2010年1月25日月曜日

賢明な経済学

エレイソン・コメンツ 第132回 (2010年1月23日)

「経済学者」を混乱させたり「経済学者」が周囲の人たちを混乱させたりすることに既得権益を持つ有力者があまりにも多すぎます.そんなとき,オーストリアン・スクール・オブ・エコノミクス(「オーストリア学派」)の「七戒」いう良識に (http://jsmineset.com/で)出会うと救われた気持ちになります.七戒のうち初めの二つは,以下に記載する通り初歩的なものです.あとの五つは,今日,多くの国の政府が疑いなく政治的圧力の下で,初めの二つを守らずに済ますため用いている五つの方法を糾弾するものです.以下それぞれの戒に注釈を付けて紹介したいと思います:--

(一) 「汝稼ぐべし.」 人はおしなべて衣食住に出費し続けるため,あらゆる個人,家庭,国家はなんらかの形で稼いで収入を得なければなりません.そうした収入は,共同体をなす人々(または他の国家)が購入を希望する物品,サービスを生産するか提供することによってのみ得ることができます.

(ニ) 「汝稼ぐ以上に消費するべからず.」 稼ぐ以上に消費することを永久に続けられる個人,家庭,国家は一つもありません.これを守らないと,債権者が停止を命じるまで負債を増やすことになります.そして結局はその負債を返済しなければならず,それは苦痛を伴うものです.あるいは,その負債が返済できなくなって債務不履行に陥り,悲惨な財政危機に陥ることになります.

(三) 「国家は規則を多く設けすぎるべからず.」 国家は公益のために規則を設けるべきです.だが,規則を多く設けすぎて国民の生産的な活動を制限するなら,活動を促進する代わりに制限することで公益を阻害することになります.

(四) 「国家は税を多く徴収しすぎるべからず.」 同じように,生産的な活動に過度に課税することは,その活動を妨害し,麻痺さえさせてしまいます.結果的に,過度の課税がその国家の税収を減らしてしまうことにもなりかねません.

(五) 「国家は不況を脱するために支出するべからず.」 不況になると国民の収入,支出がともに減少します.そういう状況下で,政府自らが単に支出を増やすだけで国民の収入,支出を回復させることができる国家は一つもありません.なぜなら,支出のための追加資金を得るには,政府は借金するか(第七戒を参照)増税するか(第四戒を参照)あるいは裏付けもなしに紙幣を発行するか(第六戒を参照)のいずれかの方法をとらなければならないからです.こうした代替策にはいずれも厳しい制限がつきものです.

(六) 「国家は不況を脱するために紙幣を発行するべからず.」 政府は単に紙幣を増発したりコンピューターのキーボードを叩く回数を増やしたりして追加資金をねん出し不況を乗り切ることはできません.なぜなら,資金の供給に見合った物品生産の増加がない限り,少なすぎる物品(不足)を追いかける過剰な資金が価格をつり上げて超インフレを引き起こし,結局は通貨を完全に破壊するからです.

(七) 「国家は不況を脱するために雇用するべからず.」 政府は単に失業者を非生産的な官僚として雇用するだけで(第一戒を参照),あるいは失業手当をどんどん支払うだけで失業者問題を解決することもできません(第五戒を参照).

しかし,もし「民主制の下で」国民がマンモン (注釈:「富」のこと.) を崇めるあまりに拝金主義者に買収された政治家たちに投票し続け,結果的に政府が拝金主義者に乗っ取られてしまったら,その国民は自らを責める以外に他の誰を責めることができるでしょうか?そして,もしその結果が悲惨な生活となって国民自身に降りかかってきたら,主なる神はその国民が犯した罪(注釈:「神よりも富を崇める(重んじる)」という罪.聖ルカ福音による例を後記.) に応じて相当の罰を下さないでしょうか?そしてそのとき彼ら国民は,生産,経済また金銭,あるいはたとえオーストリアン・スクールであっても,神はただそのような物々を満たすだけのために国民に生命をお与えになったのではないということを彼らにわからせるための何らかの他の方法(道・手段)を神に残すことができるでしょうか?それとも,これらの物々が彼ら国民に相応(ふさわ)しい場において必要だとしても、それらすべてをはるかに超越したところに永遠の天国と永劫の地獄の罰とが存在するのだということを国民に痛感させはっきりと悟らせ得る何らかの他の方法を神のもとに残すことができるでしょうか?

