2014年12月27日土曜日

389 大司教の感覚 II 12/27

エレイソン・コメンツ 第389回 (2014年12月27日)

偉大な大司教は真の信仰を貫き通し,確固として,ローマとの話し合いを推し進めました(いだいな だいしきょうは まことの しんこうを つらぬき とおし,かっことして,ろーまとの はなしあいを おしすすめ ました.)
( "Towards Rome a great Archbishop did, yes, push." )

だが,ローマの人々の心がグニャグニャなら,一体何が出来るでしょうか?(だが,ろーまの ひとびとの こころが ぐにゃぐにゃ なら,いったい なにが できる でしょうか?)
( "But what can be done when Romans' minds are mush ? " )

12週間前(2014年10月5日)の「エレイソン・コメンツ」で,1991年上旬にルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )が「フィデリテ」 "Fideliter" 誌と行なった最後の公開インタビューからの抜粋を第1回目として紹介しました(じゅうに しゅうかん まえ〈にせん じゅうよ ねん じゅうがつ いつか〉の「えれいそん・こめんつ」で,せん きゅうひゃく きゅうじゅういち ねん さんがつ に るふぇーぶる だいしきょう が「ふぃでりて」し と おこなった さいごの こうかい いんたびゅー からの ばっすい だい いっかいめ として しょうかい しました)( "Twelve weeks ago (Oct. 5) “Eleison Comments” presented a first series of extracts from the last public interview of Archbishop Lefebvre, given to Fideliter magazine in early 1991." ).今回は第2回目として最後の抜粋をご紹介します.多少編集を加えましたが,内容を簡潔かつ分かり易くするためです(こんかいは だい にかいめ として さいごの ばっすいを ごしょうかい します.たしょう へんしゅうを くわえ ましたが,ないようを かんけつ かつ わかり やすく するため です):--( "Here follows a second and last series of extracts, slightly edited but only for the sake of brevity and clarity:-- " )

問い(とい)「フィデリテ」 誌)(〈「ふぃでりて」し〉):  私達は聖ピオ十世会(SSPX)の20年間の存在から何の様な結論を出せば良いでしょうか?(わたくし たちは せいぴお じゅっせい かいの にじゅう ねんかんの そんざいから どの ような けつろんを だせば よい でしょうか?)( "Q: What conclusions can we draw from the Society of St Pius X after 20 years of its existence ? " )

答え(こたえ)(ルフェーブル大司教)(るふぇーぶる だいしきょう):  善良なる主( "The Good Lord" )は(訳注後記 2・1 ),(大宇宙にあまねく〈遍く・普く〉行き渡る唯一の)真の伝統( "Tradition" )を望まれました(ぜんりょう なる しゅ は〈だい うちゅうに あまねく ゆきわたる ゆいいつの〉まことの でんとうを のぞまれ ました)( "A: The Good Lord wanted Catholic Tradition." )(訳注後記 2・2 ).私は聖ピオ十世会( "SSPX" )が真の神( "God" )の望まれた真の信仰( "the Faith" ),真の教会の真実( "the truth of the Church" )を守り続ける為の手段だと深く確信しています(わたくしは せいぴお じゅっせい かいが まことの かみの のぞまれた まことの しんこう,まことの きょうかいの しんじつを まもり つづける ための しゅだん だと ふかく かくしん して います)( "I am deeply convinced that the Society is the means that God wanted to keep and maintain the Faith, the truth of the Church." ).私達は教会の宝を忠実に守り続けなければならず,(わたくしたちは きょうかいの たからを ちゅうじつに まもり つづけなければ ならず),( "We must continue faithfully to keep the treasures of the Church, …" ),それ(其れ)が何時の日かローマ(=羅馬)(訳注後記 2・3)で失われた物を取り戻すだろうと期待しなければなりません(それが いつの ひ か ろーま〈ろーま〈やくちゅう=こだい ろーま・ろーま ていこくを さす かんじ〉〉で うしなわれた ものを とりもどす だろうと きたい しなければ なりません)( "… hoping that one day they may resume the place which they should never have lost in Rome." ).

〔第1問答・邦訳/英語原文〕

問い:  私達は聖ピオ十世会の20年間の存在から何の様な結論を出せば良いでしょうか?

答え:  善良なる主は伝統を望まれました.私は聖ピオ十世会が真の神の望まれた真の信仰,真の教会の真実を守り続ける為の手段だと深く確信しています.私達は教会の宝を忠実に守り続けなければならず,それが何時の日かローマ(=羅馬)で失われた物を取り戻すだろうと期待しなければなりません.

( "Q: What conclusions can we draw from the Society of St Pius X after 20 years of its existence ?

A:  The Good Lord wanted Catholic Tradition. I am deeply convinced that the Society is the means that God wanted to keep and maintain the Faith, the truth of the Church. We must continue faithfully to keep the treasures of the Church, hoping that one day they may resume the place which they should never have lost in Rome." )

問い:  貴方は私達を近代ローマと対峙させるのは典礼( "the liturgy" )より,現在ではむしろ(寧ろ)真の信仰( "the Faith" )だとよく言われます(あなたは わたくしたちを きんだい ろーまと たいじ させる のは てんれい より むしろ まことの しんこう だと よく いわれます)( "Q: You often say that, more than the liturgy, it is now the Faith which opposes us to modern Rome. " ).

答え:  勿論典礼や諸々の秘跡の問題はとても大切です.だが,最も大切な事は真の信仰( "the Faith" )の問題です(もちろん てんれいや もろもろの ひせきの もんだいは とても たいせつ です.だが,もっとも たいせつな ことは まことの しんこうの もんだい です)( "A: Certainly the question of the liturgy and the sacraments is very important, but the most important is the question of the Faith." ).それ(其れ)は私達に取っての問題という訳ではあり(有り)ません(それは わたくしたちに とっての もんだい という わけでは ありません)( "This is not a question for us." ).私達はあらゆる時代の真の信仰( "the Faith of all time" )(訳注後記 3・1 ),トレント公会議当時の信仰,聖ピオ10世の示された公教要理に基づく信仰,バチカン第二公会議以前のあらゆる公会議やあらゆる教皇が説いた信仰を持ち続けています(わたくしたちは あらゆる じだいの まことの しんこう〈=えいえんに ふへん かつ ふかへん=まことの しんこう=あらゆる じだいに てきごう する しんこう〉,とれんと こうかいぎ とうじの しんこう,せいぴお じゅっせいの しめされた こうきょう ようりに もとづく しんこう,ばちかん だいに こうかいぎ いぜんの あらゆる こうかいぎや あらゆる きょうこうが といた しんこうを もち つづけて います)( "We have the Faith of all time, of the Council of Trent, of the Catechism of St. Pius X, of all the Councils and all the Popes before Vatican II." ).これ(此れ・是・之・惟)まで(迄)数年にわたり(亘り)ローマの人達は公会議の全ては伝統に完全に合致するという事を示そうとして来ました(これまで すうねんに わたり ろーまの ひと たちは こうかいぎの すべては でんとうに かんぜんに がっちする ということを しめそうと して きました)( "For years they have tried in Rome to show that everything in the Council was fully consistent with this Tradition. " ).だが今では,彼等は伝えるべき伝統や信仰預託( "Deposit" )等何も無いと言い,その(其の)本性を現し始めています(だが いま では,かれらは つたえる べき でんとうや しんこう よたく など なにも ない といい,その ほんしょうを あらわし はじめて います)( "Now they are showing their true colours by saying there is no longer any Tradition or Deposit to be transmitted." ).教会における(於ける)伝統とは教皇が今日述べられる内容が全てです(きょうかいに おける でんとう とは きょうこうが こんにち のべられる ないようが すべて です.)( "Tradition in the Church is whatever the Pope is saying today." ).貴方方は教皇や諸諸の司教達が今日述べられる事に従わなければなりません(あなたがたは きょうこうや もろもろの しきょう たちが こんにち のべられる ことに したがわなければ なりません.)( "You must submit to what the Pope and the bishops say today." ).これが彼等の言う有名な「生きた伝統」(‘Living Tradition’)で,私達が1988年に第二公会議を非難した唯一の根拠です(これが かれらの いう ゆうめいな「いきた でんとう」で,わたくしたちが せん きゅうひゃく はちじゅう はちねんに だいに こうかいぎを ひなん した ゆいいつの こんきょ です)( "Here is their famous ‘Living Tradition’, which was the only basis for our condemnation in 1988." ).

今や彼等は彼等の言う事が教皇ピオ9世が書き記した内容やトレント公会議が公布した内容と一致していると立証する努力さえ投げ出しています(いまや かれらは かれらの いうことが きょうこう ぴお きゅうせいが かきしるした ないようや とれんと こうかいぎが こうふ した ないようと いっち していると りっしょう する どりょく さえ なげだして います)( "Now they have given up trying to prove that what they say is consistent with what Pius IX wrote or with what the Council of Trent promulgated. " ).そのような(其の様な)事はもう終わった事で,ラツィンガー枢機卿が言う様に時代遅れだと言う訳です(そのような ことは もう おわった ことで,らつぃんがー すうききょうが いうように じだい おくれだ というわけです)( "No, all of that is over; it’s outdated, as Cardinal Ratzinger said. " ).だが,この点ははっきりしており,彼等は以前にも同じ事を言っていたのかも知れません(だが,このてんは はっきり しており,かれらは いぜん にも おなじ ことを いって いたのかも しれません)( "It is clear, and they might have said so earlier. " ).
私達が彼等と話し合い,議論し合っても無意味でした.今や私達は権力の独裁に苦しめられています.何故なら,過去から引き継がれた諸諸の法則が最早何も残っていないからです(わたくし たちが かれらと はなし あい,ぎろん しあっても むいみ でした.いまや わたくし たちは けんりょくの どくさいに くるしめられて います.なぜなら,かこ から ひきつがれた もろもろの ほうそくが もはや なにも のこって いない からです.)( "There was no point in our talking, in our discussing with them. Now we suffer from the tyranny of authority, because there are no longer any rules from the past. " ).

彼等は私達が正しい事を益々強く示しています(かれらは わたくし たちが ただしい ことを ますます つよく しめして います.)( "They are showing more and more that we are right." ).
私達は私達とは違う哲学を持つ人達,物の見方の違う人達,近代の主観論的哲学者の影響を受けた人達を相手にしています(わたくし たちは わたくし たち とは ちがう てつがくを もつ ひと たち,ものの みかたの ちがう ひと たち,きんだいの しゅかん ろん てき てつがく しゃの えいきょうを うけた ひと たちを あいてに して います)( "We are dealing with people who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers." ).彼等には確固たる真理,教義等何も無いのです.あらゆる物は進化すると言うのです(かれら には かっこ たる しんり,きょうぎ など なにも ない のです.あらゆる ものは しんか すると いう のです.)( "For them there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving." ).これは正しくフリーメーソン的な信仰の破壊です(これは まさしく ふりーめーそん てきな しんこうの はかい です.)( "This is really the Masonic destruction of the Faith." ).幸いな事に,私達には拠って立つべき伝統が有ります!(さいわいな ことに,わたくし たち には よって たつ べき でんとうが あります!)( "Fortunately, we have Tradition to lean on !" )

〔第2問答・邦訳/英語原文〕

問い:  貴方は私達を近代ローマと対峙させるのは典礼よりむしろ(寧ろ)真の信仰だとよく言われます

答え:  勿論典礼や諸諸の秘跡の問題はとても大切です.だが,最も大切な事は真の信仰の問題です.それは私達に取っての問題という訳では有りません.私達はあらゆる時代の信仰,トレント公会議当時の信仰,聖ピオ10世の示された公教要理に基づく信仰,バチカン第二公会議以前のあらゆる公会議やあらゆる教皇が説いた信仰を持ち続けています.これまで数年にわたりローマの人達は公会議の全ては伝統に完全に合致すると言う事を示そうとして来ました.だが今では,彼等は伝えるべき伝統や信仰預託など何も無いと言い,その本性を現し始めています.教会における伝統とは教皇が今日述べられる内容が全てです.貴方方は教皇や諸諸の司教達が今日述べられる事に従わなければなりません.これが彼等の言う有名な「生きた伝統」で,私達が1988年に第二公会議を非難した唯一の根拠です.

今や彼等は彼等の言う事が教皇ピオ9世が書き記した内容やトレント公会議が公布した内容と一致していると立証する努力さえ投げ出しています.その様な事はもう終わった事で,ラツィンガー枢機卿が言う様に時代遅れだと言う訳です.だが,この点ははっきりしており,彼等は以前にも同じ事を言っていたのかも知れません.
私達が彼等と話し合い,議論し合っても無意味でした.今や私達は権力の独裁に苦しめられています.何故なら,過去から引き継がれた諸諸の法則が最早何も残っていないからです.

彼等は私達が正しい事を益々強く示しています.私達は私達とは違う哲学を持つ人達,物の見方の違う人達,近代の主観論的哲学者の影響を受けた人達を相手にしています.彼等には確固たる真理,教義など何も無いのです.あらゆる物は進化すると言うのです.是は正しくフリーメーソン的な信仰の破壊です.幸いな事に,私達には拠って立つべき伝統が有ります!

( "Q:  You often say that, more than the liturgy, it is now the Faith which opposes us to modern Rome.

A:  Certainly the question of the liturgy and the sacraments is very important, but the most important is the question of the Faith. This is not a question for us. We have the Faith of all time, of the Council of Trent, of the Catechism of St. Pius X, of all the Councils and all the Popes before Vatican II. For years they have tried in Rome to show that everything in the Council was fully consistent with this Tradition. Now they are showing their true colours by saying there is no longer any Tradition or Deposit to be transmitted. Tradition in the Church is whatever the Pope is saying today. You must submit to what the Pope and the bishops say today. Here is their famous ‘Living Tradition’, which was the only basis for our condemnation in 1988.

Now they have given up trying to prove that what they say is consistent with what Pius IX wrote or with what the Council of Trent promulgated. No, all of that is over; it’s outdated, as Cardinal Ratzinger said. It is clear, and they might have said so earlier. There was no point in our talking, in our discussing with them. Now we suffer from the tyranny of authority, because there are no longer any rules from the past.

They are showing more and more that we are right.
We are dealing with people who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers. For them there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving. This is really the Masonic destruction of the Faith. Fortunately, we have Tradition to lean on! " )

問い: 貴方は聖ピオ十世会がこれまで何度か無くなり掛けたのに存続し続けているのは(あなたは せい ぴお じゅっせい かいが これまで なんどか なくなり かけた のに そんぞく しつづけて いる のは),間違い無く神に祝福されているのだと強調されてきました(まちがい なく かみに しゅくふく されて いる のだと きょうちょう されて きました).( "Q:  You have emphasized that you are sure that the Society is blessed by God, because at several points it could have disappeared." )

答え: 全くその通りです(まったく その とおり です).聖ピオ十世会はこれまで(迄)とてもひどい(迚も酷い)攻撃にさらされ(曝され)て来ました.これはとても苦痛な事です(せい ぴお じゅっせい かいは これ まで とても ひどい こうげきに さらされて きました.これは とても くつうな こと です).だが,それでも私達は守り続けて来た真の信仰や真の伝統( "Faith and Tradition" )の路線が不滅だと信じなければなりません(だが,それ でも わたくし たちは まもり つづけて きた まことの しんこうや まことの でんとうの ろせんが ふめつ だと しんじなければ なり ません).何故なら,神は教会が滅びる事など(等・抔)許されるはず(筈)が無いからです(なぜなら,かみは きょうかいが ほろびる こと など ゆるされる はずが ない から です).( "A:  Indeed. It has kept coming under very difficult attacks. That is very painful, but we must nonetheless believe that the line of Faith and Tradition that we are following, is imperishable, because God cannot allow his Church to perish." )

〔第3問答・邦訳/英語原文〕

問い:  貴方方は 聖ピオ十世会がこれ迄何度か無くなり掛けたのに存続し続けているのは,間違い無く神に祝福されているのだと強調されて来ました

答え:  全くその通りです.聖ピオ十世会はこれまで,とても酷い攻撃に曝されて来ました.これはとても苦痛な事です.だが,それでも私達は守り続けて来た信仰や伝統の路線が不滅だと信じなければなりません.何故なら,神は教会が滅びる事等許される筈が無いからです.

