2014年10月18日土曜日

379 裏話 I 10/18

エレイソン・コメンツ 第379回 (2014年10月18日)

    1917年,教会と世界の救済(「平和な時期の到来」)は二つの事が実現するかどうかにかかっていると,ファティマの聖母( "Our Lady of Fatima" )が世界に向けて明らかにされました:( "In 1917 it was made clear to the world by Our Lady of Fatima that the salvation of Church and world ( “a period of peace” )depended upon two things: …" )(せん きゅうひゃく じゅうしち〈なな〉ねん,きょうかいと せかいの きゅうさい〈「へいわな じきの とうらい」〉は ふたつの ことが じつげん するか どうかに かかっていると,ふぁてぃまの せいぼが せかいに むけて あきらかにされました.)(すなわち): 一つは,世界中の司教たちと一つになった(=一致した)(ローマ)教皇によってロシアが聖母に奉献されること,のみならず( "… not only upon the Consecration of Russia to her Immaculate Heart by the Pope with all the bishops of the world, …" )(ひとつは,せかいじゅうの しきょう たちと ひとつに なった〈=いっちした〉〈ろーま〉きょうこうに よって ろしあが せいぼに ほうけんされる こと,のみならず,),もう一つ,カトリック教徒たちが悔悛の秘跡( "Confession" )と聖体の秘跡( "Communion" )を受け,毎月第1土曜日毎に15分間黙想し( "meditating" )聖母マリアへロザリオの祈り( "a rosary" )を捧げることにより聖母に罪の償い( "reparation" )を果たすこと,という二つの事が実現するかどうかにかかっています( "… but also upon Catholics making reparation to her Heart by receiving Confession and Communion and by meditating for 15 minutes and praying a rosary on each first Saturday of the month." )(もうひとつ,かとりっくきょうと たちが かいしゅんの ひせきと せいたいの ひせきを うけ,まいつき だいいち どようび ごとに じゅうごふん かん もくそうし せいぼ まりあへ ろざりおの いのりを ささげる ことに より せいぼに つみの つぐのい〈つぐない〉を はたすこと,という ふたつの ことが じつげん するか どうかの ふたつの ことに かかって います.).従って,カトリック信徒は誰一人教会と世界を現在の恐ろしい危機状態から救い出す事など出来ないと考えないでください( "Therefore let no Catholic think that there is nothing they can do to help Church and world out of their present appalling crisis." )(したがって,かとりっくしんとは だれひとり きょうかいと せかいを げんじつの おそろしい きき じょうたい から すくいだす こと など できないと かんがえないで ください).カトリック信徒が一人でもファティマの聖母の第1の願いに応えるなら,教皇が第2の願いに応える一助になるでしょう( "Every single Catholic responding to her second request will help the Pope to respond to her first request." )(かとりっく しんとが ひとりでも ふぁてぃまの せいぼの だいいちの ねがいに こたえる なら,きょうこうが だいにの ねがいに こたえる いちじょと なるでしょう.)

    だが,教皇による第2の願いへの対応はいまだに不十分です( "But this response has not yet been sufficient. For instance in the 1930's, …" ).たとえば,教皇ピオ11世は1930年代すでに聖母の第1の願いについて十分気づいていましたが( "… Pope Pius XI was well aware of Our Lady's first request, …" ),ロシアの奉献を実行しませんでした( "… but he never performed the Consecration of Russia." ).何故でしょうか?( "Why not ? " )(だが,きょうこうに よる だいにの ねがい への たいおうは いまだに ふじゅうぶん です.たとえば,きょうこう ぴお じゅういっせいは せん きゅうひゃく さんじゅう ねんだい すでに せいぼの だいいちの ねがいに ついて じゅうぶん きづいて いましたが,ろしあの ほうけんを じっこう しません でした.なぜ でしょうか?)聖トリニティーの兄弟(同胞・ブラザー)マイケル( Brother Michael of the Holy Trinity )の秀作「ファティマについての全真相」 "The whole Truth about Fatima" 全3巻の第2巻にある記述によれば( "According to Brother Michael of the Holy Trinity in the second of his excellent three volumes on The whole Truth about Fatima, …" ),教皇ピオ11世は当時モスクワのロシア権力者と外交的接触を図っており( "…it was because Pius XI was engaged at that time in diplomatic contacts with the Russian authorities in Moscow, …" ),共産主義者たちとやり取りするには自らの外交の方が聖母のいうロシアの奉献より良い方法だと考えていたからです( "…and he thought that his own diplomacy was a better way of dealing with Communists than Our Lady's Consecration." )(せい とりにてぃー の きょうだい〈どうほう・ぶらざー〉まいけるの しゅうさく「ふぁてぃまに ついての ぜん しんそう」ぜん さんかんの だい にかんに ある きじゅつに よれば,きょうこう ぴお じゅういっせいは とうじ もすくわの ろしあ けんりょくしゃと がいこうてき せっしょくを はかって おり,きょうさん しゅぎしゃと やりとりする には みずからの がいこうの ほうが せいぼ の いう ろしあの ほうけん より よい ほうほう だと かんがえて いたから です). 教皇はこの問題を天与の方法でなく人間的な方法で処理しようとしたわけですが( "He preferred the human to the divine way of dealing with the problem, …" ),無論この時は問題が未解決のまま残りました( "… and so of course the problem remained unsolved." ).世界は第二次世界大戦に突入し( "The world plunged into World War II, …" ),教会は第二バチカン公会議により内部崩壊しました( "… and the Church was broken from within by Vatican II. " ).(きょうこうは この もんだいを てんよの ほうほう でなく にんげん てきな ほうほうで しょり しようと した わけですが,むろん この ときは もんだいが みかいけつの まま のこりました.せかいは だい にじ せかい たいせんに とつにゅうし,きょうかいはだいに ばちかん こうかいぎ により ないぶ ほうかい しました.)

