2011年1月30日日曜日

伝統派の感染

エレイソン・コメンツ 第185回 (2011年1月29日)

リベラリズム( “liberalism” 自由主義)は信じ難い病気です.それは最良の心と精神をぼろぼろに腐らせて駄目にします.もしリベラリズムを最も簡潔に,人を神から解放することだと定義するなら,それは山と同じくらい古いからあることです.(訳注・「山」の原語 “hills.” イングランド地方の山は低く,たいてい “hills”(丘・丘陵)と呼ばれる.)だが,そのことが今日ほど深くさらに広くまん延し,一見正常であるように思われたことはかつてありませんでした.現在では信教の自由がリベラリズムの核心です - もし私が神から自由でなければ,たとえその他のすべての事や人から自由であったとしても何の役に立つでしょうか?だから,教皇ベネディクト16世が三週間前「信教の自由が世界中で脅(おびや)かされている」と嘆いたとすれば,教皇は確かにリベラリズムという病に感染しています.それどころか,伝統的なカトリック教を信奉する信徒たちでも,自分はこの病気に対して免疫があるなどと自信を持たないでほしいと思います.ここにご紹介するのは,欧州大陸のある平信徒から数日前に私が受け取った電子メールです:--

「ずいぶん長い間,およそ20年ほど,私はリベラリズムの型にはめられていました.私が聖ピオ十世会へと転籍したのは神の恩寵によるものです.私は,カトリック伝統派の中にさえリベラルな振る舞いをする人がいるのを見てショックを受けました.人々は相変わらず,世の中の情勢がひどいことをあまり誇張すべきではないと言い合っています.フリーメーソンの組織がカトリック教会の敵であると人が話すことはほとんどありません.なぜならそれをすれば個人的利益を損なう恐れがあるので,人々はあたかも全体的に見れば世の中はうまくいっているかのように対処し続けています.

伝統派カトリック教徒たちの中には伝統派カトリックであることから来るストレスに対処するため向精神薬の服用を勧める者たちもいます.そして彼らは,幸福を求めるあなたに,医者へ行ってもう少し気楽な生き方をすべきだ,と言います.

このような振る舞いがたどり着くところは,リベラリズムの温床である宗教無差別主義(訳注・原語 “an indifferentism.” =宗教的無関心主義.宗教間の教義などの違いはとるに足らないことだという考え.)です.そうなると,ある日突然なんの前触れもなしに,ノブス・オルド・ミサ(訳注・ “the Novus Ordo Mass” =新しい典礼によるミサ聖祭)に参列する(与る)こと,モダニスト( “modernists” =近現代主義者)たちと共通の理念を持つこと,自分の信念を日毎(ひごと)に変えること,国立大学で学ぶこと,国を当てにすること,そして人は誰でもみな結局のところ善意の持ち主だとの前提で行動することは、どれも大して悪い事ではないことになります。

私たちの主イエズス・キリストは,この種の宗教無差別主義を手厳しい言葉で叱責されます.生ぬるさについては「彼の口から吐き出し始める」(黙示録:第3章16節)でしょう(訳注後記).逆説的に聞えるかもしれませんが,カトリック教会の最たる敵たちはリベラルなカトリック教徒たちなのです.なんとリベラル伝統主義なるものさえあるほどです!!!」(この信徒からの引用の終り)

では私たちの一人ひとりを脅かすこの毒に効く解毒剤とは何でしょうか?それは疑いなく神の恩寵です(ローマ・第7章25節)(訳注後記).それは精神の混乱を晴らし,精神が正しいと考えることを為そうとする意思を強固なものとすることができるのです.では私は神の恩寵を受けることをどうやって確かなものにするのでしょうか?それは,どうやって最後まで堅忍することを私が保証できますか?と問うのにいくぶん似ています.カトリック教会の教えによれば,人には神の恩寵を保証することなどできません.なぜなら,それは神からの贈り物 - すなわち最高に素晴らしい神の賜(たまもの) - だからです.だが私に常にできることは聖なるロザリオの祈りを捧げること,すなわち毎日平均して五つの玄義 - 無理をせずにできるなら十五すべての玄義 - を唱えることです.ロザリオの祈りを毎日唱える人は誰でも,神の御母(聖母)が私たちすべてに果たすようお求めになっていることを果たしていることになります.そして聖母は私たちの主また神であられる御子イエズス・キリストに事実上無限の力を持っておられるのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