( "Q: You have emphasized that you are sure that the Society is blessed by God, because at several points it could have disappeared.

A:  Indeed. It has kept coming under very difficult attacks. That is very painful, but we must nonetheless believe that the line of Faith and Tradition that we are following, is imperishable, because God cannot allow his Church to perish." )

問い:  貴方はローマとの合意がまとまる(纏まる)可能性に希望を持ち続けている信徒達に何と言われますか(あなたは ろーま との ごういが まとまる かのう せいに きぼうを もち つづけて いる しんと たちに なんと いわれ ますか) ( "Q;  What can you say to those of the faithful who still hope in the possibility of an agreement with Rome? " )

答え:  問題を理解し,私達が真の伝統と真の信仰の細道を真っ直ぐ断固として進み続ける様( "to continue along the straight and firm path of Tradition and the Faith" )正確に助けてくれる(呉れる)本物の信徒達は(もんだいを りかいし,わたくしたちが まことの でんとうと まことの しんこうの ほそみちを まっすぐ だんこ として すすみ つづける よう せいかくに たすけて くれる ほんものの しんと たちは)( "A:  Our true faithful, those who have understood the problem and who have precisely helped us to continue along the straight and firm path of Tradition and the Faith, …" ),私が試みているローマへのアプローチ(=接近)は危険な物であり,時間を浪費しているだけだと助言してくれました(わたくしが こころみて いる ろーまへの あぷろーちは きけんな もの であり,じかんを ろうひ している だけ だと じょげん して くれました)( "… told me that the approaches I was making towards Rome were dangerous and that I was wasting my time." ).だが,私は最後の瞬間まで,ローマには僅かなりとも誠実さを持つ人達が居るだろうと望みを懸けました(だが,わたくしは さいごの しゅんかん まで,ろーま には わずか なりとも せいじつさを もつ ひとたちが いるだろうと のぞみを かけました)( "Yet I hoped until the last minute that in Rome we would witness a little bit of loyalty, …" ).従って,私は最大限の努力をしなかったと非難されることはないでしょう(したがって,わたくしは さいだいげんの どりょくを しなかったと ひなん される ことは ない でしょう)( "… so I cannot be blamed for not having done the maximum." ).だから「ローマと何としても合意しなければ」と言う人達に,私は今でも,ローマとの交渉中に私は必要以上の努力をしたと言えると思います(だから「ろーまと なんとしても ごうい しなければ」という ひとたちに,わたくしは いまでも,ろーまとの こうしょう ちゅうに わたくしは ひつよう いじょうの どりょくを したと いえると おもいます)( "So now too, to those who say to me, “You’ve got to reach an agreement with Rome,” I think I can say that I then went even further than I should have." ).

〔第4問答・邦訳/英語原文〕

問い:  貴方はローマとの合意が纏まる可能性に希望を持ち続けている信徒達に何と言われますか?

答え:  問題を理解し,私達が真の伝統と真の信仰の道を真っ直ぐ断固として進み続ける様正確に助けてくれる本物の信徒達は,私が試みているローマへのアプローチ(接近)は危険な物であり,時間を浪費しているだけだと助言してくれました.だが,私は最後の瞬間まで,ローマには僅かなりとも誠実さを持つ人達が居るだろうと望みを懸けました.従って,私は最大限の努力をしなかったと非難される事は無いでしょう.だから「ローマと何としても合意しなければ」と言う人達に,私は今でも,ローマとの交渉中に私は必要以上の努力をしたと言えると思います

( "Q; What can you say to those of the faithful who still hope in the possibility of an agreement with Rome?

A: Our true faithful, those who have understood the problem and who have precisely helped us to continue along the straight and firm path of Tradition and the Faith, told me that the approaches I was making towards Rome were dangerous and that I was wasting my time. Yet I hoped until the last minute that in Rome we would witness a little bit of loyalty, so I cannot be blamed for not having done the maximum. So now too, to those who say to me, “You’ve got to reach an agreement with Rome,” I think I can say that I then went even further than I should have." )

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教




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(訳注 2・1 )

「 善良なる主(ぜんりょう なる しゅ)( "The Good Lord" )」

・大宇宙のあらゆる存在を創造された永遠・唯一・真の神,全被造物の真の主であられる(在・有).

・時空を超えて存在され,しかも善良な御方であられる.

→真の神の御名=「在(いま)すもの」(旧約聖書・脱出の書〈出エジプト〉:第3章1-20節〈14節〉を参照.(EXODUS III, 1-20(14) "I AM WHO AM", "HE WHO IS" ).

(訳注 2・2 )

「 真の伝統(まことの でんとう)( "Tradition" )」

・「唯一の真の神」は,大宇宙にあまねくゆきわたる(普く/遍く 行き渡る)(=普遍〈ふへん=公(おおやけ)=カトリック(かとりっく) "Catholic" )唯一の真の伝統(ゆいいつの まことの でんとう)を望まれた.

(訳注 2・3)

・羅馬=「古代ローマ・ローマ帝国」に当てられた漢字.

・ローマ=主として「近現代におけるローマ」を指す.

(訳注 3・1)

「真理・真実は永遠に不変且つ不可変である⇔真の信仰=あらゆる時代に適合する信仰 "unchanging and unchangeable Faith" <完全 "perfect" =神 "God" =慈愛 "charity" 」


・使徒聖パウロによるコリント人への書簡:第13章9,10節を参照

→『私達の知識は不完全であり,私達の預言も不完全である.完全なものが来る時不完全な物は滅びる.』

→ 完全なる神・慈愛>真理・信仰.

・神=完全=慈愛であって,あらゆる真理・真実・事実・信仰に優(まさ)る.
したがって,「あらゆる人間の信仰」は神の完全・神の慈愛に服従してこそ「真の信仰」となる.



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訳注を追補いたします.

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(注:本投稿記事〈第389回エレイソン・コメンツ「大司教の感覚 "ARCHBISHOP'S SENSE - II"」〉は2015年5月20日21:00に掲載されました.)
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2014年12月20日土曜日

388 詩編作者の叫び 12/20

エレイソン・コメンツ 第388回 (2014年12月20日)

古代には神の民は救いを求めました.
今日,神の民はどれ程叫べば良いのでしょうか.
(こだいには かみの たみは すくいを もとめました.
 こんにち,かみの たみは どれほど さけべば いい のでしょうか.)
( "In olden times God's People cried for help.
  How much the more today they need to yelp." )


私たちの救世主イエズス・キリストが私たちの身の周り(=回り)においでになる( "coming amongst us" )季節は,私たちが如何に切実に神を必要としているかを思い起こすに相応しい時期でしょう(わたくしたちの すくいぬし いえずす・きりすと が わたくしたちの みのまわりに おいでになる きせつは,わたくしたちが いかに せつじつに かみを ひつようと しているかを おもいおこすに ふさわしい じき でしょう)( "The season of Our Redeemer's coming amongst us is surely a suitable moment to remind ourselves how much we need God." ).勿論,この事は,これまでも常にそうでした(もちろん,このことは,これまでも つねに そうでした)( "Of course it has always been so." ).救世主〈きゅうせいしゅ・すくいぬし=キリスト・メシア〉御生誕以前,神は邪悪に堕落していくばかりの異教徒の世界とりわけ旧イスラエル人たちへの関与を通して常に人々と共におられ( "came into" )(きゅうせいしゅ〈すくいぬし〉〈=きりすと・めしあ〉 ごせいたん いぜん,かみは じゃあくに だらく していく ばかりの いきょうとの せかい とりわけ きゅう いすらえるじん たちへの かんよを とおして つねに ひとびとと ともに おられ)( "Before Christ, God came into the ever more wicked pagan world specially to the Israelites …" ),(旧イスラエル人たちを自らの民として選び取られ)彼らとの間に契約を交わされ(神の民に相応しく在るべく)律法をお与えになって(民心の清めをお計りになり)(=旧約=旧い契約 "the Old Testament" ),自らの独り子の到来に備えられました(〈きゅう いすらえる じん たちを みずからの たみ として えらびとられ〉かれら との あいだに けいやくを かわされ〈かみの たみに ふさわしく あるべく〉りっぽうを おあたえに なって〈みんしんの きよめを おはかりに なり〉〈きゅうやく=ふるい けいやく〉,みずからの ひとりごの とうらいに そなえられました)( "… with the Old Testament to prepare for the coming of his own Son." )(訳注1-1・参照文献:大辞林「契約」③〈さんしょう ぶんけん:だいじりん「けいやく」さん〉).ここでは,詩篇第43篇に触れます( "Here is Psalm 43, …" ).これは,新・旧約聖書における神の民である古代イスラエル人,カトリック教徒の双方に当てはまるものです(ここでは,しへん だい よんじゅうさん ぺんに ふれます.これは,しん・きゅうやく せいしょに おける かみの たみ である こだい いすらえる じん,かとりっく きょうとの そうほうに あてはまる もの です)( "… all of which applies both to the Israelites and to Catholics, God's people in Old and New Testaments …" ).(改定標準版を用い,標題及びカッコは私が加えました):--(〈かいてい ひょうじゅん ばんを もちい,ひょうだい および かっこは わたくしが くわえました〉)( "… (Revised Standard Version, titles and brackets added) :-- " )(訳注後記1-2・訳注で使用される邦訳聖書〈バルバロ神父訳〉では第44(43)篇と記述されています〈やくちゅうで しよう される ほうやく せいしょ〈ばるばろしんぷやく〉では だい よんじゅうよん〈よんじゅうさん〉ぺんと きじゅつ されて います〉.)


(訳注2-1・ ( ) 内の数字が英語版(R.S.V)による番付)

A    神は民を擁護された(かみは たみを ようご された.)
( "A    GOD USED TO PROTECT HIS PEOPLE." )

1(0) 歌の指揮者に.コレの子らの歌(うたの しきしゃ に.これの こら の うた). 2(1) 神よ,我等はこの耳で聞いた,先祖( "our fathers" )が語った事を.その頃,その昔の頃,あなたが行われた偉業を(かみよ,われらは この みみで きいた,せんぞが かたった ことを.その ころ,その むかしの ころ,あなたが おこなわれた いぎょう を)( "1 We have heard with our ears, O God, our fathers have told us, what deeds thou didst perform in their days, in the days of old: " ), 3(2) あなたの御手の業を.先祖たち "(our fathers) " を植え付ける為に,あなたは国々(異教徒たち "(pagans)" )を追い散らし,先祖たち "(our fathers) " を拡げる為に,あなたは諸諸の民(異教徒たち "(pagans)" )を苛んだ(あなたの おんての わざを.せんぞたちを うえつける ために,あなたは くにぐにを おいちらし,せんぞたちを ひろげる ために,あなたは もろもろの たみを さいなんだ)( "2 … thou with thy own hand didst drive out the nations (pagans), but them (our fathers) thou didst plant; thou didst afflict the peoples (pagans), but them (our fathers) thou didst set free; " ). 4(3) 彼らが地を継いだのは自分 "(先祖) " の剣ではなく,彼らを救ったのは自分の腕の力ではなく,あなたの御右,あなたの御腕,あなたの御顔の光だった.あなたは彼らを愛された(かれらが ちを ついだ のは じぶんの つるぎ ではなく,かれらを すくった のは じぶんの うでの ちから では なく,あなたの おんみぎ,あなたの おんうで,あなたの みかおの ひかり だった.)( "3 … for not by their own sword did they (our fathers) win the land, nor did their own arm give them victory; but thy right hand, and thy arm, and the light of thy countenance; for thou didst delight in them." ). 5(4) 神よ,あなたは私の王,ヤコブに勝利を与えられた御者(かみよ,あなたは わたくしの おう,やこぶに しょうりを あたえられた おんもの.)( "4 Thou art my King and my God, who ordainest victories for Jacob." ). 6(5) 我等はあなたと共に敵に立ち向かい,あなたの御名によって,仇を踏みにじろう(われらは あなたと ともに てきに たちむかい,あなたの みなに よって,あだを ふみにじろう.)( "5 Through thee we push down our foes; through thy name we tread down our assailants." ). 7(6) 私は自分の弓に頼らない,私を救うのは剣ではない(わたくしは じぶんの ゆみに たよらない.わたくしを すくう のは つるぎ ではない.)( "6 For not in my bow do I trust, nor can my sword save me." ). 8(7) あなたによって敵に勝ち,憎む者は恥辱に覆われる(あなたに よって てきに かち,にくむ ものは ちじょくに おおわれる.)( "7 But thou hast saved us from our foes, and hast put to confusion those who hate us." ). 9(8) 我等は日々,神において誇り,永久に御名を称える(=讃える)(われらは ひび,かみに おいて ほこり,とわに みなを たたえる.)( "8 In God we have boasted continually, and we will give thanks to thy name for ever." ).


B    神は彼らを拒まれた(かみは かれらを こばまれた.)
( "B    NOW HE HAS REJECTED THEM. " )

10(9) だが,あなたは我等(イスラエル人たち"(Israelites)")を退け,恥で覆われた.あなたはもう,我等の隊列と共に進まれなかった(だが,あなたは われらを しりぞけ,はじで おおわれた.あなたは もう,われらの たいれつと ともに すすまれ なかった.)  ( "9 Yet thou hast cast us (Israelites) off and abased us, and hast not gone out with our armies." ). 11(10) あなたは敵の前で,我等を退却させたので,我等を憎む者は略奪を欲しい儘(侭)にした(あなたは てきの まえで,われらを たいきゃく させた ので,われらを にくむ ものは りゃくだつを ほしいままに した.)( "10 Thou hast made us turn back from the foe; and our enemies have gotten spoil." ). 12(11) あなたは我等を,屠殺される羊の様にし,国々の間に散らされた(あなたは われらを,とさつ される ひつじの ように し,くにぐにの あいだに ちらされた.)( "11 Thou hast made us like sheep for slaughter, and hast scattered us among the nations." ). 13(12) あなたは売っても利益にはならぬほどの安値で民を売り払われた(あなたは うっても りえき には ならぬ ほどの やすねで たみを うり はらわれた.)( "12 Thou hast sold thy people for a trifle, demanding no high price for them." ). 14(13) あなたは我等を,隣人の侮辱,囲りの民の嘲りと卑しめの的とされた(あなたは われらを,となりびとの ぶじょく,まわりの たみの あざけりと いやしめの まとと された.)( "13 Thou hast made us the taunt of our neighbors, the derision and scorn of those about us." ). 15(14) また,我等を国々の諺の種にし,諸諸の民の侮蔑にさらされた(また,われらを くにぐにの ことわざの たねに し,もろもろの たみの ぶじょくに さらされた.)( "14 Thou hast made us a byword among the nations, a laughingstock among the peoples." ). 16(15) 日々,私の前には辱めがあり,恥辱が私の顔を覆った(ひび,わたくしの まえ には はずかしめが あり,ちじょくが わたくしの かおを おおった.)( "15 All day long my disgrace is before me, and shame has covered my face, …" ). 17(16) 敵と仇討つ者の目の下に,侮りと卑しめの騒ぎの本(元)とされた(てきと あだうつ ものの めの もとに,あなどりと いやしめの さわぎの もとと された.)( "16 at the words of the taunters and revilers, at the sight of the enemy and the avenger." ).


