エレイソン・コメンツ 第180回 (2010年12月25日)
クリスマス・デー(キリスト御降誕の祝日)は,なぜ私たちの主イエズス・キリストの到来を私たちが喜べるかまた喜ぶべきなのかを思い起こすのにふさわしい一時です.唯一キリストのみが,私たち人間が抱えるあらゆる現実の問題を解決することがお出来になります.私たちの直面する問題は人類の起源にまで遡(さかのぼ)るもので,今日(その程度,内容は)かつてないほど深刻です.
(なぜキリストのみに解決可能なのかというと)それは,人間のあらゆる現実問題が罪と関わっているからです.純粋に物質的な障害,不調はどんなものでも,それが何らかの意味で精神的なものである場合に限り深刻な問題となるに過ぎません.たとえば身体的な病が原因で人が呪ったり祝福したりするような場合です.そして私の中で起るいかなる精神的な心の動きも,それが何らかの意味で罪となる場合にだけ障害となるのです.たとえばヨブは自分の身体的な苦痛を深く嘆きましたが,それは罪深い行いではありませんでした.罪に関して言えば,それは何よりもまず第一に神への,第二に自分自身への,そして第三に隣人への無秩序行為あるいは不法行為です.(訳注後記…「ヨブ」について.)
したがって,単に物質的な問題にとどまらない現実の問題はすべて,神の怒りに触れるような行いをした人たちの問題ということになります.極端な例は堕胎の罪を犯した女性の場合です.堕胎によって彼女の問題は表面上解決されたかのように見えます.お腹の赤ちゃんはいなくなり,彼女の人生は「平常に戻って」います.だが心の底では,彼女は心を鬼にして「クリスマスを嫌い,やめさせるような世界に」加わるか,それとも自分がひどく恐ろしい過ちを犯してしまったことを理解してそれを自認するかのどちらかです.どちらにしても,彼女の内には多かれ少なかれ,その後の人生でなにかしら不正確で歪(ゆが)んだものが残るでしょう.そして同じ経験をした女性の多くは,たとえカトリック教徒であって信仰により神が罪の赦しの秘蹟を通して自分たちをお赦しになっているとわかりながらも苦悩を心にとどめることでしょう.罪が心に与える傷はそれほど深いものです.堕胎が最悪の罪というわけではありません.神に直接背(そむ)いて犯す罪のほうがはるかに重い罪です.
クリスマスにしてはなんとも恐ろしい話でしょうか?どちらとも言えません.罪の問題は恐ろしいものですが,実際の解決が可能なことを知れば,その恐ろしさに相応して素晴らしく大きな喜びとなります.もし哀れな少女が告解に訪れれば,たいていの司祭は彼女のために出来るだけの力を尽くし,もし犯した罪を(キリストの弟子ユダ・イスカリオトのではなく使徒ペトロの悲しみをもって)心から悔やむなら,司祭の与える罪の赦しの秘蹟を通して神がその罪をお赦しになっていることを疑う必要はないと彼女を説得するでしょう.どれほど多くの悔悟(かいご)者が,ほかでは得られない安堵(あんど)と喜びを心に抱いて告解場から外へ出てくることでしょうか.それは神に背いて罪を犯してしまったという気持ちが彼らの苦悩の中心を占めていたからであり,(告解により)神がその罪を赦して下さったことを彼らが知るからなのです.(訳注・ユダはキリストを直接裏切って死に渡し,後悔の末絶望して自殺した.ペトロは捕われる恐怖からキリストを知らないと言い,後悔して激しく泣き悲しんだ.)
そしてこの喜びはどこから始まったのでしょうか?それは神が疑いもなく一人のユダヤ人の乙女をへて人性を帯び,(訳注・キリストとして人の姿で)地上に生き,あまたの秘蹟の中でもとりわけ赦しの秘蹟を私たちに与えて下さったことから始まっているのです.その赦しの秘蹟が持つ力は,彼(訳注・キリスト)が,御母となった同じ乙女の助力だけを頼りに耐え抜いた受難と十字架上の死の功徳から導き出されているのです.だが,キリストは生れていなければ死ぬことができたでしょうか?すべては彼が祝福された乙女マリアから人間として生れたことに始まったのです - これがクリスマスです.
