エレイソン・コメンツ 第154回 (2010年6月26日)
先週の「エレイソン・コメンツ」で私は,教皇ヨハネ23世以後の教皇はみな全く教皇ではなかったと信じている「教皇空位主義者」に共感しているかのように思われる論評で始め,権威のない聖ピオ十世会を物笑いの種にしてからかったカスパー枢機卿に共感するかのような論評で終わりました.私は,その論評を読んで混乱した女性読者が少なくとも一人はいたと承知しています.おそらく混乱したのは彼女だけではなかったのではないでしょうか.だが,こうしたことはすべて,第二バチカン公会議いらいカトリック教の真理がカトリック教会権威から分離してしまっているという前提に立てば,誰にとってもつじつまの合う話なのです.
今日(こんにち),教会聖職者たちのカトリック教会権威は,私たちの主イエズス・キリストのカトリック真理と一つにまとまるべきです.なぜなら,人間の権威はひとえに神の真理を擁護しかつ指導するためにだけ存在しているからです.だが,あの忌むべき公会議(1962年-1965年)で,何世紀も続いたプロテスタント教の異端とリベラリズム(自由主義)による真理の崩壊が大半の公会議主義の神父たちの心にひっそりと入り込んでしまったため,彼らはカトリック教の真理の純正さを保つことを諦(あきら)めてしまい,この日にいたるまで,公会議の新しくかつ誤った人間の宗教をカトリック教徒たちに押し付けるためカトリック教会の全権威を利用し続けているのです.
その結果,カトリック信徒たちは必然的に,信徒同士のみならず自身の内面でもバラバラに引き裂かれてしまいました.それは,次の二つの場合を見れば明らかです.一部のカトリック信徒はカトリック教の真理に固執し,多かれ少なかれカトリック教会の権威を棄(す)てざるを得ませんでした.これが「教皇空位主義者」の見出(みいだ)した解決策です.カトリック教の真理に主眼を置けば,「教皇空位主義者」に十分共感できます.というのも,第二バチカン公会議が始まっていらい今日までの,最高位の聖職者たちによるカトリック教の真理に対する裏切り行為は,あまりにもひどいものだからです.
もう一方のカトリック信徒はカトリック教会の権威に固執し,多かれ少なかれカトリック教の真理を棄てるという選択をしました.こちらはカスパー枢機卿の解決策です.カトリック教会の権威に主眼を置くなら,同枢機卿が教皇ベネディクト16世に忠誠心を持つことに共感できます.同時に,枢機卿が,まったく権威のない,依然として事実上破門されたままの聖ピオ十世会からカトリック信徒でないと非難されて微笑みを浮かべたのも理解できるのです.
だが,ルフェーブル大司教(訳注・ “Archbishop Marcel Lefebvre” (1905-1991) フランス人.「聖ピオ十世会」の創立者.)は,カトリック教の真理と教会権威の両極の間で,第3の道を選んだのです.聖ピオ十世会は,その第3の道に従っているのですが,それは,カトリック教の真理に固執しながらも,同時にカトリック教会の権威を軽視することはせず,またその当局関係者たちの地位や立場を全体的として懐疑的に見ることもしない,という道です.それは,必ずしも常にたやすく保持できるバランスではありませんが,これまでに世界中でカトリック教の実を結んできており,公会議の砂漠(1970年-2010年)の中で今まで過ごしてきた40年もの間,真実かつ唯一のカトリック教義と真実なカトリック教の諸秘跡の上に立つカトリック信徒の忠実なカトリック信心の名残を維持してきました.
そして,私たちカトリックの羊たちは,ローマの牧者が打たれている間は,その公会議の砂漠に散り散りに置かれたままでいなければならないでしょう(旧約聖書・ザカリアの書:13章7節参照,ゲッセマニの園で私たちの主イエズス・キリストが引用された-新約聖書・マテオによる福音書26章31節参照.)(訳注・引用された聖書の箇所…後記参照).このカトリック教会のゲッセマニにおいて,私たちはともかく仲間の羊たちに深い哀れみをかけなければなりません.私が「教皇空位主義者」たちに,そしてある程度までリベラル派(自由主義者)にすら共感できるのはそのためです.しかし,このことは,決してルフェーブル大司教の第3の道が正道でなくなったことを意味するものではありません.たとえ第3の道が,しばらくのあいだ恐竜に飽きているように見えるとしてもです.たとえそうだとしても,私にはそのことさえも理解できるのです!
偉大なる神の御母がこの小さな修道会(聖ピオ十世会)をいつまでもお守りくださいますように!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第6パラグラフの聖書の引用箇所2か所)
1.- 旧約聖書・ザカリアの書:第13章7節 -
剣よ,立って,私の牧者と,私にくみしているものを攻めよ.
―― 万軍の主のお告げ ――
牧者を殺せ,そうすれば,羊は散る.
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.
(注釈)この「牧者」は,11章4-14節に出る「よい牧者」でもなく,11章15-16節に出る「悪い牧者」でもなく,一般に,主の代理者となっている「民のかしら」を指している.彼は,剣に打たれ,全人民は,試練を受けることとなる.羊は,牧者のない群れとなるのだから.このときになれば,民は,新しい契約のために,準備されるものとなる.マテオ福音(26章31節)は,「牧者を殺せ,そうすれば,羊は散る」の一句を,メシア(救世主イエズス・キリスト)にあてはめている.
(11章4-14,15-16節については,後日,別途に追加します.)
2.- 新約聖書・マテオによる福音書26章31節 -
(「最後の晩餐」にてイエズス・キリストは御聖体の秘跡を制定された後,弟子たちと讃美歌を歌ってからオリーブ山に出ていった)「…そのときイエズスは弟子たちに言われた,「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.〈私(=神)は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.…」
(注釈)「ザカリアの書13章7節」参照.弟子たちは,イエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.そのイエズスが,何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.
