エレイソン・コメンツ 第283回 (2012年12月15日)
そんな訳で私はウィンブルドンを離(はな)れました.このことは少なくとも私が聖ピオ十世会 ( "Society of St Pius X" = SSPX )から想定上の 「除名」 処分 ( "supposed “expulsion” " )(訳注・想定上の=仮定の.すなわち「正当かつ合理的な根拠・手続なしになされた」という意味で ) を受けた現実に対する私の対応です( "So I have moved out of Wimbledon, which at least corresponds to the reality of my supposed “expulsion” from the Society of St Pius X." ). だが,本当の(「国外退去命令」)処分( "real expulsion" ) (訳注・本当の=本物の.すなわち「法手続上合理的になされた」という意味で. )を受けてアルゼンチンから追放された後,4年近く過ごしたウィンブルドンとの別れには悲しみがなかったわけではありません.あれこれありましたが,それらすべての事にかかわらず,私はこの4年間,楽しい時を過ごさせてもらいました( "But the move is not without its sadness, because I spent nearly four years there after my real expulsion from Argentina, and they have been happy years, despite everything." ).おそらく,その楽しさの多くは SSPX のイングランド本部がある聖ジョージ・ハウス( "St George’s House" )でそこの司祭たちと親しくお付き合いができたことでした( "Perhaps the main happiness has been the company of the priests in SSPX headquarters in England, St George’s House." ).彼らはとても素敵(すてき)な仲間たちでした.一人一人に神の御祝福があるようお祈りします( "They have been very good company. May God bless each of them." ).
私には一つだけ言わなければならないことがあります( "However one thing I must say." ).私の周りの人たちは私がなぜ SSPX を離(はな)れたのかと尋(たず)ねます( "People ask why I left the Society." ).私は SSPX を離れていません. SSPX が,私が賛同して(本来の) SSPX に加わった当初からの諸原則を捨てて私から離れたのです( "I did not leave the Society. The Society left me, by abandoning the principles for which I joined it. Once again, the parallel with Vatican II is exact." ).私は繰り返し(くりかえし)言いますが,第二バチカン公会議との間の平行線は確かなものです( "Once again, the parallel with Vatican II is exact." ).1960年代に無数のカトリック教司祭たち,修道会の会員(修道者・修道生活者)たち,一般信徒たちがその公会議を選んだ聖職者たちに見捨てられましたが,ちょうどそれと同じように( "Just as countless Catholic priests, religious and layfolk were abandoned by the churchmen who opted in the 1960’s for the Council, …" ),2010年代に入って,多くの信心深い司祭たちや一般信徒たちが「ローマの新しい友人たち」との仲直りへ向かう道を選んだ SSPX 指導部によって見捨てられました( "… so a number of faithful priests and laity are being abandoned in the 2010’s by the leaders of the Society as these choose to head for peace with their “new friends in Rome” 〈 … - quote of the Society’s First Assistant." 〉). 「ローマの新しい友人たち」とは SSPX 第一補佐役が使った言葉です ( "… “new friends in Rome” - quote of the Society’s First Assistant." ).盲目は,視力のある人にとっては恐ろしいことです.だが,それは目が見えない人にとってはまったく自然なことなのです( "The blindness is astonishing, for those who can see. It is all too natural for those who cannot see. " ). 神よ,どうか(訳注・霊的に)盲目の人たちを憐(あわ)れみたまえ(=〈彼らに〉ご慈悲(じひ)を与えたまえ) ( "May God have mercy on them. " ). SSPX の指導者たちはルフェーブル大司教が何をなされようとしていたかまったく理解していないのだとつくづく思います.彼らは年齢的に子供のようなものです( "I do believe that these leaders have never understood what Archbishop Lefebvre was all about. They are children of their age. " ).(訳注後記1)
彼らが私を「除名」した実質的な理由は私の不服従( "disobedience" )でした( "The only substantial reason given for their “expelling” me was disobedience." ).だが,私が実質的に不服従だったことといえば,「エレイソン・コメンツ」の執筆(しっぴつ)を止(や)めるようとの彼らの要請(ようせい)を繰り返し拒(こば)んだことだけでした( "But the only substantial disobedience on my part was the repeated refusal to close down these “Eleison Comments”." ).私は二度にわたり SSPX 総長( "Superior General" )に対し具体的にどの「コメンツ」が問題なのか尋ねましたが,その都度(つど)彼の応(こた)えはありませんでした( "Yet when I asked the Superior General on two different occasions to specify which precise numbers of the “Comments” were so problematic, …" ).彼が応えなかったのは,本当の問題がその内容,すなわち私が公会議派ローマ教皇庁への自殺的接近に断固反対したことにあることを認めざるを得なかったからでしょう.この点は疑いのないところです( "… no doubt because he would have had to admit that the real problem was one of content, namely my resolute opposition to his suicidal approach to Conciliar Rome." ).総長は私に応えるかわりに,問題は規律に関するものだと装い,そうすることで問題の本質から注意をそらそうとし続けています( "Instead he continues to pretend, that the problem is one of discipline, thus diverting attention away from the real problem." ).そして,彼からこのような仕打ち(しうち)を受ける司祭たちは私が最初ではありませんし,最後でもないでしょう( "And I am not the first priest and I will not be the last that he treats in this way." ).どうか神が彼を照(て)らし(訳注・霊的・精神的)視力をお与えくださいますように( "May God give him light." ).彼はちょうど教皇パウロ6世がルフェーブル大司教にしたように,本当の敵たちを喜ばせるために真の友人たちの多くを追い出すリスクを冒(おか)しています( "He risks chasing out many of his true friends in order to please his true enemies, just like Pope Paul VI did with Archbishop Lefebvre." ).この平行線が交(まじ)わることは決してないでしょう( "The parallels never end." ).新教会( "the Newchurch" ),新協会( "Newsociety" )はいずれも私たちの時代の病弊(びょうへい)( "malady" )です( "The Newchurch and the Newsocie ty are the same malady of our age." ).
