エレイソン・コメンツ 第372回 (2014年8月30日)
現在ガザで進行中の(げんざい がざで しんこう ちゅう の)狂気について掘り下げた説明が欲しいと(きょうき について ほりさげた せつめいが ほしい と)思っているカトリック教徒は(おもって いる かとりっく きょうと は)旧約聖書にあるモーゼの言葉を読むと(きゅうやく せいしょに ある もーぜの ことばを よむと)いいでしょう( "If any Catholic seeks an in-depth explanation of the on-going madness in Gaza, he should read Moses in the Old Testament." ).たとえば,古代イスラエル人が(こだい いすらえる じんが)神の戒律(訳注後記1-1)を守らないとき(かみの かいりつを まもらないとき)多くの呪いを受ける(おおくの のろいを うける)ことになるが,その中(なか)でも彼(かれ)らはとりわけ「心の狂気,失明,激怒」(「こころの きょうき,しつめい,げきど」)( “madness and blindness and fury of mind” )に襲(おそ)われる(旧約聖書・第二法の書(申命):第28章28節)ことになります( "For instance, if the Israelites do not keep the commandments of God, they will be stricken with “madness and blindness and fury of mind” (Deut. XXVIII, 28), among many other curses." )(訳注後記1-2).メインビエーリェ神父(Fr Meinvielle)が述べた(めいんびえーりぇ しんぷが のべた)ように,ユダヤ人は聖書に基づく人種(ゆだやじんは せいしょに もとづく じんしゅ)であり( "As Fr Meinvielle said, the Jews are a theological race, …" ),その神学的な宿命から逃れる(しんがく てきな しゅくめい から のがれる)ことはできません ― ( "… and they cannot escape their theological destiny – …" ).彼らは現世の他の人々とは違い(かれらは げんせの ほかの ひとびと とは ちがい)神に固く結びついて(かみに かたく むすびついて)いるのです( "… they are bound to God like no other people on earth." ).
旧約聖書の(きゅうやく せいしょの)第二法の書(申命)(だいに ほうの しょ〈しんめい〉)( "Deuteronomy" 〈 ラテン語で "Deuteronomium" 〉)の中で,モーゼは(もーぜ は)古代イスラエル人たちに対し(こだい いすらえるじん たちに たいし)最後の厳粛な命令を与えます(さいごの げんしゅくな めいれいを あたえます).それは,イスラエル人(いすらえる じん)たちが約束の地に入る前(やくそくの ちに はいるまえ),モーゼが亡くなる前(もーぜが なくなる まえ)のことです( "In Deuteronomy Moses is giving to the Israelites their last solemn instructions before they enter the Promised Land, and before he dies." )(訳注後記2-1).モーゼは第二法の書第28章(レビの書:第26章に併記)(だいに ほう の しょ だい にじゅうはち しょう〈れびの しょ:だい にじゅうろく しょう に へいき〉)で,旧約聖書の神で新約聖書の神とも同じヤーウェ(Yahweh)(きゅうやく せいしょの かみで しんやく せいしょの かみ とも おなじ やーうぇ)の心の内を次のように明確に記し(こころの うちを つぎの ように めいかくに しるし)ています( "In Chapter 28 (parallelled by Levit. XXVI) Moses makes very clear the mind of Jehovah (or Yahweh), the God of the Old Testament, identical with the God of the New Testament: …" )(訳注後記2-2): ユダヤ人(ゆだや じん)たちは唯一真実の神に従うなら特別の祝福を受ける(ゆいいつ しんじつの かみに したがう なら とくべつの しゅくふくを うける)だろう(v. 1-14)( "… the Jews will be specially blessed (v.1-14) if they obey the one true God, …" ).神に従わないなら彼らは特別の呪いを受ける(かれらは とくべつの のろいを うける)だろう(v. 15-68)( "…they will be specially cursed (v. 15-68) if they disobey him." ).いずれにせよ,ユダヤ人は特別な民族(ゆだやじんはとくべつなみんぞく)で,唯一真実の神(ゆいいつ しんじつの かみ)について特別な知識を与え(とくべつな ちしきを あたえ)られており,その神(かみ)のために果たすべき特別な任務を帯びて(はたすべき とくべつな にんむを おびて)います( "Either way, they are a special race being given a special knowledge of the one true God for a special mission that they must fulfil for him, …" ).彼らがその任務をどう果たすかにより,神から特別な見返りか罰を受け(みかえりか ばつを うけ)ます( "… with a special reward or punishment from him, depending on how they fulfil that mission." ).
ユダヤ人たちが自(みずか)らを特別な人種(とくべつな じんしゅ)だと考(かんが)えるとしても何ら不思議(なんら ふしぎ)なことではありません!( "No wonder Jews think they are special ! " )モーゼが第二法の書の中(だいにほうの しょの なか)で神の彼らに対する祝福(しゅくふく)として挙(あ)げているものには以下(いか)のことが含(ふく)まれます( "Among the blessings listed here by Moses, …" ).神はユダヤ人たちを「他のあらゆる国民(こくみん)より高い」レベルに引き上げる(「ほかの あらゆる こくみんより たかい」レベルに ひきあげる)(V. 1)( "God will raise them “higher than all nations” (v.1); " ),「神御自身だけのための神聖な民族とする」(「かみ ごじしん だけの ための しんせいな みんぞくと する」)(v. 9)( " “to be a holy people unto himself” (v.9); " ),「尾ではなく頭」とする(「お ではなく あたま」とする)(v. 13)( "to be “the head and not the tail” (v.13). " ).だが以下に述べる通り(いかに のべる とおり),モーゼがこの三つの字句のなかで(もーぜが この みっつの じくの なかで),古代イスラエル人たちの優位性は彼らが神に忠誠かどうかで決まるとしている点に注目(こだい いすらえる じん たちの ゆういせいは かれらが かみに ちゅうせいか どうかで きまる としている てんに ちゅうもく)すべきです( "But in every one of these three verses it is noteworthy how Moses makes the Israelites' superiority depend on their obedience to God: …" ).すなわち彼らが「神の声を聴き神の戒律をすべて守るかどうか」(かれらが「かみの こえを きき かみの かいりつを すべて まもるか どうか」)(v. 1)( "… if they will “hear the voice of God and keep all his commandments” (v.1); …" ),「神の戒律に耳を傾け神の示された道を歩むかどうか」(「かみの かいりつに みみを かたむけ かみの しめされた みちを あゆむか どうか」)(v. 9)( "… if they “hear his commandments and walk in his ways” (v.9); …" ),「神の戒律に耳を傾け,それを守り実行するかどうか」(「かみの かいりつに みみを かたむけ,それを まもり じっこう するか どうか」)(v. 13)の3点(さんてん)です( "… if they will “hear the commandments of God and keep and do them” (v.13)." ).
他方(たほう),古代イスラエル人たちが神に従わず(こだい いすらえる じん たちが かみに したがわず)(V 15),自ら定める条件で自らの民族的優位性を示そう(みずから さだめる じょうけんで みずからの みんぞく てき ゆういせいを しめそう)とすれば( "On the other hand if the Israelites try to be that superior nation on their own terms, disobeying God (v.15), …" ),多くの呪い(おおくの のろい)が身(み)にふりかかります(v. 16-69)( "… then a multitude of curses will come upon them (v.16-68), …" ).彼らは他のあらゆる民族(かれらは ほか〈た〉の あらゆる みんぞく)からさげすまれ,憎(にく)まれ,踏み(ふみ)にじられ( "… and they will be scorned, hated and trampled upon by all other nations: " ),「この世(よ)のあらゆる王国(おうこく)のあちこちに散り散り(ちりぢり)となるでしょう」(v. 28)( "…they will be “scattered throughout all the kingdoms of the earth” (v.28);.彼らは「心の狂気,失明,激怒(こころの きょうき,しつめい,げきど)」に襲(おそ)われるでしょう(v. 28 - ガザ(がざ)のことを考(かんが)えてみてください!)( "… they will be stricken with “madness and blindness and fury of mind” (v.28 – think of Gaza !); " ).彼らが共に住むよそ者(ともに すむ よそもの)が上(うえ)にのし上(あ)がり(rise up over)( "… the stranger with whom they live will “rise up over” them,,よそ者が頭になり彼らは尾になるでしょう(v. 43-44)( "… he will be the head and they will be the tail (v.43-44);.彼らの敵(てき)は彼らの首(かれらの くび)に鉄(てつ)のくびき(iron yoke)をかけるでしょう(v. 48)( "… their enemy will put an “iron yoke” upon their neck (v.48); " ).神は彼らにあらゆる苦悩を与える(くのうを あたえる)でしょう(v. 59-61)( "… the Lord God will afflict them with all kinds of sufferings (v.59-61), " ).そして,彼らは「自らが所有(みずから しょゆう)するために入った土地(はいった とち)から出て行(でて い)かなければならないでしょう」(v. 63)( "… and they will be “taken away from the land which they will go in to possess” (v.63). " ).彼らがこれらすべての苦痛を受ける(くつうを うける)のは神の掟の言葉(かみの おきての ことば)(the words of God’s law)を守らず実行しない(まもらず じっこうしない)からです(v. 58)( "And all of this they will suffer because of not keeping and fulfilling the words of God's law (v.58)." ).