C    然るに私たちは信じ続けた(しかるに わたくし たちは しんじ つづけた.)
( "C    YET WE HAVE BEEN FAITHFUL. " )

18(17) これ等がみな,我等の身の上に起こったが,我等はあなたを忘れず,あなたの (Mosaic) 契約を裏切らなかった(これらが みな,われらの みの うえに おこったが,われらは あなたを わすれず,あなたの (ぼかし) けいやくを うらぎらなかった)( "17 All this has come upon us, though we have not forgotten thee, or been false to thy (Mosaic) covenant." ). 19(18) 我等の心は後ろを向かず,足はあなたの道を逸れなかった(われらの こころは うしろを むかず,あしは あなたの みちを それなかった)( "18 Our heart has not turned back, nor have our steps departed from thy way, …" ). 20(19) それなのに,あなたは*金狼の住みかで我等を打ち叩き,我等の上に死の影を下ろした(それなのに,あなたは きんろうの すみかで われらを うちたたき,われらの うえに しの かげを おろした.)( "19 … that thou shouldst have broken us in the place of jackals, and covered us with deep darkness." ). 21(20) 若し我等が神の御名を忘れ,異国の神に手を伸べたなら(もし われらが かみの みなを わすれ,いこくの かみに てを のべた なら)( "20 If we had forgotten the name of our God, or spread forth our hands to a strange god, …" )


D    神よ,我等を救い給え(かみよ,われらを すくい たまえ)
( "D    O GOD, COME TO OUR HELP !" )

22(21) 心の秘密さえ知る神が,それを見抜かなかっただろうか(こころの ひみつ さえ しる かみが,それを みぬかなかった だろうか)( "21 … would not God discover this? For he knows the secrets of the heart." ). 23(22) 我等が日々突き刺されるのも,屠殺の羊の様に扱われるのもあなたの為なのだ(われらが ひび つきさされる のも,とさつの ひつじの ように あつかわれる のも あなたの ため なのだ.)( "22 Nay, for thy sake we are slain all the day long, and accounted as sheep for the slaughter." ). 24(23) 起きよ,何故眠られるのか,主よ,目覚めて,永久に我等を退けたもうな(おきよ,なぜ ねむられる のか,しゅよ,めざめて,えいきゅうに われらを しりぞけ たもうな.)( "23 Rouse thyself! Why sleepest thou, O Lord? Awake! Do not cast us off for ever! " ). 25(24) 何故,御顔を隠されるのか.我等の苦難と苦しみを忘れられたのか(なぜ,みかおを かくされる のか.われらの くなんと くるしみを わすれられた のか.)( "24 Why dost thou hide thy face? Why dost thou forget our affliction and oppression? " ). 26(25) 我等の魂は塵に伏す迄に成り,我等の腹は地に這っている(われらの たましいは ちりに ふす までに なり,われらの はらは ちに はって いる.)( "25 For our soul is bowed down to the dust; our body cleaves to the ground." ). 27(26) 起きて,我等を助け,その愛によって我等を救い給え! (詩篇第43篇完)(おきて,われらを たすけ,その あいに よって われらを すくい たまえ! 〈しへん だい よんじゅうさん ぺん かん〉)( "26 Rise up, come to our help! Deliver us for the sake of thy steadfast love! (end of Psalm 43) " ).


    言い換えれば,神がそのカトリック教会を偉大な高みへ引き上げた時期がありました(いいかえ れば,かみが その かとりっく きょうかいを いだいな たかみへ ひきあげた じきが あり ました.)( "In other words, there was a time when God raised up his Catholic Church to great heights. " ).だが,今日,教会は世界中の物笑いの種に成っています.カトリック信徒で居るのが恥ずかしい程です(だが,こんにち,きょうかいは せかい じゅうの もの わらいの たねに なって います.かとりっく しんとで いる のが はずかしい ほど です.)( "to the point that one can almost be ashamed to be a Catholic. " ).しかし,依然として信仰を守るカトリック信徒はいます(しかし,いぜんとして しんこうを まもる かとりっくしんとは います.)( "However, there are still faithful Catholics. " ).神よ,彼らをお救い下さい.神よ,私たちをお救い下さい!(かみよ,かれらを おすくい ください.かみよ,わたくし たちを おすくい ください!)( "O God, come to their help, O God, come to our help ! " ) 

主よ憐れみ給え
(=キリエ・エレイソン)
(しゅよ あわれみ たまえ
〈=きりえ・えれいそん〉)

( "Kyrie eleison." )

リチャード・ウィリアムソン司教





* * *



国を思って嘆く 
The church commemorates former favours, and present afflictions ; under which she prays for succour. 
Le Psalmiste expose d’abord les grandes merveilles que Dieu fit autrefois en faveur de son peuple ; il se plaint ensuite des maux où il est réduit. Il espère une meilleure condition et demande instamment sa délivrance.

 1 第 44(43) 篇
 (Psalms 43/PSAUME XLIII (HÉBR., XLIV)/Psalmus 43) 
歌の指揮者に.コレの子らの*歌.
(うたの しきしゃ に.これのこ らの うた)
[0] To the choirmaster. A Maskil of the Sons of Korah.
1. Pour la fin, aux fils de Coré pour l’intelligence.
In finem, Filiis Core ad intellectum.


2 *神よ,われらはこの耳で聞いた,
先祖が語ったことを.
そのころ,その昔のころ,
あなたが行われた偉業を,
(かみよ,われらは この みみで きいた,
せんぞが かたった ことを.
そのころ,その むかしの ころ,
あなたが おこなわれた いぎょうを,)

[1] We have heard with our ears,
O God, our fathers have told us,
what deeds thou didst perform in their days,
in the days of old:
2. O Dieu, nous avons entendu de nos oreilles ;
nos pères nous ont annoncé
L’œuvre que vous avez opéré
dans leurs jours et dans des jours anciens.
Deus auribus nostris audivimus:
patres nostri annunciaverunt nobis.
Opus, quod operatus
es in diebus eorum: et in diebus antiquis.


3 あなたの御手の業を.
先祖たちを植えつけるために,
あなたは国々を追い散らし,
先祖たちをひろげるために,
あなたはもろもろの民をさいなんだ.
(あなたの おんての わざを.
せんぞ たちを うえつける ために,
あなたは くにぐにを おいちらし,
せんぞたちを ひろげる ために,
あなたは もろもろの たみを さいなんだ.)

[2] thou with thy own hand
didst drive out the nations,
but them thou didst plant;
thou didst afflict the peoples,
but them thou didst set free;
3. Votre main
a détruit entièrement des nations
et établi nos pères ;
vous avez affligé des peuples
et vous les avez chassés.
Manus tua
gentes disperdidit,
et plantasti eos:
afflixisti populos,
et expulisti eos:


4 彼らが地をついだのは自分の剣ではなく,
彼らを救ったのは自分の腕の力ではなく,
あなたの御右,あなたの御腕,あなたのみ顔の光だった.
あなたは彼らを愛された.
(かれらが ちを ついだ のは じぶんの つるぎ ではなく,
かれらを すくった のは じぶんの うでの ちから ではなく,
あなたの おんみぎ,あなたの おんうで,あなたの みかおの ひかり だった.
あなたは かれらを あいされた.)

[3] for not by their own sword did they win the land,
nor did their own arm give them victory;
but thy right hand, and thy arm, and the light of thy countenance;
for thou didst delight in them.
4. Car ce n'est point par leur glaive qu’ils se sont mis en possession d’une terre,
et ce n’est point leur bras qui les a sauvés :
Mais votre droite, et votre bras, et la lumière de votre visage,
parce que vous vous êtes complu en eux.
Nec enim in gladio suo possederunt terram,
et brachium eorum non salvavit eos:
Sed dextera tua, et brachium tuum, et illuminatio vultus tui:
quoniam complacuisti in eis.


5 神よ,あなたは私の王,
ヤコブに勝利を与えた者.
(かみよ,あなたは わたしの おう,
やこぶに しょうりを あたえた もの.)

[4] Thou art my King and my God,
who ordainest victories for Jacob.
5. C’est vous qui êtes mon roi et mon Dieu :
c’est vous qui décrétez les victoires de Jacob.
Tu es ipse rex meus et Deus meus:
qui mandas salutes Iacob.


6 われらはあなたとともに敵に立ち向かい,
あなたのみ名によって,*仇をふみにじろう.
(われらは あなたと ともに てきに たちむかい,
あなたの みなに よって,あだを ふみ にじろう.)

[5] Through thee we push down our foes;
through thy name we tread down our assailants.
6. Avec vous, nous dissiperons nos ennemis par la force ;
et en votre nom, nous mépriserons ceux qui s’ élèvent contre nous.
In te inimicos nostros ventilabimus cornu,
et in nomine tuo spernemus insurgentes in nobis.


7 私は自分の弓に頼らない,
私を救うのは剣ではない.
(わたしは じぶんの ゆみに たよらない,
わたしを すくう のは つるぎ ではない.)

[6] For not in my bow do I trust,
nor can my sword save me.
7. Car ce n'est pas en mon arc que j’espérerai :
et mon glaive ne me sauvera pas.
Non enim in arcu meo sperabo:
et gladius meus non salvabit me.


8 あなたによって敵に勝ち,
憎む者は恥辱におおわれる.
(あなたに よって てきに かち,
にくむ ものは ちじょくに おおわれる.)

[7] But thou hast saved us from our foes,
and hast put to confusion those who hate us.
8. Car vous nous avez sauvés de ceux qui nous affligeaient,
et vous avez confondu ceux qui nous haïssaient.
Salvasti enim nos de affligentibus nos:
et odientes nos confudisti.


9 われらは日々,神において誇り,
とわにみ名をたたえる.
(われらは ひび,かみに おいて ほこり,
とわに みなを たたえる.)

[8] In God we have boasted continually,
and we will give thanks to thy name for ever. [Selah]
---------------------------------------------
9. C’est en Dieu que nous nous glorifierons tout le jour ;
et c’est votre nom que nous célébrerons à jamais.
In Deo laudabimur tota die:
et in nomine tuo confitebimur in sæculum.


10 だが,あなたはわれらを退け,恥でおおわれた.
あなたはもう,われらの隊列とともに進まれなかった.
(だが,あなたは われらを しりぞけ,はじで おおわれた.
あなたは もう,われらの たいれつと ともに すすまれ なかった.)

[9] Yet thou hast cast us off and abased us, and hast not gone out with our armies.
10. Mais maintenant vous nous avez repoussés, et confondus ;
et vous ne sortirez pas à la tête de nos armées.
Nunc autem repulisti et confudisti nos: 
et non egredieris Deus in virtutibus nostris.


11 あなたは敵の前で,われらを退却させたので,
われらを憎む者は略奪をほしいままにした.
(あなたは てきの まえで,われらを たいきゃく させた ので,
われらを にくむ ものは りゃくだつを ほしい ままに した.)

[10] Thou hast made us turn back from the foe;
and our enemies have gotten spoil.
11. Vous nous avez fait tourner le dos à nos ennemis,
et ceux qui nous haïssent arrachaient nos dépouilles.
Avertisti nos retrorsum post inimicos nostros: 
et qui oderunt nos, diripiebant sibi.


12 あなたはわれらを,屠殺される羊のようにし,
国々の間に散らされた.
(あなたは われらを,とさつ される ひつじの ようにし,
くにぐにの あいだに ちらされた.)

[11] Thou hast made us like sheep for slaughter,
and hast scattered us among the nations.
12. Vous nous avez livrés comme des brebis que l’on mange,
et vous nous avez dispersés parmi les nations.
Dedisti nos tamquam oves escarum:
et in gentibus dispersisti nos.


13 あなたは売っても利益にはならぬほどの安値で
民を売り払われた.
(あなたは うっても りえき には ならぬ ほどの やすねで
たみを うりはらわれた.)

[12] Thou hast sold thy people for a trifle,
demanding no high price for them.
13. Vous avez vendu votre peuple pour rien ;
et il n’y a pas eu une multitude d’acheteurs à leurs ventes.
Vendidisti populum tuum sine pretio:
et non fuit multitudo in commutationibus eorum.


14 あなたはわれらを,隣人の侮辱,
囲りの民のあざけりと卑しめの的とされた.
(あなたは われらを,となりびとの ぶじょく,
まわりの たみの あざけりと いやしめの まとと された.)

[13] Thou hast made us the taunt of our neighbors,
the derision and scorn of those about us.
14. Vous nous avez rendu un sujet d’opprobre à nos voisins,
un objet d’insulte et de dérision à ceux qui sont autour de nous.
Posuisti nos opprobrium vicinis nostris,
subsannationem et derisum his, qui sunt in circuitu nostro.


15 また,われらを国々のことわざの種にし,
もろもろの民の侮蔑にさらされた.
(また,われらを くにぐにの ことわざの たねに し,
もろもろの たみの ぶべつに さらされた.)

[14] Thou hast made us a byword among the nations,
a laughingstock among the peoples.
15. Vous nous avez fais la fable des nations
et le secouement de tête des peuples.
Posuisti nos in similitudinem Gentibus:
commotionem capitis in populis.


16 日々,私の前には辱めがあり,
恥辱が私の顔をおおった.
(ひび,わたしの まえには はずかしめが あり,
ちじょくが わたしの かおを おおった.)

[15] All day long my disgrace is before me,
and shame has covered my face,
16. Tout le jour ma honte est devant moi,
et la confusion de ma face m’a couvert entièrement,
Tota die verecundia mea contra me est,
et confusio faciei meæ cooperuit me.


17 敵と仇討つ者の目のもとに,
あなどりと卑しめの騒ぎのもととされた.
(てきと あだうつ ものの めの もとに,
あなどりと いやしめの さわぎの もとと された.)

[16] at the words of the taunters and revilers,
at the sight of the enemy and the avenger.
-----------------------------------
17. À la voix de celui qui m'adresse des reproches et qui m’invective,
à la face de mon ennemi et de celui qui me persécute.
A voce exprobrantis, et obloquentis:
a facie inimici, et persequentis.


18 これらがみな,われらの身の上に起こったが,
われらはあなたを忘れず,契約を裏切らなかった.
(これらが みな,われらの みの うえに おこったが,
われらは あなたを わすれず,けいやくを うらぎらなかった.)

[17] All this has come upon us,
though we have not forgotten thee, or been false to thy covenant.
18. Tout ces maux sont venus sur nous
et nous ne vous avons pas oublié, et nous n’avons pas iniquement agi contre votre alliance.
Hæc omnia venerunt super nos, 
nec obliti sumus te: et inique non egimus in testamento tuo.


19 われらの心は後ろを向かず,
足はあなたの道をそれなかった.
(われらの こころは うしろを むかず,
あしは あなたの みちを それなかった.)