こういうわけで,私の同胞や私自身が抱える世界中で最もひどい問題にもその解決策が得られるのです.クリスマスにカトリック教徒が喜ぶのに不思議はありません.また信者でない人たちでさえ特別の喜びに与(あずか)れるのも不思議ではないのです - 彼らが心を鬼にし冷やかな態度で構えていない限りは.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第2パラグラフの訳注)
・「ヨブ」…英語で “Job”.旧約聖書「ヨブの書」に出てくる,神への信心深い義人.神により信仰を試され,全ての財産と家族を取り去られ全身の不治の病に襲われても神に信頼し,神を呪うことをしなかった.正しい人もまた苦しむことがある〈例えばキリストの受難〉こと,神による救いの約束〈救世主キリスト待望の信仰〉に信頼すべきことを教える.最後にヨブは大きな不幸に耐えた報いを神から豊かに受けた.取り去られた財産や家族などは元の2倍以上増やされ祝福された.)
・「正しい人の苦しみ」について.
以下は,バルバロ神父訳旧約聖書「ヨブの書解説」からの抜粋.
…正しい幸せな生活をおくっていたヨブの上に突如として大きな不幸が襲いかかった.
「正義の神がなぜ正しい人を苦しめられるのか」という疑問に対し,…(神が)宇宙の不思議を語って神の偉大さを示し,人間には無限の知恵である神と相対する権利のないことを教える.
…本書の作者がいおうとするのは,「正しい人の苦しみ」である.ヨブは「正しい生活をしていても災難を受ける」という.読者は序文によって,ヨブの災難が神からではなくサタン(悪魔)からのもので,神への忠実に対する試練であることを知っている.しかしヨブも(ヨブを慰めに来た友人も)このことは知らない.
ヨブは苦しみの中にあっても,神は慈悲であり正義であるという希望にすがりついている.
…この本の宗教的な教えとは,『霊魂はどんなやみ(闇)の中にあっても,神への信頼と信仰を持ち続けよ.』ということである。「罪のない者が苦しむ」という神秘を照らすには来世の賞罰の確証がいる.そしてまたキリストの苦しみと合わせて苦しむ,人間の苦しみの価値を知る必要もある.
…ヨブの切なる疑問に答えるのは聖パウロの書であろう.
「今のときの苦しみはわれわれに現れる光栄とは比較にならないと私は思う」(新約聖書・ローマ人への手紙・第8章18節)
「私は今,あなたたちのために受けた苦しみを喜び,キリストの体なる教会のために私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところを満たそうとする」(新約聖書・コロサイ人への手紙・第1章24節)
・神の知恵は苦しみと死という事実にも,人間の考え及ばぬ意味をもたせうることをヨブは悟った.(ヨブの書・第42章5節の注釈より)
・人間の罪の赦しの秘蹟は,正しい神であると同時に罪なき人たるキリストの受けた「受難と十字架の死」の苦しみを通してもたらされた.その秘蹟の力はキリストへの信仰によって永遠のものである.
2010年12月27日月曜日
2010年12月23日木曜日
資本主義の展開
エレイソン・コメンツ 第179回 (2010年12月18日)
社会は利己主義によっては成り立ちません.今は誰かが社会で自分の要求を通したいときには基本的にその人の持つ金銭にものを言わせる時代です.仮に経済用語以上の意味で,資本主義をすべての国民が望み通りに可能な限りの資本すなわち金銭を作れるような社会を組織する一手段であると定義するなら,資本主義は矛盾(むじゅん)に満ちたものとなります.その場合の資本主義は,誰もがみな利己的になるよう仕向けることで利己主義を要求する社会を作ろうとしていることになるからです.
こういうわけで資本主義は,その資本主義者社会の構成員たちが前資本主義者的価値観,たとえば常識,金銭追求にあたっての節度,公益の尊重などを持ち続ける限りにおいてだけ存続できます.そうでなければ,(上に定義したような利己的な)資本主義は構成員個々にとって不利に働きます.利己主義は無私無欲に反する働きをするからです.その場合,資本主義は寄生生物であり,前資本主義者的価値観の働く社会的身体に寄生して徐々に母体を蝕(むしば)み弱体化させていくのです.
金銭追求の上に築き上げられた社会に内在する矛盾は,世界金融,世界経済の現況の下で壊滅(かいめつ)的な結果に至っています.とくに第二次世界大戦が終わっていらい世界の人々は,かつて生きる目的を与えてくれた精神的な充足より今では物質的な充足を優先させ,ますます金銭追求を強めています.金銭を称賛し追求する人々は,投資家たちが自分たちの社会で権力を振るうことを喜んで許してきました.称賛され引っ張りだこになった投資家たちはますます金銭,権力の追求に熱中してきました.結局のところ,金銭,権力がさらに多くを得ようとするとき,それを抑制するどのような歯止めがそこに内在しているでしょうか?そんなものは何もありません.銀行家たちは紛れもない悪党へと変貌(へんぼう)してしまっているのです.