悲(かな)しいかな,偉大なモーゼ(いだいな もーぜ)が明(あき)らかにしたこれらすべての祝福と呪い(しゅくふくと のろい)は古代イスラエル人(こだい いすらえる じん)たちが,これもモーゼが預言(よげん)したように(第二法の書:第18章15-18節を参照)自分(じぶん)たちの救世主(きゅうせいしゅ),人の姿(ひとの すがた)をとられた神が出現(かみが しゅつげん)したとき,それを認(みと)めて,それに仕(つか)えるよう仕向(しむ)けるのに役立(やくだ)ったでしょうか?( "Alas, did all these blessings and curses announced by the great Moses avail to make the Israelites recognize and serve their Messiah and Incarnate God when he came, as also prophesied by Moses (Deut. XVIII, 15-18) ? " ) 決(けっ)して役立ちませんでした.そうする代(か)わりに彼らは自分たちの救世主を十字架(じゅうじか)にかけました( "No, they crucified him instead, …" ).このことが2千年近く(にせん ねん ちかく)にわたり彼らの頭上(かれらの ずじょう)にモーゼ(もーぜ)のあらゆる呪い(のろい)をもたらしているのです( "… which has for now nearly 2000 years brought down on their heads all of Moses' curses." ).彼らは自(みずか)らをこの世(よ)で最(もっと)もさげすまれ抑圧(よくあつ)された民族(みんぞく)に変(か)えました( "They made themselves into the most despised and downtrodden nation on earth, …" ).そして彼らは約束された地(やくそく された ち)への権利を失い(けんりを うしない)( "… and they lost their right to the Promised Land, …" ),そこから追い出(おいだ)され( "… being driven out and …" ),紀元70年(きげん なな〈しち〉じゅう ねん)のエルサレム破壊以来(えるされむ はかい いらい)いたるところに散り散り(ちりぢり)となりました( "… scattered everywhere else from the destruction of Jerusalem in 70 A.D." ).
彼らが聖地パレスチナ(せいち ぱれすちな)の所有を取り戻す(しょゆうを とりもどす)ことは,この呪いから解放(のろいから かいほう)されることを意味(いみ)しません( "Nor does their regaining possession of the Holy Land mean that the curse is being lifted, …" ).なぜなら,彼(かれ)らはそのことを神の定める条件(かみの さだめる じょうけん)でなく自ら定める条件(みずから さだめる じょうけん)で行(おこな)っているからです( "… because they are doing it on their own terms and not on God's, …" ).したがって聖地の再所有(せいちの さい しょゆう)そのものが呪いの一部に変わり(のろいの いちぶに かわり)ます( "… so that the very re-possession turns into part of the curse." ).
(ぷらとん) "Plato" が述(の)べたように(対話篇 「〈弁論術〉ゴルギアス "Georgias" 」 の中で)(たいわへん 「〈べんろんじゅつ〉 ごるぎあす
」 のなかで)( "As Plato said (Georgias), …" ),不正を行う(ふせいを おこなう)より苦しみを受ける方(くるしみを うける ほう)がましで( "… it is better to suffer than to commit an injustice, …" ),したがって霊魂の世界(れいこんの せかい)における(=霊的〈れいてき〉な)現実(げんじつ)では( "… and therefore in spiritual reality, …" ),イスラエル人(いすらえる じん)たちはパレスチナ人(ぱれすちな じん)たちより同情(どうじょう)すべきなのでしょう( "… the Israelis are more to be pitied than the Palestininans." ).我慢(がまん)(=忍耐・堅忍〈にんたい・けんにん〉)が大切(たいせつ)です( "Patience." ).私たちは「すべて罪を犯し(つみを おかし),神の光栄が必要(かみの こうえいが ひつよう)です」(新約聖書(しんやく せいしょ)・使徒聖パウロ(しと せい ぱうろ)のローマ人(ろーま じん)への書簡(しょかん):第3章22-23節を参照).( "We “all have sinned and do need the glory of God” (Rom. III, 22-23)." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注1-1,1-2:
訳注1-1
「神の戒律」=「モーゼの律法」=「第二法の書(+レビの書)」=「十戒」
訳注1-2
旧約聖書・第二法の書(申命):第28章28節
Liber Deuteronomii/Deutéronome/Deuteronomio/Deuteronômio/Deuteronomy XXVIII, 28
『主は精神を錯乱させ,目を見えなくし,五官を狂わせることによっておまえたちを打ち,…』
(しゅは せいしんを さくらん させ,めを みえなくし,ごかんを くるわせる ことに よって おまえたちを うち,… )(日本語・にほんご)
"The Lord strike thee with madness and blindness and fury of mind." (Enlish)
"… o Senhor te ferirá com loucura, com cegueira, e com pasmo de coração." (portuguesa)
"Jehová te herirá con locura, ceguera y turbación de espíritu; …" (española)
"L'Éternel te frappera de délire, d'aveuglement, d'égarement d'esprit, …" (française)
"Percutiat te Dominus amentia et cæcitate ac furore mentis, …" (latina)
* * *
第2パラグラフの訳注2-1,訳注2-2:
訳注2-1…
「第二法の書第28章(レビの書:第26章に併記)」
・モーゼは第二法の書第28章(レビの書〈Leviticus〉:第26章 Levit. XXVIに併記)で,旧約聖書の神で新約聖書の神とも同じヤーウェ(Yahweh)の心の内を次のように明確に記しています.
"In Chapter 28 (parallelled by Levit. XXVI) Moses makes very clear the mind of Jehovah (or Yahweh), the God of the Old Testament, identical with the God of the New Testament: …"
についての旧約聖書の引用…
訳注・2-2…
①第二法の書〈Deuteronomy〉:第28章1-68,69節
②レビの書〈Leviticus〉:第26章1-46節
* * *
①第二法の書・第28章1-68,69節
Deuteronomii XXVIII, 1-68, 69
1.祝福(第28章1-14節)
2.のろい(第28章15-69節)
1.祝福(第28章1-14節)
『1*私が今日命じるすべてのおきてを守り行って,神なる主の声を真実に聞くなら,主は地のあらゆる民よりもおまえを高め,
2主の声を聞いた報いとして次のような*祝福を注がれるだろう.
3おまえは町においても野においても祝福される.
4胎内の実も,土地の実り(みのり)も,家畜の実も雌牛や羊のつくるものも祝福される.
5かごもこねばちも祝福される.
6入るときも出るときも祝福される.
7主はおまえに刃向かう敵を目の前で打ち倒される.敵は一つの道からおまえに攻めかかってくるが,七つの道に散って敗走する.
8主はおまえの倉と手の業(わざ)に祝福がともにあるように命ぜられる.主はおまえに与えられる地において祝福があるように命ぜられる.
9主のおきてを守りその道を歩んでいるのを見られれば,主は誓いを守られ,特に主聖別された民としておまえを立てられる.
10地の民はすべておまえの上に主の名のあるのを見て恐れる.
11主はおまえたちに与えようと先祖に約束されたその地で,胎(はら)の実,家畜の実,土地の実りの恵みを豊かに与えられる.
12主は時に応じておまえの土地に雨を降らし,手の業を祝福するために,*恵みにあふれる宝物である天を開かれる.そうしておまえは多くの民に貸しを与え,自分には借りる必要があるまい.
13おまえに守り行わせるように今日命じる主のおきてを守っていると知れば,主はおまえをしっぽではなく頭とし,下ではなく上にいる者とされる.
14おまえが他の神々に従うことも奉仕することもせず、私の命じたすべてのことばを右にも左にもそれずに守るならそうなる.』
"1 Si autem audieris vocem Domini Dei tui, ut facias atque custodias omnia mandata eius, quæ ego præcipio tibi hodie, faciet te Dominus Deus tuus excelsiorem cunctis gentibus, quæ versantur in terra.
2 Venientque super te universæ benedictiones istæ, et apprehendent te: si tamen præcepta eius audieris.
3 Benedictus tu in civitate, et benedictus in agro.
4 Benedictus fructus ventris tui, et fructus terræ tuæ, fructusque iumentorum tuorum, greges armentorum tuorum, et caulæ ovium tuarum.
5 Benedicta horrea tua, et benedictæ reliquiæ tuæ.
6 Benedictus eris tu ingrediens et egrediens.
7 Dabit Dominus inimicos tuos, qui consurgunt adversum te, corruentes in conspectu tuo: per unam viam venient contra te, et per septem fugient a facie tua.
8 Emittet Dominus benedictionem super cellaria tua, et super omnia opera manuum tuarum: benedicetque tibi in terra, quam acceperis.
9 Suscitabit te Dominus sibi in populum sanctum, sicut iuravit tibi: si custodieris mandata Domini Dei tui, et ambulaveris in viis eius.
