2014年9月27日土曜日

376 天罰が来る 9/27

エレイソン・コメンツ 第376回 (2014年9月27日)

     コンスタン・ルイ・マリー・ペル神父(1876-1966年)( “Constant Louis Marie PEL (1876-1966) ” )は神が今日の世界をどう正そうとされるかについて神から知識を与えられた人々の間で広く知られた人物ではありませんが(こんすたん・るい・まりー・ぺるしんぷは かみが こんにちの せかいを どう ただそうと されるか について かみ から ちしきを あたえられた ひとびとの あいだで ひろく しられた じんぶつ では ありません が)( "Father Constant Louis Marie PEL (1876-1966) is not a name well-known among the souls gifted by God with a knowledge of how God is going to set today's world straight, …" ),彼を良く知る人々にとっては,彼は神にとても近い存在の神父でした(かれを よく しる ひとびとに とっては,かれは かみに とても ちかい そんざいの しんぷ でした)( "… but for those who knew him he was a priest very close to God. " ).神学博士で神学校教授を務めた彼は女子修道会,男子神学校をそれぞれ一校ずつ創設しました(しんがく はかせで しんがっこう きょうじゅを つとめた かれは じょし しゅうどうかい,だんし しんがっこうを それぞれ いっこう ずつ そうせつ しました)( "Doctor in theology, seminary professor, founder of a convent for women and of a seminary for men, …" ).イエズスの聖心( "The Sacred Heart of Jesus" ),マリアの汚れなき御心( "the Immaculate Heart of Mary" )に深く献身した彼はピオ神父( “Padre Pio” )の個人的に親しい友人でした(いえずすの みこころ,まりあの けがれなき みこころに ふかく けんしんした かれは ぴおしんぷの こじんてきに したしい ゆうじん でした)( "… with a great devotion to the Sacred Heart of Jesus and to the Immaculate Heart of Mary, he was a personal friend of Padre Pio" ).ピオ神父はかつてサン・ジョヴァンニ・ロトンド( “San Giovanni Rotondo” )を訪れたフランス人巡礼者の一団を前に「フランスには(ペル神父のように)偉大な聖人がいるのに,なぜあなた方はわざわざ私に会いにくるのですか?」と尋(たず)ねたそうです(ぴおしんぷ は かつて さん じょゔぁんに ろとんど を おとずれた ふらんす じん じゅんれいしゃ の いちだん を まえに「ふらんす には〈ぺるしんぷの ように〉いだいな せいじんが いるのに,なぜ あなたがたは わざわざ わたくし に あいに くる のですか?」とたずねた そうです)( "… who said of him to some French pilgrims in San Giovanni Rotondo, “Why do you come to see me when you have so great a Saint in France ?” " ).

     ペル神父は生前よく,教会内で聖櫃に額を寄せ立ったまま,幾晩も続けて夢中で神との対話に浸っておられました(ぺるしんぷは せいぜん よく,きょうかい ないで せいひつに ひたいを よせ たったまま,いくばんも つづけて むちゅうで かみとの たいわに ひたって おられました)( "Fr Pel would spend nights on his feet in church with his forehead leaning against the Tabernacle, conversing with God in a permanent ecstasy." ).彼は第二バチカン公会議直後に交通事故で亡くなりました(かれ は だいにばちかん こういかいぎ ちょくごに こうつうじこで なくなりました)( "He died in a car accident just after Vatican II, …" ).だが,神父の霊的な(=宗教・信仰上の)息子たち(訳注後記 2-1 「霊的な息子」について)( "spiritual sons" )の一人である一神学生が,特にフランスを襲うであろう天罰について神父が1945年以降に語り始めた予言(預言)を書き遺しています(しんぷの れいてきな〈=しゅうきょう・しんこう じょうの〉むすこたちの ひとりである いち しんがくせいが,とくに ふらんすを おそう であろう てんばつに ついて しんぷが せんきゅうひゃく よんじゅうごねん いこうに かたりはじめた よげんを かきのこして います))( "… but not before a seminarian, one of his spiritual sons, had been able to note down a prophecy of his, dating from 1945, concerning the chastisement which will strike France in particular." ).以下にその一部を引用と要約でご紹介します(いかに その いちぶを いんようと ようやくで ごしょうかい します):-- ( "Here it is, quoted or abbreviated:-- " )(訳注後記 2-2 「天罰」について)

     ペル神父は次のように言われました.「私の息子よ,世界中の諸々の罪が時の経過とともに恐ろしい程増え続けており(ぺるしんぷは つぎのように いわれました.「わたくしの むすこよ,せかいじゅうの もろもろの つみが ときの けいかと ともに おそろしい ほど ふえつづけて おり」)( " “My son,” said Fr Pel, “know that with the sins of the world increasing in horror as this age wears on, …" ),やがて神の大きな罰が下されることになるだろうが(やがて かみの おおきな ばつが くだされる ことに なる だろうが)( "… great punishments from God will come down on the world …" ),世界中でこの神の怒りを免れる大陸はどこにもないことを知りなさい(せかいじゅうで この かみの いかりを まぬがれる たいりくは どこにも ないことを しりなさい)( "… and no continent will be spared by the Wrath of God." ).背教の罪を犯し,聖職を否定したフランスはとりわけ厳しい罰を受けるでしょう(はいきょうの つみを おかし,せいしょくを ひてい した ふらんすは とりわけ きびしい ばつを うけるでしょう)( "France being guilty of apostasy and denying its vocation will be severely chastised." ).南東部のボルドー "Bordeaux" と北東部のリーユ "Lille" を結ぶ線の東側では特に(なんとうぶの ぼるどーと ほくとうぶの りーゆを むすぶ せんの ひがしがわ では とくに)( "East of a line stretching from Bordeaux in the south-west to Lille in the north-east, …" ),東部から侵入する人々や地球全土に火の雨のように落下する大隕石群によって,あらゆる物が荒らされ,燃やし尽くされるでしょう(とうぶ から しんにゅう するひとびと や ちきゅう ぜんどに ひのあめの ように らっか する だい いんせき ぐん に よって,あらゆる ものが あらされ,もやし つくされる でしょう)( "… everything will be laid waste and set on fire by peoples invading from the east, and also by great flaming meteorites falling in a rain of fire upon all the earth and upon these regions especially." ).革命,戦争,疫病蔓延,化学毒ガス,大地震,フランス中の死火山復活であらゆる物が破壊されるでしょう(かくめい,せんそう,えきびょう まんえん,かがく どく がす,だい じしん,ふらんす じゅうの しかざん ふっかつで あらゆる ものが はかい される でしょう)( "Revolution, war, epidemics, plagues, chemical poison gases, violent earthquakes and the re-awakening of France's extinct volcanoes will destroy everything...” " ).」

     「ボルドーとリーユを結ぶ線より西側のフランスでは影響は東側ほど大きくないでしょう…(ぼるどーと りーゆを むすぶ せん より にしがわの ふらんす では えいきょうは ひがし がわ ほど おおきく ない でしょう…)( " “France to the west of that line will be less affected..." )…それはバンデー "Vendée" とブリタニー "Brittany" に信仰が根差しているからです…(…それはばんでーと ぶりたにーに しんこうが ねざしている から です…)( "… because of the faith rooted in the Vendée and in Brittany ..." ) …だが,世界的な大変動を逃れ,そこに避難しようとする神の最悪の敵たちは,どこへ隠れようとしても見つけ出され,悪魔どもによって処刑されるでしょう(だが,せかいてきな だいへんどうを のがれ,そこに ひなんしようと する かみの さいあくの てきたちは,どこへ かくれようと しても みつけだされ,あくまどもに よって しょけいされる でしょう)( "… but any of God's worst enemies seeking refuge there from the worldwide cataclysm will be found out, wherever they hide, and put to death by devils, …" ).何故なら,主の御怒り( “the Wrath of the Lord” )は正当かつ神聖なるものだからです(なぜ なら,しゅの おん いかりは せいとう かつ しんせい なる もの だから です)( "… because the Wrath of the Lord is just and holy." ).戦争の引き起こす厚い暗闇(せんそうの ひきおこす あつい くらやみ)( "Thick darkness caused by the war …" ),三日三晩落下し続ける隕石の破片による大火は太陽光を遮り(みっか みばん らっか しつづける いんせきの はへん による たいかは たいようこうを さえぎり)( "… gigantic fires and fragments of burning stars falling for three days and nights will cause the sun to disappear, …" ),聖燭節(せいそくせつ)( “Candlemas” )に灯される蝋燭の灯りだけが神を信じる者たちの手に光を与えるでしょう(に ともされる ろうそくの あかり だけが かみを しんじる ものたちの てに ひかりを あたえる でしょう)( "… and only candles blessed on Candlemas (February 2) will give light in the hands of believers, …" )(訳注後記 4-1 「聖燭節」について).だが,神を信じない者たちは心の中(=自分の霊魂 "souls" )に闇を抱いているため,この奇跡的な灯りを見ることはないでしょう(だが,かみを しんじない もの たちは こころの なか〈=じぶんのれいこん〉に やみを いだいて いるため,この きせき てきな あかりを みる ことは ないでしょう)( "… but the godless will not see this miraculous light because they have darkness in their souls.” " ).」