    2010年代になると,ファティマの聖母が使者(女性)を通してロシアの奉献実現に向けて神の恩寵を祈願する為(聖母マリアへの)ロザリオ祈願(祈祷)によって組織された十字軍による聖戦(以下,「ロザリオ聖戦」と記す)( a Rosary Crusade )を組織してほしいと聖ピオ十世会( SSPX )のフェレー司教( "Bishop Fellay for the Society of St Pius X" )に要請するという同じ様な話が表面化します( "Now in the 2010's a parallel story has been coming to light of Our Lady appealing through a messenger to Bishop Fellay for the Society of St Pius X to organize a Rosary Crusade to pray for the Consecration of Russia to take place." )(にせん じゅうねん だいに なると,ふぁてぃまの せいぼが ししゃ〈じょせい〉を とおして ろしあの ほうけん じつげんに むけて かみの おんちょうを きがん する ため〈せいぼ まりあ への〉ろざりお きがん〈きとう〉に よってそしき された じゅうじぐん による せいせん〈いか,「ろざりおせいせん」と しるす〉を そしき してほしいと せい ぴお じゅっせい かいの ふぇれー しきょうに ようせい する という おなじような はなしが ひょうめんか します).もしこの話が本当なら(私は本当だと信じますし,他の数人の司祭たちもそう信じています),エレイソン・コメンツに何回かに分けてご紹介するに値するでしょう( "If this story is true (as I believe it is, and some other priests also believe), it is worth telling in a few issues of these “Comments”, …" ).私の意図はフェレー司教の信用を落とす事などでなく(彼が人間的な手段を選んだことはピオ11世の時と同じ様に理解できます――それでよかったかどうかは神が判断されることです)――ロシアの奉献,とりわけ百年経ったとはいえ,第1土曜日に5週連続で行う敬虔な祈りがいかに大事な事なのかを強調する為です( "… not to discredit Bishop Fellay (whose preference for human means is as understandable as that of Pius XI – God is their judge), but in order to emphasize how urgent the Consecration of Russia remains, and especially the devout practice of the five first Saturdays, even nigh on 100 years later." )(もし この はなしが ほんとう なら〈わたくしは ほんとうだと しんじます し,ほかの すうにんの しさいたちも そう しんじて います〉,えれいそん・こめんつに なんかいか に わけて ごしょうかい するに あたい する でしょう.わたくしの いとは ふぇれー しきょうの しんようを おとす こと などで なく〈かれが にんげん てきな しゅだんを えらんだ ことは ぴお じゅういっせい の ときと おなじ ように りかい できます――それで よかったか どうかは かみが はんだん される こと です〉――ろしあ の ほうけん,とりわけ ひゃくねん たった とはいえ,だいいち どようびに ごしゅう れんぞくで おこなう けいけんな いのりが いかに だいじな こと なのかを きょうちょう するため です).だが,そもそもこの話は本当なのでしょうか? とりわけ,ファティマの聖母の使者はどの程度信頼できるのでしょうか?( "But is the story true ? In particular, how reliable is the messenger ? " )(だが,そもそも この はなしは ほんとう なのでしょうか? とりわけ,ふぁてぃまの せいぼの ししゃは どのていど しんらい できる のでしょうか?)

