2011年11月29日火曜日

226 トマトの支柱 -2- (11/12)

エレイソン・コメンツ 第226回 (2011年11月12日)

以前「エレイソン・コメンツ」(9月10日付,第217回)で女性と男性の関係をトマトの苗とその苗がよじ登りやがて実を結ぶための支柱になぞらえたロシアのことわざを引用しました.その例えを用いたのは女性の性質と役割を詳しく説明するためでした.その際ある女性読者がその例えが男性にどう当てはまるのか尋(たず)ねてきました.悲しいことに,私たちの住む狂った現代は人間性のあらゆる本質を一掃(いっそう)しようとしています.

神が設計された男性と女性は著(いちじる)しく異なっていながらも崇高(すうこう)なほど相互補完(そうごほかん)的であり,菜園から引き出した単なる例え話などよりはるかに多くを語ってしかるべきものです.いかなるカトリック教会の婚礼ミサ聖祭 “Catholic wedding Mass” でも,そこで読まれる使徒書簡(新約聖書) “the Epistle” は夫と妻の関係( “the relations between husband and wife” )をキリストと彼の(体〈からだ〉たる)教会(=カトリック教会. “ those between Christ and his Church” )の関係に例えています.その書簡の一句(エフェゾ人への手紙,5章22-23節)(訳注後記)で注目に値(あたい)するのは,聖パウロが婚姻(こんいん)の結果生じる夫の責務(せきむ)について長々と記述しているのに対し妻のそれについては手短にしか記していないということです.すでに私たちは,現代の男女関係が健全性を喪失(そうしつ)してしまったのは今日の男性に大きな責任があるのではないかと疑い得るのですが,この超自然的な神秘についての話は別の機会に残すとして菜園の話に戻りましょう.というのも,今日,神と人間にとっての諸々の敵たちが攻撃の対象としているのはまさしく人間性の本質だからです.

トマトの支柱がトマトの苗に役立つためには二つのことが必要です.支柱は高くなければならず “must stand tall”,しかもしっかりと立っていなければなりません “must stand firm”.もし支柱が高くなければ,苗は高くよじ登ることができません.しっかりと揺らがずに立っていなければ,苗はそれにしがみついたり巻きついたりできません.まさしく,男性の堅固(けんこ)さ “The firmness” は彼がどれほど仕事に没頭(ぼっとう)しているかによって決まる( “depends on a man’s wrapping himself around his work” )一方,その高さ “the tallness” は彼がどれほど神の域(いき)に達(たっ)しようとしているか( “depends upon his reaching for God” =より高い理想を見据(す)えているか、目指しているか)によって決まります.

堅固さについて言えば,いつの時代,どの場所にあっても人間性への認識が歪(ゆが)んでいない限り,男性の生活は彼の仕事を中心に展開するのに対し女性の生活は夫をはじめとする家族を中心に展開するものです.もし男性が自分の生活の中心に女性を置くなら,それはちょうど二本のトマトの苗がともにしがみつきあっているようなものです.もし女性が男性の役割を受け入れなければ,二人ともぬかるみにはまって行き詰(ゆきづ)まりに終わるでしょう.それは女性が決してしてはならないことですし,少なくともそうしたいと望むことでもありません.賢(かしこ)い女性は自分の夫が仕事を見つけそれを愛する男性であることを選びます.そうすることで,夫が仕事に没頭している間,妻は夫に巻きついていることができるのです.