2010年6月29日火曜日
2010年6月28日月曜日
枢機卿が微笑む
エレイソン・コメンツ 第153回 (2010年6月19日)
最近のカスパー枢機卿の微笑(ほほえみ,びしょう)は,私の長年にわたる信念を裏付けるものです(訳注・カスパー枢機卿(すうききょう)…“Walter Kasper”(ヴァルター・カスパー),ドイツ人.現在「他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係」についてのバチカンの関連部門の長(=「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長).).その信念とはすなわち,教皇ヨハネ23世以来,今日までの歴代の公会議主義者の教皇たちが示してきた徹底的なリベラリズム(=自由主義)にもかかわらず,彼らが本当に教皇だったかどうか疑念を抱く必要はないということです.多くの真面目で信心深いカトリック信徒たちは,そのことについて疑問をもっています(解説後記).というのも彼ら信徒には,真のキリストの代理者(訳注・すなわち教皇を指す.)たちがどうして,これらの歴代の教皇たちがこれまでしてきたほどにカトリック信仰とキリストの教会(訳注・カトリック教会のこと.)から遠く逸脱(いつだつ)し得るのかが理解できないからです.実に測り知れないほど深刻で由々しき問題がそこにはあるのです.
こうした人たちは通常「教皇空位主義者」と呼ばれていますが,彼らは,誰でも異端者のように歩き,異端者のように話し,またアメリカ人が言うように,異端者のように騒々しくいんちきを宣伝すれば,それでその者は異端者であると論じます.しかし,異端者とは教会から自身を締め出す人のことです.故にこれら歴代の教皇はカトリック教会から自分たちを締め出してしまったのですから,とうてい教会の長として在位し得るはずがありません.どうして教会の非会員がその長たり得るでしょうか?(解説後記)
私の信念によれば,真実の答えは,唯一の救いの箱を反射的に見捨てるような異端とは極めて深刻なことであり,それを犯す者は,自分がしていることを十分に知り本気でそう行動しなければならない,ということです.その者は神ご自身の権威で神の教会によって定義されたカトリックの真理を否認しているということ,言い換えれば,神に逆らっているのだということを自覚していなければなりません.その自覚がない者は - カトリック教会では「頑固」と呼ばれますが - たとえ数々の神の真理を否認していても,まだ神に逆らっているとか,あるいは教会を見捨てたということにはなりません.
さて,「教皇空位主義者」は,深く教会教育の薫陶(くんとう)を受けた歴代教皇が,多大な影響を与えるような発言をするときに自分が何をしているか分かっていないなどという考え方を,馬鹿げていると一笑に付します.その類(たぐい)の発言の例を多数ある中から唯(ただ)一つ挙げるとすれば,例えば教皇ベネディクト16世が旧約(訳注・神とイスラエル人との間で交わされた旧(ふる)い契約のこと.モーゼの律法.)の正当性についてする発言です.教会が正気だった昔なら,異端者の行動を自覚させるには教皇の異端審問(訳注・原文“the Pope’s Inquisition (or Holy Office)”) に引っ張り出し,自分の犯した間違いに教皇の権威をもって真正面から直面させ,間違いをしないよう促(うなが)したことでしょう.もし,異端者がこれに従うのを拒めば,その時は,その頑固さがだれの目にも明明白白となるわけで,その狼(おおかみ)は羊舎(ようしゃ)から放り出されました.だが,そうした審問には異端者を召喚(しょうかん)することと,犯した間違いを断じることの両方を行える権威が必要です.然(しか)るに,第二バチカン公会議以来,カトリック教会の最高権威とされている同公会議がもはやカトリック教の真実の見極め(みきわめ)ができなくなっているとすれば,一体どうすればよいのでしょうか?(注釈後記)
カスパー枢機卿にご登場いただきましょう.パリで5月4日に行った記者会見で(すでに「エレイソン・コメンツ 第148号」で触れたとおり),彼は自分の担当するカトリック教会と他のキリスト教会との対話に聖ピオ十世会が頑な(かたくな)に反対していると述べたと伝えられます.枢機卿の発言内容は正確です.「彼ら(聖ピオ十世会)は私を異端者だと攻撃しています」と,枢機卿は微笑みながら述べました.
彼が微笑むのはもっともなことです.全キリスト教会間の対話とは,第二バチカン公会議以来の普遍教会(=カトリック教会.“Universal Church”. )の行動指針として実践されてきたことであり,教皇ベネディクト16世がいたるところでその重要性を説き,カスパー枢機卿が教皇の首席代理人を務めてきたわけですが,聖ピオ十世会がいかなる権威によってその対話に異を唱(とな)えているとお考えなのか,差支え(さしつかえ)なければお聞かせください.善良なカスパー枢機卿が記者会見で爆笑するのを慎んだのは,見当違いをしている「伝統主義者」たちへの単なる思いやりだったに違いありません.
人間的な言い方をすれば,教会はもう終焉(しゅうえん)しています.だが,神の見地から言えば,そのようなことはありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第1,2パラグラフの解説)
「教皇空位主義者」“Sedevacantist”
…“Sede-”=ローマ教皇座(The Holy See (La Santa Sede) = 聖座).“vacant”=空位の.
カトリック信徒を自称しているが,第二バチカン公会議以降のローマ教皇たちは正統な教皇と認めないと主張する人を指す.彼らによれば,現在のローマ教皇座は「空位」であるという結論になる.
教皇空位主義者は,教皇ヨハネ23世および教皇パウロ6世のもとで推し進められた第二バチカン公会議によるカトリック教会の改革を一切認めない立場に立つ.したがって彼らは,伝統的な典礼(ラテン語のみで執り行われる旧来のトリエント・ミサ典礼= “Tridentine Mass”,聖伝のミサ典礼.)のみを認め,第二バチカン公会議で定められた各国語で行う典礼(新しいミサ典礼=“Novus Ordo”)は認めない.
(第4パラグラフの注釈)
つまり,正当にはカトリック教会の最高権威はローマ教皇であるが,もしそのローマ教皇が異端者ということでもはや教会の長たり得ず,しかも現在教会の最高権威とされている第二バチカン公会議にカトリック教に則った真実の見極めをする能力がない場合,いったい誰がどういう権威で「異端者」を召喚しかつ断罪し得るのだろうか?ということ.)
