2010年1月31日日曜日

教皇の誤り(1)

エレイソン・コメンツ 第133回 (2010年1月30日)

教皇ベネディクト16世はニ週間前,第二バチカン公会議下のローマと聖ピオ十世会( “SSPX, Society of St. Pius X” )の関係について演説されましたが,その中で公会議のおかした過失がいかに巧妙かつ多大な影響力を持つものであるかを再度示されました.教皇の演説は1月15日に開催されたバチカン・ローマ教皇庁内の教理省(かつての「検邪聖省(聖務聖省)」“ Holy Office ” )の総会で行われました.(訳注・教理省…元は1542年に教皇パウロ3世によりカトリック信仰の維持・擁護を主任務とし異端裁判の終審裁判所として創設された “Supreme Sacred Congregation of the Roman and Universal Inquisition” .ローマ教皇庁( “Roman Curia”(英語),“Curia Romana”(ラテン語))の9つの省のうちで最も古い.1908年に教皇聖ピオ10世により “Supreme Sacred Congregation of the Holy Office” と改称され,単に “Holy Office” とも呼ばれた.その後第二バチカン公会議後の1965年に「教理聖省」“Sacred Congregation for the Doctrine of the Faith” と名称変更され,さらに1983年のカトリック教会法典の改正により「聖-」“Sacred” が省略されて現在の名称となった.) 演説を構成する12パラグラフの初めの3パラグラフについては全文を引用する必要があるでしょう.だが,ここではスペースの関係で原文をできるだけ正確に要約したものとせざるを得ません.

(1) 教理省は,カトリック教義の擁護を通じて “Church” (訳注・意味を正確に表しうる適当な日本語訳が見当たらないため,原語 “Church” のまま記す.この大文字で始まる “Church” は、キリスト→使徒聖ペトロ→今日に至るまでの歴代の教皇+司教へと継承(使徒継承)される伝統のカトリック教会を指す.つまり宗教改革以前からの,すなわち初めに神の御子イエズス・キリスト御自身がその代理者としての全権を使徒聖ペトロに委ねて地上に創設された,伝統の “聖なる(=神による,神の)・普遍の(=カトリック=万人万代を包括する)・使徒的(=使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)から現教皇に至るまで使徒継承の)・唯一の(キリストによる祈り…後記.) ” 「ローマ・カトリック教会」のことを指している.以下同旨.) の一致を確かなものにするという教皇の特別な聖職を共有しています.ここでいう一致とはカトリック信仰のもとでの一致であり,その信仰の最高位の擁護者はローマ教皇です.信仰において兄弟たる信徒のカトリック信仰を確固たるものとし,信徒の一致を維持していくことが教皇の第一の任務です.(2)教理省の指導権威は,教皇のそれと同様にカトリック信仰への従順を必要条件として伴うものです.それにより,一人の羊飼い(訳注・「よき羊飼い(牧者)キリスト」とその代理者(後継者)としての教皇を指す.)の下に一つの羊の群れ(訳注・ “Church” (=司教・司祭を含む全信徒の総体)を指す.)が存在するようにするためです.(3) “Church” は常にすべてのキリスト教信者が一体となってカトリック信仰の証人となるようにしなければなりません.(以下全文引用)「この精神に基づき私(教皇)は,聖ピオ十世会が “Church” との完全な交わりを達成する上で障害として残るいかなる教理上の問題をも克服するという(約束事に対する)教理省の深い関与に特別な信頼を置きます.」

ここでの問題は,単に聖ピオ十世会が「 “Church” との完全な交わり」を実現するかどうかということをはるかに超えるものです.問題は一致とカトリック信仰との関係全体に関わることです.事実,カトリック(教会)の一致(訳注・原語は “Catholic unity”. 「万人万世におよび(=普遍的に)キリストにおける唯一の神を信じる者が一致するという意味.」)は本質的にカトリック信仰を拠り所とするものです.カトリック信徒はまず第一にその人が何を信仰するかによって定義されます.したがって,カトリック信仰がなければ一致すべきカトリック信徒の存在はあり得ませんし,カトリック信仰があれば,カトリック(教会)の一致の本質的な土台が存在するのです.さて教皇は確かに(1)「一致とは事実,カトリック信仰のもとでの一致を指す」と述べておられますが,概して言えば(上述1,2,3項)一致とカトリック信仰があたかも対等な立場にあり,相互依存関係にあるかのように両者を結びつけておられます.だが,真の一致はひとえに真のカトリック信仰を拠り所とするものです.教皇は,上に全文を引用した(3項)で,ローマと聖ピオ十世会の一致を実現するため教理省に対し両者間の教理上の問題を克服するよう指示しているかの印象を与えていますが,真の一致は真のカトリック信仰を拠り所とすること以外の他のどのような方法でその結論に到達し得るのでしょうか?

そもそも,キリストの代理者たる教皇の責務はいわば,やみくもにローマと聖ピオ十世会を一致させることではなく,キリストが私たちにお与えになったのと同じとおりのカトリック信仰のもとで両者を一致させることなのです.したがって,もしローマと聖ピオ十世会の間に教理上の相違が存在するならば(相違は存在しており,しかもきわめて大きな相違です!),教皇にとっての最重要問題は両者のうちどちらがカトリック信仰を持っておりどちらが持っていないかということなのです.その上で,教皇は “Church” 全体をカトリック信仰を持っている方を中心に一致させなければなりません.たとえ,たまたまそれが哀れな小さい聖ピオ十世会( “poor li’l SSPX !” )だったとしてもです!「小さい」( “Li’l, or little” )というのは,カトリック信仰を持っていることを除けば聖ピオ十世会は取るに足らない存在だからです.

