2010年9月26日日曜日

教理の過小評価

エレイソン・コメンツ 第167回 (2010年9月25日)

概して思慮深い雑誌といえる「カルチャーウォーズ」( “Culture Wars” )の編集長が最近,聖ピオ十世会とならんで私個人について,カトリック教会の主流派との関係を意図的に断ち切っていると切り込んできました.ここではE・マイケル・ジョーンズ編集長の見解をなるべく簡潔かつ公平にご紹介したいと思います.私の回答を容易にするため主な議論点ごとにアルファベット文字を付しました:--

第二バチカン公会議の問題は教理上の事柄に関するものではない,というのが彼の主要論点です.彼によれば,「(A) 公会議の諸文書そのものは,公会議後にその「精神」の名の下にはびこる狂気じみた状況にいささかも責任はない.文書自体に関しては,内容が曖昧(あいまい)な場合もあるが,(B) 神は常に御自身の(カトリック)教会と共にある( “with His Church” )としており,その理由から,(C) わずかでもカトリック教的なものは,第二バチカン公会議で行われたように,全世界から集まる司教たちの賛同を得ることができる.(D) したがって,ルフェーブル大司教がかつて提案されたように,その文書の曖昧さをカトリック教会の伝統( “Tradition” ) の視点に基づいて解釈すれば十分であり,かつそうすべきである.」

「したがって(E) 第二バチカン公会議はカトリック教会の伝統に則(のっと)っており( “is Traditional” ),ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間のいかなる問題も教理上のものたり得ない.(F) ゆえに,聖ピオ十世会の真の問題は同会が(霊魂の)汚染・堕落を恐れて(教会主流派側との)交わりを拒否していることであって,その姿勢は(G) 教会分離論者ゆえの寛容・愛徳( “charity” )の欠如から生じているのである.(H) 同会は結果として犯している罪を,第二バチカン公会議の反教理的姿勢のためにカトリック教会史上類を見ない緊急事態が起きているかのごとく見せかけることで覆(おお)い隠している.(I) そのために,聖ピオ十世会は,カトリック教会はその使命遂行に失敗しており,聖ピオ十世会こそがカトリック教会である,と言っているのである.これはばかげている!聖ピオ十世会の司教たちよ,(合意文書に)署名して(すべてを)ローマ教皇庁に譲渡せよ!」

回答:第二バチカン公会議の問題は本質的に教理にかかわる問題です.(A) 悲しいかな,第二バチカン公会議の「精神」とその常軌を逸した余波はまさしく同会議の諸文書のなせるわざです.E・M・J 編集長が認める文書の曖昧さこそが,その狂気の沙汰を野放図にしてきたのです.(B) 確かに神は御自身の(カトリック)教会と共にあります.だが同時に神は,その教会の聖職者たちの思いのままにお任せになり,教会に対して甚大ではあっても決して致命的でない程度の害をもたらすような選択を彼らが為(な)すことをお許しになっておられるのです(新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節を参照.)(訳注後記)(C) かくして,神は4世紀に多くのカトリック司教たちが恐るべきアリウス主義者による危機に陥ることをもお許しになったのです.かつて起きたことは再び起きます.ただ事態はさらに悪化するだけです.(D) 第二バチカン公会議後のカトリック伝統派の闘いの初期には,同公会議にカトリック伝統の視点から解釈するよう訴えるのは穏当(おんとう)だったかもしれませんが,その段階はとうの昔に過ぎています.公会議の諸文書の曖昧さが生んだ苦い果実によって,微妙に毒の入った諸文書が救い難いと証明されてからすでに相当の時が経過しています.

こういうわけで(E) 第二バチカン公会議はカトリック伝統的ではなく( “is not Traditional” ),ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との対立は本質的に教理上の問題に起因するものです.したがって(F) 第二バチカン公会議の誤った教理による(霊魂の)汚染・堕落を恐れる理由が十分に存在しているのです - 同公会議の教理は霊魂を地獄に導くものです.(G) さらに伝統主義者たち(非教皇空位主義者)の間には教会分離主義的思考は何ら存在しません.たとえ (H) カトリック教会がその全歴史上最悪の緊急事態の真っただ中にあるとしても,です.(I) だが,ちょうどアリウス主義による危機のときと同じように,カトリック信仰( “the Faith” )を持ち続ける少数の司教たちはカトリック教会が決して失敗していないことを証明しています.それ故,聖ピオ十世会は,カトリック教会に取って代わるふりをしたり,あるいはカトリック教会そのものになりすましたりすることなく,カトリック教会に所属してその信仰を持ち続けているのです.