     「私の息子よ,このようにして人類の3分の2は滅ぼされ(わたくしの むすこよ,このようにして じんるいの さんぶんのに は ほろぼされ)( " “In this way, my son, three quarters of mankind will be destroyed, …" ),フランス国内の一部の土地では,生き延びた者は60マイルも移動しないとほかの生存者に会えないほどになるでしょう(ふらんす こくないの いちぶの とち では,いきのびた ものは ろくじゅう まいるも いどう しないと ほかの せいぞんしゃに あえない ほどに なるでしょう)( "… and in certain parts of France survivors will have to go 60 miles to find another live human being..." ).いくつかの国家は世界地図から消えてしまうでしょう(いくつかの こっかは せかいちず から きえてしまう でしょう)( "… Several nations will disappear off the face of the map ... " ).このようにして浄化されたフランスは『教会の長女』( “Eldest Daughter of the Church” )として復活するでしょう(このように して じょうか された ふらんすは『きょうかいのちょうじょ』として ふっかつする でしょう)( "A France thus purified will become the renewed “Eldest Daughter of the Church”, …" ).何故なら,この『(地上の)諸々の国家に下される最後の審判』( “Judgment upon the Nations” )の過程であらゆるカインたちやユダたちはいなくなってしまっているはずだからです.」(なぜなら,この『(ちじょうの)もろもろの こっかに くだされる さいごの しんぱん』の かていで あらゆる かいんたちや ゆだたちは いなくなって  しまうはず だからです.)( "… because all the Cains and Judases will have disappeared in this 'Judgment upon the Nations'”." )『(地上の)諸国家に下される最後の審判』で時代が終わるわけではないでしょう(『ちじょうの しょこっかに くだされる さいごの しんぱん』で じだいが おわる わけでは ないでしょう)( "This Judgment is not yet the end of times, …" ).だが,国々が犯した諸々の罪に対する罰は極めて重いため(だが,くにぐにが おかした もろもろの つみに たいする ばつは きわめて おもいため)( "… but so great is the punishment due to the sins of the nations …" ),私たちの主イエズス・キリストはペル神父に対し,世界が終焉を迎えるころの荒廃はさほどひどくないだろうと告げられました(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすとは ぺる しんぷに たいし,せかいが しゅうえんを むかえる ころの こうはいは さほど ひどくは ないだろうと つげられました)( "… that Our Lord told Fr Pel that the desolation at world's end will be lesser. " ).(訳注後記 5-1『(地上の)諸国家に下される最後の審判』について) (訳注後記 5-2「あらゆるカインたちやユダたち」について)

     親愛なる読者の皆さん.私たちはここでどのような結論を出したらよろしいでしょうか?(しんあいなる どくしゃの みなさん.わたくしたちは ここで どのような けつろんを だしたら よろしい でしょうか?)( "Dear readers, what do we conclude ? " )一人一人が神から与えられたカトリック教の秘蹟の助けを借りて,罪を犯したままの状態でなく神の恩寵の下で生きるよう精一杯努力しましょう(ひとり ひとりが かみ から あたえられた かとりっくきょうの ひせきの たすけを かりて,つみを おかした ままの じょうたい でなく かみの おんちょうの もとで いきるよう せいいっぱい どりょく しましょう)( "Let each of us strive with might and main, and with the help of the Catholic sacraments given to us by God for that purpose, to live in God's grace and not in the state of sin, …" ).そして,現在と神の正義が下される時との間に神が私たちに与えて下さった時間を最大限活用して(そして,げんざいと かみの せいぎが くだされる とき との あいだに かみが わたくしたちに あたえて くださった じかんを さいだいげん かつようして)( "… let us make full use of the time he gives us between now and the Hour of his Justice …" ),出来る限り多くの罪びとが悔い改め天罰 "Chastisement" が近づいた時その霊魂が永遠に救われるよう祈願しましょう(できるかぎり おおくの つみびとが くいあらため てんばつが ちかづいた とき その れいこんが えいえんに すくわれる よう きがん しましょう)( "… to pray for the largest possible number of sinners to repent and save their souls for eternity when the Chastisement closes in." ).神よ,お慈悲をお与えください.マリアさま,どうぞお助けください.(神よ憐れみ給え.マリアよ助け給え.)(かみよ,おじひをおあたえください.まりあさま,どうぞおたすけください.〈かみよ あわれみ たまえ.まりあよ たすけ たまえ.〉)( "… to pray for the largest possible number of sinners to repent and save their souls for eternity when the Chastisement closes in. God, have mercy. Mary, help." )(訳注後記 6-1 )

     キリエ・エレイソン.

     神による恐ろしい懲罰が近づいている.
     (かみに よる おそろしい ちょうばつが ちかづいて いる)
     ( "A frightful punishment from God is closing in." )

     罪を犯した状態のままで留まるのではなく,
     神の恩寵の下に生きよう.
     (つみを おかした じょうたいの ままで
     とどまる のではなく,
     かみの おんちょうの もとに いきよう)
     ( "Let us live in his grace, and not in sin." )

     リチャード・ウィリアムソン司教




* * *



訳注 2-1

宗教上の息子(=霊的息子)について

・カトリック信仰を共有する司教・司祭と男子修道士が
師弟関係において結ぶ義理の父子関係.

⇒「不滅の霊魂において」=「カトリック信仰において」
・師匠〈司祭・司教など〉が,信仰上の生みの親・育ての親となり,
その弟子が信仰上の養子となる.


* * *

訳注 2-2

「天罰 "Chastisement"」について

懲罰(ちょうばつ)
=悪人を懲らしめて戒める.

折檻(せっかん)
=良くし治すために懲らしめること.
厳しく戒めること.
戒めのため,たたいたりして懲らしめること.

・「諸々の霊魂」と「カトリック信仰」は不滅
=地上での死後も永遠に生きる.

・善に属す霊魂は後の世で天国へ,
悪に属す霊魂は後の世で地獄へ入る.
(大罪を犯していない霊魂は,煉獄(れんごく)へ入り
霊魂を清める)

・地上の人生は,
神が各々(おのおの)の霊魂に
相応(ふさわ)しい試練を
与(あた)え,鍛(きた)え,
霊魂の善性・悪性を見極める
神の試験場のようなもの. 
各々の人生のあらゆる場面で,
善悪のいずれを選び取るかを
神はことごとくご覧になられ,各々に相応しく
正確かつ正当な報いを確かにお与えになる.

・唯一・真実・全能・全き善・憐れみ深い
神の御目に適えば, 天国に入るが,

・全ての創造主たる神の被造物にすぎない
にもかかわらず,
全能の創造主たる真の神に挑む
傲慢・嫉妬・我欲に満ちた
悪魔に属する霊魂は,
堕落して地獄に落とされ,
永劫の罰を受ける.

・完全無欠の全能の神の御前に
罪のない人は一人もいない.
が,
兄弟・隣人を憐れみ,
兄弟の罪,過ち(あやまち),
落ち度,負い目を
憐れんで,赦してやる
慈悲深い人(憐れみ深い人)は,
慈悲深い神から憐れみを受ける.