悲しいかな,教皇ベネディクト16世はカトリック信者である以上に公会議主義者です.しかし神の前に人を置く公会議は,全世界的な人類の一致の名のもとに神が自ら啓示されたの教義を絶えず弱体化させ台無しにしてきたのです.教皇ベネディクト16世が,奇跡でも起きないかぎり,聖ピオ十世会のよって立つ教義上の立場の重要性を理解する能力に欠けているのはこのためです.だが,教皇がカトリックの真理に大いに立脚しているところ(1,2項)から逸脱(3項)へ転じるあざやかさに騙(だま)されないカトリック信徒がどれほどいるでしょうか?ほとんどいないでしょう!その誤りは,それが微妙に着想されかつ表現されているのと同じくらいに影響力の強いものなのです!私たちは奇跡が起こるように祈らなければなりません.

* * *

(訳文のみ)

教皇ベネディクト16世はニ週間前,第二バチカン公会議下のローマと聖ピオ十世会の関係について演説されましたが,その中で公会議のおかした過失がいかに巧妙かつ多大な影響力を持つものであるかを再度示されました.教皇の演説は1月15日に開催されたバチカン・ローマ教皇庁内の教理省(かつての「検邪聖省(聖務聖省)」“ Holy Office ” )の総会で行われました.演説を構成する12パラグラフの初めの3パラグラフについては全文を引用する必要があるでしょう.だが,ここではスペースの関係で原文をできるだけ正確に要約したものとせざるを得ません.

(1) 教理省は,カトリック教義の擁護を通じて “Church” の一致を確かなものにするという教皇の特別な聖職を共有しています.ここでいう一致とはカトリック信仰のもとでの一致であり,その信仰の最高位の擁護者はローマ教皇です.信仰において兄弟たる信徒のカトリック信仰を確固たるものとし,信徒の一致を維持していくことが教皇の第一の任務です.(2)教理省の指導権威は,教皇のそれと同様にカトリック信仰への従順を必要条件として伴うものです.それにより,一人の羊飼い(牧者)の下に一つの羊の群れが存在するようにするためです.(3)“Church” は常にすべてのキリスト教信者が一体となってカトリック信仰の証人となるようにしなければなりません.(以下全文引用)「この精神に基づき私(教皇)は,聖ピオ十世会が “Church” との完全な交わりを達成する上で障害として残るいかなる教理上の問題をも克服するという(約束事に対する)教理省の深い関与に特別な信頼を置きます.」

ここでの問題は,単に聖ピオ十世会が「 “Church” との完全な交わり」を実現するかどうかということをはるかに超えるものです.問題は一致とカトリック信仰との関係全体に関わることです.事実,カトリック(教会)の一致は本質的にカトリック信仰を拠り所とするものです.カトリック信徒はまず第一にその人が何を信仰するかによって定義されます.したがって,カトリック信仰がなければ一致すべきカトリック信徒の存在はあり得ませんし,カトリック信仰があれば,カトリック(教会)の一致の本質的な土台が存在するのです.さて教皇は確かに(1)「一致とは事実,カトリック信仰のもとでの一致を指す」と述べておられますが,概して言えば(上述1,2,3項)一致とカトリック信仰があたかも対等な立場にあり,相互依存関係にあるかのように両者を結びつけておられます.だが,真の一致はひとえに真のカトリック信仰を拠り所とするものです.教皇は,上に全文を引用した(3項)で,ローマと聖ピオ十世会の一致を実現するため教理省に対し両者間の教理上の問題を克服するよう指示しているかの印象を与えていますが,真の一致は真のカトリック信仰を拠り所とすること以外の他のどのような方法でその結論に到達し得るのでしょうか?

そもそも,キリストの代理者たる教皇の責務はいわば,やみくもにローマと聖ピオ十世会を一致させることではなく,キリストが私たちにお与えになったのと同じとおりのカトリック信仰のもとで両者を一致させることなのです.したがって,もしローマと聖ピオ十世会の間に教理上の相違が存在するならば(相違は存在しており,しかもきわめて大きな相違です!),教皇にとっての最重要問題は両者のうちどちらがカトリック信仰を持っておりどちらが持っていないかということなのです.その上で,教皇は “Church” 全体をカトリック信仰を持っている方を中心に一致させなければなりません.たとえ,たまたまそれが哀れな小さい聖ピオ十世会だったとしてもです!「小さい」というのは,カトリック信仰を持っていることを除けば聖ピオ十世会は取るに足らない存在だからです.

悲しいかな,教皇ベネディクト16世はカトリック信者である以上に公会議主義者です.しかし神の前に人を置く公会議は,全世界的な人類の一致の名のもとに神が自ら啓示されたの教義を絶えず弱体化させ台無しにしてきたのです.教皇ベネディクト16世が,奇跡でも起きないかぎり,聖ピオ十世会のよって立つ教義上の立場の重要性を理解する能力に欠けているのはこのためです.だが,教皇がカトリックの真理に大いに立脚しているところ(1,2項)から逸脱(3項)へ転じるあざやかさに騙されないカトリック信徒がどれほどいるでしょうか?ほとんどいないでしょう!その誤りは,それが微妙に着想されかつ表現されているのと同じくらいに影響力の強いものなのです!私たちは奇跡が起こるように祈らなければなりません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