そういうわけで,たとえば,10年か15年前に考案された「デリバティブ」は,それを提供する銀行屋たちに手数料でひと財産築かせることはあっても,大量破壊兵器のように世界金融の精巧なメカニズムを壊す作用をする金融商品です.なぜならこの金融商品は巨額で返済不能な負債をいとも簡単に造り上げるからです.返済不能な負債で安定を失った詐欺(さぎ)的な世界では,各国政府が次々にどこからともなく大量の「金銭」をひねり出し,その負債を「支払う」ことで見せかけの秩序を維持しています.だが,このような処理の仕方は当該通貨のあらゆる有用性を空にしてしまうインフレに終わるだけです.かくして世界のあらゆる紙幣と電子マネーは - もう長年もの間それ以外にない状態ですが - 今や終焉(しゅうえん)を迎えています.
だが,通貨と社会の関係は潤滑油(じゅんかつゆ)とエンジンの関係に似ています.潤滑油なしでは,エンジンは故障し使い物にならなくなってしまいます.社会で通貨がなければ(物資・サービスの)交換はずっと困難になり商業は減速し行き詰まってしまうでしょう.もしこのような理由で食糧運搬トラックが走れなくなり食料不足が起きたら,とりわけ大都市で,政治家たちはどうやって食糧暴動を回避し農民たちが熊手を手に追いかけてくるのを食い止めることができるでしょうか?戦争を始めるしかありません!
第三次世界大戦もさほど遠くないことかもしれません.主よ,憐れみ給え!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
社会は利己主義によっては成り立ちません.今は誰かが社会で自分の要求を通したいときには基本的にその人の持つ金銭にものを言わせる時代です.仮に経済用語以上の意味で,資本主義をすべての国民が望み通りに可能な限りの資本すなわち金銭を作れるような社会を組織する一手段であると定義するなら,資本主義は矛盾(むじゅん)に満ちたものとなります.その場合の資本主義は,誰もがみな利己的になるよう仕向けることで利己主義を要求する社会を作ろうとしていることになるからです.
こういうわけで資本主義は,その資本主義者社会の構成員たちが前資本主義者的価値観,たとえば常識,金銭追求にあたっての節度,公益の尊重などを持ち続ける限りにおいてだけ存続できます.そうでなければ,(上に定義したような利己的な)資本主義は構成員個々にとって不利に働きます.利己主義は無私無欲に反する働きをするからです.その場合,資本主義は寄生生物であり,前資本主義者的価値観の働く社会的身体に寄生して徐々に母体を蝕(むしば)み弱体化させていくのです.
金銭追求の上に築き上げられた社会に内在する矛盾は,世界金融,世界経済の現況の下で壊滅(かいめつ)的な結果に至っています.とくに第二次世界大戦が終わっていらい世界の人々は,かつて生きる目的を与えてくれた精神的な充足より今では物質的な充足を優先させ,ますます金銭追求を強めています.金銭を称賛し追求する人々は,投資家たちが自分たちの社会で権力を振るうことを喜んで許してきました.称賛され引っ張りだこになった投資家たちはますます金銭,権力の追求に熱中してきました.結局のところ,金銭,権力がさらに多くを得ようとするとき,それを抑制するどのような歯止めがそこに内在しているでしょうか?そんなものは何もありません.銀行家たちは紛れもない悪党へと変貌(へんぼう)してしまっているのです.
そういうわけで,たとえば,10年か15年前に考案された「デリバティブ」は,それを提供する銀行屋たちに手数料でひと財産築かせることはあっても,大量破壊兵器のように世界金融の精巧なメカニズムを壊す作用をする金融商品です.なぜならこの金融商品は巨額で返済不能な負債をいとも簡単に造り上げるからです.返済不能な負債で安定を失った詐欺(さぎ)的な世界では,各国政府が次々にどこからともなく大量の「金銭」をひねり出し,その負債を「支払う」ことで見せかけの秩序を維持しています.だが,このような処理の仕方は当該通貨のあらゆる有用性を空にしてしまうインフレに終わるだけです.かくして世界のあらゆる紙幣と電子マネーは - もう長年もの間それ以外にない状態ですが - 今や終焉(しゅうえん)を迎えています.