[18] Our heart has not turned back,
nor have our steps departed from thy way,
19. Et notre cœur ne s'est pas retiré en arrière ;
et vous avez détourné nos sentiers de votre voie.
Et non recessit retro cor nostrum: 
et declinasti semitas nostras a via tua:


20 それなのに,あなたは*金狼のすみかでわれらを打ちたたき,
われらの上に死の影をおろした.
(それなのに,あなたは きんろうの すみかで われらを うちたたき,
われらの うえに しのかげを おろした.)

[19] that thou shouldst have broken us in the place of jackals,
and covered us with deep darkness.
20. Parce que vous nous avez humiliés dans un lieu d’affliction,
l’ombre de la mort nous a enveloppés.
Quoniam humiliasti nos in loco afflictionis,
et cooperuit nos umbra mortis.


21 もしわれらが神のみ名を忘れ,
異国の神に手をのべたなら,
(もし われらが かみの みなを わすれ,
いこくの かみに てを のべた なら,)

[20] If we had forgotten the name of our God,
or spread forth our hands to a strange god,
-------------------------------------
21. Si nous avons oublié le nom de notre Dieu,
et si nous avons étendu nos mains vers un Dieu étranger ;
Si obliti sumus nomen Dei nostri,
et si expandimus manus nostras ad deum alienum:

22 心の秘密さえ知る神が,
それを見抜かなかっただろうか.
(こころの ひみつ さえ しる かみが,
それを みぬかなかった だろうか.)

[21] would not God discover this?
For he knows the secrets of the heart.
---------------------------------
22. Est-ce que Dieu ne s’en enquerra pas ?
Car il connaît, lui, les choses cachées du cœur.
Nonne Deus requiret ista?
ipse enim novit abscondita cordis.


23 われらが日々つき刺されるのも,
屠殺の羊のように扱われるのもあなたのためなのだ.
(われらが ひび つきさされる のも,
とさつの ひつじの ように あつかわれる のも あなたの ため なのだ.)

[22] Nay, for thy sake we are slain all the day long,
and accounted as sheep for the slaughter.
Puisque, à cause de vous, nous sommes mis à mort tout le jour ;
nous sommes regardés comme des brebis de tuerie.
Quoniam propter te mortificamur tota die: 
æstimati sumus sicut oves occisionis.


24 起きよ,なぜ眠られるのか,主よ,
目ざめて,永久にわれらを退けたもうな.
(おきよ,なぜ ねむられる のか,しゅよ,
めざめて,えいきゅうに われらを しりぞけ たもうな.)

[23] Rouse thyself! Why sleepest thou, O Lord?
Awake! Do not cast us off for ever!
23. Levez-vous, pourquoi dormez-vous, Seigneur ?
Levez-vous, et ne nous rejetez pas pour toujours.
Exurge, quare obdormis Domine?
exurge, et ne repellas in finem.


25 なぜ,み顔を隠されるのか.
われらの苦難と苦しみを忘れられたのか.
(なぜ,みかおを かくされる のか.
われらの くなんと くるしみを わすれられた のか.)

[24] Why dost thou hide thy face?
Why dost thou forget our affliction and oppression?
24 Pourquoi détournez-vous votre face,
oubliez-vous notre misère et notre tribulation ?
Quare faciem tuam avertis,
oblivisceris inopiæ nostræ et tribulationis nostræ?


26 われらの魂はちりに伏すまでになり,
われらの腹は地にはっている.
(われらの たましいは ちりに ふす までに なり,
われらの はらは ちに はっている.)

[25] For our soul is bowed down to the dust;
our body cleaves to the ground.
25. Car notre âme est humiliée dans la poussière,
et notre ventre est collé à la terre.
Quoniam humiliata est in pulvere anima nostra:
conglutinatus est in terra venter noster.


27 起きて,われらを助け,
その愛によってわれらを救いたまえ.
(おきて,われらを たすけ,
その あいに よって われらを すくい たまえ.)

[26] Rise up, come to our help!
Deliver us for the sake of thy steadfast love!
--------------------------------------
26. Levez-vous, Seigneur, secourez-nous,
et rachetez-nous à cause de votre nom.
Exurge Domine, adiuva nos:
et redime nos propter nomen tuum.





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(注釈)

国を思って嘆く

1 マスキル(詩篇 42・1 の注釈を見よ→〈詩篇第42篇「追放されたレビ人の嘆き」 1 節 ヘブライ語では「マスキル」,意味は不明.「歌」や「詩」と訳す人もある.〉).

1 Aux fils de Coré. Voy. Le titre du Ps.XLI (Hébr., XLII). --- *Ce psaume paraît avoir été composé pendant la guerre contre les Syriens et les Ammonites, II Rois, VIII, 13 ; cf. III Rois, XI, 15.

(Le titre du Ps.XLI (Hébr., XLII), 1→c’est-à-dire psaume donné aux fils de Coré pour être chanté par eux dans le temple, ou bien, psaume composé par les descendants de Coré, menés en captivité à Babylone. Il y a un certain nombre de psaumes sous leur nom dans la suite. --- * Les psaumes XLI et XLII n’en font qu’un, l’un des plus beaux de la collection.)

2 過去の盛時を,現在の衰えと比較するこの詩は詩篇 74・79,80 と同様に,前五八七年, エルサレム滅亡を暗示するのであろう.18-23 節ではマカバイ時代の迫害を語るものといわ れている.

2 L’œuvre, etc.; c’est-à-dire les prodigies opérés en Égypte, à la mer Rouge et dans le désert.

3 Des nations entre autres, les Chananéens, qui, chassés de leur pays, ont été remplacés par les Hébreux.

4 Ce n’est point par leur glaive que les Hébreux ont conquis la terre de Chanaan, etc. Voyez, en effet, Josué, II, 9 ; XXIV, 12.

5 Les victoires ; littér. les saluts, les délivrances, mot qui, en hébreu, se prend pour les victoires remportées par un secours extraordinaire de Dieu.

6 角で打ち,足でふみにじる雄牛の動作から ; とったことば.

10 Armées ; littér. vertus. Voy. Ps. XXIII, 10.

13 Vous avez vendu, etc. Vous vous êtes défait de nous, comme de vils et d’inutiles esclaves, à la première mise, sans attendre qu’on enchérit.

19 Et vous avez détourné, etc. La plupart des interprètes, entre autres Symmaque et saint Jérôme, répètent dans cette seconde partie du verset la négative qui est dans la première ; de sorte que le sens est : Vous n’avez pas permis que nous suivions des sentiers opposés à la voie que vous nous aviez tracée. Il est certain que ce genred’ellipse n’est pas rare dans les écrivains sacrés.

20 敵に荒された故国のことか(イザヤ 34・13,エレミア 9・10),あるいは迫害されたユダヤ人が隠れた沙ばくのことか(マカバイ上 2・29,9・33).

22 Puisque à cause de vous, etc. Saint Paul, dans son Épître aux Romains (VIII, 36), fait l’application de ce passage aux persécutions auxquelles les premiers chrétiens étaient en butte.





参考文献:

1.邦訳 旧約・新約聖書 Veteris et Novi Testamenti 
                 (イラスト付…La Bibbia A cura di LA CIVILTÀ CATTOLICA EDITRICE ÀNCORA )
          訳者 Auctor :フェデリコ・バルバロ神父 Federico Barbaro, s. d. b. / 発行所: 株式会社 講談社

2. 英訳 THE HOLY BIBLE DOUAY-RHEIMS VERSION
           TRANSLATED FROM THE LATIN VULGATE/SAINT BENEDICT PRESS

3. 仏訳 LA SAINTE BIBLE SELON LA VULGATE Avec des notes & tableaux de Gustave Doré  


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(注:本投稿記事〈第388回エレイソン・コメンツ「詩篇作者の叫び "SALMIST'S CRY"」〉は2015年4月19日04:13時に掲載されました.)
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2014年12月13日土曜日

387 区別は必要 12/13

エレイソン・コメンツ 第387回 (2014年12月13日) 

    私が肺癌に罹っていなくても肝臓癌で死ぬだろうという公理(11月29日付エレイソン・コメンツをご参照ください)は対応が厄介です (わたくしが はいがんに かかって いなくても かんぞうがんで しぬだろう という こうり〈じゅういち がつ にじゅうく にち づけ えれいそん・こめんつを ごさんしょう ください〉は たいおうが やっかいです)( "The principle that cancer of the liver will kill me without my necessarily having lung cancer (cf. the EC of Nov. 29) is annoying, …" ).何故なら,私は癌を一纏めにして非難する訳には行かず,肺癌と肝臓癌を区別する必要があるからです(なぜなら,わたくしは がんを ひとまとめに して ひなんする わけには いかず,はいがんと かんぞうがんを くべつする ひつようが あるから です)( "… because it means that I may need to distinguish instead of indulging myself in blanket condemnations, …" ).だが,物事を区別するというのは常識ですし,現実に即した事です(だが,ものごとをくべつするというのはじょうしきですし,げんじつにそくしたことです)( "… but distinctions are common sense and correspond to reality." ).従って,今日のように世界中が混乱している時(したがって,こんにちの ように せかいじゅうが こんらん している とき)( "So in today's universal confusion, …" ),現実に即したままでいようとすれば,私は善と悪の混合物は全体として悪だが,善の部分を個々に見た場合,それぞれの部分が悪いわけではないし,それは善の部分の良さが全体の良さを意味するわけではないのと同様だと認識しなければならない場合があるでしょう(げんじつに そくした ままで いようと すれば,わたくしは ぜんと あくの こんごうぶつは ぜんたい として あくだが,ぜんの ぶぶんを ここに みた ばあい,それぞれの ぶぶんが わるい わけでは ないし,それは ぜんの ぶぶんの よさが ぜんたいの よさを いみする わけでは ないのと どうようだと にんしきしなければ ならない ばあいが あるでしょう)( "… to stay in touch with reality there are times when I need to recognize that a mixture of good and bad will be bad as a whole, but that does not mean that its good parts, as parts, are bad, any more than that the goodness of the good parts means that the whole is good." ).

    新式ミサ聖祭( "the Novus Ordo Mass" )を例にして考えてみましょう(しんしき みさせいさいを れいに して かんがえて みましょう)( "Take for instance the Novus Ordo Mass." ).新式ミサ聖祭の新式典礼( "The new Rite" )は全体としてカトリック教の本質的真実(=真理)(〈聖体の秘蹟において〉唯一の真の神の御独り子また救世主で我らの主イエズス・キリストに在す三位一体〈=聖父・聖子・聖霊〉の神の実在〈 "the Real Presence" 〉,犠牲の生け贄〈 "the Sacrifice" 〉,犠牲の生け贄を奉献する司祭職〈 "the sacrificing priesthood" 〉など)の表現を著しく弱める為(しんしき みさせいさいの しんしき てんれいは ぜんたいとして かとりっく きょうの ほんしきてき しんじつ〈=しんり〉〈〈せいたいの ひせきに おいて〉 ゆいいつの まことの かみの おんひとりご また きゅうせいしゅで われらの しゅ いえずす・きりすとに まします さんみ いったい〈=ちち・こ・せいれい〉の かみの じつざい,ぎせいの いけにえ,ぎせいの いけにえを ほうけんする しさいしょく など〉の ひょうげんを いちじるしく よわめる ため)( "The new Rite as a whole so diminishes the expression of essential Catholic truths (the Real Presence, the Sacrifice, the sacrificing priesthood, etc. ) " ),全体として見れば良くないので司祭はそれ(=新式典礼)を用いるべきではないですし(ぜんたい として みれば よくないので しさいは それ〈=しんしきてんれい〉を もちいる べき ではない ですし),( "that it is as a whole so bad that no priest should use it," ),カトリック信徒はそれ(=新式ミサ典礼に則ったミサ聖祭)に出席すべきではありません(かとりっく しんとは それ〈=しんしき みさ てんれい に のっとった みさ せいさい〉に しゅっせき すべき では ありません)( "… nor Catholic attend it." ).しかし,そのことは新式ミサ聖祭の一部の形式としてのパンと葡萄酒の聖変化の秘蹟的形式( "the sacramental Form of Consecration" )までもが良くなく,無効だという事を意味しません(しかし,そのことは しんしき みさせいさいの いちぶの けいしき としての ぱんと ぶどうしゅの せいへんかの ひせき てき けいしき までもが よくなく,むこうだ という ことを いみ しません)( "But that does not mean that that part of the Mass which is the sacramental Form of Consecration of the bread and wine is bad or invalid." ).新式ミサ聖祭における新式典礼で用いられる「これは我が体なり」( “This is my Body” )という言い方は間違いなく有効ですし,「これは我が血の杯なり」( “This is the chalice of my Blood” )は極めて有効に近いでしょう(しんしき みさ せいさいに おける しんしき てんれいで もちいられる「これは わが からだ なり」という いいかたは まちがい なく ゆうこう ですし,「これは わが ちの さかずき なり」は きわめて ゆうこうに ちかい でしょう)( " “This is my Body” is certainly valid, “This is the chalice of my Blood” is most likely to be valid, …" ).全体として反カトリック的( "so uncatholic" )である新式典礼だからといって,それが無効になることはありません(ぜんたい として はん かとりっく てき である しんしき てんれい だからと いって,それが むこうに なる ことは ありません)( "… it is certainly not invalidated by the new rite as a whole being so uncatholic." ).したがって,私が新式ミサ聖祭( "the new Mass" )は常に避けなければならないと言う場合( "Therefore if I say that the new Mass must always be avoided, …" ),私は真実を述べていますが( "I am telling the truth, …" ),もし新式ミサ聖祭は常に無効だと言えば,私は真実を語っていないことになり( "… but if I say it is always invalid, I am not telling the truth and …" ),早かれ遅かれ誇張発言の為罰金を払わされる事になるでしょう( "… sooner or later I will pay the penalty for exaggerating." )(したがって,わたくしが しんしき みさ せいさいは つねに さけなければ ならないと いう ばあい,わたくしは しんじつを のべて いますが,もし しんしき みさ せいさいは つねに むこうだ といえば,わたくしは しんじつを かたって いない ことに なり,はやかれ おそかれ こちょう はつげんの ため ばっきんを はらわされる ことに なる でしょう)

    新式典礼( "the new Rite" )の司祭叙階 ( "priestly Ordination" )(訳注3・1 ・第二バチカン公会議以前の旧典礼では「品級」と呼ばれる)についても同じことが言えます(しんしき てんれいの しさい じょかいに ついても おなじ ことが いえます)( "Similarly with the new Rite of priestly Ordination." ).新式典礼は全体としてカトリック教司祭職( "the Catholic priesthood" ),とりわけ犠牲の生け贄を奉献する司祭職( "a sacrificing priesthood" )についての諸諸の本質的真実の表現を著しく減らしているので良くありませんが(しんしき てんれいは ぜんたいとして かとりっく きょう しさい しょく,とりわけ ぎせいの いけにえを ほうけん する しさいしょく に ついての もろもろの ほんしつ てき しんじつの ひょうげんを いちじるしく へらしているので よく ありませんが)( "The new Rite as a whole has severely diminished the expression of essential truths of the Catholic priesthood, especially that it is a sacrificing priesthood, …" ),新ラテン語版では旧ラテン語版に比べ(「ut」の代わりに「et」が使われ)強められているものの,新式典礼の秘蹟の形式( "the sacramental Form" )に合致している部分は有効です(しん らてんご ばん では きゅう らてんご ばんに くらべ〈「う(と)」のかわりに「え(と)」が つかわれ〉つよめられて いる ものの,しんしき てんれいの ひせきの けいしきに がっち している ぶぶんは ゆうこう です)( "… but that part of the new Rite which is the sacramental Form is, at any rate in the new Latin version, if anything stronger (by the “et” instead of “ut”) than the old Latin version." ).したがって,(新式典礼で)叙階の秘跡を授ける司教( "the ordaining bishop" )が真の司教で真の秘蹟的意向( "the true sacramental Intention" )を持つとすれば,新式典礼において叙階の秘跡を受けた司祭は誰も真の司祭であり得ないというのはまったく真実でありません(したがって,〈しんしき てんれいで〉じょかいの ひせきを さずける しきょうが まことの しきょうで まことの ひせき てき いこうを もつと すれば,しんしき てんれいに おいて じょかいの ひせきを うけた しさいは だれも まことの しさいで あり えないと いうのは まったく しんじつで ありません)( "Therefore assuming that the ordaining bishop is a true bishop and had the true sacramental Intention, it is simply not true to say that no priest ordained in the new Rite can be a true priest." ).もし,それが真の司祭でないと言い張る人がいれば,その人は真実から逸脱したとして,早かれ遅かれ何らかの罰を受けるでしょう(もし,それが まことの しさい でないと いいはる ひとが いれば,その ひとは しんじつ から いつだつ した として,はやかれ おそかれ なんらかの ばつを うける でしょう) ( "And if one says it, sooner or later one will pay some penalty for departing from the truth." ).

