2014年6月28日土曜日

363 ピィ枢機卿 I 6/28

エレイソン・コメンツ 第363回 (2014年6月28日)

    ピィ枢機卿(ぴぃ すうききょう)( "Cardinal Pie" )(1815-1880年)は19世紀フランスの偉大な聖職者(じゅうきゅうせいき ふらんすの いだいな せいしょくしゃ)で( "Cardinal Pie (1815-1880) was a great churchman of 19th century France, …" ),フランス革命(1789年)以来,世界を悩ませ続けてきた(ふらんす かくめい いらい せかいを なやませ つづけてきた)リベラリズム(=自由主義)から信仰を守ろう(りべらりずむ〈じゆうしゅぎ〉から しんこうを まもろう)とした偉大な擁護者(いだいな ようごしゃ)のひとりです( "… one of the great defenders of the Faith against that liberalism which was eating up the world from the French Revolution (1789) onwards." ).ピオ10世(ぴお じゅっせい)は枢機卿の著作をベッドサイドに置き(ちょさくを べっど さいどに おき),それを繰り返し読んで(くりかえし よんで)いました( "Pope Pius X kept his works by his bedside and read them constantly." ).ピオ10世は絶望的なカトリック教会(=公教会)(ぜつぼうてきな かとりっく〈こう〉きょうかい)に1907年から1958年まで50年間(ごじゅう ねんかん)の一時的救済期間(いちじてき きゅうさい きかん)をもたらしましたが,それを可能(かのう)にするのに,近代世界を動かしてきた主要な考え方(きんだい せかいを うごかして きた しゅような かんがえかた)についての枢機卿の深い理解(ふかい りかい)が重要な役割を果たした(じゅうような やくわりを はたした)ことは疑い(うたがい)のないところです( "No doubt the Cardinal's profound grasp of the key ideas driving the modern world played a major part in enabling Pius X to obtain a 50-year reprieve, say from 1907 to 1958, for the doomed Catholic Church." ).

    絶望的(ぜつぼうてき)とは? 公教会(=カトリック教会)(こうきょうかい〈かとりっくきょうかい〉)が絶望的だなどありえないことです!( "Doomed ? But the Catholic Church cannot be doomed ! " ) 確(たし)かに,教会は神の御保護(かみの ごほご)によってこの世の終わり(このよの おわり)まで続(つづ)くでしょう(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章20節)( "True, by God's protection it will last to the end of the world (Mt. XXVIII, 20), …" ).だが,同時に私たちは神の御言葉から(どうじに わたくしたちは かみの おことば から),末世までに信仰がこの世に(まっせ までに しんこうが このよに)ほとんどなくなっているであろうこと(新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節)( "… but at the same time by God's Word we know that by then the Faith will scarcely be found on earth (Lk. XVIII, 8), …" ),信仰が聖人を打ち負かす悪魔軍団に屈服(しんこうが せいじんを うちまかす あくま ぐんだんに くっぷく)してしまっているであろうこと(Apoc. XIII, 7)を知って(しって)います( "… and that it will have been given to the forces of evil to defeat the Saints (Apoc. XIII, 7)." ).この二つの重要な引用(ふたつの じゅうような いんよう)は2014年の今日(にせん じゅうよねんの こんにち),胸に深く刻んで(むねに ふかく きざんで)おかなければなりません( "These are two important quotes to bear in mind in 2014, …" ).なぜなら,キリスト信奉者(きりすと しんぽう しゃ)は聖ピオ十世会( "SSPX" )の堕落(せいぴお じゅっせいかいの だらく)のような見かけの敗北(みかけの はいぼく)に次々に襲われる(つぎつぎに おそわれる)ことへの心の準備(こころの じゅんび)をしておかなければならないことを,私たちの身の回りのあらゆる事(わたくしたちの みのまわりの あらゆること)が私たちに告(つ)げているからです( "… because everything around us today tells us that the followers of Christ must be prepared for one seeming defeat after another, e.g. the fall of the Society of St Pius X." ).ピィ枢機卿はこのことについて次(つぎ)のように述(の)べています.今(いま)からおよそ150年も前(ひゃく ごじゅうねんも まえ)にです!-- ( "Here is what Cardinal Pie had to say on the matter, some 150 years ago ! --" )(訳注後記1)

    「私たちは戦(たたか)いましょう.見込みのない希望を抱き(みこみの ない きぼうをいだき)ながら戦いましょう( " “Let us fight, hoping against hope itself, …" )(訳注後記2).私がこのことを伝えたい相手(つたえたい あいて)は,弱気のキリスト教徒(よわきの きりすと きょうと)たち,人気の奴隷(にんきの どれい)( "slaves to popularity" )となっている人(ひと)たち,成功信奉者(せいこう しんぽう しゃ)たち( "worshippers of successes" ),悪魔(あくま)が少(すこ)しでもはびこると動揺(どうよう)してしまう人たちです( "… which is what I wish to tell faint-hearted Christians, slaves to popularity, worshippers of success and shaken by the least advance of evil." ).こういう人たちがどのように感(かん)じようと,神の思し召し(かみの おぼしめし)さえあれば,彼らはこの世の最後の審判の苦しみ(このよの さいごの しんぱんの くるしみ)を免(まぬが)れるでしょう( "Given how they feel, please God they will be spared the agonies of the world's final trial." ).その審判は間(ま)もないことなのでしょうか,それともまだ先(さき)のことなのでしょうか?( "Is that trial close or is it still far off ? " ) それは誰(だれ)にも分(わ)かりません.私はその時期(じき)についてあえて推測(すいそく)しないことにします( "Nobody knows, and I will not dare to make a guess." ).だが,ひとつだけ確(たし)かなことがあります( "But one thing is certain, …" ).それは,この世の終わり(よの おわり)が近(ちか)づけば近づくほど,この世は益々(ますます)ひどい状態(じょうたい)になり,嘘(うそ)つきが優位に立つ(ゆうい にたつ)ということです( "… namely that the closer we come to the end of the world, the more and more it is wicked and deceitful men who will gain the upper hand." ).信仰(しんこう)はこの世(よ)にほとんど見(み)られなくなるでしょう( "The Faith will hardly be found on earth, …" ).つまり,信仰はこの世の諸々の団体(もろもろの だんたい),組織(そしき)からほぼ姿を消して(すがたを けして)しまうということです( "… meaning that it will almost have disappeared from earthly institutions." ).信者(しんじゃ)は人前や社会の中(ひとまえや しゃかいの なか)で自らの信仰(みずからの しんこう)をあえて告白(こくはく)することはほとんどなくなるでしょう.」( "Believers themselves will hardly dare to profess their belief in public, or in society." )

    「聖パウロ(せい ぱうろ)にとって,この世の終わりを告げる兆候(このよの おわりをつげる ちょうこう)だった国家と神の分裂,分離,絶縁は日増しに進行(こっかと かみの ぶんれつ,ぶんり,ぜつえんは ひましに しんこう)するでしょう( "The splitting, separating and divorcing of States from God which was for St Paul a sign foretelling the end, will advance day by day." ).常に目に見える社会(つねに めに みえる しゃかい)であり続(つづ)けてきた教会(きょうかい)は,その次元(じげん)が個々人や家庭に矮小化(ここじんや かていに わいしょうか)されて行くでしょう( "The Church, while remaining always a visible society, will be reduced more and more to dimensions of the individual and the home." ).教会の開設当初(かいせつ とうしょ),教会は外へ出(そとへ で)しゃばらないと言(い)っていました( "When she started out she said she was being shut in, …" ).それから教会は息をする隙間(いきを する すきま)がもっと欲(ほ)しいと求(もと)めるようになりました( "… and she called for more room to breathe, …" ).だが,教会はこの世の終わり(よの おわり)が近(ちか)づくにつれ,周囲を取り囲まれ(しゅういを とりかこまれ)てしまい,一寸刻みの延命工作(いっすん きざみの えんめい こうさく)をしなければならなくなるでしょう( "… but as she approaches her end on earth, so she will have to fight a rearguard action every inch of the way, being surrounded and hemmed in on all sides." ).過去に規模を広げた教会(かこに きぼを ひろげた きょうかい)ほど,身の程を思い知らされる強い作用(みのほどを おもいしらされる つよい さよう)に晒(さら)されることになるでしょう( "The more widely she spread out in previous ages, the greater the effort will now be made to cut her down to size." ).しまいに教会は紛れもないような敗北を喫し(まぎれも ない ような はいぼくを きっし)( "Finally the Church will undergo what looks like a veritable defeat, …" ),野獣が聖人たちに戦いを挑み打ち負かすことになるでしょう( "… and the Beast will be given to make war on the Saints and to overwhelm them." ).悪魔の横暴は頂点に達するでしょう.」( "The insolence of evil will be at its peak.” " )