高さについて言えば,トマトの支柱が真っ直ぐ(まっすぐ)空に向(むか)っていなければならないように,男性も真っ直ぐ天国を目指していなければなりません.指導者は霊感を与えて元気づけたり先頭に立って導(みちび)くためのビジョン(=先を見通す眼,先見,展望,構想)を持っている必要があります.ルフェーブル大司教は真のカトリック教会の復興というビジョンを持っておられました.同様にピィ枢機卿Cardinal Pie (1815-1880)(訳注・ “Cardinal Louis-Édouard Pie”.フランス・ポワティエの司教.19世紀における聖伝カトリック信仰の熱烈な擁護〈ようご〉者)は,自分を取り巻く19世紀の男性たちの柔弱(にゅうじゃく)さを見たとき,その柔弱さは彼らの信仰の欠如(けつじょ)に起因(きいん)すると考えました.信仰が存在しなければ信念は存在しない,と彼は言いました.信念なしには堅固な人格は存在しません.人格の堅固さなしには男性は男性たり得ません.聖パウロが「すべての男性の頭(かしら)はキリストであり,女性の頭は男性であり,キリストの頭は神である」(コリント人への第一の手紙・第11章3節)(訳注後記)と語ったとき,彼は同じ線に沿(そ)って考えていました.そういうわけですから,男性の男らしさを回復するには男性を神に向かわせ,神の下に従わせることです.そうすれば,妻が夫の下に従い,子供たちが両親の下に従うことがはるかに容易になるでしょう.

だが「下に」という言い方は夫の妻に対する,あるいは両親の子どもたちに対するいかなる種類の暴虐(ぼうぎゃく)とも解(かい)すべきではありません.支柱はトマトのためにこそ存在しているのです.男性がその子供たちのためにできる最良のことは彼らの母親を愛することだと言ったのはある賢明(けんめい)なイエズス会士でした.男性は女性のように愛に走ることはないので,女性がどれほど愛すること,愛されることを必要としているかを簡単に忘れがちです.小さじ一杯分の愛情があれば彼女はさらに百マイル持ちこたえます.聖霊はこのことをもっと優雅(ゆうが)に言い表わしています.「夫たちよ,妻を愛しなさい,妻を苦々しくあしらってはならない」(コロサイ人への手紙・3章19節)(訳注後記).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第2パラグラフの訳注:
新約聖書・使徒聖パウロによるエフェゾ人への手紙:第5章22-23節(太字下線部分)(21-33節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE EPHESIANS, 5:22-23 (21-33)

家族の愛(5・22-33)
『キリストを恐れて互いに従え.

妻よ,主に従うように自分の夫に従え.キリストがその*¹体であり,それを救われた教会のかしらであるように,夫は妻のかしらである.教会がキリストに従うように,妻はすべてにおいて夫に従え.

夫よ,キリストが教会を愛し,そのために命を与えられたように,あなたたちも妻を愛せよ.
キリストが命を捨てられたのは,水を注ぐことと,それに伴(ともな)う*²ことばによって教会を清め聖とするためであり,また汚点(しみ)もしわもすべてそのようなもののない,輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった.
*³(28節)「そのように夫も自分の体のように妻を愛さねばならない.妻を愛する人は自分を愛する人である.(29節)だれも自分の体を憎む者はなく,みなそれを養い育む.
キリストも教会のためにそうされる.(30節)私たちは*⁴キリストの体の肢体だからである.
「*⁵(31節)これがために男は父と母を離れ,妻と合って二人は一体となる」.
*⁶この奥義は偉大なものである.私がそう言うのは,キリストと教会についてである.

あなたたちはおのおの自分の妻を自分のように愛せよ.妻もまたその夫を敬え.』

(注釈)

*¹ この「体」は教会である.

*² 洗礼文.

(28-31節)自然の愛だけではなく,信仰と愛に満ちたキリストの教える超自然の愛.

*³ ブルガタ訳,「その肉と骨で成り立っている」.

*⁴〈旧約〉創世の書2・24参照.

→創世の書からの引用:

『…神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた』(1章27節).

2章18節から
『…主なる神は仰せられた,「人間が一人きりでいるのはよくない.私は彼に似合った助け手を与えよう」.
主なる神は,地から野の獣と空の鳥とをつくり,人間のもとに連れてゆかれた.それは,人間がそのものを,どのように呼ぶかを見たいと思われたからだった.その生き物を人間がどう呼ぶか,その呼び方がそれらの名となるはずであった.