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


(不正な支配人のたとえ)
(聖ルカ福音書16.1-17)
またイエズスは弟子たちにこう話された,「ある金持ちに一人の*¹支配人がいた.主人の財産を使いこんでいると訴えがあったので,主人は彼を呼び,〈おまえのことについて聞いた.どういうことだ.会計の報告を出せ,もうおまえを支配人にしておくわけにはいかぬ〉と言った.支配人は,〈さて,主人が私の管理職を奪ったらどうしよう.土を耕す,それはできない.乞食をする,それも恥ずかしい.ああそうだ,どうすればよいか思いついた.管理職をやめさせられても,人々が迎え入れてくれる方法を〉と心の中で言った.それから主人に負債のある者を一人一人呼んだ.はじめの人に,〈あなたは私の主人にどれだけの負債がありますか〉と聞くと,〈油百樽です〉と答えたので,支配人は,〈証書をとり,腰かけて早く五十と書きなさい〉と答えた.またほかの人に,〈負債はどれほどですか〉と聞くと,〈麦百石(こく)〉と答えたので,彼は,〈証書をとって八十と書きなさい〉と言った.ところで,主人は,この不正な支配人のしたことを,巧妙なやり方として賞(ほ)めた.*²この世の子らは,自分の仲間に対しては光の子らよりも巧妙なものである.
*³私は言う.不正の富で友人をつくれ.そうしておけば,金がなくなったとき,その友人が永遠の住みかに迎えてくれるだろう.小事に忠実な者は,大事にも忠実な者であり,小事に不忠実な者は大事にも不忠実である.だから,不正の富に忠実でなかったら真実の富もまかせられぬ.また,*⁴外のものに忠実でなかったら,誰があなたたちのものを与えてくれるだろう.
しもべは二人の主人に仕えることはできぬ.一人を憎んでもう一人を愛するか,一人に従ってもう一人をうとんずるかである.あなたたちは神と*⁵マンモンにともに仕えることはできぬ」.
そのとき,貪欲なファリサイ人がその話をすべて聞いたうえで,イエズスをあざけったので,イエズスは彼らに言われた,「あなたたちは人々の目の前で自ら義人ぶっている.だが神はその心を見抜いておられる.人間にとって尊いと思われるものは,神にきらわれるものである.律法と預言者はヨハネの時までで,その時から神の国が告げられ,人々はみな力を尽くしてそこに入ろうと努める.律法の一画がくずれ落ちるよりは,天地の過ぎ去るほうがたやすい.…」

*¹主人の財産を管理している相当権力のある人のことを指す.この人は奴隷ではなかった.不正を知られても,売られずに,追い出されるだけであるから,自由民であったにちがいない.

*²「この世の子ら」は俗世の心配だけの中に生きている人々,「光の子ら」は霊的なより高いことを求める人々.

*³たとえにおいては,その細目までを事実にあてはめてはならない.イエズスはここに,支配人の巧妙さを賞めるのであって,その不正を賞めるのではない.富が「不正」といわれるのは,それが不正をもって得られ,または不正の手段となりがちだからである.天国をもうけるために,富を用いよと勧めている.

*⁴「外のもの」とは人間にとって外から加えられたもの,つまり財産のことである.したがって,「あなたたちのもの」とは,霊的なもののことである.
  イエズスがこの世の富を「自分のものでないもの」と言っているのは,人間がこれを永久に所有しえないからである.人間は単に,富を神から受けて管理しているにすぎない.人間が望めば,だれにも奪われない真実の富,すなわち恩寵を得ることができる.この世の富の管理に不正を働いた者は霊的な富をも奪われるであろう.

*⁵富のこと.