    こうした言葉は預言的(ことばは よげんてき)で,日が経つ(ひが たつ)につれ真実味を帯び(しんじつみを おび)ますが,いささかたりとも認めたくない内容(みとめたくない ないよう)です( "These are prophetic words, coming truer by the day, not at all pleasant to admit, …" ).だが,それは聖書に明記(せいしょに めいき)された言葉(ことば)です( "… but anchored in Scripture." ).ある賢明な英国国教会司教(バトラー)(けんめいな えいこく こっきょうかい しきょう〈ばとらー〉)は18世紀(せいき)に( "A wise Anglican Bishop (Butler) said in the 18th century, …" )「物事(ものごと)はあるがまま,その結末(けつまつ)はなるがままにしかならない.それなのに,なぜ私たちは(そんなことはないと)自らを欺こう(みずからを あざむこう)とするのか?」と,述(の)べています( "Things are what they are. Their consequences will be what they will be. Why then should we seek to deceive ourselves ?" ).ピィ枢機卿が信仰を家庭以上の規模で守る(しんこうを かてい いじょうの きぼで まもる)ことがいかに難(むずか)しいかを予見した点(よけんした てん)にとくに注目(ちゅうもく)してください( "Notice especially how the Cardinal foresees the impossibility of defending the Faith on any larger scale than just the home." ).2014年の今日(こんにち),私たちがすでに枢機卿の予期(すうききょうの よき)したところまできていると誰(だれ)もが認(みと)めるわけではないでしょう( "Not everybody agrees that we have already reached that point in 2014." ).私はそれで正しいと信じたい気持ち(ただしいと しんじたい きもち)です( "I might wish they were right, …" ).だが,そのためには,私はばらばらになった人々(ひとびと)がまとまった社会(しゃかい)を作り出せると得心(つくりだせると とくしん)させられなければなりません( "… but I have yet to be persuaded that with disintegrated people one can make an integrated society." ).今日の私たち民主的市民(こんにちの わたくしたち みんしゅてき しみん)を福音書に出てくる(ふくいんしょに でてくる))ローマ時代の百人隊長と対比(ろーまじだいの ひゃくにん たいちょうと たいひ)してみてください( "Contrast with us democratic citizens of today the Roman centurion in the Gospel …" ).彼は指揮系統を正しく理解(かれは しき けいとうを ただしく りかい)し,私たちの主イエズス・キリストの権威(わたくしたち いえずす・きりすとの けんい)を当然(とうぜん)のこととして認(みと)めていました(新約聖書・マテオ聖福音書:第8章5-18節)( "… who understood a chain of command and recognized naturally the authority of Our Lord (Mt. VIII, 5-18) -- …" )―― 私たちの主は彼をいかに称賛(わたくしたちの しゅは かれを いかに しょうさん)したでしょうか!( "… -- how Our Lord praised him ! " )(訳注後記3)

    読者の皆さん(どくしゃの みなさん),我慢(=堅忍,忍耐)(がまん〈けんにん,にんたい〉)してください( "Patience." ).次週のエレイソン・コメンツ(じしゅうの えれいそん・こめんつ)で,ピィ枢機卿が自ら予見(ぴぃ すうききょうが みずから よけん)したことにどのように反論(はんろん)したかをお読(よ)みになってください( "See next week how the Cardinal himself reacted to what he foresaw." ).彼は決(けっ)して敗北主義者(はいぼく しゅぎしゃ)ではありませんでした!( "He was no defeatist ! " )

    キリエ・エレイソン.

    一人の枢機卿が教会はどこまで縮小するかを予見しました.
    (ひとりの すうききょうが きょうかいは どこまで しゅくしょう するかを よけん しました.)
    ( "A Cardinal saw how far the Church must shrink" )

    だが末世に至っても,教会が没落することは決してありません.
    (だが まっせに いたっても,きょうかいが ぼつらく することは けっして ありません.)
    ( "In these end times, yet never will it sink." )


    リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


第3パラグラフの訳注2:

「見込みのない(=望み得なくてもなお)希望を抱きながら戦いましょう.」
" Let us fight, hoping against hope itself, …" について.

・“hoping against hope itself”
 →聖書からの引用:

 「信仰の父アブラハム」について.

『望みなきときにもなお望みを捨てず信じた彼は,多くの民の父となった.…』
“Who against hope believed in hope; that he might be made the father of many nations, …” 

『不信仰によって神の約束を疑うことをせず,信仰に強められて神に光栄を帰し,その約束されたことを成し遂げる力があるとまったく信じた.それがために,彼の信仰は義とされた.』
“In the promise also of God he staggered not by distrust; but was strengthened in faith, giving glory to God: Most fully knowing, that whatsoever he has promised, he is able also to perform. And therefore it was reputed to him unto justice. And therefore it was reputed to him unto justice.” 

⇒全能の神は真実な方であり,仰せになった事を必ず成し遂げられると堅く信じて待望する信仰. 自分の存在にかかわる事は,いっさい神の御意思にかかっているから.


使徒聖パウロのローマ人への書簡:第4章18-24節
信仰によって義とされたアブラハム
EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS IV, 18-24
Abraham was not justified by works done, as of himself; but by grace, and by faith; and that before he was circumcised. Gentiles, by faith are his children.

『18*望みなきときにもなお望みを捨てず信じた彼は多くの民の父となった.「あなたの子孫はこうであろう」と言われたとおりである.
Who against hope believed in hope; that he might be made the father of many nations, according to that which was said to him: So shall thy seed be.

19そして,もう百歳ほどになって,死んだような自分の体と死んだようなサラの胎を思ったけれども,その信仰は弱らなかった.
And he was not weak in faith; neither did he consider his own body now dead, whereas he was almost an hundred years old, nor the dead womb of Sara.

20不信仰によって神の約束を疑うことをせず,信仰に強められて神に光栄を帰し,
In the promise also of God he staggered not by distrust; but was strengthened in faith, giving glory to God:

21その約束されたことを成し遂げる力があるとまったく信じた.
Most fully knowing, that whatsoever he has promised, he is able also to perform.

22それがために,彼の信仰は義とされた.
And therefore it was reputed to him unto justice.

23「義とされた」と記されたのはアブラハムのためだけではない,
Now it is not written only for him, that it was reputed to him unto justice,

24私たちのためでもある.*主イエズスを死者からよみがえらせたお方を信じる私たちのためでもある.
But also for us, to whom it shall be reputed, if we believe in him, that raised up Jesus Christ, our Lord, from the dead,

25主は私たちの罪のためにわたされ,私たちを義とするためによみがえられた.』
Who was delivered up for our sins, and rose again for our justification.


(バルバロ神父による注釈)

18 アブラハムは老齢で,子をもうける希望がなかったのに,なお神の約束を信じていた.

24 アブラハムの信仰の土台は,死者を生かす神であった.
キリスト信者の信仰の土台は,イエズスをよみがえらせた神である.



* * *
訳注を続けます.

* * *

2014年6月22日日曜日

362 ディケンズのブロードステアズ 6/21

エレイソン・コメンツ 第362回 (2014年6月21日)

    イングランド・ケント州(いんぐらんど・けんと しゅう)に「抵抗運動」(ていこう うんどう)のため購入(こうにゅう)した新しい家(あたらしい いえ)を私が気に入って(わたくしが きに いって)いるかどうか知人の多く(ちじんの おおく)から尋(たず)ねられます( "A number of friends have asked me how I like the house newly purchased for the “Resistance” in Kent, England." ).私はこの家(いえ)が気に入って(きに いって)います( "I like it." ).家はとても広(ひろ)く,聖ピオ十世会 (せいぴお じゅっせいかい)( "SSPX" )から追放(ついほう)された仲間の一人(なかまの ひとり)であるスティーブン・エイブラハム神父(すてぃーぶん・えいぶらはむ しんぷ)( "Fr Stephen Abraham" )の手助け(てだすけ)できれいに模様替え(もよう がえ)されつつあります( "It is spacious and it is being beautifully set up by a fellow-exile from the Society of St Pius X, Fr Stephen Abraham." ).この先(さき),そして遠い将来(とおい しょうらい),この家がどのように使(つか)われることになるのか.それは天のみぞ知る(てん のみぞ しる)です( "Only Heaven knows how it intends the house to be used in the near and distant future, …" ).だが,差(さ)しあたり,この家は快適な隠れ家(かいてきな かくれが)です( " … but it is meanwhile a delightful refuge, …" ).神(かみ)が創造(そうぞう)され,リベラル派(りべらる は)が触(ふ)れることのできない海(うみ)から徒歩5分(とほ ごふん)のところにあります( " … five minutes on foot from the sea which God created, and which the liberals cannot touch." ).