- 第5パラグラフの引用聖書の訳注:

新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章16節(太字の部分)
『*¹ラオディキアの*教会の天使に書け,〈*²アメンである者,忠実な真実な証人、天主(=神)の創造の本源であるお方(=キリスト)は,こういわれる.私はあなたの行いを知っている.
あなたは冷たくもなく,熱くもないが,私はむしろあなたが冷たいかそれとも熱くあることを望む.
だがあなたは熱くもなく冷たくもなく,なまぬるいから,私はあなたを口から吐き出す
自分は金持だ,豊かになった,足りないものがないとあなたは言って,*³自分が不幸な者,哀れな者,貧しい者,盲人,裸の者であることを知らぬ.
私はあなたに,精練された金を私から買って富め,白い服を買ってまとい裸の恥を見せるな,目に*⁴目薬をぬって見えるようになれと勧める.
私は,*⁵愛するすべての者を責めて罰するから,あなたも熱心に悔い改めよ.
私は門の外に立ってたたいている.私の声を聞いて戸を開くなら,*⁶私はその人のところに入って彼とともに食事し,彼も私とともに食事するであろう.
勝つ者は私とともに王座に座らせよう.私が勝って父とともにその王座に座ったのと同様に.
耳ある者は霊が諸教会にいわれることを開け〉』

(バルバロ神父による注釈)
*¹フィラデルフィアの南東65キロにある.
*²「キリストは真理である」の意味.→〈旧約〉イザヤ65・16,格言の書8.22,知恵の書9・1,〈新約〉ヨハネ福音1・3,コロサイ書簡1・16.
*³商都として栄えていたラオディキアは,精神的に貧しいものである.
*⁴ラオディキアの目薬は有名だった.
*⁵〈旧約〉格言3・12参照 →「(わが子よ,神のこらしめをあなどらず,神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.)なぜなら,神は愛するものをこらしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.(バルバロ神父による注釈:神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.)
*⁶(後で追加します)

***

- 第6(最後の)パラグラフはじめの引用聖書の訳注:

新約聖書・聖パウロによるローマ人への手紙・第7章25節(太字の部分)
『私たちは律法が霊的なものであることを知っている.
しかし私は肉体の人であって罪の下に売られたものである.*¹私は自分のしていることが分からない.私は自分の望むことをせず,むしろ自分の憎むことをするからである.私が自分の望まぬことをするとすれば,律法に同意して,律法が善いものであることを認めることになる.それなら,*²こうするのは私ではなく私の内に住む罪である.
また,*³私の肉に,善が住んでいないことも知っている.善を望むことは私の内にあるが,それを行うことは私の内にないからである.私は自分の望む善をせず,むしろ望まぬ悪をしているのだから.もし望まぬことをするなら,それをするのは私ではなく,私の内に住む罪である.
そこで,善をしたいとき悪が私のそばにいるという,*⁴法則を私は見つけた.*⁵内の人に従えば私は天主の法を喜ぶが,私の肢体に他の法則があってそれが理性の法則に対して戦い,肢体にある罪の法の下に私を縛りつける.
私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ
こうして私は理性によって天主の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.』

(→English version: “…Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death? The grace of God, by Jesus Christ our Lord. Therefore, I myself, with the mind serve the law of God: but with the flesh, the law of sin.)

(バルバロ神父による注釈)

罪に対して律法は無力である.
*¹キリスト教前の哲学者がすでに言っているとおり,判断と行為,論理と実際との間の矛盾.
*²悪に対する人間の責任を否定するわけではなく,欲望の強さを認める.
*³「私」とは新約の下にはなく,モーゼの律法の下にある人間.
*⁴法律あるいはモーゼの律法などの意味ではなく,一つの状態である.これは後節に出てくる「罪の法」のこと.
*⁵「内の人」は人間の理性的な高尚なものを指す.外の人(新約聖書・コリント人への第二の手紙:4・16)に相対する. → 『したがって,私たちは落胆しない.私たちの外の人は衰えても,内の人は日々に新たになっている.』
(「外の人」とは,はかない体のこと〈バルバロ神父による注釈〉).