だが,通貨と社会の関係は潤滑油(じゅんかつゆ)とエンジンの関係に似ています.潤滑油なしでは,エンジンは故障し使い物にならなくなってしまいます.社会で通貨がなければ(物資・サービスの)交換はずっと困難になり商業は減速し行き詰まってしまうでしょう.もしこのような理由で食糧運搬トラックが走れなくなり食料不足が起きたら,とりわけ大都市で,政治家たちはどうやって食糧暴動を回避し農民たちが熊手を手に追いかけてくるのを食い止めることができるでしょうか?戦争を始めるしかありません!
第三次世界大戦もさほど遠くないことかもしれません.主よ,憐れみ給え!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2010年12月13日月曜日
真理は人を自由にする
エレイソン・コメンツ 第178回 (2010年12月11日)
先週までの三回の 「エレイソン・コメンツ」 (第175-177回) での議論はただ単にフランス人画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848-1903年) によって触発されたにすぎません.なぜなら彼は並みいる近代芸術家たちの中でも決して最悪ではないからです.私の論点は,神は存在する,したがって近代芸術は 「くだらない」 “bosh” (イブリン・ウォーの 「ブライズヘッド再訪」 “Evelyn Waugh’s “Brideshead Revisited” I, 6 をご覧ください) ということではありません.むしろ,近代芸術はくだらない,したがって神は存在する,ということです.原因から結果に降りることと結果から原因に昇ることの間には重要な相違があるのです.
仮に私が,神の存在を前提として始め,たとえば近代芸術,近代音楽,近代オペラ演出などが誤りだと結論づけるなら,まず第一に,神とその存在はそれによって証明されません.そして第二に,神の宗教は私たちの自由を束縛する車輪止め(駐車違反車に取り付けるクランプ)みたいに私たちを急襲するもののように受け止められるでしょう.ところで,私は私であり,どんなものであろうと好きな芸術を自由に選びたいのはこの私なのです.だが,そこへ天国から舞い降りたとおぼしき駐車違反監視員が自由を取り締まりに来たとします.余計なお世話です!
一方,もし私が近代芸術についての私自身の体験から取り掛かれば,私はまず私が直に知っていることから始めます.そしてもしそれについての私の体験が,正直なところ,不満足なものであれば - ここでは必ずしも当てはまりませんが,もし当てはまるとすれば - その時,私は高く称賛されている近代芸術家たちの作品を前になぜこのように不安を感じるのか不思議に思い始めるかもしれません.私はもう一度その称賛に耳を傾けてみます.それでも私は確信できません.なぜでしょう?近代芸術が見苦しいからです.見苦しさのどこがいけないのでしょうか?それは美を欠いているからです.もし私が,たとえば絵に描かれた風景や女性の美しさを通して,それが持つ自然な本来の美,作品にみなぎる各部分の調和へと上昇し続けるなら,私の思考は私自身の個人的な体験から出発して万物の創造主に向けかなりの道のりを上昇することになるでしょう.
この後者の場合,神はもはや車輪止めを手に持つ駐車違反監視員のように映らなくなります.逆に,神は私たちの自由を抑圧するどころか,醜(みにく)さ (訳注・=見苦しさ. “ugliness” ) は世界を吹き抜けるカオス(混沌,こんとん.“chaos” )を造り出すものだと宣言する自由意思を人間に残してくれるかのように思えるのです.神はおそらく,醜さが不快を極めるあまり,私たちの思考を真理と善に向かわせるのではないかと望まれているのかもしれません.この時点では,神の宗教はもはや私たちの内なる自由に対する外からの車輪止めとは似つかぬものとなり,むしろ私の内にある最悪のものを退け最良のものを引きだす手助け,解放者となります.なぜなら,私が高慢でないかぎり,私は自分の内にあるものすべてが必ずしも秩序づけられ調和したものではないことを認めざるをえないからです.
その時点で,神の愛 ( “supernatural grace” .超自然の恩寵.) は,ある種の警官のように私の生来の性分に背後から乗り移って私のすることを何でも力ずくで制御しようとするものではないのだと思えるようになります.むしろそれはとてもよい友人で,もし私が願えば,私の内にある最悪なものから最良のものを解放するか,少なくともそうなるよう努めてくれるものなのです.
