エレイソン・コメンツ 第361回 (2014年6月14日)
あなた方(がた)の多く(おおく)がご存知(ごぞんじ)のとおり,フェルナンド・アルタミラ神父(ふぇるなんど・あるたみら しんぷ)( "Fr Fernando Altamira" )は南米コロンビアの首都ボゴタ "Bogotá" (なんべい ころんびあの しゅと ぼごた)で働く(はたらく)聖ピオ十世会(せいぴお じゅっせいかい) "SSPX" の若いアルゼンチン人司祭(わかい あるぜんちんじん しさい)です( "As a number of you will know, Fr Fernando Altamira is a young Argentinian priest of the Society of St Pius X, working in Bogotá, the capital city of Columbia in South America, …" ).数か月前(すうかげつまえ),彼(かれ)はスイス・メンツィンゲン(すいす・めんつぃんげん)( "Menzingen, Switzerland" )にいるフェレー司教(ふぇれー しきょう)( "Bishop Fellay" )とその部下たちによる信仰(ぶか たち による しんこう)とルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の SSPX に対(たい)する裏切り行為に対する抗議の姿勢(うらぎり こういに たいする こうぎの しせい)を明確かつ公然と示し(めいかくに こうぜんと しめし)ました( "… who several months ago took a clear and public stand against the betrayal of the Faith and of Archbishop Lefebvre’s Society by Bishop Fellay and his team in Menzingen, Switzerland." ).彼は SSPX の修道院を去り(しゅうどういんを さり),近くに代わりの教区を設け(ちかくに かわりの きょうくを もうけ)ましたが,前(まえ)の教区から大部分の信徒(だいぶぶんの しんと)たちが彼の後を追い(かれの あとを おい)ました( "Walking out of the Society’s Priory to found an alternative parish nearby, Fr Altamira was followed by the large part of his previous parishioners." ).彼は聡明で勤勉(仕事熱心)(かれは そうめいで きんべん〈しごとねっしん〉)で,住民に人気のある司祭〈じゅうみんに にんきの ある しさい〉です.私は4月中旬,その様子(ようす)を直(じか)に目(め)にしました( "As I was able to observe in mid-April, he is a pious, intelligent and hard-working priest, popular with the people." ).これまで骨折ったかいもなく,彼はSSPXから「排除」( "excluded" )されようとしています( "For his pains he is being “excluded” from the SSPX." ).
アルタミラ神父はフェレー司教に書簡を送り(しょかんを おくり),自分の「排除」は無効(じぶんの はいじょは むこう)であると抗議(こうぎ)しました( "He wrote to Bishop Fellay, protesting that his “exclusion” is invalid." ).彼は論点を明確(ろんてんを めいかく)にした抗議書のコピー(こうぎしょの こぴー)を SSPX のあるベテラン司祭(べてらんしさい)に送(おく)りました( "He sent a copy of his well-argued protest to a veteran priest of the SSPX …" ).この司祭は現代世界の仕組み(げんだい せかいの しくみ)についてフェレー司教がいかに巧(たく)みに騙(だま)しているかを知り尽く(しりつく)しているジャン・ミシェル・フォール神父(じゃん・みしぇる・ふぉーる)( "Fr Jean-Michel Faure" )です( "… who understands too well how the modern world operates to be fooled by Bishop Fellay." ).抗議書(こうぎしょ)についてのフォール神父の賢明なコメント(けんめいなこめんと)を以下にご紹介(いかに ごしょうかい)します( "Here are Fr Jean-Michel Faure's wise comments:-- " ).
「SSPX 内部に問題(ないぶに もんだい)があるのは明(あき)らかです( " “It is obvious that there is a problem in the Society of St Pius X." ).リベラル派の人(りべらるはの ひと)たちが実権を握り(じっけんを にぎり)( "Liberals took control, …" ),彼らは近代主義ローマ(きんだい しゅぎ ろーま)(教皇庁〈きょうこう ちょう〉)の機構の中(きこうの なか)に組み込まれたい(くみこまれたい)と望(のぞ)んでいます( "… and they want to be integrated into the structure of modernist Rome." ).そして,フリューガー神父(ふりゅーがー しんぷ)( "Fr Pfluger" )がかつて述(の)べたように( "And, as Fr Pfluger has said, …" ),彼らは自分たちの自殺作戦(じぶんたちの じさつ さくせん)( "Operation Suicide" )に反対(はんたい)する反(はん)リベラル派をすべて追放(ついほう)したいと望んでいます( "… they want to expel all anti-liberals opposed to their Operation Suicide. " ).ラニョー神父の鎮魂ミサ聖祭(ちんこん みさ せいさい)( "Requiem Mass of Fr Lagneau" ),マルジアック神父(まるじあっく しんぷ)の周年ミサ聖祭( "Jubilee Mass of Fr Marziac" ),諸々の場でのルルドのバシリカ(=大聖堂)(るるどの ばじりか〈=だいせいどう〉)( "on various occasions the Basilica of Lourdes" ),コルシカ(こるしか)での度々の堅振式(たびたびの けんしんしき)( "Confirmations in Corsica" ),等々(とうとう)のために,フランス(ふらんす)の一部司教(いちぶ しきょう)たちがフェレー司教に各地の教会を提供(かくちの きょうかいを ていきょう)していることが,進行中(しんこうちゅう)のローマによる SSPX 承認(しょうにん)を示(しめ)すもう一つの証拠(しょうこ)です.」( "One more proof of the on-going Recognition of the SSPX by Rome is the churches that certain bishops of France offer to Bishop Fellay, for the Requiem Mass of Fr Lagneau, for the Jubilee Mass of Fr Marziac, on various occasions the Basilica of Lourdes, the Confirmations in Corsica, and so on." )
「秘密主義(ひみつしゅぎ)はリベラル派政治家(せいじか)が当選のための公約(とうせんの ための こうやく)とまったく正反対(せいはんたい)の目的(もくてき)に有権者(ゆうけんしゃ)を導(みちび)きたいと願う時(ねがう とき)に用(もち)いる作戦モード(さくせん もーど)です( " “Secrecy is the mode of operating worthy of a liberal politician who wants to bring his electors around to a goal directly opposed to what he had promised in order to get elected." ).そういう政治家は,そこへ少(すこ)しずつ進(すす)むよう巧(たむ)みに作(つく)られた一連(いちれん)の曖昧な発言(あいまいな はつげん)を用(もち)いながら,支持者の大多数(しじしゃの だいたすう)を彼らが最初に信じた(さいしょに しんじた)こととは正反対の結論(せいはんたいの けつろん)を受け入れるよう誘導(うけいれるよう ゆうどう)します( "By a series of ambiguous statements skilfully graded to advance little by little, the politician brings the great majority of his followers to accept the opposite conclusion to what they were convinced of to begin with." ).これはまさしくマキャベリズム的(まきゃべりずむ てき)な純粋かつ単純(じゅんすい かつ たんじゅん)な欺瞞(ぎまん),虚偽(きょぎ),偽善(ぎぜん)です( "It is Macchiavellian deceit, lying and hypocrisy, pure and simple." ). SSPX 総長(そうちょう)にとって目的(もくてき)は手段(しゅだん)を正当化(せいとうか)するわけで,目的達成(たっせい)のためなら彼はルフェーブル大司教が繰り返し非難した立場(くりかえし ひなんした たちば)を躊躇(ちゅうちょ)なしに選(えら)びます( "For this Superior General the end justifies the means, and to attain that end he does not hesitate to take positions repeatedly condemned by Archbishop Lefebvre." ).大司教(だいしきょう)が生(い)きておられたら総長(そうちょう)と彼の二人の補佐官(ふたりの ほさかん)について何と言う(なんと いう)でしょうか?( "What would the Archbishop say of him and his two Assistants ? " ) 彼らは間抜け(まぬけ)で子供(こども)じみており,考えが甘く反抗的(かんがえが あまく はんこうてき)だと言うでしょう( "That they are idiots, childish, naive and disobedient, …" ).彼らは SSPX を自殺に追いやり( "… that they are making the Society commit suicide and …" ),信仰のための戦いを裏切っていると言うでしょう( "… that they are betraying the fight for the Faith." ).そして,彼らは忠実な信徒(ちゅうじつな しんと)たちがもたらした多大な寛容や犠牲(ただいな かんようや ぎせい)による果実(かじつ)をローマのモダニスト(ろーまの もだにすと)たちに引き渡そう(ひきわたそう)としていると言うでしょう.( "And they are going to hand over to the modernists in Rome the fruits of so much generosity and so many sacrifices made by the faithful. " )」