慈愛は多くの罪を覆(おお)う

・人間が神を無視してみても,
神は御旨のままに
世に存在する全ての事物を動かされる.
唯一の全能の神の正義・公平・御慈悲に満ちた,
偏り見られることのない御目から免れることは
人間には絶対に不可能である.


* * *

訳注 4-1

「聖燭節」(せいそくせつ)について

=公教会〈カトリック教会〉ミサ聖祭典礼歴
2月2日の「聖マリアの御潔め」の大祝日

IN PURIFICATIONE BEATÆ MARIÆ VIRGINIS
「童貞聖マリアの御潔(おんきよ)め」の大祝日(祭服の色・白)

DE BENEDICTIONE CANDELARUM
「蝋燭の祝別式と行列」(紫)


* * *

ローマ・ミサ典書(原典はラテン語)
(以下は,バルバロ神父による日本語訳版1955からの抜粋)

聖燭節

解説

〈聖福音〉にその内容が語られるこの祝日は,
エルザレムにおいては, すでに四世紀のころから
行われていた.

六世紀には,ローマでも行われるようになったが
そのころから,この祝日が,
特に聖マリアの祝日の色彩を強めてきた.

東方教会では,この祝日によって,
御民にはじめて逢うために,
主が神殿に行き給うたことを祝っていたのである.

故に,本日のミサの下には,
キリストと民との出逢いという思想が流れている.

この日には,ろうそくの祝別が行われる.
本日の行列は,ローマにおいて,
七世紀のころからのことである.


***

1.ろうそくの祝別式と行列

御潔めの日が,七旬節,六旬節,五旬節の 主日に当れば,
この祝日を他の日に行う.
そうすると,ろうそくの祝別は,その主日のミサの前に行う.

〈祈願〉

V(司式司祭)/. 主よ,聖なる父,全能永遠の神よ,
御身は万物を無よりつくり出し
蜜蜂のはたらきによって
ろうそくが出来るようにと 思召し給うた.

御身が,義人シメオンののぞみを満し給うたこの日,
われらは,いと聖なる御名にこい願い,
敬虔(けいけん)に祝い奉る終世童貞女なる
聖マリアのとりつぎと,諸聖人の祈りとにより,
へり下ってこい願い奉る.

陸上でも海上でも,身体と霊魂との健康のために
人間の用いるこのろうそくを,
✠祝し,✠聖別し給わんことを
御光栄のために,このろうそくを手にして
主を讃美するをのぞむ御民の叫びを,
主の神殿なる天より,みいずの王座より,
ききいれ給わんことを.主に向かって叫ぶ,
御子のとうとき御血をもってあがない給うた人々に,
御慈悲を示し給え.

御身とともに神として,
聖霊との一致において,
生き且つ治め給う主よ,
R(助祭・侍者)/. アメン.

〈祈願〉
全能永遠の神よ,御身は,今日,
御独子(おんひとりご)を, 聖なる神殿で,
義人シメオンのうでに抱かせるようにと思召した.
われらは,本日,へり下って,御慈悲をこい奉る.
主のしもべなるわれらが,御名の光栄のために,
手にとってはこぼうとするこのろうそくを,
✠祝し,✠聖別し,天の祝福の火をもって,
火を点(とも)し給わんことを.
ふさわしい心をもち,主のいと甘美な愛の火にもえて,
最高の主なる御身にこのろうそくをささげるわれらを,
御光栄の聖なる神殿に奉献し給わんことを.

その同じわれらの主イエズス・キリスト,
神として,聖霊との一致において,
御身と共に世々に生き且つ治め給う聖子(おんこ)によりて,
R/. アメン.

〈祈願〉
主イエズス・キリスト
この世に来(きた)る
すべての人を照らすまことの光に在(ましま)す主よ
ねがわくは,✠祝福をこのろうそくにそそぎ,
聖寵の光によって,これを✠聖別し給え.
このあかりが,見える火のかがやきによって
夜の闇をはらうごとく,
慈悲なる神よ,見えざる火,
すなわち聖霊のかがやきによって,
われらの心を照し,悪の闇をはらい給え.
そして,われらの心の目をひらき,
御身によみせられる事と,
われらの救いに役立つ事とをわきまえさせ,
いつか,この世の 危険な闇を去って,
消える事なき光明に達せしめ給わんことを.
世の救主,イエズス・キリスト
御身は神であり,完全な三位一体において
世々に生きかつ治め給う
R/. アメン.

〈交誦〉(ルカ聖福音2:32)
*異邦人を照らす光,御民イスラエルの光栄.*
(シメオンの讃歌の一句切れごとに, この交誦をくりかえす)

〈讃歌〉(ルカ聖福音2:29-31)
御言葉のままに,主よ
今こそ御身のしもべを 安らかに逝(ゆ)かせ給え
異邦人をてらす光,御民イスラエルの光栄
私の目は,もはや主の救いを見たゆえに
*交誦・異邦人を…*
これは,万民の前にそなえ給うた御者である
*交誦・異邦人を…*
願わくは,聖父と聖子と聖霊とに光栄あれ,
*交誦・異邦人を…*
はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.
*交誦・異邦人を…*

〈交誦〉(詩篇43:26)
主よ,起って,われらを助け給え.
御名のために,われらを救い給え.
(詩篇43:2)神よ,われらは,この耳で聞いた,
父らが,これをわれらに語った.


〈祈願〉 主よ,願わくは,御民の願いをききいれ,
聖寵の光によって,年ごとに外部的に行うこの式を,
内部的にもあずからせ給え.
われらの主キリストによりて,
R/. アメン.

(行列)
V/. 平安に進もう.
R/. キリストの御名によって,アメン.
(行列の間,火を点じたろうそくをもって,次の交誦をうたう)

〔第一〕交誦
シオンよ,あなたの祝いの床をかざれ,
王たるキリストをむかえ奉れ,
天の門なるマリアを,愛をもってうけよ.
彼女は,新しい光の,光栄の王を
うでにいだき給う
あかつきの前に生れ給うた御子を
童貞女は,立ってささげ給う
シメオンはこれをうでにいだき,人々に,
かれが生命と死の主,世の救主であると告げた.

〔第二〕交誦(ルカ聖福音2:26, 27, 28-29)

シメオンは,聖霊によって,主のキリストを見るまで
死なないと示されていた
両親がその子をつれて神殿に来ると
シメオンは幼子を抱き,神を讃美していった
「御言葉のままに,主よ,今こそ御身の下僕(しもべ)を
安らかに逝(ゆ)かせ給え」と
V/. 両親がその子イエズスをつれ
律法のならわし通り行おうとして来たとき
シメオンは幼児を抱いた
(行列は聖堂に入る)

〈答誦〉
V/. かれらは,幼児のために,
山鳩一つがいか,はとのひな二羽かを,
主にささげた.
R/. 神の律法に記されている通り
V/. モイゼの律法にしたがって
マリアのきよめの日数がみちた時
両親は,主にささげるために
幼児を,エルザレムにつれていった
R/. 神の律法に記されている通り.
V/. 願わくは,
聖父と聖子と聖霊(ちちと こと せいれい)
とに光栄(さかえ)あれ.
R/. 神の律法に記されている通り.
(祭壇にかえり,司式司祭は紫の祭服から白い祭服に着替える)

大祝日のミサ聖祭「聖マリアの御潔め」

イエズスとシメオンとの幸せな出逢いに感謝しよう
〈入祭文,昇階誦〉なぜなら,遂に,新約の天使なる主が,
神殿に入り給い〈書簡〉,マリアとヨゼフとによる
象徴的な供者によって〈聖福音〉,
御民のきよめと成聖とを
もたらし給うたからである.〈書簡〉
この奥義,特に
イエズスと密にむすびついているマリアのとりつぎ
〈聖体拝領後の祈〉,
死のときにわれらを天にみちびき給うように.〈聖体拝領誦〉
……

* * *

(注)
*ミサ聖祭全体をウェブサイト
(毎日の聖人と祈り)に追って掲載いたします.