( “Church” の訳注中「唯一の」の補足解説)
イエズス・キリストによる祈り (新約聖書・聖ヨハネ福音書17章)
「あなた(御父なる神)が子(神の御子イエズス・キリスト)に授けられた万民を治める力によって,子に与えられたすべての人に永遠の命を与えたもうように.
永遠の命とは,唯一のまことの神であるあなたと,あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります.(…キリストによる神の啓示.)
…彼ら(使徒たち)のことばによって私を信じる人々のためにも祈ります.父(神)よ,あなたが私の中にましまし,私があなたの中にあるように,みな(キリスト信者)が一つになりますように.彼らも私たちにおいて一つになりますように.それは,あなたが私を遣わされたことを世に信じさせるためであります.私はあなたの与えたもうた光栄を彼らに与えました.私たちが一つであるように彼らも一つでありますように.私は彼らの中にあり,あなたは私の中においでになります.彼らが完全に一つになりますように.あなたが私を遣わし,私を愛されるように,彼らをも愛しておいでになることを,この世に知らせるためであります
父よ,あなたの与えたもうた人々が,私のいる所に,私とともにいることを望みます.それはあなたが私に与えたもうた光栄を,彼らに見せるためであります.あなたは世の始まるよりも前に,私を愛したまいました.正しい父よ,この世はあなたを知りませんが,私はあなたを知り,この人たちもあなたが私を遣わされたことを知るに至りました.あなたが私を愛されたその愛が,彼らにもありますように.また,私が彼らの中にいるように,私はみ名を知らせ,また知らせましょう.」

2010年1月25日月曜日

賢明な経済学

エレイソン・コメンツ 第132回 (2010年1月23日)

「経済学者」を混乱させたり「経済学者」が周囲の人たちを混乱させたりすることに既得権益を持つ有力者があまりにも多すぎます.そんなとき,オーストリアン・スクール・オブ・エコノミクス(「オーストリア学派」)の「七戒」いう良識に (http://jsmineset.com/で)出会うと救われた気持ちになります.七戒のうち初めの二つは,以下に記載する通り初歩的なものです.あとの五つは,今日,多くの国の政府が疑いなく政治的圧力の下で,初めの二つを守らずに済ますため用いている五つの方法を糾弾するものです.以下それぞれの戒に注釈を付けて紹介したいと思います:--

(一) 「汝稼ぐべし.」 人はおしなべて衣食住に出費し続けるため,あらゆる個人,家庭,国家はなんらかの形で稼いで収入を得なければなりません.そうした収入は,共同体をなす人々(または他の国家)が購入を希望する物品,サービスを生産するか提供することによってのみ得ることができます.

(ニ) 「汝稼ぐ以上に消費するべからず.」 稼ぐ以上に消費することを永久に続けられる個人,家庭,国家は一つもありません.これを守らないと,債権者が停止を命じるまで負債を増やすことになります.そして結局はその負債を返済しなければならず,それは苦痛を伴うものです.あるいは,その負債が返済できなくなって債務不履行に陥り,悲惨な財政危機に陥ることになります.

(三) 「国家は規則を多く設けすぎるべからず.」 国家は公益のために規則を設けるべきです.だが,規則を多く設けすぎて国民の生産的な活動を制限するなら,活動を促進する代わりに制限することで公益を阻害することになります.

(四) 「国家は税を多く徴収しすぎるべからず.」 同じように,生産的な活動に過度に課税することは,その活動を妨害し,麻痺さえさせてしまいます.結果的に,過度の課税がその国家の税収を減らしてしまうことにもなりかねません.

(五) 「国家は不況を脱するために支出するべからず.」 不況になると国民の収入,支出がともに減少します.そういう状況下で,政府自らが単に支出を増やすだけで国民の収入,支出を回復させることができる国家は一つもありません.なぜなら,支出のための追加資金を得るには,政府は借金するか(第七戒を参照)増税するか(第四戒を参照)あるいは裏付けもなしに紙幣を発行するか(第六戒を参照)のいずれかの方法をとらなければならないからです.こうした代替策にはいずれも厳しい制限がつきものです.

(六) 「国家は不況を脱するために紙幣を発行するべからず.」 政府は単に紙幣を増発したりコンピューターのキーボードを叩く回数を増やしたりして追加資金をねん出し不況を乗り切ることはできません.なぜなら,資金の供給に見合った物品生産の増加がない限り,少なすぎる物品(不足)を追いかける過剰な資金が価格をつり上げて超インフレを引き起こし,結局は通貨を完全に破壊するからです.

(七) 「国家は不況を脱するために雇用するべからず.」 政府は単に失業者を非生産的な官僚として雇用するだけで(第一戒を参照),あるいは失業手当をどんどん支払うだけで失業者問題を解決することもできません(第五戒を参照).

しかし,もし「民主制の下で」国民がマンモン (注釈:「富」のこと.) を崇めるあまりに拝金主義者に買収された政治家たちに投票し続け,結果的に政府が拝金主義者に乗っ取られてしまったら,その国民は自らを責める以外に他の誰を責めることができるでしょうか?そして,もしその結果が悲惨な生活となって国民自身に降りかかってきたら,主なる神はその国民が犯した罪(注釈:「神よりも富を崇める(重んじる)」という罪.聖ルカ福音による例を後記.) に応じて相当の罰を下さないでしょうか?そしてそのとき彼ら国民は,生産,経済また金銭,あるいはたとえオーストリアン・スクールであっても,神はただそのような物々を満たすだけのために国民に生命をお与えになったのではないということを彼らにわからせるための何らかの他の方法(道・手段)を神に残すことができるでしょうか?それとも,これらの物々が彼ら国民に相応(ふさわ)しい場において必要だとしても、それらすべてをはるかに超越したところに永遠の天国と永劫の地獄の罰とが存在するのだということを国民に痛感させはっきりと悟らせ得る何らかの他の方法を神のもとに残すことができるでしょうか?