10 Videbuntque omnes terrarum populi quod nomen Domini invocatum sit super te, et timebunt te.
11 Abundare te faciet Dominus omnibus bonis, fructu uteri tui, et fructu iumentorum tuorum, fructu terræ tuæ, quam iuravit Dominus patribus tuis ut daret tibi.
12 Aperiet Dominus thesaurum suum optimum, cælum, ut tribuat pluviam terræ tuæ in tempore suo: benedicetque cunctis operibus manuum tuarum. Et fœnerabis gentibus multis, et ipse a nullo fœnus accipies.
13 Constituet te Dominus in caput, et non in caudam: et eris semper supra, et non subter: si tamen audieris mandata Domini Dei tui quæ ego præcipio tibi hodie, et custodieris et feceris,
14 ac non declinaveris ab eis nec ad dexteram, nec ad sinistram, nec secutus fueris deos alienos, neque colueris eos."
2.のろい(第28章15-68節)
『15ところが,私の命じたすべてのおきてと定めを守らず,踏み行わず,神なる主の声に耳をかさないなら,次に言うのろいがすべて襲いかかる.
16おまえは町でのろわれ,野でものろわれる.
17かごもこねばちものろわれる.
18胎内の実も,土地の実りも,雌牛と羊の産むものものろわれる.
19入るときも出るときものろわれる.
20主はおまえが手にかける業にのろいと恐れおののきとこらしめを送られ,主を見捨てて犯した悪のために,おまえたちが速やかに滅びてしまうのを打ち捨てておかれる.
21主は遺産として与えられるその地からおまえが姿を消してしまうまで,疫病(えきびょう)を送り,
22衰弱と熱病と炎症,熱気とかんばつとさび病と黒穂病で,おまえが滅び尽きるまで追い打ちをかけられる.
23頭上で空は青銅のようになり,下では地が鉄のようになる.
24地に降る雨は,土ほこりと砂に変えられ,それはおまえが滅びてしまうまで降り続く.
25主は敵の目の前でおまえを負かす.おまえは一つの道で攻めかかるが,七つの道に散って逃げ,地の民のすべてにとって見るも忌まわしいものとなる.
26おまえの死体は空の鳥と地の野獣のえじきとなり,それらを追い払う者は一人としてない.
27主はエジプトのはれ物とよこねと湿疹とかさぶたで,おまえたちを打たれ,二度と治るまい.
28主は精神を錯乱させ,目を見えなくし,五官を狂わせることによっておまえたちを打ち,
29やみの中で盲人が手さぐりするようにおまえは真昼でも手さぐりするだろう.おまえは手がけた仕事をやりとげられず,圧迫を受け,はぎ取られ,しかも助けてくれる者は一人もあるまい.
30女と婚約すれば,その女は他の男のものになり,家を建ててもそこには住めず,ぶどう畑を作ってもその実を収穫することはあるまい.
31おまえの牛が目の前でほふられてもその肉を食うことはできず,ろばは目の前で連れ去られて二度と帰ってこず,羊の群れは敵の手に渡りおまえの味方になって守ってくれる者は一人も認ない.
32息子と娘は他の民に渡される.おまえは毎日彼らの去った方をながめて目をくぼませても,彼らを助けるすべもない.
33見知らぬ民が,おまえの地面の実と労苦の産物を食べる.おまえはただ搾り取られ(しぼりとられ),おしつぶされるばかりである.
34おまえはその光景を見て気が狂うだろう.
35主はおまえのひざと太ももに治ることのない悪性のはれ物をつくられる.それは足の裏から頭の先までひろがるだろう.
36主はおまえが上に立てた王とその民を,かつておまえも父親も見たことのない国に連れて行かれる.おまえはその地で,木と石の他の神々に仕えねばなるまい.
37主に連れて行かれる民の中でおまえは驚きとうわさと軽蔑の的になるだろう.
38おまえは畑に多くの種を運んでまくが,いなごに食われて収穫はわずかであろう.
39ぶどう畑を耕して植えるが,そのぶどう酒は飲めず,虫に食い尽くされて何の収穫もできまい.
40土地全体にオリーブの木があっても,それらはすべて切り倒されて,体に油を塗ることもできまい.
41息子と娘を生んでも,捕虜として連れ去られて自分のものにはなるまい.
42おまえのもつ木と土地の実りは*虫のえさとなる.
43ともに住む他国人はしだいに栄えていくにひきかえ,おまえはしだいに卑しくなっていく.
44彼らはおまえに物を貸すが,おまえは貸せない.彼らは頭となりおまえたちはしっぽとなる.
45こういうのろいがおまえの上にふりかかり,覆い尽くし,追いかけ追いつくだろう.こうしておまえは滅ぼされる.それは神なる主の声を聞かず,私が命じたおきてと定めを守らなかったからである.
46それはおまえと子孫にとって,永久にしるしとなり不思議となるだろう.
47おまえはすべてを豊かに受けながら,心のうれしさと喜びをもって神なる主に仕えなかったために,
48飢えと渇きと裸と赤貧のうちに,主が送られた敵に奉仕せねばならなくなる.主はおまえを滅ぼしつくすまで,その首の上に鉄のくびきをかけられる.
49主はおまえの敵として遠い民をたち向かわせるだろう.それは地の果てから飛び立つわしのような民である.おまえはその民のことばを知らない.
50その民の姿は恐ろしく,老人を敬わず若者にも容赦がない.
51その民はおまえを滅ぼし尽くすまで,家畜と土地の実りを食べ,小麦も新しいぶどう酒も油も,雌牛のつくる物も羊のつくる物も一つとして残さない.そうしておまえは滅ぼされる.
52その民は,おまえが信頼をおいていた領土内の高い堅固な城壁を打ち倒すまで,すべての町々を攻めるだろう.主がおまえに与えられた地においてその町々をすべて包囲するだろう.
53その敵の包囲によってひきおこされた悲惨なときに,おまえは自分の胎の実であり,主に与えられた息子や娘の肉を食うようになるだろう.
54*そのときには,心やさしく情の厚い男でさえ,兄弟や自分のふところの女やまだ残っている子らを冷たい目でながめ,
55自分がいま食べている子どもの肉を彼らに分け与えようとはしない.敵の包囲によってすべての町に襲いかかる悲惨のときには,おまえに残される物は一つもない.
56民の中でもっとも心やさしく情の厚い女でさえ,つまり心やさしく情が厚いために足を地につけることさえしなかった女でさえ,自分のふところの男や息子や娘を冷たい目でながめ,
57彼らから身を隠して自分が生んだ最後の子を食べるだろう.敵が町を包囲するその欠乏のとき,おまえはすべてを失い尽くすのである.
58この本に記されている法のことばを,神なる主の光栄ある恐れ多い名を敬いつつ実行しようと努めないなら,
59主はおまえとその子孫に向けて恐ろしい災害と,長く続くひどい災難と悪性の長びく病気を送られる.
60おまえが見て恐れおののいたエジプトの災害を,主はおまえ自身の身に立ち返らせ,その災害をおまえ自身にふりかからせる.
61それのみか,主はおまえが滅び尽きるまで,この法の書には記されていない他の病気と災害を送られる.
62空の星ほどに数多かった民は,わずかの人数しか生き残れまい.
それはおまえが神なる主の声を聞かなかったからである.
63主はおまえたちを幸せにし数をふやして喜ばれたが,それと同じように,おまえたちを滅ぼし尽くすことを喜びとされるのだ.おまえたちはいま所有しようとするその国から引き抜かれてしまうだろう.
64主は地のこの果てからあの果てまで,すべての民の中におまえたちを散らし,そこでおまえは自分も先祖も知らなかった木と石の他の神々に仕えることになろう.
65その民の中でおまえには安らぎがなく,足の裏を静かにおくところもあるまい.主はその地でおまえに不安とくぼんだ目と洗い息遣いを与えられる.
66*おまえは落ち着いて生活できず,昼夜となく恐れ,自分の生命にさえ信頼はおけまい.
67心をしめつける恐怖とその目で見る光景のために,おまえは朝になると〈これがもう夜であったらましなのに〉と思い,夜になると〈これがもう朝であればましなのに〉と言うだろう.
68〈*私はもう二度とここを見まい〉と言った陸と海の道を通って,主はおまえたちをエジプトに送り返される.その地でおまえたちは男女の奴隷として敵に身を売ろうとするが,買ってくれる者はあるまい」.』
『69以上は,主がモアブの地でイスラエルの子らと結べと命ぜられた契約のことばである.それはホレブで彼らと結んだ契約以外のものである.』
"15 Quod si audire nolueris vocem Domini Dei tui, ut custodias, et facias omnia mandata eius et ceremonias, quas ego præcipio tibi hodie, venient super te omnes maledictiones istæ, et apprehendent te.
16 Maledictus eris in civitate, maledictus in agro.
17 Maledictum horreum tuum, et maledictæ reliquiæ tuæ.
18 Maledictus fructus ventris tui, et fructus terræ tuæ, armenta boum tuorum, et greges ovium tuarum.
19 Maledictus eris ingrediens, et maledictus egrediens.
20 Mittet Dominus super te famem et esuriem, et increpationem in omnia opera tua, quæ tu facies: donec conterat te, et perdat velociter, propter adinventiones tuas pessimas in quibus reliquisti me.