「ローマのモダニストたちは,私たちが第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)と新しいミサ聖祭(あたらしい みさ せいさい)( "the New Mass" )の正当性(せいとうせい)を受け入れる(うけいれる)べきだという要求(ようきゅう)をいささかも撤回(てっかい)していません( " “The modernists in Rome have never backed down on their demands that we accept the Second Vatican Council and the legitimacy of the New Mass." ).1975年,エコンㇴ( " Écône " )の神学校長(しんがっこう ちょう)と(指導)教官(教授)(しどう きょうかん〈きょうじゅ〉)たち( "professors" )はルフェーブル大司教にミサ聖祭を救(すく)うため第二バチカン公会議を容認(ようにん)してはどうかと進言(しんげん)しました( "In 1975 the Rector and professors of Écône advised the Archbishop to accept the Council in order to save the Mass, …" ).だが彼らは結局(けっきょく)1977年8月(せん きゅうひゃく ななじゅう ななねん はちがつ),神学校に反抗(はんこう)して身を引き(みを ひき)ました( "… and they ended up rebelling and quitting the Seminary in August of 1977." ).今日(こんにち),(はかいこうい)(しゅぼうしゃ さんにんぐみ)はルター(ルーテル)派ミサ聖祭(るたー〈るーてる〉は みさ せいさい)( "Lutheran Mass" )の正当性(せいとうせい)まで受け入れるとの立場を取って(たちばを とって)います( "Today the three ringleaders in Menzingen go so far as to accept the legitimacy of the Lutheran Mass." ).3人が述(の)べているように, SSPX が要求受け入れ(ようきゅう うけいれ)を渋(しぶ)っていることは私たちの「ローマの新しい友人(あたらしいゆうじん)たち」にとってじれったいことです( "As the three of them say, the Society’s reluctance to go along makes us very annoying to our “new friends in Rome”, …" ).かといってローマが改宗(かいしゅう)するのを待(ま)つのは3人が見る限り非現実(さんにんが みる かぎり ひげんじつてき)です( "… while to wait for the conversion of Rome is unrealistic, as far as they are concerned." ).確(たし)かなことは,聖ピオ5世(せい ぴお ごせい)が教会を改革(きょうかいを かいかく)した当時(とうじ)とはまったく異(こと)なる現在の状況を打開(げんざいの じょうきょうを だかい)できるのは神(かみ)だけでしょう( "For sure and certain God alone can clean up this situation, totally different from the situation of the Church when it was reformed by St Pius V." ).タイタニック号の船長(たいたにっく ごうの せんちょう)と同(おな)じように,フェレー司教と彼の支配下(しはいか)にある本部(ほんぶ)は SSPX の自殺作戦(じさつ さくせん)を成功に導く(せいこうに みちびく)ことでしょう( "Like the Captain of the Titanic, Bishop Fellay and his headquarters will bring the Society’s Operation Suicide to a successful conclusion." ).彼らは無能(=不信仰)集団の無能な指導者(むのう しゅうだんの むのうな しどうしゃ)です(訳注後記). だが,無能(=不信仰)でない者はこの自殺行為に抵抗(じさつ こういに ていこう)し,信仰(しんこう)を守(まも)らなければなりません.」( "Blind leaders of the blind. But anyone who is not blind must resist this suicide, and keep the Faith.” " )
SSPX にアルタミラ神父やフォール神父ほど先見の明(せんけんの めい)があり勇敢な司祭(ゆうかんな しさい)がもっと多(おお)くいてくれさえすれば良(よ)いのに!
( "If only the Society had more priests as clear-sighted and courageous as Fr Altamira and Fr Faure !
キリエ・エレイソン.
リベラル派たちが破壊行為を
するとき,
(りべらるはたちが はかいこういを するとき)
( "When liberals destroy, how much we need" )
頭脳明晰で言行が
勇敢な司祭たちがどれほど必要なことか!
(ずのう めいせきで ごんぎょうが ゆうかんな しさいたちが
どれほど ひつような ことか!)
( "Priests clear in mind, and brave in word and deed
! " )
リチャード・ウィリアムソン司教
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第5パラグラフの訳注:
彼らは無能(=不信仰)集団の無能な指導者です. だが,無能(=不信仰)でない者はこの自殺行為に抵抗し,信仰を守らなければなりません.」
"Blind leaders of the blind. But anyone who is not blind must resist this suicide, and keep the Faith.” "
について.
(直訳+意訳)
① 真実に対して盲目な人達の,真実に対して盲目な指導者たち.
「真実に対して盲目」=「真実が見えない」こと=「(善業において)無能」
・福音の記述〈ふくいんのきじゅつ〉による→新約聖書・マテオ聖福音書
聖マテオによる聖福音書:第15章14節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW XV, 14
『(イエズスは,「天の父が植えられないものはみな抜かれてしまう.)打ち捨てておけ.彼らは盲人の案内をする盲人だ.盲人が盲人の案内をしたら二人とも穴に落ちてしまう.」と答えられた.』
“14 Let them alone: they are blind, and leaders of the blind. And if the blind lead the blind, both will fall into the pit”.
② だが,誰であろうと無能でない者=
・真実に盲目でない者=真実が見える(真実が分かる)者.
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マテオ聖福音書:第15章1-20節の引用を追加掲載いたします.
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2014年6月20日金曜日
2014年6月15日日曜日
360 公会議派教会とは? 6/7
エレイソン・コメンツ 第360回 (2014年6月7日)
「公会議派教会」( "Conciliar church" )という表現(こうかいぎ きょうかい という ひょうげん)は,一つの現実(ひとつの げんじつ),実在(じつざい)するもの,つまり自身(じしん)をカトリック教徒だと公言(かとりっく きょうと だと こうげん)しながらも実際には第二バチカン公会議(じっさいには だいに ばちかん こうかいぎ)の新しい人間中心主義的な宗教の実践(あたらしい にんげん ちゅうしん しゅぎ てきな しゅうきょう の じっせん)に滑り落ちている人々や団体の総体を表す表現(すべり おちている ひとびとやだんたいの そうたいを あらわす ひょうげん)であるのは明白(めいはく)です( "The expression “Conciliar church” obviously expresses a reality, something real, namely the mass of people and institutions professing themselves to be Catholic but in fact sliding into the practice of the new humanist religion of the Second Vatican Council." ).なぜ「滑り落ちる」( "sliding" )などという言葉を使う(ことばを つかう)かといえば,公会議主義,すなわち新モダニズム(しん もだにずむ)(=新近現代主義〈しん きんげんだい しゅぎ〉)( "neo-modernism" )はまさしく,カトリック教徒たちが見かけだけは信仰を保ち(しんこうを たもち)ながら,その内容を空に(ないようを からに)してしまうことができるように作(つく)られているからです( " “Sliding”, because Conciliarism, or neo-modernism, is precisely designed to enable Catholics to maintain the appearances of the Faith while they empty out the substance." ).カトリック教徒たちは具体的(ぐたい てき)に,このプロセス(ぷろせす)を早(はや)めるか遅(おく)らせるか意(い)のままにできますが,わざわざ結論(けつろん)までたどりつく必要(ひつよう)などありません( "Catholics in the concrete can make this process as fast or as slow as they wish, they need not even take it all the way to its conclusion, …" ).だが,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)( "Conciliarism" )は理論上(りろん じょう),カトリック教義(かとりっく きょうぎ)( "Catholicism" )に真っ向から反対(まっこうから はんたい)するものであり(=全〈まった〉く反対する),そのプロセスの結論(ぷろせすの けつろん)にたどりついて,初めから意図(はじめから いと)していたように信仰と教会を壊して(しんこうと きょうかいを こわして)しまいます( "… but Conciliarism in the abstract is utterly opposed to Catholicism and, taken to its conclusion, it destroys both Faith and Church, as it was meant to do." ).