    この二つの新式典礼( "these two new Rites" )が,全体としては,非カトリック的だ( "the de-catholicisation" )ということから(この ふたつの しんしき てんれいが,ぜんたいとしては,ひ かとりっく てきだ という ことから)( "Now from the de-catholicisation of these two new Rites as wholes, …" ),それらの諸諸の秘蹟的形式 ( "sacramental Forms" ) に合致している部分の有効性は別にして(それらの もろもろの ひせきてき けいしきに がっち している ぶぶんの ゆうこうせいは べつにして)( "… while one may not argue that their sacramental Forms are invalid, …" ),それは司祭や司教の秘蹟的意向( "sacramental Intention" )を結局は台無しにして無効にさせると論ずる者がいるでしょう(それは しさいや しきょうの ひせき てき いこうを けっきょくは だいなし にして むこうに させると ろんずる ものが いる でしょう)( "… one may well argue that in the end they will undermine and invalidate the priest's or bishop's sacramental Intention, …" ).だが,この論議は,白か黒かではなく,悲しいかな,灰色だという意味で違った性格を帯びます(だが,この ぎろんは,しろか くろか では なく,かなしい かな,はいいろだ という いみで ちがった せいかくを おびます)( "… but that is a different argument, no longer in black and white but, alas, in grey." ).この議論は,諸諸の非カトリック的な典礼( "de-catholicised Rites" )を常時使っていると,教会がそれらの諸諸の典礼を通して何を為すか( "what the Church does with those Rites " )についての司祭や司教の考えが次第に変わって(=改変されて)しまい(この ぎろんは,もろもろの ひ かとりっく てきな てんれい をじょうじ つかって いると,きょうかいが それらの しょてんれいを とおして なにを なすか に ついての しさいや しきょうの かんがえが しだいに かわって〈=かいへん されて〉しまい)( "For indeed the argument is that the steady use of de-catholicised Rites will slowly so alter the priest's or bishop's concept of what the Church does with those Rites …" ),最終的には司祭や司教は教会が何を為すかについてのカトリック教的意向( "the Catholic Intention" )(さいしゅうてき には しさいや しきょうは きょうかいが なにを なすかに ついての かとりっくきょう てき いこう)( "… that in the end he will no longer have the Catholic Intention to do what the Church does, …" ),即ちその秘蹟が有効である為に必要不可欠な意向を持たなくなってしまう,というものです(すなわち その ひせきが ゆうこう である ために ひつよう ふかけつな いこうを もたなくなって しまう,というもの です)( "Intention necessary for validity of the sacrament." ).言い換えれば,白は灰色を通して徐々に黒に変わるという訳です(いいかえれば,しろは はいいろを とおして じょじょに くろに かわる という わけです)( "In other words, white will only gradually turn through grey to black." ).だが,全能の神以外に,灰色が黒に変わる事を確実に感知できる者がいるでしょうか?(だが,ぜんのうの かみ いがいに,はいいろが くろに かわる ことを かくじつに かんちできるものがいるでしょうか?)( "But who, other than Almighty God, can know for certain when the grey turns into black ? " )もう一度繰り返します.私は真実を見分け,知ろうと望めば,注意して掛からなければなりません(もういちど くりかえします.わたくしは しんじつを みわけ,しろうと のぞめば,ちゅういして かからなければ なりません)( "Once more, I must take care if I want to discern and know the truth." ).

    この白と黒との間の言葉の遊び(この しろと くろとの あいだの ことばの あそび)( "This playing between white and black, …" ),この曖昧さは(この あいまいさ は)( "… this ambiguity, …" ),まさしく公会議派による諸諸の秘蹟的典礼( "sacramental Rites" )の改革に秘められた魔術的なものです(まさしく こうかいぎは に よる もろもろの ひせきてき てんれいの かいかくに ひめられた まじゅつ てきな もの です)( "… is what is properly diabolical in the Conciliar reform of the sacramental Rites." ).真実を語るとすれば,私は公会議派のミサ聖祭がカトリック教の諸諸の秘跡を壊してしまったとはまだ言いません(しんじつをかたるとすれば,わたくしは こうかいぎは の みさ せいさいが かとりっく きょうの もろもろの ひせきを こわして しまった とは まだ いいません)( "If I wish to tell the truth, I will not yet say that they have destroyed the Catholic sacraments, …" ).だが,それらのミサ聖祭はカトリック教の諸諸の秘跡を確実に台無しにしています(だが,それらの みさ せいさいは かとりっく きょうの もろもろ の ひせきを かくじつに だいなしに して います)( "… but they are certainly undermining them, …" ).したがって,私はカトリック信仰を守り続けようと望むなら,それらのミサ聖祭を全体として確実に避けようとするでしょう(したがって,わたくしは かとりっく しんこうを まもり つづけようと のぞむなら,それらの みさ せいさいを ぜんたいとして かくじつに さけようと する でしょう)( "… and so if I wish to keep the Catholic Faith, I will certainly as a whole avoid them. " ).

    キリエ・エレイソン.
    (きりえ・えれいそん)
    (主よ,憐れみ給え.)
    (しゅよ,あわれみたまえ)
    ( "Kyrie eleison." )

    公会議は
    危険な灰色から始めて
    やがて黒に変えます.
    (こうかいぎは
    きけんな はいいろ から はじめて
    やがて くろに かえます.)

    ( "The Council works
    from dangerous greys to black." )


    カトリック信徒は
    道を踏み外さないよう
    白を追求します.
    (かとりっくしんとは
    みちを ふみはずさない よう
    しろを ようきゅう します.)

    ( "A Catholic seeks out
    white to stay on track." )


    リチャード・ウィリアムソン司教






* * *
(注:本投稿記事〈第387回エレイソン・コメンツ「区別は必要(くべつは ひつよう)」"DISTINCTIONS NECESSARY" 〉は2015年3月7日23:59時に掲載されました.)

2014年12月6日土曜日

386 抵抗の勧め 12/6

エレイソン・コメンツ 第386回 (2014年12月6日)

    最近,貴重な E メールの交換記録が私の机に届きました(さいきん,きちょうな いーめーるの こうかん きろくが わたくしの つくえに とどき ました)( " A precious exchange of e-mails came recently over my desk …" ).これは今日,苦しい境遇に悩む多くの人々にきっとお役に立つと思います(これは こんにち,くるしい きょうぐうに なやむ おおくの ひとびとに きっと おやくに たつと おもいます)( "… which I am sure many souls in their difficult circumstances of today will appreciate." ).E メールでは,信仰を持ちながらも世間に見捨てられたと感じている典型的な21世紀の都会の住人が抱く問題が提起されています(いーめーる では,しんこうを もちながらも せけんに みすてられたと かんじて いる てんけいてきな にじゅういっせいきの とかいの じゅうにんが いだく もんだいが ていき されています)( "The problem comes from a typical 21st century city-dweller who has the Faith but feels abandoned." ).ここでお話しする問題解決は私たちの聖母が7世紀にお与えになった預言に基づくものです!(ここで おはなし する もんだい かいけつは わたくしたちの せいぼが なな せいきに おあたえに なった よげんに もとづく もの です!)( "The solution presented here is based on a prophecy of Our Lady from the 17th century ! " )その前に,提起された問題を以下にご紹介します:(その まえに,ていき された もんだいを いかに ごしょうかい します:…) ( "Firstly, the problem:--" ) .

    「私はドイツに住む48歳の女性看護師です(わたくしは どいつに すむ よんじゅう はっさいの じょせい かんごし です)( " “I am a female nurse from Germany, 48 years old." ).12年前,ある女子修道院に入り,そこでの生活が好きになり,私は神との関係を深めようと努めました(じゅうに ねん まえ,ある じょし しゅうどういんに はいり,そこでの せいかつが すきに なり,わたくしは かみ との かんけいを ふかめようと つとめ ました)( "12 years ago I entered a Convent and loved it, trying to deepen my relationship with God, …" ).だが,10年後,私はモダニズム(=近代主義)( "the modernism" )が理由で修道院を出なければならなくなりました(だが,じゅうねんご,わたくしは もだにずむ〈=きんだいしゅぎ〉が りゆうで しゅうどういんを でなければ ならなく なりました) ( "… but after 10 years I had to leave because of the modernism." ).修道院が真理( "the Truth" )からかけ離れていたため私には最後の誓(=最終誓願)を立てる事が出来なくなったのです(しゅうどういんが しんり から かけはなれて いた ため わたくしには さいごの ちかい〈=さいしゅう せいがん〉を たてる ことが できなく なった のです)( "I could not take my final vows because the Community was far from the Truth. " ).私は修道院を去る事で天の御父をお喜ばせし,一種のヒロインになれると思ったのです(わたくしは しゅうどういんを さる ことで てんの おんちちを およろこばせ し,いっしゅの ひろいん に なれると おもった のです)( "I thought that leaving would please my heavenly Father and make me a kind of heroine in his eyes, …" ).だが,私は今とても悲しく,神に見捨てられた思いで,ヒロインのような気になれません.(だが,わたくしは いま とても かなしく,かみに みすてられた おもいで,ひろいんの ような きに なれません)( "… but now I am very sad, and feel abandoned by God, not at all like a heroine. " )」

    「2年前,私は修道院へ入る前に働いていた病院で仕事を見つけ,そこへ確かに戻りました(にねん まえ,わたくしは しゅうどういんへ はいる まえに はたらいて いた びょういんで しごとを みつけ,そこへ たしかに もどりました)( " “Two years ago I did get a job back in the hospital where I worked before entering the Convent, …" ).だが,周りの人たちは無知かモダンで,信仰を持つ者はおらず,信仰を持つとしても,その理由を理解していない様で,私はそういう世界へ戻った事を知りました(だが,まわりの ひとたちは むちか もだんで,しんこうを もつ ものは おらず,しんこうを もつ としても,その りゆうを りかい していない ようで,わたくしは そういう せかいへ もどった ことを しりました)( "… but here I am back in the world where the people around me are ignorant or modern, where nobody has any faith, and if they do, they don't know why." ).私は秘跡を身近に感じられる仕事を見つけるには年齢を取り過ぎています(わたくしは ひせきを みぢかに かんじられる しごとを みつける には ねんれいを とりすぎて います)( "I am too old to be able to find a job close to the sacraments." ).交代制勤務のため毎週日曜日(訳注・=主日=主イエズス・キリストの日)のミサ聖祭には与れません.一番近くの伝統的ミサ聖祭の執り行われる聖堂まで出掛けようと思えば車で一時間もかかります.(こうたいせい きんむの ため まいしゅう にちようび〈やくちゅう・=しゅじつ=しゅ いえずす・きりすとの ひ〉の みさ せいさい には あずかれ ません.いちばん ちかくの でんとう てき みさ せいさいの とりおこなわれる せいどう まで でかけようと おもえば くるまで いちじかんも かかります)( "Shift work stops me from getting to Mass every Sunday. The nearest Traditional Mass is an hour's drive away." ).そのような訳で,私は暗闇の中に座り,秘跡に近づけないまま毎日を過ごしています(そのようなわけで,わたくしは くらやみの なかに すわり,ひせきに ちかづけない まま まいにちを すごして います)( "So here I am, sitting in the dark, with little access to the sacraments." ).教会や世間の状況はあまりにも混乱している為,私はどうしたら良いのか分かりません(きょうかいや せけんの じょうきょうは あまりにも こんらん している ため,わたくしは どうしたら よいのか わかりません)( "The situation in Church and world is so confused that I just do not know what to do." ).この暗闇から抜け出す出口は何処に有るのでしょうか?(この くらやみ から ぬけだす でぐちは どこに ある のでしょうか?)( "Where is there a way out of the darkness ? " ) 今の生活を如何すべきか 考えるには,私は何処へ行けば良いのでしょうか?(いまの せいかつを どうすべきか かんがえる には,わたくしは どこへ ゆけば よい のでしょうか?)( "Where do I go to figure out what I am supposed to do with my life ? " )」

    さて,問題への答えです(さて,もんだいへの こたえ です)( "And now in answer to the problem, …" ).世界的な背教に耐えようと,いわゆる抵抗を続ける私たちの誰もが心に刻み得る次のアドバイスが答えになるでしょう(せかいてきな はいきょうに たえようと,いわゆる ていこうを つづける わたくし たちの だれもが こころに きざみうる つぎの あどばいすが こたえに なる でしょう):--- ( "… advice which any number of us in the quote-unquote Resistance, seeking to withstand the worldwide apostasy, can take to heart:-- " ).