マイケルにお尋(たず)ねしますが,カトリック教会の全歴史の中で,いつ司教たちが意図的に曖昧な態度をとったことがあったでしょうか?あなたは第二バチカン公会議の曖昧さを認めています.過去においていつ,教会聖職者たちが,異端に道を開く以外の目的のために,曖昧さという手段を用いたことがあったでしょうか?私たちの主イエズス・キリストの(カトリック)教会( “In Our Lord’s Church” )では,然(しか)りは然り,否(いな)は否たるべきなのです(新約聖書・マテオ聖福音書:第5章37節).(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

・第4パラグラフ(B)で引用された〈新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節〉の訳注:

ルカ聖福音書・第18章1-8節(太字部分が8節)
またイエズスはうまずたゆまず祈れと教えて,たとえを話された,「*¹ある町に神を恐れず人を人とも思わぬ裁判官があった.またその町に一人のやもめがいて,その裁判官に〈私の敵手(あいて)に対して正邪をつけてください〉と頼みに来た.彼は久しい間その願いを聞き入れなかったが,とうとうこう考えた,〈私は神も恐れず人を人とも思わぬが,あのやもめはわずらわしいからさばいてやろう.そうすればもうわずらわしに来ることはあるまい〉」.主は,「不正な裁判官の言ったことを聞いたか.*²神が昼夜ご自分に向かって叫ぶ選ばれた人々のために,正邪をさばかれぬことがあろうか,その日を遅れさすであろうか.私は言う.神はすみやかに正邪をさばかれる.とはいえ,人の子(救世主イエズス・キリスト)の来る時,地上に信仰を見いだすだろうか・・・」と言われた.

(注釈)
*¹2-8節…このたとえは,特に世の終わりの苦しみにあたって不断に祈れと教える.
*²7節…神は選ばれた人々を忘れておられるようにみえても,けっしてそうではない.ただ待たれる.彼らの正義はやがて証明されるだろう.


・第6パラグラフ最後に引用されている〈新約聖書・マテオ聖福音書:第5章37節〉の訳注:

マテオ聖福音書・第5章37節
〈はい〉なら〈はい〉,〈いいえ〉なら〈いいえ〉とだけ言え.それ以上のことは悪魔から出る.」(イエズス・キリストの御言葉)

2010年9月20日月曜日

なぜ 教理なのか? その2

エレイソン・コメンツ 第166回 (2010年9月18日)

教理,すなわち教育は,まさしくカトリック教会の根幹です.人々の霊魂は先(ま)ず最初にどうすれば天国に入れるのかを教えられる必要があり,さもなければ決して天国に入ることはできません.「出かけて行って,諸国の民を教えよ」は,最後の最後まで私たちの主(イエズス・キリスト)が弟子たちに与えておられた数々の指示のひとつです(新約聖書・マテオ聖福音:第28章19節)(訳注・EC164の「訳注後記」参照).だからこそルフェーブル大司教のカトリック伝統を守るための英雄的な闘い(1970-1991年)では,何よりもまず教義を第一にしてきたのです.

まただからこそ,EC165で引用したように,フェレー司教は昨年5月ブライアン・マーション氏に対し,聖ピオ十世会はローマ教皇庁との間でたとえ魅力的であろうと実務協定に達する目的で両者間の教理上の相違を棚上げにすることはできない,と話したのです.聖ピオ十世会が教会法規的もしくは実務的な解決策を拒否するのは,「頑固さあるいは悪意を示す証し」とならないかと聞かれ,同司教は次のように答えました(彼の言葉は「レムナント」紙 “The Remnant” のウェブサイト上で入手することができます)(訳注→インタビュー記事へのアクセスはこちらから).「・・・どのようなものであれ,理にかなった正しい教義上の根拠を欠いたままの実務的解決策が災難に直結し得るのは極めてはっきりしています・・・私たちはそれを証明するあらゆる実例を持っています - 聖ペトロ会( “the Fraternity of St. Peter” ),王たるキリスト会( “the Institute of Christ the King” )やその他あらゆる会が教義レベルで完全に行き詰まっているのは最初に実務協定を受け入れたからです. 」