21 Adiungat tibi Dominus pestilentiam, donec consumat te de terra, ad quam ingredieris possidendam.
22 Percutiat te Dominus egestate, febri et frigore, ardore et æstu, et aere corrupto ac rubigine, et persequatur donec pereas.
23 Sit cælum, quod supra te est, æneum: et terra, quam calcas, ferrea.
24 Det Dominus imbrem terræ tuæ pulverem, et de cælo descendat super te cinis, donec conteraris.
25 Tradat te Dominus corruentem ante hostes tuos. per unam viam egrediaris contra eos, et per septem fugias, et dispergaris per omnia regna terræ.
26 sitque cadaver tuum in escam cunctis volatilibus cæli, et bestiis terræ, et non sit qui abigat.
27 Percutiat te Dominus ulcere Ægypti, et partem corporis, per quam stercora egeruntur, scabie quoque et prurigine: ita ut curari nequeas.
28 Percutiat te Dominus amentia et cæcitate ac furore mentis,
29 et palpes in meridie sicut palpare solet cæcus in tenebris, et non dirigas vias tuas. Omnique tempore calumniam sustineas, et opprimaris violentia, nec habeas qui liberet te.
30 Uxorem accipias, et alius dormiat cum ea. Domum ædifices, et non habites in ea. Plantes vineam, et non vindemies eam.
31 Bos tuus immoletur coram te, et non comedas ex eo. Asinus tuus rapiatur in conspectu tuo, et non reddatur tibi. Oves tuæ dentur inimicis tuis, et non sit qui te adiuvet.
32 Filii tui et filiæ tuæ tradantur alteri populo, videntibus oculis tuis, et deficientibus ad conspectum eorum tota die, et non sit fortitudo in manu tua.
33 Fructus terræ tuæ, et omnes labores tuos comedat populus, quem ignoras: et sis semper calumniam sustinens, et oppressus cunctis diebus,
34 et stupens ad terrorem eorum quæ videbunt oculi tui.
35 Percutiat te Dominus ulcere pessimo in genibus et in suris, sanarique non possis a planta pedis usque ad verticem tuum.
36 Ducet te Dominus, et regem tuum, quem constitueris super te, in gentem, quam ignoras tu et patres tui: et servies ibi diis alienis, ligno et lapidi.
37 Et eris perditus in proverbium ac fabulam omnibus populis, ad quos te introduxerit Dominus.
38 Sementem multam iacies in terram, et modicum congregabis: quia locustæ devorabunt omnia.
39 Vineam plantabis, et fodies: et vinum non bibes, nec colliges ex ea quippiam: quoniam vastabitur vermibus.
40 Olivas habebis in omnibus terminis tuis, et non ungeris oleo: quia defluent, et peribunt.
41 Filios generabis et filias, et non frueris eis: quoniam ducentur in captivitatem.
42 Omnes arbores tuas et fruges terræ tuæ rubigo consumet.
43 Advena, qui tecum versatur in terra, ascendet super te, eritque sublimior: tu autem descendes, et eris inferior.
44 Ipse fœnerabit tibi, et tu non fœnerabis ei. Ipse erit in caput, et tu eris in caudam.
45 Et venient super te omnes maledictiones istæ, et persequentes apprehendent te, donec intereas: quia non audisti vocem Domini Dei tui, nec servasti mandata eius et ceremonias, quas præcepit tibi.
46 Et erunt in te signa atque prodigia, et in semine tuo usque in sempiternum:
47 eo quod non servieris Domino Deo tuo in gaudio, cordisque lætitia, propter rerum omnium abundantiam:
48 servies inimico tuo, quem immittet tibi Dominus, in fame, et siti, et nuditate, et omni penuria: et ponet iugum ferreum super cervicem tuam, donec te conterat.
49 Adducet Dominus super te Gentem de longinquo, et de extremis terræ finibus in similitudinem aquilæ volantis cum impetu: cuius linguam intelligere non possis:
50 Gentem procacissimam, quæ non deferat seni, nec misereatur parvuli,
51 et devoret fructum iumentorum tuorum, ac fruges Terræ tuæ: donec intereas, et non relinquat tibi triticum, vinum, et oleum, armenta boum, et greges ovium: donec te disperdat,
52 et conterat in cunctis urbibus tuis, et destruantur muri tui firmi atque sublimes, in quibus habebas fiduciam in omni Terra tua. Obsideberis intra portas tuas in omni Terra tua, quam dabit tibi Dominus Deus tuus:
53 et comedes fructum uteri tui, et carnes filiorum tuorum et filiarum tuarum, quas dederit tibi Dominus Deus tuus, in angustia et vastitate qua opprimet te hostis tuus.
54 Homo delicatus in te, et luxuriosus valde, invidebit fratri suo, et uxori, quæ cubat in sinu suo,
55 ne det eis de carnibus filiorum suorum, quas comedet: eo quod nihil aliud habeat in obsidione et penuria, qua vastaverint te inimici tui intra omnes portas tuas.
56 Tenera mulier et delicata, quæ super terram ingredi non valebat, nec pedis vestigium figere propter mollitiem et teneritudinem nimiam, invidebit viro suo, qui cubat in sinu eius, super filii et filiæ carnibus,
57 et illuvie secundarum, quæ egrediuntur de medio feminum eius, et super liberis qui eadem hora nati sunt. comedent enim eos clam propter rerum omnium penuriam in obsidione et vastitate, qua opprimet te inimicus tuus intra portas tuas.
58 Nisi custodieris, et feceris omnia verba legis huius, quæ scripta sunt in hoc volumine, et timueris nomen eius gloriosum et terribile, hoc est, Dominum Deum tuum:
59 augebit Dominus plagas tuas, et plagas seminis tui, plagas magnas et perseverantes, infirmitates pessimas et perpetuas.
60 et convertet in te omnes afflictiones Ægypti, quas timuisti, et adhærebunt tibi:
61 Insuper et universos languores, et plagas, quæ non sunt scriptæ in volumine legis huius, inducet Dominus super te, donec te conterat:
62 et remanebitis pauci numero, qui prius eratis sicut astra cæli præ multitudine, quoniam non audisti vocem Domini Dei tui.
63 Et sicut ante lætatus est Dominus super vos, bene vobis faciens, vosque multiplicans: sic lætabitur disperdens vos atque subvertens, ut auferamini de Terra, ad quam ingredieris possidendam.
64 Disperget te Dominus in omnes populos a summitate terræ usque ad terminos eius: et servies ibi diis alienis, quos et tu ignoras et patres tui, lignis et lapidibus.
65 In gentibus quoque illis non quiesces, neque erit requies vestigio pedis tui. Dabit enim tibi Dominus ibi cor pavidum, et deficientes oculos, et animam consumptam mœrore:
66 Et erit vita tua quasi pendens ante te. Timebis nocte et die, et non credes vitæ tuæ.
67 Mane dices: Quis mihi det vesperum? et vespere: Quis mihi det mane? propter cordis tui formidinem, qua terreberis, et propter ea, quæ tuis videbis oculis.
68 Reducet te Dominus classibus in Ægyptum per viam, de qua dixit tibi ut eam amplius non videres. Ibi venderis inimicis tuis in servos et ancillas, et non erit qui emat."
(Deuteronomium 29)
"1 Hæc sunt verba fœderis quod præcepit Dominus Moysi ut feriret cum filiis Israel in Terra Moab: præter illud fœdus, quod cum eis pepigit in Horeb."
(注釈)
祝福(28・1-14)
1 ここは第二法の重大な定めであり,同時に旧約として文学的にも高く評価されている.
2 祝福ものろいも人格化して記されている.
12 当時の宇宙観によると,天に水が蓄えられていると考えていた.
のろい(28・15-69)
42 どんな虫かはっきりしない.
54 列王下6・28以下.エレミア哀歌4・10参照.
66 一刻一刻が生命の危険を伴って.ヨブ24・22
68
神に忠実でなければ,神が先祖のために行われた救いの業は空しくなるという思想.
* * *
②レビの書〈Leviticus〉:第26章1-46節
1・神のおきてを守る者への祝福
(第26章1-13節)
2・神のおきてに背く者へののろい
(第26章14-39節)
3・神の慈愛
(第26章40-46節)
***
1・神のおきてを守る者への祝福(第26章1-13節)
『1 *おまえたちは,*偶像をつくってはならぬ.*彫像も*立て柱も拝んではならぬ.その前にひれ伏そうとして,*浮き彫りにした石を,自分の地に立てることもならぬ.主なる私はおまえたちの神だからである.
2 おまえたちは私の安息日を守り,私の聖所を尊べ.私は主である.
3 私のおきてを守って歩み,私の定めをふみ行うなら,
4 私は,適した時期に雨を与え,地はその実りを,野の木はその実をつけるだろう.
5 麦打ちはぶどうの収穫のときまで続き,ぶどうの収穫は種まきのときまで続く.おまえたちは,思いのままにパンを食べ,その地に,安らかに住めるであろう.