    過去(かこ)にイギリスの著名な画家や小説家の中(いぎりすの ちょめいな がかや しょうせつかの なか)にもケント州北東部(けんとしゅうほくとうぶ)のこの快適な一角(かいてきないっかく)を隠れ家(かくれが)としたものが何人(なんにん)かいます( "Several famous English artists and writers from the past have also found refuge in this delightful corner of north-east Kent." ).画家の中で最も有名(がかの なかで もっとも ゆうめい)なのがジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(じょぜふ・まろーど・うぃりあむ・たーなー)(1775-1851)です( "Most famous of the artists is J.M.W. TURNER (1775-1851)." ).彼(かれ)はロンドンで生まれ(ろんどんで うまれ),働(はたら)かざるをえなかった幼年時代の大半(ようねん じだいの たいはん)をそこで過(す)ごしました( "Born in London where he spent most of his working life, …" ).彼は私(わたし)たちの新しい家の所在地(あたらしい いえの しょざいち)ブロードステアズ(ぶろーど すてあず)( "Broadstairs" )から4マイルほど離れたマーゲート(よんまいる ほど はなれた まーげーと)( "Margate" )で11歳から数年(じゅういっさい から すうねん)のあいだ成長期(せいちょう き)を過(す)ごしました( " … from age 11 he spent several formative years in Margate, some four miles up the coast from Broadstairs." ).彼はそこで海を発見(うみを はっけん)し( "Here he discovered the sea, …" ),海が持つ明るい効用(うみがもつ あかるい こうよう)が彼の生涯(かれのしょうがい)の絵画作品(かいが さくひん)のインスピレーション(霊感)(いんすぴれーしょん〈れいかん〉)となりました( " … which with its light effects was a lifelong inspiration for his painting, …" ).彼はその後(ご)何度(なんど)もマーゲートを訪(おとず)れています( "… and to Margate he frequently returned later in life." ).

    マーゲートで最も著名(もっとも ちょめい)な20世紀の英国詩人(にじゅっせいきの えいこく しじん)のT. S. エリオット(てぃー・えす・えりおっと)(1888-1965)もいます( "Also in Margate the most famous poet in English of the 20th century, T.S. ELIOT (1888-1965), …" ).彼は現在(げんざい)でも残(のこ)っているマーゲートの海岸に面した屋外パビリオン(かいがんに めんした おくがい ぱびりおん)で( "… composed in an open-air pavilion still standing on Margate's beach, …" ),最も有名な長編詩「荒地」 (もっともゆうめいな ちょうへんし「あれち」)( "The Wasteland" )(1922年作)第3部の大半(だいさんぶの たいはん)を書き上げ(かき あげ)ました( "… a substantial section of the third part of his most famous poem, The Wasteland (1922)." ).彼はロンドン(ろんどん)で不幸な結婚生活(ふこうな けっこん せいかつ)のため健康(けんこう)をひどく損(そこ)ね,この海辺の町(うみべの まち)に隠れ家を求め(かくれがを もとめ)ました( "He had come to the seaside town as a refugee from London where an unhappy marriage had seriously affected his health." ).彼はマーゲートに長く滞在(ながく たいざい)せず,スイスのローザンヌ(すいすのろーざんぬ)に移(うつ)り( "He did not stay long, but went on to Lausanne, Switzerland, …" ),そこで良い医者の手当を受け(よい いしゃの てあてを うけ)健康を取り戻し(けんこうを とりもどし),「荒地」 を完成 (「あれち」を かんせい)させました( "… where thanks to the care of a good doctor he completed his recovery and The Wasteland. " ).マーゲートの海の眺め(うみの ながめ)が彼の健康回復の手助け(けんこう せいかつの てだすけ)になったのは間違い(まちがい)ありません( "But the prospect of the sea at Margate had no doubt helped." ). 少(すく)なくともイングランドで著名(いんぐらんどで ちょめい)なもう一人の詩人(もう ひとりの しじん)がブロードステアズ(ぶろーどすてあず)から2マイル離れたラムズゲート(にまいる はなれた らむずげーと)( "Ramsgate" )を頻繁に訪れ(ひんぱんに おとずれ)ています( "Another famous poet, at least in England, was a frequent visitor to Ramsgate, two miles down the coast from Broadstairs." ).サミュエル・テイラー・コールリッジ(さみゅえる・ていらー・こーるりっじ)( "Samuel Taylor Coleridge" )(1772-1834)です.彼はイングランドが生(い)んだ5人の著名なロマン派詩人(ごにんの ちょめいな ろまんは しじん)のひとりで( "Samuel Taylor COLERIDGE, one of England's five outstanding Romantic poets, …" ),作品の中(さくひんの なか)では長編詩(ちょうへん し)「老水夫行」 (ろうすいふこう)( "The Ancient Mariner" )が最も広く(もっとも ひろく)知られ(しられ)ています( "… is best-known for his long poem, The Ancient Mariner. " ).彼はラムズゲートの海で泳ぐ(およぐ)のが好き(すき)でしたが,彼の場合(ばあい)もおそらく健康維持(けんこう いじ)が理由(りゆう)のひとつだったのでしょう( "He loved bathing in the sea at Ramsgate, perhaps also for health reasons." ).いずれにせよ,彼は海水(かいすい)が冷(つめ)たければ冷たいほど,そこで泳ぐのが好(す)きだったといいます( "In any case, the colder the sea, the more he liked it." ).

    だが,ブロードステアズ(ぶろーどすてあず)自体(じたい)を頻繁に訪れた人(ひんぱんに おとずれた ひと)たちの中(なか)で最も有名(もっとも ゆうめい)なのはチャールズ・ディケンズ(ちゃーるず・でぃけんず)( "Charles Dickens" )(1812-1870)でした( "Most famous of all, however, was a frequent visitor to Broadstairs itself, the novelist Charles Dickens (1812-1870)." ).彼は1837年にここを初めて訪れ(はじめて おとずれ)ました( "He first resorted to Broadstairs in 1837, …" ).最初の小説「ピクウィック・クラブ」 (ぴくうぃっく・くらぶ)( "The Pickwick Papers" )(訳注・オリジナル・タイトル〈初版の表題〉は,"The Posthumous Papers of the Pickwick Club" )を書き上げるのに最適な静かな場所としてここを選んだようです( "… as a quiet place in which to complete his first novel, The Pickwick Papers, …" ).彼はこの古風で小さな海辺の町(こふうで ちいさな うみべの まち)がすっかり好き(すき)になり,1940年代から1950年代にかけて,家族を連れて(かぞくを つれて)何度も訪れ(なんども おとずれ)ました.時(とき)には小説を書く(しょうせつを かく)ため,時には筆を休め休養(ふでを やすめ きゅうよう)するためでした( "… but he so fell in love with the antiquated little seaside town that he often returned with his family to write, or to rest from writing, through the 1840's and into the 1850's." ).ディケンズがかつて滞在した古い町(たいざい した ふるい まち)のいたるところに,彼の名前,彼の小説の題名,その登場人物の名前(かれの なまえ,かれの しょうせつの だいめい,その とうじょう じんぶつの なまえ)が今でも見受け(いまでも みうけ)られます( "His name and names of his novels, or of characters from his novels, are to be found all over the old town that he knew." ).現在(げんざい),ブロードステアズはビクトリア王朝風やモダンな郊外(びくとりあ おうちょう ふうや もだんな こうがい)に,圧殺(あっさつ)されているとまでは言(い)いませんが,完全(かんぜん)に取り囲まれ(とりかこまれ)ています( "It is now surrounded, not to say strangled, by Victorian and modern suburbs, …" ).だが,ブロードステアズは毎年6月(まいとし ろくがつ)になると,かつての著名な訪問者(ちょめいな ほうもんしゃ)を「ディケンズ祭り」(でぃけんず まつり)で祝(いわ)います( "… but Broadstairs still celebrates every year its most famous visitor with a Dickens Festival in June." ).