***

- 第6パラグラフの「神の恩寵」についての訳注:

原語 “Sanctifying grace.”
上述の「ローマ人への手紙・第7章25節」主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.The grace of God, by Jesus Christ our Lord. による意味. → 人間を罪の汚れ=死の体=から清め聖別し,霊的な永遠の生命に生かすことができる「神の恩寵」という意味.

2011年1月26日水曜日

神は少数しかお選びにならないか?

エレイソン・コメンツ 第184回 (2011年1月22日)

人の霊魂の救済が一見難しいように見えるのはなぜでしょうか? なぜ - 私たちがよく聞くように - 地獄に堕(お)ちる霊魂の数に比べ救われて天国に至る霊魂がほんの少数しかいないのでしょうか? 神は全ての霊魂の救いを願っておられるわけですから(ティモテオへの第一の手紙・第2章4節参照)(訳注後記),それをいくぶん容易にすることがお出来になるはずなのに,なぜそうされないのでしょうか?

簡単に即答すれば霊魂の救済はさほど難しくないのです.地獄に堕ちる霊魂にとっての苦悶のひとつは,地獄に堕ちるのを容易(たやす)く防ぐ術(すべ)をはっきりと知っていたのに(訳注・つまり永遠の破滅は簡単に避けられるとわかっていたのに),という後悔の念です.非カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「カトリシズム(カトリック教義)に一理あるのは知っていたが,カトリック教徒になると生き方を変えなければならないのが分かっていたのでその選択をしなかった」と言うでしょう.(ウィンストン・チャーチルはかつて,人は誰しも一生のある時期に真実に遭遇(そうぐう)するが,たいていの人はそれから目を背(そむ)けてしまう,と言いました.)カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「神は私にカトリック信仰を与えて下さり,私がなすべきことはきちんと告解をすること(訳注・=「告解(告白)の秘蹟」.カトリック司祭に自分の罪を告白し罪の赦しの秘蹟を受けること.)だと知っていました.だが私は告解を先延ばしにした方がより好都合だと考え,そのため自分の犯した数々の罪のうちに死ぬはめになったのです…」と言うでしょう.地獄に堕ちた霊魂はみな,そのような結果になったのは自らの過(あやま)ち,選択によるものだと分かっています.責められるべきは神ではないのです.事実,彼らは現世での人生を振り返り,自分たちが地獄に堕ちずに済むよう神がどれほど懸命に努められたかをはっきり理解しています.にもかかわらず,彼らは自らの自由意志で自らの宿命を選び,神はその選択を尊重されたわけです….だが,このことをもう少し深く掘り下げて考えてみましょう.

限りなく善良で,限りなく寛大で,限りなく幸福な神は,その幸福を分かち合える生き物を義務ではなく進んで創造されました.神は純粋な霊ですから(ヨハネ聖福音書・第4章23節参照)(訳注後記),その生き物もまた動植物や鉱物のようにただ物質的な存在たるのみにとどまらず,霊的な存在でもあるべきです.それ故に,物質的なものをいっさい持たない天使と物質的な肉体に霊的な魂を宿(やど)す人類が創造されたのです.だが天使や人間が神の幸福を分かち合うための霊魂そのものには必然的に理性と自由意志がそなわっています.実際のところ,霊魂が神の幸福を分かち合うのにふさわしいのは自由意志が自由に働いて神を選択するときです.だが,もし神に背を向けうるような別の選択肢が何もないとすれば,その神の選択が真に自由だとどうして言えるでしょうか? シェイクスピアの著作物しか売っていない書店で,ある少年がシェイクスピアの本をたくさん買う選択をしたとしても褒(ほ)めるに値(あたい)するでしょうか? そして,もし悪い選択肢が存在し,自由意志がただの見せかけでなく本物だとしたら,その良からぬ選択をする天使や人間があり得ないとどうして言い切れるでしょうか?

