エレイソン・コメンツ 第131回 (2010年1月16日)
明日は「聖家族」の祝日(訳注・今年は1月10日)なので,三週間前に私が「エレイソン・コメンツ」で,普通に言えば独身男性は「ゼロ」で独身女性は「ゼロ以下」だと書いたことについて一読者が持った疑問を引用するのにちょうどタイミングが適しているのではないでしょうか.その読者の疑問は,結婚願望を持ちながらも何らかの理由で結婚できなかったりしなかったりした男性や女性はどうなのか?というものでした.未婚者すべてが必ずしも宗教的な天職を得ているわけではない,と読者は付言しています.
私はこの読者への答えの冒頭に,今日では不自然な孤独があまりにも当たり前になってしまっている点を指摘しました.とりわけ大都会における現代人のライフスタイルは,結婚をその本来あるべき姿をとどめないものとしてしまうだけでなく,多くの結婚生活を破綻へと追いやる原因ともなっています.この現象は,自由主義がもたらした多くの罰の一つです.自由主義は個人主義を賛美するあまりに人々に結婚した状態での生活に自分は不向きだという気持ちを抱かせるようになっています.自由主義はまたあらゆる絆(きずな)からの解放を美化します.だが婚姻関係はそれを繋(つな)ぎとめる絆が存在しなければ無に等しいのです.「だからこそ西欧諸国では出生率が低下し続け,かつてカトリック信仰が存在した欧州で自殺が増加しているのです.これはいずれも極めて悲しむべきことであり極めて深刻な問題です.」
私は答えを続けました.「すべての男性を「ゼロ」と呼ぶのは言うまでもなく,第一に,私たちはすべて神の前では小さな存在にしか過ぎないということ,第二に,男性は自分で思うほど立派な存在ではないということを脚色して表現したものです.(ロシアには,女性抜きの男性は(周りを囲う)垣根のない庭園のようだとか,(ロシアでの)一月に毛皮の帽子をかぶらずに外出するにひとしい,という二つのことわざがあります!)続けて女性を「ゼロ以下」だと呼んだのは,第一に,今日,いたるところに存在する神の敵どもによる女性の相補性へのひどい侮辱とは違う意味で,女性は男性と同様ではないということ,第二に,女性は男性が女性に依存するよりずっと深く男性に依存しているということを同様に挑発的に表現したものです.旧約聖書の「創世の書」 ((注釈・邦訳では「創世」となっているけれども,ヘブライ人は聖書の各巻の最初のことばをとって題としていた.「創世の書」の場合はヘブライ語で「ベレシット(始めに)」といい,ギリシア語訳では「ゲネジス(始まり)」“Genesis” (英語は同綴りで「ジェネシス」)となり,そこから今の呼び名が残された.実をいえば「ゲネジス」ということばには必ずしも「創造」の意味はない.聖書の第一巻は神によるすべての事物の始まり,宇宙の始まりをも物語るが,主として人類の始まり,選民ヘブライ人の始まり,イスラエル国の始まり,神の約束による人類救済の歴史の始まりが物語られる.)) 第3章16節「おまえは夫に情を燃やすが,夫はおまえを支配する.」(訳注・英語原文の直訳は,「おまえは夫の権力の下に置かれ,夫はおまえを支配する.」“Thou shalt be under thy husband’s power, and he shall have dominion over thee”.)におけるエバ(訳注・英語の「イブ」“Eve”.初めの人アダムの妻.)への罰を参照してください.ただし,私が「ゼロ」とか「ゼロ以下」といったのは挑発が主たる目的ではなく,両者を合わせると8になること,つまり結婚の結びつきから生まれる自然の力を図で示すために使った表現なのです.