    デービッド・アレン・ホワイト博士(でーびっど・あれん・ほわいと はかせ)( "Dr. David Allen White" )は,カトリック教徒の文学,音楽教師(かとりっく きょうとの ぶんがく・おんがく きょうし)で,世界中の英語圏(せかい じゅうの えいご けん)でカトリック信仰(しんこう)を維持(いじ)するために努力(どりょく)し,多数(たすう)のカトリック信徒(しんと)のあいだで良く知られている人物(よく しられている じんぶつ)です.彼は大(だい)のディケンズ愛好家(あいこう か)です( "Dr. David Allen White, a Catholic teacher of literature and music who is well-known to many Catholics striving to keep the Faith all over the English-speaking world, is a great lover of Dickens." ).彼はこの夏(なつ)ロンドンを通り(ろんどんを とおり)かかるそうで( "Since he is passing through London this summer, …" ),その機会(きかい)にブロードステアズ(ぶろーどすてあず)まで足を延ばし(あしを のばし),8月2日,3日(はちがつ ふつか,みっか)にディケンズについての24時間週末セミナーを開く(にじゅう よ じかん しゅうまつ せみなーを ひらく)ことに応(おう)じてくださいました( "… he agreed to visit Broadstairs in order to hold on August 2 and 3 a 24-hour weekend seminar on Dickens, …" ).セミナーは一般公開(いっぱん こうかい)とし,期間中(きかん ちゅう)に3回の会議(さんかいの かいぎ),主日ミサ聖祭(しゅじつ みさ せいさい),博士案内(はかせ あんない)による市内(しない)のディケンズ博物館訪問(でぃけんず はくぶつかん ほうもん)を予定(よてい)しています.この博物館(はくぶつかん)はかつてディケンズ自身(じしん)が訪(おとず)れたことのある小さな古い家の中(ちいさな ふるい いえの なか)に開設(かいせつ)されています( "… open to the public and including three conferences and Sunday Mass, and a visit which he will guide to the Dickens Museum in town, set up in a little old house known to, and visited by, Dickens himself." ).読者の中(どくしゃの なか)で参加に興味(さんかに きょうみ)がある方(かた)は至急(しきゅう)( info@dinoscopus.org を通〈とお〉して)お知らせ下さい(おしらせ ください)( "If you are interested in attending, let us know soon (through info@dinoscopus.org), …" ).参加人数を制限(さんか にんずうを せいげん)せざるをえない場合(ばあい),先着順(せんちゃく じゅん)となりますので( "… because if numbers have to be limited, first come will be first served." ).食事はお出し(しょくじは おだし)できますが,宿泊(しゅくはく)は参加者各自の手配(さんかしゃ かくじの てはい)となります.Meals will be provided in-house, but visitors will have to find their own accommodation outside." ).この時期(じき)は夏季休暇(かき きゅうか)シーズンのピークに当たる点にご注意(しーずんの ぴーくに あたる てんに ごちゅうい)ください( "Beware, it will be the height of the holiday season." ).

    ディケンズ自身(でぃけんず じしん)はカトリック教徒(かとりっく きょうと)ではありませんでしたが,ドストエフスキー(どすとえふすきー)はかつて彼を「偉大なキリスト者」(いだいな きりすと しゃ)と呼びました( "Dickens was not Catholic, but Dostoevsky called him “a great Christian”." ).ディケンズは疑(うたが)いなく温か(あたたか)でオープンな心(おーぷんな こころ)と才気(さいき)あふれた筆の持ち主(ふでの もちぬし)でした( "Dickens certainly had a warm and open heart, and a brilliant pen." ).

    キリエ・エレイソン.

    ディケンズにとって,ブロードステアズは大きな喜びでした.
    (でぃけんすに とって,ぶろーどすてあずは おおきな よろこび でした.)
    ( "For Dickens, Broadstairs was a great delight." )

    その訳を知るため,ホワイト博士のお話を聴きに来て下さい.
     (その わけを しる ため,ほわいと はかせの おはなしを ききに きて ください.)
    ( "To find out why, come listen to Dr White." )


    リチャード・ウィリアムソン司教



* * *

2014年6月20日金曜日

361 勇敢な司祭たち 6/14

エレイソン・コメンツ 第361回 (2014年6月14日) 

     あなた方(がた)の多く(おおく)がご存知(ごぞんじ)のとおり,フェルナンド・アルタミラ神父(ふぇるなんど・あるたみら しんぷ)( "Fr Fernando Altamira" )は南米コロンビアの首都ボゴタ "Bogotá" (なんべい ころんびあの しゅと ぼごた)で働く(はたらく)聖ピオ十世会(せいぴお じゅっせいかい) "SSPX" の若いアルゼンチン人司祭(わかい あるぜんちんじん しさい)です( "As a number of you will know, Fr Fernando Altamira is a young Argentinian priest of the Society of St Pius X, working in Bogotá, the capital city of Columbia in South America, …" ).数か月前(すうかげつまえ),彼(かれ)はスイス・メンツィンゲン(すいす・めんつぃんげん)( "Menzingen, Switzerland" )にいるフェレー司教(ふぇれー しきょう)( "Bishop Fellay" )とその部下たちによる信仰(ぶか たち による しんこう)とルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の SSPX に対(たい)する裏切り行為に対する抗議の姿勢(うらぎり こういに たいする こうぎの しせい)を明確かつ公然と示し(めいかくに こうぜんと しめし)ました( "… who several months ago took a clear and public stand against the betrayal of the Faith and of Archbishop Lefebvre’s Society by Bishop Fellay and his team in Menzingen, Switzerland." ).彼は SSPX の修道院を去り(しゅうどういんを さり),近くに代わりの教区を設け(ちかくに かわりの きょうくを もうけ)ましたが,前(まえ)の教区から大部分の信徒(だいぶぶんの しんと)たちが彼の後を追い(かれの あとを おい)ました( "Walking out of the Society’s Priory to found an alternative parish nearby, Fr Altamira was followed by the large part of his previous parishioners." ).彼は聡明で勤勉(仕事熱心)(かれは そうめいで きんべん〈しごとねっしん〉)で,住民に人気のある司祭〈じゅうみんに にんきの ある しさい〉です.私は4月中旬,その様子(ようす)を直(じか)に目(め)にしました( "As I was able to observe in mid-April, he is a pious, intelligent and hard-working priest, popular with the people." ).これまで骨折ったかいもなく,彼はSSPXから「排除」( "excluded" )されようとしています( "For his pains he is being “excluded” from the SSPX." ).

     アルタミラ神父はフェレー司教に書簡を送り(しょかんを おくり),自分の「排除」は無効(じぶんの はいじょは むこう)であると抗議(こうぎ)しました( "He wrote to Bishop Fellay, protesting that his “exclusion” is invalid." ).彼は論点を明確(ろんてんを めいかく)にした抗議書のコピー(こうぎしょの こぴー)を SSPX のあるベテラン司祭(べてらんしさい)に送(おく)りました( "He sent a copy of his well-argued protest to a veteran priest of the SSPX …" ).この司祭は現代世界の仕組み(げんだい せかいの しくみ)についてフェレー司教がいかに巧(たく)みに騙(だま)しているかを知り尽く(しりつく)しているジャン・ミシェル・フォール神父(じゃん・みしぇる・ふぉーる)( "Fr Jean-Michel Faure" )です( "… who understands too well how the modern world operates to be fooled by Bishop Fellay." ).抗議書(こうぎしょ)についてのフォール神父の賢明なコメント(けんめいなこめんと)を以下にご紹介(いかに ごしょうかい)します( "Here are Fr Jean-Michel Faure's wise comments:-- " ).