6 私は,地に平和を与える.
7 おまえたちは,なんの恐れもなく休める.私は,その地から害ある獣を追い,剣がおまえたちの地を過ぎることもあるまい.
8 敵は追い払われ,おまえたちの剣の前で倒れる.
9 おまえたちの五人で,敵の百人を敗走させ,百人は一万人を敗走させるだろう.
10 私は,慈しみの目をおまえたちに向け,数を増し,ふやし,私の契約を守る.
11 前の年の収穫を食べて,新しい収穫のときまでに,捨てるほどのものが残るだろう.私は,*この地に住まい,おまえたちを見捨てることはない.
12 私は,この中で生き,おまえたちの神となり,おまえたちは私の民となる.
13 私はエジプトの地の奴隷からおまえたちを導き出した神なる主である.おまえたちのくびきの鎖を切り,頭をあげて歩けるようにしたのは,私である.』
2・神のおきてに背く者へののろい(第26章14-39節
『14 だが,もしおまえたちが,私の言うことをきかず,おきてを守らず,
15 定めを捨て,ならわしを拒み,命令を聞かず,私との契約を破るなら,
16 私もおまえたちに対して,同じことをする.目をなえしぼませ,息をたえだえにするほどの恐怖と,衰弱と熱病を送って,おまえたちを罰する.おまえたちが種をまいてもむなしく,その実りは敵に食べられることになる.
17 私はおまえたちに刃向かう.おまえたちは敵に破られ,かたきに支配され,追う者がないのに逃げ出すことになる.
18 *そういうことがあってもなお私の言うことをきかぬなら,おまえたちの罪の七倍も罰を加え続ける.
19 私はおまえたちのおごった力を打ち砕き,空を鉄のようにし,地を青銅のようにする.
20 おまえたちは努力しても,それはむだだろう.その地には,もはや実りもなく,野の木は実を結ぶことがあるまい.
21 おまえたちが,ひきつづき,私に背いて言うことを聞かないなら,その罪に七倍の罰をふやそう.
22 私はおまえたちのところへ野獣を送る.それらは,おまえたちの子らを連れ去り,家畜を殺し,道が寂しくなるほど,人の数を減らしてしまう.
23 そうあってもなお心を改めず,私に背き続けるならば,
24 私もおまえたちに刃向い,その罪に七倍の罰を加えよう.
25 破られた契約のかたきを討つために,剣を送ろう.おまえたちは,町に集まり寄るが,その中に疫病を送って,おまえたちを敵の手に渡してしまう.
26 *私がおまえたちのパンの棒を折るときには,十人の女が,たった一つのかまどでパンを焼き,そのパンを小切れにして与える.腹は満たされることがあるまい.
27 なおそれでもおまえたちが私の言うことをきかず,背き続けるなら,
28 私は大いに怒っておまえたちに刃向い,その罪の七倍の罰を下そう.
29 おまえたちは,自分の息子らの肉や,娘らの肉を食らうことになる.
30 私は,おまえたちの高台を打ち壊し,*カンマニムを倒し,偶像の屍の上に民の屍(しかばね)を積み重ね,もはや,おまえたちを見放す.
31 また町々を廃墟と変え,聖所を荒らし,香り高い香認をかがないであろう,
32 その地に住まいにきた敵も驚くほどに,私はそこを荒らしてしまう.
33 さらに民を他国に散らし,剣を抜き放ってその後ろに立つ.地は荒れほうだいになり,町は廃墟(はいきょ)となるであろう.
34 荒廃(こうはい)のそのとき,おまえたちが敵の地にいる間に,地は安息を取り返し,休みをとって,安息を果たすであろう.
35 おまえたちが住んでいたときに,安息を守らなかったその地は,荒廃のときに休みをとる.
36 おまえたちが敵の地にいる間,生き残った者の心に,私は落胆(らくたん)の思いを注ごう.風にゆらぐ葉ずれの音にさえ,みなは逃げまどう,剣に驚いて逃げ走るように.追う者もないのに,彼らは倒れる.
37 追う者もないのに,まるで剣をつきつけられたように,互いにぶつかって倒れる.おまえたちには,敵に刃向う力がなくなり,
38他国に散り,敵の地に食い尽くされてしまう.
39 おまえたちの中で生き残った者は,自分の犯した罪と先祖の罪の罰を受けて,敵の地で弱り果てる.』
3・神の慈愛(第26章40-46節)
『40 *そのとき民は,私に対してした不実(ふじつ)と反逆(はんぎゃく)と,祖先の罪を告白するだろう.
41 私もやむをえず,彼らに刃向かって,彼らを敵の地に流さざるをえなかった.割礼のない彼らの堅い心は,そのときへり下り,自分たちの罪を償うだろう.
42私は,ヤコブとの契約,イサクとアブラハムとにした約束を,また,その地のことを思い出すだろう.
43 民が去って行ったあとの荒廃の地は,安息の年を取りもどし,彼らは罪を償(つぐな)わねばなるまい,彼らが私の定めをこばみ,おきてを軽んじたからである.
44 だが彼らが敵の地にいる間,私は契約を破って,彼らを滅ぼし尽くすほどに見捨てることはしないし,怒り続けることもすまい.私は彼らの主だからである.
45 私は彼らの神となるために,他国のエジプトの国から彼らの先祖を導き出した,その民の目の前で,先祖とした契約を,彼らのために思い出そう.私は主である〉」.
46 これは主が,シナイの山の上で,モーゼを通じてご自身とイスラエルの子らとの間に定められた慣習と規定と律法である.』
(注釈)
神のおきてを守る者への祝福(26・1-13)
ハムラビ法典(西暦前十八世紀)や,昔の中近東諸国の書主同士の契約(西暦前十八世紀から前十三世紀にかけて〉や,旧約聖書(脱出の書〈出エジプト〉23・20ー33),第二法の書28・11-68)にもあるように,聖徳の法典は,神のおきてを守る人々への祝福と,それに背(そむ)く人々へののろいをもって,おおむね結びとしていた.
この章の場合,祝福とのろいの背景には,主なる神とイスラエル人との間の「契約」がある.
神との契約を守ることは,幸福と繁栄の保証であり,それに違反することは神の罰を招くもとであると,はっきり示されている.
神はつねに慈悲(じひ)あるものであるが,つねに人間の側からの,善意と協力が必要である.
それにしても,契約の主導権は神にあるのであるから,人間がそれに違反したといっても,
最後的な結着はつねに神の側にある.したがってここに出ているのろいは,いまわれわれがいう意味での「のろい」ではなくて,むしろ,神の慈悲を表明する警告というべきであり,神が民を見捨てたことにはならない.
1 19・4参照.
* 脱出の書(出エジプト)20・4,第二法4・16参照.
* 脱出34・13参照.
* 荒野の書(民数)33・52,エゼキエル8・12参照.
11 聖所,神の住まいのことではなく,むしろ,神がつねに民とともにあるという意味にとった方がよい.
神のおきてに背く者へののろい(26・14-39)
18「罰する」ということばは28節にも出る.ヘブライ語の原意は,「教育する,つくり上げる,戒める」の意味である.
親が子どもを教育する場合(第二法8・5,21・18,格言15・18),またはイスラエル人に対する神の干渉などを表すときに用いられることばである(第二法4・36,エレミア2・19,10・24,30・11).
ここに出る「のろい」の目的は,警告としてののろいであって,完全な罰ののろいではない.
26 「パンの棒(エゼキエル4・16,5・16,14・13,詩篇105・16.「パンの俸を折る」ということばには,二つの解釈があるが,
その一つは,保存するパンを棒につきさしておいたので,棒を折ることは,保存がきかなくなることを意味するという説明である.
もう一つは,棒はつえであり,旅人の支えであるので,パンも,人間の生命の支えとなるべきものという意味で,パンの棒と表現したという.
30「カンマニム」は太陽神を祝う儀式と関連があり,「太陽神の柱」と訳した人もある.
しかし,実は,偶像崇拝に用いた「香の祭壇」で,個人用のものであったらしい.
神の慈愛(26・40-46)
40-45 エレミアの書とエゼキエルの書の,慰めに満ちた預言に似た表現をとって,「神の罰の意味」を説明する.
慈悲なる神は,民の立ちもどることを望んでおられるが,そうなることにより,はじめて民は幸福を受けることができる.
* * *
第5パラグラフの訳注5-1:
第二法の書:第18章15-18節(第18章9-22節を掲載)
Deuteronomium XVIII, 15-18 (9-22)
『9 *神なる主が与えてくださる地に入れば,そこの民のいとわしい行いをまねするな.
10 おまえのところでは,自分の息子や娘に火の上を歩かせる者,占いやまじないや易や魔法を行う者,
11 呪縛を行う者,妖怪や先祖の霊を呼ぶ者,死霊に呼びかける者などがあってはならぬ.
12 こういうことをする者は主に忌みきらわれる.主はまさにこういうことのために,おまえの前からその民を追われる.
13 おまえは主の前で申し分のない者でなければならぬ.