このプロセスを観察(かんさつ)し理解(りかい)するのは難(むずか)しいことではありません( "The process is not difficult to observe or to understand, …" ).だが,聖ピオ十世会(SSPX)(せいぴお じゅっせい かい)を率(ひき)いるリベラル派の人(りべらるはの ひとたち)たちはローマ(ろーま)の公会議派の人(ひと)たちとの和解を求める(わかいを もとめる)なかで( "… but liberals at the head of the Society of St Pius X, seeking reconciliation with the Conciliarists in Rome, …" ),公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)とカトリック教会(かとりっく きょうかい)の問題を混同(もんだいを こんどう)させるべくベストを尽くし(べすとを つくして)てきました( "… have done their best to confuse the question of the Conciliar church and the Catholic Church." ).彼(かれ)らは,たとえば,カトリック教会は目に見える(めに みえる),公会議派教会も目に見える教会である,だから公会議派教会はカトリック教会であると言います( "For instance the Catholic Church is visible, they will say, and the Conciliar church is the visible church, so the Conciliar church is the Catholic Church, …" ).この論法(ろんぽう)はルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)によって何年も前(なんねんも まえ)に「子供(こども)じみている」( "childish" )と,はねつけられています(目に見える教会は多数〈たすう〉ありますが,それがすべてカトリック教会とは限〈かぎ〉りません)( "… an argument dismissed years ago by Archbishop Lefebvre as “childish” (many churches are visible that are not Catholic)." ).同(おな)じように子供じみた論法は,教会はただ一つ(ひとつ)である,だから公会議派教会とカトリック教会は一つで同じ(ひとつで おなじ)ものでなければならないというものです(偽〈にせ〉の教会は何千〈なんぜん〉もあります)( "Equally childish is the argument that there is only one Church, so the Conciliar church and the Catholic Church must be one and the same (there are thousands of false churches)." ).
真実(しんじつ)とはさほど複雑難解(ふくざつ なんかい)なものではありません( "The truth is not too complicated." ).カトリック教会は生きた組織(いきた そしき)で( "The Catholic Church is a living organism, …" ),その創設者(そうせつ しゃ)イエズス・キリスト(いえずす・きりすと)のように,神聖な面と人間的な面(しんせいな めんと にんげん てきな めん)を兼ね備え(かね そなえ)ています( "… both divine and human, like its Founder, Jesus Christ." ).神聖な面としては,教会はキリストの汚れなき花嫁(けがれなき はなよめ)( “his Immaculate Bride” )ですから,堕落(だらく)したものではありませんし堕落することもありません( "As divine, as being his Immaculate Bride, it cannot be corrupt or corrupted, …" ).だが,教会は罪深い人間(つみぶかい にんげん)によって構成(こうせい)されているものですから( "… but as being made up of sinful human beings, …" ),ほかの生きた組織と同じ(いきた そしきと おなじ)ように部分的に腐敗(ぶぶん てきに ふはい)することがあります( "… it can partially rot just like any other living organism." ).したがって,公会議派教会とカトリック教会の関係(かんけい)を理解(りかい)するのに役立つ方法(やくだつ ほうほう)は腐った林檎(くさった りんご)を考(かんが)えてみることです( "So one useful way to understand how the Conciliar church relates to the Catholic Church is to think of a rotten apple." ).
一方の見方(いっぽうの みかた)では,腐食(ふしょく)は林檎(りんご)に所属(しょぞく)します( "On the one hand the rot belongs to the apple." ).その腐った部分(くさった ぶぶん)は,すべて一度(いちど)は林檎でした( "All rot was once apple." ).腐食は林檎を腐敗(ふはい)させるもの,林檎の寄生物(きせいぶつ)で,林檎なしには生存(せいぞん)できず,腐った部分が落(お)ちるまで林檎に固(かた)くしがみついています( "The rot is a corruption of the apple, a parasite on the apple, it could not exist without the apple and it remains firmly attached to the apple unless and until the rotten part falls off. " ).同(おな)じように公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はそのあらゆる部分(ぶぶん)が一度はカトリック(かとりっく)だったという限(かぎ)りにおいてカトリック教会に所属します( "Likewise Conciliarism belongs to the Catholic Church insofar as everything Conciliar was once Catholic, …" ).それはカトリック教会を腐敗させるもの,カトリック教会の寄生物で,カトリック教会なしには生存できず( "… it is a corruption of the Catholic Church, a parasite on the Catholic Church, it could not exist without the Catholic Church, …" ),カトリック教会のどこかの部分に,それを意図(いと)した通(とお)り壊(こわ)してしまわない限(かぎ)り,そこに固くしがみついています( "… and it remains firmly attached to some part of the Catholic Church unless and until it destroys that part, as it was designed to do." ).
ほかの見方(みかた)では,腐食は林檎に所属(ふしょくは りんごに しょぞく)しません( "On the other hand the rot does not belong to the apple." ).初めから腐る(はじめから くさる)つもりの林檎などありません( "No apple was ever meant to go rotten." ).あらゆる腐食は林檎の一部分を変質(いちぶぶんを へんしつ)させるもの,林檎を腐敗(りんごを ふはい)させるもの,林檎の寄生物(りんごの きせいぶつ)であり,林檎を悪(わる)いものに変質(へんしつ)させ,結果的(けっかてき)に林檎とはまったく異質(いしつ)なものに変(か)えてしまうものです( "All rot is a transformation of some apple, a corruption and parasite of apple, transforming it for the worse, resulting in something quite different from apple, …" ).それは気の確かな者(きの たしかな もの)なら食(た)べたいとか,林檎と少しも変わらない(りんごと すこしも かわらない)じゃないかなどという思い(おもい)にならないものです( "… something which nobody in his right mind would dream of eating or of saying that it was no different from apple." ).同じ(おなじ)ように,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はカトリック教会(かとりっく きょうかい)に所属(しょぞく)しません( "Likewise Conciliarism does not belong to the Catholic Church, …" ).それはカトリック的(てき)ななにかを腐敗(ふはい)させるもの,カトリック的なものによりかかる寄生物(きせいぶつ)です( "… it is a corruption of something Catholic and is a parasite on whatever is Catholic." ).それはカトリック教会(の人間的な部分〈にんげんてきな ぶぶん〉)を悪いものに変質(わるいものに へんしつ)させ( "It transforms (a human part of) the Catholic Church for the worse, …" ),結果(けっか)としてその部分(ぶぶん)を本質的(ほんしつてき)にカトリック的でない何か(かとりっく てき でない なにか)に変えて(かえて)しまいます( "… resulting in something essentially non-Catholic …" ).気の確かなカトリック信徒(きの たしかな かとりっく しんと)ならだれ一人(ひとり)として,それをカトリック的だと称(しょう)したり自らの信仰(みずからの しんこう)を犠牲(ぎせい)にして,それと付き合い(つきあい)たいなどという思(おも)いにならないものです( "… which no Catholic in his right mind would call Catholic or want to associate with, on pain of losing his faith." ).
簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),公会議主義は腐食(こうかいぎ しゅぎは ふしょく)で( "Conciliarism is rot, …" ),「公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)」は一つの神聖的・人間的教会(ひとつの しんせいてき・にんげんてき きょうかい)( "the one divine-human Church" )であり,その人間的側面の一部(にんげんてき そくめんの いちぶ)が腐敗した状態(ふはいした じょうたい)にあるものです( "… and the “Conciliar church” is the one divine-human Church being rotted in one or other of its human aspects." ).もちろんカトリック教会(かとりっく きょうかい)は末世まで続く(まっせまで つづく)(訳注後記)でしょう(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章20節)( "Of course the Catholic Church will last to the end of the world (Mt. XXVIII, 20), …" ).だが,「公会議派教会」は昔(むかし)からあった数多い寄生教会(かず おおい きせい きょうかい)( "parasite churches" )の一つ(ひとつ)にしかすぎません( "… while the “Conciliar church” is merely one in a long line of parasite churches down the ages, …" ).それは,自ら(みずから)が腐敗(ふかい)させるものによりかかって生き(いき),自らよりかかって生きているものを腐敗させます( "… living on what they rot and rotting what they live on. " ).あらゆるリベラル派の人々(りべらるはの ひとびと),自ら混乱し他人を混乱させる人々に天罰を!(みずから こんらん し たにんを こんらん させる ひとびとに てんばつを!)( "A plague on all liberals, confused and confusing ! " )
キリエ・エレイソン.
教会は神と人を分かち,かつ結びつける
(きょうかいは かみと ひとを わかち,かつ むすび つける)
( "The Church does parts from God and man
combine." )
人は腐敗するが,神が腐敗することはない
(ひとは ふはいする が,かみが ふはいする ことはない)
( "The human can be rotted, not the divine." )
リチャード・ウィリアムソン司教
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第6パラグラフの訳注:
「…カトリック教会は末世まで続く…」の「末世(まっせ)」について
「末世(まっせ)」( "the end of the world" )の意味=
・道義が衰え乱れた世の中(どうぎが おとろえ みだれた よのなか).
「道義(どうぎ)」=
・人としてふみ行うべき道(ひと として ふみ おこなう べき みち).道徳(どうとく).
(国語〈日本語〉辞書「大辞林」より)
「公会議派教会」( "Conciliar church" )という表現(こうかいぎ きょうかい という ひょうげん)は,一つの現実(ひとつの げんじつ),実在(じつざい)するもの,つまり自身(じしん)をカトリック教徒だと公言(かとりっく きょうと だと こうげん)しながらも実際には第二バチカン公会議(じっさいには だいに ばちかん こうかいぎ)の新しい人間中心主義的な宗教の実践(あたらしい にんげん ちゅうしん しゅぎ てきな しゅうきょう の じっせん)に滑り落ちている人々や団体の総体を表す表現(すべり おちている ひとびとやだんたいの そうたいを あらわす ひょうげん)であるのは明白(めいはく)です( "The expression “Conciliar church” obviously expresses a reality, something real, namely the mass of people and institutions professing themselves to be Catholic but in fact sliding into the practice of the new humanist religion of the Second Vatican Council." ).なぜ「滑り落ちる」( "sliding" )などという言葉を使う(ことばを つかう)かといえば,公会議主義,すなわち新モダニズム(しん もだにずむ)(=新近現代主義〈しん きんげんだい しゅぎ〉)( "neo-modernism" )はまさしく,カトリック教徒たちが見かけだけは信仰を保ち(しんこうを たもち)ながら,その内容を空に(ないようを からに)してしまうことができるように作(つく)られているからです( " “Sliding”, because Conciliarism, or neo-modernism, is precisely designed to enable Catholics to maintain the appearances of the Faith while they empty out the substance." ).カトリック教徒たちは具体的(ぐたい てき)に,このプロセス(ぷろせす)を早(はや)めるか遅(おく)らせるか意(い)のままにできますが,わざわざ結論(けつろん)までたどりつく必要(ひつよう)などありません( "Catholics in the concrete can make this process as fast or as slow as they wish, they need not even take it all the way to its conclusion, …" ).だが,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)( "Conciliarism" )は理論上(りろん じょう),カトリック教義(かとりっく きょうぎ)( "Catholicism" )に真っ向から反対(まっこうから はんたい)するものであり(=全〈まった〉く反対する),そのプロセスの結論(ぷろせすの けつろん)にたどりついて,初めから意図(はじめから いと)していたように信仰と教会を壊して(しんこうと きょうかいを こわして)しまいます( "… but Conciliarism in the abstract is utterly opposed to Catholicism and, taken to its conclusion, it destroys both Faith and Church, as it was meant to do." ).
このプロセスを観察(かんさつ)し理解(りかい)するのは難(むずか)しいことではありません( "The process is not difficult to observe or to understand, …" ).だが,聖ピオ十世会(SSPX)(せいぴお じゅっせい かい)を率(ひき)いるリベラル派の人(りべらるはの ひとたち)たちはローマ(ろーま)の公会議派の人(ひと)たちとの和解を求める(わかいを もとめる)なかで( "… but liberals at the head of the Society of St Pius X, seeking reconciliation with the Conciliarists in Rome, …" ),公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)とカトリック教会(かとりっく きょうかい)の問題を混同(もんだいを こんどう)させるべくベストを尽くし(べすとを つくして)てきました( "… have done their best to confuse the question of the Conciliar church and the Catholic Church." ).彼(かれ)らは,たとえば,カトリック教会は目に見える(めに みえる),公会議派教会も目に見える教会である,だから公会議派教会はカトリック教会であると言います( "For instance the Catholic Church is visible, they will say, and the Conciliar church is the visible church, so the Conciliar church is the Catholic Church, …" ).この論法(ろんぽう)はルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)によって何年も前(なんねんも まえ)に「子供(こども)じみている」( "childish" )と,はねつけられています(目に見える教会は多数〈たすう〉ありますが,それがすべてカトリック教会とは限〈かぎ〉りません)( "… an argument dismissed years ago by Archbishop Lefebvre as “childish” (many churches are visible that are not Catholic)." ).同(おな)じように子供じみた論法は,教会はただ一つ(ひとつ)である,だから公会議派教会とカトリック教会は一つで同じ(ひとつで おなじ)ものでなければならないというものです(偽〈にせ〉の教会は何千〈なんぜん〉もあります)( "Equally childish is the argument that there is only one Church, so the Conciliar church and the Catholic Church must be one and the same (there are thousands of false churches)." ).
真実(しんじつ)とはさほど複雑難解(ふくざつ なんかい)なものではありません( "The truth is not too complicated." ).カトリック教会は生きた組織(いきた そしき)で( "The Catholic Church is a living organism, …" ),その創設者(そうせつ しゃ)イエズス・キリスト(いえずす・きりすと)のように,神聖な面と人間的な面(しんせいな めんと にんげん てきな めん)を兼ね備え(かね そなえ)ています( "… both divine and human, like its Founder, Jesus Christ." ).神聖な面としては,教会はキリストの汚れなき花嫁(けがれなき はなよめ)( “his Immaculate Bride” )ですから,堕落(だらく)したものではありませんし堕落することもありません( "As divine, as being his Immaculate Bride, it cannot be corrupt or corrupted, …" ).だが,教会は罪深い人間(つみぶかい にんげん)によって構成(こうせい)されているものですから( "… but as being made up of sinful human beings, …" ),ほかの生きた組織と同じ(いきた そしきと おなじ)ように部分的に腐敗(ぶぶん てきに ふはい)することがあります( "… it can partially rot just like any other living organism." ).したがって,公会議派教会とカトリック教会の関係(かんけい)を理解(りかい)するのに役立つ方法(やくだつ ほうほう)は腐った林檎(くさった りんご)を考(かんが)えてみることです( "So one useful way to understand how the Conciliar church relates to the Catholic Church is to think of a rotten apple." ).