大多数の霊魂(マテオ聖福音書・第7章13-14節,20章16節参照)が神の愛を拒んで恐ろしい罰を被(こうむ)ることになると神はどうやって予見したのだろうかという疑問が残るかもしれません(訳注後記).その答えは,地獄が恐ろしければ恐ろしいほど,神が生きている人間一人ひとりにそれを避けるのに必要な恩寵と光と力を与えて下さっていることがますます確かだということです.だが,聖トマス・アクィナスが説明している通り,大多数の人間は五感のなかでも将来天国で味わえる未知の喜びよりも現在既に知っている喜びの方を好むものです.ではなぜ神はそのような強い喜びを五感に加えられたのでしょうか? 一つには疑いなく親たちが子供を天国に行けるように育てることを確実なものとするためですが,同様に確かなことは,現世での喜びの追求を来世での真の歓喜よりも下に置く人間を,より一層称賛に値するものとするためです.来世で味わえるあらゆる真の歓喜は(天国に入ることを)望むすべての人たちにとって自分たちのものなのです! (天国に入るために)私たちにただ必要なことは十二分に激しくそれ(来世での真の歓喜)を望むことだけです(マテオ聖福音書・第11章12節参照)! (訳注後記)

神は決して凡庸(ぼんよう)な神ではありません.そして神を愛する霊魂たちには凡庸でない最良の素晴らしい天国を与えたいと願っておられるのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第1パラグラフ最初の訳注:

新約聖書・(聖パウロによる)ティモテオへの第一の手紙:第2章4節
-『すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』

(注釈)
(聖パウロによる)ローマ人への手紙〈9章18,21節〉の解釈を助ける神学的に重要なことば.

→新約聖書・ローマ人への手紙:第9章18節,21節
-『であるから神は望みの者にあわれみを垂れ,*望みの者をかたくな(頑な)にされる.』

-『つぼ造りは同じ土くれをもって,尊いことに用いる器(うつわ)と卑(いや)しいことに用いる器を造る権利をもっているではないか.』

(*神が人間を頑固にするというのは,人間が自由に神に逆らうから,神の元の計画を踏みはずすような状態になることである.しかし,前もって知られている人間のこの逆らいは,それすらも,神のひろい計画に入っている.すなわち,人間の逆らいすら摂理に協力するのである.(これはメシアを認めようとしなかったイスラエル人の場合である.)

(同章19節と20節)
-『あなたはこう言うかもしれない,「なぜ神は人をなおとがめるのか.だれが神のみ旨(むね)に逆らえるのか」と.』
-『だが人間よ,神に口答えするあなたは何者か.造られた者が造ったものに向って,「どうしてあなたは私をこのように造ったのか」と言えようか.』

***
 
第3パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネ聖福音書:第4章23節
-『まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.御父はそういう礼拝者を望まれる.』
24節→『神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ.』

(解説)
主イエズス・キリストが,(ユダヤ人と交流のない)サマリアの町に入り,サマリア人の女に飲み水(井戸の水)を所望されて言われた御言葉.そのサマリア人の女は町で村八分にされていたため,誰も来ない真昼間の暑い最中に独りで水を汲みに来ていた.この女に向ってキリストは「救いはユダヤ人から来るが,サマリア人の拝む山でもユダヤ人の拝むエルサレムでもなく(ユダヤ人の礼拝も,サマリア人の礼拝も,ともに廃止されるであろう〈バルバロ神父による注釈〉),まことの礼拝者が霊と真理をもって神を拝む時が来る」,と言われた.キリストはまずこの村八分の女に宣教され,女は走って行って町の人々にメシア(救世主)の到来を知らせる(宣教する)こととなった.(神〈キリスト〉は異邦人をもまことの救いに招かれている).

***

第4パラグラフ最初の訳注:

新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節,20章16節
-『狭い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(*ブルガタ訳その他のいくつかの写本の訳…「門は大きく,道は広い…」とある.)

