エレイソン・コメンツ 第320回 (2013年8月31日)
自由主義(=リベラリズム,"liberalism" )による聖ピオ十世会( "the Society of St. Pius X" = SSPX )の乗っ取り(のっとり)がカトリック教会の連続的敗北のなかの最新の一例にすぎないように思える私たちの時代では,教会が次々に勝利(しょうり)を得(え)た時代が過去にあったとは想像しがたいでしょう( "In our days when liberalism taking over the Society of St Pius X looks like merely the last in a long line of defeats of the Catholic Church, it is difficult to imagine that there was once a time when the Church scored one victory after another. " ).だが,今年はそのような勝利のひとつであるミラノ勅令(ちょくれい)が紀元313年に発令されてから1,700周年の節目(ふしめ)の年に当たります( "Nevertheless this year we celebrate the 1700th anniversary of one of those victories, the Edict of Milan, dating from 313 AD." ).
コンスタンティヌス大帝( " “Constantine the Great” " )として知られるローマ皇帝コンスタンティヌス( "The Roman Emperor Constantine" )は紀元272年生まれですが,彼がキリスト教の洗礼を受けたのは337年の崩御(ほうぎょ)直前のことでした.ただし,彼はそれまで長年にわたりキリスト教に深く共感する立場を取っていました( "The Roman Emperor Constantine, known as “Constantine the Great”, was born in 272 and he was baptised Christian only shortly before his death in 337, but he had been seriously sympathetic to Christianity for many years beforehand." ).コンスタンティヌス皇帝が312年宿敵(しゅくてき)マクセンティウス皇帝( "Emperor Maxentius" )と戦うためローマに進軍したとき( "When in 312 he marched on Rome to fight his rival, Emperor Maxentius, …" ),私たちの主(しゅ)イエズス・キリストは彼がキリストを表(あらわ)すギリシア語の最初の2文字 X と P を重(かさ)ねて「戦旗」(せんき)( "labarum" )に取り入れるなら戦いでの勝利を約束すると告(つ)げられました( "… Our Lord promised him victory if he would put on his battle standards the “labarum”, the X with a P imposed on it, the first two Greek letters of the word Christ." ).コンスタンティヌスは私たちの主キリストのお告げ通りにし,(訳注1・ローマのテーベレ河にかかる)ミルビアン橋の戦いでマクセンティウスを破(やぶ)りました( "Constantine did what Our Lord said, and defeated Maxentius at the battle of the Milvian Bridge." ).ローマ支配を確立したコンスタンティヌスは翌年の313年ミラノ勅令( "the Edict of Milan" )を発令(はつれい)しました( "Once in firm control of Rome, Constantine issued the following year the Edict of Milan." ).
(訳注1・①ミルビアン橋 "the Milvian Bridge"(英語),Ponte Milvio(イタリア語),Pons Milvius(ラテン語)②テーベレ河 "Il Tevere" はイタリア語."Tiberis"〈ラテン語〉,"The Tiber"〈英語→タイバー〉)
それ以前の250年間,キリストの信奉者(しんぽうしゃ)たちは皇帝ネロ(紀元37-68年)から皇帝ディオクレティアヌス(紀元243-316年)までの歴代ローマ皇帝たちの下で10度におよぶ流血(りゅうけつ)の迫害(はくがい)を受けていました( "In the course of the previous 250 years, worshippers of Christ had suffered ten bloody persecutions under the Roman Emperors, from Nero (37-68) to Diocletian (243-316)." ).キリスト教徒は自分たちにとって異教(いきょう)である当時のローマ国教(こっきょう)を拒(こば)んだので,ローマ帝国はキリスト教を禁(きん)じていました( "Christians had refused the pagan State religion, so the State had banned Christianity." ).ミラノ勅令(ちょくれい)は何をしたのでしょうか.当時,帝国内で許されていたほかの諸宗教と並行(へいこう)してキリスト教を初めて合法(ごうほう)と認めたのです( "What the Edict of Milan did was to make Christianity for the first time legal alongside other religions allowed in the Empire." ).それはローマのキリスト教への転換(=改宗〈かいしゅう〉)で決定的(けっていてき)な一歩(いっぽ)でした( "It was the decisive step in the conversion of Rome to Christianity." ).325年,コンスタンティヌスはキリスト教の教義に関するニケア公会議( "Council of Nicaea" )の正統性(せいとうせい)を承認(しょうにん)しました( "In 325 Constantine endorsed the orthodoxy of the dogmatic Council of Nicaea." ).皇帝テオドシウス( "Emperor Theodosius" )は380年,キリスト教をローマ帝国の国教と定め,392年にはテオドシウスは異教信奉(いきょう しんぽう)( "pagan worship" )を禁止(きんし)しました( "In 380 the Emperor Theodosius made Christianity the official religion of Rome, and in 392 Theodosius forbade pagan worship. " ).
このように,コンスタンティヌスは(カトリック)教会と国家の結合(けつごう)( "that union of (Catholic) Church and State" )を初(はじ)めて打ちだし,それが今日(こんにち)では「西洋文明」( "Western civilisation" )として広く知られるキリスト教世界の基盤(きばん)となりました( "Thus Constantine began that union of (Catholic) Church and State which was the foundation of Christendom, better known today as “Western civilisation”." ).以来,その結合は実際面(じっさいめん)で悪用されたことがあったかもしれませんが,原則面(げんそくめん)では人々の救いに大いに役立ってきました( "Whatever may have been down the ages the abuse of that union in practice, it is in principle immensely fruitful for the salvation of souls." ).このことは現代においても,良識(りょうしき)ある司祭(しさい)と良識ある警官(けいかん)が互(たが)いに役割を補い合(おぎないあ)う町はいずれも得(とく)をしていることを考えれば分かるでしょう( "One need only think of how any township even today will profit from a sane priest and a sane policeman complementing one another." ).1,600年のあいだカトリック教会は教会と国家の結合(けつごう)という原則を守り通してきましたが( "For 1600 years the Catholic Church held to that principle of the union of Church and State, …" ),ここ200年のあいだに革命的自由主義(かくめいてき じゆうしゅぎ)が絶(た)えずその原則を壊(こわ)そうとしてきました( "… whereas for the last 200 years Revolutionary liberalism has constantly sought to undermine it." ).教会がカトリック国家の原則を譲歩(じょうほ)し,認(みと)めないようになったのは第二バチカン公会議が人間の尊厳宣言( "Dignitatis Humanae" )の中で宗教的自由を教えるようになってからのことです( "Only with Vatican II did the Church at last give way and repudiate the doctrine of the Catholic State by its teaching on religious liberty in Dignitatis Humanae." )(訳注2後記) (第二バチカン)公会議を牛耳(ぎゅうじ)る新近代主義者たち( "neo-modernists" )の首謀者(しゅぼうしゃ)イブ・コンガー神父( "Fr Yves Congar" )は同公会議が「コンスタンティヌスの教会」( "Constantinian Church" )に終止符を打ったことを大いに喜びました( "A ringleader of the neo-modernists at the Council, Fr Yves Congar rejoiced that the Council had put an end to the “Constantinian Church”. " ).
(訳注2・詳しい説明:1,600年にも及ぶカトリック国家の歴史すなわち,教会と国家の結合による人類の平和的共存と真実の神の摂理〈せつり〉の下での正義に基づく総合的な社会安定の長い歴史に対し,このカトリック国家の原則――平和〈良識ある司祭〈=教会〉の役割〉と正義〈良識ある警官〈=国家〉の役割〉――を壊そうとする第二バチカン公会議体制による人間〈の我欲〉中心主義(=人間〈の我欲〉尊重主義)の歴史はまだほんの短期間経過したに過ぎない,今日までの世界の歴史全体から見て,まだほんの200年ばかりの迫害.コンスタンティヌス皇帝以前のローマ帝国の初期のキリスト教徒たちはローマがキリスト教に改宗するまで250年にわたり流血の迫害を受けていた,ということ.).(訳注2の注釈後記)
ところで,聖職者たちが世俗的(せぞくてき)な権力者(けんりょくしゃ)たちと結(むす)びつき,それにより諸々の世俗的誘惑をもたらしかねないのは事実ですが,( "Now it is true that the churchmen being linked to the worldly authorities will bring temptations of worldliness with it, but …" )いかなる国家も神と人間についての何らかの宗教的もしくは反宗教的観点に対応する法律を施行(せこう)せざるをえなくなります( "… any State is bound to enforce laws that correspond to some religious or anti-religious view of God and man." ).そのような国家的観点が世俗的ヒューマニズム(=人間中心主義,"secular humanism" )に基(もと)づく反宗教と合致(がっち)するとき,カトリック教徒としての生活を送ることがどれほど難(むずか)しくなるかは,皆さんの周(まわ)りを見ればお分かり(おわかり)でしょう( "To see how difficult it is to lead a Catholic life when that view of the State accords with the anti-religion of secular humanism, just look around you." ).第二バチカン公会議の司教たちが現代世界に合(あ)うようにカトリック教会を変える気持ちになったのはまさしく神を敬(うやま)わない諸国家が彼らに重圧(じゅうあつ)をかけたからです( "It was the all-surrounding pressure of modern irreligious States upon the bishops of Vatican II that made them want to change the Catholic Church to fit the modern world." ).同じ圧力(あつりょく)がいま SSPX 指導部に同じ自由主義革命への道を歩ませようとしています( "The same pressure is now making the leadership of the Society of St Pius X go the way of the Revolution." ).
これとは正反対に,コンスタンティヌスは過去において数百万人の霊魂の救済に貢献(こうけん)したに違いありません.彼はその功績(こうせき)により間違(まちが)いなく天国にいます( "Constantine on the contrary must down the ages have contributed to the salvation of millions of souls, an achievement for which he is surely in Heaven." ).コンスタンティヌス皇帝,どうぞ私たちのためにお祈りください( "Emperor Constantine, pray for us." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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(訳注2の注釈)
新約聖書の参照.
神の御子,私達の主イエズス・キリストの聖福音〈マテオ聖福音書4:4〉からの引用:
『イエズスは(試〈こころ〉みる者=悪魔に)言い返した,
「〈人はパンだけで生きるのではない.
神の口から出るすべてのことばによって生きる〉(旧約聖書・第二法の書8:3)
と書かれてある」.』
人間は健全(けんぜん)に生きるために
・衣食住〈いしょくじゅう〉の充足〈じゅうそく〉のみならず,
・普遍(ふへん)の真理(しんり)・真実(しんじつ)に立ち,正しい正義(せいぎ)・道徳に従(したが)って生活する必要がある.
・身体(からだ)と精神(せいしん)の食べ物だけでなく,
・魂〈霊魂〉を養〈やしな〉う糧〈かて〉が必要である.
・「神のみことば」が霊魂の糧である.