* * *

訳注 5-1

『(地上の)諸国家に下される最後の審判』について

後述

* * *

訳注 5-2

「あらゆるカインたちやユダたち」の意味:

「カイン」
=「真の神の正義・良識に従って
真面目に生きる善良な人を
妬み(ねたみ,嫉妬心)の為に
殺して社会的に亡き者にする
殺人者を指す.

「ユダ」
=神や恩人(=隣人)を
我欲の為に
金銭と引き換えに
悪人に引き渡す
裏切り者を指す.


* * *

訳注 5-1, 2

聖書からの引用:

1. 「地上の諸国家に下される最後の審判」
…新約聖書・ヨハネの黙示録

2. 「カインとアベル」
=最初の兄弟(最初の人アダムとその妻エバの長男と次男)
…旧約聖書・創世の書:第2-4章

からの引用を掲載予定.

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(注:本投稿記事〈第376回エレイソン・コメンツ〉は2014年10月7日22:30に公開されました.)

2014年9月20日土曜日

375 事情は変化する 9/20

エレイソン・コメンツ 第375回 (2014年9月20日) 

     私のイタリア人の友人(わたくしの いたりあじんの ゆうじん)(C. C.)は完全に異常な状況下(かんぜんに いじょうな じょうきょうか)での教皇空位論(きょうこう くうい ろん)( "sedevacantism" )は近視眼的な間違い(きんしがん てきな まちがい)に つながりやすいので勧(すす)められないとした上(うえ)で,そうした状況を長期的な視点(ちょうき てきな してん)から考察(こうさつ)しています( "Starting out from arguments against sedevacantism as being a short-sighted error in a wholly abnormal situation, an Italian friend (C.C.) takes a longer view of that situation." ).司祭(しさい)でも神学者(しんがく しゃ)でもない彼(かれ)は,あえて教皇空位論(きょうこう くうい ろん)とは現在の危機(げんざいの きき)を過去の危機(かこの きき)に当(あ)てはめて考(かんが)えようとする教会内の試み(きょうかいの こころみ)のひとつにすぎないと論破(ろんぱ)しています( "Without being a priest or theologian, he ventures the opinion that sedevacantism is merely one of several attempts in the Church to fit the crisis of today into the categories of yesterday." ).カトリック教の神学理論が変わった(かとりっく きょうの しんがく りろんが かわった)ということでなく,その理論を適用(りろんをてきよう)すべき現実の状況(げんじつの じょうきょう)が第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)いらい大きく変わって(おおきく かわって)しまったと言(い)うのです( "There is no question of Catholic theology changing, but the real situation to which that theology has to be applied underwent a sea-change with Vatican II." ).以下は,その変わってしまった現実(げんじつ)について彼が述べた発言(かれが のべた はつげん)の主要な部分(しゅような ぶぶん)です:-- ( "Here is a key paragraph of his on that changed reality:-- " )

     「今日の世界(こんにちの せかい)は神が存在(かみが そんざい)するという客観的現実(きゃっかんてき げんじつ),神の法(かみの ほう)(=モーゼの十戒=律法)に従う必要(したがう ひつよう)があることをいずれも拒(こば)んでいるので正常(せいじょう)ではありません( " “By its refusal of the objective reality of God's existence and of the need to submit to his Law, today's world is not normal, …" ).そして現在(げんざい)見(み)られるカトリック教の結束(けっそく)も神の代わりに人間(かみの かわりに にんげん)を物事の中心に据えて(ものごとの ちゅうしんに すえて)いるので正常(せいじょう)ではありません( "… and the present Catholic unity is not normal either which has put man instead of God at the centre of things." ).教会(きょうかい)( "the Church" )がこのような異常な状況(いじょうな じょうきょう)に辿り着いた(たどり ついた)のはなにも突然起きた(とつぜん おきた)ことではありません( "Nor is it by a sudden swerve that the Church has arrived at this abnormal state of things, …" ).それは,長く複雑なプロセスを経て(ながく ふくざつな ぷろせすを へて)人間が神から離れていった結果(にんげんが かみから はなれて いった けっか)によるもので( "… but following on a long and complex process of moving away from God, …" ),それによる破滅的な効果(はめつてきな こうか)がはっきり表面化(ひょうめんか)したのが第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)です( "… the disruptive effects of which showed up at Vatican II." ).過去数百年(かこ すうひゃく ねん)にわたり崩壊の病原菌(ほうかいの びょうげんきん)が教会内部で育まれて(きょうかい ないぶで はぐくまれて)きたのであり( "For hundreds of years the germs of dissolution have been fostered within the Church, …" ),人間はその病原菌をかくまい続(つづ)け( "… as have the men harbouring these germs, …" ),上(うえ)は聖ペトロ(せい ぺとろ)の座(ざ)(=ローマ教皇聖座=ローマ司教座)( "the See of Peter" )(= Sancta  Sedes〈ラテン語〉)を含(ふく)め教会内支配層(きょうかいない しはいそう)のあらゆる地位を占め(ちいを しめ)るようになってきました.」( "… and they have been allowed to occupy all ranks of the hierarchy, up to and including the See of Peter.” " )

     私の友人(ゆうじん)はさらに続(つづ)けて,もし私たちが現在の教会全体の異常さ(げんざいの きょうかい ぜんたいの いじょうさ)が,かつてないほどひどくなっていることを認識(にんしき)できないとなると,私たちはもはや存在(そんざい)しなくなった現実(げんじつ)を,当(あ)てはまらなくなったことを参考(さんこう)にして解決を図ろう(かいけつを はかろう)とするリスクを冒す(りすくを おかす)ことになるだろうと述(の)べています( "My friend goes on that if one fails to take into consideration this overall abnormality of the present state of the Church, which is unbelievably, yet truly, worse than ever, one runs the risk of dealing with a reality that no longer exists, in terms of reference that no longer apply." ).例(たと)えば教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)たちは今日の聖職者(こんにちの せいしょくしゃ)たちは賢明(けんめい)にして教育を受けた人(きょういくを うけた ひと)たちなのだから,自分(じぶん)たちが何(なに)をしているのか分(わ)かっているはず)だと思(おも)うでしょうが( "Thus for example the sedevacantists will say that today's churchmen must know what they are doing, because they are intelligent and educated men." ),実(じつ)はそうではないと,C. C.は言(い)います( "Not so, says C.C., …" ).彼らの説教や仕事(せっきょうや しごと)ぶりはもはやカトリック的(かとりっく てき)でなくなっているのに,彼らは自分たちがまったく正統(せいとう)だと確信(かくしん)している( "… their preaching and practice may well no longer be Catholic, but they are convinced that they are wholly orthodox." ).世界全体が狂って(せかい ぜんたいが くるって)しまい,彼らはそれと共に狂った(ともに くるった)だけです( "The whole world has gone mad. They have merely gone mad with it, …" ).理性を失った(りせいを うしなった)ためでなく,理性の活用(りせいの かつよう)を諦めた(あきらめた)ため狂って(くるって)しまったのです( "… not by a loss of reason but by having given up the use of it, …" ).彼らのカトリック教信仰が弱まる(かとりっく きょう しんこう)につれ( "… and as their Catholic faith grows weaker, …" ),信仰の完全な喪失を食い止める(しんこうの かんぜんな しょうしつを くいとめる)べきものがますますなくなってきている( "… so there is less and less to stop them from losing it altogether." ),というのが友人の見方(ゆうじんの みかた)です.