    私自身,この使者に何回か会ったことがありますが,彼女の話はどうみても本当の事だと信じます( "I myself have met with her several times, and I believe her story has every likelihood of being true, …" )(わたくし じしん,この ししゃに なんかいか あった ことが ありますが,かのじょの はなしは どうみても ほんとうの ことだと しんじます).第1の理由は彼女が如何にも真実を話すという印象を与える真面目な成人だということ( "… firstly because she is a serious adult person who gives every sign of telling the truth, …" ),それよりも彼女の話す事が多くの公になった事実や云わばいわば外面的に広く知られた出来事に一致するというのが主な理由です( "… but mainly because what she tells is an inside story that corresponds to, and explains, a large number of public facts and well-known events on the outside, so to speak." )(だいいちの りゆうは かのじょが いかにも しんじつを はなす という いんしょうを あたえる まじめな せいじんだ ということ,それよりも かのじょの はなす ことが おおくの おおやけに なった じじつや いわば がいめん てきに ひろく しられた できごとに いっち すると いうのが おもな りゆう です).この使者について読者の皆さんが私の個人的な判断を疑われるのはご自由です( "As to the messenger, readers are entitled to distrust my personal judgment, …" ).だが,裏話と外面的事実の一致については読者自身で判断できることです( "… but as to the perfect correspondence between inside story and outside facts, readers can judge for themselves." )(この ししゃに ついて どくしゃの みなさんが わたくしの こじん てきな はんだんを うたがわれる のは ごじゆう です.だが,うらばなしと がいめんてき じじつの いっちに ついては どくしゃ じしんで はんだん できる こと です)

    この話は聖母マリアがその使者の前にお現れになり, SSPX のフェレー司教に伝えるメッセージを与えた2004年のよき牧者の主日(御復活後第二の主日) "Good Shepherd Sunday" (訳注後記 5-1 )に始まります( "The story begins on Good Shepherd Sunday of 2004, when the Blessed Virgin Mary appeared to the messenger and gave her a message to be passed on to the Bishop of the Society of St Pius X." )(この はなしは せいぼ まりあが その ししゃの まえに おあらわれに なり,せい ぴお じゅっせい かい〈えすえすぴーえくす〉の ふぇれー しきょうに つたえる めっせーじを あたえた にせんよねんの よき ぼくしゃの しゅじつ〈ごふっかつご だいにの しゅじつ〉にはじまります).メッセージの中で,聖母マリアは SSPX に対しロシアの奉献のためのロザリオ聖戦に加わる忠実な信者たちを導くようお頼みになりました( "In it she asked for the SSPX to lead the faithful in a Rosary Crusade for the Consecration of Russia to her Immaculate Heart, …" )(めっせーじの なかで,せいぼ まりあは せい ぴお じゅっせい かいに たいし ろしあの ほうけんの ための ろざりお せいせんに くわわる ちゅうじつな しんじゃたちを みちびくよう おたのみに なりました).これは天が1920年代から求めて来たものと同じ奉献です( "… that same Consecration that Heaven has been asking for since the 1920's." )(これは てんが せん きゅうひゃく にじゅう ねん だい から もとめて きた ものと おなじ ほうけん です).もしこれが聖母マリアの求められた通り実現すれば,ロザリオ聖戦は彼女を通してロシアの奉献をもたらす恩寵を遂に得るだろうというのが2000年代における理解です( "The understanding in the 2000's was that if this were done as she asked, it would at last obtain, through her, the graces to bring about the much needed Consecration." )(もし これが せいぼ まりあの もとめられた とおり じつげん すれば,ろざりお せいせんは かのじょを とおして ろしあの ほうけんを もたらす おんちょうを ついに える だろうと いうのが にせん ねん だいに おける りかい です)

    2006年6月,使者は聖母のメッセージをフェレー司教に直に伝えました( "In June of 2006 the messenger gave the message in person to Bishop Fellay." )(にせん ろくねん ろくがつ,ししゃは せいぼの めっせーじを ふぇれー しきょうに じかに つたえました).司教は彼女とメッセージについて話し合いましたが,彼はこの時それが実際には神の御母( "the Mother of God" )(=聖母)からのご指示だとは知りませんでした( "He discussed it with her, but did not yet know that it was in fact a directive from the Mother of God." ).司教はスイスへ戻る途中で彼の最初の重要な決断を下しました( "And so on his way back to Switzerland he took a first important decision. " )(しきょうは かのじょと めっせーじに ついて はなしあい ましたが,かれは このとき それが じっさいには かみの おんはは〈せいぼ〉からの ごしじ だとは しりません でした.しきょうは すいすへ もどる とちゅうで かれの さいしょの じゅうような けつだんを くだし ました).アメリカ人が好んで言うように,これから先の話をお楽しみに!( "As Americans say, “Stay tuned” ! " )(あめりか じんが このんで いうように,これから さきの はなしを おたのしみに!)