最近のカスパー枢機卿の微笑(ほほえみ,びしょう)は,私の長年にわたる信念を裏付けるものです(訳注・カスパー枢機卿(すうききょう)…“Walter Kasper”(ヴァルター・カスパー),ドイツ人.現在「他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係」についてのバチカンの関連部門の長(=「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長).).その信念とはすなわち,教皇ヨハネ23世以来,今日までの歴代の公会議主義者の教皇たちが示してきた徹底的なリベラリズム(=自由主義)にもかかわらず,彼らが本当に教皇だったかどうか疑念を抱く必要はないということです.多くの真面目で信心深いカトリック信徒たちは,そのことについて疑問をもっています(解説後記).というのも彼ら信徒には,真のキリストの代理者(訳注・すなわち教皇を指す.)たちがどうして,これらの歴代の教皇たちがこれまでしてきたほどにカトリック信仰とキリストの教会(訳注・カトリック教会のこと.)から遠く逸脱(いつだつ)し得るのかが理解できないからです.実に測り知れないほど深刻で由々しき問題がそこにはあるのです.
こうした人たちは通常「教皇空位主義者」と呼ばれていますが,彼らは,誰でも異端者のように歩き,異端者のように話し,またアメリカ人が言うように,異端者のように騒々しくいんちきを宣伝すれば,それでその者は異端者であると論じます.しかし,異端者とは教会から自身を締め出す人のことです.故にこれら歴代の教皇はカトリック教会から自分たちを締め出してしまったのですから,とうてい教会の長として在位し得るはずがありません.どうして教会の非会員がその長たり得るでしょうか?(解説後記)
私の信念によれば,真実の答えは,唯一の救いの箱を反射的に見捨てるような異端とは極めて深刻なことであり,それを犯す者は,自分がしていることを十分に知り本気でそう行動しなければならない,ということです.その者は神ご自身の権威で神の教会によって定義されたカトリックの真理を否認しているということ,言い換えれば,神に逆らっているのだということを自覚していなければなりません.その自覚がない者は - カトリック教会では「頑固」と呼ばれますが - たとえ数々の神の真理を否認していても,まだ神に逆らっているとか,あるいは教会を見捨てたということにはなりません.
さて,「教皇空位主義者」は,深く教会教育の薫陶(くんとう)を受けた歴代教皇が,多大な影響を与えるような発言をするときに自分が何をしているか分かっていないなどという考え方を,馬鹿げていると一笑に付します.その類(たぐい)の発言の例を多数ある中から唯(ただ)一つ挙げるとすれば,例えば教皇ベネディクト16世が旧約(訳注・神とイスラエル人との間で交わされた旧(ふる)い契約のこと.モーゼの律法.)の正当性についてする発言です.教会が正気だった昔なら,異端者の行動を自覚させるには教皇の異端審問(訳注・原文“the Pope’s Inquisition (or Holy Office)”) に引っ張り出し,自分の犯した間違いに教皇の権威をもって真正面から直面させ,間違いをしないよう促(うなが)したことでしょう.もし,異端者がこれに従うのを拒めば,その時は,その頑固さがだれの目にも明明白白となるわけで,その狼(おおかみ)は羊舎(ようしゃ)から放り出されました.だが,そうした審問には異端者を召喚(しょうかん)することと,犯した間違いを断じることの両方を行える権威が必要です.然(しか)るに,第二バチカン公会議以来,カトリック教会の最高権威とされている同公会議がもはやカトリック教の真実の見極め(みきわめ)ができなくなっているとすれば,一体どうすればよいのでしょうか?(注釈後記)
カスパー枢機卿にご登場いただきましょう.パリで5月4日に行った記者会見で(すでに「エレイソン・コメンツ 第148号」で触れたとおり),彼は自分の担当するカトリック教会と他のキリスト教会との対話に聖ピオ十世会が頑な(かたくな)に反対していると述べたと伝えられます.枢機卿の発言内容は正確です.「彼ら(聖ピオ十世会)は私を異端者だと攻撃しています」と,枢機卿は微笑みながら述べました.
彼が微笑むのはもっともなことです.全キリスト教会間の対話とは,第二バチカン公会議以来の普遍教会(=カトリック教会.“Universal Church”. )の行動指針として実践されてきたことであり,教皇ベネディクト16世がいたるところでその重要性を説き,カスパー枢機卿が教皇の首席代理人を務めてきたわけですが,聖ピオ十世会がいかなる権威によってその対話に異を唱(とな)えているとお考えなのか,差支え(さしつかえ)なければお聞かせください.善良なカスパー枢機卿が記者会見で爆笑するのを慎んだのは,見当違いをしている「伝統主義者」たちへの単なる思いやりだったに違いありません.
人間的な言い方をすれば,教会はもう終焉(しゅうえん)しています.だが,神の見地から言えば,そのようなことはありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第1,2パラグラフの解説)
「教皇空位主義者」“Sedevacantist”
…“Sede-”=ローマ教皇座(The Holy See (La Santa Sede) = 聖座).“vacant”=空位の.
カトリック信徒を自称しているが,第二バチカン公会議以降のローマ教皇たちは正統な教皇と認めないと主張する人を指す.彼らによれば,現在のローマ教皇座は「空位」であるという結論になる.
教皇空位主義者は,教皇ヨハネ23世および教皇パウロ6世のもとで推し進められた第二バチカン公会議によるカトリック教会の改革を一切認めない立場に立つ.したがって彼らは,伝統的な典礼(ラテン語のみで執り行われる旧来のトリエント・ミサ典礼= “Tridentine Mass”,聖伝のミサ典礼.)のみを認め,第二バチカン公会議で定められた各国語で行う典礼(新しいミサ典礼=“Novus Ordo”)は認めない.