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


(不正な支配人のたとえ)
(聖ルカ福音書16.1-17)
またイエズスは弟子たちにこう話された,「ある金持ちに一人の*¹支配人がいた.主人の財産を使いこんでいると訴えがあったので,主人は彼を呼び,〈おまえのことについて聞いた.どういうことだ.会計の報告を出せ,もうおまえを支配人にしておくわけにはいかぬ〉と言った.支配人は,〈さて,主人が私の管理職を奪ったらどうしよう.土を耕す,それはできない.乞食をする,それも恥ずかしい.ああそうだ,どうすればよいか思いついた.管理職をやめさせられても,人々が迎え入れてくれる方法を〉と心の中で言った.それから主人に負債のある者を一人一人呼んだ.はじめの人に,〈あなたは私の主人にどれだけの負債がありますか〉と聞くと,〈油百樽です〉と答えたので,支配人は,〈証書をとり,腰かけて早く五十と書きなさい〉と答えた.またほかの人に,〈負債はどれほどですか〉と聞くと,〈麦百石(こく)〉と答えたので,彼は,〈証書をとって八十と書きなさい〉と言った.ところで,主人は,この不正な支配人のしたことを,巧妙なやり方として賞(ほ)めた.*²この世の子らは,自分の仲間に対しては光の子らよりも巧妙なものである.
*³私は言う.不正の富で友人をつくれ.そうしておけば,金がなくなったとき,その友人が永遠の住みかに迎えてくれるだろう.小事に忠実な者は,大事にも忠実な者であり,小事に不忠実な者は大事にも不忠実である.だから,不正の富に忠実でなかったら真実の富もまかせられぬ.また,*⁴外のものに忠実でなかったら,誰があなたたちのものを与えてくれるだろう.
しもべは二人の主人に仕えることはできぬ.一人を憎んでもう一人を愛するか,一人に従ってもう一人をうとんずるかである.あなたたちは神と*⁵マンモンにともに仕えることはできぬ」.
そのとき,貪欲なファリサイ人がその話をすべて聞いたうえで,イエズスをあざけったので,イエズスは彼らに言われた,「あなたたちは人々の目の前で自ら義人ぶっている.だが神はその心を見抜いておられる.人間にとって尊いと思われるものは,神にきらわれるものである.律法と預言者はヨハネの時までで,その時から神の国が告げられ,人々はみな力を尽くしてそこに入ろうと努める.律法の一画がくずれ落ちるよりは,天地の過ぎ去るほうがたやすい.…」

*¹主人の財産を管理している相当権力のある人のことを指す.この人は奴隷ではなかった.不正を知られても,売られずに,追い出されるだけであるから,自由民であったにちがいない.

*²「この世の子ら」は俗世の心配だけの中に生きている人々,「光の子ら」は霊的なより高いことを求める人々.

*³たとえにおいては,その細目までを事実にあてはめてはならない.イエズスはここに,支配人の巧妙さを賞めるのであって,その不正を賞めるのではない.富が「不正」といわれるのは,それが不正をもって得られ,または不正の手段となりがちだからである.天国をもうけるために,富を用いよと勧めている.

*⁴「外のもの」とは人間にとって外から加えられたもの,つまり財産のことである.したがって,「あなたたちのもの」とは,霊的なもののことである.
  イエズスがこの世の富を「自分のものでないもの」と言っているのは,人間がこれを永久に所有しえないからである.人間は単に,富を神から受けて管理しているにすぎない.人間が望めば,だれにも奪われない真実の富,すなわち恩寵を得ることができる.この世の富の管理に不正を働いた者は霊的な富をも奪われるであろう.

*⁵富のこと.

2010年1月19日火曜日

望まない独身

エレイソン・コメンツ 第131回 (2010年1月16日)

明日は「聖家族」の祝日(訳注・今年は1月10日)なので,三週間前に私が「エレイソン・コメンツ」で,普通に言えば独身男性は「ゼロ」で独身女性は「ゼロ以下」だと書いたことについて一読者が持った疑問を引用するのにちょうどタイミングが適しているのではないでしょうか.その読者の疑問は,結婚願望を持ちながらも何らかの理由で結婚できなかったりしなかったりした男性や女性はどうなのか?というものでした.未婚者すべてが必ずしも宗教的な天職を得ているわけではない,と読者は付言しています.

私はこの読者への答えの冒頭に,今日では不自然な孤独があまりにも当たり前になってしまっている点を指摘しました.とりわけ大都会における現代人のライフスタイルは,結婚をその本来あるべき姿をとどめないものとしてしまうだけでなく,多くの結婚生活を破綻へと追いやる原因ともなっています.この現象は,自由主義がもたらした多くの罰の一つです.自由主義は個人主義を賛美するあまりに人々に結婚した状態での生活に自分は不向きだという気持ちを抱かせるようになっています.自由主義はまたあらゆる絆(きずな)からの解放を美化します.だが婚姻関係はそれを繋(つな)ぎとめる絆が存在しなければ無に等しいのです.「だからこそ西欧諸国では出生率が低下し続け,かつてカトリック信仰が存在した欧州で自殺が増加しているのです.これはいずれも極めて悲しむべきことであり極めて深刻な問題です.」