一方の見方(いっぽうの みかた)では,腐食(ふしょく)は林檎(りんご)に所属(しょぞく)します( "On the one hand the rot belongs to the apple." ).その腐った部分(くさった ぶぶん)は,すべて一度(いちど)は林檎でした( "All rot was once apple." ).腐食は林檎を腐敗(ふはい)させるもの,林檎の寄生物(きせいぶつ)で,林檎なしには生存(せいぞん)できず,腐った部分が落(お)ちるまで林檎に固(かた)くしがみついています( "The rot is a corruption of the apple, a parasite on the apple, it could not exist without the apple and it remains firmly attached to the apple unless and until the rotten part falls off. " ).同(おな)じように公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はそのあらゆる部分(ぶぶん)が一度はカトリック(かとりっく)だったという限(かぎ)りにおいてカトリック教会に所属します( "Likewise Conciliarism belongs to the Catholic Church insofar as everything Conciliar was once Catholic, …" ).それはカトリック教会を腐敗させるもの,カトリック教会の寄生物で,カトリック教会なしには生存できず( "… it is a corruption of the Catholic Church, a parasite on the Catholic Church, it could not exist without the Catholic Church, …" ),カトリック教会のどこかの部分に,それを意図(いと)した通(とお)り壊(こわ)してしまわない限(かぎ)り,そこに固くしがみついています( "… and it remains firmly attached to some part of the Catholic Church unless and until it destroys that part, as it was designed to do." ).
ほかの見方(みかた)では,腐食は林檎に所属(ふしょくは りんごに しょぞく)しません( "On the other hand the rot does not belong to the apple." ).初めから腐る(はじめから くさる)つもりの林檎などありません( "No apple was ever meant to go rotten." ).あらゆる腐食は林檎の一部分を変質(いちぶぶんを へんしつ)させるもの,林檎を腐敗(りんごを ふはい)させるもの,林檎の寄生物(りんごの きせいぶつ)であり,林檎を悪(わる)いものに変質(へんしつ)させ,結果的(けっかてき)に林檎とはまったく異質(いしつ)なものに変(か)えてしまうものです( "All rot is a transformation of some apple, a corruption and parasite of apple, transforming it for the worse, resulting in something quite different from apple, …" ).それは気の確かな者(きの たしかな もの)なら食(た)べたいとか,林檎と少しも変わらない(りんごと すこしも かわらない)じゃないかなどという思い(おもい)にならないものです( "… something which nobody in his right mind would dream of eating or of saying that it was no different from apple." ).同じ(おなじ)ように,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はカトリック教会(かとりっく きょうかい)に所属(しょぞく)しません( "Likewise Conciliarism does not belong to the Catholic Church, …" ).それはカトリック的(てき)ななにかを腐敗(ふはい)させるもの,カトリック的なものによりかかる寄生物(きせいぶつ)です( "… it is a corruption of something Catholic and is a parasite on whatever is Catholic." ).それはカトリック教会(の人間的な部分〈にんげんてきな ぶぶん〉)を悪いものに変質(わるいものに へんしつ)させ( "It transforms (a human part of) the Catholic Church for the worse, …" ),結果(けっか)としてその部分(ぶぶん)を本質的(ほんしつてき)にカトリック的でない何か(かとりっく てき でない なにか)に変えて(かえて)しまいます( "… resulting in something essentially non-Catholic …" ).気の確かなカトリック信徒(きの たしかな かとりっく しんと)ならだれ一人(ひとり)として,それをカトリック的だと称(しょう)したり自らの信仰(みずからの しんこう)を犠牲(ぎせい)にして,それと付き合い(つきあい)たいなどという思(おも)いにならないものです( "… which no Catholic in his right mind would call Catholic or want to associate with, on pain of losing his faith." ).
簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),公会議主義は腐食(こうかいぎ しゅぎは ふしょく)で( "Conciliarism is rot, …" ),「公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)」は一つの神聖的・人間的教会(ひとつの しんせいてき・にんげんてき きょうかい)( "the one divine-human Church" )であり,その人間的側面の一部(にんげんてき そくめんの いちぶ)が腐敗した状態(ふはいした じょうたい)にあるものです( "… and the “Conciliar church” is the one divine-human Church being rotted in one or other of its human aspects." ).もちろんカトリック教会(かとりっく きょうかい)は末世まで続く(まっせまで つづく)(訳注後記)でしょう(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章20節)( "Of course the Catholic Church will last to the end of the world (Mt. XXVIII, 20), …" ).だが,「公会議派教会」は昔(むかし)からあった数多い寄生教会(かず おおい きせい きょうかい)( "parasite churches" )の一つ(ひとつ)にしかすぎません( "… while the “Conciliar church” is merely one in a long line of parasite churches down the ages, …" ).それは,自ら(みずから)が腐敗(ふかい)させるものによりかかって生き(いき),自らよりかかって生きているものを腐敗させます( "… living on what they rot and rotting what they live on. " ).あらゆるリベラル派の人々(りべらるはの ひとびと),自ら混乱し他人を混乱させる人々に天罰を!(みずから こんらん し たにんを こんらん させる ひとびとに てんばつを!)( "A plague on all liberals, confused and confusing ! " )
キリエ・エレイソン.
教会は神と人を分かち,かつ結びつける
(きょうかいは かみと ひとを わかち,かつ むすび つける)
( "The Church does parts from God and man
combine." )
人は腐敗するが,神が腐敗することはない
(ひとは ふはいする が,かみが ふはいする ことはない)
( "The human can be rotted, not the divine." )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第6パラグラフの訳注:
「…カトリック教会は末世まで続く…」の「末世(まっせ)」について
「末世(まっせ)」( "the end of the world" )の意味=
・道義が衰え乱れた世の中(どうぎが おとろえ みだれた よのなか).
「道義(どうぎ)」=
・人としてふみ行うべき道(ひと として ふみ おこなう べき みち).道徳(どうとく).
(国語〈日本語〉辞書「大辞林」より)
2014年6月6日金曜日
359 教会の無謬性 V 5/31
エレイソン・コメンツ 第359回 (2014年5月31日)
リベラリズム(りべらりずむ)は神に戦いを挑み(かみに たたかいを いどみ)( "Liberalism is war on God, …" ),真実を崩壊(しんじつを ほうかい)させるものです( "… and it is the dissolution of truth." ).リベラリズムが駄目(だめ)にしてしまった今日の教会内(こんにちの きょうかい ない)で( "Within today’s Church crippled by liberalism, …" ),教皇空位論(きょうこう くうい ろん)は一つの反作用(ひとつの はんさよう)として理解(りかい)できます( "… sedevacantism is an understandable reaction, …" ).だが,この理論(りろん)は真実に比(くら)べ権威を重視(けんいを じゅうし)しすぎています( "… but it still credits authority with too much power over truth." ).現代の世界(げんだいの せかい)では自然的真実が見失われ(しぜんてき しんじつが みうしなわれ)ています( "The modern world has lost natural truth, …" ).まして超自然的真実(ちょうしぜん てき しんじつ)はいうに及び(および)ません( "… let alone supernatural truth, …" ).そこに問題の核心(もんだいの かくしん)があります( "… and here is the heart of the problem." ).