14 おまえの追い払う民は魔法使いや占い者にうかがいを立てていたが,神なる主はそういう者たちをおまえに遣わされない.
15 主はおまえの兄弟の中から,私のような預言者を民のために立てられるであろうから,その者の言うことを聞け.
16 それはホレブの山の集会の日,おまえが主にこいもとめたことである.そのときおまえは〈神なる主の声をもう聞かせてくださるな,そうしないと死んでしまいます.もうこの大きな炎を見たくありません〉と言った.
17 主はそのとき私に言われた,〈彼らの言うことは正しい.
18 *私は彼らの中におまえのような預言者を立て,その口に私のことばをおく,その預言者が私のことばを伝える.
19 その預言者が私の名によって告げたことを聞かない者があれば,私自身それについて彼に責めを追う.
20だがある預言者が私の命令しなかったことばを私の名で告げたり,他の神々の名をかりて告げたりすれば,彼は死なねばならぬ〉.
21 おまえは心の中で〈主はこのことばを言わなかったと,どうしてわれわれに分かろう〉と言うかもしれぬ.
22 その預言者が主の名で告げても,そのことばが当たらないし,実現もしないなら,それは主のことばではない.彼は勝手気ままに告げているのだから,おまえは恐れなくてよい.』
"9 Quando ingressus fueris Terram, quam Dominus Deus tuus dabit tibi, cave ne imitari velis abominationes illarum gentium.
10 nec inveniatur in te qui lustret filium suum, aut filiam, ducens per ignem: aut qui ariolos sciscitetur, et observet somnia atque auguria, nec sit maleficus,
11 nec incantantor, nec qui pythones consulat, nec divinos, aut quærat a mortuis veritatem.
12 omnia enim hæc abominatur Dominus, et propter istiusmodi scelera delebit eos in introitu tuo.
13 perfectus eris, et absque macula cum Domino Deo tuo.
14 Gentes istæ, quarum possidebis terram, augures et divinos audiunt: tu autem a Domino Deo tuo aliter institutus es.
15 PROPHETAM de gente tua et de fratribus tuis sicut me, suscitabit tibi Dominus Deus tuus: ipsum audies,
16 ut petisti a Domino Deo tuo in Horeb, quando concio congregata est, atque dixisti: Ultra non audiam vocem Domini Dei mei, et ignem hunc maximum amplius non videbo, ne moriar.
17 Et ait Dominus mihi: Bene omnia sunt locuti.
18 Prophetam suscitabo eis de medio fratrum suorum similem tui: et ponam verba mea in ore eius, loqueturque ad eos omnia quæ præcepero illi.
19 qui autem verba eius, quæ loquetur in nomine meo, audire noluerit, ego ultor existam.
20 Propheta autem qui arrogantia depravatus voluerit loqui in nomine meo, quæ ego non præcepi illi ut diceret, aut ex nomine alienorum deorum, interficietur.
21 Quod si tacita cogitatione responderis: Quo modo possum intelligere verbum, quod Dominus non est locutus?
22 hoc habebis signum: Quod in nomine Domini propheta ille prædixerit, et non evenerit: hoc Dominus non est locutus, sed per tumorem animi sui propheta confinxit: et idcirco non timebis eum."
(注釈)
レビ人の権利(18・1-8)
預言者(18・9-22)
9 神と人間との仲介に立つのは預言者だけであって,その他のものは迷信であると断言する.
18 預言者制度が定まった意味で重大な一節である.新約ではこの所をよく引用している(使徒行録3・22-26,7・37).
この原文に基づいてユダヤ人は「新しいモーゼ」としてキリストを待ちうけた(ヨハネ聖福音1・21).ヨハネ福音史家もキリストとモーゼを並べて比較している.
* * *
訳注を続けます.
* * *
(注:本投稿記事〈第372回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月25日21:30に公開されました.)
2014年8月30日土曜日
2014年8月23日土曜日
371 抵抗運動は失敗か? 8/23
エレイソン・コメンツ 第371回 (2014年8月23日)
私が先週のエレイソン・コメンツ(わたくしが せんしゅうの えれいそん・こめんつ)( EC 370回)で「抵抗運動(ていこう うんどう)」が「あまり進展(しんてん)していないように見える(みえる)」と述(の)べたことについて,読者の一部(どくしゃの いちぶ)からはっきりとした異議申し立て(いぎ もうし たて)がありました( "Some readers of these « Comments » no doubt objected to the reference made last week (EC 370) to the « Resistance » presently making « little apparent headway »." ).彼らは私が果敢(かかん)に戦闘準備命令を出した方(せんとう じゅんび めいれいを だした ほう)がよかったのにと思(おも)われたかもしれません( "They might have preferred a valiant call to arms." ).だが,私たちは現実的な態度を持ち続け(げんじつ てきな たいどを もち つづけ)なければなりません( "But we must stay real." ).一例を挙げ(いちれいを あげ)ましょう.ブラジル(ぶらじる)にある伝統派(でんとうは)のカンポス教区(かんぽす きょうく)( "the Traditional diocese of Campos in Brazil" )が2002年(にせんに ねん)に新ローマ(教皇庁)(しんろーま〈きょうこうちょう〉)( "Newrome" )の手中に落ちた時(しゅちゅうに おちた とき)( "For instance, when the Traditional diocese of Campos in Brazil fell back into the arms of Newrome back in 2002, …" ),私たちの何人か(わたくしたちの なんにんか)はディ・カストロ・マイエル司教(でぃ かすとろ まいえる しきょう)( "Bishop de Castro Mayer" )の神学校で養成(しんがっこうで ようせい)されたおよそ25名の司祭(にじゅうごめいの しさい)たちのうち,少(すく)なくとも数名(すうめい)は隊列を離れ反対に回る(たいれつを はなれ はんたいに まわる)だろうと言(い)わなかったでしょうか?( " … did not several of us say that out of some 25 priests formed in Bishop de Castro Mayer’s school, at least a few would break ranks ? " ) だが実際(じっさい)には,司祭たちのなかで自立(じりつ)して,善良な司教による真の伝統擁護(ぜんりょうな しきょう による まことの でんとう ようご)を共に続けた者(ともに つづけた もの)はひとりもいませんでした( "Yet not one of them has gone independent since then to continue the good Bishop’s true defence of Tradition, …" ).彼らはすべて程度の差(ていどの さ)こそあれ今(いま)ではネオモダニスト(ねお もだにすと)( "neomodernist" )の滑り台に乗って(すべりだいに のって)います( "… and so all of them are more or less on the neo-modernist slide." ).それでも,私たちが現実的な態度(げんじつ てきな たいど)を確かに持ち続け(たしかに もちつづけ)ていれば,(そのような事態〈じたい〉が起〈お〉きても)何も言う(なにも いう)ことはありません( "However, if we do stay real, there is not nothing to be said." ).
先ず初め(まず はじめ)に,神は神(まず はじめに,かみは かみ)です( "First of all, God is God, …" ).ですから神はこのような危機(きき)を私たちの流儀(りゅうぎ)でなく御自ら(おん みずから)の流儀で起(お)こされます( "… and he is conducting this crisis his way and not ours." ).「私の考え(かんがえ)はあなたたちの考えではない,あなたたちの流儀(りゅうぎ)は私の流儀ではない,と主は言われ(しゅは いわれ)ます.」(旧約聖書〈きゅうやく せいしょ〉・イザヤの書:第55章8節〈いざやの しょ:だい ごじゅうご しょう はっせつ〉)( " “My thoughts are not your thoughts, your ways are not my ways, says the Lord” (Is. LV, 8). " )(訳注後記1).私たちは先見の明(せんけんの めい)ある諸々の司祭(もろもろの しさい)たちや一般信徒(いっぱん しんと)が手を取り合って立ち上がり神の敵に立ち向かう(てを とりあって たちあがり かみの てきに たちむかう)ことを夢見(ゆめ み)ます( "We dream of the clear-sighted priests and laity banding together to stand up to his enemies, …" ).だが,神は御自らの羊や教会の世話(おん みずからの ひつじや きょうかいの せわ)をしてもらうために,誰か他の者(だれか ほかの もの)の「抵抗運動(ていこう うんどう)」( " “Resistance” " )など必要(ひつよう)としません( "… but God does not need anybody’s “Resistance” to look after his sheep or save his Church." ).40年前(よんじゅう ねん まえ),ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )は一握りの仲間の司祭(ひとにぎりの なかまの しさい)たちが側(そば)にいてくれて,公会議派の強圧的な力を遮る(こうかいぎはの きょうあつてきな ちからを さえぎる)ためバリケードを打ち立て(ばりけーどを うちたて)てくれればと期待(きたい)しました( "Forty years ago when Archbishop Lefebvre hoped for and looked for a handful of fellow-bishops to stand beside him in public and throw up a real road-block in the way of the Conciliar steam-roller, …" ).本気で探せば(ほんきで さがせば),そのような司祭(しさい)たちは見(み)つかったでしょうが,大司教は決(けっ)してそうしませんでした( "… surely he might have found them, but he never did." ).事実(じじつ),神は現状を救う(かみは げんじょうを すくう)ためきっと介入(かいにゅう)されるでしょうし( "In fact when God intervenes to save the situation, …" ),実際(じっさい)にされるとすれば,それは神が御自身の御母(=聖母)を通して(かみが ごじしんの おんはは〈=せいぼ〉をとおして)なされる御自身の行動(こうどう)であるのは明白(めいはく)です( "… as he certainly will, it will be obvious that the rescue was his doing, through his Mother. " ).