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2013年8月31日土曜日
2013年8月24日土曜日
319 抵抗運動のビジョン 8/24
エレイソン・コメンツ 第319回 (2013年8月24日)
多くのカトリック信徒は聖ピオ十世会( "the Society of St. Pius X" = SSPX )指導者が相変わらず同会を導(みちび)いて行(ゆ)こうとしている方向性(ほうこう せい)を目にして怯(おび)えています.そして,彼らは過去数十年のあいだ同会から多くを得たと高く評価(ひょうか)しているため,現在の同会に代わる新しい会が生まれることを切望(せつぼう)しています( "A number of Catholic souls today keeping the Catholic Faith are scared by the direction still being taken at present by the leadership of the Society of St Pius X, and since they appreciate just how much they have received from the Society over the last few decades, they desperately wish for a replacement Society to take its place." ).彼らはそれぞれが独立した小さな抵抗運動(ていこう うんどう)グループのネットワーク( "a network of independent pockets of resistance" )が掲(かか)げるこれまでとは異(こと)なるビジョンが自分たちの将来(しょうらい)のビジョンになるのではないかと怯えています( "They are scared by the different vision of a network of independent pockets of resistance being their future." ).こうした人たちは,それが傑出(けっしゅつ)した預言者(よげんしゃ)で伝統運動( "the Traditional movement" )の先駆者(せんく しゃ)だったフランス人のドミニコ会司祭ロジャー ‐ トーマス・カルメル(仏語でロジェ〈ㇽ〉 ‐ トゥマ・カルメル)神父( "Fr Roger-Thomas Calmel" )のビジョンだったと知ればほっと安心するかもしれません( "They may be reassured to know that it was the vision of an outstanding prophet and pioneer of the Traditional movement, the French Dominican priest Fr Roger-Thomas Calmel.(1914-1975)." ).以下に彼の著書(ちょしょ) いつの世も変わらない教会のための簡潔(かんけつ)な釈明(しゃくめい) ( "Brief Apology for the Church of all Time" )をフランス語から意訳(いやく)・翻案(ほんあん)します:-- ( " Here is a page, freely translated and adapted from the French, of his Brief Apology for the Church of all Time (pp. 48-51):-- " )
「教会の支配層(しはい そう)がいかに狂(くる)った行動をとろうとも,司祭は司教に取って代われませんし,平信徒は司祭に取って代われません( " “However crazily the Catholic hierarchy may behave, priests cannot take the place of bishops, nor can laity take the place of priests. " ).だとすれば,私たちは司祭とキリスト教一般信徒で構成する大きな世界的同盟とか組織を結成(けっせい)し,支配層と対話を持ち彼らにカトリック教の秩序(ちつじょ)を回復させる可能性を考えるでしょうか?( "Do we then think of setting up a huge worldwide league or association of priests and Christian layfolk to enter into dialogue with the hierarchy and force them to restore Catholic order ? " ) それは遠大(えんだい)で心を動かすような考えですが非現実的です( "It is a grand and touching idea, but it is unreal." ).そのため,そうしたグループはいずれも教会のグループでありたいと望みながらも,教区( "diocese" )でも大司教区( "archdiocese" )でも小教区( "parish" )でもないため,教会内で権力(けんりょく)の行使(こうし)を受けたり権力を代行(だいこう)してもらったりするカテゴリーのいずれにも属(ぞく)さないことになります( "That is because any such group, wanting to be a Church group but being neither a diocese nor an archdiocese nor a parish nor a religious order, will come under none of the categories over which and for which authority is exercised in the Church. " ).それは人為的集団(じんいてき しゅうだん)( "artificial grouping" )にすぎず,確立(かくりつ)され公認(こうにん)された教会の正真正銘(しょうしんしょうめいい)のどのグループから知られることのない人工物(じんこうぶつ)( "artefact" )でしょう( "It will be an artificial grouping, an artefact unknown to any of the Church’s real groups which are established and recognized as such." ).」
「したがって,あらゆる人間集団と同じように,そうしたグループ内には指導部,権力の問題が持ち上がり,グループが大きければ大きいほど問題は深刻(しんこく)なものになるでしょう( " “So, as with every grouping together of men, the problem of leadership and authority will arise, and the huger the group, the sharper the problem." ).結末(けつまつ)は間違(まちが)いなく次のようになります: すなわち,組織(そしき)であるなら,そのグループは権力の問題を解決(かいけつ)しなければならない.人為的(すなわち自然的でも超自然的でもないグループ)なら,そのグループは権利の問題を解決できない( "Unfailingly it will come down to this: being an association, the group must solve the problem of authority; being artificial (no kind of natural or supernatural group), it cannot solve the problem of authority." ).そこで,張り合う(はりあう)下部(かぶ)グループ( "Rival sub-groups" )が急速(きゅうそく)に生まれ,戦(たたか)いが避(さ)けられなくなり,その戦いを終わらせるにしても続けるにしても教会法による方法はなにも見つからない( "Rival sub-groups will rapidly arise, war will become inevitable, and there will be no canonical way to end or wage such a war." ).」
「では,混沌状態(こんとん じょうたい),それも往々(おうおう)にして神聖を汚(けが)すような混沌状態に陥(おちい)っても,私たちはなにも為(な)しえないよう運命(うんめい)づけられているのでしょうか? 私はそうは思いません( " “Are we then condemned to being able to do nothing amidst the chaos, often a sacrilegious chaos? I do not think so." ).ます第一に,教会の無謬性(むびゅう せい)( "the indefectibility of the Church" )は秘跡(ひせき),とりわけ聖体拝領,聖職( "the sacraments, especially the Eucharist and Holy Orders" )を維持(いじ)し,救済(きゅうさい)という唯一不変(ゆいいつ ふへん)の教理を説くに十分な本物の個人的支配層( "enough of a genuine persinal hierarchy" )が現れるのを世界が終焉(しゅうえん)に至(いた)るまで保証しています( "Firstly, the indefectibility of the Church guarantees that down to the end of the world there will be enough of a genuine personal hierarchy to maintain the sacraments, especially the Eucharist and Holy Orders, and to preach the one and only unchanging doctrine of Salvation." ).そして第二に,本来の支配層の不手際がいかにひどいとしても,私たち司祭,平信徒はすべてそれぞれの小さな権力を持っています( "And secondly, whatever be the failings of the real hierarchy, we all of us, priests and laity, have our little part of authority." ).」
「したがって,説教(せっきょう)のできる司祭には力(ちから)の限(かぎ)りを尽(つ)くして説教し,罪を赦(ゆる)し(= "to absolve sins",免罪〈めんざい〉し),真のミサ聖祭(せいさい)を祝(いわ)ってもらいましょう( " “Therefore let the priest capable of preaching go to the limits of his power to preach, to absolve sins and to celebrate the true Mass." ).教えるシスター( "the teaching Sister",=修道女)には,彼女が持つ神よりの恩寵(おんちょう)と力の限りを尽くして少女たちに信仰,諸々の良き道徳,純潔を教え,そして読み書きをしつけてもらいましょう( "Let the teaching Sister go to the limits of her grace and power to form girls in the Faith, good morals, purity and literature." ).教会すなわち全世界のキリスト教徒たちの群(む)れ(訳注後記1)の中の小さな一砦(いち とりで)( "a little fort" )の上に権限(けんげん)を持つ一人ひとりの司祭また平信徒(ひら しんと),そして平信徒たちや司祭たちから成るあらゆる小グループには,その可能性と力の限りを尽(つ)くしてもらいましょう( "Let every priest and layman, every little group of laity and priests having authority and power over a little fort of the Church and Christendom, go to the limits of their possibilities and powers." ).そのような砦の各々(おのおの)に属するリーダーたちと(その部下である)同僚たちにはお互いを知り,コンタクト(連絡〈れんらく〉)を取り合うようにしてもらいましょう( "Let leaders and inmates of such forts know and be in contact with one another." ).一つひとつの砦が,祈りと(賛美の)歌を捧(ささ)げるなかで,御一方(おんひとかた)の真の権力者(=権威すなわち神)により保護(ほご)され,防御(ぼうぎょ)され,訓練(くんれん)されるようにし,そのようにして導(みちび)かれている個々の砦には,可能な限り頑張(がんば)って共に合体し一つの神聖な要塞(ようさい)( "a fortress of holiness" )へと育(そだ)ってもらいましょう( "Let each of the forts protected, defended, trained and directed in its praying and singing by a real authority, become as far as possible a fortress of holiness." ). そうすることが真の教会の継続(けいぞく)を保証(ほしょう)し,神の御喜(およろこ)びの良き時(よきとき)に間に合う(まにあう)よう教会再生(きょうかい さいせい)の準備(じゅんび)を効果的(こうかてき)に進めることになります( "That is what will guarantee the continuation of the true Church and will prepare efficaciously for its renewal in God’s good time." ).」
「だから私たちは恐(おそ)れる必要(ひつよう)はありません( "“So we need not to be afraid, …" ).かえって神を信頼して祈り,(カトリック教の)伝統( "Tradition" )に従い自分たちの領域(りょういき)の範囲内(はんい ない)で,恐れることなくみな自(みずか)ら持つ力を行使し,そのようにしてローマが本来のローマに,司教が本来の司教に戻(もど)る幸福(こうふく)な時が来(く)るのに備(そな)えるべきです.」( "… but to pray with all confidence and to exercise without fear, according to Tradition and in the sphere that is ours, the power we have, preparing thus for the happy time when Rome will come back to being Rome and bishops to being bishops.” " )
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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(訳注後記1)
「教会すなわち全世界のキリスト教徒たちの群(む)れ」
"the Church and Christendom" について:
「教会」"the Church" =カトリック教会(公教会)
=神の御独り子・唯一の救世主イエズス・キリストがお建てになった唯一の教会.
=キリストは後継を使徒聖ペトロに託(たく)された .
聖ペトロ=初代ローマ司教=初代ローマ教皇
「聖ペトロの座」(使徒聖座) "SANCTA SEDES/The Holy See" (バチカン "Vatican" )
・「教会の4つの印」"The Four Marks of The Church"
真の神が遣(つか)わした救世主(キリスト)の真の教会の印は
1・唯一の "ONE"
2・聖なる "HOLY"
3・公(おおやけ)の(=普遍〈ふへん〉の)"CATHOLIC"
4.使徒継承の "APOSTOLIC"
教会である.
ローマ・カトリック教会だけがこの4印の全てを満たしている(「使徒信経」 "Creed/CREDO" ).