話を進める便宜上(はなしを すすめる べんぎ じょう),教皇(きょうこう)のあらゆる教え(おしえ)を三つに分類して考えて(みっつに ぶんるいして かんがえて)みましょう( "For our purposes we might divide all papal teaching into three parts." ).第1(だいいち)に,教皇が教皇として,全カトリック教徒(ぜん かとりっく きょうと)を固く結びつける(かたく むすび つける)ため信仰や道徳(しんこうや どうとく)について教える場合(おしえる ばあい)( "Firstly, if the Pope teaches as Pope, on Faith or morals, definitively and so as to bind all Catholics, …" ),彼の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)( "Extraordinary Magisterium" =以下EMと省略〈しょうりゃく〉)は必然的に無謬(ひつぜんてきに むびゅう)です( "… then we have his Extraordinary Magisterium (EM for short), necessarily infallible." ).第2(だいに)に,もし教皇が必ず(かならず)しも4条件(よん じょうけん)すべてに従(したが)わなくても,教会がいついかなる場合(ばあい)でも信徒に信じるよう教えて(しんとに しんじるよう おしえて)きたやりかたに従(したが)って教えるなら( "Secondly, if he does not engage all four conditions but teaches in line with what the Church has always and everywhere taught and imposed on Catholics to believe, …" ),いわゆる教会の通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)( “Ordinary Universal Magisterium” =以下OUMと省略)に則(のっと)っていることになり,彼はやはり無謬(むびゅう)です( "… then he is partaking in what is called the Church’s “Ordinary Universal Magisterium” (OUM for short), also infallible." ).第3(だいさん)に教皇のこれ以外(いがい)の教えについて考(かんが)えてみます( "Thirdly we have the rest of his teaching, …" ).もし彼が伝統に外れて(でんとうに はずれて)教えるのであれば( "…which, if it is out of line with Tradition, …" ),その教えは誤りから免れ(あやまりから まぬがれ)ないだけでなく偽物(にせもの)です( "… is not only fallible but also false." ).
これで明確(めいかく)なのは( "By now it should be clear that …" ),EMとOUMは山を覆う雪と山の関係と同じだということです( "… the EM is to the OUM as snow-cap is to mountain." ).雪は山頂を形作っている(ゆきは さんちょうを かたちづくって いる)のではなく( "The snow-cap does not make the summit of the mountain, …" ),ただ単に山頂をより目立たせている(ただ たんに さんちょうを より めだたせて いる)だけです( "… it merely makes it more visible." ).EMとOUMは召使と主人(めしつかいと しゅじん)のようなものです( "EM is to OUM as servant to master." ).EMはOUMに属(ぞく)するものと属さないものをはっきりさせるためOUMに仕えるべく存在(つかえる べく そんざい)しています( "It exists to serve the OUM by making clear once and for all what does or does not belong to the OUM." ).だが山の残りの部分を目立たせる(やまの のこりの ぶぶんを めだたせる)のは何(なに)なのか( "But what makes the rest of the mountain visible, …" ),言って(いって)みれば,それが私たちの主イエズス・キリストとその使徒たち(しゅ いえずす・きりすとと その しとたち),すなわち,伝統(でんとう)にまで遡る(さかのぼる)ものだからです( "… is its being traceable back to Our Lord and his Apostles, in other words, Tradition." ).EMをどのように定義(ていぎ)するにしても,結局(けっきょく)はそれが伝統の一部(でんとうの いちぶ)だと四苦八苦して示す(しくはっく して しめす)ことになるのはそのためです( "That is why every EM definition is at pains to show that what is being defined was always previously part of Tradition." ).伝統は雪で覆われる以前の山(ゆきで おおわれる いぜんの やま)なのです( "It was mountain before it was covered in snow. " ). もうひとつ明確なのは( "By now it should also be clear that …" ),教皇がなにを教えるべきかを指示(しじ)するのは伝統(でんとう)であり( "… Tradition tells the Popes what to teach, …" ),その逆(ぎゃく)ではないということです( "… and not the other way round." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)はこの前提に基づいて(ぜんていに もとづいて)伝統運動(うんどう)( "the Traditional movement" )を創設(そうせつ)されました( "This is the basis on which Archbishop Lefebvre founded the Traditional movement, …" ).だが,失礼(しつれい)ながら,リベラル派(りべらる は)も教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)もこの前提を理解(りかい)していません( "… yet it is this same basis which, with all due respect, liberals and sedevacantists fail to grasp." ).聖ヨハネの福音書( "the Gospel of St John" )で,私たちの主イエズス・キリスト(しゅ いえずす・きりすと)が,人間(にんげん)として,自分の教え(じぶんの おしえ)は自分自身(じしん)でなく自分の父(ちち)に根差して(ねざして)いると何度も明言(なんども めいげん)されていることに注目(ちゅうもく)してください( "Just see in the Gospel of St John how often Our Lord himself, as man, declares that what he is teaching comes not from himself but from his Father, …" ).たとえば,主は「私の教理(わたしの きょうり)は私のものでなく,私を遣(つか)わされたお方(かた)のものである」(第7章16節)( "… for instance: “My doctrine is not mine but his that sent me” (VII, 16), …" )とか,私は自ら話す(みずから はなす)のではない.父が私を遣わされ,私に命令(めいれい)をくださり,私がなにを言(い)い,なにを話(はな)すか指示(しじ)される」(第12章49節)と述(の)べておられます( "… or, “I have not spoken from out of myself; but the Father who sent me, he gave me commandment, what I should say, and what I should speak” (XII, 49)." ).もちろん,伝統がなんであるかを教会や世界に向けて話す(きょうかいや せかいに むけて はなす)のに,現世(げんせ)で教皇ほど権限を持つ者(きょうこうほど けんげん をもつもの)はほかにいません( "Of course nobody on earth is more authorized than the Pope to tell Church and world what is in Tradition, …" ).しかし,教皇は伝統に含(ふく)まれないものが伝統の中(なか)にあると教会や世界に向かって述べることはできません( "… but he cannot tell Church or world that there is in Tradition what is not in it." ).伝統の中にあるものは客観的(きゃっかん てき)で( "What is in it is objective, …" ),今(いま)では2千年の歴史(に せんねんの れきし)をもっており( "… now 2,000 years old, …" ),教皇より上の存在(うえの そんざい)です( "… it is above the Pope …" ).それは,まさしく父の命令が,キリストが人間として教えることに制限を設けた(せいげんを もうけた)ように,教皇が教皇として教えうる(きょうこうが きょうこうとして おしえうる)ことに制限を設けています( "… and it sets limits to what a Pope can teach, just as the Father’s commandment set limits to what Christ as man would teach." ).