第二バチカン公会議と公会議の宗教の背後にある一つの原動力は,カトリックの伝統とはあたかもすべての人間生来の衝動を悪と決めつける鼻持ちならない警察官のような存在だという共有感覚でしたし,それは今でも変わっていません.確かに,私の堕落した性質から出る衝動は悪です ( “…the impulses of my fallen nature are bad,…” ). だが人間の性分には悪と裏腹に善良なものが隠れており ( “…there is good in our nature underneath the bad,” ),その善良な部分が息つくようにしてあげなければなりません.なぜなら私たちの内にあるその善は外からくる神の真実な宗教と完全に同調するからです.そうでなければ,私は自分の内なる悪の衝動から偽の宗教をねつ造しているということになるのです - まるで第二バチカン公会議のように.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
先週までの三回の 「エレイソン・コメンツ」 (第175-177回) での議論はただ単にフランス人画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848-1903年) によって触発されたにすぎません.なぜなら彼は並みいる近代芸術家たちの中でも決して最悪ではないからです.私の論点は,神は存在する,したがって近代芸術は 「くだらない」 “bosh” (イブリン・ウォーの 「ブライズヘッド再訪」 “Evelyn Waugh’s “Brideshead Revisited” I, 6 をご覧ください) ということではありません.むしろ,近代芸術はくだらない,したがって神は存在する,ということです.原因から結果に降りることと結果から原因に昇ることの間には重要な相違があるのです.
仮に私が,神の存在を前提として始め,たとえば近代芸術,近代音楽,近代オペラ演出などが誤りだと結論づけるなら,まず第一に,神とその存在はそれによって証明されません.そして第二に,神の宗教は私たちの自由を束縛する車輪止め(駐車違反車に取り付けるクランプ)みたいに私たちを急襲するもののように受け止められるでしょう.ところで,私は私であり,どんなものであろうと好きな芸術を自由に選びたいのはこの私なのです.だが,そこへ天国から舞い降りたとおぼしき駐車違反監視員が自由を取り締まりに来たとします.余計なお世話です!
一方,もし私が近代芸術についての私自身の体験から取り掛かれば,私はまず私が直に知っていることから始めます.そしてもしそれについての私の体験が,正直なところ,不満足なものであれば - ここでは必ずしも当てはまりませんが,もし当てはまるとすれば - その時,私は高く称賛されている近代芸術家たちの作品を前になぜこのように不安を感じるのか不思議に思い始めるかもしれません.私はもう一度その称賛に耳を傾けてみます.それでも私は確信できません.なぜでしょう?近代芸術が見苦しいからです.見苦しさのどこがいけないのでしょうか?それは美を欠いているからです.もし私が,たとえば絵に描かれた風景や女性の美しさを通して,それが持つ自然な本来の美,作品にみなぎる各部分の調和へと上昇し続けるなら,私の思考は私自身の個人的な体験から出発して万物の創造主に向けかなりの道のりを上昇することになるでしょう.
この後者の場合,神はもはや車輪止めを手に持つ駐車違反監視員のように映らなくなります.逆に,神は私たちの自由を抑圧するどころか,醜(みにく)さ (訳注・=見苦しさ. “ugliness” ) は世界を吹き抜けるカオス(混沌,こんとん.“chaos” )を造り出すものだと宣言する自由意思を人間に残してくれるかのように思えるのです.神はおそらく,醜さが不快を極めるあまり,私たちの思考を真理と善に向かわせるのではないかと望まれているのかもしれません.この時点では,神の宗教はもはや私たちの内なる自由に対する外からの車輪止めとは似つかぬものとなり,むしろ私の内にある最悪のものを退け最良のものを引きだす手助け,解放者となります.なぜなら,私が高慢でないかぎり,私は自分の内にあるものすべてが必ずしも秩序づけられ調和したものではないことを認めざるをえないからです.
その時点で,神の愛 ( “supernatural grace” .超自然の恩寵.) は,ある種の警官のように私の生来の性分に背後から乗り移って私のすることを何でも力ずくで制御しようとするものではないのだと思えるようになります.むしろそれはとてもよい友人で,もし私が願えば,私の内にある最悪なものから最良のものを解放するか,少なくともそうなるよう努めてくれるものなのです.