カトリック教義がいかなる実務協定によっても「妨害」される理由は世間の常識です.今日のローマ教皇庁は依然としてその公会議(第二バチカン公会議)に強いこだわりを持ち続けています.公会議は本質的には神の宗教たるカトリック伝統から逸脱し,新しい人間の宗教へと堕落してしまっているのです.ですからもし彼らがカトリック伝統に対して,たとえば聖ピオ十世会の正則化といった大きな譲歩をするときは,当然カトリック伝統の側からも譲歩を要求するでしょう.今や彼らローマ教皇庁の者たちは,聖ピオ十世会が先に述べたあらゆる理由からカトリック教義に固執していることを知っています.したがって,彼らが要求できる最低限のことは教理上の相違については当分のあいだ避けて通ることくらいです.

だが,ローマ教皇庁にとって目的を果たすには,それで十分なのです!「当分のあいだ」という点について言えば,ひとたび(ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で)実務的な再結合が成立すれば,カトリック伝統派の者たちはみな,もはや主流から外されてローマによる不承認の冷たい空気(彼らがそう感じている)にこれ以上さらされないですむという,いわばカトリック教理とは無関係の幸福感に酔いしれてしまい,それでもし - もちろん,偶然にですが - 「当分のあいだ」が無限の時間へと変わるようなことになってしまったら,聖ピオ十世会が後戻りするのはかなり難しくなってしまうでしょう.そのような罠(わな)は聖ピオ十世会に徐々に忍び寄ることになるでしょう.

そして「避けて通る」点については,教理,特に,神の宗教と人間の宗教との間の根本的な教理上の相違を後回しにするということは,神御自身を後回しあるいは棚上げするに等しいことです.だが,神の僕(しもべ)が神を棚上げにし,あるいは後回しにしながら,どうやって神に仕えることができるでしょうか?もしそのようなことを考えるなら,それは背教に向かって第一歩を踏み出すということです!

フェレー司教が指摘しておられる通り,40年間の経験がこうした原理原則の裏付けとなっています - カトリック伝統の戦場には,はじめは立派に活動を開始しながらも,ローマ教皇庁の古典的な交渉術を見抜けなかった諸々の組織が死体となってあちこちに散乱しています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年9月13日月曜日

なぜ 教理なのか?

エレイソン・コメンツ 第165回 (2010年9月11日)

カトリック教徒にとって教理一般(訳注・以下,原文 “doctrine” のまま記す)がそれほど重要なのはなぜでしょうか?そして,かつてはルフェーブル大司教に,今日ではフェレー司教に従う聖ピオ十世会が,公会議主義下のローマ教皇庁との間で,とりわけ教理上の合意が他のあらゆる種類の合意に先行すべきと主張するのはなぜでしょうか?聖ピオ十世会が,まずローマ教皇庁から正規に認めてもらい後で互いの教理上の相違点を詰めるやり方を受け入れられないのはなぜでしょうか?ここでは,互いに関連しながらもそれぞれ異なる疑問を二つ取り上げたいと思います.まず,一般的な疑問から始めましょう.

“doctrine”という言葉はラテン語で「教える」を意味する “doceo” ,“docere” に由来しています.つまり “doctrine” は教育です.人間各人が考えたいように考え,話したいように話す私たちの自由主義世界では, “indoctrination” (洗脳,教化)という言葉は禁句となっています.しかしこの “indoctrination” を終わらせるには,すべての学校を閉鎖しなければならないでしょう.なぜなら,学校が一つでもある限り “indoctrination” が継続するからです.仮にある教師があらゆる “doctrine” はナンセンスだと教えるとしても,その教え自体が “doctrine” なのです!

しかしながら,実際は誰もが “doctrine” の必要性を認めています.例えば,設計者が空気力学の古典原理(=理論.原語は “the classic doctrine of aerodynamics” )に逆らって両翼を逆に作った飛行機だとあらかじめ聞かされたとしたら,はたしてその飛行機に乗り込む人はいるでしょうか?誰一人乗らないでしょう!正しい空気力学理論とは例えば,両翼は機体の後方に後ろ向きに先細りで取り付けられなければならず前向きではだめですが,その理論は天から降って湧(わ)いたように出てきて話されたり書かれたりしているわけではありません.それは生死にかかわる現実( “life and death reality” )なのです.飛行機が飛び立ち墜落しないためには,細部にわたって正確な空気力学理論がその設計に不可欠です.