     だが,神が御自らの教会をお見捨てに(かみが おん みずからの きょうかいを おみすてに)なってしまったからに違い(ちがい)ないと反論する人(はんろん する ひと)もいるでしょう( "But then, one might object, God must have abandoned his Church..C. C.は聖書から(せいしょ から)3点の引用を用いてこれに答え(さんてんの いんようを もちいて これに こたえ)ます( "To reply, CC resorts to three quotations from Scripture." ).最初の引用(さいしょの いんよう)は,新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節(しんやくせいしょ・るか せいふくいんしょ:だい じゅうはっしょう はっせつ)です.ここで私たちの主(わたくしたちの しゅ)イエズス・キリスト(いえずす・きりすと)は,(再び地上に〈ふたたび ちじょうに〉)自分が戻る頃(じぶんが もどる ころ)に果たして信仰(はたして しんこう)がこの世に残って(このよに のこって)いるかどうかと疑問(ぎもん)を投げ(なげ)かけています( "Firstly, Lk.XVIII, 8, where Our Lord wonders if he will even find the Faith on earth when he comes back." ).この世の終わり(よの おわり)まで教会の不朽性(きょうかいの ふきゅうせい)を保つ(たもつ)には,わずか少数(しょうすう)の司祭(しさい)たちや一般平信徒(いっぱん ひらしんと)(それに数名の司教〈すうめいの しきょう〉)が残(のこ)っていれば十分(じゅうぶん)でしょう(ここで「抵抗運動(ていこう うんどう)」が具体化(ぐたいか)にむけて直面(ちょくめん)している諸々の困難(もろもろの こんなん)のことを考(かんが)えたくなります)( "Obviously a small remainder of priests and laity (with perhaps some bishops) will be enough to ensure the indefectibility of the Church until the end of the world (one thinks of the present difficulties of the “Resistance” in taking shape)." ).同様(どうよう))に,2番目の引用(にばんめの いんよう)は,マテオ聖福音書:第24章11-14節(まてお せいふくいんしょ:だい にじゅうよん しょう じゅういち-じゅう よん せつ)で,この中(なか)で私たちの主イエズス・キリストは,多くの偽預言者が起こって人々を欺き,(不義が増すにつれて)おびただしい人の愛が冷める,と予見しています( "Likewise, secondly, Mt.XXIV, 11-14, where it is foreseen that many false prophets will deceive many souls, and charity will grow cold." ).そして3番目の引用は,ルカによる聖福音書:第22章31-32節で,この中で私たちの主イエズス・キリストはペトロに対し(ぺとろに たいし)自ら改心した後で(みずから かいしん したあとで)兄弟(きょうだい)たちの信仰を堅める(しんこうを かためる)(=堅振〈堅信〉〈けんしん〉する)よう指示(しじ)しています.主(しゅ)はペトロ自身の信仰心(ぺとろ じしんの しんこうしん)が先ず崩れる(まず くずれる)のではないかと強く示唆(つよく しさ)しているわけです( "And thirdly, Lk.XXII, 31-32, where Our Lord instructs Peter to confirm his brethren in the faith after he has converted, strongly suggesting that his faith will first have failed." ).したがって,教会の不朽性(きょうかいの ふきゅうせい)が崩れ(くずれ)なくても,使徒(しと)たちすべてがゲッセマニの園で逃れ去った(げっせまにの そので のがれ さった)ときのように,ペトロをはじめ支配層(しはいそう)のほとんどすべての者(もの)たちの信仰が崩れ得る(しんこうが くずれ うる)のです(マテオ聖福音書:第26章56節)( "So almost the whole hierarchy can fail, including Peter, without the Church ceasing to be indefectible, like when the Apostles all ran away in the Garden of Gethsemane (Mt.XXVI, 56)." ).

     結論(けつろん)として,C. C.が描く明日,明後日の教会(えがく みょうにち,みょうごにちの きょうかい)はカルメル神父(かるめる しんぷ)のそれと次(つぎ)のように著しく似て(いちじるしく にて)います: ( "In conclusion, CC's vision for the Church of tomorrow or the day after strongly resembles that of Fr Calmel: …" )すなわち,私たちはそれぞれの生活状態に応じ(せいかつ じょうたいに おうじ)て各々の義務を果たし(おのおの の ぎむを はたし)( "… let each of us do his duty according to his state of life, …" ),信仰を守る(しんこうを まもる)ための諸々の小さな砦(もろもろの ちいさな とりで)のネットワーク構築に参加(ねっとわーく こうちくに さんか)しましょう( "… let each of us do his duty according to his state of life, and take part in building a network of little forts of the Faith, …" )and take part in building a network of little forts of the Faith, …" ).その砦には諸々の秘跡(ひせき)を確(たし)かなものにしてくれる司祭が一人(しさいが ひとり)いれば( "… each with a priest to ensure the sacraments, …" ),これからは役に立たない(やくに たたない)ような教会の神学理論(きょうかいの しんがく りろん)( "… but with no henceforth inapplicable theology of the Church, …" ),簡単に得られ(かんたんに えられ)ない権威(けんい)ある承認(しょうにん)( "… nor unobtainable canonical approval, …" ),信仰が流れ入って(ながれ はいって)くるかもしれない時代遅れの隔壁(じだいおくれの しょうへき)などなくてもよろしいでしょう( "… nor with any out-dated dividing-walls over the top of which the Faith will have flowed. " ).その砦は真実(しんじつ)により互いに結び(たがいに むすび)つき,慈善(じぜん)(=慈悲・兄弟愛・隣人愛〈=じひ・きょうだい あい・りんじん あい〉) "charity" という相互接触を持つ(そうご せっしょくを もつ)でしょう( "The forts will be united by the Truth and will have mutual contacts of charity." ).それ以上(いじょう)は神の手中(かみの しゅちゅう)にあります ( "The rest is in God's hands.").

     キリエ・エレイソン.

     変化する時代にあっては,
     落ちこぼれにならないよう,  
     (へんかするじだいにあっては  
     おちこぼれにならないよう…)
     ( "In changing times unchanging truths must find
     …" )

     …不変の真実を
     新しい形で活用するように
     しなければなりません.
     (…ふへんのしんじつを
     あたらしいかたちで
     かつようするように
     しなければなりません)
     ( "… New applications, not to be left behind." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注を追補いたします.
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(注:本投稿記事〈第375回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月29日22:30に公開されました.)

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2014年9月13日土曜日

374 教皇も間違う 9/13

エレイソン・コメンツ 第374回 (2014年9月13日)

     リベラル派(カトリック)信徒(りべらるは〈かとりっく〉しんと)たちも教皇空位論を採る信徒(きょうこう くうい ろん〈をとる〉しんと)たちも自分(じぶん)たちがコインの裏表(こいんの ひょうり)のようなものだと言(い)われるのは有難迷惑(ありがた めいわく)でしょうが,事実(じじつ)はその通(とお)りです( "Neither liberals nor sedevacantists appreciate being told that they are like heads and tails of the same coin, but it is true." ).たとえば,どちらの側(がわ)も第3の代替案(だいさんの だいたいあん)を持ち合(もちあ)わせていません( "For instance, neither of them can conceive of a third alternative. " ).そのことは,たとえば2012(にせん じゅうに)年4月14日付け(しがつ じゅうよっか づけ)のフェレイ司教(ふぇれい しきょう)による 3人の司教宛ての書簡 (さんにんの しきょう あての しょかん)を読めば分かり(よめば わかり)ます.同司教(どう しきょう)は教皇空位論以外(きょうこう くういろん いがい)に自ら(みずから)のリベラリズム(りべらりずむ)に対(たい)する代替案(だいたいあん)をなにも示(しめ)していません( "See for instance in his Letter to Three Bishops of April 14, 2012, how Bishop Fellay could see no alternative to his liberalism except sedevacantism." ).逆に言えば(ぎゃくに いえば),多数(たすう)の教皇空位論者の見方(みかた)に従(したが)えば,公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)のなかに本物の教皇が存在したと認める者(ほんものの きょうこうが そんざい したと みとめる もの)がいるなら( "Conversely, for many a sedevacantist if one accepts that any of the Conciliar Popes has really been Pope, …" ),その人(ひと)はリベラル派に過(す)ぎないということになるのでしょうし( "… then one can only be a liberal, …" ),また教皇空位論者を批判する者(ひはん する もの)がいるなら( "… and if one criticises sedevacantism, …" ),その人はリベラリズムを推進(すいしん)しているということになるのでしょう( "… then one is promoting liberalism." ).しかし,本当(ほんとう)はけっしてそうではありません!( "But not at all ! " )