さて,これからどうしましょうか( "So what now ? " )? 私はいまロンドン近郊に住む友人のフラット "flat" を借りています. 短くて数週間,長ければ数か月間そこに滞在し,半年か1年賃貸契約の適当な住まいを見つけるつもりです( "I borrow a friend’s flat in the vicinity of London for a few weeks at best, for a few months at worst, until I can find suitable property to rent for 6 or 12 months. " ).現時点では,私はまだ永続的な取り決めをする気持ちになっていません( "At this point I still do not believe in making any permanent arrangements. " ).悲しいことに,友人は隣人たちへの気遣い(きづかい)から慎重にならざるをえないため,私は気楽に人と接するわけにはいかない状態です( "Alas, I shall not be easy to contact because my friend has to be discreet out of care for his neighbours. " ).いずれにしても,郵便は 英国,Deal CT14 4BF私書箱423 で私に届きます(ただし,クリスマスカードは送らないでください.私も送りません)( "In any case snail mail will reach me through P.O. Box 423, Deal CT14 4BF, England. (but please don’t send Christmas cards. I send none). " ).12月13日から1月3日まで,使徒としてカナダおよび,事情が許せばアメリカを訪ねる予定です.その後すぐ御公現の祝日( "the Feast of the Epiphany" )を祝うためフランスを訪(おとず)れます( "From December 13 to January 3 I plan to make an apostolic visit to Canada and the USA, Deo volente, and immediately after that a visit to France for the Feast of the Epiphany. " ).(訳注後記2)
私が今後話したり,書いたりする言葉の公表のし方が幾分(いくぶん)変わるかもしれません( "Also changing will be some aspects of how my spoken and written words are published." ).「エレイソン・コメンツ」の体裁(ていさい)や送り方も変わるかもしれません.ただ,12月から新年にかけて毎週土曜日に出すやり方は変えないようにしたいともいます( "The format and method of delivery of “Eleison Comments” may change too, but what I hope will not change is their appearing every Saturday through December and into the New Year." ).読者の皆さん,聖マルセル構想へ献金してくださりありがとうございました( "Thank you for all your contributions to the St Marcel Initiative." ).もしご心配なようでしたら,献金が迷子(まいご)にならなかったことをお約束できます( "In case you were concerned, I can promise you that they have not gone astray." ).クリスマスおめでとう( "Happy Christmas." ).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン
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① 第2パラグラフの訳注:
「盲目は,視力のある人にとっては恐ろしいことです.だが,それは目が見えない人にとってはまったく自然なことなのです.」について.
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第9章39-41節参照.
(解説)
盲目に限らず身体上の不自由は,そのこと自体は霊的・人格的に何らの害悪を及ぼすものではまったくない.
視力のある人は,盲目を恐れるが,見える事物のみに頼りすぎて人生の真実を見逃したり見損(そこ)なっていることがあまりに多い.
苦学をして教養を積み,心の目(霊的・精神的な物の見方)を養(やしな)うことが人間として非常に大切である.
それを心がけないで五体の満足(権力欲・名誉欲・衣食住の欲)を追求するだけの人は動物と大差なく,人や物の「見かけ」にすぐ騙(だま)されやすい.
人間の本当の幸福とは,「心の気高さ・高貴さ」にあるべきというのが真理である.現世での生き様(ざま)が来世にまでも及(およ)ぶ霊魂の価値を計る.
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② 第4パラグラフの訳注:
「御公現の祝日( "the Feast of the Epiphany" )」 について.
キリスト御降誕後12日目に,遠い東方の国から三人の博士たちが来訪し,馬小屋の粗末(そまつ)な飼い葉おけの中に生まれた救世主キリストを,王として礼拝し,贈り物を献上した.
この事件をもって,救世主イエズス・キリストが世界の人々に公現されたものとして祝う祝日.
マテオ聖福音書・第2章1-12節参照.
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聖書の引用箇所を追記いたします.
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