年に行われる), ローマから独立して任命されるのでしょうか?しかし, もしローマが聖ピオ十世会の指導者を任命する支配権を得られなかったら, その「協定」は何をローマに与えるのでしょうか?
カトリック教会の歴史には神の友と敵の間の数々の闘争の例が散見されます. 普通はそれぞれカトリック教会と国家の間で, 教会の司教の任命支配権を争ったのですが, 今ではそれは存在しません!なぜなら、カトリック教会の利口な友または敵なら誰でもよく知っているとおり, 司教たちが教会の未来の鍵を握っているからです. ルフェーブル大司教が今日の民主主義のくだらなさを無視してよく言っておられたように, カトリック教徒を形成するのは司教たちであって, カトリック教徒が司教たちを形成するのではないからです.
この闘争の典型例は1801年のナポレオンによる政教条約です. この条約によって新興のフリーメーソン的国家は, フランス国内のカトリック教会における司教の選出に関してかなり大きな支配力の獲得を確かなものにしました. 相変わらずカトリック色の強すぎるフランス革命以前の司教たちはすべて即座に解雇され, カトリック教会は確実に「第二バチカン公会議」に向かって進んでいきました. 同じように, 1905年にフリーメーソンが, フランス国家とカトリック教会との同盟から縁を切った時 ― 単に同盟と絶縁するだけでなく, それを非難した方がよかったでしょうが ― 英雄的な教皇ピオ10世はそれにより利を得ました. 望んでもいなかった, 国家から独立した新たな任命権を得て, 自ら, わずかですが9人の司教を任命しました. だが, 司教の力強いカトリシズムはフリーメーソンにとって脅威だったため, ピオ10世が亡くなった途端に彼らは, ただフランスの司教任命の支配権を取り戻したいというだけのために, 急いでカトリック教会とフランス国家との間の一定の再同盟を結ぶための再交渉に戻りました. こうして, 第二バチカン公会議が軌道に戻されたのです.
このパターンは1988年に繰り返されました. この時, 英雄的な信仰と勇気を持ったルフェーブル大司教ただ一人が, 公会議主義のローマの露骨な不支持に左右されずに4人の司教を叙階することによって聖ピオ十世会を救ったのです. 今回は, 同じ公会議主義者のキツネたちが聖ピオ十世会の4人の「醜いアヒルの子」とその潜在的な独自の後継者に対する支配権を取り戻すために「大盤振るまい」をするかもしれません. アヒルの子は飢えたキツネにとってはおいしい餌です!ローマがそのカトリックの精神から外れている限り, カトリックの独立を維持していくだろうシュミットバーガー神父とフェレー司教, またそのすべての後継者たちに神の祝福がありますように!
キリエ・エレイソン(主よ憐れみたまえ).
英国ロンドンより
リチャード・ウィリアムソン司教
…そして仮にローマと聖ピオ十世会の間でいかような論議が行われるとしても, 双方の間で非教理的「実務的な協定」を結ぶという結論に達するように見えたとすれば, その場合には, 救われたいと思うカトリック教徒は全員, その「協定」を綿密に, 特にその細則に至るまで検討し, ローマに承認された聖ピオ十世会における指導者あるいは指導者たち, および彼らの後継者たちを, 将来誰が任命することになるのかを確かめなければならないでしょう.
彼はいずれの当事者も満足させる肩書きを与えられるでしょう. 「総長」か, あるいは「属人区 (訳注・カトリック教会の一組織オプス・デイ (Opus Dei) を意味する)」か, はたまた「死刑執行大臣殿」(身分の高い貴族の階級および称号を持つある登場人物のこと)(訳注・英国の喜歌劇「ミカド(Mikado)」の中の登場人物のことと思われる) か. いずれにせよ名前は重要ではありません. 誰がその決定者だったのか, またその決定者を誰が任命するのか?が極めて重要なのです。教皇によって任命されるのか, 聖職者省によってなのか, またはその他のローマの高官によるのか, あるいは聖ピオ十世会の中から現行のように引き続いて, 12年毎に40人ほどの有力な司祭の中から選挙されて(次回選挙は2018年に行われる), ローマから独立して任命されるのでしょうか?しかし, もしローマが聖ピオ十世会の指導者を任命する支配権を得られなかったら, その「協定」は何をローマに与えるのでしょうか?
カトリック教会の歴史には神の友と敵の間の数々の闘争の例が散見されます. 普通はそれぞれカトリック教会と国家の間で, 教会の司教の任命支配権を争ったのですが, 今ではそれは存在しません!なぜなら、カトリック教会の利口な友または敵なら誰でもよく知っているとおり, 司教たちが教会の未来の鍵を握っているからです. ルフェーブル大司教が今日の民主主義のくだらなさを無視してよく言っておられたように, カトリック教徒を形成するのは司教たちであって, カトリック教徒が司教たちを形成するのではないからです.
この闘争の典型例は1801年のナポレオンによる政教条約です. この条約によって新興のフリーメーソン的国家は, フランス国内のカトリック教会における司教の選出に関してかなり大きな支配力の獲得を確かなものにしました. 相変わらずカトリック色の強すぎるフランス革命以前の司教たちはすべて即座に解雇され, カトリック教会は確実に「第二バチカン公会議」に向かって進んでいきました. 同じように, 1905年にフリーメーソンが, フランス国家とカトリック教会との同盟から縁を切った時 ― 単に同盟と絶縁するだけでなく, それを非難した方がよかったでしょうが ― 英雄的な教皇ピオ10世はそれにより利を得ました. 望んでもいなかった, 国家から独立した新たな任命権を得て, 自ら, わずかですが9人の司教を任命しました. だが, 司教の力強いカトリシズムはフリーメーソンにとって脅威だったため, ピオ10世が亡くなった途端に彼らは, ただフランスの司教任命の支配権を取り戻したいというだけのために, 急いでカトリック教会とフランス国家との間の一定の再同盟を結ぶための再交渉に戻りました. こうして, 第二バチカン公会議が軌道に戻されたのです.
このパターンは1988年に繰り返されました. この時, 英雄的な信仰と勇気を持ったルフェーブル大司教ただ一人が, 公会議主義のローマの露骨な不支持に左右されずに4人の司教を叙階することによって聖ピオ十世会を救ったのです. 今回は, 同じ公会議主義者のキツネたちが聖ピオ十世会の4人の「醜いアヒルの子」とその潜在的な独自の後継者に対する支配権を取り戻すために「大盤振るまい」をするかもしれません. アヒルの子は飢えたキツネにとってはおいしい餌です!ローマがそのカトリックの精神から外れている限り, カトリックの独立を維持していくだろうシュミットバーガー神父とフェレー司教, またそのすべての後継者たちに神の祝福がありますように!
キリエ・エレイソン(主よ憐れみたまえ).
英国ロンドンより
リチャード・ウィリアムソン司教
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