悲しいかな,今日では多くの司祭が,結婚したくても夫にふさわしいと心を打たれるような若い男性に巡り合えないと嘆く若い女性によく出会うと言っています.若い男性は大抵,女性をリード(先導)するよう神が授けた気性を自由主義のために消失してしまった(自由主義により洗い落とされてくたびれた)布巾(ふきん)同然に見えます.自由主義は神が女性に与えた自然な本能や感情をそう簡単に破壊はしません.だが,もし自由主義がそういうものを破壊するなら,その結果はさらに悲惨なものとなりかねません.
結論として,私は「十字架の道行き」の祈り ((注釈・英語で“The Way of the Cross”,ラテン語で“Via Crucis”.神の御子イエズス・キリストは人類を霊魂の永遠の死から救済するために「(聖霊によりて宿り,おとめマリアより生まれ,)…苦しみを受け,十字架につけられ,死して葬られ(受難と十字架上の死),三日目に死者のうちよりよみがえり(復活)…」(「使徒信経(しんきょう)」ラテン語で“Symbolum apostolorum. “Credo…””より抜粋.)という,旧約時代から神により預言されていた通りの使命を果たされた.それは人類を創造された神の人類に対する永遠の愛のゆえに成し遂げられた.この祈りは,キリストを信じる者が,キリストが死刑の宣告を受けられたユダヤ総督ピラトの官邸からご自身が架けられる十字架を背負って処刑場のゴルゴタ(ヘブライ語.ラテン語では “Calvariae”. 「されこうべ」の意.)の丘までの道を歩いて行く「苦しみの道」(ラテン語で “Via Dolorosa” )を経て,十字架に架けられて十字架上で亡くなり墓に葬られるまでのそれぞれの場面において,キリストの受けられた受難を偲(しの)び,私たち人類の天の御父なる神の愛と人類のために身を捧げられた神の御子イエズス・キリストに対する感謝と信仰,かような神の犠牲的な愛と同じ愛に自らも献身して生きることを心に思い起こす祈りである.聖地エルサレム巡礼ではキリストが実際に歩かれたとされるこの道を辿りキリストが受けた苦しみの主な14の場面に該当するそれぞれの場所(「留」= “Station” )で「十字架の道行き」の祈りが捧げられる.カトリック教会聖堂内の壁にはこの祈りの第1留から第14留までの各留が設置され,各留に十字架が,それぞれ該当する聖画と共に掛けられており,各留の前に立って聖地におけると同様にこの祈りを捧げることができる.カトリック教会では,復活祭前46日目の灰の水曜日(「四旬節」(ラテン語で“Quadragesima”.英語で“Lent”)の初めの日.この日から復活祭前日までの日曜を除いた40日間をさす.)から毎週金曜日にこの祈りを共同で捧げる習慣が古くからある.)) の第8留で私たちの主が,泣いているエルサレムの女たちを慰めている場面について触れました(聖書・聖ルカ福音書第23章27-31節). ((注釈・該当箇所の福音:「大群の人々と,*¹イエズスのために嘆き悲しむ婦人たちが後についていた.イエズスは婦人たちの方をふり向いて言われた,『エルサレムの娘たちよ,私のために泣くことはない.むしろあなたたちと,あなたたちの子らのために泣け.〈うまずめ,子を生まなかった胎,飲ませなかった乳房は幸いだ〉と言う日が来る.その時,人々は山に向かい〈われわれの上に倒れよ〉,また丘に向かい〈われわれを覆え〉と言うだろう.*²生木さえもそうされるなら,枯木はどうなることか』.」注釈・*¹イエズスの知人か,または,エルサレムで死刑を受ける人々のために世話をやく婦人たちのこと.*²生木(イエズス)は薪(まき)ではない.ふつう薪にするのは枯木である.この枯木は罰を受けるべきユダヤ人である.)) 主はここで,夫や家族を持ったことのない女たちを羨(うらや)むような天罰がエルサレムに下されるだろうと警告されました.私たち自身の時代では,このことが結婚しない理由にはなっていませんが,結婚を望んでいてもまだ神によって結婚に導かれていない者にとっての慰めとなっているかもしれません.というのは,神の不変の摂理にかつてないほど信頼を置き始めるべき途方もない事態が・・・そう遠くない将来に私たちの上に降りかかることになると思えるからです・・・
* * *
(訳文のみ)
明日は「聖家族」の祝日なので,三週間前に私が「エレイソン・コメンツ」で,普通に言えば独身男性は「ゼロ」で独身女性は「ゼロ以下」だと書いたことについて一読者が持った疑問を引用するのにちょうどタイミングが適しているのではないでしょうか.その読者の疑問は,結婚願望を持ちながらも何らかの理由で結婚できなかったりしなかったりした男性や女性はどうなのか?というものでした.未婚者すべてが必ずしも宗教的な天職を得ているわけではない,と読者は付言しています.