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多くのカトリック信徒は聖ピオ十世会( "the Society of St. Pius X" = SSPX )指導者が相変わらず同会を導(みちび)いて行(ゆ)こうとしている方向性(ほうこう せい)を目にして怯(おび)えています.そして,彼らは過去数十年のあいだ同会から多くを得たと高く評価(ひょうか)しているため,現在の同会に代わる新しい会が生まれることを切望(せつぼう)しています( "A number of Catholic souls today keeping the Catholic Faith are scared by the direction still being taken at present by the leadership of the Society of St Pius X, and since they appreciate just how much they have received from the Society over the last few decades, they desperately wish for a replacement Society to take its place." ).彼らはそれぞれが独立した小さな抵抗運動(ていこう うんどう)グループのネットワーク( "a network of independent pockets of resistance" )が掲(かか)げるこれまでとは異(こと)なるビジョンが自分たちの将来(しょうらい)のビジョンになるのではないかと怯えています( "They are scared by the different vision of a network of independent pockets of resistance being their future." ).こうした人たちは,それが傑出(けっしゅつ)した預言者(よげんしゃ)で伝統運動( "the Traditional movement" )の先駆者(せんく しゃ)だったフランス人のドミニコ会司祭ロジャー ‐ トーマス・カルメル(仏語でロジェ〈ㇽ〉 ‐ トゥマ・カルメル)神父( "Fr Roger-Thomas Calmel" )のビジョンだったと知ればほっと安心するかもしれません( "They may be reassured to know that it was the vision of an outstanding prophet and pioneer of the Traditional movement, the French Dominican priest Fr Roger-Thomas Calmel.(1914-1975)." ).以下に彼の著書(ちょしょ) いつの世も変わらない教会のための簡潔(かんけつ)な釈明(しゃくめい) ( "Brief Apology for the Church of all Time" )をフランス語から意訳(いやく)・翻案(ほんあん)します:-- ( " Here is a page, freely translated and adapted from the French, of his Brief Apology for the Church of all Time (pp. 48-51):-- " )
「教会の支配層(しはい そう)がいかに狂(くる)った行動をとろうとも,司祭は司教に取って代われませんし,平信徒は司祭に取って代われません( " “However crazily the Catholic hierarchy may behave, priests cannot take the place of bishops, nor can laity take the place of priests. " ).だとすれば,私たちは司祭とキリスト教一般信徒で構成する大きな世界的同盟とか組織を結成(けっせい)し,支配層と対話を持ち彼らにカトリック教の秩序(ちつじょ)を回復させる可能性を考えるでしょうか?( "Do we then think of setting up a huge worldwide league or association of priests and Christian layfolk to enter into dialogue with the hierarchy and force them to restore Catholic order ? " ) それは遠大(えんだい)で心を動かすような考えですが非現実的です( "It is a grand and touching idea, but it is unreal." ).そのため,そうしたグループはいずれも教会のグループでありたいと望みながらも,教区( "diocese" )でも大司教区( "archdiocese" )でも小教区( "parish" )でもないため,教会内で権力(けんりょく)の行使(こうし)を受けたり権力を代行(だいこう)してもらったりするカテゴリーのいずれにも属(ぞく)さないことになります( "That is because any such group, wanting to be a Church group but being neither a diocese nor an archdiocese nor a parish nor a religious order, will come under none of the categories over which and for which authority is exercised in the Church. " ).それは人為的集団(じんいてき しゅうだん)( "artificial grouping" )にすぎず,確立(かくりつ)され公認(こうにん)された教会の正真正銘(しょうしんしょうめいい)のどのグループから知られることのない人工物(じんこうぶつ)( "artefact" )でしょう( "It will be an artificial grouping, an artefact unknown to any of the Church’s real groups which are established and recognized as such." ).」
「したがって,あらゆる人間集団と同じように,そうしたグループ内には指導部,権力の問題が持ち上がり,グループが大きければ大きいほど問題は深刻(しんこく)なものになるでしょう( " “So, as with every grouping together of men, the problem of leadership and authority will arise, and the huger the group, the sharper the problem." ).結末(けつまつ)は間違(まちが)いなく次のようになります: すなわち,組織(そしき)であるなら,そのグループは権力の問題を解決(かいけつ)しなければならない.人為的(すなわち自然的でも超自然的でもないグループ)なら,そのグループは権利の問題を解決できない( "Unfailingly it will come down to this: being an association, the group must solve the problem of authority; being artificial (no kind of natural or supernatural group), it cannot solve the problem of authority." ).そこで,張り合う(はりあう)下部(かぶ)グループ( "Rival sub-groups" )が急速(きゅうそく)に生まれ,戦(たたか)いが避(さ)けられなくなり,その戦いを終わらせるにしても続けるにしても教会法による方法はなにも見つからない( "Rival sub-groups will rapidly arise, war will become inevitable, and there will be no canonical way to end or wage such a war." ).」
「では,混沌状態(こんとん じょうたい),それも往々(おうおう)にして神聖を汚(けが)すような混沌状態に陥(おちい)っても,私たちはなにも為(な)しえないよう運命(うんめい)づけられているのでしょうか? 私はそうは思いません( " “Are we then condemned to being able to do nothing amidst the chaos, often a sacrilegious chaos? I do not think so." ).ます第一に,教会の無謬性(むびゅう せい)( "the indefectibility of the Church" )は秘跡(ひせき),とりわけ聖体拝領,聖職( "the sacraments, especially the Eucharist and Holy Orders" )を維持(いじ)し,救済(きゅうさい)という唯一不変(ゆいいつ ふへん)の教理を説くに十分な本物の個人的支配層( "enough of a genuine persinal hierarchy" )が現れるのを世界が終焉(しゅうえん)に至(いた)るまで保証しています( "Firstly, the indefectibility of the Church guarantees that down to the end of the world there will be enough of a genuine personal hierarchy to maintain the sacraments, especially the Eucharist and Holy Orders, and to preach the one and only unchanging doctrine of Salvation." ).そして第二に,本来の支配層の不手際がいかにひどいとしても,私たち司祭,平信徒はすべてそれぞれの小さな権力を持っています( "And secondly, whatever be the failings of the real hierarchy, we all of us, priests and laity, have our little part of authority." ).」
「したがって,説教(せっきょう)のできる司祭には力(ちから)の限(かぎ)りを尽(つ)くして説教し,罪を赦(ゆる)し(= "to absolve sins",免罪〈めんざい〉し),真のミサ聖祭(せいさい)を祝(いわ)ってもらいましょう( " “Therefore let the priest capable of preaching go to the limits of his power to preach, to absolve sins and to celebrate the true Mass." ).教えるシスター( "the teaching Sister",=修道女)には,彼女が持つ神よりの恩寵(おんちょう)と力の限りを尽くして少女たちに信仰,諸々の良き道徳,純潔を教え,そして読み書きをしつけてもらいましょう( "Let the teaching Sister go to the limits of her grace and power to form girls in the Faith, good morals, purity and literature." ).教会すなわち全世界のキリスト教徒たちの群(む)れ(訳注後記1)の中の小さな一砦(いち とりで)( "a little fort" )の上に権限(けんげん)を持つ一人ひとりの司祭また平信徒(ひら しんと),そして平信徒たちや司祭たちから成るあらゆる小グループには,その可能性と力の限りを尽(つ)くしてもらいましょう( "Let every priest and layman, every little group of laity and priests having authority and power over a little fort of the Church and Christendom, go to the limits of their possibilities and powers." ).そのような砦の各々(おのおの)に属するリーダーたちと(その部下である)同僚たちにはお互いを知り,コンタクト(連絡〈れんらく〉)を取り合うようにしてもらいましょう( "Let leaders and inmates of such forts know and be in contact with one another." ).一つひとつの砦が,祈りと(賛美の)歌を捧(ささ)げるなかで,御一方(おんひとかた)の真の権力者(=権威すなわち神)により保護(ほご)され,防御(ぼうぎょ)され,訓練(くんれん)されるようにし,そのようにして導(みちび)かれている個々の砦には,可能な限り頑張(がんば)って共に合体し一つの神聖な要塞(ようさい)( "a fortress of holiness" )へと育(そだ)ってもらいましょう( "Let each of the forts protected, defended, trained and directed in its praying and singing by a real authority, become as far as possible a fortress of holiness." ). そうすることが真の教会の継続(けいぞく)を保証(ほしょう)し,神の御喜(およろこ)びの良き時(よきとき)に間に合う(まにあう)よう教会再生(きょうかい さいせい)の準備(じゅんび)を効果的(こうかてき)に進めることになります( "That is what will guarantee the continuation of the true Church and will prepare efficaciously for its renewal in God’s good time." ).」
「だから私たちは恐(おそ)れる必要(ひつよう)はありません( "“So we need not to be afraid, …" ).かえって神を信頼して祈り,(カトリック教の)伝統( "Tradition" )に従い自分たちの領域(りょういき)の範囲内(はんい ない)で,恐れることなくみな自(みずか)ら持つ力を行使し,そのようにしてローマが本来のローマに,司教が本来の司教に戻(もど)る幸福(こうふく)な時が来(く)るのに備(そな)えるべきです.」( "… but to pray with all confidence and to exercise without fear, according to Tradition and in the sphere that is ours, the power we have, preparing thus for the happy time when Rome will come back to being Rome and bishops to being bishops.” " )
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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(訳注後記1)
「教会すなわち全世界のキリスト教徒たちの群(む)れ」
"the Church and Christendom" について:
「教会」"the Church" =カトリック教会(公教会)
=神の御独り子・唯一の救世主イエズス・キリストがお建てになった唯一の教会.
=キリストは後継を使徒聖ペトロに託(たく)された .
聖ペトロ=初代ローマ司教=初代ローマ教皇
「聖ペトロの座」(使徒聖座) "SANCTA SEDES/The Holy See" (バチカン "Vatican" )
・「教会の4つの印」"The Four Marks of The Church"
真の神が遣(つか)わした救世主(キリスト)の真の教会の印は
1・唯一の "ONE"
2・聖なる "HOLY"
3・公(おおやけ)の(=普遍〈ふへん〉の)"CATHOLIC"
4.使徒継承の "APOSTOLIC"
教会である.
ローマ・カトリック教会だけがこの4印の全てを満たしている(「使徒信経」 "Creed/CREDO" ).
* * *
2013年8月20日火曜日
318 病理的状態 8/17
エレイソン・コメンツ 第318回 (2013年8月17日)
カトリック君主として知られるスペインのイサベラ女王がかつて祭壇(さいだん)に立つ司祭,子供を産む女性,絞首刑(こうしゅけい)に処(しょ)される罪人(ざいにん)の絵を画家に注文されたと伝えられます( "The great Queen of Spain, Isabella the Catholic, is reported once to have commissioned a painting that would show a priest at the altar, a woman giving birth and a criminal being hanged." ).このことを言い換(いいか)えれば,人は皆それぞれがなすべきことをなし,それ以外のことをすべきでないということです( "In other words, let everyone do what they are meant to do, and not something else." ).しかし,私は先週のエレイソン・コメンツで現代人はあるべき姿からほど遠いと示唆(しさ)しました.すなわち,教師は教えず,医者は往々(おうおう)にして病人を治(なお)さず,警官は人々を守っていないと書きました( "But these “Comments” suggested last week that today people are not being what they are: teachers often no longer teach, doctors often no longer heal, policemen often no longer protect, …" ).私はついでに,もっとひどいことに諸々の司祭たちは往々にして神の従者(じゅうしゃ)でなくなっていると付け加えるべきでした( "… and -- worst of all, I could have added -- priests are often no longer men of God." ).私のイタリア人の友人は,今日蔓延(まんえん)しているこうした現実への不適応(ふてきおう)を「病理的」(びょうりてき)( “pathological” )という言葉で言い表しています.