-『このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう.*』
(*「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある)

***

第4パラグラフ最後の訳注:

新約聖書・マテオ聖福音書:第11章12節
-『洗者ヨハネのころから今に至るまで,天の国は暴力で攻められ,暴力の者がそれを奪う.』〈キリストの御言葉〉)

(バルバロ神父訳「合併版聖福音書」における注釈より)
さきに洗者ヨハネの宣教があったので,それからイエズスを聞いた多くの人人は,熱心に神の国に入りそれを奪う.」

(解説)
つまり,暴力で天国を攻める者たちが天国を奪い取っている.我先を争って熱心に天国に入りたいと望む霊魂たちが大勢増えている.

2011年1月17日月曜日

危険な夢の国

エレイソン・コメンツ 第183回 (2010年1月15日)

ある知人が最近デニス・フェイヒィ神父(1883-1954年) “Fr. Denis Fahey” (訳注:アイルランド人のカトリック司祭.)の書かれた文章を私に送ってくれました.これを読むと,第二バチカン公会議以前のカトリック信徒のすべてが「惰眠(だみん)していた」わけではないことが分かります.つまり,多くの信徒はぼんやりと居眠っていたということでしょうか?そうだったことは疑いのないところです.いわゆる伝統派カトリック信徒を含め,いまだに多くの信徒がその惰眠状態のままです.同じ原因は同じ結果を生ずるものですし,20世紀半ばにカトリック信徒の盲目(無分別)を招いた原因は21世紀初めの今日でも当時以上に強まっているからです.

以下,フェイヒィ神父の1943年の著書「キリストの王位と組織化された自然主義」(訳注・原著名:"Kingship of Christ and Organized Naturalism" )から短い抜粋を引用します(後ほどのコメント用に引用文に番号を付します.) -- (1)「カトリック信徒はこの世(現世)での実戦に備えた訓練を受けていないため,主キリストの敵が企(くわだ)てる策謀(さくぼう)に屈することになります.」 (2)「彼らは,やがて直面することになる組織化された敵について十分な知識もなく,守るべき社会秩序の主要点についてほんのおぼろげな考えしか持たぬまま学窓(がくそう)を後にします.」 (3)「そして,真のカトリック教秩序のために戦うカトリック信徒は常に敵陣にいる信徒に出会うことになります.」以下,番号順にコメントします.

(1) もはや現代社会の大半の人々は,主イエズス・キリストとそのカトリック教会への信仰を通じて得られる霊魂の救済のお陰で,後々(来世で)神とともに天国で送る真に良い生活へと導かれ得ることなど信じなくなっています.彼らはこの世で良い人生を与えてくれるのは人間だと信じており(訳注:(意訳)現世での人生をより良く快適に過ごしたいがため(神の正義〈倫理・道徳など〉よりも)人間の持てるあらゆる能力や可能性の方に全幅(ぜんぷく)の信頼を置き),したがって政治が実質的に彼らにとっての宗教となり,彼らの国々の政府が神の摂理( “God's Providence” )にとって代わっています.こうなると,人々にとって自分たちの政府や自らの生き方・生活様式が主イエズス・キリストの極めて現実的・実際的な敵どもにより事実上支配されてしまっているのだなどいうことはますます信じ難くなってくるのです. - たとえば,どうして私たちの政府が9・11事件の真相について私たちに嘘をつくことなどあり得ましょうか?そんなことはあり得ない,というわけです.だが,そうした現代の国々の政府への信頼は悲惨な真実の受け入れを不能にします.そして,たとえそのような風潮がどんなに蔓延(まんえん)しても,カトリック信徒たち自体が(革命児に転ずることなしに)素早くそこに紛れ込みその風潮を甘んじて受け入れるなら,結局のところ,現世でカトリック信仰を守るための「信仰の現実の戦い(実戦)に備えた訓練を受けていない」ということになります.さらには,この世での夢の国を受け入れることで,天上にある真の神の真の天国に至るのがますます難しくなることでしょう.