さて,人間はすべての家畜と,空の鳥と,野の獣とに名をつけたが,人間に似合った助け手はまだ見つからなかった.
そのとき,主なる神は人間を深い眠りに入らせた.人間は眠りに入った.
神は人間のあばら骨の一本を取りだし,肉をもとのように閉じた.

主なる神は人間から取りだしたあばら骨で女を作って,それを人間のもとに連れてゆかれた.そのとき,人間は言った,
「さて,これこそ,わが骨の骨,わが肉の肉.これを女(ヘブライ語でイシャ)と名づけよう.男(イシュ)から取りだされたものなのだから」.(2章18-23節)
だからこそ,人間は父母を離れて,女とともになり,二人は一体となる(2章24節).

*⁵ 婚姻が「偉大な奥義」なのは,それが教会とキリストの神秘的な関係をかたどるからである.


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第5パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコリント人への第一の手紙:第11章3節(太字部分)(1-16節を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE CORINTHIANS. 11:3 (1-16)

『私がキリストに倣(なら)っているように,あなたたちは私に倣え.
あなたたちがすべてのことについて私を思い出し,私の伝えたとおり,*¹伝えを守っていることに喜びを言おう.私はあなたたちに次のことを知ってもらいたい.*²すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である.

頭にかぶり物をして祈りや預言をする男はみな,その*³かしらを辱(はずかし)める.頭にかぶり物をしないで祈りや預言をする女もみなそのかしらを辱める.その女は剃髪(ていはつ)しているのと同じだからである.女がかぶり物をしないなら髪も切ればよい.神を切ったり剃(そ)ったりするのが女の恥であるなら,かぶり物をするがよい.

男は神のすがたであり光栄であるから,頭にかぶり物をしてはならぬ.女は男の光栄である.
男が女から出たのではなく,女が男から出たのであって,*⁴男が女のために造られたのではなく,女が男のために造られたからである.
そのため女は,*⁵天使たちのために,*⁶権威に服するしるしを頭にかぶらねばならぬ.
といっても*⁷主においては,男なしでは女もなく,女なしでは男もない.
女が男から出たように男は女から生まれ,そしてすべては神から出る.

あなたたちは自ら判断せよ.女がかぶり物なしで神に祈るのはよいことであろうか.
自然そのものも教えているではないか.男が長い髪をしているのは恥であって、女が長い髪をしていれば誇りであることを.女の神はかぶり物として与えられたからである.
だれかこれについて抗弁しようとするなら,私たちにはそういう習慣はなく,神の諸教会にも例がないと答えたい.』

(注釈)

*¹ 「伝え」とは初代教会の聖伝の教えのことである.

*² キリスト教的社会における階級.女性の服従の理由は,神の創造にある.しかし,その順序は,徳ではなく単に権威のことだけである.

*³ かしらの意味にも,頭の意味にもとれる.

*⁴ 〈旧約〉創世の書2・22-23参照.

*⁵ 創世の書6・2.ユダヤ系の偽典書に基づけば,昔のある学者は,この「天使」が天から落ちた天使のことだと言っていた.また,信者の集会のかしらの意味にとった人もあった.
しかしこの天使は,信者の集会のとき,祈りを神の座まで運ぶ(〈新約〉黙示録8・3,エフェゾ人への手紙3・10)よい天使のことと思われる.

*⁶ ここでは自分に対する他人の権利のこと.

*⁷男も女も不完全なもので,主のみ前にあっては平等である. 』


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第6パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコロサイ人への手紙:第3章19節(太字下線部分)(18-21節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE COLOSSIANS, 3:19 (3:18-21)

『*¹妻たちよ,主にふさわしいように自分の夫に従え.
夫たちよ,妻を愛せよ,苦々しくあしらうな.
子どもたちよ,すべて両親に従え.それは主に喜ばれることである.
父達よ、子どもを怒らせるな.彼らを落胆させないためである.』

(注釈)

家庭の人たちに(3・18-)
*¹ この節(18節)以下にキリストの愛という見地に立って生きる自然倫理が説かれる(エフェゾ5・22).