同様に,もし霊魂が天国に向って飛び立ち地獄に墜ちないためには,何を信じどう行動すべきかを教えるカトリック教義が不可欠です.「神は存在しておられる」,「すべての人間は不死の霊魂を持っている」,「天国と地獄は永遠に存在する」,「私は救われるために洗礼を受けなければならない」などの教義は,人々に信じるよう押しつけられている言葉ではなく,(訳注・上述した空気力学理論と同様)生死を分ける現実( “life and death realities” )として実際に存在するものであり,永遠の生命と永遠の死のことを指したものなのです.聖パウロはティモテオに救霊に必要なこうした真理を常に人々に教えるよう説き(ティモテオへの第二の手紙:第4章2節),自身には,「私が福音を説かないときは,禍(わざわい)を与えたまえ」(コリント人への第一の手紙:第9章16節)と述べています.カトリック教会の無謬(むびゅう)の教義を人々に説かないカトリック司祭に禍あれ!(訳注後記)

だが疑問は残ります.はたして聖ピオ十世会は貴重な正規化についての許可を,唯一許諾権を持つローマ教皇庁から取得するため,カトリック教義が否定されることなしではあっても,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間の教理上の相違を単に当分の間まとめて棚上げにする実務協定に達することができるでしょうか?その場合,上に述べたような救霊のための偉大な真理に対する裏切りが一切ないことが必要ではないでしょうか?フェレー司教自身はこの疑問に対し,今年5月「レムナント」紙(訳注・原語 “The Remnant”.米国の聖伝(伝統)カトリック情報紙.1967年に第二バチカン公会議体制が推進する新典礼や近代・自由・世俗各主義に抵抗する主目的で立ち上げられた.)で発表されたインタビューの中でブライアン・マーション氏( Brian Mershon )に簡潔に答えています.以下が彼の言葉です.「どのようなものであれ,理にかなった正しい教義上の根拠を欠いたままの実務的解決策が災難に直結し得るのは極めてはっきりしています・・・私たちはそれを証明するあらゆる実例を持っています - 聖ペトロ会( “the Fraternity of St. Peter” ),王たるキリスト会( “the Institute of Christ the King” )やその他あらゆる会が教義レベルで完全に行き詰まっているのは最初に実務協定を受け入れたからです.」 だが何故(なぜ)そうする必要があるのでしょうか?興味深い疑問です・・・

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(第4パラグラフ終り部分の訳注)

(バルバロ神父訳・新約聖書の引用)
〈使徒聖パウロによる〉ティモテオへの第二の手紙:第4章2節
「みことばを宣教せよ.よい折があろうとなかろうと繰り返し論じ,反駁(はんばく)し,とがめ,すべての知識と寛容をもって勧めよ.」

〈使徒聖パウロによる〉コリント人への第一の手紙:第9章16節
「私が福音をのべていても,それは誇りではなく,そうしなければならぬことだからである.ああ,私が福音をのべないなら,禍(わざわい)なことだ.」

2010年9月5日日曜日

まん延する現実

エレイソン・コメンツ 第164回 (2010年9月4日)

「しかし司教閣下,あなたはどうして,三週間前あなたのご友人が自分の住む都市であなたにお見せしたような大都市の抱えるあらゆる社会問題に対する唯一の真の解決策は主なる神お一人のみだと言い切ることがおできになるのでしょうか(EC163)?神は政治や社会の諸問題とどういう関係があるのでしょうか?神は宗教や霊魂や精神の世界といった事柄だけに関わると私はいつも考えてきました!」