(2) 学校の児童や神学生たちに対し私たちの主イエズス・キリストには宿敵(訳注:原語 “bitter enemies” =不倶戴天〈ふぐたいてん〉の敵.諸悪の勢力.)がいると教えるのは難しいでしょう.それらの敵の(キリストへ向ける)敵対・抵抗は組織化され巧みに変装しているからです.だが,若者たちはその敵対・抵抗に「間違いなく出会う」ことになります.したがって、若いカトリック信徒たちをこれからの人生に向け,あるいは聖職者にすべく指導する教師がその変装の化けの皮を剥(は)ぎ取り敵の正体を暴(あば)いてやらなければ,彼らは遮眼革(しゃがんかく)(訳注:原語 “blinkers.” 馬の両目につける. )を着けられ片手を背中に縛られたような状態で戦いに臨(のぞ)むことになります.そして主イエズス・キリストの敵どもは,わずかに残るキリスト教の秩序を壊そうと個人主義的な自由主義を強力に推(お)し進めています.ですから,若者たちはとりわけ「防御すべき社会秩序の主要点」と人間の社会的性格につき,母なるカトリック教会の教えることを正しく十分に学び取る必要があります.

(3) 悲しいことに,19世紀の偉大な教皇ピオ9世が言われているとおり,本当に恐れるべきは教会外部の主イエズス・キリストの宿敵どもよりもむしろ教会内部のリベラル(自由主義的)なカトリック信徒たちの方です.後者は,誰でも私たちの主イエズス・キリストに敵対して「策謀をめぐらしている可能性がある」などといった考えかたを冷笑するでしょう.薄笑いをうかべながら,どのみち「みなさま善人ばかりじゃあありませんの?」(と舌足らずな口調で女々しく言うのでしょう.)(訳注:原文 "Ithn't evewybody nithe ? " ("Isn't everybody nice ? ", said with an effeminate lisp.) )違います,彼らは決して善人ではありません!

フェイヒィ神父よ,どうか私たちのためにお祈りください!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2011年1月13日木曜日

アッシジイズムはノー!

エレイソン・コメンツ 第182回 (2011年1月8日)

ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会が教皇ベネディクト16世下のローマ教皇庁との間で,よからぬ合意をまとめようとしているのではないかといぶかっている人たちがいぜんいらっしゃるようです.だが,色々ある中でもアッシジイズム(訳注・原文“Assisi-ism”.注釈後記)についていえば,教皇ベネディクト16世ご自身はそのようなことが起きないよう最善を尽くしておられると言えるのではないでしょうか.

六日前,教皇は世界の「偉大な諸宗教」は人類の平和と結束(一致)の「重要な要素」たり得ると論じられました.その翌日,教皇は1986年,前教皇ヨハネ・パウロ2世によりイタリア・アッシジで開催された世界諸宗教合同祈祷集会の25周年を祝うため今年10月に同地へ「巡礼として」赴(おもむ)くと発表しました.しかし,「世界の偉大な諸宗教」が世界平和に貢献するといった論議はルフェーブル大司教が断固受け入れを拒んだことですし,この1986年のアッシジ祈祷会の実践(実行)は(神の十戒の)第一戒(律)に対する公然たる違反だと同大司教が断じたことです(訳注後記).後者のほうは,キリストの代理者たる教皇から発した出来事だけにカトリック教会の全歴史のなかでも前代未聞のスキャンダルでした.ルフェーブル大司教はあまり何度も蒸(む)し返すのは逆効果になりかねないと考え,アッシジイズムに対する激しい非難を差し控えました.

だが,ルフェーブル大司教は当時,このスキャンダルの重大さを理解しているカトリック信者がほんの一握りしかいなかったことを認識していました.というのも,近代世界全体が神を過小評価し,私たちの主イエズス・キリストの神性を一括(ひとくく)りとして扱い,宗教を自由選択の対象物とみなし,カトリックの伝統を単なる感性,感情の問題とすり変えてしまっていたからです.こうした考え方は,教皇たちにまで影響を及(およ)ぼしてしまい,私たちの身の周りではあまりにも正常なこととなってしまっているため,私たち一人一人にとって脅威となっているほどです.基本に立ち戻りましょう.--