     「SSPX 内部に問題(ないぶに もんだい)があるのは明(あき)らかです( " “It is obvious that there is a problem in the Society of St Pius X." ).リベラル派の人(りべらるはの ひと)たちが実権を握り(じっけんを にぎり)( "Liberals took control, …" ),彼らは近代主義ローマ(きんだい しゅぎ ろーま)(教皇庁〈きょうこう ちょう〉)の機構の中(きこうの なか)に組み込まれたい(くみこまれたい)と望(のぞ)んでいます( "… and they want to be integrated into the structure of modernist Rome." ).そして,フリューガー神父(ふりゅーがー しんぷ)( "Fr Pfluger" )がかつて述(の)べたように( "And, as Fr Pfluger has said, …" ),彼らは自分たちの自殺作戦(じぶんたちの じさつ さくせん)( "Operation Suicide" )に反対(はんたい)する反(はん)リベラル派をすべて追放(ついほう)したいと望んでいます( "… they want to expel all anti-liberals opposed to their Operation Suicide. " ).ラニョー神父の鎮魂ミサ聖祭(ちんこん みさ せいさい)( "Requiem Mass of Fr Lagneau" ),マルジアック神父(まるじあっく しんぷ)の周年ミサ聖祭( "Jubilee Mass of Fr Marziac" ),諸々の場でのルルドのバシリカ(=大聖堂)(るるどの ばじりか〈=だいせいどう〉)( "on various occasions the Basilica of Lourdes" ),コルシカ(こるしか)での度々の堅振式(たびたびの けんしんしき)( "Confirmations in Corsica" ),等々(とうとう)のために,フランス(ふらんす)の一部司教(いちぶ しきょう)たちがフェレー司教に各地の教会を提供(かくちの きょうかいを ていきょう)していることが,進行中(しんこうちゅう)のローマによる SSPX 承認(しょうにん)を示(しめ)すもう一つの証拠(しょうこ)です.」( "One more proof of the on-going Recognition of the SSPX by Rome is the churches that certain bishops of France offer to Bishop Fellay, for the Requiem Mass of Fr Lagneau, for the Jubilee Mass of Fr Marziac, on various occasions the Basilica of Lourdes, the Confirmations in Corsica, and so on." )

     「秘密主義(ひみつしゅぎ)はリベラル派政治家(せいじか)が当選のための公約(とうせんの ための こうやく)とまったく正反対(せいはんたい)の目的(もくてき)に有権者(ゆうけんしゃ)を導(みちび)きたいと願う時(ねがう とき)に用(もち)いる作戦モード(さくせん もーど)です( " “Secrecy is the mode of operating worthy of a liberal politician who wants to bring his electors around to a goal directly opposed to what he had promised in order to get elected." ).そういう政治家は,そこへ少(すこ)しずつ進(すす)むよう巧(たむ)みに作(つく)られた一連(いちれん)の曖昧な発言(あいまいな はつげん)を用(もち)いながら,支持者の大多数(しじしゃの だいたすう)を彼らが最初に信じた(さいしょに しんじた)こととは正反対の結論(せいはんたいの けつろん)を受け入れるよう誘導(うけいれるよう ゆうどう)します( "By a series of ambiguous statements skilfully graded to advance little by little, the politician brings the great majority of his followers to accept the opposite conclusion to what they were convinced of to begin with." ).これはまさしくマキャベリズム的(まきゃべりずむ てき)な純粋かつ単純(じゅんすい かつ たんじゅん)な欺瞞(ぎまん),虚偽(きょぎ),偽善(ぎぜん)です( "It is Macchiavellian deceit, lying and hypocrisy, pure and simple." ). SSPX 総長(そうちょう)にとって目的(もくてき)は手段(しゅだん)を正当化(せいとうか)するわけで,目的達成(たっせい)のためなら彼はルフェーブル大司教が繰り返し非難した立場(くりかえし ひなんした たちば)を躊躇(ちゅうちょ)なしに選(えら)びます( "For this Superior General the end justifies the means, and to attain that end he does not hesitate to take positions repeatedly condemned by Archbishop Lefebvre." ).大司教(だいしきょう)が生(い)きておられたら総長(そうちょう)と彼の二人の補佐官(ふたりの ほさかん)について何と言う(なんと いう)でしょうか?( "What would the Archbishop say of him and his two Assistants ? " ) 彼らは間抜け(まぬけ)で子供(こども)じみており,考えが甘く反抗的(かんがえが あまく はんこうてき)だと言うでしょう( "That they are idiots, childish, naive and disobedient, …" ).彼らは SSPX を自殺に追いやり( "… that they are making the Society commit suicide and …" ),信仰のための戦いを裏切っていると言うでしょう( "… that they are betraying the fight for the Faith." ).そして,彼らは忠実な信徒(ちゅうじつな しんと)たちがもたらした多大な寛容や犠牲(ただいな かんようや ぎせい)による果実(かじつ)をローマのモダニスト(ろーまの もだにすと)たちに引き渡そう(ひきわたそう)としていると言うでしょう.( "And they are going to hand over to the modernists in Rome the fruits of so much generosity and so many sacrifices made by the faithful. " )」

     「ローマのモダニストたちは,私たちが第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)と新しいミサ聖祭(あたらしい みさ せいさい)( "the New Mass" )の正当性(せいとうせい)を受け入れる(うけいれる)べきだという要求(ようきゅう)をいささかも撤回(てっかい)していません( " “The modernists in Rome have never backed down on their demands that we accept the Second Vatican Council and the legitimacy of the New Mass." ).1975年,エコンㇴ( " Écône " )の神学校長(しんがっこう ちょう)と(指導)教官(教授)(しどう きょうかん〈きょうじゅ〉)たち( "professors" )はルフェーブル大司教にミサ聖祭を救(すく)うため第二バチカン公会議を容認(ようにん)してはどうかと進言(しんげん)しました( "In 1975 the Rector and professors of Écône advised the Archbishop to accept the Council in order to save the Mass, …" ).だが彼らは結局(けっきょく)1977年8月(せん きゅうひゃく ななじゅう ななねん はちがつ),神学校に反抗(はんこう)して身を引き(みを ひき)ました( "… and they ended up rebelling and quitting the Seminary in August of 1977." ).今日(こんにち),(はかいこうい)(しゅぼうしゃ さんにんぐみ)はルター(ルーテル)派ミサ聖祭(るたー〈るーてる〉は みさ せいさい)( "Lutheran Mass" )の正当性(せいとうせい)まで受け入れるとの立場を取って(たちばを とって)います( "Today the three ringleaders in Menzingen go so far as to accept the legitimacy of the Lutheran Mass." ).3人が述(の)べているように, SSPX が要求受け入れ(ようきゅう うけいれ)を渋(しぶ)っていることは私たちの「ローマの新しい友人(あたらしいゆうじん)たち」にとってじれったいことです( "As the three of them say, the Society’s reluctance to go along makes us very annoying to our “new friends in Rome”, …" ).かといってローマが改宗(かいしゅう)するのを待(ま)つのは3人が見る限り非現実(さんにんが みる かぎり ひげんじつてき)です( "… while to wait for the conversion of Rome is unrealistic, as far as they are concerned." ).確(たし)かなことは,聖ピオ5世(せい ぴお ごせい)が教会を改革(きょうかいを かいかく)した当時(とうじ)とはまったく異(こと)なる現在の状況を打開(げんざいの じょうきょうを だかい)できるのは神(かみ)だけでしょう( "For sure and certain God alone can clean up this situation, totally different from the situation of the Church when it was reformed by St Pius V." ).タイタニック号の船長(たいたにっく ごうの せんちょう)と同(おな)じように,フェレー司教と彼の支配下(しはいか)にある本部(ほんぶ)は SSPX の自殺作戦(じさつ さくせん)を成功に導く(せいこうに みちびく)ことでしょう( "Like the Captain of the Titanic, Bishop Fellay and his headquarters will bring the Society’s Operation Suicide to a successful conclusion." ).彼らは無能(=不信仰)集団の無能な指導者(むのう しゅうだんの むのうな しどうしゃ)です(訳注後記). だが,無能(=不信仰)でない者はこの自殺行為に抵抗(じさつ こういに ていこう)し,信仰(しんこう)を守(まも)らなければなりません.」( "Blind leaders of the blind. But anyone who is not blind must resist this suicide, and keep the Faith.” " )

     SSPX にアルタミラ神父やフォール神父ほど先見の明(せんけんの めい)があり勇敢な司祭(ゆうかんな しさい)がもっと多(おお)くいてくれさえすれば良(よ)いのに! ( "If only the Society had more priests as clear-sighted and courageous as Fr Altamira and Fr Faure !

     キリエ・エレイソン.