ああ,私の親愛なる友よ,神とはどなたでしょうか?神はただ私たち一人ひとりの霊魂を創造され,その霊魂を私たちの両親から生まれてくる身体と合体させるだけでなく,人類が存在し将来も存在し続けるため人類創造の業をたゆまず続けておられるのです.そういうわけで,神は私たちが自分自身に対する以上に私たち人類の一人ひとりと近しい関係にあられるのです.だからカトリック教会( “the Church” )は,私たちが隣人に対しておかすいかなる罪も,まず神に対する罪であると教えるのです.なぜなら神は,私たちが私たち自身の中にいるよりもずっと深くかつ親密に,私たちの中におられるからです.したがって,隣人を傷つける者は誰でも隣人以上に神を深く傷つけているのであり,また神に逆らうことのない者は誰でも隣人を傷つけることはしません.だとすれば,聖ピオ十世会の教区,学校で(EC163)神と神の十戒を第一に置くことを学んでいる教区民や子供たちは,大都市のあらゆる問題を,彼らの根源である隣人と隣人との間で解決することを学んでいることにならないでしょうか?

私の友人が住む大都市の社会問題を振り返ってみましょう.都心から離れた郊外の住民は大半が白人で,彼らは見かけだけの豪邸で収入にそぐわない身分不相応な暮らしをしています.彼らは金持ちのように見えたいと願っており,金持ちになるのを夢見ています.彼らは,物質主義とマンモンつまり富を崇拝しているのではないでしょうか?それとは逆に,聖ピオ十世会の教区では何を教えているでしょうか?「あなたは神とマンモンを同時に崇拝することはできません.どちらか一方だけです」(新約聖書・マテオによる福音書:第6章24節「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ.一人を憎んでもう一人を愛するか,一人に従ってもう一人をうとんずるかである.神とマンモンとにともに仕えることはできぬ.」(注釈・マンモンとはカルダイ語で富のこと)).都心に近い場所では住民の多くが非白人で,彼らはほとんど自分たちの住居をなおざりにしたままで,都市計画者たちは明らかにお手上げの状態です.だが,住居を維持管理することで良い生活や霊魂の善良さを量ろうとするのは物質主義のある種の類似形態ということにならないでしょうか?俗にことわざで,きれい好きは敬神に近い,といいますが,聖ピオ十世会の教区民は何を学んでいるでしょうか? ― 「まず神の国とその正義を求めよ,そうすれば,それらのもの(訳注・飲食物や衣服等生活用品のこと)も加えて与えられる」(マテオ聖福音書:第6章33節).言い換えれば,まず敬神を求めなさい,そうすれば清潔は後からついてくる,ということです.

最後に,都心では産業の血流は失われつつあります.何故でしょうか?産業を金融に従属させ,より大きな利益を追求する中で米国の産業を外注に委ねてしまったのは資本主義そのものではないでしょうか?人間より金銭を優先させたことが,悪化一途の失業,都心部の過疎化,金融業者への全権委譲を引き起こしてしまったのではないでしょうか?彼ら金融業者はその権力を用いて,かつての誇り高き合衆国を彼らの世界警察国家の単なる屈辱的な一部分へと加速的に変容させているのです.

このような事がどうやって起きるのでしょうか?それは,白人たちが神に背を向け,(私の友人が暗にほのめかしたように) 彼らに委ねられた,世界を神の下に導くという神授の使命を放棄し(訳注後記),富を至高の現実として崇拝していることによって起きるのです.願わくば,私が訪れた都市の郊外にある聖ピオ十世会のささやかな教区と学校とによって,神の至上性,私たちの主イエズス・キリストの至上性がいつまでも行きわたらんことを!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(最後のパラグラフの訳注)

「(白人たちに委ねられた)世界を神の下に導くという神授の使命」について

マテオ聖福音書・第28章18-20節
『(イエズスの御復活後)ガリラヤに行った十一人の弟子は,イエズスがご命令になった山に登り,イエズスに出会ってひれ伏した.しかし中には疑う人もあった.イエズスは,かれらに近づいて,おおせられた.
私には,天と地との一切の権力が与えられている.だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき(=諸国の民に教え),聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ,*私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ.私は,世の終わりまで,常にあなたたちとともにいる」.』
(*注釈・キリスト紀元以後の歴史家が,すでに実現したと認めている尊い約束である.キリスト教会において生き,行い,勝利を得るのは,キリスト・イエズスである.)