私はこの読者への答えの冒頭に,今日では不自然な孤独があまりにも当たり前になってしまっている点を指摘しました.とりわけ大都会における現代人のライフスタイルは,結婚をその本来あるべき姿をとどめないものとしてしまうだけでなく,多くの結婚生活を破綻へと追いやる原因ともなっています.この現象は,自由主義がもたらした多くの罰の一つです.自由主義は個人主義を賛美するあまりに人々に結婚した状態での生活に自分は不向きだという気持ちを抱かせるようになっています.自由主義はまたあらゆる絆からの解放を美化します.だが婚姻関係はそれを繋ぎとめる絆が存在しなければ無に等しいのです.「だからこそ西欧諸国では出生率が低下し続け,かつてカトリック信仰が存在した欧州で自殺が増加しているのです.これはいずれも極めて悲しむべきことであり極めて深刻な問題です.」
私は答えを続けました.「すべての男性を「ゼロ」と呼ぶのは言うまでもなく,第一に,私たちはすべて神の前では小さな存在にしか過ぎないということ,第二に,男性は自分で思うほど立派な存在ではないということを脚色して表現したものです.(ロシアには,女性抜きの男性は(周りを囲う)垣根のない庭園のようだとか,(ロシアでの)一月に毛皮の帽子をかぶらずに外出するにひとしい,という二つのことわざがあります!)続けて女性を「ゼロ以下」だと呼んだのは,第一に,今日,いたるところに存在する神の敵どもによる女性の相補性へのひどい侮辱とは違う意味で,女性は男性と同様ではないということ,第二に,女性は男性が女性に依存するよりずっと深く男性に依存しているということを同様に挑発的に表現したものです.旧約聖書の「創世の書」第3章16節「おまえは夫に情を燃やすが,夫はおまえを支配する.」におけるエバへの罰を参照してください.ただし,私が「ゼロ」とか「ゼロ以下」といったのは挑発が主たる目的ではなく,両者を合わせると8になること,つまり結婚の結びつきから生まれる自然の力を図で示すために使った表現なのです.
悲しいかな,今日では多くの司祭が,結婚したくても夫にふさわしいと心を打たれるような若い男性に巡り合えないと嘆く若い女性によく出会うと言っています.若い男性は大抵,女性をリードするよう神が授けた気性を自由主義のために消失してしまった(自由主義により洗い落とされてくたびれた)布巾同然に見えます.自由主義は神が女性に与えた自然な本能や感情をそう簡単に破壊はしません.だが,もし自由主義がそういうものを破壊するなら,その結果はさらに悲惨なものとなりかねません.
結論として,私は「十字架の道行き」の祈りの第8留で私たちの主が,泣いているエルサレムの女たちを慰めている場面について触れました(聖書・聖ルカ福音書第23章27-31節).主はここで,夫や家族を持ったことのない女たちを羨むような天罰がエルサレムに下されるだろうと警告されました.私たち自身の時代では,このことが結婚しない理由にはなっていませんが,結婚を望んでいてもまだ神によって結婚に導かれていない者にとっての慰めとなっているかもしれません.というのは,神の不変の摂理にかつてないほど信頼を置き始めるべき途方もない事態が・・・そう遠くない将来に私たちの上に降りかかることになると思えるからです・・・
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教