    キリエ・エレイソン.

    もしマリアさまが
    私たちに
    教会をどう救うか
    告げられるとすれば,
    (もし マリア さまが
    わたくし たちに
     きょうかいを どう すくうか
    つげられる とすれば,)

    ( "If Mary tells us
     how to save the Church, …" )

    私たちは
    それ以外の
    どの方法を選んでも
    見捨てられることになるでしょう.
    (わたくしたちは
    それいがいの
    どのほうほうをえらんでも
    みすてられることになるでしょう.)

    ( "All other means
     will leave us in the lurch." )

    リチャード・ウィリアムソン司教




* * *


訳注 5-1
「よき牧者の主日」
"Good Shepherd Sunday"

・= 神の御独り子・救世主(キリスト/メシア)
主イエズスの
御復活(=イースター)後の第二の主日
(=日曜日)」

・「本日は,『よき牧者の主日』といわれていた.
なぜなら,この日,教区会議が行われていたからである.
従って,本日は特に,長上に対する,あるいは目下に対する
義務のことが語られる.
そして,その最高の模範として,牧者なるキリストが示される.」
(ローマ・毎日のミサ典書〔1957年〕「御復活後第二の主日ミサ聖祭」解説より)

・この日の聖福音「聖ヨハネによる聖福音の続誦(第10章11-16節)」 が由来.

(「トレント公会議 "The Council of Trent (1545–63)" 式典礼
によるローマ・ミサ聖祭」

=「教皇ピオ5世 "Pope Pius V(英語)/Summi Pontifices Pius V(ラテン語) (1566-1572)" のミサ聖祭 (1570-1962)」

=「聖なる伝承(聖伝)の典礼( "Traditional liturgy" )によるミサ聖祭」)

・EC 379 で引用されている聖福音の掲載:

聖ヨハネによる聖福音の続誦(第10章11-16節)(1-21節を掲載予定)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO SAINT JOHN X, 11-16 (1-21)(英)
EVANGILE SELON SAINT JEAN X, 11-16 (1-21)(仏)
EVANGELIUM SECUNDUM IOANNEM X, 11-16 (1-21)(羅)

1節 (verse/verset)
『「まことにまことに私は言う.羊の柵(さく)の中に門からはいらず,ほかの所から乗り越えてくる者は,盗人(ぬすびと)であり,強盗(ごうとう)である.
"AMEN, amen I say to you: He that entereth not by the door into the sheepfold, but climbeth up another way, the same is a thief and a robber.
"En vérité, en vérité, je vous le dis, celui qui n'entre pas par la porte dans la bergerie, mais qui y monte par ailleurs, est un voleur et un brigand.
"Amen, amen dico vobis: qui non intrat per ostium in ovile ovium, sed ascendit aliunde: ille fur est, et latro.

2
門から入るのは羊の牧者である.
But he that entereth in by the door is the shepherd of the sheep.
Mais celui qui entre par la porte est le berger des brebis.
Qui autem intrat per ostium, pastor est ovium.

3
門番は彼のために門を開く.羊は彼の声を聞き,彼は自分の羊一頭ずつの名を呼んで外に引き出す. 
To him the porter openeth; and the sheep hear his voice: and he calleth his own sheep by name, and leadeth them out.
Le portier lui ouvre, et les brebis entendent sa voix; il appelle par leur nom les brebis qui lui appartiennent, et il les conduit dehors.
Huic ostiarius aperit, et oves vocem eius audiunt, et proprias ovas vocat nominatim, et educit eas.

4
全部を引き出すと,彼は羊に先立ち,羊はそれについていく.羊は彼の声を知っているからである.
And when he hath let out his own sheep, he goeth before them: and the sheep follow him, because they know his voice.
Lorsqu'il a fait sortir toutes ses propres brebis, il marche devant elles; et les brebis le suivent, parce qu'elles connaissent sa voix.
Et cum proprias oves emiserit, ante eas vadit: et oves illum sequuntur, quia sciunt vocem eius.