この「病理的」という言葉は,「心理療法用語( “psychobabble” )」という言葉で巧(たく)みに命名(めいめい)されている精神科医の専門用語の一種です( "Now “pathological” is a word belonging to that jargon of psychiatrists which is well named as “psychobabble”, …" ).古くから存在する落ち込んだ人間性の単なる苦痛を多数の音節(おんせつ)から成る新語を使って粉飾(ふんしょく)しているにすぎません( "… because it dresses up in brand-new words, each of many syllables, what are merely good old miseries of fallen human nature. " ).精神科医たちは神を信じているわけではないので不信心(訳注・godlessness,共産主義などのように神を否定する思想)から生(しょう)じる諸々の問題を解決できませんが,いうなれば少なくともそれを解決しようと努(つと)めています( "Now psychiatrists, themselves godless, cannot solve problems of godlessness, but at least they are trying, so to speak." ).したがって目新(めあたら)しい心理療法用語は,過去数世紀の背教(はいきょう)行為(こうい)によって現代人の心に鬱積(うっせき)した苦痛(くつう)には,かつてなかった新しい側面(そくめん)があることを示すのに多少(たしょう)は役立つでしょう.私の友人は次のように書いています:-- ( "So the novelty of psychobabble serves at least to suggest that the miseries being piled up in human beings today by the past centuries piling up the apostasy, do have something unprecedented about them. My friend writes:-- " )
「ここで言う病理とは突発的(とっぱつてき)もしくは先天的(せんてんてき)病気(びょうき)を意味し,解釈(かいしゃく)を広げれば,それは人間の異常(いじょう)もしくは歪(ゆが)んだ状態が先天性(せんてんせい)にせよ後天性(こうてんせい)にせよ個々人の体質の一部になっているということでしょう( " “Pathology may mean an occasional or congenital ailment, by extension an abnormal or distorted way of being, which, whether innate or acquired, has become part of an individual’s constitution." ).同じ考え方は拡大解釈すれば個々人のグループや社会にもあてはめられます( "The same concept can be applied by extension to a group of individuals or a society." ).このような方法で病理,すなわち,現代世界の不健康で異常な状態を語ることができるでしょう( "In this way one may speak of the pathological, i.e. sick, abnormal, condition of the modern world." ).そう考えるなら,病理状態は後天性であれ先天性であれ,その状態にある当事者たちはそれをありのまま受け入れなくなるでしょう.いやむしろ,彼らはそれを正常と考えるため,それを盾(たて)として使い,それを誇(ほこ)りにさえするでしょう( "As such, whether the condition is acquired or in-born, it is not seen for what it is by the person or persons concerned, nay, since they see it as normal they use it as a shield, and even boast about it." ).異常が正常になること,あるいはその逆(ぎゃく)の現象は現代世界,現代人のドラマそのものです.」( "Abnormality becoming normal, and vice versa, is the drama of the modern world and modern man.” " )
かくして,私たちは祭壇(さいだん)を無視する司祭,出産しない女性,処刑されない罪人を目にすることになります.だが,これがまさしく私たちを取り巻く世界です ―― 心理療法用語がぴったり当てはまるというわけです! ( "Then we should find the priest neglecting the altar, women not giving birth and criminals not being hanged. But that is exactly the world around us -- the psychobabble fits ! " ) そこで,同じ友人はカトリック教徒が現代世界のこの病理的状態にどう対処すべきかについて次のように述べています: ( "So here is what the same friend has to say about how Catholics must react to this pathological condition of the modern world: " )
「カトリック教徒は,私たちがかつて経験したことのないような状況に生きており,そこでは客観的現実に対する感覚がすべて着実(ちゃくじつ)に失(うしな)われつつあることを理解しなければなりません( " “Catholics must understand that we are living in an unprecedented situation in which all sense of objective reality is steadily being lost." ).これは教会にとって,50年前に有効だった評価基準(ひょうかきじゅん)がもう通用(つうよう)しなくなっていることを意味(いみ)します( "This means for the Church that points of reference still valid 50 years ago no longer apply." ).教会にはこれまでと違う解決策が求められています.その解決策とは,無秩序(むちつじょ)(訳注・=病理,すなわち,現代世界の不健康で異常な状態=心理療法用語=精神病)が益々(ますます)増え続けることを考慮(こうりょ)に入れたものであるだけでなく,悪化し続ける状況(じょうきょう)に十分適応(てきおう)できるよう融通性(ゆうづうせい)をもったものです( "Different solutions are called for which not only take into account the possibility of ever increasing disorder, but also remain elastic enough to adapt to a continually worsening situation." ).もし教理が第一義的で決定的( "primary and decisive" )なものだとすれば,カトリック教徒や将来司祭になる者たちには終末(しゅうまつ)がいかにユニークなものかを教理的に教えなければなりません( "If then doctrine is primary and decisive, Catholics and future priests must be taught doctrinally how unique these end-times are." ).福音書は私たちに終末が将来訪れると説いていますが,終末はすでに来ており,現状は神がもうたくさんだと言われるまで悪化の一途(いっと)をたどりかねません.」( "The Gospels tell us of their coming in the future, but they are with us here now, and they are liable to get only worse, until such time as God says enough is enough.” " )
要するに,数世紀にわたる(訳注・カトリック教の)背教(はいきょう)が人類の中に「病理」と称する現実の受け入れ拒否(きょひ)を積み上(つみあ)げてきたのです( "In brief, centuries of increasing apostasy have piled up in the human race a refusal of reality which can be called “pathological”, …" ).そして,それが前代未聞(ぜんだいみもん)の人間の苦悩(くのう),すなわち,かつてなかったほどの物質的繁栄(ぶっしつてき はんえい)によっても癒(いや)されない苦悩を引き起こしています( "… and which is causing unheard of levels of distress in people, distress unalleviated by an equally unprecedented level of material prosperity." ).カトリック教会は背教と闘(たたか)ってきましたが,第二バチカン公会議がその戦いを投げ出したとき,病理的幻想(げんそう)が世界を占領(せんりょう)し,それを反キリスト( "the Antihrist" )へと向かわせました( "The Catholic Church fought this apostasy, but when at Vatican II it gave up the fight, the pathological fantasy took over the world, and it lurched towards the Antichrist." ).ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )は崩(くず)れかかった教会内に正気(しょうき)の砦(とりで)( "a fortress of sanity" )を築(きず)かれましたが,同じような病理が彼の聖ピオ十世会( "the Society of St. Pius X" = SSPX )を乗っ取ろうとしています( "Archbishop Lefebvre created a fortress of sanity inside the crumbling Church, but now the same pathology is well on its way to taking over his Society." ).
教師たちよ,教えなさい! 医師たちよ,癒(いや)しなさい! 女性たちよ,子供を産みなさい! 司祭たちよ,ルフェーブル大司教が語(かた)り,実践(じっせん)したことをすべて学びなさい.そして,イサベラ女王,どうぞ私たちのためにお祈りください.( "Teachers, teach ! Doctors, heal ! Women, give birth ! Priests, study everything that Archbishop Lefebvre said and did. And Queen Isabella, please pray for us." )
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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カトリック君主として知られるスペインのイサベラ女王がかつて祭壇(さいだん)に立つ司祭,子供を産む女性,絞首刑(こうしゅけい)に処(しょ)される罪人(ざいにん)の絵を画家に注文されたと伝えられます( "The great Queen of Spain, Isabella the Catholic, is reported once to have commissioned a painting that would show a priest at the altar, a woman giving birth and a criminal being hanged." ).このことを言い換(いいか)えれば,人は皆それぞれがなすべきことをなし,それ以外のことをすべきでないということです( "In other words, let everyone do what they are meant to do, and not something else." ).しかし,私は先週のエレイソン・コメンツで現代人はあるべき姿からほど遠いと示唆(しさ)しました.すなわち,教師は教えず,医者は往々(おうおう)にして病人を治(なお)さず,警官は人々を守っていないと書きました( "But these “Comments” suggested last week that today people are not being what they are: teachers often no longer teach, doctors often no longer heal, policemen often no longer protect, …" ).私はついでに,もっとひどいことに諸々の司祭たちは往々にして神の従者(じゅうしゃ)でなくなっていると付け加えるべきでした( "… and -- worst of all, I could have added -- priests are often no longer men of God." ).私のイタリア人の友人は,今日蔓延(まんえん)しているこうした現実への不適応(ふてきおう)を「病理的」(びょうりてき)( “pathological” )という言葉で言い表しています.
この「病理的」という言葉は,「心理療法用語( “psychobabble” )」という言葉で巧(たく)みに命名(めいめい)されている精神科医の専門用語の一種です( "Now “pathological” is a word belonging to that jargon of psychiatrists which is well named as “psychobabble”, …" ).古くから存在する落ち込んだ人間性の単なる苦痛を多数の音節(おんせつ)から成る新語を使って粉飾(ふんしょく)しているにすぎません( "… because it dresses up in brand-new words, each of many syllables, what are merely good old miseries of fallen human nature. " ).精神科医たちは神を信じているわけではないので不信心(訳注・godlessness,共産主義などのように神を否定する思想)から生(しょう)じる諸々の問題を解決できませんが,いうなれば少なくともそれを解決しようと努(つと)めています( "Now psychiatrists, themselves godless, cannot solve problems of godlessness, but at least they are trying, so to speak." ).したがって目新(めあたら)しい心理療法用語は,過去数世紀の背教(はいきょう)行為(こうい)によって現代人の心に鬱積(うっせき)した苦痛(くつう)には,かつてなかった新しい側面(そくめん)があることを示すのに多少(たしょう)は役立つでしょう.私の友人は次のように書いています:-- ( "So the novelty of psychobabble serves at least to suggest that the miseries being piled up in human beings today by the past centuries piling up the apostasy, do have something unprecedented about them. My friend writes:-- " )
「ここで言う病理とは突発的(とっぱつてき)もしくは先天的(せんてんてき)病気(びょうき)を意味し,解釈(かいしゃく)を広げれば,それは人間の異常(いじょう)もしくは歪(ゆが)んだ状態が先天性(せんてんせい)にせよ後天性(こうてんせい)にせよ個々人の体質の一部になっているということでしょう( " “Pathology may mean an occasional or congenital ailment, by extension an abnormal or distorted way of being, which, whether innate or acquired, has become part of an individual’s constitution." ).同じ考え方は拡大解釈すれば個々人のグループや社会にもあてはめられます( "The same concept can be applied by extension to a group of individuals or a society." ).このような方法で病理,すなわち,現代世界の不健康で異常な状態を語ることができるでしょう( "In this way one may speak of the pathological, i.e. sick, abnormal, condition of the modern world." ).そう考えるなら,病理状態は後天性であれ先天性であれ,その状態にある当事者たちはそれをありのまま受け入れなくなるでしょう.いやむしろ,彼らはそれを正常と考えるため,それを盾(たて)として使い,それを誇(ほこ)りにさえするでしょう( "As such, whether the condition is acquired or in-born, it is not seen for what it is by the person or persons concerned, nay, since they see it as normal they use it as a shield, and even boast about it." ).異常が正常になること,あるいはその逆(ぎゃく)の現象は現代世界,現代人のドラマそのものです.」( "Abnormality becoming normal, and vice versa, is the drama of the modern world and modern man.” " )
かくして,私たちは祭壇(さいだん)を無視する司祭,出産しない女性,処刑されない罪人を目にすることになります.だが,これがまさしく私たちを取り巻く世界です ―― 心理療法用語がぴったり当てはまるというわけです! ( "Then we should find the priest neglecting the altar, women not giving birth and criminals not being hanged. But that is exactly the world around us -- the psychobabble fits ! " ) そこで,同じ友人はカトリック教徒が現代世界のこの病理的状態にどう対処すべきかについて次のように述べています: ( "So here is what the same friend has to say about how Catholics must react to this pathological condition of the modern world: " )
「カトリック教徒は,私たちがかつて経験したことのないような状況に生きており,そこでは客観的現実に対する感覚がすべて着実(ちゃくじつ)に失(うしな)われつつあることを理解しなければなりません( " “Catholics must understand that we are living in an unprecedented situation in which all sense of objective reality is steadily being lost." ).これは教会にとって,50年前に有効だった評価基準(ひょうかきじゅん)がもう通用(つうよう)しなくなっていることを意味(いみ)します( "This means for the Church that points of reference still valid 50 years ago no longer apply." ).教会にはこれまでと違う解決策が求められています.その解決策とは,無秩序(むちつじょ)(訳注・=病理,すなわち,現代世界の不健康で異常な状態=心理療法用語=精神病)が益々(ますます)増え続けることを考慮(こうりょ)に入れたものであるだけでなく,悪化し続ける状況(じょうきょう)に十分適応(てきおう)できるよう融通性(ゆうづうせい)をもったものです( "Different solutions are called for which not only take into account the possibility of ever increasing disorder, but also remain elastic enough to adapt to a continually worsening situation." ).もし教理が第一義的で決定的( "primary and decisive" )なものだとすれば,カトリック教徒や将来司祭になる者たちには終末(しゅうまつ)がいかにユニークなものかを教理的に教えなければなりません( "If then doctrine is primary and decisive, Catholics and future priests must be taught doctrinally how unique these end-times are." ).福音書は私たちに終末が将来訪れると説いていますが,終末はすでに来ており,現状は神がもうたくさんだと言われるまで悪化の一途(いっと)をたどりかねません.」( "The Gospels tell us of their coming in the future, but they are with us here now, and they are liable to get only worse, until such time as God says enough is enough.” " )
要するに,数世紀にわたる(訳注・カトリック教の)背教(はいきょう)が人類の中に「病理」と称する現実の受け入れ拒否(きょひ)を積み上(つみあ)げてきたのです( "In brief, centuries of increasing apostasy have piled up in the human race a refusal of reality which can be called “pathological”, …" ).そして,それが前代未聞(ぜんだいみもん)の人間の苦悩(くのう),すなわち,かつてなかったほどの物質的繁栄(ぶっしつてき はんえい)によっても癒(いや)されない苦悩を引き起こしています( "… and which is causing unheard of levels of distress in people, distress unalleviated by an equally unprecedented level of material prosperity." ).カトリック教会は背教と闘(たたか)ってきましたが,第二バチカン公会議がその戦いを投げ出したとき,病理的幻想(げんそう)が世界を占領(せんりょう)し,それを反キリスト( "the Antihrist" )へと向かわせました( "The Catholic Church fought this apostasy, but when at Vatican II it gave up the fight, the pathological fantasy took over the world, and it lurched towards the Antichrist." ).ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )は崩(くず)れかかった教会内に正気(しょうき)の砦(とりで)( "a fortress of sanity" )を築(きず)かれましたが,同じような病理が彼の聖ピオ十世会( "the Society of St. Pius X" = SSPX )を乗っ取ろうとしています( "Archbishop Lefebvre created a fortress of sanity inside the crumbling Church, but now the same pathology is well on its way to taking over his Society." ).