(→エフェゾ5章22節)
『妻よ,主に従うように自分の夫に従え.』


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2011年11月7日月曜日

225 陰謀説 (11/5)

エレイソン・コメンツ 第225回 (2011回11月5日)

神殺し "deicide" について述べた最近の「エレイソン・コメンツ」(第222回)に続き,一部の読者は「エレイソン・コメンツ」が世界情勢でユダヤ人が果たす役割について頻繁(ひんぱん)に言及(げんきゅう)するのをお望みかもしれません.だが,その人たちは失望する恐れがあります.私がこれまでに取り上げてきた225件の諸問題の中で,ユダヤ人を名指(なざ)しで取り上げたのは6回を大幅に超えてはいないと思います.というのも,ユダヤ人にからむ問題の有無にかかわらず,彼らは決して主要な問題ではないからです.最大の問題は現代人が神を信じないことにあるのであり,私はそのことが「エレイソン・コメンツ」の主要な懸念(けねん)だということを大部分の読者の皆さんに理解していただければと望んでいます.

陰謀(いんぼう)説 “Conspiracy theories” ,すなわちユダヤ人が世界制覇を企(たくら)んでいる "conspiring to dominate the world" といった陰謀説は現在も存在していますが,そこにはふたつの誇張(こちょう)があり,その間の正しいバランスを保つことが賢明(けんめい)なのですが容易(ようい)にできることではありません.ほとんどの人々はあらゆる陰謀説はナンセンスで,それを信じる人々は「陰謀オタク」 “conspiracy nuts” だけだとするマスメディアの見方に従っています.他方で,少数派の人々は強い確信をもって,あらゆる世界の出来事は何らかの陰謀,とりわけユダヤ人の陰謀により説明されると考えています.1800年前の一人の著名なカトリック作家 “a famous Church writer” が本質的な真理をもっとも正しく語っています.

テルトゥリアヌス “Tertullian” (160-220年) はカトリック信仰とユダヤ人の権力は秤(はかり)のふたつの天秤皿(てんびんざら)に似ていると言いました.カトリック信仰が上がるにつれてユダヤ人権力が下がり,カトリック信仰が下がるとユダヤ人権力が上がるというわけです.だが,カトリック信仰は権力に勝(まさ)るものです.主要な問題がユダヤ人ではなく,人々の間のカトリック信仰の増減(ぞうげん)如何(いかん)にあるというのはそのためです.だからこそ諸々の陰謀が確かに存在するのであり,それは重要な役割を果たしており単に軽視して済ませるべきではありません.しかし,主要な問題は人々が唯一の真の教会(訳注・=カトリック教会)におられる真の神に背を向けていることにあるのです.手短に言えば - ここが重要なポイントです - ユダヤ人の権力が今日これほど強大であるとすれば,その責任はユダヤ人以外の人々(=非ユダヤ人) “the Gentiles” 自身にあるのです.

したがって,とりわけディズレーリ “Disraeli” (英国首相)とウッドロー・ウィルソン“Woodrow Wilson” (米国大統領)が暗にほのめかしながらもほとんど公言できなかったこと,すなわち世界の出来事を差配(さはい)する様々な場面の背後では一つの闇の権力が働いているということを理解し始めた人は誰でも,照明派(光明会)(訳注・原語 “the Illuminati”. イルミナティ.秘密結社)(訳注後記),ユダヤ人,フリーメーソンなどをのろう際にバランス感覚を失わないよう気をつけ,教皇ピオ10世 “Pius X” が言われた「誰もが自分の義務を果たすようになれば,すべてが良い方向にいく」という言葉の持つ知恵を正しく理解するようにしましょう.なぜならモーゼの十戒の第一戒が示すように,私たちの第一の義務は神に対するものであり,もし私たちすべてが自分の義務を果たし神に立ち帰るなら,神にとってさまざまな敵たちが現在振るっている権力を阻(はば)もうと介入することなしに元に戻すことはいとも簡単なこととなるからです.そうした敵を彼らが最初にいた場所に留め置けるのは神だけです.