万物は第一原因 “a First Cause” を必要とします.その原因が第一たるためには存在自体が不可欠で “must be Being Itself” それは完全無欠の存在 “all-perfect being” でなければなりません.なぜなら第二の神は第一の神とは異なり,完全さにおいてどこかで劣るはずだからです.この唯一真実の神はかつてある時にただ一度だけ私たちの主イエズス・キリストの神の位格 “the divine Person” において人性(=人間性)という形をとられ(人の姿をお取りになり),いらい神の教会すなわちローマ・カトリック教会を除けば,ほかの誰しもがなしえなかった質量とも数多くの信頼に足る優れた奇跡を地上で行なうことによって,その神性を証明されました.この(真の神の)教会の会員(信者)となる資格は信仰に基づくもので,万人に開かれています.信じるならば,その信じるという行為が,誰にとっても永遠の救いに至(いた)るために欠くことのできない出発点です.信じることを拒(こば)めば,人は永遠の破滅(地獄)へ向かう道をたどります(新約聖書・マルコ聖福音書:第16章16節参照)(訳注・該当箇所のキリストの御言葉→「信じて洗礼を受ける者は救われ,信じない者は滅ぼされる.」).

従って,もし過去および将来のアッシジでの行事により,ベネディクト16世,ヨハネ・パウロ2世の両教皇がカトリック教は永遠の至福に至る唯一の道ではなく,(それが最善だとしても)ほかに数多くある人類の「平和,結束」へ通じる道の単なるひとつにすぎないと人々が考えるよう奨励(しょうれい)したのだとすれば,両教皇とも無数の人々が来世で恐ろしい地獄に墜(お)ちる手助けをしたことになります.ルフェーブル大司教はそのような背信に与(くみ)するのを潔(いさぎよ)しとせず,敢(あ)えて冷笑され,排斥(はいせき)され,軽蔑(けいべつ)され,過小評価され(主流からはずされ),口を封じられ,「破門」される道を選びました.ほかにもありとあらゆる冷遇に甘んじました.

真実(原語 “the Truth” )を頑(かたく)なに守ることは代償を伴います.何人のカトリック信者にその代償を払う心づもりができているでしょうか?(訳注・ “the Truth” …真の神〈カトリックの真理〉のこと.)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

最初のパラグラフ「アッシジイズム」 “Assisi-ism” についての訳注:
アッシジ主義.
“the 1986 Prayer Meeting of World Religions in Assisi” 「1986年アッシジ諸宗教合同祈祷集会」(1986年に前教皇ヨハネ・パウロ2世が,世界の諸宗教の指導者たちを呼び集めて開催した世界平和を祈る合同祈祷集会)を指している.

第二パラグラフの訳注「(神の十戒の)第一戒」 “the First Commandment” について:
旧約聖書時代の預言者モーゼによる「神の十戒」(または「主の十戒」)の第一戒…
「われはなんじの主なり.われを唯一の天主として礼拝すべし」(公教会祈祷文)
→「…私以外のどんなものも,神とするな.」(旧約聖書・脱出の書:第20章3節.神と人との関係についての神の命令.神と人間との間に,仲介のような神々は存在しない.(バルバロ神父による注釈より.))

備えを固める

エレイソン・コメンツ 第181回 (2011年1月1日)

2011年が大変な年になるような気がしてなりません.世界は心の暗闇,意思の堕落の真っただ中にあります.人の心にとって「世の光」であり,意思の堕落を防ぐ「地の塩」(人のお手本)であるべきカトリック教会( “The Church” )はその輝きを失っています(訳注後記).カトリック教会はいぜん存在し続けていますが,その持つ輝き,温(ぬく)もりは人間が犯した誤りのために,もはや人々に届かなくなっています.