教師たちよ,教えなさい! 医師たちよ,癒(いや)しなさい! 女性たちよ,子供を産みなさい! 司祭たちよ,ルフェーブル大司教が語(かた)り,実践(じっせん)したことをすべて学びなさい.そして,イサベラ女王,どうぞ私たちのためにお祈りください.( "Teachers, teach ! Doctors, heal ! Women, give birth ! Priests, study everything that Archbishop Lefebvre said and did. And Queen Isabella, please pray for us." )
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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2013年8月10日土曜日
317 真の列聖か? 8/10
エレイソン・コメンツ 第317回 (2013年8月10日)
「教皇フランシスコが来春,ヨハネ・パウロ2世とヨハネ23世を列聖するお考えのようですが,あなたはこれについてどうお考えですか? これは第二バチカン公会議を列聖する手段ではないのでしょうか?( " “What do you think of Pope Francis’ intention to “canonise” John-Paul II and John XXIII next spring ? Is it not a way of “canonising” Vatican II ? " ) そしてこのことは,第二バチカン公会議以前の神学論のあらゆるマニュアルが教皇は列聖を執り行う場合,決して誤(あやま)りを犯さないと教えているわけですから,教皇の権威の問題を提起するのではないでしょうか?」( "And does that not raise the question of authority, given that all the manuals of theology prior to Vatican II teach that the Pope is infallible when he pronounces a canonisation ?” " )これは,フランスの雑誌「リバロール」誌( "Rivarol" )の記者が最近私に寄せた真剣な(やや弱めた表現= "slighly modified" )質問です( "Such was the serious question (slightly modified) put to me recently by a journalist of Rivarol." ).これに対し,私は次のように答えました:-- ( "I answered along these lines:-- " )
公会議(派体制下)教会( "Conciliar Church" )の指導者たちが公会議派の歴代教皇を列聖するという決断は,神の敵たち(少なくとも客観的な表現= "at least objective" )がカトリック教をうまく処理し,それを新世界秩序の新宗教( "the new religion of the New World Order" )に取って替(か)わらせようとする堅(かた)い意思を示すものです( "The determination shown by the heads of the Conciliar Church to canonise the Conciliar Popes demonstrates the firm will of the enemies (at least objective) of God to be done with the Catholic religion and to replace it with the new religion of the New World Order." ).かくして,これまでの列聖の手続きが壊(こわ)れ新(あら)たに作られ( "made new" ),それによって偽造(ぎぞう)された新聖人( "Newsaints" )が新教会(=新しい教会)( "a Newchurch" )に適合(てきごう)することになるのでしょう( "Thus to a Newchurch correspond Newsaints to be fabricated by a process of canonisation which has been dismantled and “made new”." ).近代主義ではいつもそうですが,言葉は変わらなくても,その言葉が意味する中身はまったく別なものになります( "As is always the case with modernism, the words remain the same but the content of the words is quite different." ).したがって,真の信仰を持つカトリック教徒たちは,新しい列聖(=新列聖)( "Newcanonisations" )が誤っていないかどうかについていささかも心を煩(わずら)わす必要などありません( "Therefore Catholics who have the true Faith need not worry one little bit whether these Newcanonisations are infallible or not." ).新たな列聖者は新教会 "Newchurch" から生まれるのであり,その新教会はカトリック教会の代用品(だいようひん)( "dummy" )にすぎないのですから( "They are proceeding from the Newchurch, which is a dummy of the Catholic Church." ).
だが,この代用品とは一体どのようなものなのでしょうか?( "But then what is this dummy ? " ) これは細心(さいしん)の注意を要する問題です.なぜなら,代用品などと言う人たちは,最近では「反ユダヤ主義」( “anti-semite” )という言葉と同じように人々を恐れさせる言葉となっている「教皇空位主義者(きょうこう くうい しゅぎ しゃ)」( "sedevacantist" )だと非難(ひなん)されかねないからです( "That is a delicate question, because one easily gets accused of being a “sedevacantist”, which is a word that nowadays frightens folk almost as much as the word “anti-semite”. " ).しかし,私たちが注意を集中すべきことは,私たちの主イエズス・キリストが言われているように(新約聖書・ヨハネ聖福音書:第7章24節),「外見(がいけん)に頼(たよ)らず正しい判断(はんだん)がなにかを見極(みきわ)める」ことです( "But what we need is to concentrate on reality by “judging just judgment and not according to the appearance”, as Our Lord says (Jn. VII, 24). " ).私たちは見かけや感情や言葉などに惑(まど)わされ判断(はんだん)を誤ってはいけません( "We must not let ourselves be misled by appearances, by emotions or by words..たとえば,いまの世の中では,学校は学ぶのではなく何も学ばない場所に,病院(びょういん)は病人(びょうにん)を治(なお)すのではなく殺(ころ)す場所に,警官(けいかん)は人を守るのでなく圧迫(あっぱく)する道具になっているのではないでしょうか? 似たような例はまだ他にもいろいろあるのではないでしょうか?( "Today for instance, are not schools becoming centres of unlearning instead of learning, hospitals places of killing instead of healing, police instruments of oppression instead of protection, and so on ? " ).
かくして、シスター・ルシア( "Sister Lucy" )の言う「悪魔の誤り導き」( “diabolical disorientation” )によって( “Thus by what Sister Lucy called a process of “diabolical disorientation”, …” ),聖職者たちは真実でなく嘘(うそ)の代理人になりさがっています( “… the churchmen have become agents of lying instead of the Truth.” ).彼らは創造主たる神に対する現代人の過激(かげき)かつ普遍的(ふへんてき)な謀反(むほん)である革命(かくめい)( "the Revolution" )の考え方や理想に身も心も奪われています( "They have allowed their minds and hearts to be taken over by the ideas and ideals of the Revolution, that radical and universal uprising of modern man against his God and Creator." ).だが,これら客観的謀反人(相変わらず神に仕えているつもりでいる=ヨハネ聖福音書:第16章2節 "Jn. XVI, 2" )は,私たちの主イエズス・キリストの御言葉(マテオ聖福音書:第23章2節 "Mt. XXIII, 2" )にある「モーゼの椅子(いす)に座(すわ)っている」のは彼ら以外にいないという意味で依然(いぜん)として聖職者のままでいます( "Yet these objective traitors (they can still mean in their hearts to be serving God – Jn. XVI, 2) are still churchmen in the sense that nobody else than they is “sitting on the chair of Moses”, in Our Lord’s words (Mt.XXIII, 2)." ).教皇は依然として在位(ざいい)のままです( "The Pope is sitting there." ).
言い換(か)えれば問題の代用品教会(だいようひん きょうかい)( "the dummy Church" )とは聖職者でない人たちによってではなく,全(まった)くカトリック教とは異(こと)なる新しい宗教に多(おお)かれ少(すく)なかれ身も心も奪(うば)われた聖職者たちによって占有(せんゆう)された教会のことです( "In other words the dummy Church in question is the Church occupied not by men who are not churchmen, but by churchmen whose hearts and heads are occupied by more or less of a new religion which is absolutely not Catholic. " ).だが,「多かれ少なかれ」という点にご注目ください( "But notice the “more or less”. " ).林檎(りんご)の腐(くさ)った部分がいっぺんに林檎全体を腐らせることがないように,代用品教会すなわち新教会はカトリック教会の輝(かがや)きを奪(うば)いつつあるかもしれませんが( "Just as rot does not take over an apple all at once, so the dummy church, or the Newchurch, may be in the process of eclipsing the Catholic Church, …" ),そこには今日(こんにち)までカトリック信仰を守ってきた数人の司教たち,多くの司祭たち,多数の一般信徒たちがまだ残っています( "… but within it are still some bishops, many priests and a host of layfolk who can have kept the Catholic Faith up till now." ).この人たちは信仰を脅(おびや)かしかねない滑(すべ)りやすい坂道の上に立っています( "They are on a slippery slope, highly dangerous for their faith, …" ).だが,彼らが真の教会の外(そと)にいるとは言えません( "… but one cannot say that they are outside of the true Church." ).このことは神が御存(ごぞん)じです( "God knows." ).
そういうわけで,新教会の当局者を問題にするなら,私は彼らの権威を一時的(いちじてき)に気が触(ふ)れた家庭内の父親の権威と同じように扱(あつか)うことにします( "So when it comes to the authorities of the Newchurch, I would treat their authority as one does that of a family father who has gone temporarily mad." ).周(まわ)りいる人たちの誰もが父親の狂気(きょうき)に目を向けず,それより彼の狂気(きょうき)がいつ終(お)わるかを見守(みまも)り続(つづ)けるでしょう.だが,彼らの誰もがそのあいだずっと彼を愛し続け,父親としての彼に内在(ないざい)する権威を尊敬さえし続けるでしょう( "One pays no more attention to his madness than to be watching out for the moment when it comes to an end, but in the meantime one does not cease loving him or even respecting the authority intrinsic to his fatherhood." ).ですから神よどうぞ私をお助けください( "So help me God." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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「教皇フランシスコが来春,ヨハネ・パウロ2世とヨハネ23世を列聖するお考えのようですが,あなたはこれについてどうお考えですか? これは第二バチカン公会議を列聖する手段ではないのでしょうか?( " “What do you think of Pope Francis’ intention to “canonise” John-Paul II and John XXIII next spring ? Is it not a way of “canonising” Vatican II ? " ) そしてこのことは,第二バチカン公会議以前の神学論のあらゆるマニュアルが教皇は列聖を執り行う場合,決して誤(あやま)りを犯さないと教えているわけですから,教皇の権威の問題を提起するのではないでしょうか?」( "And does that not raise the question of authority, given that all the manuals of theology prior to Vatican II teach that the Pope is infallible when he pronounces a canonisation ?” " )これは,フランスの雑誌「リバロール」誌( "Rivarol" )の記者が最近私に寄せた真剣な(やや弱めた表現= "slighly modified" )質問です( "Such was the serious question (slightly modified) put to me recently by a journalist of Rivarol." ).これに対し,私は次のように答えました:-- ( "I answered along these lines:-- " )
公会議(派体制下)教会( "Conciliar Church" )の指導者たちが公会議派の歴代教皇を列聖するという決断は,神の敵たち(少なくとも客観的な表現= "at least objective" )がカトリック教をうまく処理し,それを新世界秩序の新宗教( "the new religion of the New World Order" )に取って替(か)わらせようとする堅(かた)い意思を示すものです( "The determination shown by the heads of the Conciliar Church to canonise the Conciliar Popes demonstrates the firm will of the enemies (at least objective) of God to be done with the Catholic religion and to replace it with the new religion of the New World Order." ).かくして,これまでの列聖の手続きが壊(こわ)れ新(あら)たに作られ( "made new" ),それによって偽造(ぎぞう)された新聖人( "Newsaints" )が新教会(=新しい教会)( "a Newchurch" )に適合(てきごう)することになるのでしょう( "Thus to a Newchurch correspond Newsaints to be fabricated by a process of canonisation which has been dismantled and “made new”." ).近代主義ではいつもそうですが,言葉は変わらなくても,その言葉が意味する中身はまったく別なものになります( "As is always the case with modernism, the words remain the same but the content of the words is quite different." ).したがって,真の信仰を持つカトリック教徒たちは,新しい列聖(=新列聖)( "Newcanonisations" )が誤っていないかどうかについていささかも心を煩(わずら)わす必要などありません( "Therefore Catholics who have the true Faith need not worry one little bit whether these Newcanonisations are infallible or not." ).新たな列聖者は新教会 "Newchurch" から生まれるのであり,その新教会はカトリック教会の代用品(だいようひん)( "dummy" )にすぎないのですから( "They are proceeding from the Newchurch, which is a dummy of the Catholic Church." ).