(第4パラグラフの注釈)
つまり,正当にはカトリック教会の最高権威はローマ教皇であるが,もしそのローマ教皇が異端者ということでもはや教会の長たり得ず,しかも現在教会の最高権威とされている第二バチカン公会議にカトリック教に則った真実の見極めをする能力がない場合,いったい誰がどういう権威で「異端者」を召喚しかつ断罪し得るのだろうか?ということ.)
2010年6月14日月曜日
公会議主義の「神学者」その2
エレイソン・コメンツ 第152回 (2010年6月12日)
先週の「エレイソン・コメンツ」で第二バチカン公会議の草分け的な神学者であるマリー=ドミニク・シュニュ神父のおかした6つの誤りを示した際,私は Si Si No No が挙げた6つの誤りの順番を変え,それに関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと示唆しました.そのお話とは,現代が人間の心を悲惨なまでに失墜させたことについてのものです.
Si Si No No は,6つの誤りのうち感傷主義を1位に挙げています.そのあとに主観主義,歴史的相対主義(=歴史主義),人間の方を向き人間に頼ること(訳注・=人間に救いを求める,人間を当てにする.)(人間中心主義),進化論そして背徳主義が続きます.感傷主義から始めるということは,今日わたしたちが見かける人間,言い換えれば,人間が様々な感情にどっぷり漬かって溺れている状態から始めるということです.その例は数百,数千ありますが,ここでは2つだけ挙げます:まず宗教について「神はきわめて寛容なので一人の人間の霊魂も地獄に送ることはない」という考え方です.また;政治では「誰が背後で9・11事件を仕組んだかを問うのは愛国的でない」という考えです.
「エレイソン・コメンツ」では,6つの誤りをそれぞれの即時性よりむしろ深さの順に並べる選択をしました.その結果,神に背を向けるという意味で人間中心主義を1番目に置きました.なぜなら,神を拒むことがあらゆる罪と過ちの根源だからです.次に来るのは人の心を襲う3つの誤り,すなわち主観主義,歴史的相対主義,そしてその帰結である進化論です.これら4つの誤りはいずれも感傷主義より前に来ます.なぜなら - ここが興味深い点ですが - 正当な王を失脚させ退位させないかぎり強奪者は王位を奪えないからです.同じように,心が無能力にされない限り感情が心に取って代わることはあり得ません.いずれの順位表でも最後に来るのは背徳主義すなわち善悪の否定です.なぜなら,霊魂と心のあらゆる無秩序が最終的には行動の無秩序に行き着くからです.
感情に対する心の自然な優位性 - この優位性は多くの現代人には顕著でありませんが - を理解するため,私たちは航海中の船と比較してみましょう.もし船長が故意に舵(かじ)から手を放し,船が風と波に流され難破するまで操縦を止めてしまったとしても,再び舵を取ることを選択すれば,彼に船の操縦を可能にし,風と波を上手(うま)く活用しながら港にたどり着かせるのは,舵の特質がなせることなのです.同様に,人間が故意に理性を捨て,心を感情や熱情にゆだね,永遠の地獄に向って漂流し続けることになったとしても,再び心を蘇らせる選択をすれば,初めのうちは熱情や感情を抑える理性が心許(こころもと)ないにしても,やがて天国に導かれるようになるのは心の特質によるものなのです.
では,人はどうやって自分の心を取り戻し,それを再び玉座に座らせることができるでしょうか?それは,神に立ち戻る(=神に立ち帰る)ことです.なぜなら,人が心を玉座から退位させてしまったのは,先ず(まず)はじめに神を拒(こば)んだからであり,いったん神を拒むと直(ただ)ちに理性を取り壊し始めなければならなくなったからです.それでは,人が最も容易に神に立ち戻る方法は何でしょうか?まず「アヴェマリア(めでたし,マリア)」(訳注・“Ave, Maria” 祈祷文「天使祝詞」の冒頭のところ)を1度だけ唱えることから始めてみましょう.少し進んで,その言葉をあと数回繰り返して唱えてみましょう.それからさらに進んでロザリオの祈りを1連(アヴェマリアを10回),最終的には毎日5連唱えてみましょう.こうすれば人は誰でも再び思考し始めるでしょう.
神の御母よ,私たちの心をお救いください.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
先週の「エレイソン・コメンツ」で第二バチカン公会議の草分け的な神学者であるマリー=ドミニク・シュニュ神父のおかした6つの誤りを示した際,私は Si Si No No が挙げた6つの誤りの順番を変え,それに関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと示唆しました.そのお話とは,現代が人間の心を悲惨なまでに失墜させたことについてのものです.
Si Si No No は,6つの誤りのうち感傷主義を1位に挙げています.そのあとに主観主義,歴史的相対主義(=歴史主義),人間の方を向き人間に頼ること(訳注・=人間に救いを求める,人間を当てにする.)(人間中心主義),進化論そして背徳主義が続きます.感傷主義から始めるということは,今日わたしたちが見かける人間,言い換えれば,人間が様々な感情にどっぷり漬かって溺れている状態から始めるということです.その例は数百,数千ありますが,ここでは2つだけ挙げます:まず宗教について「神はきわめて寛容なので一人の人間の霊魂も地獄に送ることはない」という考え方です.また;政治では「誰が背後で9・11事件を仕組んだかを問うのは愛国的でない」という考えです.
「エレイソン・コメンツ」では,6つの誤りをそれぞれの即時性よりむしろ深さの順に並べる選択をしました.その結果,神に背を向けるという意味で人間中心主義を1番目に置きました.なぜなら,神を拒むことがあらゆる罪と過ちの根源だからです.次に来るのは人の心を襲う3つの誤り,すなわち主観主義,歴史的相対主義,そしてその帰結である進化論です.これら4つの誤りはいずれも感傷主義より前に来ます.なぜなら - ここが興味深い点ですが - 正当な王を失脚させ退位させないかぎり強奪者は王位を奪えないからです.同じように,心が無能力にされない限り感情が心に取って代わることはあり得ません.いずれの順位表でも最後に来るのは背徳主義すなわち善悪の否定です.なぜなら,霊魂と心のあらゆる無秩序が最終的には行動の無秩序に行き着くからです.