第二(だいに)に,5世紀以上(ごせいき いじょう)もはびこり続(つづ)ける人間中心主義の中(にんげん ちゅうしん しゅぎの なか)で,人間(にんげん)があまりにもひどく神,すなわち万軍の主なる神(ばんぐんの しゅ なる かみ)を,無視(むし)するようになってしまったため( "Secondly, more than five centuries of rampant humanism have made man so ignorant of God, the Lord God of Hosts, …" ),人類(じんるい)は教訓(きょうくん)を学(まな)ばなければならなくなっており,それも手荒な方法(てあらな ほうほう)でなければ学べないほどの状態(じょうたい)です( "… that mankind has to be taught a lesson which it will not learn except the hard way." ).聖イグナティウス(=イグナシオ)(せい いぐなてぃうす〈=いぐなしお〉)( "St Ignatius" )の諸霊魂識別(しょ れいこん しきべつ)のための14の法則(じゅうよんの ほうそく)( "14 Rules for the Discernment of Spirits" )の第9条(第1週目)(だい きゅう じょう〈だい いっしゅう め〉)は人間の精神的荒廃(せいしんてき こうはい)が起(お)こる3つの主な理由(みっつの おもな りゆう)を以下の通り挙げ(いかの とおり あげ)ています( "The ninth of St Ignatius’ 14 Rules for the Discernment of Spirits (first week) gives three main reasons for a soul’s spiritual desolation, …" ).これは,今日の教会の荒廃(こんにちの きょうかいの こうはい)にも当て(あて)はめうるものです:--( "… which can be applied to the Church’s present desolation:-- " )
1 神は私たちの精神的中途半端さや怠慢(せいしんてき ちゅうと はんぱさや たいまん)を罰(ばっ)します( "1 God punishes us for our spiritual lukewarmness and negligence." ).世界的な背教や物質主義,快楽主義(せかいてきなはいきょうやぶっしつしゅぎ,かいらくしゅぎ)がどのような世界的な罰に値(せかい てきな ばつに あたい)するのかを知(し)っておられるのは神だけです( "God alone knows today just what a worldwide chastisement is deserved by our worldwide apostasy and plunge into materialism and hedonism." ).
2 神は私たちの心の内に本当は何(こころの うちに ほんとうは なに)があるのか,私たちがどれほど神に依存(かみに いぞん)しているのかを示(しめ)すため私たちを試練に遭遇(しれんに そうぐう)させ試(ため)されます(=裁〈さば〉きにかけます)( "2 God puts us to the trial to show us what is really inside us, and how we depend on him." ).現代人(げんだい じん)は自分(じぶん)たちの方(ほう)が万能の神(ばんのうの かみ)より宇宙(うちゅう)をうまく取り仕切(とりしき)れると真面目に考え(まじめに かんがえ)ているのではないでしょうか?( "Does not modern man seriously think that he can do a better job of running the universe than Almighty God ? " )そして,人間のちっぽけな努力が失敗(どりょくが しっぱい)するまで神の真実が沈む(かみの しんじつが しずむ)ことはないと思(おも)っているのではないでしょうか?( "And might it be that God’s truth will not sink in until all of man’s own little efforts have failed ? " )
3 神は私たちの誇(ほこ)りやうぬぼれを止(や)めさせるため,私たちを惨(みじ)めにして,誇りと虚栄(=自尊心と虚飾)を傷つけます(ほこりと きょえい〈=じそんしんと きょしょく〉を きずつけます)( "3 God humbles us with desolation to cut short our pride and vainglory." ).唯一の真の神の唯一の真の教会の指導者(ゆいいつの まことの かみの ゆいいつの きょうかいの しどうしゃ)たちから生(う)まれた第二バチカン公会議(だいに ばちかん こう かいぎ)は,神の不変の教会(かみの ふへんの きょうかい)( "God’s unchanging Church" )より人間の現代世界(にんげんの げんだい せかい)( "man’s modern world" )を優先(ゆうせん)させるという前代未聞(ぜんだい みもん)の人間のうぬぼれが突出した結果(とっしゅつ した けっか)ではなかったでしょうか?( "Coming from the chief ministers of the one true religion of the one true God, was not Vatican II an unprecedented outburst of human vainglory, preferring man’s modern world to God’s unchanging Church? " )そして,ちっぽけな聖ピオ十世会(せい ぴお じゅっせい かい)( SSPX )はその教会を救(すく)えると考(かんが)えたのでしょうか?( "And the little Society of St Pius X thought that it could save the Church ? " )「抵抗運動」が正当に謙虚さ(せいとうに けんきょさ)をもってその諸々の要求や大志(もろもろの ようきゅうや たいし)を追及(ついきゅう)しなくなれば,目的達成前に消える運命(もくてき たっせい まえに きえる うんめい)を辿(たど)るでしょう( "Unless the “Resistance” remains duly modest in its claims and ambitions, it is doomed in advance." ).
その大志とは何(なん)であるべきでしょうか?( "Then what should those ambitions be ? " )なによりも先(ま)ず,信仰を守る(しんこうを まもる)ことです( "First and foremost, to keep the Faith, …" ).信仰なくしては神に満足して(=喜んで)(しんこう なくしては かみに まんぞく して〈=よろこんで〉)いただくことはできません(新約聖書・ヘブライ人への手紙:第11章6節)(訳注後記2)( "… without which it is impossible to please God (Heb. XI, 6) " ).そして信仰についてはカトリック教信仰宣言に明示される(かとりっくきょう しんこう せんげんに めいじ される)教理,に示されています( "… and which is expressed in doctrine, in the Catholic Creed." ).第二に,その信仰をとくに具体的(ぐたいてき)に,必要(ひつよう)とあれば殉教(じゅんきょう)によって実証(じっしょう)することです(martyr〈=殉教者〈じゅんきょう しゃ〉〉は「witness〈=証人〈しょうにん〉〉」を意味〈いみ〉するギリシア語〈ぎりしあ ご〉です)( "Secondly, to give witness to that Faith, especially by example, if necessary unto martyrdom (“martyr” is the Greek word for “witness”). " ).したがって「抵抗運動(ていこう うんどう)」がどのように組織(そしき)されようと,あるいはされまいと( "So howsoever the “Resistance” is or is not organized, …" ),それは持てる資源(もてる しげん)をたとえわずかなりとも,人々の霊魂が信仰を守る(ひとびとの れいこんが しんこうを まもる)手助け(てだすけ)をすることに捧げ(ささげ)なければなりません( "… it must devote its resources, however meagre, to whatever will help souls to keep the Faith." ).そうすれば,「抵抗運動」の真実(しんじつ)に向(む)けられた立場(たちば)はしかるべく認識(にんしき)されるはずですから( "Then, since its stand for the Truth is bound to be recognizable as such, …" ),それが存在(そんざい)するだけで信仰擁護を実証(しんこうようごを じっしょう)していることになり,失敗に終わる(しっぱいに おわる)ことはありません, ( "… merely by existing it will not be failing, because it will be giving witness." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注1:
旧約聖書・イザヤの書:第55章8節
Isaias LV, 8
『私の考えはおまえたちの考えと異なり, 私の道はおまえたちの道とは違う.
――主のお告げ――』
"For my thoughts are not your thoughts: nor your ways my ways, saith the Lord. "
『…
主が,見いだされたいとおぼしめす間に,主をさがし求めよ.
主が近くにおられる間にこいねがえ.
悪人はその道を,
邪悪な者はその小道を捨てて,主に帰れ.
主はあわれまれる,
寛大にゆるしをくださる神に帰れ.
私の考えはおまえたちの考えと異なり,
私の道はおまえたちの道とは違う.
――主のお告げ――
天が地よりも高いように,
私の道はおまえたちの道より高く,
私の考えは,おまえたちの考えよりすぐれている.
雨と雪は,天からくだって地をうるおし,肥やし,芽生えさせる.
それは,種まく者に種をまかせ,食べる者にパンを与えるためであり,そうするまで天にはもどらない.そのように,私の口から出たことばは望みどおり行わず,また,私の送ったことを実現せぬままにからでもどってくることはない.
そうだ,おまえたちは喜んで出発し,
平和のうちに連れもどされる.
山と丘は喜びの叫びをあげ,
野の木々は手をうつ.
茨のかわりにいとすぎがのび,
いらくさのかわりにミルトの木が生える.
これは主の光栄のため,
消えることのない永遠のしるしとしてである.』
* * *
訳注を続けます.
* * *
(注:本投稿記事〈第371回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月18日23:30に公開されました.)