     なぜそうでないのでしょうか?( "Why not ? " ) どちらの側(がわ)も教皇の無謬性(きょうこうの むびゅう せい)を誇張(こちょう)するという同じ間違い(おなじまちがい)をしているからです( "Because both of them are making the same error of exaggerating the Pope's infallibility. " ).どうしてそのような間違い(まちがい)をするのでしょうか?( "Why ? " )両方(りょうほう)とも組織より個人の方(そしき より こじんの ほう)をより強く信じる現代人(つよく しんじる げんだい じん)だからではないでしょうか?( "Might it be because both of them are modern men who believe more in persons than in institutions ? " ) では,そうするのがなぜ現代人の特徴(げんだい じんの とくちょう)なのでしょうか?( "And why should that be a feature of modern men ? " ) それは,程度の差(ていどの さ)こそあれプロテスタント主義の台頭以降(ぷろてすたんと しゅぎの たいとう いこう)( "Because from more or less Protestantism onwards, …" ),公共の善(こうきょうの ぜん)を追及する組織(ついきゅう する そしき)が減り続ける(へり つづける)のに反し(はんし)( "… fewer and fewer institutions have truly sought the common good, …" ),(私があなた方に求めたように〈わたくしが あなたがたに もとめた ように〉)金銭(きんせん)のような何らか(なんらか)の個人的利益(こじんてき りえき)を追求する組織(ついきゅう する そしき)が増え続け(ふえ つづけ)ているためでしょう( "… while more and more seek some private interest such as money (my claim on you), …" ).こうした傾向(けいこう)は当然(とうぜん)のことながら,私たちの組織(わたくし たちの そしき)に対(たい)する尊敬の念(そんけいの ねん)を減らす(へらす)ことになります( "… which of course diminishes our respect for them." ).例を挙げ(れいを あげ)るなら,善意の人々(ぜんいの ひとびと)は現代の銀行(げんだいの ぎんこう)のような腐敗した組織(ふはい した そしき)が直(ただ)ちにその悪い効果を及ぼす(わるい こうかを およぼす)ことがないようしてきましたが( "For instance, good men saved for a while the rotten institution of modern banking from having immediately all its evil effects, …" ),腐敗した銀行屋(ふはい した ぎんこう や)たちは初め(はじめ)から個々(ここ)の準備銀行や中央銀行(じゅんび ぎんこうや ちゅうおう ぎんこう)といった組織(そしき)が実態(じったい)ではどんなものなのかをさらけ出(だ)しています( "… but the rotten banksters are at last showing what the institutions of fractional reserve banking and central banks were, in themselves, from the beginning." ).神や人間(かみや にんげん)の諸々の敵(もろもろの てき)がいるおかげで,悪魔(あくま)が現代の諸機構の中に存在(げんだいの しょきこうの なかに そんざい)しています( "The Devil is in modern structures, thanks to the enemies of God and man." ).

     したがって,現代のカトリック教徒(げんだいの かとりっく きょうと)たちが教皇を強く信じ(きょうこうを つよく しんじ),教会をほとんど信じなくなる傾向(きょうかいを ほとんど しんじなく なる けいこう)にあるのは理解(りかい)できます( "So it is understandable if modern Catholics have tended to put too much faith in the Pope and too little in the Church, …" ).読者の一人(どくしゃの ひとり)から私(わたくし)がなぜ古典的なカトリック教(こてん てきな かとりっく きょう)の神学理論マニュアルと同じやり方(しんがく りろん まにゅあると おなじ やりかた)で無謬性(むびゅう せい)について書(か)かないのかと質問を受け(しつもんを うけ)ました.上に述べた傾向が私の答え(うえに のべた けいこうが わたくしの こたえ)です( "… and here is the answer to that reader who asked me why I do not write about infallibility in the same way that the classic Catholic theology manuals do." ).カトリック教の神学理論マニュアルはそれ自体(じたい)としては素晴(すば)らしいものです( "Those manuals are marvellous in their way, …" ).だが,その中身(なかみ)はすべて第二バチカン公会議以前(だいに ばちかん こうかいぎ いぜん)に書(か)かれたもので( "… but they were all written before Vatican II, …" ),教会に属する無謬性を教皇に付与(きょうかいに ぞくする むびゅうせいを きょうこうに ふよ)しがちでした( "… and they tended to attach to the Pope an infallibility which belongs to the Church." ).たとえば,マニュアルでは無謬性の頂点は教皇(ちょうてんは きょうこう),もしくは公会議支持を得た教皇(こうかいぎ しじを えた きょうこう)の発する厳粛な定義(はっする げんしゅくな ていぎ)( "a solemn definition" )として表(あら)わされることが多(おお)いのですが,これは実際(じっさい)にはいかなる場合(ばあい)も教皇の発する定義(きょうこうの はっする ていぎ)と言(い)うことです( "For instance, the summit of infallibility is liable to be presented in the manuals as a solemn definition by the Pope, or by Pope with Council, but in any case by the Pope." ).リベラル派,教皇空位論者(りべらる は,きょうこう くうい ろん じゃ)が共に直面するジレンマ(ともに ちょくめん する じれんま)はここから出てくる結論の部分(でてくる けつろんの ぶぶん)です( "The liberal-sedevacantist dilemma has been the consequence and, …" ).それは,言うなれば,個人を過大評価し組織を過小評価(こじんを かだい ひょうかし そしきを かしょう ひょうか)する傾向に対する罰(けいこうに たいする ばつ)のようなものです( "… as it were, a punishment of this tendency to overrate the person and underrate the institution, …" ).なぜなら,教会は決して(きょうかいは けっして)単なる人間的組織(たんなる にんげんてき そしき)ではないからです( "… because the Church is no merely human institution." ).

     第一(だいいち)に,普通教導権という山頂(ふつう きょうどう けんと いう さんちょう)に雪に覆われて立つ)(ゆきに おおわれて たつ)教皇の厳粛な教導権(きょうこうの げんしゅくな きょうどう けん)はごく限られた範囲内(かぎられた はんいない)で山の頂上(やまの ちょうじょう)です( "For, firstly, the Solemn Magisterium's snow-cap on the Ordinary Magisterium's mountain is its summit only in a very limited way …" ) - それは雪の下にある岩の頂上(ゆきの したに ある いわの ちょうじょう)に全面的に依存(ぜんめんてきに いぞん)しているにすぎません( "… – it is wholly dependent on the rock summit beneath the snow." ).そして,第二(だいに)に,無謬性に関する(むびゅうせいに かんする)教会の最も権威ある原本(きょうかいの もっとも けんい ある げんぽん),すなわち真のカトリック教公会議(まことの かとりっく きょう こうかいぎ)である第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)(1870年)で発せられた定義(はっせられた ていぎ)により( "And secondly, by the Church's most authoritative text on infallibility, the Definition of the truly Catholic Council of Vatican I (1870), …" ),私たちは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)は教会から来る(きょうかいから くる)ものであり,その逆(ぎゃく)でないことを知(し)っています( "… we know that the Pope's infallibility comes from the Church, and not the other way round." ).この定義は,教皇がその 権威に基づく 教え(けんいに もとづく おしえ)を行うのに必要な4条件(おこなう のに ひつような よん じょうけん)に従っている場合(したがっている ばあい),教皇は「…真の神より遣わされた救世主イエズス・キリスト(まことの かみ より つかわされた いえずす・きりすと)( "the divine Redeemer" )が,(御自身の教会のため〈ごじしんのきょうかいのため〉)際立って優れた教理を定める(きわだって すぐれた きょうりを さだめる)にあたり,教会がその真の教理由来の恩寵に与れる(きょうかいが その まことの きょうり ゆらいの おんちょうに あずかれる)ようキリスト御自らが教会にお与えになった無謬性を(きりすと おんみずからが きょうかいに おあたえに なった むびゅうせいを)…」保持(ほじ)する…と述(の)べています( "When the Pope engages all four conditions necessary for ex cathedra teaching, then, says the Definition, he possesses. .. “...that infallibility which the divine Redeemer willed his Church to enjoy in defining doctrine...” " ).だが,言(い)うまでもないことですが!( "But of course ! " ) 神以外(かみ いがい)のどこから無謬性が生じ(むびゅうせいが しょうじ)うるでしょうか?( "Where else can infallibility come from, ecept from God ? " ) 教皇は人間の中で最良(きょうこうは にんげんの なかで さいりょう)であり,歴代教皇の中(れきだい きょうこうの なか)には極めて善良な人(きわめて ぜんりょうな ひと)たちがいました( "The best of human beings, and some Popes have been very good human beings, …" ).彼らは間違い(まちがい)をしないと言えるかもしれません( "… may be inerrant, i.e. make no mistakes, …" ).しかし,彼らが原罪を持つ限り(げんざいを もつかぎり),神と同じ(かみと おなじ)ように間違い(まちがい)をしないなどということはありえません( "… but as long as they have original sin they cannot be infallible as God alone can be." ).もし,彼らが間違いをしないとすれば,その無謬性(むびゅうせい)は彼らの人間性から生じる(にんげんせい から しょうじる)ものでなく( "If they are infallible, the infallibility must come through, …" ),それ以外(いがい),すなわちカトリック教会を通して無謬性をお与えになる神から生じる(かとりっく きょうかいを とおして むびゅうせいを おあたえに なる かみ から しょうじる)ものであるはずです( "… but from outside, their humanity, from God, who chooses to bestow it through the Catholic Church, …" ).そして,その無謬性は,上に述べた定義の有効期間中(その むびゅうせいは,うえに のべた ていぎの ゆうこう きかん ちゅう)だけのごく一時的な贈り物である必要(いちじ てきな おくりもので ある ひつよう)があります( "… and that infallibility need only be a momentary gift, for the duration of the Definition." ).