感情に対する心の自然な優位性 - この優位性は多くの現代人には顕著でありませんが - を理解するため,私たちは航海中の船と比較してみましょう.もし船長が故意に舵(かじ)から手を放し,船が風と波に流され難破するまで操縦を止めてしまったとしても,再び舵を取ることを選択すれば,彼に船の操縦を可能にし,風と波を上手(うま)く活用しながら港にたどり着かせるのは,舵の特質がなせることなのです.同様に,人間が故意に理性を捨て,心を感情や熱情にゆだね,永遠の地獄に向って漂流し続けることになったとしても,再び心を蘇らせる選択をすれば,初めのうちは熱情や感情を抑える理性が心許(こころもと)ないにしても,やがて天国に導かれるようになるのは心の特質によるものなのです.
では,人はどうやって自分の心を取り戻し,それを再び玉座に座らせることができるでしょうか?それは,神に立ち戻る(=神に立ち帰る)ことです.なぜなら,人が心を玉座から退位させてしまったのは,先ず(まず)はじめに神を拒(こば)んだからであり,いったん神を拒むと直(ただ)ちに理性を取り壊し始めなければならなくなったからです.それでは,人が最も容易に神に立ち戻る方法は何でしょうか?まず「アヴェマリア(めでたし,マリア)」(訳注・“Ave, Maria” 祈祷文「天使祝詞」の冒頭のところ)を1度だけ唱えることから始めてみましょう.少し進んで,その言葉をあと数回繰り返して唱えてみましょう.それからさらに進んでロザリオの祈りを1連(アヴェマリアを10回),最終的には毎日5連唱えてみましょう.こうすれば人は誰でも再び思考し始めるでしょう.
神の御母よ,私たちの心をお救いください.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2010年6月9日水曜日
公会議主義の「神学者」その1
エレイソン・コメンツ 第151回 (2010年6月5日)
第二バチカン公会議は1960年代に多くのカトリック司教たちを崩壊させるという大混乱を起こしましたが,それが世界中の霊魂に及ぼした影響は計り知れません.従って,わたしたちはその本質的な問題についていくら考えても考え過ぎということはありません.なぜなら,問題は依然として,かなりの度合いでまだ私たちの身の回りに存在しており,それによる被害の度合いは過去にもましてますます強まってきているからです.第二バチカン公会議の行ったことは私たちすべての霊魂を地獄へ落とそうとしています.去年,イタリアの隔週刊行誌「シ・シ・ノ・ノ」 “Si Si No No” (訳注:「然り・然り・ 否・否」の意味.→新約聖書・マテオによる福音書第5章37節参照.…「〈はい〉なら〈はい〉,〈いいえ〉なら〈いいえ〉とだけ言え.それ以上のことは悪魔から出る.」…イエズス・キリストの御言葉.)が、第二バチカン公会議の草分け的「神学者」であるドミニコ会(訳注・1215年,聖ドミニコによって設立されたローマ・カトリックの修道会)所属のフランス人神父,マリ-=ドミニク・シュニュ神父 (Fr. Marie-Dominique Chenu ) のおかした主要な誤(あやま)りをまとめた記事を発表しました.以下はそれをさらに簡潔に要約したものです.ここで指摘された同神父の6つの誤りとは,神の場に人間を置くという問題の核心に触れるものです.(私は6つの誤りについて記述の順番を変えました.関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと考えたからです.)
1.人間に目を向けること.すなわち,あたかも神が現代人に適合すべきで,現代人が神に適合するのではないというふうに人間に目を向けることです.しかし,カトリック信仰とは常に人間を神に合わせようと努めるものであり,その逆ではありません.
2.神の啓示を現代的な考え方の下に置くこと.現代的な考え方とは,例えば,デカルト,カント,ヘーゲルの考え方です.そこにはもはや絶対的かつ客観的な真理は全く存在しません.あらゆる宗教上の見解は単なる相対的かつ主観的なものにすぎなくなります.
3.神の啓示を歴史的手法の下に置くこと.これは,真理はすべて,単に歴史的な背景から生じたものであり,歴史的な状況はいずれも変化してきたか現在も変化しているのだから,不変の,あるいは変え得ない(=変更不能な)真理など存在しない(訳注・原文 “so no truth is unchanging or unchangeable”. )という意味です.
4.汎神論的な進化を信じること.これが意味するところは,神はもはや地上の生物とは本質的に異なる創造主ではないということです.神は地上の生き物,すなわち動植物や人間となんら異なるものではなく,彼らと同じように進化によって生まれ,進化によって絶えず変化している,という考え方です.
5.宗教のことでは感情を最優先させること.たとえば,心における超自然的なカトリック信仰または意志における超自然的な神の慈愛のいずれよりも,宗教的な感傷体験を上位に置いて重視するということです.
6.善悪の相違を否定すること.すなわち,単なる人の行為の存在だけが世の中を良くすると主張することによって善悪の相違を否定します.今では,実際に行われるあらゆる人間の行為につき,その存在自体は善であるとし,それぞれの行為についてはその最終目的,すなわち究極的には神の御意思にそぐう(=合う)場合だけに限り道徳的な善となり得るにすぎず,神の御意思にそぐわない人間の行為のみが道徳的な悪となるにすぎないとする,とするのが事実です.
この6つの誤りは明らかに相互に関連しています.もし(1)宗教が私中心だとするなら,そのときは(2 と 3),私は神中心の宗教という現実から自分の心を隔てなければなりません.そして心が機能しなくなると,今度は(4)「どうしたってなにもないのだから」ということになり (訳注後記),その結果,すべてのものは進化すると考えるようになり,かくして(5)感情が支配することになります.(すると,宗教は人々が女性化されるという過(あやま)ちによって支配されることになります.なぜなら感情は女性の特権だからです.)こうして最終的には,感情が真理に取って代わり(6)道徳が崩壊するのです.