第二バチカン公会議と公会議の宗教の背後にある一つの原動力は,カトリックの伝統とはあたかもすべての人間生来の衝動を悪と決めつける鼻持ちならない警察官のような存在だという共有感覚でしたし,それは今でも変わっていません.確かに,私の堕落した性質から出る衝動は悪です ( “…the impulses of my fallen nature are bad,…” ). だが人間の性分には悪と裏腹に善良なものが隠れており ( “…there is good in our nature underneath the bad,” ),その善良な部分が息つくようにしてあげなければなりません.なぜなら私たちの内にあるその善は外からくる神の真実な宗教と完全に同調するからです.そうでなければ,私は自分の内なる悪の衝動から偽の宗教をねつ造しているということになるのです - まるで第二バチカン公会議のように.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2010年12月8日水曜日
六ペニーの芸術
エレイソン・コメンツ 第177回 (2010年12月4日)
フランスの画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848-1903年)は芸術のために社会と絶縁しましたが,(訳注・家庭を捨てるまでして)自由の身になって創作した芸術は彼に心の安らぎをもたらさなかったようです(EC175).英国の作家サマセット・モーム “Somerset Maugham” (1874-1965年)はゴーギャンの没後数年を経て彼の生涯を小説にしました.彼はその中で,ゴーギャンの(訳注・社会との)絶縁と心の安らぎの欠如の双方を確認しているように思えます(EC176). だが,この近代芸術家は,自分が向き合い,自分を支えてくれる社会となぜ折り合いがつかなくなったのでしょうか?また彼の生み出した近代芸術が概(がい)して見苦しいのはなぜなのでしょうか?そしてなぜ人々は見苦しい芸術を支持し続けるのでしょうか?
反逆的な芸術家はロマン派に遡(さかのぼ)ります.ロマン主義はフランス革命とともに繁栄しました.革命そのものは単に1789年に起きただけですが,その影響は今日までずっと玉座と祭壇 “throne and altar” (訳注・ローマ教皇聖座(司教座)とカトリック教会の祭壇(さいだん))をその地位から引きずりおろし続けてきました.近代芸術家たちは自ら住む社会を映し出すものですが(一般に芸術家とはそうせずにはいられないのでしょう),彼らは神の否定を着実に強めながら生きようとします.神が存在しなければ,有史以前から人の心を支配してきた神という錯覚から解き放たれ,新しい自由のもとで芸術が穏(おだ)やかに繁栄するはずだというわけです.だが近代芸術は果たして穏やかなものでしょうか?むしろ自滅的ではないでしょうか?
一方,もし神が存在し,そしてこれまでに数知れない芸術家たちが公言してきたように芸術家の才能は神の栄光のために使うべき天賦のものだとするなら,神を信じない芸術家は自身の持つ天資と折り合えなくなり,彼の天資は彼の属する社会と,社会は彼の天資と敵対するようになるでしょう.こうしたことはむしろ私たちの周りの至る所で目にする光景ではないでしょうか?例えば,現代の物質(唯物)主義者が表面で敬意を装いながらも,陰(かげ)ではあらゆる芸術を深く軽蔑しているというようなことです.
もし神が存在するなら,とにかく上の疑問に答えるのは簡単です.まず第一に,芸術家が社会に反目するのは,自らの内にある神の息吹すなわち自身の天分が神のない社会など卑(いや)しむべきものだと知っているからです.自分が軽蔑する社会が自分を支えてくれているとなると,彼は社会をますます卑しむべきものと捉(とら)えるでしょう.ワーグナー “Wagner” がかつて自分のオーケストラが拡大したため劇場の客席を一列取り除く事態となったとき「聴衆が少なくなる?なお結構!」と言ったのと同じです.第二に,神に敵対する天賦の才能が何か調和のとれた美しいものをどうして生み出せるものでしょうか?近代芸術を美しいと思うためには言葉の意味を逆に解釈しなければならなくなります.「きれいは汚い,汚いはきれい」 "Fair is foul and foul is fair" (マクベス)(訳注・シェークスピアの悲劇「マクベス」 “Macbeth” で登場する三人の魔女の言葉)・・・それにしても,近代芸術家はいつから女性の美を醜さと取り違えるようになったのでしょうか?そして第三に,現代人は神に戦いをいどみ,その手を緩(ゆる)める意思もないため,言葉の意味を逆に取りたがるのでしょう.1453年,コンスタンティノープル*の陥落(かんらく)直前にギリシア人たちは「冠よりトルコ人を」*と言いました.第二次世界大戦後、アメリカの上院議員たちは「カトリシズムよりむしろ共産主義をとる」と言い,その願望を叶えました.(*脚注…訳注後記)
手短にいえば、ワーグナー,ゴーギャン,モーム,その他あらゆる種類の近代芸術家たちが六ペニーの安物になり下がった私たちのキリスト教世界を軽蔑するのは結構ですが,それに対する答えは,近代芸術を用いて神とこれ以上戦うべきでないということです.神との戦いを止め,神本来の栄光を再び神に返し,キリストをキリスト教世界に戻すことです.人間が冠に立ち戻りもう一度カトリシズムを選び取るためには,あとどれだけの醜さが必要なのでしょうか?はたして第三次世界大戦(訳注・という醜さ)ですら(訳注・人間が神に立ち戻るための解決策として)十分たり得るでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第4パラグラフの脚注:
「コンスタンティノープル」 “Constantinople” について:
・現在のイスタンブール(欧州とアジアの境界となるボスポラスBosporus海峡の欧州側に臨(のぞ)むトルコ最大の都市(トルコの現在の首都はアンカラ).)