    「親愛なる友よ,1634年エクアドルで私たちの聖母は,この不信心で邪悪な時代に住むという恩寵に恵まれた私たち(恩寵と感じないかもしれませんが)にとって助言となるお言葉をある一人の信心深い修道女にお与えになりました(しんあいなる ともよ,せんろっぴゃく さんじゅうよ ねん えくあどるで わたくしたちの せいぼは,この ふしんじんで じゃあくな じだいに すむ という おんちょうに めぐまれた わたくしたち〈おんちょうと かんじない かも しれませんが〉に とって じょげん となる おことばを ある ひとりの しんじん ぶかい しゅうどうじょに おあたえに なりました)( " “Dear friend, in Ecuador in 1634 Our Lady gave to a holy nun almost direct guidance for us in these unholy times which we are blessed to live in (even though they may not feel like a blessing). " ).聖母は,世界的な背教にも拘らず,信心深く信仰と諸々の善徳の宝を維持し続ける人々が常に居るようにするとお約束になりました(せいぼは,せかいてきな はいきょう にも かかわらず,しんじん ぶかく しんこうと もろもろの ぜんとくの たからを いじし つづける ひとびとが つねに いる ように すると おやくそくに なりました)( "She promised that there would always be, despite the worldwide apostasy, souls that would remain faithful and would preserve the treasure of the Faith and virtues. " ).だが,そのような人々は残酷で言いようのないほど長く続く苦悩(=受難・殉教)を受けるでしょうとも仰せになりました」(だが,そのような ひとびとは ざんこくで いいようのない ほど ながく つづく くのう〈=じゅなん・じゅんきょう〉を うける でしょう とも おおせに なりました)( "But they would suffer a cruel, unspeakable and prolonged martyrdom. " ).聖母は次の様に仰せになりました,『人々を辺り至る所に亘る異端の束縛(=異端への隷属・屈従)から解き放つ為には,私の至聖なる子(救世主=キリスト=メシア)によって信仰回復をもたらすべく選ばれた者たちが強い意志,忠誠,勇気,神への信頼を持つ必要があります…(せいぼは つぎのように おおせに なりました,『ひとびとを あたり いたる ところに わたる いたんの そくばく 〈=いたん への れいぞく・くつじゅう〉から ときはなつ ため には,わたくしの しせいなる こ〈きゅうせいしゅ=キリスト=メシア〉に よって しんこう かいふくを もたらす べく えらばれた ものたちが つよい いし,ちゅうせい,ゆうき,かみへの しんらいを もつ ひつようが あります.….( "She said, 'In order to free men from bondage to the heresies all around, the souls chosen by my Most Holy Son to effect the restoration will need great strength of will, constancy, valour and confidence in God.…" )…正しいものへの信仰と信頼を試す為,全てが失われると思える様な場面に直面するでしょう.正しくその時こそが信仰回復の愛でたい始まりなのです.』…ただしい ものへの しんこうと しんらいを ためす ため,すべてが うしなわれると おもえる ような ばめんに ちょくめん する でしょう.まさしく そのとき こそが しんこう かいふくの めでたい はじまり なのです.』 と)( "… To test this faith and confidence of the just, there will be occasions where all will seem to be lost. Just then will be the happy beginning of the restoration.' " ).」

    「私たちの聖母のメッセージの素晴らしい要約はインターネット上で (わたくしたちの せいぼの めっせーじの すばらしい ようやくは いんたーねっと じょう で) OUR LADY OF GOOD SUCCESS: prophetic evelations made to Vulnetable Mother Mariana de Jesus Torres へ アクセス すると よめます)( " “There is an excellent summary of this message of Our Lady on the Internet at: OUR LADY OF GOOD SUCCESS: prophetic revelations made to Venerable Mother Mariana de Jesus Torres." ).」

    「私たちの多くはあなたと似た様な境遇に置かれています(わたくしたちの おおくは あなたと にた ような きょうぐうに おかれて います)( " “Many of us find ourselves in similar circumstances to yours." ).私たちは私たちを導いてくれる規則と修道院長とともに仲間のカトリック信徒たちに囲まれた社会に住めば得られる助けと力を奪われた状態です(わたくしたちは わたくしたちを みちびいて くれる きそくと しゅうどういんちょうと ともに なかまの かとりっく しんとたちに かこまれた しゃかいに すめば えられる たすけと ちからを うばわれた じょうたい です)( "We are deprived of the help and strength which comes from living in a community surrounded by our fellow Catholics with a rule and Superior to guide us." ) .私はあまり信心深い方ではありませんが,それでも秘跡,司祭たち,仲間のカトリック信徒たちを奪われた状態で,自分の身も心も受け付けないような世界で働き続けなければならないとなると,それは途轍もない苦痛です(わたくしは あまり しんじんぶかい ほう では ありませんが,それでも ひせき,しさいたち,なかまの かとりっく しんとたちを うばわれた じょうたいで,じぶんの みも こころも うけつけない ような せかいで はたらき つづけなければ ならないと なると,それは とてつもない くつうです)( "While I am not a religious, it is still a tremendous suffering for me to be deprived of Sacraments, priests and fellow Catholics, and to find myself having to work in the very world which my heart, mind and soul reject." ) .だが,その苦痛は神が私たちの多くにお与えになっているもので,私たちは正にそのような苦痛をこそ受け入れなければなりません(訳注7・1)(だが,その くつうは かみが わたくしたちの おおくに おあたえになっている もので〈やくちゅう ななのいち〉,わたくしたちは まさに そのような くつうをこそ うけいれなければ なりません)(訳注7・2)( "But this is the suffering God is permitting for many of us and the very suffering we must embrace, …" ).私たちは私たちの一人ひとりに神がお示しになった御意志と結ばれた折(わたくしたちは わたくしたちの ひとりひとりに かみが おしめしになった ごいしと むすばれた おり)( "… being in union with His will for each of us, …" ),その御意志が私たちの諸諸の苦痛と私たちの愛する救世主(=神の御独り子イエズス・キリスト)御自身が(御父なる神より)お受け入れになり私たちの(救霊の)為御父なる神に御奉献になった諸諸の御苦痛(=御苦難)とを結び付けているからです(そのごいしが わたくしたちの もろもろの くつうと わたくしたちの あいする きゅうせいしゅ〈=かみの おんひとりご いえずす・きりすと〉ごじしんが (おんちち なる かみ より)おうけいれになり わたくしたちの〈きゅうれいの〉ため おんちちなるかみに ごほうけんになった ごくつう とを むすびつけて いるから です)( "… uniting our sufferings to those which our beloved Saviour suffered and offered for us." ) .(訳注7・3)  私たちは苦痛に耐えることで,救世主を受け入れ,信じる小さな者たち( "His little ones" )と同じ様に神に引き寄せられます(わたくしたちは くつうに たえる ことで きゅうせいしゅをうけいれ,しんじるちいさなものたち〈 "His little ones" 〉と おなじ ように かみに ひきよせられます)( "By so doing we are drawn to Him like His little ones." ) .救世主はあなたを御忘れになってなどおられません(きゅうせいしゅは あなたを おわすれに なってなど おられません)( "He has not forgotten you." ).それどころか,あなたは全てに耐える事で,救世主(=天地の諸王の王)の聖心(=キリストの聖心)( "His Sacred Heart" )と聖マリア(=天地の女王〈天地の諸諸の后の后〉=私たちの天の御母=Our Lady, Notre Dame, etc. )の汚れなき御心( "the Immaculate Heart of Mary" )が切望しておられる慰めを与える事になり(それどころか,あなたは すべてに たえる ことで,きゅうせいしゅ〈=てんちの しょおうの おう〉の みこころ〈=キリストのみこころ〉と せい まりあ〈てんちの じょおう〈てんちの もろもろの きさきの きさき〉=わたくしたちの てんの おんはは= Our Lady, Notre Dame, etc.〉の けがれなき みこころ が せつぼう しておられる なぐさめを あたえる ことに なり)( "On the contrary, by all you endure, you give to His Sacred Heart and the Immaculate Heart of Mary much needed consolation …" ),それによりあなたは信仰を失った者たちの為に諸諸の恩寵を得る事になるかも知れません(それにより あなたは しんこうを うしなった ものたちの ために もろもろの おんちょうを える ことに なる かもしれません)( "… and may perhaps be obtaining graces for those who have lost the Faith.” " ).」

    キリエ・エレイソン.
    ( "Kyrie eleison." )
    (主よ憐れみ給え.)
    (しゅよ あわれみ たまえ)

    「抵抗」の組織化は
    上手く行くかも知れませんし,
    行かないかも知れません.
    (「ていこう」の そしきかは
    うまく いく かも しれませんし,
    いかない かも しれません.)

    ( "The “Resistance”
    may or may not organize, " )

    だが,苦痛は
    抵抗に付き物の特徴であり,
    同時にご褒美でもあります.
    (だが,くつうは ていこうに
    つきもの の とくちょう であり,
    どうじに ごほうび でも あります.)

    ( "But suff'ring will be
    its hallmark and its prize." )

    リチャード・ウィリアムソン司教



* * *



第7パラグラフの訳注:

訳注7・1, 3

神は私たちの救霊の為,ある人がある苦痛に遭遇する状況を敢えて御許可になる.
神は超自然界・自然界のあらゆる摂理を支配される.


・救世主(キリスト)イエズスは「世の罪を取り除く神の羔〈こひつじ〉」.

・「神の羔」とは「人間の罪の贖いの為に神に奉献される犠牲(いけにえ)の供え物」.
真の御父であられる神に愛された御独り子の神イエズスは,進んで神の羔となられた.

・真の神の真理と正義は厳しく,人間の犯した罪は人間の死後
その霊魂を完全無欠の神の元に帰さない.

・神の慈愛(=真の憐れみ=救世主の犠牲=神へのなだめの供え物)は
神の正義をなだめる.

・神は愛する御独り子が罪深い人間の救霊の為に犠牲となり
死に渡されることをお許しになった.

・従って,救世主の犠牲を信じて受け入れる者は,
彼を通じた救霊の恩寵として,「信仰による義」と「永遠の命」の賜を授かる.

・真の神の忍耐(神の慈愛の犠牲)を意味する救世主の救霊の御業を信じない者は,
慈愛深い神の忍耐を蔑(ないがし)ろにしたことを意味し,
神の真の御怒りを招き,ひいてはその霊魂の永遠の滅びに至ることになる.


・新約聖書の引用

新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第3章9節-5章全章


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訳注7・2

新約聖書の引用

新約聖書 ・ 使徒聖パウロのローマ人への書簡 : 第8章28節(第8章1-38節全章を掲載)
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD ROMANOS VIII, 28
ÉPÎTRE DE SAINT PAUL AUX ROMAINS VIII, 28
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS VIII, 28
聖霊の助力・神の霊とキリストの霊は,父と子が送る同じ霊,聖霊である(8・26)
God predestined us to be conformed to the image of His Son / Prædestinavit nos Deus conformesfieri imagini Filii sui
Le Saint-Esprit prie lui-même en nous. Rien ne peut nous séparer de l’amour de Dieu en Jésus-Christ

"And we know that to them that love God, all things work together unto good, to such as, according to his purpose, are called to be saints."

"Or nous savons que tout coopère au bien pour ceux qui aiment Dieu, pour ceux qui, selon son décret, sont appelés à être saints."

"Scimus autem quoniam diligentibus Deum omnia cooperantur in bonum, iis, qui secundum propositum vocati sunt sancti."

『8-28 神を愛する人すなわちみ旨によって召し出された人々のためには
神がすべてをその善に役立たせたもうことを私たちは知っている


(聖書の引用を追補いたします.)


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(注:本投稿記事〈第386回エレイソン・コメンツ「抵抗の勧め(ていこうの すすめ)」"RESISTANCE ADVICE" 〉は2015年2月21日23:53時に掲載されました.)

2014年11月29日土曜日

385 現職教皇 11/29

エレイソン・コメンツ 第385回 (2014年11月29日)

    1949年1月29日,教皇ピオ12世は教皇の重要性について次の様に述べました:(せんきゅうひゃく よんじゅうく ねん いちがつ にじゅうく にち,きょうこう ぴお じゅうにせいは きょうこうの じゅうようせい について つぎの ように のべました:)( "On January 29, 1949, Pope Pius XII made the following remarks about the importance of the Pope: …" )全くの仮説ですが,もし何時の日かローマ(教皇庁)が物理的に崩壊し,勝者カトリック教会の唯一の象徴であるバチカン・バシリカ(バジリカ〈英語読み〉)(聖堂)がその歴史的な宝物や聖なる墓石を廃墟の下に埋めてしまう事になったとしても,教会が解体・分断される事は決してないでしょう(まったくの かせつ ですが,もし いつのひか ろーま〈きょうこう ちょう〉が ぶつりてきに ほうかいし,しょうしゃ かとりっく きょうかいの ゆいいつの しょうちょう である ばちかん・ばしりか(せいどう)が その れきしてきな ほうもつや せいなる ぼせきを はいきょの したに うめて しまう ことに なった としても,きょうかいが かいたい・ぶんだん される ことは けっして ないでしょう)( "If ever one day – speaking purely hypothetically – material Rome were to collapse; if ever this Vatican basilica, symbol of the one and only victorious Catholic Church, were to bury beneath its ruins the historic treasures and sacred tombs which it encloses, even then the Church would be in no way demolished or split. " )キリストがペトロに与えた約束は真実のまま残り,教皇職は教会と同じ様に,その時生存する(現職の)教皇の上に築かれた,唯一つの壊される事のないものとして,永遠に存続するでしょう.(きりすとが ぺとろに あたえた やくそくは しんじつの まま のこり,きょうこう しょくは きょうかいと おなじ ように,そのとき せいぞん する(げんしょくの)きょうこうの うえに きずかれた,ただひとつの こわされる ことの ないもの として,えいえんに そんぞく するでしょう.)( "Christ's promise to Peter would still hold true, the Papacy would last for ever, like the Church, one and indestructible, being founded on the Pope then living.” " )

    この言葉は古くからの教会教理(原文に加えたのは下線「その時生存する(現職の」だけ)であり,現存の通り,確かに私たちの主イエズス・キリスト御自身の御言葉に基づくもの(マテオ聖福音書:第16章16-18節)ですから(この ことばは ふるく からの きょうかい きょうり〈げんぶんに くわえた のは かせん「そのとき せいぞん する〈げんしょくの〉」だけ〉であり,げんぞんの とおり,たしかに わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと ごじしんの みことばに もとづく もの〈まてお せい ふくいんしょ:だい じゅうろく しょう じゅうろく-じゅうはち せつ〉ですから)( "Since these words are classic Church doctrine (only the underlining has been added), resting as they do on Our Lord's own words (Mt. XVI, 16-18), …" ),現職の歴代教皇が公会議派になってしまった1962年以来,数億人のカトリック信徒が同じ様に公会議派,リベラル派になってきたのはさほど驚く事もないでしょう(げんしょくの れきだい きょうこうが こうかいぎはに なって しまった せん きゅうひゃく ろくじゅうに ねん いらい,すうおくにんの かとりっく しんとが おなじように こうかいぎは,りべらるはに なってきたのは さほど おどろく ことも ないでしょう)( "… then it is small wonder if, ever since 1962 when the living Popes became Conciliar, millions upon millions of Catholics have been driven to becoming likewise Conciliar and liberal." ).教皇空位論者が見る唯一つの問題解決は歴代の公会議派教皇が教皇だった事を否定することでしょう.これは常識に思えるかも知れませんが(きょうこう くうい ろんじゃが みる ただ ひとつの もんだい かいけつは れきだいの こうかいぎは きょうこうが きょうこう だった ことを ひてい する ことでしょう.これは じょうしきに おもえる かも しれませんが)( "The only way out of the problem that sedevacantists can see is to deny that the Conciliar Popes have been Popes at all, which can seem to be common sense, …" ),多くのカトリック信徒にとっては,神により現職の教皇の上に築かれるよう意図された教会は教皇が一人もいなかったら過去半世紀(1962-2014年)の間存在出来なかったはずだと考える方が,より常識的だと言えるでしょう(おおくの かとりっく しんとに とっては,かみにより げんしょくの きょうこうの うえに きずかれる よう いと された きょうかいは きょうこうが ひとりも いなかったら かこ はんせいき〈せん きゅうひゃく ろくじゅう に - にせん じゅうよねん〉の あいだ そんぞく できなかった はずだ と かんがえる ほうが,より じょうしき てき だと いえる でしょう)( "… but to most Catholics it seems even more to be common sense that the Church designed by God to rest upon the living Pope cannot have existed for the last half century (1962-2014) without one." ).