だが,この代用品とは一体どのようなものなのでしょうか?( "But then what is this dummy ? " ) これは細心(さいしん)の注意を要する問題です.なぜなら,代用品などと言う人たちは,最近では「反ユダヤ主義」( “anti-semite” )という言葉と同じように人々を恐れさせる言葉となっている「教皇空位主義者(きょうこう くうい しゅぎ しゃ)」( "sedevacantist" )だと非難(ひなん)されかねないからです( "That is a delicate question, because one easily gets accused of being a “sedevacantist”, which is a word that nowadays frightens folk almost as much as the word “anti-semite”. " ).しかし,私たちが注意を集中すべきことは,私たちの主イエズス・キリストが言われているように(新約聖書・ヨハネ聖福音書:第7章24節),「外見(がいけん)に頼(たよ)らず正しい判断(はんだん)がなにかを見極(みきわ)める」ことです( "But what we need is to concentrate on reality by “judging just judgment and not according to the appearance”, as Our Lord says (Jn. VII, 24). " ).私たちは見かけや感情や言葉などに惑(まど)わされ判断(はんだん)を誤ってはいけません( "We must not let ourselves be misled by appearances, by emotions or by words..たとえば,いまの世の中では,学校は学ぶのではなく何も学ばない場所に,病院(びょういん)は病人(びょうにん)を治(なお)すのではなく殺(ころ)す場所に,警官(けいかん)は人を守るのでなく圧迫(あっぱく)する道具になっているのではないでしょうか? 似たような例はまだ他にもいろいろあるのではないでしょうか?( "Today for instance, are not schools becoming centres of unlearning instead of learning, hospitals places of killing instead of healing, police instruments of oppression instead of protection, and so on ? " ).
かくして、シスター・ルシア( "Sister Lucy" )の言う「悪魔の誤り導き」( “diabolical disorientation” )によって( “Thus by what Sister Lucy called a process of “diabolical disorientation”, …” ),聖職者たちは真実でなく嘘(うそ)の代理人になりさがっています( “… the churchmen have become agents of lying instead of the Truth.” ).彼らは創造主たる神に対する現代人の過激(かげき)かつ普遍的(ふへんてき)な謀反(むほん)である革命(かくめい)( "the Revolution" )の考え方や理想に身も心も奪われています( "They have allowed their minds and hearts to be taken over by the ideas and ideals of the Revolution, that radical and universal uprising of modern man against his God and Creator." ).だが,これら客観的謀反人(相変わらず神に仕えているつもりでいる=ヨハネ聖福音書:第16章2節 "Jn. XVI, 2" )は,私たちの主イエズス・キリストの御言葉(マテオ聖福音書:第23章2節 "Mt. XXIII, 2" )にある「モーゼの椅子(いす)に座(すわ)っている」のは彼ら以外にいないという意味で依然(いぜん)として聖職者のままでいます( "Yet these objective traitors (they can still mean in their hearts to be serving God – Jn. XVI, 2) are still churchmen in the sense that nobody else than they is “sitting on the chair of Moses”, in Our Lord’s words (Mt.XXIII, 2)." ).教皇は依然として在位(ざいい)のままです( "The Pope is sitting there." ).
言い換(か)えれば問題の代用品教会(だいようひん きょうかい)( "the dummy Church" )とは聖職者でない人たちによってではなく,全(まった)くカトリック教とは異(こと)なる新しい宗教に多(おお)かれ少(すく)なかれ身も心も奪(うば)われた聖職者たちによって占有(せんゆう)された教会のことです( "In other words the dummy Church in question is the Church occupied not by men who are not churchmen, but by churchmen whose hearts and heads are occupied by more or less of a new religion which is absolutely not Catholic. " ).だが,「多かれ少なかれ」という点にご注目ください( "But notice the “more or less”. " ).林檎(りんご)の腐(くさ)った部分がいっぺんに林檎全体を腐らせることがないように,代用品教会すなわち新教会はカトリック教会の輝(かがや)きを奪(うば)いつつあるかもしれませんが( "Just as rot does not take over an apple all at once, so the dummy church, or the Newchurch, may be in the process of eclipsing the Catholic Church, …" ),そこには今日(こんにち)までカトリック信仰を守ってきた数人の司教たち,多くの司祭たち,多数の一般信徒たちがまだ残っています( "… but within it are still some bishops, many priests and a host of layfolk who can have kept the Catholic Faith up till now." ).この人たちは信仰を脅(おびや)かしかねない滑(すべ)りやすい坂道の上に立っています( "They are on a slippery slope, highly dangerous for their faith, …" ).だが,彼らが真の教会の外(そと)にいるとは言えません( "… but one cannot say that they are outside of the true Church." ).このことは神が御存(ごぞん)じです( "God knows." ).
そういうわけで,新教会の当局者を問題にするなら,私は彼らの権威を一時的(いちじてき)に気が触(ふ)れた家庭内の父親の権威と同じように扱(あつか)うことにします( "So when it comes to the authorities of the Newchurch, I would treat their authority as one does that of a family father who has gone temporarily mad." ).周(まわ)りいる人たちの誰もが父親の狂気(きょうき)に目を向けず,それより彼の狂気(きょうき)がいつ終(お)わるかを見守(みまも)り続(つづ)けるでしょう.だが,彼らの誰もがそのあいだずっと彼を愛し続け,父親としての彼に内在(ないざい)する権威を尊敬さえし続けるでしょう( "One pays no more attention to his madness than to be watching out for the moment when it comes to an end, but in the meantime one does not cease loving him or even respecting the authority intrinsic to his fatherhood." ).ですから神よどうぞ私をお助けください( "So help me God." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
Supplement/補遺 APOLOGIA PRO NUCI 8/07
エレイソン・コメンツ 補遺(Supplement) (2013年8月7日)
リチャード・ウィリアムソン司教による
「隔行対話」形式・韻文形式の英詩 "stichomythic verse"
(英語原文)
APOLOGIA PRO NUCI
Author’s preface --
Poor little me ! In Spanish just appeared
From a colleague, a list of countless reasons why
One crazy English bishop must be feared
As an enemy of the Faith. “Oh dear !” say I.
For if I do not answer, then, says he,
That proves me guilty. So, for better or worse,
Let me defend that Brit, but in carefree,
And not too serious, stichomythic verse.
___________________________
THE SILENCE
The Resistance started well before last year.
It’s true, and those who blazed the trail are dear.
The harm was there. For years you did not speak.
One always hopes the harm will never peak.
You praised the Motu Proprio – Roman trick !
It’s true. To see the good I was too quick.
You spoke not when good colleagues were expelled.
Their cause, but not their persons, I upheld.
You spoke up on Six Million – with what gain ?
A substitute religion’s harm is plain.
You think you draw right-wingers ? No hope there !
Of their salvation do you quite despair ?
_________________________
THE PAST
You tell us very little of your past.
Persons and personalities come last.
Winchester College served the bad Empire.
Elsewhere yourself its teaching you admire.
Your university was a real spies’ nest.
The spying had for me no interest.
Your guru, Malcolm Muggeridge, was a mole.
He died a Catholic. Truth was his main goal.
Fabians are wolves, in skins of sheep disguised.
He was no Fabian. Truth he recognized.
The new religion was all he ever knew.
Deeply he thought and prayed. His heart was true.
___________________________
IN THE SSPX
An agent of the new religion you are !
Not if Archbishop Lefebvre is my lodestar.
Schmidberger, you – two pincers of one crab !
Go tell him that ! He’ll say “Idiotic blab !”
You talk so tough, but just to keep Trads mod.
Well, judging by the fruits, that’s rather odd.
Your eccentricity is just a mask.
To poison Catholics ? Them you need to ask.
British subversion – that’s the key to you.
Subvert the Devil is what I hope to do.
As Seminary Rector good men you drove out.
Most chose to leave. Few did I ever rout.
Spying and the use of terror marked your rule.
Smart seminarians thought me rather a fool.
You helped to expel the Nine, good men and true.
But to th’Archbishop’s line they would not hew.
______________________
THE COAT OF ARMS
Your coat of arms – a rose upon a cross !
Therefore I’m Rosicrucian ? -- I’m at a loss !
No, no ! The rose obliterates Our Lord !
Heavens above ! And what, the lion and sword ?
Venice, Venetian usurers they do show.
And where was Sarto Cardinal ? Do you know ?
Anyway, you share the rose of M I 5.
And so for British Intelligence I live ?
________________________
THE TEACHING
Papal infallibility you deny.
Outside Tradition he cannot work, say I.
Your “re-incommunication” you did greet.
With sweetie-pies one can need to be sweet.
Pope Ben’dict knew not what he did, you say.
A total world in error holds much sway.
You say one Pope can rule two churches. How ?
As one hand could hold apple and rot, right now.
You love Maria Valtorta’s crazy work.
That accusation is one I will not shirk.
All kinds of apparitions make you enthuse.
St Paul said, “Sift, and keep what’s good.” That’s news ?
New rites of Holy Orders you defend.
On the edge of invalidity they’re penned.
Schmidberger, you, here bent the Archbishop’s mind.
Cath’lic theology makes no-one blind.
_____________________
THE CONCLUSION
Of Cath’lic Latin America you’re no friend.
In Argentina five years did I spend.
Cath’lic Resistance you just undermine.
Let time be judge. Its judgment will be mine.
Resistance into a sheer dead end you lead.
I lead it not, despite how many plead.
The Apocalypse is a constant theme of yours.
Our terrible times must give to all of us pause.
You’re British ! English ! What more need be said ?
When I love not my country, shoot me dead !
_________________________
ENVOI
Your abuse, dear Father, I take not amiss.
I pray we meet in everlasting bliss.
But while my anger you may not have stirred,
Be careful of God -- He judges every word.
RNW, London, 7 August, 2013.
* * *
・「隔行対話(かくぎょう たいわ)」…1 行おきに書いた対話;古代ギリシア劇に用いられた一形式.
