2012年5月27日日曜日

254 むしばまれる教理 5/26

エレイソン・コメンツ 第254回 (2012年5月26日) 

第二バチカン公会議が1965年に出した宣言「人格の尊厳(そんげん)( "Dignitatis Humanae" ) 」(訳注・原題はラテン語,英語では "Of the Dignity of the Human Person" )で説く宗教の自由 "religious liberty" という主題について多くの書物が書かれてきました.この文書の革命的な教えは次に挙(あ)げるとおり明瞭(めいりょう)なものです: すなわち,あらゆる個々人( "every individual human being" )には生来の尊厳( "the natural dignity" )が与えられているのであるから,いかなる国家(=公的機関),社会的団体,人間による権力( "State or social group or any human power" )も個々の人間および団体に対して私的にまた公的に( "in private or in public" ),公序( "public order" )が順守(じゅんしゅ)される(=守られる)限り,各自が選択する宗教的信条(=信念・信仰, "religious beliefs" )に背(そむ)いて行動するよう強要あるいは強制( "coerce or force" )することはできない(=してはならない)(D.H. 第2章)ということです. 

これに対し,第二バチカン公会議以前のカトリック教会はつねに一貫(いっかん)して,すべての国家は,その諸市民の霊魂の救いに資(し)しかつその妨(さまた)げとならない限り( "so long as such coercion is helpful and not harmful to the salvation of souls" ),彼ら市民に対しいかなる偽(いつわ)りの宗教,すなわちあらゆる非カトリック教(=カトリック教以外の諸宗教)を,公的に信仰・実践することをやめさせる権利また義務までも持つと教えてきました.(たとえば2012年の今日,自由・解放( "freedom" )はあまりにも広くあがめられて(=崇拝・賛美されて)いるため,ほとんどあらゆる国々の市民は国家によるそのような強要には愛想(あいそ)を尽(つ)かし,カトリック教を,正当に評価するどころか,冷笑(れいしょう)さえするようになっています.このようなケースでは,カトリック教会がつねに教えてきたように,国家は諸々の偽りの宗教を強要(きょうよう)する権限(けんげん)の行使(こうし)を控(ひか)えてもよさそうなものです.) 

ところで,これら二つの教理がいったいどこで相矛盾(あいむじゅん)するのかということの正確な論点についてはきわめて些細(ささい)なことがらに思われるかもしれません——国家が偽りの宗教の公的実践を強要し得るか否かという点ですから——,だがそこから言外(げんがい)に読み取れる数々の意味合い(=含意〈がんい〉・暗示)は(訳注・けっして小さいものではなくむしろ)次に挙げるように計り知れないほど莫大(ばくだい)なものです: すなわち,神は主か(訳注・「いったい創造主たる神が被造物たる天地万物の主(あるじ)か」の意.原文— "is God the Lord" ),それとも人類の僕(しもべ)か?(訳注・「それとも(創造主たる)神は(神の被造物たる)人類の僕なのか」の意.原文— "or the servant of men ?" )という論点に行き当たります.なぜならもし一方で人間が神の被造物( "man is a creature of God" )で,生まれつき社会的なもの( "is social by nature" )だとすれば(これは人が生来あらゆる種類の組織,とりわけ国家という形でまとまることから明らかです),社会や国家も神の被造物( "are also creatures of God" )であるから,国家が,人々の霊魂の救済の妨げになるよりむしろ資することになる限り,諸々の偽りの宗教をなんとかして公的な場(国家の業務領域)で市民に強要することで,むしろ神と神の唯一の真の宗教に仕(つか)えることになるというなら,それも神の御蔭(おかげ)ということでしょう. 

他方,もし人間の自由は個々人が自ら選ぶ宗教の公的実践や偽りの宗教から改宗させることで(公序が乱〈みだ〉されない限り)他人を堕落(だらく)させるのも自由だというほど価値あるものだとすれば,偽りの宗教は公的な場で繁栄(はんえい)するに任せなければなりません(たとえば,今日のラテンアメリカに見られるプロテスタント諸宗派〈 "Protestant sects" 〉).これだと,偽りの宗教と唯一の真の宗教との違いは人間の尊厳ほど重要ではない,だから真の宗教はさほど重要ではない,ということは神の価値は人間の価値より重要度が低いということになります.こうして,第二バチカン公会議は神を格下げし( "down-grades God" ),人間を格上げする( "up-grades man" )わけです.究極的には同公会議は神の宗教を人間の宗教に置き換えようとしています.ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )が人間の尊厳で狂って酔ってしまった世界とカトリック教会の中で,神,私たちの主イエズス・キリストの超越(ちょうえつ)的な尊厳と価値を支え続けようと聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )を創設されたのも不思議ではありません. 