    中世時代に絶頂を極めたキリスト文明の退潮が歴代の現職教皇たちによってどのようにして現在の堕落へ導かれたかを振り返るのは簡単です(ちゅうせい じだいに ぜっちょうを きわめた きりすと ぶんめいの たいちょうが れきだいの げんしょく きょうこう たちに よって どのように して げんだいの だらくへ みちびかれたかを ふりかえるのは かんたん です)( "It is easy to see how the decline of Christian civilisation since the height of the Middle Ages has led to the present corruption of the living Popes. " ).神がその退潮を罰する為,その驚くべき堕落をお許しになったのであろうと見るのも容易な事です(かみが そのたいちょうを ばっするため,その おどろくべき だらくを おゆるしに なった ので あろうと みる のも よういな こと です)( "It is easy to see how God can have permitted this appalling corruption to punish that appalling decline. " ).だが,容易に理解できないのは,教会の礎である歴代教皇が神への挑戦であるリベラリズム(自由主義)こそがカトリック的だと信じているのに教会が如何に存続できるのか,という点でしょう(だが,よういに りかい できない のは,きょうかいの いしずえ である れきだい きょうこうが かみ への ちょうせん である りべらりずむ こそが かとりっく てき だと しんじて いる のに きょうかいが いかに そんぞく できるのか,という てん でしょう)( "What is less easy to see is how the Church can still live when the living Popes on whom it is founded are convinced that liberalism, war on God, is Catholic. " ).私たちの主の御言葉には 良い木は悪い実を結ばないし悪い木は良い実を結ばない (新約聖書・マテオ聖福音書:第7章18節)とあります(わたくし たちの しゅ いえずす・きりすとの みことば には よい き は わるい み を むすばない し わるい き は よい み を むすばない 〈しんやく せいしょ・まてお せい ふくいん しょ:だい ななしょう じゅうはっせつ〉とあります)( "In Our Lord's own words, A good tree cannot bring forth evil fruit and an evil tree cannot bring forth good fruit (Mt. VII, 18). " ).

    だが,半分良い木,半分悪い木はそれぞれ半分良い実,半分悪い実を結びます(だが,はんぶん よい き,はんぶん わるい き は それぞれ はんぶん よい み,はんぶん わるい み を むすびます)( "But a tree half good, half bad, can produce fruits half good, half bad. " ).全体として見れば,善と悪の混合体は悪ですがぜんたい として みれば,ぜん と あく の こんごう たい は あく ですが)( "Now taken as a whole, a mixture of good and bad is bad, " ),個々に見れば,その混合体の良い部分が悪い分と同じように悪いということではありませんここに みれば,その こんごう たいの よい ぶぶんが わるい ぶぶんと おなじように わるい という ことでは ありません)( "but that does not mean that taken part by part, the mixture's good parts are as bad as its bad parts. " ).肝臓癌は私を殺すでしょうが,それは私が両肺に癌を持っている事を意味しません(かんぞう がん は わたくしを ころす でしょうが,それは わたくしが りょうはいに がんを もっている ことを いみ しません)( "Cancer in the liver will kill me, but that does not mean that I have cancer in the lungs. " ).現職の聖職者たちは,生身の人々と同じ様に,全てが善人あるいは悪人という訳ではありません(げんしょくの せいしょくしゃ たちは,なまみの ひとびとと おなじ ように,すべてが ぜんにん あるいは あくにん という わけ では ありません)( "Now no living churchman, any more than any man alive, is entirely good or entirely bad. " ).私たちは全て死を迎えるまで変わり続ける混合体です(わたくし たちは すべて しを むかえる まで かわり つづける こんごうたい です)( "We are all a fluctuating mixture until the day we die. " ).従って,歴代の教皇の中で,在位期間中に産み出した果実が全く悪だったという教皇が果たしていたでしょうか?(したがって,れきだい きょうこうの なかで,ざいい きかん ちゅうに うみだした かじつが まったく あく だった という きょうこうが はたして いた でしょうか?)( "So can there ever have been a living Pope whose fruits were entirely evil ? " )答えは「ノー」以外 ありません(こたえは「のー」いがいありません).( "The answer can only be, no. " ).その場合,カトリック教会は過去50年の間,公会議派教皇たちが作り出した半分良い果実によって半分だけ存続し(その ばあい,かとりっく きょうかいは かこ ごじゅうねんの あいだ,こうかいぎは きょうこう たちが つくりだした はんぶん よい かじつに よって はんぶん だけ そんぞくし)( "In which case the Catholic Church can have half-lived for the last 50 years on the half-good fruits of the Conciliar Popes, " ),残り半分は教会を浄化すべく神から許されて存続してきた訳です(のこり はんぶんは きょうかいを じょうか すべく かみ から ゆるされて そんぞく してきた わけです)( "with a half-life permitted by God to purify his Church, " ).神は残り半分が教会を潰すことはお許しにならないでしょう(かみは のこり はんぶんが きょうかいを つぶす ことは おゆるしに ならない でしょう)( "but which he would never permit to go so far as to kill his Church. " ).

    これまで,例えば,パウロ6世は聖職者の欠乏( "the lack of vocations" )(訳注5・1 )を嘆きました(これまで,たとえば,ぱうろ ろくせいは せいしょくしゃの けつぼう〈やくちゅう5・1〉を なげき ました)( "Thus for example Paul VI wept for the lack of vocations." ).ベネディクト16世は伝統を切望しました(べねでぃくと じゅうろくせいは でんとうを せつぼう しました)( "Benedict XVI hankered after Tradition." ).教皇フランシスコでさえ神を人間に引き寄せようとしながらも本気で人間を神に導こうとしています(きょうこう ふらんしすこ でさえ かみを にんげんに ひきよせようと しながらも ほんきで にんげんを かみに みちびこうと しています)( "Even Pope Francis surely means to bring men to God when he drags God down to men." ).歴代公会議派教皇たちの考えは酷く間違っています(れきだいこうかいぎは きょうこう たちの かんがえは ひどく まちがって います)( "So, Conciliar Popes are dreadfully mistaken in their ideas, …" ).彼らは決して曖昧であってはならない信仰について致命的に曖昧です(かれらは けっして あいまいで あっては ならない しんこうに ついて ちめいてきに あいまいです)( "… fatally ambiguous in the Faith where they need to be absolutely unambiguous." ).教会は彼らの下で過去も現在も死にかかっています(きょうかいは かれらの もとで〈したで〉かこも げんざいも しにかかって います)( "The Church has been and is dying beneath them, …" ).だが,彼らの中に依然として残っている良い部分が教会を存続させてきました(だが,かれらの なかに いぜんとして のこっている よい ぶぶんが きょうかいを そんぞく させて きました)( "… but whatever parts in them have still been good have enabled the Church to continue, …" ).ピオ12世が述べたように,彼らは現職の長として現存する教会の本体を存続させる為必要とされてきています(ぴお じゅうにせいが のべたように,かれらは げんしょくの おさとして〈=ちょうとして〉げんぞん する きょうかいの ほんたいを そんぞく させる ため ひつようと されて きています)( "… and they have been needed as living heads to continue the body of the living Church, as Pius XII said." ).そうだとすれば,私たちは彼らが教会を全滅させてしまう等と心配せずに(そうだとすれば,わたくしたちは かれらが きょうかいを ぜんめつ させて しまう などと しんぱい せずに)( "Then let us not fear that they will be allowed to kill off the Church, …" ),彼らのリベラリズムと徹底的に戦い,彼らがカトリックの正道に立ち戻るよう祈願しましょう(かれらの りべらりずむと てってい てきに たたかい,かれらが かとりっくの せいどうに たちもどる よう きがん しましょう)( "… but let us for our part fight their liberalism tooth and nail and pray for their return to Catholic sanity, …" ).何故なら,私たちは教会の命を保つ為彼らを必要としているからです(なぜなら,わたくしたちは きょうかいの いのちを たもつ ため かれらを ひつようと している から です),( "… because we do need them for the life of our Church." ).

    キリエ・エレイソン.


    教会は,如何に悪くても
    現職の教皇たちが必要です.
    (きょうかいは,
    いかに わるく ても
    げんしょくの きょうこうたちが
    ひつよう です.)

    ( "The Church needs living Popes,
     however bad." )


    彼らは,如何に気が狂っても
    教会を全滅させる事は
    ないでしょう.
    (かれらは,
    いかに きが くるっても
    きょうかいを
    ぜんめつ させる
    ことは ないでしょう.)

    ( "Kill off the Church they won't,
     however mad." )


    リチャード・ウィリアムソン司教




* * *



第5パラグラフの訳注5・1
聖職者の欠乏( "the lack of vocations" )について:

・vocations
=(教会においては,聖職を)天職(=「職業」・「自分の生涯の使命」)に選ぶことを指す.
「神〈キリスト〉に呼ばれる・召し出される」,「召命を受ける」,等と表現する.

マテオ聖福音書:第4章18-22節(聖福音の御言葉を追って掲載)

(イエズスは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたガリラヤ北部,異邦人の多いヨルダンのかなたペレアのガリラヤ湖畔で,弟子として漁師ペトロ・アンドレア・ヤコブ・ヨハネを呼ばれた.彼らはすぐ父・舟・網をおいてイエズスに従った.)

・この由来で,公教会では一般にいずれの「職業」" vocations" も「神に呼ばれて従事する天職」を意味し,それぞれの職業に特定の保護の聖人(守護聖人)が置かれている.

・霊魂を持たない動物と異なり,霊魂を持つ人間には,地上に生まれ出でて「単に生計を営み,そして死去する」以上の意義が,人生に課せられている.

・人間は本来,自分がこの世に生まれて来た真の意義・目的を正しく認識し確信して生きるべく,真の創造主・真の神に創造されて存在している.

・あらゆる人間は,真の神の普遍の慈愛・正義・憐み・赦し・信仰・希望に立ち,
この世で自分の存在の真の意義についての正しい確信を保ち,
真の神の御心に適った真実の職業に邁進して生涯を生きて終わることが,
真の幸福の秘訣である.

公教会の主祷文・天使祝詞・栄唱は,真の神の御独り子がお教えになった人間の真の幸福を約束する祈りである.(祈祷文を追記いたします)


・公教要理(カトリック要理)
1.人は何のために,この世に生れて来ましたか.
人がこの世に生れて来たのは,天主(=神)を知り,天主を愛し,天主に仕えて,遂に天国の幸福を得るためであります.」

・人間となり,人間を救うために(天より)下られた真の神の御独り子(=唯一の救世主=キリスト)イエズスの聖福音の御言葉:

新約聖書・マテオ聖福音書:第4章4節,第二法の書:第8章3節
人はパンだけで生きるのではない. 神の口から出るすべてのことばによって生きる.』

・「地上のあらゆる生き物の中で人間のみが霊魂を持つ」
=「神の似姿に創造された地上で唯一の生き物」
→人間は,肉体の他に,霊である神に似せて「霊魂をも併(あわ)せ持った唯一の生き物」として,全能の真の神により地上に創造された.

・霊と真理は世に普遍的な存在である.人種や身分・宗教等の別によらない.

→ヨハネ聖福音書:第4章24節(第1-5章…).

『…イエズスは,「婦人(サマリア人のある女)よ,私の言うことを信じなさい.
*この山でもなくエルサレムでもなく,あなたたちが御父を礼拝する時が来る.
あなたたちは知らないものを拝み,私たちは知っているものを拝んでいる.
救いはユダヤ人から来る.
まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.
御父はそういう礼拝者を望まれる.
神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」と言われた.…』
*シケムに近いガリジムの山

・人間の生命の起源たる神は,人生の真の意味そのものである.

・「神」とは,「大宇宙・自然の摂理」と同意義である.世のあらゆる存在は神のお許しのもとに存在している.

・神はあらゆる事を「慈愛・正義・善」の故に行われるのであり,限界ある人間には,全能の神の存在に対する信仰(見ずして信じる事〈=つまり見えなくても神は唯一の全能者・真実

・善良・正義・慈愛・慈悲・謙遜を愛し,悪を憎まれる方であると信じる事〉)なくして神の御意志(=真理)を理解する事は決して出来ない.


* * *

キリストの代理者たる教皇の天職の意義は永遠に変わらない.

→キリストの御言葉:マテオ聖福音書:第24章35節

天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ.』









* * *
(注:本投稿記事〈第385回エレイソン・コメンツ「現職教皇」 "LIVING POPES" 〉は2015年2月9日22:50時に掲載されました.)

2014年11月22日土曜日

384 40周年 11/22

エレイソン・コメンツ 第384回 (2014年11月22日) 

    1974年11月21日,ルフェーブル大司教は自分と自分に従う司祭や一般信徒たちが第二バチカン公会議のもたらしたカトリック教会および宗教の変更に反対の立場を取る理由を示す歴史的な宣言を出しました.昨日(11月21日)はその40周年記念日でした (せん きゅうひゃく ななじゅう よねん じゅういち がつ にじゅういち にち,るふぇーぶる だいしきょうは じぶんと じぶんに したがう しさいや いっぱん しんと たちが だいに ばちかん こうかいぎの もたらした かとりっく きょうかい および しゅうきょうの へんこうに はんたいの たちばを とる りゆうを しめす れきしてきな せんげんを だしました.さくじつは その よんじゅっしゅうねん きねんび でした)( "Yesterday was the 40th anniversary of Archbishop Lefebvre’s historic Declaration on November 21, 1974, of the reasons for which he and the priests and laity following him were taking their stand against the total change of the Catholic Church and religion being wrought in the wake of the Second Vatican Council." ).宣言はそれが記された日と同じ様に今日でも新鮮なままです(せんげんは それが しるされた ひと おなじように こんにち でも しんせんな まま です.)( "The Declaration is a fresh today as it was on the day when it was written, …" ).その理由は神の真のカトリック教が不変の真実であるのに対し( "… because the true Catholic religion of God is unchangingly true, …" ),公会議派の人間の宗教はどう見ても間違っており,しかもそれが今日までローマ(教皇庁)を占拠し続けているからです(その りゆうは かみの まことの かとりっく きょうが ふへんの しんじつで あるのに たいし,こうかいぎはの にんげんの しゅうきょうは どうみても まちがって おり,しかも それが こんにち まで ろーま〈きょうこう ちょう〉を せんきょ しつづけて いるから です)( "… while the Conciliar religion of man is resolutely false and it is occupying Rome more than ever." ).