・「韻文(いんぶん」…韻律(いんりつ)を整えた文
・対訳と訳注は後から追加掲載いたします.
* * *
リチャード・ウィリアムソン司教による
「隔行対話」形式・韻文形式の英詩 "stichomythic verse"
(英語原文)
APOLOGIA PRO NUCI
Author’s preface --
Poor little me ! In Spanish just appeared
From a colleague, a list of countless reasons why
One crazy English bishop must be feared
As an enemy of the Faith. “Oh dear !” say I.
For if I do not answer, then, says he,
That proves me guilty. So, for better or worse,
Let me defend that Brit, but in carefree,
And not too serious, stichomythic verse.
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THE SILENCE
The Resistance started well before last year.
It’s true, and those who blazed the trail are dear.
The harm was there. For years you did not speak.
One always hopes the harm will never peak.
You praised the Motu Proprio – Roman trick !
It’s true. To see the good I was too quick.
You spoke not when good colleagues were expelled.
Their cause, but not their persons, I upheld.
You spoke up on Six Million – with what gain ?
A substitute religion’s harm is plain.
You think you draw right-wingers ? No hope there !
Of their salvation do you quite despair ?
_________________________
THE PAST
You tell us very little of your past.
Persons and personalities come last.
Winchester College served the bad Empire.
Elsewhere yourself its teaching you admire.
Your university was a real spies’ nest.
The spying had for me no interest.
Your guru, Malcolm Muggeridge, was a mole.
He died a Catholic. Truth was his main goal.
Fabians are wolves, in skins of sheep disguised.
He was no Fabian. Truth he recognized.
The new religion was all he ever knew.
Deeply he thought and prayed. His heart was true.
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IN THE SSPX
An agent of the new religion you are !
Not if Archbishop Lefebvre is my lodestar.
Schmidberger, you – two pincers of one crab !
Go tell him that ! He’ll say “Idiotic blab !”
You talk so tough, but just to keep Trads mod.
Well, judging by the fruits, that’s rather odd.
Your eccentricity is just a mask.
To poison Catholics ? Them you need to ask.
British subversion – that’s the key to you.
Subvert the Devil is what I hope to do.
As Seminary Rector good men you drove out.
Most chose to leave. Few did I ever rout.
Spying and the use of terror marked your rule.
Smart seminarians thought me rather a fool.
You helped to expel the Nine, good men and true.
But to th’Archbishop’s line they would not hew.
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THE COAT OF ARMS
Your coat of arms – a rose upon a cross !
Therefore I’m Rosicrucian ? -- I’m at a loss !
No, no ! The rose obliterates Our Lord !
Heavens above ! And what, the lion and sword ?
Venice, Venetian usurers they do show.
And where was Sarto Cardinal ? Do you know ?
Anyway, you share the rose of M I 5.
And so for British Intelligence I live ?
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THE TEACHING
Papal infallibility you deny.
Outside Tradition he cannot work, say I.
Your “re-incommunication” you did greet.
With sweetie-pies one can need to be sweet.
Pope Ben’dict knew not what he did, you say.
A total world in error holds much sway.
You say one Pope can rule two churches. How ?
As one hand could hold apple and rot, right now.
You love Maria Valtorta’s crazy work.
That accusation is one I will not shirk.
All kinds of apparitions make you enthuse.
St Paul said, “Sift, and keep what’s good.” That’s news ?
New rites of Holy Orders you defend.
On the edge of invalidity they’re penned.
Schmidberger, you, here bent the Archbishop’s mind.
Cath’lic theology makes no-one blind.
_____________________
THE CONCLUSION
Of Cath’lic Latin America you’re no friend.
In Argentina five years did I spend.
Cath’lic Resistance you just undermine.
Let time be judge. Its judgment will be mine.
Resistance into a sheer dead end you lead.
I lead it not, despite how many plead.
The Apocalypse is a constant theme of yours.
Our terrible times must give to all of us pause.
You’re British ! English ! What more need be said ?
When I love not my country, shoot me dead !
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ENVOI
Your abuse, dear Father, I take not amiss.
I pray we meet in everlasting bliss.
But while my anger you may not have stirred,
Be careful of God -- He judges every word.
RNW, London, 7 August, 2013.
* * *
・「隔行対話(かくぎょう たいわ)」…1 行おきに書いた対話;古代ギリシア劇に用いられた一形式.
・「韻文(いんぶん」…韻律(いんりつ)を整えた文
・対訳と訳注は後から追加掲載いたします.
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2013年8月4日日曜日
316 ダメージは続く - II 8/3
エレイソン・コメンツ 第316回 (2013年8月3日)
昨年の4月中旬(ちゅうじゅん),聖ピオ十世会( "the Society of St. Pius X" = SSPX )が発表した教理宣言(きょうりせんげん)( "the Doctrinal Declaration" )はローマ教皇庁によって受け入れ拒否(きょひ)されたのだからすでに興味(きょうみ)の薄(うす)れた問題だと論(ろん)じる人たちは( "Besides arguing that the Doctrinal Declaration of mid-April last year was refused by Rome and so is of no further interest, …" ),さらにSSPX の3人の司教が最近の6月27日に発表した宣言を理由に挙(あ)げ ( "… also resort to the three bishops’ recent Declaration of June 27, …" ),同会内部には何ら重要な変化が起きているわけでなないと主張しています( "… people claiming that there has been no significant change in the Society of St Pius X" ).この新(あら)たな宣言が, SSPX 救命ボートは無傷(むきず)で,まだ完璧(かんぺき)に航海(こうかい)に耐(た)えうる状態だと人々に保証(ほしょう)するために出(だ)されたのは明白(めいはく)です( "… which was obviously designed to reassure people that the SSPX lifeboat is undamaged and still perfectly seaworthy." ).だが,ボートから転落して溺(おぼ)れたくないと望(のぞ)む(カトリック)信者の人たちは宣言を注意深(ちゅういぶか)く読む必要があります( "However, souls wishing not to drown need to take a closer look." ).
この宣言でとりわけ問題なのは11番目のパラグラフです( "It is the 11th paragraph which has become notorious." ).要約すると,ここで3人の司教は自分たちは,ローマ教皇庁(以下,「ローマ」と記〈しる〉す)がまもなく(カトリック)伝統に立ち戻る(たちもどる)か否(いな)か,あるいは公会議(こうかいぎ)の犯(おか)した誤(あやま)りに SSPX が公然(こうぜん)と異(い)を唱(いをとな)える権利(けんり)と義務(ぎむ)をローマがはっきり認(みと)めるか否かにかかわらず,今後(こんご)とも神の御導き(おんみちびき)( "Providence" )に従って行動するつもりだと述べています( "In brief, the bishops here state that they intend in the future to follow Providence, whether Rome soon returns to Tradition, or it recognizes explicitly the right and duty of the SSPX to oppose in public the Conciliar errors." ).この前段(ぜんだん)の部分「か否か( “whether” )」条項は問題外(もんだいがい)です.なぜなら,神のご介入(かいにゅう)でもない限(かぎ)り,バチカンに固(かた)く根(ね)をおろす神の敵(てき)たちが公会議から手を引く(てをひく)ことなどないからです( "Now this “whether” clause is out of the question because nothing short of a divine intervention is going to make the enemies of God, firmly established within the Vatican, let go of their Council." ).したがって,後段(こうだん)の部分「あるいは( “or” )」で始(はじ)まる条項に話を絞(しぼ)ります( "We come to the “or” clause." ).司教たちは SSPX が公会議に異を唱える「権利と義務( “right and duty” )」をローマが「はっきり認める( “explicitly recognizing” )」と述(の)べていますが,それは具体的(ぐたいてき)に何を意味するのでしょうか?( "What can the bishops have meant by Rome “explicitly recognizing” the “right and duty” of the SSPX to oppose the Council ? " )
彼らが明(あき)らかに意味するものは,ローマが SSPX に対し主流派教会内での何らかの公式な立場を約束するか,あるいは何らかの形で教会法上(きょうかいほうじょう)の新(あら)たな規則(きそく)を定(さだ)める( "some form of canonical regularisation" )かということでしょう( "The obvious meaning is that Rome would grant to the SSPX some official status within the mainstream Church, or some form of canonical regularisation." ).ローマによるそうした承認は SSPX 指導者たちが10年以上前にパリのシンクタンク GREC の考え方を取り入れて以来(いらい)勝ち取(かちと)ろうと努(つと)めてきたものです( "Some such recognition is obviously what the SSPX leaders have been striving for ever since they adopted the ideas of the Parisian think-tank, GREC, well over ten years ago." ).しかし,それら指導者たちがローマが示した承認(しょうにん)の諸条件(しょじょうけん)を昨年4月にほぼ全面的に受け入れた時( "But when those leaders in April of last year largely accepted Rome’s terms for such a recognition, …" ),結果として SSPX 内で抗議(こうぎ)の嵐(あらし)が吹き荒(ふきあ)れるという事態を引き起こしてしまいました( "… they created such a storm of protest within the SSPX …" ).そのため,彼らは4月中旬の諸条件に基づくローマの承認は今後(こんご)求(もと)めないと装(よそお)わざるをえなくなりました( "… that they were forced to pretend that they no longer want any such recognition based on the mid-April terms." ).このいきさつを踏(ふ)まえれば, SSPX の3司教が6月27日に出した宣言の中の「あるいは」で始まる部分は何を意味するのでしょうか?( "Then what can the “or” clause of June 27 mean ? " )
3人の司教たちが宣言を出した数日後(すうじつご),SSPX のフランス管区(かんく)担当(たんとう)の管区長が同会指導者たちににまったく同じ疑問(疑問)を投(な)げかけました( "Within a few days the French District Superior put to them exactly that question." ).彼が得(え)た答えは,問題の「あるいは」条項の部分( "the “or” clause" )は必ずしもローマによる公式承認を必要とするということでなく( "He was told that the “or” clause does not necessarily entail any official recognition, …" ),むしろ単に,一方では弱体化(じゃくたいか)しながらもカトリック信徒である教皇が SSPX の「権利と義務」を認めるほど十分にカトリック的である云云(=云々,うんぬん)とか,しかしながら他方では教皇があまりにも弱体化し教皇庁内部で孤立化しているためローマ人たちに SSPX の公式承認を押し付(おしつ)けられないでいる云云(うんぬん)といったことから生(しょう)じた不測の事態(じたい)に言及(げんきゅう)したものものだということでした.( "… but merely the eventuality of a weak but Catholic Popebeing on one hand Catholic enough to recognize SSPX's “right and duty”, etc., but on the other hand too weak and isolated within Rome to be able to impose on the Romans any official recognition, etc.." )そしてフランス管区長はこの回答に少なくとも満足(まんぞく)したようで,それを直(ただ)ちに自分の管区内の司祭たちに伝(つた)えました( "And the District Superior at least appeared to be content with this answer when he immediately transmitted it to the priests of his District." ).