私は答えを続けました.「すべての男性を「ゼロ」と呼ぶのは言うまでもなく,第一に,私たちはすべて神の前では小さな存在にしか過ぎないということ,第二に,男性は自分で思うほど立派な存在ではないということを脚色して表現したものです.(ロシアには,女性抜きの男性は(周りを囲う)垣根のない庭園のようだとか,(ロシアでの)一月に毛皮の帽子をかぶらずに外出するにひとしい,という二つのことわざがあります!)続けて女性を「ゼロ以下」だと呼んだのは,第一に,今日,いたるところに存在する神の敵どもによる女性の相補性へのひどい侮辱とは違う意味で,女性は男性と同様ではないということ,第二に,女性は男性が女性に依存するよりずっと深く男性に依存しているということを同様に挑発的に表現したものです.旧約聖書の「創世の書」 ((注釈・邦訳では「創世」となっているけれども,ヘブライ人は聖書の各巻の最初のことばをとって題としていた.「創世の書」の場合はヘブライ語で「ベレシット(始めに)」といい,ギリシア語訳では「ゲネジス(始まり)」“Genesis” (英語は同綴りで「ジェネシス」)となり,そこから今の呼び名が残された.実をいえば「ゲネジス」ということばには必ずしも「創造」の意味はない.聖書の第一巻は神によるすべての事物の始まり,宇宙の始まりをも物語るが,主として人類の始まり,選民ヘブライ人の始まり,イスラエル国の始まり,神の約束による人類救済の歴史の始まりが物語られる.)) 第3章16節「おまえは夫に情を燃やすが,夫はおまえを支配する.」(訳注・英語原文の直訳は,「おまえは夫の権力の下に置かれ,夫はおまえを支配する.」“Thou shalt be under thy husband’s power, and he shall have dominion over thee”.)におけるエバ(訳注・英語の「イブ」“Eve”.初めの人アダムの妻.)への罰を参照してください.ただし,私が「ゼロ」とか「ゼロ以下」といったのは挑発が主たる目的ではなく,両者を合わせると8になること,つまり結婚の結びつきから生まれる自然の力を図で示すために使った表現なのです.

悲しいかな,今日では多くの司祭が,結婚したくても夫にふさわしいと心を打たれるような若い男性に巡り合えないと嘆く若い女性によく出会うと言っています.若い男性は大抵,女性をリード(先導)するよう神が授けた気性を自由主義のために消失してしまった(自由主義により洗い落とされてくたびれた)布巾(ふきん)同然に見えます.自由主義は神が女性に与えた自然な本能や感情をそう簡単に破壊はしません.だが,もし自由主義がそういうものを破壊するなら,その結果はさらに悲惨なものとなりかねません.

結論として,私は「十字架の道行き」の祈り ((注釈・英語で“The Way of the Cross”,ラテン語で“Via Crucis”.神の御子イエズス・キリストは人類を霊魂の永遠の死から救済するために「(聖霊によりて宿り,おとめマリアより生まれ,)…苦しみを受け,十字架につけられ,死して葬られ(受難と十字架上の死),三日目に死者のうちよりよみがえり(復活)…」(「使徒信経(しんきょう)」ラテン語で“Symbolum apostolorum. “Credo…””より抜粋.)という,旧約時代から神により預言されていた通りの使命を果たされた.それは人類を創造された神の人類に対する永遠の愛のゆえに成し遂げられた.この祈りは,キリストを信じる者が,キリストが死刑の宣告を受けられたユダヤ総督ピラトの官邸からご自身が架けられる十字架を背負って処刑場のゴルゴタ(ヘブライ語.ラテン語では “Calvariae”. 「されこうべ」の意.)の丘までの道を歩いて行く「苦しみの道」(ラテン語で “Via Dolorosa” )を経て,十字架に架けられて十字架上で亡くなり墓に葬られるまでのそれぞれの場面において,キリストの受けられた受難を偲(しの)び,私たち人類の天の御父なる神の愛と人類のために身を捧げられた神の御子イエズス・キリストに対する感謝と信仰,かような神の犠牲的な愛と同じ愛に自らも献身して生きることを心に思い起こす祈りである.聖地エルサレム巡礼ではキリストが実際に歩かれたとされるこの道を辿りキリストが受けた苦しみの主な14の場面に該当するそれぞれの場所(「留」= “Station” )で「十字架の道行き」の祈りが捧げられる.カトリック教会聖堂内の壁にはこの祈りの第1留から第14留までの各留が設置され,各留に十字架が,それぞれ該当する聖画と共に掛けられており,各留の前に立って聖地におけると同様にこの祈りを捧げることができる.カトリック教会では,復活祭前46日目の灰の水曜日(「四旬節」(ラテン語で“Quadragesima”.英語で“Lent”)の初めの日.この日から復活祭前日までの日曜を除いた40日間をさす.)から毎週金曜日にこの祈りを共同で捧げる習慣が古くからある.)) の第8留で私たちの主が,泣いているエルサレムの女たちを慰めている場面について触れました(聖書・聖ルカ福音書第23章27-31節). ((注釈・該当箇所の福音:「大群の人々と,*¹イエズスのために嘆き悲しむ婦人たちが後についていた.イエズスは婦人たちの方をふり向いて言われた,『エルサレムの娘たちよ,私のために泣くことはない.むしろあなたたちと,あなたたちの子らのために泣け.〈うまずめ,子を生まなかった胎,飲ませなかった乳房は幸いだ〉と言う日が来る.その時,人々は山に向かい〈われわれの上に倒れよ〉,また丘に向かい〈われわれを覆え〉と言うだろう.*²生木さえもそうされるなら,枯木はどうなることか』.」注釈・*¹イエズスの知人か,または,エルサレムで死刑を受ける人々のために世話をやく婦人たちのこと.*²生木(イエズス)は薪(まき)ではない.ふつう薪にするのは枯木である.この枯木は罰を受けるべきユダヤ人である.)) 主はここで,夫や家族を持ったことのない女たちを羨(うらや)むような天罰がエルサレムに下されるだろうと警告されました.私たち自身の時代では,このことが結婚しない理由にはなっていませんが,結婚を望んでいてもまだ神によって結婚に導かれていない者にとっての慰めとなっているかもしれません.というのは,神の不変の摂理にかつてないほど信頼を置き始めるべき途方もない事態が・・・そう遠くない将来に私たちの上に降りかかることになると思えるからです・・・

* * *

(訳文のみ)

明日は「聖家族」の祝日なので,三週間前に私が「エレイソン・コメンツ」で,普通に言えば独身男性は「ゼロ」で独身女性は「ゼロ以下」だと書いたことについて一読者が持った疑問を引用するのにちょうどタイミングが適しているのではないでしょうか.その読者の疑問は,結婚願望を持ちながらも何らかの理由で結婚できなかったりしなかったりした男性や女性はどうなのか?というものでした.未婚者すべてが必ずしも宗教的な天職を得ているわけではない,と読者は付言しています.