     リベラル派たちが破壊行為を するとき,
     (りべらるはたちが はかいこういを するとき)
     ( "When liberals destroy, how much we need" )

     頭脳明晰で言行が 勇敢な司祭たちがどれほど必要なことか!
     (ずのう めいせきで ごんぎょうが ゆうかんな しさいたちが
     どれほど ひつような ことか!)
     ( "Priests clear in mind, and brave in word and deed
      ! " )


     リチャード・ウィリアムソン司教



* * *



第5パラグラフの訳注:

彼らは無能(=不信仰)集団の無能な指導者です. だが,無能(=不信仰)でない者はこの自殺行為に抵抗し,信仰を守らなければなりません.」
"Blind leaders of the blind. But anyone who is not blind must resist this suicide, and keep the Faith.” "
 について.

(直訳+意訳)
① 真実に対して盲目な人達の,真実に対して盲目な指導者たち.
「真実に対して盲目」=「真実が見えない」こと=「(善業において)無能」

・福音の記述〈ふくいんのきじゅつ〉による→新約聖書・マテオ聖福音書

聖マテオによる聖福音書:第15章14節 
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW XV, 14

『(イエズスは,「天の父が植えられないものはみな抜かれてしまう.)打ち捨てておけ.彼らは盲人の案内をする盲人だ.盲人が盲人の案内をしたら二人とも穴に落ちてしまう.」と答えられた.』 “14 Let them alone: they are blind, and leaders of the blind. And if the blind lead the blind, both will fall into the pit”.

② だが,誰であろうと無能でない者= ・真実に盲目でない者=真実が見える(真実が分かる)者.





* * *
マテオ聖福音書:第15章1-20節の引用を追加掲載いたします.

* * *


2014年6月15日日曜日

360 公会議派教会とは? 6/7

エレイソン・コメンツ 第360回 (2014年6月7日)

     「公会議派教会」( "Conciliar church" )という表現(こうかいぎ きょうかい という ひょうげん)は,一つの現実(ひとつの げんじつ),実在(じつざい)するもの,つまり自身(じしん)をカトリック教徒だと公言(かとりっく きょうと だと こうげん)しながらも実際には第二バチカン公会議(じっさいには だいに ばちかん こうかいぎ)の新しい人間中心主義的な宗教の実践(あたらしい にんげん ちゅうしん しゅぎ てきな しゅうきょう の じっせん)に滑り落ちている人々や団体の総体を表す表現(すべり おちている ひとびとやだんたいの そうたいを あらわす ひょうげん)であるのは明白(めいはく)です( "The expression “Conciliar church” obviously expresses a reality, something real, namely the mass of people and institutions professing themselves to be Catholic but in fact sliding into the practice of the new humanist religion of the Second Vatican Council." ).なぜ「滑り落ちる」( "sliding" )などという言葉を使う(ことばを つかう)かといえば,公会議主義,すなわち新モダニズム(しん もだにずむ)(=新近現代主義〈しん きんげんだい しゅぎ〉)( "neo-modernism" )はまさしく,カトリック教徒たちが見かけだけは信仰を保ち(しんこうを たもち)ながら,その内容を空に(ないようを からに)してしまうことができるように作(つく)られているからです( " “Sliding”, because Conciliarism, or neo-modernism, is precisely designed to enable Catholics to maintain the appearances of the Faith while they empty out the substance." ).カトリック教徒たちは具体的(ぐたい てき)に,このプロセス(ぷろせす)を早(はや)めるか遅(おく)らせるか意(い)のままにできますが,わざわざ結論(けつろん)までたどりつく必要(ひつよう)などありません( "Catholics in the concrete can make this process as fast or as slow as they wish, they need not even take it all the way to its conclusion, …" ).だが,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)( "Conciliarism" )は理論上(りろん じょう),カトリック教義(かとりっく きょうぎ)( "Catholicism" )に真っ向から反対(まっこうから はんたい)するものであり(=全〈まった〉く反対する),そのプロセスの結論(ぷろせすの けつろん)にたどりついて,初めから意図(はじめから いと)していたように信仰と教会を壊して(しんこうと きょうかいを こわして)しまいます( "… but Conciliarism in the abstract is utterly opposed to Catholicism and, taken to its conclusion, it destroys both Faith and Church, as it was meant to do." ).

     このプロセスを観察(かんさつ)し理解(りかい)するのは難(むずか)しいことではありません( "The process is not difficult to observe or to understand, …" ).だが,聖ピオ十世会(SSPX)(せいぴお じゅっせい かい)を率(ひき)いるリベラル派の人(りべらるはの ひとたち)たちはローマ(ろーま)の公会議派の人(ひと)たちとの和解を求める(わかいを もとめる)なかで( "… but liberals at the head of the Society of St Pius X, seeking reconciliation with the Conciliarists in Rome, …" ),公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)とカトリック教会(かとりっく きょうかい)の問題を混同(もんだいを こんどう)させるべくベストを尽くし(べすとを つくして)てきました( "… have done their best to confuse the question of the Conciliar church and the Catholic Church." ).彼(かれ)らは,たとえば,カトリック教会は目に見える(めに みえる),公会議派教会も目に見える教会である,だから公会議派教会はカトリック教会であると言います( "For instance the Catholic Church is visible, they will say, and the Conciliar church is the visible church, so the Conciliar church is the Catholic Church, …" ).この論法(ろんぽう)はルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)によって何年も前(なんねんも まえ)に「子供(こども)じみている」( "childish" )と,はねつけられています(目に見える教会は多数〈たすう〉ありますが,それがすべてカトリック教会とは限〈かぎ〉りません)( "… an argument dismissed years ago by Archbishop Lefebvre as “childish” (many churches are visible that are not Catholic)." ).同(おな)じように子供じみた論法は,教会はただ一つ(ひとつ)である,だから公会議派教会とカトリック教会は一つで同じ(ひとつで おなじ)ものでなければならないというものです(偽〈にせ〉の教会は何千〈なんぜん〉もあります)( "Equally childish is the argument that there is only one Church, so the Conciliar church and the Catholic Church must be one and the same (there are thousands of false churches)." ).

     真実(しんじつ)とはさほど複雑難解(ふくざつ なんかい)なものではありません( "The truth is not too complicated." ).カトリック教会は生きた組織(いきた そしき)で( "The Catholic Church is a living organism, …" ),その創設者(そうせつ しゃ)イエズス・キリスト(いえずす・きりすと)のように,神聖な面と人間的な面(しんせいな めんと にんげん てきな めん)を兼ね備え(かね そなえ)ています( "… both divine and human, like its Founder, Jesus Christ." ).神聖な面としては,教会はキリストの汚れなき花嫁(けがれなき はなよめ)( “his Immaculate Bride” )ですから,堕落(だらく)したものではありませんし堕落することもありません( "As divine, as being his Immaculate Bride, it cannot be corrupt or corrupted, …" ).だが,教会は罪深い人間(つみぶかい にんげん)によって構成(こうせい)されているものですから( "… but as being made up of sinful human beings, …" ),ほかの生きた組織と同じ(いきた そしきと おなじ)ように部分的に腐敗(ぶぶん てきに ふはい)することがあります( "… it can partially rot just like any other living organism." ).したがって,公会議派教会とカトリック教会の関係(かんけい)を理解(りかい)するのに役立つ方法(やくだつ ほうほう)は腐った林檎(くさった りんご)を考(かんが)えてみることです( "So one useful way to understand how the Conciliar church relates to the Catholic Church is to think of a rotten apple." ).

     一方の見方(いっぽうの みかた)では,腐食(ふしょく)は林檎(りんご)に所属(しょぞく)します( "On the one hand the rot belongs to the apple." ).その腐った部分(くさった ぶぶん)は,すべて一度(いちど)は林檎でした( "All rot was once apple." ).腐食は林檎を腐敗(ふはい)させるもの,林檎の寄生物(きせいぶつ)で,林檎なしには生存(せいぞん)できず,腐った部分が落(お)ちるまで林檎に固(かた)くしがみついています( "The rot is a corruption of the apple, a parasite on the apple, it could not exist without the apple and it remains firmly attached to the apple unless and until the rotten part falls off. " ).同(おな)じように公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はそのあらゆる部分(ぶぶん)が一度はカトリック(かとりっく)だったという限(かぎ)りにおいてカトリック教会に所属します( "Likewise Conciliarism belongs to the Catholic Church insofar as everything Conciliar was once Catholic, …" ).それはカトリック教会を腐敗させるもの,カトリック教会の寄生物で,カトリック教会なしには生存できず( "… it is a corruption of the Catholic Church, a parasite on the Catholic Church, it could not exist without the Catholic Church, …" ),カトリック教会のどこかの部分に,それを意図(いと)した通(とお)り壊(こわ)してしまわない限(かぎ)り,そこに固くしがみついています( "… and it remains firmly attached to some part of the Catholic Church unless and until it destroys that part, as it was designed to do." ).