だが,今月初めになって一宗教指導者が人前で次のようなことを公言しました: 「多くの人々は第二バチカン公会議を理解していますが,その理解は間違っています.」彼の発言によれば,宗教の自由は「実に多様に使われています.しっかり調べてみると,同公会議がそれについて実際になにを言っているか知らない人が多いという印象を実に受けます.同公会議が示している宗教の自由とはとても,とても限定的なもの,いたって限定的です…( "a very, very limited one: very limited…" ).」第二バチカン公会議そのものは,つまり全体として見た場合に,カトリックの伝統( "Catholic Tradition" )に属(ぞく)するということなのかどうかと聞かれ,彼は「そうだと思います」と答えています( "Asked whether Vatican II itself, i.e. as a whole, belongs to Catholic Tradition, he replied, “I would hope so” " ). 

彼のインタビューを読者の皆さまご自身でご覧になってください.「(訳注・カトリック教)伝統派リーダー,自らの運動とローマ(教皇庁)について語る」( "Traditionalist leader talks about his movement, Rome" )と題するインタビューは英文でユーチューブ上でアクセス可能です.もし「自らの運動」が現在,その42年間の存続期間中で最大の危機の最中(さなか)にあると聞いたら驚(おどろ)かれるでしょうか?

 キリエ・エレイソン.

 英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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2012年5月20日日曜日

253 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義) -5- 5/19

エレイソン・コメンツ 第253回 (2012年5月19日) 

長い論議を数回に分ける必要があったため,読者の皆さんはエレイソン・コメンツ(EC)が取り上げてきた「教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義)」のこれまでの脈絡(みゃくらく)を見失(みうしな)ってしまったかもしれません。前回までの論議を要約してみましょう:-- 

シリーズ最初のEC 第241回では基本的なポイントを何点か立証しました.すなわち,カトリック教会は有機的統一体( "organic whole" )であり,もしその構成している諸々の信仰信条の一部だけを取り出して選び取る人がいるなら,その人は「選択者」( "a chooser" )であり,あるいは異端者(いたんしゃ)となること.さらに,いったん彼がそのカトリック信仰信条の一つでもカトリック教会の外に持ち出せば,水から電気分解(でんきぶんかい)で取り出した酸素(さんそ)が液体(えきたい)の一部でなくなりガスに変わってしまうように,そのカトリック信仰は同じものにとどまらないこと.第二バチカン公会議の唱(とな)えるエキュメニズムは非カトリック信徒とカトリック信徒が共有する信仰があると想定しているが,実際には「私は神を信じる "I believe in God" 」という一言でさえ,それがプロテスタント教式,あるいはカトリック教式の一信仰信念のシステム,もしくは信条(=教義)などに組み込まれると異(こと)なったものになりかねないことなどです( "…is liable to be quite different when it is incorporated in a Protestant or in a Catholic system of belief, or creed".)

EC第247回では別の比喩(ひゆ)を使って,カトリック教全体の一部分がひとたび全体から取り出されると同じではありえないことを例証しました.金貨は山積みの中から取り出しても金貨のままですが,生木(なまき)から切り落とされた枝(えだ)はまったく違ったもの,枯(か)れた木材(もくざい)になってしまいます.教会は金貨より樹木(きき)に似ています.というのも,私たちの主イエズス・キリストは自(みずか)らの教会を葡萄(ぶどう)の木に例(たと)えられました.事実,主は切り取られた枝は火に投げ入れられ燃やされると言われました(ヨハネ聖福音書15・6参照,興味深いことに,生きている枝で葡萄の枝ほど実を結(むす)ぶものはなく,死んだ木で葡萄の木ほど役に立たないものはありません.)(訳注後記)そういうわけで,カトリック教会から切り離(はな)された部分はカトリックのままにはとどまりません.エキュメニズムは切り離された部分もカトリックのままだと偽(いつわ)っています. 

EC第249回では第二バチカン公会議の諸文書がこのような間違(まちが)ったエキュメニズムの考えをどのように推(お)し進めようとしているかを示すつもりでしたが,その前のEC第248回で,同公会議の諸文書が内容の曖昧(あいまい)さで悪評(あくひょう)なことに予備警告(よびけいこく)を出さざるをえませんでした.そこで同公会議文書のひとつ「神の啓示に関する教義憲章( "Dei Verbum" )」(第8項)を例にあげ,いかにこれがモダニストたち(訳注・ "the modernists",現代(文明)主義者たち)の言う「生きた(カトリック)伝統」( "living Tradition" )といった間違(まちが)った考え方に門戸(もんこ)を開いているかを示しました.そのあと,EC第249回で同公会議諸文書のうちの3点,すなわちモダニストたちのエキュメニズムにとって重要な3点を紹介しました.それは "Dei Verbum" のほかに,「教会憲章」第8項 ( "Lumen Gentium #8" )と「エキュメニズムに関する教令」(第3項)( "Unitatis Redintegratio (#3)" )です. "Lumen Gentium" はキリストの真の教会は「狭(せま)い」カトリック教会の先までたどり着くとしています( "Christ 's "true" Church reaches beyond the "narrow" Catholic Church" ).そして "Unitatis Redintegratio" は先(ま)ずはじめに,(金貨が山積(やまづ)みの中でも外でも同じ金貨であるように)教会はカトリック教会の内(うち)でも外(そと)でも同じように見える「諸要素」( "elements" )すなわち部分( "parts" )で成り立っているとし,つぎに,そうした諸要素はカトリック教会の内外(うちそと)を問わず霊魂(れいこん)を救いうると述べています. 