私はこの読者への答えの冒頭に,今日では不自然な孤独があまりにも当たり前になってしまっている点を指摘しました.とりわけ大都会における現代人のライフスタイルは,結婚をその本来あるべき姿をとどめないものとしてしまうだけでなく,多くの結婚生活を破綻へと追いやる原因ともなっています.この現象は,自由主義がもたらした多くの罰の一つです.自由主義は個人主義を賛美するあまりに人々に結婚した状態での生活に自分は不向きだという気持ちを抱かせるようになっています.自由主義はまたあらゆる絆からの解放を美化します.だが婚姻関係はそれを繋ぎとめる絆が存在しなければ無に等しいのです.「だからこそ西欧諸国では出生率が低下し続け,かつてカトリック信仰が存在した欧州で自殺が増加しているのです.これはいずれも極めて悲しむべきことであり極めて深刻な問題です.」

私は答えを続けました.「すべての男性を「ゼロ」と呼ぶのは言うまでもなく,第一に,私たちはすべて神の前では小さな存在にしか過ぎないということ,第二に,男性は自分で思うほど立派な存在ではないということを脚色して表現したものです.(ロシアには,女性抜きの男性は(周りを囲う)垣根のない庭園のようだとか,(ロシアでの)一月に毛皮の帽子をかぶらずに外出するにひとしい,という二つのことわざがあります!)続けて女性を「ゼロ以下」だと呼んだのは,第一に,今日,いたるところに存在する神の敵どもによる女性の相補性へのひどい侮辱とは違う意味で,女性は男性と同様ではないということ,第二に,女性は男性が女性に依存するよりずっと深く男性に依存しているということを同様に挑発的に表現したものです.旧約聖書の「創世の書」第3章16節「おまえは夫に情を燃やすが,夫はおまえを支配する.」におけるエバへの罰を参照してください.ただし,私が「ゼロ」とか「ゼロ以下」といったのは挑発が主たる目的ではなく,両者を合わせると8になること,つまり結婚の結びつきから生まれる自然の力を図で示すために使った表現なのです.

悲しいかな,今日では多くの司祭が,結婚したくても夫にふさわしいと心を打たれるような若い男性に巡り合えないと嘆く若い女性によく出会うと言っています.若い男性は大抵,女性をリードするよう神が授けた気性を自由主義のために消失してしまった(自由主義により洗い落とされてくたびれた)布巾同然に見えます.自由主義は神が女性に与えた自然な本能や感情をそう簡単に破壊はしません.だが,もし自由主義がそういうものを破壊するなら,その結果はさらに悲惨なものとなりかねません.

結論として,私は「十字架の道行き」の祈りの第8留で私たちの主が,泣いているエルサレムの女たちを慰めている場面について触れました(聖書・聖ルカ福音書第23章27-31節).主はここで,夫や家族を持ったことのない女たちを羨むような天罰がエルサレムに下されるだろうと警告されました.私たち自身の時代では,このことが結婚しない理由にはなっていませんが,結婚を望んでいてもまだ神によって結婚に導かれていない者にとっての慰めとなっているかもしれません.というのは,神の不変の摂理にかつてないほど信頼を置き始めるべき途方もない事態が・・・そう遠くない将来に私たちの上に降りかかることになると思えるからです・・・

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年1月15日金曜日

お知らせとお詫び

週末にかけての英国ロンドンでの寒波による停電の影響で,今週のエレイソン・コメンツの掲載は延期となりました.
代わりに,「主の公現祭」の時節にふさわしいT.S.エリオットの詩「東方の博士がした旅」“Journey of the Magi” を掲載いたします.この詩についてのウィリアムソン司教の最近のコラム(論評記事)も近日中に掲載する予定です.
お知らせが遅くなりましたことをお詫び申し上げます.
石畳


* * *


東方の博士がした旅 (上田保・訳)

「寒さが押しよせていたが,われわれは旅に出た,
ちょうど旅をするには,最もふむきな頃で,それに
長い長い旅ときている.
途は悪くて足が深くうまり身を切るような寒さ,
全くの真冬であったのだ.」
それで駱駝(らくだ)は皮をすりむかし,足を痛め,
ふてくさって,雪どけに,ねそべってしまう.
われわれは時折,山腹に立っている宮殿のような
夏の別荘のことや,家々のテラスのことや,
絹のようなしとやかな少女達がシャーベットを
持ち運んでくることなどを,なつかしく憶(おも)い出したりしたものだ.
駱駝使いの連中ときては,あくたいをついて,
不平たらたら,酒と女を求めて逃げ出してしまう.
夜は,たき火が消えてしまう,宿るところもない.
町々は到るところで敵意をあらわし,そっぽをむいている.
村はどこでもうすぎたなく,高い値でものを売りつける.
ひどい目にあったものだ.
しまいに,夜通し旅をすることにした,
うつらうつら居眠りしながら行くのだが,
いつも,これは全く馬鹿げているという声が耳鳴のように聞えたものだ.