     ほかの見方(みかた)では,腐食は林檎に所属(ふしょくは りんごに しょぞく)しません( "On the other hand the rot does not belong to the apple." ).初めから腐る(はじめから くさる)つもりの林檎などありません( "No apple was ever meant to go rotten." ).あらゆる腐食は林檎の一部分を変質(いちぶぶんを へんしつ)させるもの,林檎を腐敗(りんごを ふはい)させるもの,林檎の寄生物(りんごの きせいぶつ)であり,林檎を悪(わる)いものに変質(へんしつ)させ,結果的(けっかてき)に林檎とはまったく異質(いしつ)なものに変(か)えてしまうものです( "All rot is a transformation of some apple, a corruption and parasite of apple, transforming it for the worse, resulting in something quite different from apple, …" ).それは気の確かな者(きの たしかな もの)なら食(た)べたいとか,林檎と少しも変わらない(りんごと すこしも かわらない)じゃないかなどという思い(おもい)にならないものです( "… something which nobody in his right mind would dream of eating or of saying that it was no different from apple." ).同じ(おなじ)ように,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はカトリック教会(かとりっく きょうかい)に所属(しょぞく)しません( "Likewise Conciliarism does not belong to the Catholic Church, …" ).それはカトリック的(てき)ななにかを腐敗(ふはい)させるもの,カトリック的なものによりかかる寄生物(きせいぶつ)です( "… it is a corruption of something Catholic and is a parasite on whatever is Catholic." ).それはカトリック教会(の人間的な部分〈にんげんてきな ぶぶん〉)を悪いものに変質(わるいものに へんしつ)させ( "It transforms (a human part of) the Catholic Church for the worse, …" ),結果(けっか)としてその部分(ぶぶん)を本質的(ほんしつてき)にカトリック的でない何か(かとりっく てき でない なにか)に変えて(かえて)しまいます( "… resulting in something essentially non-Catholic …" ).気の確かなカトリック信徒(きの たしかな かとりっく しんと)ならだれ一人(ひとり)として,それをカトリック的だと称(しょう)したり自らの信仰(みずからの しんこう)を犠牲(ぎせい)にして,それと付き合い(つきあい)たいなどという思(おも)いにならないものです( "… which no Catholic in his right mind would call Catholic or want to associate with, on pain of losing his faith." ).

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),公会議主義は腐食(こうかいぎ しゅぎは ふしょく)で( "Conciliarism is rot, …" ),「公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)」は一つの神聖的・人間的教会(ひとつの しんせいてき・にんげんてき きょうかい)( "the one divine-human Church" )であり,その人間的側面の一部(にんげんてき そくめんの いちぶ)が腐敗した状態(ふはいした じょうたい)にあるものです( "… and the “Conciliar church” is the one divine-human Church being rotted in one or other of its human aspects." ).もちろんカトリック教会(かとりっく きょうかい)は末世まで続く(まっせまで つづく)(訳注後記)でしょう(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章20節)( "Of course the Catholic Church will last to the end of the world (Mt. XXVIII, 20), …" ).だが,「公会議派教会」は昔(むかし)からあった数多い寄生教会(かず おおい きせい きょうかい)( "parasite churches" )の一つ(ひとつ)にしかすぎません( "… while the “Conciliar church” is merely one in a long line of parasite churches down the ages, …" ).それは,自ら(みずから)が腐敗(ふかい)させるものによりかかって生き(いき),自らよりかかって生きているものを腐敗させます( "… living on what they rot and rotting what they live on. " ).あらゆるリベラル派の人々(りべらるはの ひとびと),自ら混乱し他人を混乱させる人々に天罰を!(みずから こんらん し たにんを こんらん させる ひとびとに てんばつを!)( "A plague on all liberals, confused and confusing ! " )

     キリエ・エレイソン.

     教会は神と人を分かち,かつ結びつける
     (きょうかいは かみと ひとを わかち,かつ むすび つける)
     ( "The Church does parts from God and man
      combine." )

     人は腐敗するが,神が腐敗することはない
     (ひとは ふはいする が,かみが ふはいする ことはない)
     ( "The human can be rotted, not the divine." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



*     *     *


第6パラグラフの訳注:
「…カトリック教会は末世まで続く…」の「末世(まっせ)」について

「末世(まっせ)」( "the end of the world" )の意味=
・道義が衰え乱れた世の中(どうぎが おとろえ みだれた よのなか).

「道義(どうぎ)」=
・人としてふみ行うべき道(ひと として ふみ おこなう べき みち).道徳(どうとく).

(国語〈日本語〉辞書「大辞林」より)


2014年6月6日金曜日

359 教会の無謬性 V 5/31

エレイソン・コメンツ 第359回 (2014年5月31日) 

     リベラリズム(りべらりずむ)は神に戦いを挑み(かみに たたかいを いどみ)( "Liberalism is war on God, …" ),真実を崩壊(しんじつを ほうかい)させるものです( "… and it is the dissolution of truth." ).リベラリズムが駄目(だめ)にしてしまった今日の教会内(こんにちの きょうかい ない)で( "Within today’s Church crippled by liberalism, …" ),教皇空位論(きょうこう くうい ろん)は一つの反作用(ひとつの はんさよう)として理解(りかい)できます( "… sedevacantism is an understandable reaction, …" ).だが,この理論(りろん)は真実に比(くら)べ権威を重視(けんいを じゅうし)しすぎています( "… but it still credits authority with too much power over truth." ).現代の世界(げんだいの せかい)では自然的真実が見失われ(しぜんてき しんじつが みうしなわれ)ています( "The modern world has lost natural truth, …" ).まして超自然的真実(ちょうしぜん てき しんじつ)はいうに及び(および)ません( "… let alone supernatural truth, …" ).そこに問題の核心(もんだいの かくしん)があります( "… and here is the heart of the problem." ).

     話を進める便宜上(はなしを すすめる べんぎ じょう),教皇(きょうこう)のあらゆる教え(おしえ)を三つに分類して考えて(みっつに ぶんるいして かんがえて)みましょう( "For our purposes we might divide all papal teaching into three parts." ).第1(だいいち)に,教皇が教皇として,全カトリック教徒(ぜん かとりっく きょうと)を固く結びつける(かたく むすび つける)ため信仰や道徳(しんこうや どうとく)について教える場合(おしえる ばあい)( "Firstly, if the Pope teaches as Pope, on Faith or morals, definitively and so as to bind all Catholics, …" ),彼の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)( "Extraordinary Magisterium" =以下EMと省略〈しょうりゃく〉)は必然的に無謬(ひつぜんてきに むびゅう)です( "… then we have his Extraordinary Magisterium (EM for short), necessarily infallible." ).第2(だいに)に,もし教皇が必ず(かならず)しも4条件(よん じょうけん)すべてに従(したが)わなくても,教会がいついかなる場合(ばあい)でも信徒に信じるよう教えて(しんとに しんじるよう おしえて)きたやりかたに従(したが)って教えるなら( "Secondly, if he does not engage all four conditions but teaches in line with what the Church has always and everywhere taught and imposed on Catholics to believe, …" ),いわゆる教会の通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)( “Ordinary Universal Magisterium” =以下OUMと省略)に則(のっと)っていることになり,彼はやはり無謬(むびゅう)です( "… then he is partaking in what is called the Church’s “Ordinary Universal Magisterium” (OUM for short), also infallible." ).第3(だいさん)に教皇のこれ以外(いがい)の教えについて考(かんが)えてみます( "Thirdly we have the rest of his teaching, …" ).もし彼が伝統に外れて(でんとうに はずれて)教えるのであれば( "…which, if it is out of line with Tradition, …" ),その教えは誤りから免れ(あやまりから まぬがれ)ないだけでなく偽物(にせもの)です( "… is not only fallible but also false." ).