マルコ聖福音書・第16章15-20節
『そして(イエズスは),「あなたたちは,全世界に行って,すべての人々に福音をのべ伝えよ.信じて洗礼をうける人は救われ,信じない人は亡(滅)ぼされる.信じる人々は,私の名によって悪魔をおい出し,新しいことばを話し,へびを握り,毒をのんでも害をうけず,病人に手をおいてなおすなどのしるしを見せるだろう」とお話しになった.
そう話しおえて,主イエズスは天にあげられ,神の右におすわりになった.弟子たちは,いたるところに福音をのべつたえに出発した.*主はかれらとともにはたらかれ,みことばを,それにともなう奇跡をもって,確認された
(*注釈・使徒らが宣教する教えの真実性の証明は,彼らの学問や雄弁にあるのではなく,イエズスからの超自然的確認すなわち奇跡にある.)

「福音」についての福音書の一個所:
ヨハネ聖福音書・第3章1-21節
『さて,ファリザイ人の中に,ニコデモというユダヤ人の貴人がいた.この人は,ある夜イエズスのところにきて,「ラビ,私たちは,あなたこそ,天主からおいでになった先生だと知っています.天主がともにおいでにならないかぎり,あなたのなさっているような奇跡のできる人はないからです」といった.
イエズスが,「まことにまことに,私はいう.人は,上から(新たに)生まれないと,天主の国を見ることができない」とお答えになった.ニコデモは,「すでに年とっている人が,どうして生まれることができましょう.もう一度,母の胎内にはいって生まれることができるのですか?」といった.イエズスは,「まことにまことに,私はいう.水と霊とによって(=超自然の生活に生まれるために受ける必要がある「洗礼」を指す)生まれない人は,天の一国(=神の国)には,はいれない.肉から生まれた人は肉で,霊から生まれた人は霊である.上から生まれなければならないといってもおどろいてはいけない.*¹風は自分の思いのままに吹いているが,あなたはその声をきいても風がどこから来てどこへ行くかを知るまい.霊から生まれた人もそれと同じである」とおおせられた.そこでニコデモが,「どうしてそんなことができるのですか?」ときくと,イエズスはお答えになった.「あなたは,イスラエルの教師でありながら,そんなことを知らないのか.まことにまことに,私はいう.私たちは知っていることを話し,見たことを証明しているのに,あなたたちは私たちの証明をうけいれない.私が,地上のことを話してあなたたちが信じなかったのなら,天のことを話して信じるだろうか.
天から下った人(=天にまします人の子)のほか,天に昇ったものはない,それが人の子(=キリスト)である.*²モイゼが荒れ野で蛇を上げたように,人の子もあげられなければならない.それは,信じるすべての人が,かれによって永遠の命をえるためである.
天主はおん独子(キリスト)をお与えになるほど,この世を愛された.それは,かれを信じる人々がみな亡びることなく,永遠の命をうけるためである.天主がみ子を世におくられたのは,世をさばくためではなくて,それによって世を救うためである.み子を信じる人は裁かれないが,信じない人は,天主の*³おん独り子の名を信じなかったがために,すでに裁かれている.その審判というのは,次のようなことである.光(=天主なるキリスト)は世に来たが,人々は,その悪いおこないのために,光よりも闇を好んだ.悪をおこなう人は,光を憎み,そのおこないがあらわれることをおそれて光の方に来ないが,*⁴真理をおこなう人は,天主によってそのことがおこなわれていることをあらわすために,光のほうに来る」.』

(注釈)
*¹霊的な事柄は,風のように,人間の目で見ることのできないものである.しかし風が確かに存在していると同様に,天主の現される奥義も確かに存在する.

*²荒野の書21・4-9.ヘブライ人はモイゼがたてさせた青銅のへびを見て救われた〈上げられたへびを仰いだ者は死ななかった.〉同様に,十字架に上げられるイエズスによって,人に救いがもたらされた.

*³セム風の言い方で,「名」とはその人のことである.

*⁴光を捨てるのは,真理の要求を生活に生かそうとしないからである.真理を行う人は,恐れなく光に近寄る

* * *
(イエズス・キリストの福音によって証された神の正義と神の愛は,イエズスの弟子(使徒)たちによりまず当時のユダヤ・パレスチナ地方を支配していたローマ帝国から入って全西洋世界へと宣べ伝えられた.そこから東洋世界やアフリカ大陸等の諸国の民への宣教は,西洋人(白人)たちに委ねられた神授の使命であったはずである.)