     したがって,一教皇(いちきょうこう)が 権威(=命令権)を持っている 瞬間 ( けんい〈=めいれいけん〉をもっている しゅんかん)( "ex cathedra moments" )を除(のぞ)けば,彼(かれ)が第二バチカン公会議の新宗教(だいに ばちかん こうかいぎの しん しゅうきょう)のようなばかげたことを話(はな)すのを止め(やめ・とめ)させるものは何(なに)もありません( "Therefore outside of a Pope's ex cathedra moments, nothing stops him from talking nonsense such as the new religion of Vatican II." ).それ故(ゆえ),リベラル派も教皇空位論者も(りべらるは も きょうこう くうい ろんじゃ も)そのようなばかげたことを気(き)にかける必要(ひつよう)もありませんし,そうすべきでもありません.( "Therefore neither liberals nor sedevacantists need or should heed that nonsense, …" ),なぜなら,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)が言(い)われたように( "… because, as Archbishop Lefebvre said, …" ),彼らには2千年(にせん ねん)もの間(あいだ)続いた(つづいた)教会の無謬な教え(きょうかいの むびゅうな おしえ)があり,それに基(もと)づいて教皇の話す内容(きょうこうの はなす ないよう)がばかげたことかどうかを判断(はんだん)できるからです( "… they have 2000 years' worth of Ordinarily infallible Church teaching by which to judge that it is nonsense." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


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(注:本投稿記事〈第374回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月28日23:30に公開されました.)

2014年9月6日土曜日

373 ドノソ・コルテス - I 9/6

エレイソン・コメンツ 第373回 (2014年9月6日)

     最も重要なカトリック教諸教義( "Catholic dogmas" )のひとつは原罪( "original sin" )にかかわる教義です(もっとも じゅうような かとりっく きょう しょ きょうぎの ひとつは げんざいに かかわる きょうぎ です)( "One of the most important Catholic dogmas is that of original sin, …" ).あらゆる人間(にんげん)は(私たちの主イエズス・キリストと聖母を除き)(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと と せいぼ を のぞき)生まれた時(うまれた とき)から全人類の父(ぜん じんるいの ちち)であるアダム(あだむ)"Adam" との神秘的な結びつきを通し(しんぴ てきな むすびつきを とおし)て性格(せいかく)がひどく傷(きず)ついています( "… whereby all human beings (except Our Lord and his Mother) have a nature seriously scarred from birth through our mysterious solidarity with Adam, father of all mankind, …" ).それはアダムがエデンの園(えでんの その)でエバ "Eve" との間(あいだ)であらゆる人間的罪(にんげん てき つみ)のなかで最初の罪に陥って(さいしょの つみに おちいって)しまったときに起(お)きたことです( "… when with Eve he fell into the first of all human sins in the garden of Eden." ).むろん,今日の私たち(こんにちの わたくし たち)のほとんどにとって,アダムが罪に陥ったことはおとぎ話(ばなし)か神話(しんわ)にしかすぎません( "Of course for most people today that Fall is just a fairy-tale, or mythology, …" ).だから,私たちは自分(じぶん)たちの周り(まわり)に一種のディズニーワールドを築いて(いっしゅの でぃずにー わーるどを きずいて)きました( "… and that is why they have built a Disneyworld all around us. " ).カトリック教徒(きょうと)たちは原則(げんそく)として原罪を信じ(げんざいを しんじ)ていますが( "In principle Catholics believe in original sin, …" ),ディズニーワールド(でぃずにー わーるど)があまりにも魅惑的(みわく てき)なため,実際(じっさい)には彼らの多く(かれらの おおく)は原罪(げんざい)をさほど真面目に受け止め(まじめに うけとめ)ていません( "… but so seductive is Disneyworld that many hardly take it seriously in practice. " ).結局(けっきょく)のところ,私たちはすべて罪びと(つみ びと)( "thinners" )だと信(しん)じるのは決して心地よい(けっして ここち よい)ことではありません( "ith not at all nithe" ).私たちはすべて恋(こい) "luv" ,恋,恋!の中を泳(およ)ぎまわっているわけですから( "After all, ith not at all nithe to believe we are all thinners. We are all thwimming in luv, luv, luv ! " ).

     だが,原罪の作用(げんざいの さよう)についてきわめて明確に考察(めいかくに こうさつ)したのはスペイン人の貴族,作家,外交官ドノソ・コルテス(すぺいん じんの きぞく,さっか,がいこうかん どのそ・こるてす)( "Donoso Cortés" )(1808-1853年)(せん はっぴゃく はち ― せん はっぴゃく ごじゅうさん ねん)でした( "But a man who saw very clearly original sin in action was the Spanish nobleman, writer and diplomat, Donoso Cortés (1808-1853)." ).彼の生涯(かれのしょうがい)はフランス革命(ふらんす かくめい)(1789年)(せん ななひゃく はちじゅうく ねん)ののち,ヨーロッパ(よーろっぱ)がゆっくりながらも着実(ちゃくじつ)に古いキリスト教秩序(ふるい きりすと きょう ちつじょ)( "ancien regime" )をユダヤ・メーソン的新世界秩序(ゆだや・めーそん てき しん せかい ちつじょ)に置き換え(おきかえ)つつあった19世紀前半(じゅうきゅう せいき ぜんはん)にまたがっています( "His life spanned that first half of the 19th century when in the wake of the French Revolution (1789), Europe was slowly but steadily replacing the old Christian order (“ancien régime”) with the Judeo-masonic New World Order." ).外見上(がいけん じょう),古い秩序(ふるい ちつじょ)はウイーン会議(うぃーん かいぎ)(1815年)(せん はっぴゃく じゅうご ねん)によって回復(かいふく)されましたが,それは内面的(ないめん てき)には以前(いぜん)のものとけっして同(おな)じものではありませんでした( "Outwardly the old order was put back in place by the Congress of Vienna (1815), but inwardly it was not at all the same as before, …" ).その理由(りゆう)は,人々の心(ひとびとの こころ)が以前(いぜん)とはまったく違う基盤(ちがう きばん),とりわけ教会と国家を分離(きょうかいと こっかを ぶんり)するというリベラルな基盤に基づく(りべらるな きばんに もとづく)ようになったからです( "… because men's minds were now resting on quite different foundations, liberal foundations, notably the separation of Church and State." ).ドノソは若(わか)くしてスペイン政界(すぺいん せいかい)に入ったときリベラル主義者を自称(りべらる しゅぎ しゃを じしょう)しました( "When Donoso entered Spanish politics at a young age, he proclaimed himself to be a liberal, …" ).だが,フランス革命の理想が実際面に作用(ふらんす かくめいの りそうが じっさい めんに さよう)するのを見て(みて)いるうち彼は次第に保守的に(しだいに ほしゅ てきに)なり,1847年(せんはっぴゃく よんじゅうなな ねん)にはスペインの古代カトリック教に改宗(こだい かとりっく きょうに かいしゅう)しました( "… but as he observed the Revolutionary ideas working out in practice, he became more and more conservative until in 1847 he converted to Spain's ancient Catholic religion." ).彼がその時(とき)から若(わか)くして亡(な)くなるまでのあいだに書(か)いたり話(はな)したりした言葉(ことば)は,新世界秩序を構成(しんせかい ちつじょを こうせい)する過度にモダンな諸々の間違い(かどに もだんな もろもろの まちがい)についてのカトリック教的(かとりっくきょう てき)な預言的分析(よげんてき ぶんせき)をヨーロッパ全体に広め(よーろっぱ ぜんたいに ひろめ)ました( "From then on until his early death his written and spoken words carried all over Europe his prophetic Catholic analysis of the radical modern errors forging the New World Order." ).