そのうちに夜が明けて,ぬくまった,とある谷間に出た,
水気があり,低いところで雪がもうなくなっていて,
草木のにおいがしていた.そこには,
一條の小川が流れ,水車が一つ,あたりの暗やみに
たたくような音をひびかせていた,また
木が三本,空に,うずくまるように立っていた,
のみならず,白い馬が一匹,蹄(ひずめ)の音高く,牧場を馳(か)けぬけて行った.
それから,われわれは,ある居酒屋のところに来た.
葡萄の葉が,その入口におおいかぶさっており,
そのあけ放した戸口のところで,男が五人,
銀貨を賭けてさいころをころがしていた,見ると,
からっぽになった葡萄酒の皮袋を足げにしているのだ.
だがそこで何のたよりも得られなかった,
それでまた旅をつづけ,ようやく夕方になって,丁度いい時に,
探していた場所に行き着いたのだ,
それで満足したといってもよかろう.

忘れもしない,これはみんな昔のことだ,
それで,もう一度,わしは,ああした事を,
くり返してやって見たいと思うのだ,
だが次のことを書きとめておいて貰(もら)いたいのだ.
次の事を,
われわれが,遥々(はるばる)と目指して行ったものは,
生誕であったのか,それとも死滅であったのだろうか.
確かに,一つの生誕であったことは,われわれは,
その証拠をつかみ,疑いもしなかった.
わしは,それまで,生誕と死滅を見ており,
生誕と死滅は異るものと思っていた.ところが,
その時,わしの眼で見たイエスの生誕は,
激しい苦痛をわれわれに与えたのだ,
それは彼のはりつけの死,即(すなわ)ちわれわれの死とちがわなかった.
われわれはそれぞれ生国に戻って来た,
今,まのあたり見るような王国に,
だが,ここではもう心の休らぐことはないのだ.
昔そのままの制度のもとで,
縁なき衆生(しゅじょう)は徒(いたず)らに異教の神々にしがみついているのだ.
わしは,なんとか,もう一度死にたいものと思っている.

(注釈)
* 資料名:「エリオット詩集」(世界詩人全集,新潮社.1976年出版.)
*「マタイ伝」第二章(聖書・聖マテオ福音書第2章)を参照のこと.
*「東方の博士がした旅」は「エァリアル詩集」の中の一つである.
エァリアルはシェイクスピアの「あらし」にでる空気の精で,自由に姿をかえ,空をとんでプロスペロをたすける.「エァリアル詩集」は,作者自身の言葉によれば,クリスマス・カード用的なものとして書かれたものである.


(原文)

“Journey of the Magi” by T. S. Eliot (1888-1965)

"A cold coming we had of it,
Just the worst time of the year
For a journey, and such a long journey:
The ways deep and the weather sharp,
The very dead of winter."
And the camels galled, sore-footed, refractory,
Lying down in the melting snow.
There were times we regretted
The summer palaces on slopes, the terraces,
And the silken girls bringing sherbet.
Then the camel men cursing and grumbling
And running away, and wanting their liquor and women,
And the night-fires going out, and the lack of shelters,
And the cities hostile and the towns unfriendly
And the villages dirty and charging high prices:
A hard time we had of it.
At the end we preferred to travel all night,
Sleeping in snatches,
With the voices singing in our ears, saying
That this was all folly.

Then at dawn we came down to a temperate valley,
Wet, below the snow line, smelling of vegetation;
With a running stream and a water-mill beating the darkness,
And three trees on the low sky,
And an old white horse galloped away in the meadow.
Then we came to a tavern with vine-leaves over the lintel,
Six hands at an open door dicing for pieces of silver,
And feet kicking the empty wine-skins.
But there was no information, and so we continued
And arrived at evening, not a moment too soon
Finding the place; it was (you may say) satisfactory.

All this was a long time ago, I remember,
And I would do it again, but set down
This set down
This: were we lead all that way for
Birth or Death? There was a Birth, certainly,
We had evidence and no doubt. I have seen birth and death,
But had thought they were different; this Birth was
Hard and bitter agony for us, like Death, our death.
We returned to our places, these Kingdoms,
But no longer at ease here, in the old dispensation,
With an alien people clutching their gods.
I should be glad of another death.

2010年1月5日火曜日

詩篇作者の視点

エレイソン・コメンツ 第130回 (2010年1月2日)

新しい年が始まりました.今年はどんな年となるでしょうか?かりに世界的な災難が金融・経済界に向かっているとしても,確かにまだ本格的には到来していません.2010年にそうした大災難が襲ってくるのでしょうか?いずれにせよ,その日はジリジリと近づくでしょう.苦難の重圧が高まるにつれ,その苦難の中に人のなす策謀でなく神の御手の業を見出すことがますます重要になってきます.ここに取りあげるのは,全150篇の詩篇のうちの一篇で,神に近い霊魂と同じように私たちが物事を観察できるよう,その手助けとして21世紀向けの注釈をつけたものです.詩篇第27篇(訳注:日本では第28篇)にはわずか9節しかありません:---

1 「主よ,私はあなたに向かって叫ぶ」(メディアや政府に向かってではありません.) 「私の岩(神)よ,耳をふさぎたもうな.私に向かって唖になられるなら,私は穴に下る人と等しくなろう.」
今日,力強いながらも緩やかな時流がすべての霊魂を地獄の永遠の業火へと押し流しています.神にとって私を助けることは容易にできることで,神はそうしたいと切に望んでおられるのですが,そのためには私は神に身を向け助けを乞わなければなりません.詩篇作者は神に懇願するでしょう -