こういうわけで,1917年に聖母マリアがポルトガルのファティマ “Fatima” にご出現になる前には,反カトリック主義者たち “the anti-Catholics” がポルトガル政府を完全に支配下に置いていましたが,ポルトガル国民のほぼ全体が聖母マリアの望みどおり祈りと償(つぐな)いを捧げたとき、聖母は反カトリック主義者たちの権力を無血の革命のうちにたやすく解消させてしまわれました.世界各地で共産主義が勝利を収(おさ)め誰もが神を信じなくなっていた20世紀において,ポルトガルはカトリック国家の見本となったのです.

神の敵のなかで最も賢明なものは,自分たちが神に役立つのは神に不誠実な人々の背中に災難のもとを振りかけることだとよく知っています.もし神の友が自分たちが敵から災難を負わされているのは全ての霊魂が神に目を向け天国に入れるようになるためだと理解しさえすれば,諸々の陰謀説はすべてそれが持つ実際の重要さより重すぎも軽すぎもしない場所に落ちることでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて,
リチャード・ウィリアムソン司教


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第4パラグラフの訳注:
照明派(光明会) “the Illuminati” 「イルミナティ」について.

1776年バイエルン(Bavaria)の大学教授だった元イエズス会士アダム・ワイズハウプトによって創設された秘密団体.クニッゲの協力のもとにキリスト教に代る啓蒙主義的自由思想ないし理性宗教を広めようとした.会員は「完全可能者」と呼ばれたが,盛時でも2000人をこえなかった.ゲーテ,ヘルダーらもその会員であったといわれている.85年無政府主義的傾向のためバイエルン政府の手で禁圧された.
(ブリタニカ国際大百科事典参照)

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2011年11月5日土曜日

224 不良金融 -1- (10/29)

エレイソン・コメンツ 第224回 (2011回10月29日)

差し迫った世界金融の崩壊,もしくは,その崩壊が意図した世界政府設立に向けた世界金融の到来(原文 “…the advent of global finance on the way to global government which that collapse has been designed to bring on, …” )という局面を見て人々は「一体どうしてこんな混乱に陥ったのか,どうしたらそこから脱出できるのだろうか? 」と考えさせられることでしょう.もし全能の神がこのような深刻な危機に一役買っておられるのだとすれば,神は当然事態をあまり深刻には受け止められず,心地よい日曜日の気晴らし程度にお考えでしょう.だが反対に,中世の教会を建築した人たちが明らかに考えたように,神がこの危機に重要な役割を果たしておられるとすれば,神を無視することは今日のように金融が現実を打ち負かせていること(原文 “today’s triumph of finance over reality” )に大きな役割を果たしていることになるでしょう.

今日の災難がどこから始まったかを理解するには,どうしても中世時代に遡(さかのぼ)る必要があります.中世の絶頂期以降にカトリック教の信仰が低下し始めるとともに,人々は生活のもう一つの大きな動機付けである富( “Mammon”,かね)への関心を募(つの)らせるようになりました(マテオ聖福音書6・24)(訳注後記).かくして,財貨およびサービスの交換で召使("servant",使用人)の役をするはずのお金が,その本来の性質を離れ,世界経済の主("master",あるじ,主人)である近代金融へと姿を変えてしまいました.このプロセスの中で,あらゆる分野で山のように膨(ぼう)大な支払い不能な負債が発生したり,世界を目に見える銀行もしくはそれを陰で操(あやつ)る目に見えない管理者たちの奴隷にしていますが,ここでカギとなる役割を果たしているのは中世以降に広まった小額準備金銀行(原文: “fractional reserve banking” )制度です.