それなのに,リベラル派や教皇空位論者たちは教皇がEMやOUMを外れて教え(はずれて おしえ)ても無謬(むびゅう)であると,どうして言い張れる(いい はれる)のでしょうか?( "Then how can liberals and sedevacantists alike claim, in effect, that the Pope is infallible even outside of both EM and OUM ? " ) それは,両者(りょうしゃ)がともに真実より権威を過大評価(しんじつより けんいを かだい ひょうか)し,教会の権威(きょうかいの けんい)は真実の召使でなく主人(しんじつの めしつかい でなく しゅじん)だと見(み)るからです( "Because both overrate authority in relation to truth, and so they see Church authority no longer as the servant but as the master of truth." ).どうしてなのでしょうか?( "And why is that ? " ) その理由(りゆう)は彼らがいずれも,プロテスタント主義(ぷろてすたんと しゅぎ)が真実を拒み(しんじつを こばみ),フランス革命以降(ふらんす かくめい いこう)のリベラリズムが客観的真実(きゃっかんてき しんじつ)を壊(こわ)してきた近代世界の子供(きんだい せかいの こども)たちだからです( "… Because they are both children of the modern world where Protestantism defied the Truth and liberalism ever since the French Revolution has been dissolving objective truth." ).もし,客観的真実などもう存在(そんざい)しないのであれば( "And if there is no longer any objective truth, …" ),むろん権力者(けんりょくしゃ)たちはなにをしても意(い)のままでしょう( "… then of course authority can say whatever it can get away with, …" ).それは今私(いま わたくし)たちが身の回り(みの まわり)に眺めている状態(ながめて いる じょうたい)です( "… which is what we observe all around us, …" ).そして,教皇パウロ6世やフェレー司教(きょうこう ぱうろ ろくせいや ふぇれー しきょう)のような人たち( "a Paul VI or a Bishop Fellay" )がますます気まぐれで暴君的(きまぐれで ぼうくんてき)になるのを止(と)めさせるものは何一つ残って(なに ひとつ のこって)いません( "… and there is nothing left to stop a Paul VI or a Bishop Fellay from becoming more and more arbitrary and tyrannical in the process." ).
神の御母(聖母マリア)よ,あなたの御子イエズス・キリスト(おんこ いえずす・きりすと)が人間(にんげん)として「死ぬまで,しかも十字架上の死に至るまで(しぬまで,しかも じゅうじかじょうの しに いたるまで)」従(したが)われた御父の与えし(おんちちの あたえし)超自然,自然の双方における,普遍の(ふへんの)(=カトリックの)真実と命令(ちょうしぜん,しぜんの そうほうにおける ふへんの〈=かとりっくの〉しんじつと めいれい)を,どうぞ私が愛し(あいし),理解し(りかいし),守れ(まもれ)ますよう,(神の恩寵を願い求める私の祈願〈かみの おんちょうを ねがい もとめる わたくしの きがん〉を)神にとりなし私のため必要な恩寵を神より獲得して下さい(かみに とりなし ひつような おんちょうを わたくしの ため かみより かくとくして ください)(訳注後記).( "Mother of God, obtain for me to love, discern and defend that Truth and order coming from the Father, both supernatural and natural, to which your own Son was as man subject, “unto death, even to the death of the Cross”." ).
キリエ・エレイソン.
客観的真実の大きな喪失
(きゃかんてき しんじつの おおきな そうしつ)
( "The loss of objective truth in depth explains" )
それが教会の教皇空位論者やリベラル派の苦悩の根源
(それが きょうかいの きょうこう くうい ろんじゃや
りべらるはの くのうの こんげん)
( "The Church’s sedevac and liberal pains. " )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第6パラグラフの訳注:
「十字架の死にいたるまで」について
・当時(とうじ),「十字架に架けられた者は呪われる(じゅうじかに かけられた ものは のろわれる)」と言われていた.
・人類の罪を贖うための犠性〈じんるいの つみを あがなう ための いけにえ〉として,真の神の御独り子イエズス・キリストは十字架刑を受けられた.
・人類の罪を贖う(じんるいの つみを あがなう)ことができるのは唯一(ゆいいつ),
神の御独り子(かみの おん ひとりご)のみだからである.
* * *
訳注を続けます.
* * *
リベラリズム(りべらりずむ)は神に戦いを挑み(かみに たたかいを いどみ)( "Liberalism is war on God, …" ),真実を崩壊(しんじつを ほうかい)させるものです( "… and it is the dissolution of truth." ).リベラリズムが駄目(だめ)にしてしまった今日の教会内(こんにちの きょうかい ない)で( "Within today’s Church crippled by liberalism, …" ),教皇空位論(きょうこう くうい ろん)は一つの反作用(ひとつの はんさよう)として理解(りかい)できます( "… sedevacantism is an understandable reaction, …" ).だが,この理論(りろん)は真実に比(くら)べ権威を重視(けんいを じゅうし)しすぎています( "… but it still credits authority with too much power over truth." ).現代の世界(げんだいの せかい)では自然的真実が見失われ(しぜんてき しんじつが みうしなわれ)ています( "The modern world has lost natural truth, …" ).まして超自然的真実(ちょうしぜん てき しんじつ)はいうに及び(および)ません( "… let alone supernatural truth, …" ).そこに問題の核心(もんだいの かくしん)があります( "… and here is the heart of the problem." ).
話を進める便宜上(はなしを すすめる べんぎ じょう),教皇(きょうこう)のあらゆる教え(おしえ)を三つに分類して考えて(みっつに ぶんるいして かんがえて)みましょう( "For our purposes we might divide all papal teaching into three parts." ).第1(だいいち)に,教皇が教皇として,全カトリック教徒(ぜん かとりっく きょうと)を固く結びつける(かたく むすび つける)ため信仰や道徳(しんこうや どうとく)について教える場合(おしえる ばあい)( "Firstly, if the Pope teaches as Pope, on Faith or morals, definitively and so as to bind all Catholics, …" ),彼の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)( "Extraordinary Magisterium" =以下EMと省略〈しょうりゃく〉)は必然的に無謬(ひつぜんてきに むびゅう)です( "… then we have his Extraordinary Magisterium (EM for short), necessarily infallible." ).第2(だいに)に,もし教皇が必ず(かならず)しも4条件(よん じょうけん)すべてに従(したが)わなくても,教会がいついかなる場合(ばあい)でも信徒に信じるよう教えて(しんとに しんじるよう おしえて)きたやりかたに従(したが)って教えるなら( "Secondly, if he does not engage all four conditions but teaches in line with what the Church has always and everywhere taught and imposed on Catholics to believe, …" ),いわゆる教会の通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)( “Ordinary Universal Magisterium” =以下OUMと省略)に則(のっと)っていることになり,彼はやはり無謬(むびゅう)です( "… then he is partaking in what is called the Church’s “Ordinary Universal Magisterium” (OUM for short), also infallible." ).第3(だいさん)に教皇のこれ以外(いがい)の教えについて考(かんが)えてみます( "Thirdly we have the rest of his teaching, …" ).もし彼が伝統に外れて(でんとうに はずれて)教えるのであれば( "…which, if it is out of line with Tradition, …" ),その教えは誤りから免れ(あやまりから まぬがれ)ないだけでなく偽物(にせもの)です( "… is not only fallible but also false." ).