EC第251回ではついに教皇ベネディクト16世の唱えるエキュメニズムに特に触(ふ)れました.ヴォルフガング・シューラー博士( "Dr. Wolfgang Schüler" )が自著「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」( "Benedict XVI and the Church's View of Itself" )で引用(いんよう)しているヨゼフ・ラッツィンガー神父( "Fr. Joseph Ratzinger" )の言葉を読めば,1960年代に若い神学者だった彼が山積みの中でも外でも金貨は同じという考え方とまったく同じ線で考えていたことが分かります.彼の後年の言葉は,枢機卿(すうききょう)となり教皇となった彼がまさしく山積みの金貨としての教会と有機的(ゆうきてき)統一体としての教会との彼なりのバランスを保(たも)とうと絶(た)えず努(つと)めてきたことを示(しめ)しています.しかし,シューラー博士が異議を唱え論じておられるように,このバランスを取ろうとする教皇の行為自体,彼自身の半身がいまだに教会を山積みの金貨だと信じていることを前提(ぜんてい)としています. 

読者の皆さんがヨゼフ・ラッツィンガー神父の言葉を私が曲解(きょっかい)したり文脈(ぶんみゃく)から外(はず)れて取り上げたりしていないかを証明せよと求めないなら,シリーズ最終の EC は結論として,そこから学(まな)んだレッスンをルフェーブル大司教の創設された聖ピオ十世会( "Archbishop Lefebvre's Society of St Pius X (SSPX)" )の現状に当てはめてみます.一方では聖ピオ十世会は真のカトリック教(=公教)全体,すなわち「唯一(ゆいいつ)の,聖なる,普遍(ふへん,=公)的かつ使徒継承」の神のみ教(おし)え(=カトリック教会〈公教会〉)全体の一部です( "On the one hand the SSPX is part of the true Catholic whole, "one, holy, Catholic and apostolic" " ).他方では聖ピオ十世会は病(やまい)にかかっている(第二バチカン)公会議主義体制の下におかれている教会全体の一部になることは避(さ)けたほうがいいとの考えです( "On the other hand it had better avoid making itself part of the diseased Conciliar whole" ).不健康な公会議の木に接ぎ木(つぎき)された健康な枝はどうしても同公会議の病に罹(かか)ってしまうでしょう.小枝(こえだ)にすぎないもの(訳注・ "a mere branch", =聖ピオ十世会)がその病を治すすべなどありません.

 キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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 第3パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第15章6節 
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, XV, 6 

『私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ,枯れ果ててしまい,
人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう.』

 "If any one abide not in me, he shall be cast forth as a branch and shall wither:
and they shall gather him up and cast him into the fire: and he burneth".


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2012年5月13日日曜日

252 信仰殺し 5/12

エレイソン・コメンツ 第252回 (2012年5月12日)

だがもしローマ教皇庁が聖ピオ十世会の望むものをすべて提供するとしたら,それでもなお聖ピオ十世会がそれを拒(こば)むべき理由とはなんでしょうか? 聖ピオ十世会の要求をすべて満足させる実務的合意が生まれるならそれを受け入れるべきだとまだ考えているカトリック信徒たちが明らかにいるようです.それなのにどうして拒むべきなのでしょうか? 理由は聖ピオ十世会がルフェーブル大司教によって結成されたのはそれ自体が目的ではなく,第二バチカン公会議によってかつてなかったほどの危険に晒(さら)された真のカトリック信仰を擁護(ようご)するのが目的だったからです.だが,ここでは新教会当局者たち( "Newchurch authorities" )がなぜ聖ピオ十世会が拒まなければならないような実務的合意を求めるのかについて考えてみましょう.

その理由は新教会(訳注・ "Newchurch".=「新しい教会」) が主観論者 "Subjectivist" の集まりであり,いかなる実務的合意も主観主義 "Subjectivism" が真実であると暗示しているからです.第二バチカン公会議の唱える新宗教( "the new Conciliar religion" )によれば,信仰の諸教義( "dogmas of Faith" )は客観的な真実ではなく,主観的なニーズに役立つシンボルにすぎません(回勅パシェンディ "Pascendi", 11-13,21).たとえば,もし私の心理的不安が神が人間になったという信念により鎮(しず)められるなら,その結果御托身( "the Incarnation" )は私にとって真実だということになり,そのことは単なる「真実」という言葉の上で意味を持つだけです.ですからもし伝統主義者たち( "Traditionalists" )が古い宗教( "old religion" )を必要とするなら,それが彼らにとっての真実で,彼らが自らにとっての真実にいかに固執するかは称賛に価するほどでしょう.だが公式には,彼らは第二バチカン公会議の定めた真実をローマ教皇庁当局者たちが持つことを認めざるを得ず,もしそのような妥協を受け入れないとすれば,その結果彼らは我慢がならないほど高慢で許しがたいと言われ,そのような不和など私たちの愛の教会内( "within our Church of luv." )では認められないということになるでしょう.(訳注・ "luv" =「理性や責任(感)を欠いた感覚的愛情」を指している.)