お金が経済に役立つとなると,賢明な国家は流通するお金の全体量を自国経済で交換される財貨の全体量に合わせて上下させ,お金の価値が安定するように努めます.財貨の供給が少ないのにお金が多すぎればインフレによってお金の価値は下がります.逆に,財貨供給が多いのにお金の流通量が少なすぎると,デフレでお金の価値が上昇します.どちらになっても,お金の価値が変動し財貨の交換を不安定なものにしてしまいます.さて,預金者がお金を預ける銀行はどう行動するでしょうか.現金( “real money” )のわずかな部分だけを準備金として残し,はるかに大量の流通紙幣( “paper money” )を支えればいいと考えます.そして,流通紙幣の量を増減させることによってお金の価値を操作し,安いお金を貸し出し高いお金の返済を求めて大金を儲けます.このようにして金融業は国家から支配権を奪うことが可能になります.

もっとひどいことに,小額準備銀行システムで銀行がお金を実社会から切り離し,それを意のままに変える( “fabricate”.=でっち上げる,ねつ造する)ことができ,さらに保有するおかしなお金( “funny money” )にわずかなりとも複利をかけることができるとすれば,経済からあらゆる実価値( “real value” )を吸い上げることが理論的に可能ですし,実際にそのように行動します.銀行は預金者を借り手に,大半の借り手を絶望的な借金奴隷,住宅ローン奴隷に陥(おとしい)れ,自らの利益のために金の卵を産むガチョウを完全に殺さない程度(ていど)に面倒を見るだけです.神の啓示を受けた律法(神授の法)授与者モーゼの知恵は,全ての貸し手の権限を抑(おさ)えるため負債はすべて7年ごとに棒引(ぼうび)きにする(第二法〈申命〉書 15・1-2参照),あらゆる資産は50年ごとに元の持ち主に戻す(レビ書15・10参照)こととする,と定めました! (訳注後記)

偉大な神の人であり神よりの深い霊性を湛(たた)えたモーゼが,このように物質的な諸問題にまで関心を寄せたのはなぜでしょうか? それは,荒廃した経済が人々を絶望に追いやり,神から引き離し地獄に向けさせるからです - 今日,それより明日がどうなるかあなたの周(まわ)りを見渡してください - 経済がうまくいけば,拝金主義( “worships Mammon” )などが幅をきかせない賢明な繁栄が可能になり,人々が神の善意を信じ神を崇拝し愛することがもっと容易になるでしょう.人はしょせん霊魂と肉体から成るものなのです.(訳注後記)

モーゼならきっと小額準備銀行システムなど粉砕(ふんさい)したでしょう.ちょうど彼が金の子牛 “Golden Calf” をこなごなに砕(くだ)いたように.(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第2パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第6章24節

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第4パラグラフの2つの訳注:

①旧約聖書・第二法の書:第15章1-2節
②同・レビの書:第15章10節

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第5パラグラフ最後の訳注:
「人はしょせん霊魂と肉体から成るものなのです.」について.

人間は霊魂だけでなく,身体も一緒にかかえて生きているので,生きていく為には実生活面(経済)のケアも必要なのだ,という意味合い.

→主祷文〈主の祈り〉から…
・「…我らの日用の糧を今日我らに与え給え.」…経済面のケア
・「我らが人に赦すごとく我らの罪を赦(ゆる)し給え.我らを試みに引き給わざれ.我らを悪より救い給え.」…霊魂のケア

→新約聖書・マテオ聖福音書:第6章24-33節参照.

(31節から〈33節…太字〉)
『…何を食べ,何を飲み,何を着ようかと心配するな.それらはみな異邦人(=不信心な人)が切に望むことである.天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる.だから,まず神の国とその正義を求めよ.そうすれば,それらのものも加えて与えられる.明日のために心配するな.明日は明日が自分で心配する.一日の苦労は一日で足りる.』

* * *

第6パラグラフの訳注:
「金の子牛 “Golden Calf” 」について:

旧約聖書・脱出の書:第32章を参照.
(エジプトを脱出してきたイスラエルの民は,預言者モーゼの留守中に金の子牛をつくり祭壇を設けてその鋳物の子牛を民を導く神として拝んだ.)

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引用されている聖書の箇所は後から追加いたします.

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