さて,この答えに私はびっくり仰天(ぎょうてん)しました!("Well, knock me over with a feather ! " ) まず最初に,6月27日の宣言を読んで,この答えが3人の司教たちが念頭に描いていたものと同じだと理解した者が果(は)たしているでしょうか?("Firstly, who, just reading the text of June 27, could ever have guessed that this was what the bishops had in mind ? " ) そして次に,3人の司教たちが「神の御導(おんみちび)きに従(したが)う」という名目(めいもく)で受け入れるつもりだった一連の他の可能性を6月27日の宣言テキストから排除(はいじょ)させたものは何なんでしょうか?("And secondly, what in the text of June 27 excludes a range of other possibilities that the bishops would accept in the name of “following Providence” ? " ) 2012年6月17日にフェレー司教( "Bishop Fellay" )が教皇ベネディクト16世に書簡(しょかん)を送り,ローマと SSPX との和解を求めるため全力を尽(つ)くすと伝えているわけですから( "Given that on June 17, 2012, Bishop Fellay wrote to Benedict XVI that he would continue to do all he could to pursue a reconciliation between Rome and the SSPX, …" ),抜け目(ぬけめ)のないローマ人たちがやがて司教たちに和解の提案をし,常(つね)に「神の御導き( “Providence” )」 の名の下(もと)に - SSPX の司教たちが拒めなかった文言(訳注・そういう建前で,という意味合い.「神の 御導き」という文言〈もんごん〉を使えば SSPX はどんな条件も拒めなくなる,という意味合い) - それを拒(こば)めないことを6月27日の宣言テキストから排除したのは何故(なぜ・なにゆえ)でしょう?( "… what in the text of June 27 excludes the cunning Romans eventually making to the bishops such an offer of reconciliation that – always in the name of “Providence” – they could not refuse ? " )
「あるいは」で始まる宣言条項部分についてフランス管区長に与えられた答えを受け入れる人たちには幸運を祈ります( "Good luck to anyone who accepts the interpretation of the “or” clause given to the French District Superior. " ).しかし, SSPX 指導部が和解不可能な者たちとの和解を成し遂(なしと)げるという気違(きちが)いじみた夢(ゆめ)を捨て去(すてさ)っていないと考える人たちは私たちの周囲(しゅうい)に多数います( "However, there are many of us who will remain unconvinced that the leadership of the SSPX has given up on its mad dream of reconciling irreconcilables. " ).そうでない証拠(しょうこ)がはっきりするまで,私たちは SSPX 指導者たちが,たとえ故意(こい)でないにせよ,SSPX の救命(きゅうめい)ボートを失命(しつめい)ボート( "a deathboat" )に変えるつもりでいると考えます( "Until clear proof to the contrary, we will assume that those leaders remain, however unwittingly, intent upon turning the SSPX lifeboat into a deathboat. " ).そして,私たちすべてが溺死(できし)するなら,SSPX 指導者たちはそれをすべて悪い海洋(かいよう)条件(じょうけん)のせいにすることでしょう( "And when everyone drowns, they will make it all the ocean’s fault ! " ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン
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昨年の4月中旬(ちゅうじゅん),聖ピオ十世会( "the Society of St. Pius X" = SSPX )が発表した教理宣言(きょうりせんげん)( "the Doctrinal Declaration" )はローマ教皇庁によって受け入れ拒否(きょひ)されたのだからすでに興味(きょうみ)の薄(うす)れた問題だと論(ろん)じる人たちは( "Besides arguing that the Doctrinal Declaration of mid-April last year was refused by Rome and so is of no further interest, …" ),さらにSSPX の3人の司教が最近の6月27日に発表した宣言を理由に挙(あ)げ ( "… also resort to the three bishops’ recent Declaration of June 27, …" ),同会内部には何ら重要な変化が起きているわけでなないと主張しています( "… people claiming that there has been no significant change in the Society of St Pius X" ).この新(あら)たな宣言が, SSPX 救命ボートは無傷(むきず)で,まだ完璧(かんぺき)に航海(こうかい)に耐(た)えうる状態だと人々に保証(ほしょう)するために出(だ)されたのは明白(めいはく)です( "… which was obviously designed to reassure people that the SSPX lifeboat is undamaged and still perfectly seaworthy." ).だが,ボートから転落して溺(おぼ)れたくないと望(のぞ)む(カトリック)信者の人たちは宣言を注意深(ちゅういぶか)く読む必要があります( "However, souls wishing not to drown need to take a closer look." ).
この宣言でとりわけ問題なのは11番目のパラグラフです( "It is the 11th paragraph which has become notorious." ).要約すると,ここで3人の司教は自分たちは,ローマ教皇庁(以下,「ローマ」と記〈しる〉す)がまもなく(カトリック)伝統に立ち戻る(たちもどる)か否(いな)か,あるいは公会議(こうかいぎ)の犯(おか)した誤(あやま)りに SSPX が公然(こうぜん)と異(い)を唱(いをとな)える権利(けんり)と義務(ぎむ)をローマがはっきり認(みと)めるか否かにかかわらず,今後(こんご)とも神の御導き(おんみちびき)( "Providence" )に従って行動するつもりだと述べています( "In brief, the bishops here state that they intend in the future to follow Providence, whether Rome soon returns to Tradition, or it recognizes explicitly the right and duty of the SSPX to oppose in public the Conciliar errors." ).この前段(ぜんだん)の部分「か否か( “whether” )」条項は問題外(もんだいがい)です.なぜなら,神のご介入(かいにゅう)でもない限(かぎ)り,バチカンに固(かた)く根(ね)をおろす神の敵(てき)たちが公会議から手を引く(てをひく)ことなどないからです( "Now this “whether” clause is out of the question because nothing short of a divine intervention is going to make the enemies of God, firmly established within the Vatican, let go of their Council." ).したがって,後段(こうだん)の部分「あるいは( “or” )」で始(はじ)まる条項に話を絞(しぼ)ります( "We come to the “or” clause." ).司教たちは SSPX が公会議に異を唱える「権利と義務( “right and duty” )」をローマが「はっきり認める( “explicitly recognizing” )」と述(の)べていますが,それは具体的(ぐたいてき)に何を意味するのでしょうか?( "What can the bishops have meant by Rome “explicitly recognizing” the “right and duty” of the SSPX to oppose the Council ? " )
彼らが明(あき)らかに意味するものは,ローマが SSPX に対し主流派教会内での何らかの公式な立場を約束するか,あるいは何らかの形で教会法上(きょうかいほうじょう)の新(あら)たな規則(きそく)を定(さだ)める( "some form of canonical regularisation" )かということでしょう( "The obvious meaning is that Rome would grant to the SSPX some official status within the mainstream Church, or some form of canonical regularisation." ).ローマによるそうした承認は SSPX 指導者たちが10年以上前にパリのシンクタンク GREC の考え方を取り入れて以来(いらい)勝ち取(かちと)ろうと努(つと)めてきたものです( "Some such recognition is obviously what the SSPX leaders have been striving for ever since they adopted the ideas of the Parisian think-tank, GREC, well over ten years ago." ).しかし,それら指導者たちがローマが示した承認(しょうにん)の諸条件(しょじょうけん)を昨年4月にほぼ全面的に受け入れた時( "But when those leaders in April of last year largely accepted Rome’s terms for such a recognition, …" ),結果として SSPX 内で抗議(こうぎ)の嵐(あらし)が吹き荒(ふきあ)れるという事態を引き起こしてしまいました( "… they created such a storm of protest within the SSPX …" ).そのため,彼らは4月中旬の諸条件に基づくローマの承認は今後(こんご)求(もと)めないと装(よそお)わざるをえなくなりました( "… that they were forced to pretend that they no longer want any such recognition based on the mid-April terms." ).このいきさつを踏(ふ)まえれば, SSPX の3司教が6月27日に出した宣言の中の「あるいは」で始まる部分は何を意味するのでしょうか?( "Then what can the “or” clause of June 27 mean ? " )
3人の司教たちが宣言を出した数日後(すうじつご),SSPX のフランス管区(かんく)担当(たんとう)の管区長が同会指導者たちににまったく同じ疑問(疑問)を投(な)げかけました( "Within a few days the French District Superior put to them exactly that question." ).彼が得(え)た答えは,問題の「あるいは」条項の部分( "the “or” clause" )は必ずしもローマによる公式承認を必要とするということでなく( "He was told that the “or” clause does not necessarily entail any official recognition, …" ),むしろ単に,一方では弱体化(じゃくたいか)しながらもカトリック信徒である教皇が SSPX の「権利と義務」を認めるほど十分にカトリック的である云云(=云々,うんぬん)とか,しかしながら他方では教皇があまりにも弱体化し教皇庁内部で孤立化しているためローマ人たちに SSPX の公式承認を押し付(おしつ)けられないでいる云云(うんぬん)といったことから生(しょう)じた不測の事態(じたい)に言及(げんきゅう)したものものだということでした.( "… but merely the eventuality of a weak but Catholic Popebeing on one hand Catholic enough to recognize SSPX's “right and duty”, etc., but on the other hand too weak and isolated within Rome to be able to impose on the Romans any official recognition, etc.." )そしてフランス管区長はこの回答に少なくとも満足(まんぞく)したようで,それを直(ただ)ちに自分の管区内の司祭たちに伝(つた)えました( "And the District Superior at least appeared to be content with this answer when he immediately transmitted it to the priests of his District." ).
さて,この答えに私はびっくり仰天(ぎょうてん)しました!("Well, knock me over with a feather ! " ) まず最初に,6月27日の宣言を読んで,この答えが3人の司教たちが念頭に描いていたものと同じだと理解した者が果(は)たしているでしょうか?("Firstly, who, just reading the text of June 27, could ever have guessed that this was what the bishops had in mind ? " ) そして次に,3人の司教たちが「神の御導(おんみちび)きに従(したが)う」という名目(めいもく)で受け入れるつもりだった一連の他の可能性を6月27日の宣言テキストから排除(はいじょ)させたものは何なんでしょうか?("And secondly, what in the text of June 27 excludes a range of other possibilities that the bishops would accept in the name of “following Providence” ? " ) 2012年6月17日にフェレー司教( "Bishop Fellay" )が教皇ベネディクト16世に書簡(しょかん)を送り,ローマと SSPX との和解を求めるため全力を尽(つ)くすと伝えているわけですから( "Given that on June 17, 2012, Bishop Fellay wrote to Benedict XVI that he would continue to do all he could to pursue a reconciliation between Rome and the SSPX, …" ),抜け目(ぬけめ)のないローマ人たちがやがて司教たちに和解の提案をし,常(つね)に「神の御導き( “Providence” )」 の名の下(もと)に - SSPX の司教たちが拒めなかった文言(訳注・そういう建前で,という意味合い.「神の 御導き」という文言〈もんごん〉を使えば SSPX はどんな条件も拒めなくなる,という意味合い) - それを拒(こば)めないことを6月27日の宣言テキストから排除したのは何故(なぜ・なにゆえ)でしょう?( "… what in the text of June 27 excludes the cunning Romans eventually making to the bishops such an offer of reconciliation that – always in the name of “Providence” – they could not refuse ? " )
「あるいは」で始まる宣言条項部分についてフランス管区長に与えられた答えを受け入れる人たちには幸運を祈ります( "Good luck to anyone who accepts the interpretation of the “or” clause given to the French District Superior. " ).しかし, SSPX 指導部が和解不可能な者たちとの和解を成し遂(なしと)げるという気違(きちが)いじみた夢(ゆめ)を捨て去(すてさ)っていないと考える人たちは私たちの周囲(しゅうい)に多数います( "However, there are many of us who will remain unconvinced that the leadership of the SSPX has given up on its mad dream of reconciling irreconcilables. " ).そうでない証拠(しょうこ)がはっきりするまで,私たちは SSPX 指導者たちが,たとえ故意(こい)でないにせよ,SSPX の救命(きゅうめい)ボートを失命(しつめい)ボート( "a deathboat" )に変えるつもりでいると考えます( "Until clear proof to the contrary, we will assume that those leaders remain, however unwittingly, intent upon turning the SSPX lifeboat into a deathboat. " ).そして,私たちすべてが溺死(できし)するなら,SSPX 指導者たちはそれをすべて悪い海洋(かいよう)条件(じょうけん)のせいにすることでしょう( "And when everyone drowns, they will make it all the ocean’s fault ! " ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン
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