かくして,新近代主義( "Neo-modernist" )のローマにとっては聖ピオ十世会がたとえ暗黙にせよ「自らの」諸真実の普遍性と義務に対する強い主張を諦(あきら)めるような実務的合意ができれば満足でしょう.反対に聖ピオ十世会は20世紀も続いた「自らの」宗教の客観性( "objectivity" )を諸々の言葉以上に雄弁に語るただ一つの行動において否定することになるような合意に満足などできません.事は「自らの」宗教の問題だけに限りません.主観主義者たちと合意に達するには,私は客観性を主張するのを止めなければなりません.そして客観性を主張するためには,私は主観主義者たちが主観主義を捨てない限り,彼らが出すいかなる条件をも受け入れるわけにはいきません.

ローマの当局者たちはそのようなことなどしません.彼らが自分たちの新宗教を推し進めていることを示すもう一つの証拠は,彼らが最近明らかにしたフランスの「良き羊飼い協会への教皇の訪問の結果に関する記録」( "Note on the conclusions of the canonical visit to the Institute of the Good Shepherd" in France" )という形で残っています.エレイソン・コメンツの読者の方々は,この協会がローマ当局の監督下で伝統的なカトリック教が実践できるようにと第二バチカン公会議後に設立されたいくつかの協会の一つだと記憶していることでしょう.ローマはあと数年待ってその包囲網を狭(せば)め,愚かな魚が針にかかるのを確かめるでしょうが,その後は―

上の「記録」は第二バチカン公会議および1992年の新教会要理( "the 1992 Catechism of the Newchurch" )を同協会での学習対象に含めています.協会は「継続性の更新についての解釈学」( "hermeneutic of renewal in cotinuity" )を求めること,さらにトレント式ミサ聖祭( "The Tridentine rite of Mass" ) を「唯一の "exclusive" 」 ミサ聖祭として扱うのを止めることを義務付けられています.協会は「交わりの精神」とともに,公式の教会教区生活に参入する必要があります.別の言い方をすれば,伝統主義の協会は新教会に所属したければあまり伝統的であってはならないのです.協会はこれ以外のなにを期待したでしょうか? 伝統を守るためには協会は新教会の監督下から離れなければならないでしょう.はたしてその機会はあるのでしょうか? 協会は公会議のモンスターに飲み込まれることを望みました.そして今,モンスターは協会を消化している最中です.

そういうわけですから,果たして聖ピオ十世会だけは同じ道をたどらないと言えるでしょうか? 聖ピオ十世会は今回のローマの誘惑を撥(は)ねつけるかもしれません.だが,決して思い違いをしないよう(=幻想を抱かないよう)気をつけましょう.主観主義者たちはなんどでも戻り,また戻り,また戻ってきて,彼らの求める犯罪的ナンセンスを常に戒(いまし)める原動となる客観的真実,客観的信仰( "objective truth and objective Faith" )を一掃(いっそう)しようとするでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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2012年5月6日日曜日

251 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義)-4- 5/4

エレイソン・コメンツ 第251回 (2012年5月4日)

カトリック教会は,自らがイエス・キリストの唯一つ真実の教会( “Jesus Christ’s one and only true Church” )であり,世の終わりに(ルカ聖福音書18・8参照)起こるように,たとえ多数の信者が離れて行っても,そのまとまり( “its unity”,=一致(結束) )が失われることはないと常(つね)に教えてきました(訳注後記).したがって,聖キプリアン(キプリアヌス,“St Cyprian” ) は教会のまとまり( “the unity of the Church” )は天与の諸々の秘跡が織りなしてできる神聖な礎(いしずえ)( “divine foundation” )から生まれるものであり,それが「諸々の反対の意思( “contrary wills” )によってばらばらに裂かれることはない」と言いました.人々が自ら抜(ぬ)けたりやむを得ず離れたりしても,彼らが見捨てた教会は変わらずに存続します.この観点に基づく「教会のまとまり( “Church Unity” )」が意味するところは,離れていった人々がひとりまたひとりと真実の教会に戻ってくるということです.