5
*羊はほかの人にはついていかず,遠くへ逃げてしまう.ほかの人の声を知らないからである」.
But a stranger they follow not, but fly from him, because they know not the voice of strangers.
Elles ne suivront point un étranger; mais elles fuiront loin de lui, parce qu'elles ne connaissent pas la voix des étrangers.
Alienum autem non sequuntur, sed fugiunt ab eo: quia non noverunt vocem alienorum.

6
イエズスはこうたとえを話されたが,彼らはそれが何の話だかわからなかった.
This proverb Jesus spoke to them. But they understood not what he spoke to them.
Jésus leur dit cette parabole, mais ils ne comprirent pas de quoi il leur parlait.
Hoc proverbium dixit eis Iesus. Illi autem non cognoverunt quid loqueretur eis.

7
またイエズスは、言われた,「まことにまことに私は言う.私は羊の門である.
Jesus therefore said to them again: Amen, amen I say to you, I am the door of the sheep.
Jésus leur dit encore: En vérité, en vérité, je vous le dis, je suis la porte des brebis.
Dixit ergo eis iterum Iesus: Amen, amen dico vobis, quia ego sum ostium ovium.

8
*私より前に来た者はみな盗人で強盗である.羊は、彼らの言うことを聞かなかった.
All others, as many as have come, are thieves and robbers: and the sheep heard them not.
Tous ceux qui sont venus avant moi sont des voleurs et des brigands; mais les brebis ne les ont point écoutés.
Omnes quotquot venerunt, fures sunt, et latrones, et non audierunt eos oves.

9
私は門である.私を通って入る者は救われ,出入りして牧草を見つけるだろう.
I am the door. By me, if any man enter in, he shall be saved: and he shall go in, and go out, and shall find pastures.
Je suis la porte. Si quelqu'un entre par moi, il sera sauvé; il entrera et il sortira, et il trouvera des pâturages.
Ego sum ostium. Per me si quis introierit, salvabitur: et ingredietur, et egredietur, et pascua inveniet.

10
盗人は盗み,殺し,滅ぼすためにだけ来る.私は羊たちに*命を,豊かな命を与えるために来た.』
The thief cometh not, but for to steal, and to kill, and to destroy. I am come that they may have life, and may have it more abundantly."
Le voleur ne vient que pour dérober, égorger et détruire; moi, je suis venu afin que les brebis aient la vie, et qu'elles soient dans l'abondance. "
Fur non venit nisi ut furetur, et mactet, et perdat. Ego veni ut vitam habeant, et abundantius habeant."

11
*私は良い牧者で,良い牧者は羊のために自分の命を捨てる.
"I am the good shepherd. The good shepherd giveth his life for his sheep.
"Je suis le bon berger. Le bon berger donne sa vie pour ses brebis.
"Ego sum pastor bonus. Bonus pastor animam suam dat pro ovibus suis.

12
牧者でもなく,自分の羊をもたぬ雇い人は,狼(おおかみ)が来るのを見ると,羊を捨てて逃げ,羊はおおかみに奪われ,散らされる
But the hireling, and he that is not the shepherd, whose own the sheep are not, seeth the wolf coming, and leaveth the sheep, and flieth: and the wolf catcheth, and scattereth the sheep:
Mais le mercenaire, qui n'est pas le berger, et à qui n'appartiennent pas les brebis, voit venir le loup, abandonne les brebis, et prend la fuite; et le loup les ravit et les disperse.
Mercenarius autem, et qui non est pastor, cuius non sunt oves propriæ, videt lupum venientem, et dimittit oves, et fugit: et lupus rapit, et dispergit oves:

13
彼は雇い人で羊のことを心にかけぬ.
And the hireling flieth, because he is a hireling: and he hath no care for the sheep.
Le mercenaire s'enfuit, parce qu'il est mercenaire, et qu'il ne se met point en peine des brebis. Je suis le bon berger.
mercenarius autem fugit, quia mercenarius est, et non pertinet ad eum de ovibus.

14
私はよい牧者で,自分の羊を知り,私の羊もまた私を知っている.
I am the good shepherd; and I know mine, and mine know me.
Je connais mes brebis, et elles me connaissent,
Ego sum pastor bonus: et cognosco meas, et cognoscunt me meæ.