・古代ギリシア人の植民市ビザンティウムByzantiumとして創建され(紀元前658年),330年コンスタンティヌス1世(大帝)によりローマ帝国の首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)となる.その後ローマ帝国が決定的に東西に分裂した際(395年)コンスタンティヌス一世により東ローマ帝国(=ビザンティン帝国)の首都とされた(-1453年).(西ローマ帝国の首都はローマ.)
・ラテン語の他ギリシア語が公用語として用いられ,ギリシア的キリスト教観をもち,ギリシア文化の伝統のうえに立った東方教会(ギリシア正教会)が発展した.国際大都市として栄えた.
(この時,(既に313年コンスタンティヌス帝によりローマ帝国で公認されていた)ローマ・カトリック教会は西方教会として西ローマ帝国の方へ分かれ,公用語でもあったラテン語が用いられた.西ローマ帝国は,476−480年に滅亡したが,ローマ・カトリック教は,弱体化した西ローマ帝国の属州を次々と征服していった蛮族(異民族)たちが次第にローマ化してローマ・カトリック教に改宗していったため,そこから周辺地域の国々や住民たちに広がり後世に引き継がれていった.)
・その後オスマン・トルコに征服されてビザンティン帝国が滅び(1453年),都市名は「イスタンブール」と改称されオスマン・トルコの首都となった.
「冠よりトルコ人を」 “Rather the Turk than the tiara” について:
・もとは,東ローマ帝国(後のビザンティン帝国)のギリシア正教徒たちが言った言葉「ローマ教皇の冠よりトルコ人のターバンを(とる)」"Rather the turban of the Turk than the tiara of the Pope." に由来する.
・「冠」 “the tiara” =カトリック教会のローマ教皇位・教皇職の意味.
・“tiara” =ローマ教皇の三重冠・教皇冠のこと.ローマ教皇が典礼以外の公式の儀式に着用する冠.教皇の司祭権・司教権・教導権を表す三重の円形の冠で,頂上に十字架がはめられている.
(ブリタニカ国際百科事典参照))
フランスの画家ポール・ゴーギャン “Paul Gauguin” (1848-1903年)は芸術のために社会と絶縁しましたが,(訳注・家庭を捨てるまでして)自由の身になって創作した芸術は彼に心の安らぎをもたらさなかったようです(EC175).英国の作家サマセット・モーム “Somerset Maugham” (1874-1965年)はゴーギャンの没後数年を経て彼の生涯を小説にしました.彼はその中で,ゴーギャンの(訳注・社会との)絶縁と心の安らぎの欠如の双方を確認しているように思えます(EC176). だが,この近代芸術家は,自分が向き合い,自分を支えてくれる社会となぜ折り合いがつかなくなったのでしょうか?また彼の生み出した近代芸術が概(がい)して見苦しいのはなぜなのでしょうか?そしてなぜ人々は見苦しい芸術を支持し続けるのでしょうか?
反逆的な芸術家はロマン派に遡(さかのぼ)ります.ロマン主義はフランス革命とともに繁栄しました.革命そのものは単に1789年に起きただけですが,その影響は今日までずっと玉座と祭壇 “throne and altar” (訳注・ローマ教皇聖座(司教座)とカトリック教会の祭壇(さいだん))をその地位から引きずりおろし続けてきました.近代芸術家たちは自ら住む社会を映し出すものですが(一般に芸術家とはそうせずにはいられないのでしょう),彼らは神の否定を着実に強めながら生きようとします.神が存在しなければ,有史以前から人の心を支配してきた神という錯覚から解き放たれ,新しい自由のもとで芸術が穏(おだ)やかに繁栄するはずだというわけです.だが近代芸術は果たして穏やかなものでしょうか?むしろ自滅的ではないでしょうか?
一方,もし神が存在し,そしてこれまでに数知れない芸術家たちが公言してきたように芸術家の才能は神の栄光のために使うべき天賦のものだとするなら,神を信じない芸術家は自身の持つ天資と折り合えなくなり,彼の天資は彼の属する社会と,社会は彼の天資と敵対するようになるでしょう.こうしたことはむしろ私たちの周りの至る所で目にする光景ではないでしょうか?例えば,現代の物質(唯物)主義者が表面で敬意を装いながらも,陰(かげ)ではあらゆる芸術を深く軽蔑しているというようなことです.