第二バチカン公会議(訳注・以下「当会議」)の教会のとらえ方はこれとは違います.当公会議はキリストの教会はカトリック教会の中に存立する “subsists” と述べ(当公会議文書 “Lumen Gentium” 第8項),両者は別々のものだとする考えにドアを広く開け,キリストの「真の」“true” 教会は「狭(せま)い」 “narrow” カトリック教会より幅広いものだと見なす立場を取っています.この観点に立てば,キリストの真の教会がいくつもカトリック教会の外に点在し,したがって「教会のまとまり」とはそのばらばらの教会を,信徒を一人ずつ改宗させることなしに元通りに合体させることを意味します.これがまさしく当公会議の若くして優れた神学者だったヨゼフ・ラッツィンガー神父 “Fr. Joseph Ratzinger” の見解であり,彼自身が公会議後に述べた驚くべき言葉にはっきり示されています.ヴォルフガング・シューラー博士( “Dr. Wolfgang Schüler” )が,その言葉を自著「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」( “Benedict XVI and How the Church Views Itself” )の中で引用しています.その趣旨を要約すればつぎのようになります.

司教,テーブル,神の御言葉があればどこでも「教会」 “church” は存在する.この真の幅広いキリスト教宗派( “Christian communion” )が数世紀にわたるローマへの権力集中によって著しく狭(せば)められ,結果としてプロテスタントがローマと袂(たもと)を分かつことになった.教理にかかわる諸々の違いは互いにそのまま受け入れるべきものであった.したがって,本来の姿に戻るべきとする( “return-to-the-fold” )エキュメニズムは共存する( “co-existence” )エキュメニズムに後を譲(ゆず)る必要がある.諸々の教会が一つの教会に取って代わらなければならない.カトリック教徒は胸を開かなければならない.改宗はそれを望む個々人に委ねればよい.プロテスタントのした過(あやま)ちはむしろ実質上彼らの権利だといえる.

だが,この一つの教会,諸々の教会という話のなかで(訳注・真の神に対する)信仰( “the Faith” )はどこへ行ってしまったのでしょうか? 教理はどうでしょうか? どこにもないようです.そして,諸カトリック信徒(旧式,昔からの,“old-fashioned” )と諸プロテスタント信徒のそれら(=信念・信条)のようにそれぞれ相いれない信念・信条 “beliefs” を持つ人々の間にどのような一致が存在しうるというのでしょうか? それは当公会議以前にあった教会のまとまりとはまったく異なるもで,新たに生まれる教会とカトリック教会とはまったく別物であるに違いありません.事実,若いころのラッツィンガー神父は新しい教会( “the Newchurch” )設立に向けて活動されました.しかし,その新教会のまとまりが問題となりました.先ず第一に,教会のまとまりとはカトリック教の教義( “a dogma” )の一つです.第二に,枢機卿(すうききょう)および教皇としての,ラッツィンガーは自分よりもっと過激な諸革命派( “Revolutionaries” )(たとえばレオナード・ボフ神父 “Fr. Leonard Boff” )に対し,いたるところに違った形で「存立する」( “subsists” )新教会のまとまりを擁護(ようご)しなければならない立場に置かれました.

そこで,シューラー博士の引用によれば,ラッツィンガー枢機卿はキリストの教会( “the Church of Christ” )はカトリック教会の中に完全な形で実現しているが,ほかの場所にも不完全な形で実現しているものを排除すべきではないと論じます.(だが,もし不完全な形でほかにもあるとすれば,教会のまとまりはどうなるのでしょうか?)同じように,彼はキリストの教会のカトリック教会との同一性( “the identity of the Church of Christ with the Catholic Church” )は相当強いものだが唯一のものではない( “…is substantial but not exclusive” )というのです(同一性とは唯一のもの以外の何なのでしょうか? “but how can identity be anything other than exclusive ?” )繰り返しますが,キリストの教会の完全な姿はカトリック教会の中にあるが,ほかにも不完全な姿で存在するというのです.(だが,ほかにも部分的に存在するものがどうして完全たりうるでしょうか?)( “Again, the complete being of Christ’s Church is in the Catholic Church, but it also has incomplete being elsewhere (but how can a being be complete if part of it is elsewhere ?). ” )同枢機卿による同じような論議はまだ続きます.

簡潔に言えば,ベネディクト16世の目指す新教会はカトリックおよび非カトリックの諸要素( “elements both Catholic and non-Catholic” )を併(あわ)せ持つものです.(だが,たとえ部分的にせよ非カトリックなものは全体としてカトリックではありません.)したがって,ベネディクト16世のいう普遍的(訳注・世界的,エキュメニカル)な新教会( “ecumenical Newchurch” )がそのようなものである限りカトリック教会ではありません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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 第1パラグラフの訳注:

新約聖書・ルカによる聖福音書:第18章8節(1-8節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE, XVIII, 8 (1-8)

We must pray always.

不正な裁判官
『またイエズスはうまずたゆまず祈れと教えて,たとえを話された,「ある町に神を恐れず人を人とも思わぬ裁判官があった.またその町に一人のやもめがいて,その裁判官に〈私の敵手(あいて)に対して正邪(せいじゃ)をつけてください〉と頼みに来た.彼は久しい間その願いを聞き入れなかったが,とうとうこう考えた,〈私は神も恐れず人を人とも思わぬが,あのやもめはわずらわしいからさばいてやろう.そうすればもうわずらわしに来ることはあるまい〉」.