15
それは,父が私を知り,私が父を知っているのと同じである.こうして私は自分の羊のために命を捨てる.
As the Father knoweth me, and I know the Father: and I lay down my life for my sheep.
comme le Père me connaît et comme je connais le Père; et je donne ma vie pour mes brebis.
Sicut novit me Pater, et ego agnosco Patrem: et animam meam pono pro ovibus meis.

16
また私にはこの柵内(さくない)にいない*ほかの羊もある.私はそれらも連れていかねばならぬ.羊たちも私の声を聞き,一つの群れ,一人の牧者となるだろう.』
And other sheep I have, that are not of this fold: them also I must bring, and they shall hear my voice, and there shall be one fold and one shepherd."
J'ai encore d'autres brebis, qui ne sont pas de cette bergerie; celles-là, il faut que je les amène; elles entendront ma voix, et il y aura un seul troupeau, un seul berger."
Et alias oves habeo, quæ non sunt ex hoc ovili: et illas oportet me adducere, et vocem meam audient, et fiet unum ovile, et unus pastor."

17
父が私を愛されるのは,私が命をふたたび取りもどせるよう自分の命を与えるからである.
Therefore doth the Father love me: because I lay down my life, that I may take it again.
Le Père m'aime, parce que je donne ma vie, afin de la reprendre.
Propterea me diligit Pater: quia ego pono animam meam, ut iterum sumam eam.

18
その命は私から奪い取るものではなく,私がそれを与える.私にはそれを与える権威があり,また取りもどす権威もある.それは私が父から受けた命令である」.
No man taketh it away from me: but I lay it down of myself, and I have power to lay it down: and I have power to take it up again. This commandment have I received of my Father.
Personne ne me l'ôte, mais je la donne de moi-même; j'ai le pouvoir de la donner, et j'ai le pouvoir de la reprendre: tel est l'ordre que j'ai reçu de mon Père.
Nemo tollit eam a me: sed ego pono eam a meipso, et potestatem habeo ponendi eam: et potestatem habeo iterum sumendi eam: Hoc mandatum accepi a Patre meo.

19
またしてもこのことばのためにユダヤ人の間で意見が分かれ,
A dissension rose again among the Jews for these words.
Il y eut de nouveau, à cause de ces paroles, division parmi les Juifs.
Dissensio iterum facta est inter Iudæos propter sermones hos.

20
そのうちの多くは,「あの人は悪魔につかれて気が狂っている.なぜおまえたちはあんなことばを聞くのか」と言い,
And many of them said: He hath a devil, and is mad: why hear you him? Plusieurs d'entre eux disaient:
Il a un démon, il est fou; pourquoi l'écoutez-vous?
Dicebant autem multi ex ipsis: Dæmonium habet, et insanit: quid eum auditis?

21
中には,「あれは悪魔につかれた者のことばではない.悪魔に盲人の目があけられようか」と言う人もあった.
Others said: These are not the words of one that hath a devil: Can a devil open the eyes of the blind?
D'autres disaient: Ce ne sont pas les paroles d'un démoniaque; un démon peut-il ouvrir les yeux des aveugles?
Alii dicebant: Hæc verba non sunt dæmonium habentis: numquid dæmonium potest cæcorum oculos aperire?


(注釈)

*5 パレスチナには,公共の檻(おり)があって,夜になるとそこに畜獣を入れ,朝になるとおのおのの牧者が自分の羊を呼びに来る.羊たちは自分の主人の声を聞き分ける.

*8 ファリザイ人の律法学士を指す(マテオ聖福音書・第9章36節,第23章1-36節,マルコ聖福音書・第6章34節,ルカ聖福音書・第11章39-52節).

*10 永遠の命,これを豊かに与えるのはイエズスである(第3章16, 36節,5章40節,6章33, 35, 48, 51節,14章6節,20章31節,ヨハネ黙示録・第7章17節,マテオ聖福音書・第25章29節,ルカ聖福音書・第6章38節).

*11 自分の民の牧者である神は,メシアの時代に,選ばれた牧者を送られるはずであった.
「良い牧者」と名のるイエズスは,「メシア」だと宣言したのと同じである.

*16 「ほかの羊」は,将来教会に招かれるであろう異邦人を指す.
ユダヤ人の柵(さく)ではなく,永遠の命の柵に人々を入れるのは,イエズスの使命である.








* * *
(注:本投稿記事〈第379回エレイソン・コメンツ「裏話 I〈うらばなし いち〉 」〉は2014年11月13日‐14日に公開されました.)