もし神が存在するなら,とにかく上の疑問に答えるのは簡単です.まず第一に,芸術家が社会に反目するのは,自らの内にある神の息吹すなわち自身の天分が神のない社会など卑(いや)しむべきものだと知っているからです.自分が軽蔑する社会が自分を支えてくれているとなると,彼は社会をますます卑しむべきものと捉(とら)えるでしょう.ワーグナー “Wagner” がかつて自分のオーケストラが拡大したため劇場の客席を一列取り除く事態となったとき「聴衆が少なくなる?なお結構!」と言ったのと同じです.第二に,神に敵対する天賦の才能が何か調和のとれた美しいものをどうして生み出せるものでしょうか?近代芸術を美しいと思うためには言葉の意味を逆に解釈しなければならなくなります.「きれいは汚い,汚いはきれい」 "Fair is foul and foul is fair" (マクベス)(訳注・シェークスピアの悲劇「マクベス」 “Macbeth” で登場する三人の魔女の言葉)・・・それにしても,近代芸術家はいつから女性の美を醜さと取り違えるようになったのでしょうか?そして第三に,現代人は神に戦いをいどみ,その手を緩(ゆる)める意思もないため,言葉の意味を逆に取りたがるのでしょう.1453年,コンスタンティノープル*の陥落(かんらく)直前にギリシア人たちは「冠よりトルコ人を」*と言いました.第二次世界大戦後、アメリカの上院議員たちは「カトリシズムよりむしろ共産主義をとる」と言い,その願望を叶えました.(*脚注…訳注後記)
手短にいえば、ワーグナー,ゴーギャン,モーム,その他あらゆる種類の近代芸術家たちが六ペニーの安物になり下がった私たちのキリスト教世界を軽蔑するのは結構ですが,それに対する答えは,近代芸術を用いて神とこれ以上戦うべきでないということです.神との戦いを止め,神本来の栄光を再び神に返し,キリストをキリスト教世界に戻すことです.人間が冠に立ち戻りもう一度カトリシズムを選び取るためには,あとどれだけの醜さが必要なのでしょうか?はたして第三次世界大戦(訳注・という醜さ)ですら(訳注・人間が神に立ち戻るための解決策として)十分たり得るでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第4パラグラフの脚注:
「コンスタンティノープル」 “Constantinople” について:
・現在のイスタンブール(欧州とアジアの境界となるボスポラスBosporus海峡の欧州側に臨(のぞ)むトルコ最大の都市(トルコの現在の首都はアンカラ).)
・古代ギリシア人の植民市ビザンティウムByzantiumとして創建され(紀元前658年),330年コンスタンティヌス1世(大帝)によりローマ帝国の首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)となる.その後ローマ帝国が決定的に東西に分裂した際(395年)コンスタンティヌス一世により東ローマ帝国(=ビザンティン帝国)の首都とされた(-1453年).(西ローマ帝国の首都はローマ.)
・ラテン語の他ギリシア語が公用語として用いられ,ギリシア的キリスト教観をもち,ギリシア文化の伝統のうえに立った東方教会(ギリシア正教会)が発展した.国際大都市として栄えた.
(この時,(既に313年コンスタンティヌス帝によりローマ帝国で公認されていた)ローマ・カトリック教会は西方教会として西ローマ帝国の方へ分かれ,公用語でもあったラテン語が用いられた.西ローマ帝国は,476−480年に滅亡したが,ローマ・カトリック教は,弱体化した西ローマ帝国の属州を次々と征服していった蛮族(異民族)たちが次第にローマ化してローマ・カトリック教に改宗していったため,そこから周辺地域の国々や住民たちに広がり後世に引き継がれていった.)
・その後オスマン・トルコに征服されてビザンティン帝国が滅び(1453年),都市名は「イスタンブール」と改称されオスマン・トルコの首都となった.
「冠よりトルコ人を」 “Rather the Turk than the tiara” について:
・もとは,東ローマ帝国(後のビザンティン帝国)のギリシア正教徒たちが言った言葉「ローマ教皇の冠よりトルコ人のターバンを(とる)」"Rather the turban of the Turk than the tiara of the Pope." に由来する.
・「冠」 “the tiara” =カトリック教会のローマ教皇位・教皇職の意味.
・“tiara” =ローマ教皇の三重冠・教皇冠のこと.ローマ教皇が典礼以外の公式の儀式に着用する冠.教皇の司祭権・司教権・教導権を表す三重の円形の冠で,頂上に十字架がはめられている.
(ブリタニカ国際百科事典参照))
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