主は,「不正な裁判官の言ったことを聞いたか.*¹神が夜昼ご自分に向かって叫ぶ選ばれた人々のために,正邪をさばかれぬことがあろうか,その日を遅れさすであろうか.私は言う.神はすみやかに正邪をさばかれる.とはいえ,人の子(人たる聖母マリアの子でもある神の御子イエズス・キリスト御自身を指す)の来る時,地上に信仰を見いだすだろうか……」と言われた.』

“…I say to you that he will quickly revenge them. But yet the Son of man, when he cometh, shall he find, think you, faith on earth?

(注釈)

不正な裁判官(18・1-8)

2-8節 このたとえは,特に世の終わりの苦しみにあたって不断に祈れと教える.

*¹ 7節 神は選ばれた人々を忘れておられるようにみえても,決してそうではない.ただ待たれる.彼らの正義はやがて証明されるだろう.

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2012年5月4日金曜日

番外 スティコマイシア(隔行対話)劇 4/30

エレイソン・コメンツ 番外 (2012年4月30日)

スティコマイシア “Stichomythia” とは古代ギリシアの劇作家たちが劇の一形式として生み出したもので,一行おきの対話の中で激論が交わされる劇です(訳注・隔行対話).真実がほとんど消滅してしまった世界には本物のドラマなどあまり多く残っていません.だが,この世の終わりに起こるとしても,いまのところカトリック教会内ではまだ嘘が完全に幅を利かせているわけでもありません.したがって,真実がいくらかでも残っているところには,まだスティコマイシアの余地があるでしょう.そこで,聖ピオ十世会(内の)穏健派(おんけんは) “SSPX soft-liner” ( SL )が聖ピオ十世会強硬派 “SSPX hard-liner” ( HL )につらい思いをさせようとしている様子に耳を傾けてみましょう:--
(訳注・英原文は韻文〈いんぶん〉形式をとっているので,参照のため各行毎(ごと)に付して掲載いたします.)



SL 私たちは教会の外に居るべきではありません.
SL Outside the Church is not where we should be!


HL 教会から出て行ったのは誰でしょう?第二バチカン公会議です!私たちではありません!
HL Who left the Church? Vatican II! Not we!


SL 教会内にいれば私たちにはできることがもっといっぱいあるでしょうに!
SL Once in the Church, we could do so much more!


HL もし以前したように,過(あやまち)ちを犯すのを嫌うなら(教会内に戻るのはだめです).
HL If we detested error, as before.


SL 私たちは過ちを嫌うのを止(や)め,ただ祈るべきではないでしょうか?
SL Why should we stop detesting error, pray?


HL そんなことをすれば,連中(=第二バチカン公会議)の口論に巻き込まれることになります.
HL Because we would be joining in their fray.


SL 私たちは教会の法の範囲内で生きる必要があります.
SL We need to live within the Church’s law.


HL それ(教会の法)が神に仕えていない(役立っていない)となれば話は別でしょう.
HL Not if it is not serving God any more.


SL カトリック教会は目に見えるものです.私たちはそこにいません.
SL The Catholic Church is visible. We’re not there.


HL 教会は神聖なものです.それは私たちに見えるものでしょうか? どこに見えるというのでしょうか?
HL The Church is holy. Do we see that? Where?


SL だが,世の中は(ルフェーブル)大司教のころに比べ変わっています.
SL But things have changed since the Archbishop’s day.


HL モダニストたち( “The Modernists”,現代主義者たち)が相変わらず支配を独占しています.
HL The modernists still hold exclusive sway.


SL 私たちはローマがいま提案していることを容認すべきではないでしょうか?
SL What Rome now offers, he would have approved.


HL とんでもありません.(現教皇)ベネディクト(16世)がアッシジへと動いた以上はだめです.
HL Never, once Benedict to Assisi moved!


SL 聖ピオ十世会は強いので転(ころ)げ落ちる心配はいりません.
SL The SSPX stands strong, need fear no fall.


HL 聖パウロは立つ者は転げ落ちる心配をせよと言っておられます.
HL Let all who stand fear falling, says St. Paul.


SL だが,私たちの目上の方たち( “our Superiors” )は神の恩寵を受けています.
SL But our Superiors have grace of state.


HL 指導的な聖職者たちは決して言葉を濁(にご)さなかったでしょうか?
HL Did leading churchmen never prevaricate?


SL 私たちの指導者たちは聖ピオ十世会に所属しています!
SL Our leaders to the SSPX belong!


HL それは彼らがけっして間違ったことができないという意味ですか?
HL And does that mean they never can do wrong?


SL しかし,ローマ(教皇庁)は第一前提条件としてミサ聖祭を自由解放しました.
SL But, Pre-condition One, Rome freed the Mass.