     これで明確(めいかく)なのは( "By now it should be clear that …" ),EMとOUMは山を覆う雪と山の関係と同じだということです( "… the EM is to the OUM as snow-cap is to mountain." ).雪は山頂を形作っている(ゆきは さんちょうを かたちづくって いる)のではなく( "The snow-cap does not make the summit of the mountain, …" ),ただ単に山頂をより目立たせている(ただ たんに さんちょうを より めだたせて いる)だけです( "… it merely makes it more visible." ).EMとOUMは召使と主人(めしつかいと しゅじん)のようなものです( "EM is to OUM as servant to master." ).EMはOUMに属(ぞく)するものと属さないものをはっきりさせるためOUMに仕えるべく存在(つかえる べく そんざい)しています( "It exists to serve the OUM by making clear once and for all what does or does not belong to the OUM." ).だが山の残りの部分を目立たせる(やまの のこりの ぶぶんを めだたせる)のは何(なに)なのか( "But what makes the rest of the mountain visible, …" ),言って(いって)みれば,それが私たちの主イエズス・キリストとその使徒たち(しゅ いえずす・きりすとと その しとたち),すなわち,伝統(でんとう)にまで遡る(さかのぼる)ものだからです( "… is its being traceable back to Our Lord and his Apostles, in other words, Tradition." ).EMをどのように定義(ていぎ)するにしても,結局(けっきょく)はそれが伝統の一部(でんとうの いちぶ)だと四苦八苦して示す(しくはっく して しめす)ことになるのはそのためです( "That is why every EM definition is at pains to show that what is being defined was always previously part of Tradition." ).伝統は雪で覆われる以前の山(ゆきで おおわれる いぜんの やま)なのです( "It was mountain before it was covered in snow. " ). もうひとつ明確なのは( "By now it should also be clear that …" ),教皇がなにを教えるべきかを指示(しじ)するのは伝統(でんとう)であり( "… Tradition tells the Popes what to teach, …" ),その逆(ぎゃく)ではないということです( "… and not the other way round." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)はこの前提に基づいて(ぜんていに もとづいて)伝統運動(うんどう)( "the Traditional movement" )を創設(そうせつ)されました( "This is the basis on which Archbishop Lefebvre founded the Traditional movement, …" ).だが,失礼(しつれい)ながら,リベラル派(りべらる は)も教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)もこの前提を理解(りかい)していません( "… yet it is this same basis which, with all due respect, liberals and sedevacantists fail to grasp." ).聖ヨハネの福音書( "the Gospel of St John" )で,私たちの主イエズス・キリスト(しゅ いえずす・きりすと)が,人間(にんげん)として,自分の教え(じぶんの おしえ)は自分自身(じしん)でなく自分の父(ちち)に根差して(ねざして)いると何度も明言(なんども めいげん)されていることに注目(ちゅうもく)してください( "Just see in the Gospel of St John how often Our Lord himself, as man, declares that what he is teaching comes not from himself but from his Father, …" ).たとえば,主は「私の教理(わたしの きょうり)は私のものでなく,私を遣(つか)わされたお方(かた)のものである」(第7章16節)( "… for instance: “My doctrine is not mine but his that sent me” (VII, 16), …" )とか,私は自ら話す(みずから はなす)のではない.父が私を遣わされ,私に命令(めいれい)をくださり,私がなにを言(い)い,なにを話(はな)すか指示(しじ)される」(第12章49節)と述(の)べておられます( "… or, “I have not spoken from out of myself; but the Father who sent me, he gave me commandment, what I should say, and what I should speak” (XII, 49)." ).もちろん,伝統がなんであるかを教会や世界に向けて話す(きょうかいや せかいに むけて はなす)のに,現世(げんせ)で教皇ほど権限を持つ者(きょうこうほど けんげん をもつもの)はほかにいません( "Of course nobody on earth is more authorized than the Pope to tell Church and world what is in Tradition, …" ).しかし,教皇は伝統に含(ふく)まれないものが伝統の中(なか)にあると教会や世界に向かって述べることはできません( "… but he cannot tell Church or world that there is in Tradition what is not in it." ).伝統の中にあるものは客観的(きゃっかん てき)で( "What is in it is objective, …" ),今(いま)では2千年の歴史(に せんねんの れきし)をもっており( "… now 2,000 years old, …" ),教皇より上の存在(うえの そんざい)です( "… it is above the Pope …" ).それは,まさしく父の命令が,キリストが人間として教えることに制限を設けた(せいげんを もうけた)ように,教皇が教皇として教えうる(きょうこうが きょうこうとして おしえうる)ことに制限を設けています( "… and it sets limits to what a Pope can teach, just as the Father’s commandment set limits to what Christ as man would teach." ).

     それなのに,リベラル派や教皇空位論者たちは教皇がEMやOUMを外れて教え(はずれて おしえ)ても無謬(むびゅう)であると,どうして言い張れる(いい はれる)のでしょうか?( "Then how can liberals and sedevacantists alike claim, in effect, that the Pope is infallible even outside of both EM and OUM ? " ) それは,両者(りょうしゃ)がともに真実より権威を過大評価(しんじつより けんいを かだい ひょうか)し,教会の権威(きょうかいの けんい)は真実の召使でなく主人(しんじつの めしつかい でなく しゅじん)だと見(み)るからです( "Because both overrate authority in relation to truth, and so they see Church authority no longer as the servant but as the master of truth." ).どうしてなのでしょうか?( "And why is that ? " ) その理由(りゆう)は彼らがいずれも,プロテスタント主義(ぷろてすたんと しゅぎ)が真実を拒み(しんじつを こばみ),フランス革命以降(ふらんす かくめい いこう)のリベラリズムが客観的真実(きゃっかんてき しんじつ)を壊(こわ)してきた近代世界の子供(きんだい せかいの こども)たちだからです( "… Because they are both children of the modern world where Protestantism defied the Truth and liberalism ever since the French Revolution has been dissolving objective truth." ).もし,客観的真実などもう存在(そんざい)しないのであれば( "And if there is no longer any objective truth, …" ),むろん権力者(けんりょくしゃ)たちはなにをしても意(い)のままでしょう( "… then of course authority can say whatever it can get away with, …" ).それは今私(いま わたくし)たちが身の回り(みの まわり)に眺めている状態(ながめて いる じょうたい)です( "… which is what we observe all around us, …" ).そして,教皇パウロ6世やフェレー司教(きょうこう ぱうろ ろくせいや ふぇれー しきょう)のような人たち( "a Paul VI or a Bishop Fellay" )がますます気まぐれで暴君的(きまぐれで ぼうくんてき)になるのを止(と)めさせるものは何一つ残って(なに ひとつ のこって)いません( "… and there is nothing left to stop a Paul VI or a Bishop Fellay from becoming more and more arbitrary and tyrannical in the process." ).

     神の御母(聖母マリア)よ,あなたの御子イエズス・キリスト(おんこ いえずす・きりすと)が人間(にんげん)として「死ぬまで,しかも十字架上の死に至るまで(しぬまで,しかも じゅうじかじょうの しに いたるまで)」従(したが)われた御父の与えし(おんちちの あたえし)超自然,自然の双方における,普遍の(ふへんの)(=カトリックの)真実と命令(ちょうしぜん,しぜんの そうほうにおける ふへんの〈=かとりっくの〉しんじつと めいれい)を,どうぞ私が愛し(あいし),理解し(りかいし),守れ(まもれ)ますよう,(神の恩寵を願い求める私の祈願〈かみの おんちょうを ねがい もとめる わたくしの きがん〉を)神にとりなし私のため必要な恩寵を神より獲得して下さい(かみに とりなし ひつような おんちょうを わたくしの ため かみより かくとくして ください)(訳注後記).( "Mother of God, obtain for me to love, discern and defend that Truth and order coming from the Father, both supernatural and natural, to which your own Son was as man subject, “unto death, even to the death of the Cross”." ).

     キリエ・エレイソン.

     客観的真実の大きな喪失
     (きゃかんてき しんじつの おおきな そうしつ)
     ( "The loss of objective truth in depth explains" )

     それが教会の教皇空位論者やリベラル派の苦悩の根源
     (それが きょうかいの きょうこう くうい ろんじゃや       
      りべらるはの くのうの こんげん)
     ( "The Church’s sedevac and liberal pains. " )


     リチャード・ウィリアムソン司教






* * *




第6パラグラフの訳注:
「十字架の死にいたるまで」について

・当時(とうじ),「十字架に架けられた者は呪われる(じゅうじかに かけられた ものは のろわれる)」と言われていた.

・人類の罪を贖うための犠性〈じんるいの つみを あがなう ための いけにえ〉として,真の神の御独り子イエズス・キリストは十字架刑を受けられた.

・人類の罪を贖う(じんるいの つみを あがなう)ことができるのは唯一(ゆいいつ),
神の御独り子(かみの おん ひとりご)のみだからである.




* * *

訳注を続けます.

* * *