     彼はそうした諸々の間違いの裏(もろもろの まちがいの うら)に次の二つの要素(つぎの ふたつの ようそ)があることを見抜(みぬ)きました:( "At the back of all these errors he discerned two: …" ).すなわち,ひとつは神が自らの創造物(みずからの そうぞうぶつ)(=被造物〈ひぞうぶつ〉)に向(む)ける超自然的な配慮(ちょう しぜん てきな はいりょ)( "supernatural care" )の否定(ひてい)( "…the denial of God's supernatural care for his creatures, …" ),もうひとつは原罪(げんざい)( "original sin" )の否定(ひてい)です( "… and the denial of original sin." ).以下に紹介(いかに しょうかい)するのはドノソが フォルナリ枢機卿(1852年)に宛てた書簡(ふぉるなり すうききょうに あてた しょかん)( "Letter to Cardinal Fornari" )の中(なか)からの2節(にせつ)です( "From Donoso's Letter to Cardinal Fornari (1852) come the following two paragraphs …" ).彼はここで原罪をデモクラシーの興隆と教会の減退に関連づけ(でもくらしーの こうりゅうと きょうかいの げんたいに かんれん づけ)ています( "… which connect to original sin the rise of democracy and the diminution of the Church" )(ここに引用〈いんょう〉するのは書簡のフランス語訳〈しょかんの ふらんすご やく〉からの翻訳〈ほんやく〉です):-- ( "…(the translation here is from a French translation) :-- …" )

(以下,書簡の2節紹介)

     「人間の理性の光(にんげんの りせいの ひかり)が決して暗く(けっして くらく)ならなければ,信仰の必要性を感じ(しんこうの ひつよう せいを かんじ)なくても,真実を見出す(しんじつを みいだす)にはその光だけで十分(ひかりだけで じゅうぶん)でしょう( " “If the light of men's reason is in no way darkened, its light is enough, without need of the Faith, to discover the truth." ).もし信仰が必要(しんこうが ひつよう)でないなら,人間の理性は主権を持ち自立(しゅけんを もち じりつ)したものとなるでしょう( "If the Faith is not needed, then man's reason is sovereign and independent." ).そうだとすると,人間が真実へ向かって前進(にんげんが しんじつに むかって ぜんしん)するかどうかは理性が前進(りせいが ぜんしん)するかどうかで決(き)まることになるでしょう( "The progress of truth then depends on the progress of reason, …" ).そして,それは理性が行使(こうし)されるかどうかによって決まることになるでしょう( "… which depends upon the exercise of reason; …" ).理性の行使(りせいの こうし)は議論(ぎろん)でなされるべきものです( "… such an exercise is to be found in discussion; …" ).したがって,議論は現代社会の真の基本法を形成(ぎろんは げんだい しゃかいの まことの きほん ほうを けいせい)することになります( "… hence discussion constitutes the true basic law of modern societies, …" ).それは比類(ひるい)のない “るつぼ” となり,その中(なか)でものが溶ける過程(とける かてい)で( "… the matchless crucible in which by a process of melting, …" ),諸々の間違いの中から諸々の真実が引き出される(もろもろの まちがいの なか から もろもろの しんじつが ひき だされる)ことになります( "… truths are extracted from errors." ).この議論の原則(ぎろんの げんそく)( "principle of discussion" ) から報道の自由(ほうどうの じゆう)( "freedom of the press" ),言論の自由の不可侵性(げんろんの じゆうの ふかしん せい)( "the inviolability of freedom of speech" ),討議する議会の主権性(とうぎ する ぎかいの しゅけん せい)( "the real sovereignty of deliberative assemblies" ) が生(う)まれます.」( "From this principle of discussion flow freedom of the press, the inviolability of freedom of speech and the real sovereignty of deliberative assemblies.” " )

     ドノソは人間の意志が原罪に犯され(にんげんの いしが げんざいに おかされ)ていないと仮定した場合(かてい した ばあい)起こりうる結果(おこり うる けっか)について,上に述べ(うえに のべ)たことと並行‘(へいこう)して彼自身の診断(かれ じしんの しんだん)を次(つぎ)のように続(つづ)けます:( "Donoso continues with a parallel diagnosis of the consequences of man's will being supposed to be free from original sin: …" ).「人間の意志が病んで(やんで)いなければ,彼は善を求める(かれは ぜんを もとめる)のに神の恩寵を通した超自然的な手助け(かみの おんちょうを とおした ちょう しぜん てきな てだすけ)など必要(ひつよう)としなくなるでしょう.善が持つ魅力(ぜんが もつ みりょく)だけで十分(じゅうぶん)です: ( " “If man's will is not sick, then he needs none of the supernatural help of grace to pursue good, its attraction being enough: …" ).人間(にんげん)が恩寵を必要(おんちょうを ひつよう)としなければ,彼はそれを与(あた)えてくれる祈(いの)りや秘跡(ひせき)なしにやっていけるでしょう.」( "if he needs no grace, then he can do without prayer and the sacraments which provide it.” " )もし,祈りが必要(いのりが ひつよう)でなくなれば,それは無用(むよう)のものとなり,瞑想(めいそう) "contemplation" や瞑想にかかわる諸々の宗教的修道会(もろもろの しゅうきょう てき しゅうどう かい)( "the contemplative religious Orders" )も当然(とうぜん)なくなるわけですから,それも同(おな)じように無用(むよう)となるでしょう( "If prayer is not needed, it is useless, and so are contemplation and the contemplative religious Orders, which duly disappear. " ).もし,人間が諸々の秘跡(もろもろの ひせき) "sacraments" を必要(ひつよう)としなくなれば( "If man needs no sacraments, …" ),彼は諸秘跡を司る(しょひせきを つかさどる)(司式する〈ししき する〉司祭(しさい)たち( "priests to administer them" )も必要としなくなり( "… then he has no need of priests to administer them, …" ),彼ら司祭たちは当然活動(かつどう)できなくなるでしょう( "… and they are duly banned. " ).そして,司祭職の軽視(しさいしょくの けいし)がいたるところで教会の軽視(きょうかいの けいし)へつながり,結局(けっきょく)はあらゆる場所(ばしょ)で神を軽視(かみを けいし)することになるでしょう( "And scorn of the priesthood results everywhere in scorn of the Church, which amounts in all places to the scorn of God." ).

     ドノソ・コルテスはそのような誤った諸原則(あやまったしょげんそく)から近い将来(ちかいしょうらい),前例のない災難が起きる(ぜんれいのないさいいなんがおきる)だろうと予見(=予知)(よけん〈=よち〉)しました( "From such false principles Donoso Cortés foresaw an unparallelled disaster in the very near future. " ).実際(じっさい)には,そのような災害が起き(さいがいが おき)るのは彼が予見した時期(よけんしたじき)より150年以上遅れ(ひゃく ごじゅう ねん いじょう おくれ)ています( "Actually it has been delayed for over 150 years, …" ).だが,それがこの先(さき)どれほど遅(おく)れるでしょうか?( "… but how much longer ? " )

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教




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(注:本投稿記事〈第373回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月27日23:50に公開されました.)