これで明確(めいかく)なのは( "By now it should be clear that …" ),EMとOUMは山を覆う雪と山の関係と同じだということです( "… the EM is to the OUM as snow-cap is to mountain." ).雪は山頂を形作っている(ゆきは さんちょうを かたちづくって いる)のではなく( "The snow-cap does not make the summit of the mountain, …" ),ただ単に山頂をより目立たせている(ただ たんに さんちょうを より めだたせて いる)だけです( "… it merely makes it more visible." ).EMとOUMは召使と主人(めしつかいと しゅじん)のようなものです( "EM is to OUM as servant to master." ).EMはOUMに属(ぞく)するものと属さないものをはっきりさせるためOUMに仕えるべく存在(つかえる べく そんざい)しています( "It exists to serve the OUM by making clear once and for all what does or does not belong to the OUM." ).だが山の残りの部分を目立たせる(やまの のこりの ぶぶんを めだたせる)のは何(なに)なのか( "But what makes the rest of the mountain visible, …" ),言って(いって)みれば,それが私たちの主イエズス・キリストとその使徒たち(しゅ いえずす・きりすとと その しとたち),すなわち,伝統(でんとう)にまで遡る(さかのぼる)ものだからです( "… is its being traceable back to Our Lord and his Apostles, in other words, Tradition." ).EMをどのように定義(ていぎ)するにしても,結局(けっきょく)はそれが伝統の一部(でんとうの いちぶ)だと四苦八苦して示す(しくはっく して しめす)ことになるのはそのためです( "That is why every EM definition is at pains to show that what is being defined was always previously part of Tradition." ).伝統は雪で覆われる以前の山(ゆきで おおわれる いぜんの やま)なのです( "It was mountain before it was covered in snow. " ). もうひとつ明確なのは( "By now it should also be clear that …" ),教皇がなにを教えるべきかを指示(しじ)するのは伝統(でんとう)であり( "… Tradition tells the Popes what to teach, …" ),その逆(ぎゃく)ではないということです( "… and not the other way round." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)はこの前提に基づいて(ぜんていに もとづいて)伝統運動(うんどう)( "the Traditional movement" )を創設(そうせつ)されました( "This is the basis on which Archbishop Lefebvre founded the Traditional movement, …" ).だが,失礼(しつれい)ながら,リベラル派(りべらる は)も教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)もこの前提を理解(りかい)していません( "… yet it is this same basis which, with all due respect, liberals and sedevacantists fail to grasp." ).聖ヨハネの福音書( "the Gospel of St John" )で,私たちの主イエズス・キリスト(しゅ いえずす・きりすと)が,人間(にんげん)として,自分の教え(じぶんの おしえ)は自分自身(じしん)でなく自分の父(ちち)に根差して(ねざして)いると何度も明言(なんども めいげん)されていることに注目(ちゅうもく)してください( "Just see in the Gospel of St John how often Our Lord himself, as man, declares that what he is teaching comes not from himself but from his Father, …" ).たとえば,主は「私の教理(わたしの きょうり)は私のものでなく,私を遣(つか)わされたお方(かた)のものである」(第7章16節)( "… for instance: “My doctrine is not mine but his that sent me” (VII, 16), …" )とか,私は自ら話す(みずから はなす)のではない.父が私を遣わされ,私に命令(めいれい)をくださり,私がなにを言(い)い,なにを話(はな)すか指示(しじ)される」(第12章49節)と述(の)べておられます( "… or, “I have not spoken from out of myself; but the Father who sent me, he gave me commandment, what I should say, and what I should speak” (XII, 49)." ).もちろん,伝統がなんであるかを教会や世界に向けて話す(きょうかいや せかいに むけて はなす)のに,現世(げんせ)で教皇ほど権限を持つ者(きょうこうほど けんげん をもつもの)はほかにいません( "Of course nobody on earth is more authorized than the Pope to tell Church and world what is in Tradition, …" ).しかし,教皇は伝統に含(ふく)まれないものが伝統の中(なか)にあると教会や世界に向かって述べることはできません( "… but he cannot tell Church or world that there is in Tradition what is not in it." ).伝統の中にあるものは客観的(きゃっかん てき)で( "What is in it is objective, …" ),今(いま)では2千年の歴史(に せんねんの れきし)をもっており( "… now 2,000 years old, …" ),教皇より上の存在(うえの そんざい)です( "… it is above the Pope …" ).それは,まさしく父の命令が,キリストが人間として教えることに制限を設けた(せいげんを もうけた)ように,教皇が教皇として教えうる(きょうこうが きょうこうとして おしえうる)ことに制限を設けています( "… and it sets limits to what a Pope can teach, just as the Father’s commandment set limits to what Christ as man would teach." ).
それなのに,リベラル派や教皇空位論者たちは教皇がEMやOUMを外れて教え(はずれて おしえ)ても無謬(むびゅう)であると,どうして言い張れる(いい はれる)のでしょうか?( "Then how can liberals and sedevacantists alike claim, in effect, that the Pope is infallible even outside of both EM and OUM ? " ) それは,両者(りょうしゃ)がともに真実より権威を過大評価(しんじつより けんいを かだい ひょうか)し,教会の権威(きょうかいの けんい)は真実の召使でなく主人(しんじつの めしつかい でなく しゅじん)だと見(み)るからです( "Because both overrate authority in relation to truth, and so they see Church authority no longer as the servant but as the master of truth." ).どうしてなのでしょうか?( "And why is that ? " ) その理由(りゆう)は彼らがいずれも,プロテスタント主義(ぷろてすたんと しゅぎ)が真実を拒み(しんじつを こばみ),フランス革命以降(ふらんす かくめい いこう)のリベラリズムが客観的真実(きゃっかんてき しんじつ)を壊(こわ)してきた近代世界の子供(きんだい せかいの こども)たちだからです( "… Because they are both children of the modern world where Protestantism defied the Truth and liberalism ever since the French Revolution has been dissolving objective truth." ).もし,客観的真実などもう存在(そんざい)しないのであれば( "And if there is no longer any objective truth, …" ),むろん権力者(けんりょくしゃ)たちはなにをしても意(い)のままでしょう( "… then of course authority can say whatever it can get away with, …" ).それは今私(いま わたくし)たちが身の回り(みの まわり)に眺めている状態(ながめて いる じょうたい)です( "… which is what we observe all around us, …" ).そして,教皇パウロ6世やフェレー司教(きょうこう ぱうろ ろくせいや ふぇれー しきょう)のような人たち( "a Paul VI or a Bishop Fellay" )がますます気まぐれで暴君的(きまぐれで ぼうくんてき)になるのを止(と)めさせるものは何一つ残って(なに ひとつ のこって)いません( "… and there is nothing left to stop a Paul VI or a Bishop Fellay from becoming more and more arbitrary and tyrannical in the process." ).
神の御母(聖母マリア)よ,あなたの御子イエズス・キリスト(おんこ いえずす・きりすと)が人間(にんげん)として「死ぬまで,しかも十字架上の死に至るまで(しぬまで,しかも じゅうじかじょうの しに いたるまで)」従(したが)われた御父の与えし(おんちちの あたえし)超自然,自然の双方における,普遍の(ふへんの)(=カトリックの)真実と命令(ちょうしぜん,しぜんの そうほうにおける ふへんの〈=かとりっくの〉しんじつと めいれい)を,どうぞ私が愛し(あいし),理解し(りかいし),守れ(まもれ)ますよう,(神の恩寵を願い求める私の祈願〈かみの おんちょうを ねがい もとめる わたくしの きがん〉を)神にとりなし私のため必要な恩寵を神より獲得して下さい(かみに とりなし ひつような おんちょうを わたくしの ため かみより かくとくして ください)(訳注後記).( "Mother of God, obtain for me to love, discern and defend that Truth and order coming from the Father, both supernatural and natural, to which your own Son was as man subject, “unto death, even to the death of the Cross”." ).
キリエ・エレイソン.
客観的真実の大きな喪失
(きゃかんてき しんじつの おおきな そうしつ)
( "The loss of objective truth in depth explains" )
それが教会の教皇空位論者やリベラル派の苦悩の根源
(それが きょうかいの きょうこう くうい ろんじゃや
りべらるはの くのうの こんげん)
( "The Church’s sedevac and liberal pains. " )
リチャード・ウィリアムソン司教
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第6パラグラフの訳注:
「十字架の死にいたるまで」について
・当時(とうじ),「十字架に架けられた者は呪われる(じゅうじかに かけられた ものは のろわれる)」と言われていた.
・人類の罪を贖うための犠性〈じんるいの つみを あがなう ための いけにえ〉として,真の神の御独り子イエズス・キリストは十字架刑を受けられた.
・人類の罪を贖う(じんるいの つみを あがなう)ことができるのは唯一(ゆいいつ),
神の御独り子(かみの おん ひとりご)のみだからである.
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訳注を続けます.
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