このような状況では,世間のかかえるもろもろの困難がどうしても私たちの身に降りかかってきます.今年中か近い将来,人間社会に想像を絶するような劇的変化が起こることでしょう.情け容赦のない現実の法則が世界経済を混乱に陥(おとしい)れるでしょう.だが,大半の専門馬鹿の「経済学者たち」は相変わらず夢の国が来ると説き続けています.とりわけ家庭の父親たちが既成概念(きせいがいねん)にこだわらずに考えることができればと願い,ここでは現実を見失っていないひとりの著者・評論家の言葉を引用することにします.ニューヨークを中心に活動しているジェラルド・セレント氏 “Gerald Celente” (trendsresearch.com)です.--

「金融界を襲っている嵐を乗り切るには何をすべきかについて,私たちは傾向に焦点を当てた具体的助言をするよう絶えず求められています.だが単純明快で,なににでも効く万能薬などありません.個々人が直面する状況はそれぞれ違うからです.もしあなたが地方に住んでいて失業中なら,都会やその近郊に住む人たちとは違う可能性,問題を抱えているでしょう.

先ず実感すべき大事な要素は,自分の直面する状況を乗り切るには長期戦を覚悟しなければならないということです.現在は縮小の時代,持ちこたえ防備する時代です.全体的に可処分所得は減ってきており,本質的なこと以外に使えるドルは少ない状況です.お金が流れているあいだ「本質的」と思えたことは,お金が底をつくと「つまらないこと」に変わります.

「職探しをするに当たり,もし見つかった仕事がもはや選択の対象にならないもの(不動産代理業,住宅ローンブローカー,出版,建設,小売,自動車製造従業員,などなど)と自分で判断したのであれば,いまこそ実務的に考えてあなた自身の夢をかなえる好機でしょう(訳注・原文 “…now may be the time, if at all practical, to live out your dream.” あなたはこれまで常々何をしたいと願ってきましたか?あなたは,他の人たちと自分との違いを際立たせるような他人にはない才能・資質や能力を自分自身のうちに見出し(発掘し)ましたか?そうしたことをあなたは自問しそれに基づいて,自分が楽しくできることは何か,それをすることで生計を立てる可能性はどの程度あるかを,自分自身に問うてみることです.それが出発点です.仮に,つまらない仕事しか見つからなかったとしても,その仕事が他の誰よりもうまくできるよう努めるべきです.独創性をもち,かつ恨み言をこぼすことなく,その仕事に打ち込むべきです.そうすれば,より高い可能性がそこから現れ出てくるでしょう.好きなことをしていると,「働かされている」と思わなくなるものです.(訳注・原文 “If you do what you love, you’ll never have to “work.” 心〈愛〉を込めて〈=主体性を持って・自主的に〉仕事をすることができるならば,誰かの管理下で使われ義務的強制的に働かねばならないと感じることには決してならない.)幸福とはなんでしょうか?一つの定義は「朝目覚めたとき,しなければならないことが自分の選んだことだと思える」ことではないでしょうか.

「自分の置かれた状況を正しく評価することです.同じような状況にいて,互いに補いあえる能力を持ち,考え方を共有できる仲間を見つけることです.数は力となります.一つの目標を共有するグループは,ひとりでは思いもよらない,実現不可能なプログラムの立ち上げを可能にします.」

文中の下線は私が加えたものです.もし私が間違っていれば幸いですが,早晩人々が取る行動のなかでの最優先課題は,いかに生き残るかという問題になるでしょう.ジェラルド・セレント氏はそこで役立つ考え方をいくつか示しています.むろん神に祈ることは必要で大切なことです.だが,古いことわざが言うように,岸辺へ向って漕(こ)ぎ続けることも大切です.

読者のみなさまに私から新年の祝福をお送りします.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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「世の光」 “light of the world” 「地の塩」 “salt of the earth” についての訳注:
新約聖書(マテオによる福音書・第5章13-16節)より,イエズス・キリストの御言葉.
「あなたたちは地の塩である.塩がその味を失ってしまったら,何で塩の味をつけられようか.もう役にたたず,外に捨(す)てられて,人に踏(ふ)まれるばかりである.
あなたたちは世の光である.山の上にある町は隠(かく)しておけない.また灯(あか)りをともしたら,枡(ます)の下に入れないで,燭台(しょくだい)の上に置(お)くものだ.こうすれば,明(あ)かりは,部屋中の人をみな照(て)らし出してくれる.
このように,あなたたちも,人の前で光を輝かしなさい.そうすれば,人はあなたたちのよい行いを見て,天においでになる御父(おんちち)をあがめるであろう」.