第二バチカン公会議の文書自体は,こうした誤りを明白に示しておらず,むしろ間接的に曖昧に(あいまいに)ぼかして表現しています.その理由は,同公会議に出席してはいたものの実情を十分に知らされていなかった多くのカトリック司教たちの支持票を得るために彼らの目を誤魔化(ごまか)す必要があったからです.だが,ここに挙(あ)げた誤りは,公会議が目指している最新の「第二バチカン公会議精神」そのものです.そしてそれが理由で過去45年間にもわたり,すなわち1965年から2010年まで,公的なカトリック教会が自壊の道をたどり続けているのです.この状態は今後あと何年続くのでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(下から2番目のパラグラフの(4)の訳注と解説)
(4)… 原文 “nothing is but what is not”. シェイクスピア作悲劇「マクベス」第1幕第3場におけるマクベスの傍白(ぼうはく・観客に向かってしゃべる内心のつぶやきを表すセリフ)より引用されている.
自分の心に抱く欲望を恐ろしいものだと認識しながらも,その感情に支配されてしまい,神からの良心の声は全く封殺され,心はその欲望で一杯に支配されてしまう.
つまり,人間がその心に「神」ではなく「私」を中心に置いて生きるなら,たとえば反道徳的な欲望という感情(激情)にかられたとき,その欲望を抑制する客観的基準(つまり神による勧善懲悪の基準)を自分の中心に行動の判断基準として持たないため,激情に理性や良心が簡単に屈服してしまい,感情の赴(おもむ)くままにその欲望を実行に移そうとし,その際に神という客観的基準を全面否定しようとすることになる.しかし,良心に反して反道徳的な欲望を実行に移すならば,結局は自分自身で欲望に取りつかれ発狂するなどして精神に異常をきたし,社会的にも身の破滅を招き,心身ともにわが身を滅ぼすことになる,ということ.
* * *
(以下は,新訳『マクベス』 シェイクスピア・原作/河合祥一郎・訳 (角川文庫)15-21頁を参照.)
(前提のあらすじ)
(スコットランド国王ダンカンに仕える将軍マクベスに対する3人の魔女の3つの挨拶(①「万歳,マクベス,グラームズの領主!」(マクベスの)現在の名誉に挨拶. ②「…コーダーの領主!」(マクベスの)未来の出世を予言. ③「…やがて王となるお方!」(マクベスの)王になる望みを予言.)の②が実現した時,③の「王となる」という予言に対する野望がマクベスの心に芽生えてしまった.)
…
(マクベス)
〔傍白〕グラームズ,そしてコーダーの領主.
最大のものがそのあとに控えている.〔ロスらに〕ご苦労であった.
〔バンクォー(スコットランドの将軍)に〕君の子供も王になるかも知れぬな,
俺をコーダーの領主にしてくれた連中(3人の魔女)は,
君にそう約束したのだから.
(バンクォー)
あまり信じすぎると,
コーダーの領主のみならず,王冠にまで
手を伸ばしたくなるぞ.〔傍白〕だが,不思議だ.
暗闇の使い手は人を破滅させるために,
しばしば真実を告げ,
つまらぬご利益で信頼させ,土壇場で裏切るという.
〔ロスらに〕お二人に話がある.
(マクベス)
〔傍白〕二つの真実が語られた.
壮大な芝居にはうってつけの幕開けだ.
主題は王になること.〔ロスらに〕――ありがとう,君たち,――
〔傍白〕この自然ならざる誘い(いざない)は,
悪いはずはない.よいはずもない.
悪いなら,なぜ,まず真実を語り,
成功の手付けをくれるのだ? 俺はコーダーの領主となった.
よいなら,なぜ,俺は王殺しの誘惑に屈しようとする?
その恐ろしい光景を思い描くだけで総毛立ち,
いつもの自分に似合わず,心臓が激しく鼓動し,
肋骨にぶつかるようだ.目の前にある恐怖など,
恐ろしい想像と比べたら大したことはない.
まだ殺人を想像しただけなのに,その思いは
この体をがたつかせる.思っただけで
五感の働きがとまってしまう.あると思えるものは,
実際にはありもしないものだけだ(注).
(バンクォー)
わが友はすっかり上の空だな.
(マクベス)
〔傍白〕運が俺を王にするなら,運が王冠をくれよう,
自分で動かずとも.
(バンクォー)
新たな名誉を賜ったが,
着慣れぬ服同様,なじまぬうちは,
しっくりこぬ,か.
(マクベス)
〔傍白〕どうなろうとも,
時は過ぎる,どんなひどい日でも.
…
(注)訳者(河合祥一郎教授)による注釈:
Nothing is, but what is not. 原意は「何も存在しない,ないもの以外は」=「存在するのは実在しないものだけだ」.存在=非存在.
『ジュリアス・シーザー』第二幕第一場で「恐ろしいことを行うことと,それを最初に思いつくことのあいだは,まるで幻か悪夢だ….そのとき人間という小さな国は,小王国のように,叛乱に遭う」というブルータスの台詞で示された想像世界の脅威というテーマが,『ハムレット』を経て『マクベス』に至る.人間の世界は人間の頭から生まれるというシェイクスピアの発想に基づいている.
* * *
(悲劇マクベス・英原文)
MACBETH.
[Aside.] Glamis, and Thane of Cawdor:
The greatest is behind.----Thanks
for your pains.----
Do you not hope your children
shall be kings,
When those that gave the
Thane of Cawdor to me
Promis’d no less to them?
BANQUO.
That, trusted home,
Might yet enkindle you unto
the crown,
Besides the Thane of Cawdor.
But ‘tis strange:
And oftentimes to win us to
our harm,
The instruments of darkness tell
us truths;
Win us with honest trifles, to
betray’s
In deepest consequence.----
Cousins, a word, I pray you.
MACBETH
[Aside.] Two truths are told,
As happy prologues to the swelling act
Of the imperial theme.----I thank you,
gentlemen.----
[Aside.] This supernatural soliciting
Cannot be ill; cannot be good:
----if ill,
Why hath it given me earnest of success,
Commencing in a truth? I am Thane of Cawdor:
If good, why do I yield to that suggestion
Whose horrid image doth unfix my hair,
And make my seated heart knock at my ribs,
Against the use of nature? Present fears
Are less than horrible imaginings:
My thought, whose murder yet is but fantastical,
Shakes so my single state of man, that function
Is smother’d in surmise; and
nothing is
But what is not.