HL その代わりに「ろくでなしの典礼」をもたらしました.まったくひどい代物(しろもの)を.
HL And left in place the “bastard rite”, so crass.


SL ローマは四人の司教に対する破門も解きました.
SL Rome also lifted the ban on bishops four.


HL だが,それで四人の司教は前より自由になったでしょうか?
HL But did that make them more free than before?


SL それでもベネディクトは私たちの助力を求めています.
SL Yet Benedict is calling for our aid.


HL それは真実を繁栄させるためですか,それとも真実を消し去るためですか?
HL To make Truth prosper, or to help it fade?


SL 教皇が真実を害するなどとどうして非難できるでしょうか?
SL Of harming Truth, how can the Pope be accused?


HL 彼のモダニスト精神は救いがたいほど混乱しています.
HL His modernist mind is hopelessly confused.


SL だが,教皇は本心から私たちすべてに戻って欲しいと願っています.
SL Yet truly, Benedict wants us all back in.


HL モダニストとしての彼はイエス(そう)ですが,モダニズムは罪です.
HL As a modernist, yes, but modernism is a sin.


SL では,あなたはそれでもベネディクトを教皇と信じますか?
SL Then do you still believe that he is Pope?


HL 信じます.だが彼の改宗(かいしゅう)を願わなければなりません.
HL Yes, but we must for his conversion hope.


SL 「モダニストとしての彼はイエス」とはどういう意味ですか?
SL What can you mean by, “As a modernist, yes”?


HL 彼は私たちの真実のカトリック信仰を害するだけで,恩恵をもたらすことはありません.
HL Our true Faith he can only harm, not bless.


SL 彼が心から気遣(きづか)っているのは私たちの幸せです.
SL Our welfare is his genuine concern.


HL 彼が私たちの真のカトリック信仰をはねつけているとすれば,彼が願っているのは私たちの本当の幸せではありません.
HL Not our true welfare, if our true Faith he spurn.


SL あなたには超自然の霊が欠けています!
SL A lack of supernatural spirit you show!


HL もし私に悩みの種があると言えば,それはどこにあると問うのですか?
HL If woe I say there is, where there is woe?


SL 教会内ではすべてがうっとうしく暗いわけではありませんよ!
SL Not everything in the Church is gloomy, dark!


HL どこに本当の信仰復興の光が見えると言うのですか?
HL Where do you see of true revival a spark?


SL カトリック伝統へ向かう動きが進行中です!
SL A movement towards Tradition is under way!


HL モダニストたちが完全に牛耳(ぎゅうじ)っているというのにですか?
HL While fully in control the modernists stay?


SL では,公式の教会は依然として神御自身の教会ですか?
SL Then is the official Church still God’s own Church?


HL そうです.私たちが困っているのを見捨てたのは聖職者たちです.
HL Yes, it’s the churchmen left us in the lurch.


SL だが,教皇もローマもよかれと思って動いています.
SL But surely Pope and Rome have both meant well.


HL そうでしょうか?「善意は地獄への道を開く」と言います.
HL So? – “Good intentions pave the way to Hell.”


SL だが,邪心(じゃしん)は第二バチカン公会議よりもっと悪いでしょう.
SL But evils worse that Vatican Two can be.


HL (ルフェーブル)大司教は――覚えていますか?――それ(第二バチカン公会議)を第3次世界大戦とお呼びになったのです.
HL The Archbíshop – remember? – called it World War Three.


SL 手厳しいですね.あなたの取る態度は分派にたどり着きますよ.
SL You’re harsh. Your attitude to schism will lead.


HL 信経(=信条)全体を台無しにするよりはましです!
HL Better than undermine the entire creed!


SL 教会の当局者たちすべてが悪いわけではありません.
SL Not all the Church authorities are bad.


HL (当局者たちの中の)善良な人たちには力がありません.とても悲しいことです.
HL The good ones have no power. It’s very sad.


SL 司祭たちは当局者を不誠実だなどと言うべきではありません.
SL Priests should not say, authority is untrue.


HL だが,第二バチカン公会議の原因となったのは司教たちです!
HL But bishops were the cause of Vatican II!


SL それでも,カトリック信徒の本能はカトリックの家を求めます.
SL Still, Catholic instincts seek their Catholic home.


HL 今日,カトリック信徒にとっての家はもはやローマではありません.
HL Today, for Catholics, that’s no longer Rome.


SL では,教会はどこにあるのですか? カトリック伝統の中だけですか? どこにあるのでしょう?
SL Then where is the Church? Just in Tradition? Where?


HL 「唯一(ゆいいつ),聖,普遍(ふへん,=公),使徒継承(のカトリック教会)」 ――そこにあるだけです.
HL “One, holy, catholic, apostolic” – there.


SL あなたは問題を一晩で解決しようとしています!
SL You want to solve this problem overnight!