    ルフェーブル大司教の宣言は簡潔な10節で構成されており,以下に示す通り,全体で50行余りです.即ち,: (るふぇーぶる だいしきょうの せんげんは かんけつな じゅっせつで こうせい されて おり,いかに しめす とおり,ぜんたいで ごじゅう ぎょう あまり です.すなわち,:)( "The Declaration consists of ten brief paragraphs, little more than 50 lines in all: " )
1.私たちはカトリック・ローマ,永遠のローマに忠実に固執します(わたくしたちは かとりっくの ろーま,えいえんの ろーまに ちゅうじつに こしつ します)(訳注2-1).( "1/ We cleave to Catholic Rome, eternal Rome." ).
2.私たちは公会議派ローマ,ネオ・プロテスタント(新プロテスタント主義),ネオ・モダニスト(新現代主義)を拒否します(わたくし たちは,こうかいぎは ろーま,ねお・ぷろてすたんと〈しん ぷろてすたんと しゅぎ〉,ねお・もだにすと〈しん げんだい しゅぎ〉を きょひ します.)( "2/ We refuse Conciliar Rome, neo-Protestant and neo-modernist." ).
3.公会議派の改革はカトリック教会を破壊し,私たちのカトリック信仰を衰退させます(こうかいぎはの かいかくは かとりっく きょうかいを はかいし,わたくしたちの しんこうを すいたい させます.)( "3/ The Conciliar reform is destroying the Catholic Church and diminishing our Catholic Faith, …" ),
4.天から遣わされた御使い(=天使)と同じ様に,(てん から つかわされた みつかい〈=てんし〉と おなじように,)( "4/ … as not even an angel from Heaven has the right to do (Galatians I, 8). " )
5.私たちは伝統を選び,諸々の革新を拒みます(わたくしたちは でんとうを えらび,もろもろの かくしんを こばみます)( "5/ We choose Tradition, we refuse innovations." ).
6.教会内の全てが,長い年月を経たカトリック教の教理に反するやり方で新しく書き換えられようとしています (きょうかい ないの すべてが,ながい ねんげつを へた かとりっく きょうの きょうりに はんする やりかたで あたらしく かきかえられようと しています)( "6/ Everything in the Church is being renewed in a way opposite to age-old Catholic doctrine." ).
7.公会議派の改革は異端に始まり異端に終わるものですから,カトリック教徒たちには受け入れ難いものです(こうかいぎはの かいかくは いたんに はじまり いたんに おわる もの ですから,かとりっく きょうと たちには うけいれがたい もの です)( "7/ The Conciliar reform, coming from heresy and resulting in heresy, is unacceptable to Catholics, …" ).
8.従って,私たちは伝統派の司祭たちを育み続けます(したがって,わたくしたちは でんとうはの しさいたちを はぐくみ つづけ ます)( "8/ … so we shall continue to form Traditional priests." ).
9.そして,私たちは何時の世も変わらないカトリックの教えと実践を守ります(そして,わたくしたちは いつのよも かわらない かとりっくの おしえと じっせんを まもります)( "9/ And we shall cleave to the Catholic teaching and practice of all time, …" ).
10.私たちは,そうする事で真の忠実なカトリック教徒のままで居られると固く信じるからです(わたくしたちは,そうする ことで まことの ちゅうじつな かとりっく きょうとの ままで いられると かたく しんじる からです)( "10/ … being convinced that by so doing we will remain truly faithful Catholics." ).

    先ず初めに,宣言がカトリックのローマと公会議派のローマ(1と2)を明確かつ鋭く区別している点に注目して下さい(まず はじめに,せんげんが かとりっくの ろーまと こうかいぎはの ろーま〈1と2〉を めいかく かつ するどく くべつ している てんに ちゅうもく して ください)( "Notice firstly the clear and sharp distinction (1 and 2) between Catholic Rome and Conciliar Rome." ).公会議派ローマがカトリック・ローマの諸機構を占拠していると述べるのは真実ですが(こうかいぎは ろーまが かとりっく・ろーまの しょ きこうを せんきょ していると のべるのは しんじつ ですが),( "Now it is true to say that Conciliar Rome is occupying the structures of Catholic Rome, …" ),だから公会議派教会はカトリック教会に外ならないと述べるのは,ナイチンゲールの巣を占拠するカッコウをナイチンゲールと呼ぶくらい馬鹿げた事です(だから こうかいぎは きょうかいは かとりっく きょうかいに ほかならないと のべるのは,ないちんげーるの すを せんきょ する かっこうを ないちんげーると よぶ くらい ばかげた こと です)( "… but to say that the Conciliar Church is therefore none other than the Catholic Church is as foolish as to say that a cuckoo is a nightingale because it occupies a nightingale’s nest." ).(また大司教は公会議派ローマ,カトリック・ローマについて書いただけで,公会議派教会やカトリック教会について書いたのではない,と述べるのは言葉を弄ぶようなものです.)(〈また だいしきょうは こうかいぎは ろーま,かとりっく・ろーまに ついて かいただけで,こうかいぎは きょうかいや かとりっく きょうかいに ついて かいたのでは ない,とのべるのは ことばを もてあそぶ ような もの です〉)( "… (And to say that the Archbishop wrote of Conciliar and Catholic “Rome” and not of the Conciliar and Catholic “Church” is to quibble with words.) " )

    だがルフェーブル大司教は公会議派のカッコウとカトリックのナイチンゲールを何によって区別しているのでしょうか?(だが るふぇーぶる だいしきょうは こうかいぎは の かっこうと かとりっくの ないちんげーるを なにに よって くべつ している のでしょうか?)( "But how does the Archbishop distinguish between Conciliar cuckoo and Catholic nightingale ? " )それは教理によってです!(それは きょうりに よって です!)( "By doctrine ! " )
公会議派の論理(=公会議主義 "Conciliarism" )はネオ・プロテスタント,ネオ・モダニスト(=新プロテスタント主義,新現代主義)です(2)(こうかいぎはの ろんり〈こうかいぎ しゅぎ〉は ねお・ぷろてすたんと,ねお・もだにすと〈=しん ぷろてすたんと しゅぎ,しん げんだい しゅぎ〉です〈2〉)( "Conciliarism is neo-Protestant and neo-modernist (2)." ).
カトリック教理に反するやりかたで(6),私たちの信仰は衰退させられています(3)(かとりっく きょうりに はんする やりかたで〈6〉,わたくしたちの しんこうは すいたい させられて います〈3〉)( "Our faith is being diminished (3), in opposition to Catholic doctrine (6)." ).
公会議派の論理は異端です(7)(こうかいぎはの ろんりは いたんです〈7〉)( "Conciliarism is heresy (7)." ).
私たちはカトリックの教えを忠実に守ります(9)(わたくしたちは かとりっくの おしえを ちゅうじつに まもります〈9〉)( "We cleave to Catholic teaching (9)." ).
上記の宣言要約は大司教が教理について述べられた事全てを言い表している訳ではありません(じょうきの せんげん ようやくは だいしきょうが きょうりに ついて のべられたこと すべてを いいあらわして いる わけ では ありません.)( "And the brief summary above does not give all of the Archbishop’s references to doctrine." ).
カトリック教理は大司教の心と行動を導いた北極星でした(かとりっく きょうりは だいしきょうの こころと こうどうを みちびいた ほっきょくせい でした)( "Catholic doctrine was the Northern star of his mind and action." ).
現代人は心と行動の自由を望み,それが実質的には心を駄目にしてしまいます(げんだいじんは こころと こうどうの じゆうを のぞみ,それが じっしつてき には こころを だめに して しまいます)( "It is because modern man wants freedom for his mind and action that he in effect wants his mind to be reduced to mush, …" ).
そうなると,教理は単に儀礼的な機能しか持たなくなります(そうなると,きょうりは たんに ぎれい てきな きのう しか もたなく なります)( "… whereupon doctrine has no more than a merely decorous function." ).
もはや,それは人間の行動を律する事はなくなります(もはや,それは にんげんの こうどうを りっする ことは なくなります)( "It has no more bite upon man’s action,…" ).
教理など重要でないとする破滅的な教理は話の外です(きょうり など じゅうよう でない とする はめつてきな きょうりは はなしの ほか です.( "… except the one disastrous doctrine that doctrine is unimportant." ).
だが,この破滅的な教理は人間に全面的な影響力を持ち得ます(だが,この はめつ てきな きょうりは にんげんに ぜんめんてきな えいきょうりょくを もちえます)( "And that disastrous doctrine has a total bite. " ).
だからこそ,ルフェーブル大司教が自ら創設した聖ピオ十世会( SSPX )内部で儀礼的なマスコット程度の存在にしか見られなくなっている訳です(だからこそ,るふぇーぶる だいしきょうが みずから そうせつ した せいぴお じゅっせい かい ないぶで ぎれい てきな ますこっと ていどの そんざいに しか みられなく なっている わけです)( "Here is why the Archbishop is being reduced within the Society of St Pius X, which he founded, to little more than a decorous mascot." ).

    SSPX ,教会そして世界の中に教理の影響力,現実感,真実を愛する心を取り戻すには何が必要なのか問わざるをえません(せいぴお じゅっせい かい,きょうかい,そして せかいの なかに きょうりの えいきょう りょく,げんじつ かん,しんじつを あいする こころを とりもどす には なにが ひつよう なのか とわざるを えません)( "One is impelled to ask, what is it going to take to restore the bite of doctrine, the sense of reality and the love of truth in Society, Church and world ? " ).それは間違いなく悩み,苦しみ(=苦難・苦悩・患難)でしょう(それは まちがいなく なやみ,くるしみ〈=くなん・くのう・かんなん〉でしょう)( "Surely suffering, no less." ).(ロシアの作家)ソルジェニーツィンは現代人が自分の罪深い生き方で作り上げたコンクリートの箱をこじ開けるには鉄格子のような出来事が起きなければならないという趣旨の言葉を残しています(〈ろしあのさっか〉そるじぇにーつぃんは げんだいじんが じぶんの つみぶかい いきかたで つくりあげた こんくりーとの はこを こじあける には てつごうしの ような できごとが おきなければ ならない という しゅしの ことばを のこして います)( "Solzhenitsyn made a remark to the effect that it will take the iron bar of events to smash open the concrete casing which modern man has built around his sinful way of life." ).真に,主よ憐れみ給え(まことに,しゅよ あわれみ たまえ)( "Truly, Lord have mercy." ).

    キリエ・エレイソン.

    40年前,偉大な大司教は,
    (よんじゅうねん まえ,
    いだいな だいしきょうは,)

     ( "A great Archbishop, forty years ago," )

    公会議派の教理を推し量り,
    “No” と拒否されました.
    (こうかいぎはの きょうりを おしはかり,
     「のー」と きょひ されました.)

    ( "Measured the Council’s doctrine,
     and said “No”. " )

    リチャード・ウィリアムソン司教




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第2パラグラフの訳注2-1

「私たちはカトリック・ローマ,永遠のローマに忠実に固執します」
"1/ We cleave to Catholic Rome, eternal Rome."
の意義について

・真の神の御独り子・救世主(=メシア,キリスト)イエズスの後継者である,初代ローマ司教=聖ペトロの座が置かれるローマ・バチカンは,
来るべき永遠の都,天のエルザレム(=イェルザレム Ierusalem, Jerusalem)の,地上に於ける象(かたど)りである.

・天のエルザレムは,救世主を信じる全ての者の霊魂の故郷(ふるさと)である.

→新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第13章14節
"Non enim habemus hic manentem civitatem, sed futuram inquirimus."(羅)
"Car nous n'avons point ici de cité permanente, mais nous cherchons la cité future."〈仏〉
"For we have not here a lasting city, but we seek one that is to come."(英)
「私たちはここに不変の都をもたず,*未来の都を探している.」
* 未来の都=天のエルザレム

・「永遠のローマ」=「永遠の都」=「天のエルザレム」
(「地上のエルザレム」ではない.)

・救世の御業を成し遂げられた神の御独り子イエズス・キリストを信じ,より良い命(=永遠の命)に召される為に現在を忍耐強く善良に生きようとする人だけが入ることを許される).

・永遠のローマは,天地の王イエズス・キリストの王国.

・救世主(真の神の御独り子,われらの主イエズス・キリスト)を信じるという事は,
キリストのお受けになった受難・(十字架上の)死・復活を,自らの人生に重ね合わせ,
キリストの全生涯に起こった出来事は,人間の目では見ることが出来ない真実の神の御前に,
人間が心の中で持てる唯一の真の神への信徳・望徳・愛徳により,
目前の人生を最期まで生き抜く全ての人にとって,普遍的な真理であるという事を信じること.

・私たち人類の真の命は,地上の肉体にではなく霊魂に在る.肉体は地上における仮の住まい,地上は霊魂の仮の住まいである.霊魂の本当の住まいは,天にある.

・真の人間は霊に於いて生きる.
霊魂は不滅であり,救世主イエズス・キリストは今も生きておられ天地を支配される.
また,キリストを信じる者の霊魂は,今すでに永遠の生命に生きている.

→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第6章19-21節
主イエズス・キリストのみことば…
"Nolite thesaurizare vobis thesauros in terra: ubi ærugo, et tinea demolitur: et ubi fures effodiunt, et furantur.
Thesaurizate autem vobis thesauros in cælo: ubi neque ærugo, neque tinea demolitur, et ubi fures non effodiunt, nec furantur.
Ubi enim est thesaurus tuus, ibi est et cor tuum."
"Ne vous amassez point des trésors sur la terre, où la rouille et les vers rongent, et où les voleurs fouillent et dérobent.
Mais amassez-vous des trésors dans le ciel, où ni la rouille ni les vers ne rongent, et où les voleurs ne fouillent ni ne dérobent.
Où en effet est ton trésor,  là est aussi ton coeur."
"Lay not up to yourselves treasures on earth: where the rust, and moth consume, and where thieves break through and steal.
But lay up to yourselves treasures in heaven: where neither the rust nor moth doth consume, and where thieves do not break through, nor steal.
For where thy treasure is, there is thy heart also."
「自分のためにこの世に宝を積むな.ここではしみと虫が食い,盗人が穴をあけて盗み出す. 
むしろ自分のために天に宝を積め.そこではしみも虫もつかず,盗人が穴をあけて盗み出すこともない.
あなたの宝のあるところには,あなたの心もある.」
 
・この世(大宇宙・地上)は過ぎ去る(滅びる)が,神の御言葉は滅びない.

→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第24章35節
主イエズス・キリストのみことば…
"Cælum, et terra transibunt, verba autem mea non præteribunt."
"Le ciel et la terre passeront, mais mes paroles ne passeront point."
"Heaven and earth shall pass, but my words shall not pass."
「天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ」 

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聖福音書

1. 目撃者が伝えた出来事
ルカによる聖福音書・第1章1-4節

 私たちの間に起きた出来事の, 最初からの目撃者で, みことばの奉仕者となった人々が,私たちに伝えてくれたままに書き残そうとして,多くの人が手をつけたので,尊いテオフィロ,私も,すべてのことをはじめから詳しく調べ,順序よく書いてあなたに送るのがよいと思った.それは,あなたの聞いた教えの確実さを知らせるためである.

 2. 神のみ言葉――イエズスはおん父を啓示する――
ヨハネによる聖福音書・第1章1-18節

*はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった.みことばははじめに神とともにあり,*万物はみことばによって創られた.創られた物のうちに,一つとしてみことばによらず創られたものはない. みことばに生命があり,生命は人の光であった.*光はやみ(闇)に輝いたがやみはそれを悟らなかった.

さて,神から遣わされた人がいて,その名をヨハネと言った.この人は,光を証明するために,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.この人は光ではなく,光を証明するために来た.

*すべての人を照らすまことの光は,まさにこの世に来るところであった. みことばは世にあり,世はみことばによって創られたが,世はそれを認めなかった.*みことばはご自分の家に来られたが,その人々は受け入れなかった. しかし,その方を受け入れた人々にはみな神の子となれる力を授けた.そのみ名を信じるすべての人たち,*彼らは血統(ちすじ)ではなく,肉体の意志ではなく,人の意志ではなく,ただ神によって生まれた人々である.

*みことばは肉体となって,われわれの中で*住まわれた.われわれはその栄光を見た,それは,御独り子として御父から受けた栄光であり,彼は恩寵と真理に満ちておられた.ヨハネは彼を証明し,「『私のあとで来るお方は,私よりすぐれた方で,私より前に存在しておられた』と言ったのはこの方のことだ」と宣言した.*そうだ,われわれはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けたのである.なぜなら,律法はモイゼを通じて与えられたが,恩寵と真理とはイエズス・キリストによってわれわれの上に来たのである.神を見奉った人は一人もいない.御父のふところにおいでになる御独り子の神がこれをお示しになった.

引用文献:合併版聖福音書/聖書 フェデリコ・バルバロ神父 編

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(注:本投稿記事〈第384回エレイソン・コメンツ「40周年」"FORTIETH ANNIVERSARY"〉は2015年1月22日22:50時に掲載されました.)