BANQUO.
Look, how our partner’s rapt.
MACBETH.
[Aside.] if chance will have me
king, why, chance may crown me
Without my stir.
BANQUO.
New honors come upon him,
Like our strange garments,
cleave not to their mould
But with the aid of use.
MACBETH.
[Aside.] Come what come may,
Time and the hour runs
through the roughest day.
* * *
(この後,マクベスはダンカン王を殺して王位についたが,王位を失うことを恐れるあまり狂気に陥り次々と殺戮を重ね続け,遂にスコットランドの貴族マクダフ(イングランドに逃亡していたダンカン王の長男である王子マルカムの軍に加わった)に殺され,マルカムが正当に王位についた.)
第二バチカン公会議は1960年代に多くのカトリック司教たちを崩壊させるという大混乱を起こしましたが,それが世界中の霊魂に及ぼした影響は計り知れません.従って,わたしたちはその本質的な問題についていくら考えても考え過ぎということはありません.なぜなら,問題は依然として,かなりの度合いでまだ私たちの身の回りに存在しており,それによる被害の度合いは過去にもましてますます強まってきているからです.第二バチカン公会議の行ったことは私たちすべての霊魂を地獄へ落とそうとしています.去年,イタリアの隔週刊行誌「シ・シ・ノ・ノ」 “Si Si No No” (訳注:「然り・然り・ 否・否」の意味.→新約聖書・マテオによる福音書第5章37節参照.…「〈はい〉なら〈はい〉,〈いいえ〉なら〈いいえ〉とだけ言え.それ以上のことは悪魔から出る.」…イエズス・キリストの御言葉.)が、第二バチカン公会議の草分け的「神学者」であるドミニコ会(訳注・1215年,聖ドミニコによって設立されたローマ・カトリックの修道会)所属のフランス人神父,マリ-=ドミニク・シュニュ神父 (Fr. Marie-Dominique Chenu ) のおかした主要な誤(あやま)りをまとめた記事を発表しました.以下はそれをさらに簡潔に要約したものです.ここで指摘された同神父の6つの誤りとは,神の場に人間を置くという問題の核心に触れるものです.(私は6つの誤りについて記述の順番を変えました.関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと考えたからです.)
1.人間に目を向けること.すなわち,あたかも神が現代人に適合すべきで,現代人が神に適合するのではないというふうに人間に目を向けることです.しかし,カトリック信仰とは常に人間を神に合わせようと努めるものであり,その逆ではありません.
2.神の啓示を現代的な考え方の下に置くこと.現代的な考え方とは,例えば,デカルト,カント,ヘーゲルの考え方です.そこにはもはや絶対的かつ客観的な真理は全く存在しません.あらゆる宗教上の見解は単なる相対的かつ主観的なものにすぎなくなります.
3.神の啓示を歴史的手法の下に置くこと.これは,真理はすべて,単に歴史的な背景から生じたものであり,歴史的な状況はいずれも変化してきたか現在も変化しているのだから,不変の,あるいは変え得ない(=変更不能な)真理など存在しない(訳注・原文 “so no truth is unchanging or unchangeable”. )という意味です.
4.汎神論的な進化を信じること.これが意味するところは,神はもはや地上の生物とは本質的に異なる創造主ではないということです.神は地上の生き物,すなわち動植物や人間となんら異なるものではなく,彼らと同じように進化によって生まれ,進化によって絶えず変化している,という考え方です.
5.宗教のことでは感情を最優先させること.たとえば,心における超自然的なカトリック信仰または意志における超自然的な神の慈愛のいずれよりも,宗教的な感傷体験を上位に置いて重視するということです.
6.善悪の相違を否定すること.すなわち,単なる人の行為の存在だけが世の中を良くすると主張することによって善悪の相違を否定します.今では,実際に行われるあらゆる人間の行為につき,その存在自体は善であるとし,それぞれの行為についてはその最終目的,すなわち究極的には神の御意思にそぐう(=合う)場合だけに限り道徳的な善となり得るにすぎず,神の御意思にそぐわない人間の行為のみが道徳的な悪となるにすぎないとする,とするのが事実です.
この6つの誤りは明らかに相互に関連しています.もし(1)宗教が私中心だとするなら,そのときは(2 と 3),私は神中心の宗教という現実から自分の心を隔てなければなりません.そして心が機能しなくなると,今度は(4)「どうしたってなにもないのだから」ということになり (訳注後記),その結果,すべてのものは進化すると考えるようになり,かくして(5)感情が支配することになります.(すると,宗教は人々が女性化されるという過(あやま)ちによって支配されることになります.なぜなら感情は女性の特権だからです.)こうして最終的には,感情が真理に取って代わり(6)道徳が崩壊するのです.
第二バチカン公会議の文書自体は,こうした誤りを明白に示しておらず,むしろ間接的に曖昧に(あいまいに)ぼかして表現しています.その理由は,同公会議に出席してはいたものの実情を十分に知らされていなかった多くのカトリック司教たちの支持票を得るために彼らの目を誤魔化(ごまか)す必要があったからです.だが,ここに挙(あ)げた誤りは,公会議が目指している最新の「第二バチカン公会議精神」そのものです.そしてそれが理由で過去45年間にもわたり,すなわち1965年から2010年まで,公的なカトリック教会が自壊の道をたどり続けているのです.この状態は今後あと何年続くのでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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(下から2番目のパラグラフの(4)の訳注と解説)
(4)… 原文 “nothing is but what is not”. シェイクスピア作悲劇「マクベス」第1幕第3場におけるマクベスの傍白(ぼうはく・観客に向かってしゃべる内心のつぶやきを表すセリフ)より引用されている.
自分の心に抱く欲望を恐ろしいものだと認識しながらも,その感情に支配されてしまい,神からの良心の声は全く封殺され,心はその欲望で一杯に支配されてしまう.