HL そんなことはありません.ただ,事のはじめは正(ただ)したいのです.
HL No, just that a start be made to set it right.


SL 私たちは神を信じます.私たちは神の聖心を信じます.
SL We trust in God. We trust in his Sacred Heart.


HL ブラボー!だが,人間どもも自(みずか)らの役割を果たさなければなりません.
HL Bravo! But humans too must play their part.


SL そのことは私たちが嘆(なげ)くことではないでしょう.
SL That part is not for us just to complain.


HL 伝統的なカトリック( “Tradcats” )は伝統を守るため懸命(けんめい)に働くものです.
HL Tradcats work hard, Tradition to maintain.


SL もし私たちがローマに入ったとしても、戻ることはできます。
SL If we went in with Rome, we could turn back.


HL そんなことはありません.どんどんローマの路線に従うことになります.
HL No. More and more we’d follow in Rome’s track.


SL ローマが償(つぐな)いをしようとするのをなぜ阻(はば)むのですか?
SL Why stop the Romans making restitution?


HL それは彼らが私たちに困窮(こんきゅう)をもたらそうとするからです.
HL Because they’re set upon our destitution.


SL 教会の主流派に戻れば私たちは働けるでしょう!
SL Back in the mainstream Church we’d set to work!


HL 私たちはむしろ彼らの暗闇のなかで迷子になるだけでしょう.
HL Rather we’d lose our way in all their murk.


SL だが私たちは強力です.私たちの四人の司教は1対3です.
SL But we are strong, with bishops one and three.


HL 悲しいかな,その三人は残る一人と意見が違います.
HL Alas, the three with the one do not agree.


SL 私たちのカトリック信仰はしっかりしています.モダニストなど怖(こわ)くはありません!
SL We’re firm in the Faith. Modernists are no threat!


HL 私たちは簡単に堕落(だらく)します.賭けてみますか?
HL We’d easily slide. You want to take a bet?


SL カトリック信仰が強いのですからローマと合意してもいいでしょう.
SL Strong in the Faith, we can afford to agree!


HL だが,その信仰が説いています.異端から始まってついに消え失せると.
HL But that Faith says, from heretics to flee.


SL だが,「神は我らとともにあり」( “Gott mit uns”,ドイツ語 )です! 私たちは聖ピオ十世会です!
SL But “Gott mit uns”! We are the SSPX!


HL それでも,あらゆる慎重な点検を無視するならだめです.
HL Not if we choose to ignore all prudent checks.


SL 私たちが認められればローマは私たちから学ぶでしょう!
SL Were we approved, Romans would learn from us!


HL おお,なんてことを言うのです.そんなことはけっしてないでしょう! 彼らは私たちをバスの下へ投げ出すでしょう.
HL O Heavens, no! They’d throw us under the bus.


SL 私たちが認められれば,ローマの地は揺(ゆ)れるかもしれません.
SL Were we approved, the earth of Rome could quake.


HL だが,その前に私たちが揺れて粉々(こなごな)になるでしょう.
HL But not before to pieces we would shake.


SL 私たちの指導者は諸々の恩寵(おんちょう)を得ています.私たちは彼らに従わなければなりません.
SL Our leader has graces of state. We must obey.


HL (元教皇)パウロ6世は裏切るべく諸々の恩寵を授(さず)かったのですか?
HL Was Paul the Sixth given graces to betray?


SL ローマはいま弱い状態です.ということは私たちが強くとどまれることを意味します.
SL Rome is now weak, meaning, we could stay strong.


HL ローマは正しいことに弱いだけです.間違ったことには強くなります.
HL For right, Rome’s feeble. Mighty it is for wrong.


SL もしあなたがいつも正しいとすれば,答えはどのようなものになりますか?
どうすれば教会を難局から救いだせるのでしょうか?
SL So what’s the answer, if you’re always right?
How can the Church be rescued from its plight?


HL 教会は神のものです.神が喜ばれるとき
私たちは神の下される美しい崇高(すうこう)な御答えを目にするでしょう.
HL The Church belongs to God. In his good time
We’ll see his answer, stunning and sublime.


そのときまで私たちは嘆き悲しみ,正しさを渇望(かつぼう)し,信頼するのです.
私たちが教会の難局を癒(いや)すことなどできません.ただ耐えなければなりません.
Till then we grieve, and thirst for right, and trust.
That which we cannot cure, endure we must.


不滅の霊魂たちのために祈るあいだも
誤(あやま)り(=間違い)や過(あやま)ちを犯すことから身を遠ざけることです.
From error and the erring stay away,
Even while for their immortal souls we pray.


そして,聴(き)く者がたとえ少なくても神の真理を語ることです.
神の御助けは,すぐ傍(そば,=側)のドアほど近くにあるのです.
And tell God’s truth, however few will hear –
As close as the nearest door, his help is near.
                                                                    


英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(第1パラグラフの訳注)

スティコマイシア劇=DRAMATIC STICHOMYTHIA (原題)

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