2 「私があなたに向かって叫ぶとき,主よ,あなたの至聖所に向かって,手を伸べるとき,私の祈りの声を聞きたまえ. 3 私を悪人とともに,罪を行う人とともに引きたもうな.彼らは隣人に平和を語るが,その心には悪がある.」
詩篇作者は,人がすべて親切で善意にあふれていると偽るような生温(なまぬる)い自由主義者ではありません.この詩篇作者は,耳触りのよい話を口にする人は大勢いても,中には神にとって邪悪な敵となる者がいて,そういう連中は私たちが2010年に直面するような環境を丸ごと作り出すほど強力な力を持ち彼を地獄へ引きずり降ろしかねないことを知っています(1節).彼ら悪人に対処するため詩篇作者が頼るのは神です - 

4 「主よ,その行いによって,その悪行によって報い,その手の行為によって支払い,彼らに報復したまえ.5 彼らは主のみ業を,そのみ手の業を知ろうとしなかった.彼らを打ち滅ぼし,二度と立ち上がらせたもうな.」
私たちは,神が神の(そして私たちの)敵を始末されないのではないだろうかと訝(いぶか)る必要は決してありません.たとえ私たちの生きている21世紀において彼ら悪人たちが勝利をものにしているように思えるときでさえもその心配は不要です.彼らは神を欺(あざむ)けないし,神から逃れることもできません.もっと大事なことは,神は神を頼る霊魂たちに間違いなく配慮されるということです -

6 「主は祝されよ,私の願いは聞きいれられた.7 主は私の助け(,私の盾である).私は主によりたのみ(直訳:主に心を託す “my heart confided” ),そして,助け上げられ,私の心は喜んだ(別訳:私のからだはふたたび咲きほこった “my flesh hath flourished again” ).うたって主を祝そう.」
注目していただきたいのは,この詩篇作者が,自分はあまりにも完全無欠なので肉体的な関心はまるで不要というふりをしているひどくばかげた天使崇拝主義者ではないということです - 神が彼の「心 “heart” 」と「からだ “flesh” 」双方に配慮されているのですから.また,すべての神に属する人々のために彼が捧げた祈りが示すとおり,彼は自己中心の個人主義者でもないということです ---

8 「主は民の助け,避難所,油を注がれた者の救いである.(「油を注がれた者」の意味は,かつて私たちの主が十字架上で死去されて以来このかた,カトリック教会の秘跡によって聖別された霊魂たちのことです.)(訳注・司式聖職者は「聖別」される人の頭などに聖油を塗る.この節の本来の意味としては「神によって聖別された選民」のことを指すらしい.) 9 民を救い,主の資産( “Thy inheritance” )を祝し,それの牧者となり( “rule them” ),とこしえに,それを支え( “exalt them” )たまえ.」

今日私たちは,主よ,あなたのカトリック教会をお救いください,と神に祈りましょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *

(Psalms Chapter 27. A psalm for David himself.)
(聖書・詩篇第28(27)篇.ダビドの作.)

Unto thee will I cry, O Lord: O my God,
be not thou silent to me:
lest if thou be silent to me,
I become like them that go down into the pit.
主よ,私はあなたに向かって叫ぶ,
私の岩よ,耳をふさぎたもうな.
私に向かって唖になられるなら,
私は穴に下る人と等しくなろう.

Hear, O Lord, the voice of my supplication,
when I pray to thee;
when I lift up my hands to thy holy temple.
私があなたに向かって叫ぶとき,
主よ,あなたの至聖所に向かって,
手を伸べるとき,
私の祈りの声を聞きたまえ.

Draw me not away
together with the wicked;
and with the workers of iniquity
destroy me not:
Who speak peace with their neighbour,
but evils are in their hearts.
私を悪人とともに,
罪を行う人とともに引きたもうな.
彼らは隣人に平和を語るが,
その心には悪がある.

Give them according to their works,
and according to the wickedness
of their inventions.
According to the works of their hands
give thou to them:
render to them their reward.
主よ,その行いによって,
その悪行によって報い,
その手の行為によって支払い,
彼らに報復したまえ.

Because they have not understood
the works of the Lord,
and the operations of his hands:
thou shalt destroy them,
and shalt not build them up.
彼らは主のみ業を,そのみ手の業を
知ろうとしなかった.
彼らを打ち滅ぼし,
二度と立ち上がらせたもうな.

Blessed be the Lord,
for he hath heard the voice of my supplication.
主は祝されよ,
私の願いは聞きいれられた.

The Lord is my helper and my protector:
in him hath my heart confided,
and I have been helped.
And my flesh hath flourished again,
and with my will I will give praise to him.
主は私の助け,私の盾である.
私は主によりたのみ,そして助け上げられ,
*1私の心は喜んだ.
うたって主を祝そう.

The Lord is the strength of his people,
and the protector
of the salvation of his anointed.
主は民の助け,避難所,
*2油を注がれた者の救いである.

Save, O Lord, thy people,
and bless thy inheritance:
and rule them
and exalt them for ever.
民を救い,主の資産を祝し,
それの牧者となり,
とこしえに,それを支えたまえ.

(脚注)
(祈願と感謝の歌)
*1 他の訳,「私のからだはふたたび咲きほこった」.
*2 神に聖別された選民のことらしい.

(訳注・詩篇第27(28)篇の作者はダビド(古代イスラエルの二代目の王.西暦前10世紀頃から約40年間在位した.預言者でもあり,詩篇作者の一人でもあった.キリストはこのダビドの子孫から出ると預言されたので「ダビドの子」とも呼ばれる.現イスラエル国旗上に描かれる星印は「ダビドの星」と呼ばれイスラエル民族の象徴である).

(詩篇解説については,用語集に記載を予定.)