つまり,人間がその心に「神」ではなく「私」を中心に置いて生きるなら,たとえば反道徳的な欲望という感情(激情)にかられたとき,その欲望を抑制する客観的基準(つまり神による勧善懲悪の基準)を自分の中心に行動の判断基準として持たないため,激情に理性や良心が簡単に屈服してしまい,感情の赴(おもむ)くままにその欲望を実行に移そうとし,その際に神という客観的基準を全面否定しようとすることになる.しかし,良心に反して反道徳的な欲望を実行に移すならば,結局は自分自身で欲望に取りつかれ発狂するなどして精神に異常をきたし,社会的にも身の破滅を招き,心身ともにわが身を滅ぼすことになる,ということ.
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(以下は,新訳『マクベス』 シェイクスピア・原作/河合祥一郎・訳 (角川文庫)15-21頁を参照.)
(前提のあらすじ)
(スコットランド国王ダンカンに仕える将軍マクベスに対する3人の魔女の3つの挨拶(①「万歳,マクベス,グラームズの領主!」(マクベスの)現在の名誉に挨拶. ②「…コーダーの領主!」(マクベスの)未来の出世を予言. ③「…やがて王となるお方!」(マクベスの)王になる望みを予言.)の②が実現した時,③の「王となる」という予言に対する野望がマクベスの心に芽生えてしまった.)
…
(マクベス)
〔傍白〕グラームズ,そしてコーダーの領主.
最大のものがそのあとに控えている.〔ロスらに〕ご苦労であった.
〔バンクォー(スコットランドの将軍)に〕君の子供も王になるかも知れぬな,
俺をコーダーの領主にしてくれた連中(3人の魔女)は,
君にそう約束したのだから.
(バンクォー)
あまり信じすぎると,
コーダーの領主のみならず,王冠にまで
手を伸ばしたくなるぞ.〔傍白〕だが,不思議だ.
暗闇の使い手は人を破滅させるために,
しばしば真実を告げ,
つまらぬご利益で信頼させ,土壇場で裏切るという.
〔ロスらに〕お二人に話がある.
(マクベス)
〔傍白〕二つの真実が語られた.
壮大な芝居にはうってつけの幕開けだ.
主題は王になること.〔ロスらに〕――ありがとう,君たち,――
〔傍白〕この自然ならざる誘い(いざない)は,
悪いはずはない.よいはずもない.
悪いなら,なぜ,まず真実を語り,
成功の手付けをくれるのだ? 俺はコーダーの領主となった.
よいなら,なぜ,俺は王殺しの誘惑に屈しようとする?
その恐ろしい光景を思い描くだけで総毛立ち,
いつもの自分に似合わず,心臓が激しく鼓動し,
肋骨にぶつかるようだ.目の前にある恐怖など,
恐ろしい想像と比べたら大したことはない.
まだ殺人を想像しただけなのに,その思いは
この体をがたつかせる.思っただけで
五感の働きがとまってしまう.あると思えるものは,
実際にはありもしないものだけだ(注).
(バンクォー)
わが友はすっかり上の空だな.
(マクベス)
〔傍白〕運が俺を王にするなら,運が王冠をくれよう,
自分で動かずとも.
(バンクォー)
新たな名誉を賜ったが,
着慣れぬ服同様,なじまぬうちは,
しっくりこぬ,か.
(マクベス)
〔傍白〕どうなろうとも,
時は過ぎる,どんなひどい日でも.
…
(注)訳者(河合祥一郎教授)による注釈:
Nothing is, but what is not. 原意は「何も存在しない,ないもの以外は」=「存在するのは実在しないものだけだ」.存在=非存在.
『ジュリアス・シーザー』第二幕第一場で「恐ろしいことを行うことと,それを最初に思いつくことのあいだは,まるで幻か悪夢だ….そのとき人間という小さな国は,小王国のように,叛乱に遭う」というブルータスの台詞で示された想像世界の脅威というテーマが,『ハムレット』を経て『マクベス』に至る.人間の世界は人間の頭から生まれるというシェイクスピアの発想に基づいている.
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(悲劇マクベス・英原文)
MACBETH.
[Aside.] Glamis, and Thane of Cawdor:
The greatest is behind.----Thanks
for your pains.----
Do you not hope your children
shall be kings,
When those that gave the
Thane of Cawdor to me
Promis’d no less to them?
BANQUO.
That, trusted home,
Might yet enkindle you unto
the crown,
Besides the Thane of Cawdor.
But ‘tis strange:
And oftentimes to win us to
our harm,
The instruments of darkness tell
us truths;
Win us with honest trifles, to
betray’s
In deepest consequence.----
Cousins, a word, I pray you.
MACBETH
[Aside.] Two truths are told,
As happy prologues to the swelling act
Of the imperial theme.----I thank you,
gentlemen.----
[Aside.] This supernatural soliciting
Cannot be ill; cannot be good:
----if ill,
Why hath it given me earnest of success,
Commencing in a truth? I am Thane of Cawdor:
If good, why do I yield to that suggestion
Whose horrid image doth unfix my hair,
And make my seated heart knock at my ribs,
Against the use of nature? Present fears
Are less than horrible imaginings:
My thought, whose murder yet is but fantastical,
Shakes so my single state of man, that function
Is smother’d in surmise; and
nothing is
But what is not.
BANQUO.
Look, how our partner’s rapt.
MACBETH.
[Aside.] if chance will have me
king, why, chance may crown me
Without my stir.
BANQUO.
New honors come upon him,
Like our strange garments,
cleave not to their mould
But with the aid of use.
MACBETH.
[Aside.] Come what come may,
Time and the hour runs
through the roughest day.
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(この後,マクベスはダンカン王を殺して王位についたが,王位を失うことを恐れるあまり狂気に陥り次々と殺戮を重ね続け,遂にスコットランドの貴族マクダフ(イングランドに逃亡していたダンカン王の長男である王子マルカムの軍に加わった)に殺され,マルカムが正当に王位についた.)
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