私が先週のエレイソン・コメンツ(わたくしが せんしゅうの えれいそん・こめんつ)( EC 370回)で「抵抗運動(ていこう うんどう)」が「あまり進展(しんてん)していないように見える(みえる)」と述(の)べたことについて,読者の一部(どくしゃの いちぶ)からはっきりとした異議申し立て(いぎ もうし たて)がありました( "Some readers of these « Comments » no doubt objected to the reference made last week (EC 370) to the « Resistance » presently making « little apparent headway »." ).彼らは私が果敢(かかん)に戦闘準備命令を出した方(せんとう じゅんび めいれいを だした ほう)がよかったのにと思(おも)われたかもしれません( "They might have preferred a valiant call to arms." ).だが,私たちは現実的な態度を持ち続け(げんじつ てきな たいどを もち つづけ)なければなりません( "But we must stay real." ).一例を挙げ(いちれいを あげ)ましょう.ブラジル(ぶらじる)にある伝統派(でんとうは)のカンポス教区(かんぽす きょうく)( "the Traditional diocese of Campos in Brazil" )が2002年(にせんに ねん)に新ローマ(教皇庁)(しんろーま〈きょうこうちょう〉)( "Newrome" )の手中に落ちた時(しゅちゅうに おちた とき)( "For instance, when the Traditional diocese of Campos in Brazil fell back into the arms of Newrome back in 2002, …" ),私たちの何人か(わたくしたちの なんにんか)はディ・カストロ・マイエル司教(でぃ かすとろ まいえる しきょう)( "Bishop de Castro Mayer" )の神学校で養成(しんがっこうで ようせい)されたおよそ25名の司祭(にじゅうごめいの しさい)たちのうち,少(すく)なくとも数名(すうめい)は隊列を離れ反対に回る(たいれつを はなれ はんたいに まわる)だろうと言(い)わなかったでしょうか?( " … did not several of us say that out of some 25 priests formed in Bishop de Castro Mayer’s school, at least a few would break ranks ? " ) だが実際(じっさい)には,司祭たちのなかで自立(じりつ)して,善良な司教による真の伝統擁護(ぜんりょうな しきょう による まことの でんとう ようご)を共に続けた者(ともに つづけた もの)はひとりもいませんでした( "Yet not one of them has gone independent since then to continue the good Bishop’s true defence of Tradition, …" ).彼らはすべて程度の差(ていどの さ)こそあれ今(いま)ではネオモダニスト(ねお もだにすと)( "neomodernist" )の滑り台に乗って(すべりだいに のって)います( "… and so all of them are more or less on the neo-modernist slide." ).それでも,私たちが現実的な態度(げんじつ てきな たいど)を確かに持ち続け(たしかに もちつづけ)ていれば,(そのような事態〈じたい〉が起〈お〉きても)何も言う(なにも いう)ことはありません( "However, if we do stay real, there is not nothing to be said." ).
先ず初め(まず はじめ)に,神は神(まず はじめに,かみは かみ)です( "First of all, God is God, …" ).ですから神はこのような危機(きき)を私たちの流儀(りゅうぎ)でなく御自ら(おん みずから)の流儀で起(お)こされます( "… and he is conducting this crisis his way and not ours." ).「私の考え(かんがえ)はあなたたちの考えではない,あなたたちの流儀(りゅうぎ)は私の流儀ではない,と主は言われ(しゅは いわれ)ます.」(旧約聖書〈きゅうやく せいしょ〉・イザヤの書:第55章8節〈いざやの しょ:だい ごじゅうご しょう はっせつ〉)( " “My thoughts are not your thoughts, your ways are not my ways, says the Lord” (Is. LV, 8). " )(訳注後記1).私たちは先見の明(せんけんの めい)ある諸々の司祭(もろもろの しさい)たちや一般信徒(いっぱん しんと)が手を取り合って立ち上がり神の敵に立ち向かう(てを とりあって たちあがり かみの てきに たちむかう)ことを夢見(ゆめ み)ます( "We dream of the clear-sighted priests and laity banding together to stand up to his enemies, …" ).だが,神は御自らの羊や教会の世話(おん みずからの ひつじや きょうかいの せわ)をしてもらうために,誰か他の者(だれか ほかの もの)の「抵抗運動(ていこう うんどう)」( " “Resistance” " )など必要(ひつよう)としません( "… but God does not need anybody’s “Resistance” to look after his sheep or save his Church." ).40年前(よんじゅう ねん まえ),ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )は一握りの仲間の司祭(ひとにぎりの なかまの しさい)たちが側(そば)にいてくれて,公会議派の強圧的な力を遮る(こうかいぎはの きょうあつてきな ちからを さえぎる)ためバリケードを打ち立て(ばりけーどを うちたて)てくれればと期待(きたい)しました( "Forty years ago when Archbishop Lefebvre hoped for and looked for a handful of fellow-bishops to stand beside him in public and throw up a real road-block in the way of the Conciliar steam-roller, …" ).本気で探せば(ほんきで さがせば),そのような司祭(しさい)たちは見(み)つかったでしょうが,大司教は決(けっ)してそうしませんでした( "… surely he might have found them, but he never did." ).事実(じじつ),神は現状を救う(かみは げんじょうを すくう)ためきっと介入(かいにゅう)されるでしょうし( "In fact when God intervenes to save the situation, …" ),実際(じっさい)にされるとすれば,それは神が御自身の御母(=聖母)を通して(かみが ごじしんの おんはは〈=せいぼ〉をとおして)なされる御自身の行動(こうどう)であるのは明白(めいはく)です( "… as he certainly will, it will be obvious that the rescue was his doing, through his Mother. " ).
第二(だいに)に,5世紀以上(ごせいき いじょう)もはびこり続(つづ)ける人間中心主義の中(にんげん ちゅうしん しゅぎの なか)で,人間(にんげん)があまりにもひどく神,すなわち万軍の主なる神(ばんぐんの しゅ なる かみ)を,無視(むし)するようになってしまったため( "Secondly, more than five centuries of rampant humanism have made man so ignorant of God, the Lord God of Hosts, …" ),人類(じんるい)は教訓(きょうくん)を学(まな)ばなければならなくなっており,それも手荒な方法(てあらな ほうほう)でなければ学べないほどの状態(じょうたい)です( "… that mankind has to be taught a lesson which it will not learn except the hard way." ).聖イグナティウス(=イグナシオ)(せい いぐなてぃうす〈=いぐなしお〉)( "St Ignatius" )の諸霊魂識別(しょ れいこん しきべつ)のための14の法則(じゅうよんの ほうそく)( "14 Rules for the Discernment of Spirits" )の第9条(第1週目)(だい きゅう じょう〈だい いっしゅう め〉)は人間の精神的荒廃(せいしんてき こうはい)が起(お)こる3つの主な理由(みっつの おもな りゆう)を以下の通り挙げ(いかの とおり あげ)ています( "The ninth of St Ignatius’ 14 Rules for the Discernment of Spirits (first week) gives three main reasons for a soul’s spiritual desolation, …" ).これは,今日の教会の荒廃(こんにちの きょうかいの こうはい)にも当て(あて)はめうるものです:--( "… which can be applied to the Church’s present desolation:-- " )
1 神は私たちの精神的中途半端さや怠慢(せいしんてき ちゅうと はんぱさや たいまん)を罰(ばっ)します( "1 God punishes us for our spiritual lukewarmness and negligence." ).世界的な背教や物質主義,快楽主義(せかいてきなはいきょうやぶっしつしゅぎ,かいらくしゅぎ)がどのような世界的な罰に値(せかい てきな ばつに あたい)するのかを知(し)っておられるのは神だけです( "God alone knows today just what a worldwide chastisement is deserved by our worldwide apostasy and plunge into materialism and hedonism." ).
2 神は私たちの心の内に本当は何(こころの うちに ほんとうは なに)があるのか,私たちがどれほど神に依存(かみに いぞん)しているのかを示(しめ)すため私たちを試練に遭遇(しれんに そうぐう)させ試(ため)されます(=裁〈さば〉きにかけます)( "2 God puts us to the trial to show us what is really inside us, and how we depend on him." ).現代人(げんだい じん)は自分(じぶん)たちの方(ほう)が万能の神(ばんのうの かみ)より宇宙(うちゅう)をうまく取り仕切(とりしき)れると真面目に考え(まじめに かんがえ)ているのではないでしょうか?( "Does not modern man seriously think that he can do a better job of running the universe than Almighty God ? " )そして,人間のちっぽけな努力が失敗(どりょくが しっぱい)するまで神の真実が沈む(かみの しんじつが しずむ)ことはないと思(おも)っているのではないでしょうか?( "And might it be that God’s truth will not sink in until all of man’s own little efforts have failed ? " )
3 神は私たちの誇(ほこ)りやうぬぼれを止(や)めさせるため,私たちを惨(みじ)めにして,誇りと虚栄(=自尊心と虚飾)を傷つけます(ほこりと きょえい〈=じそんしんと きょしょく〉を きずつけます)( "3 God humbles us with desolation to cut short our pride and vainglory." ).唯一の真の神の唯一の真の教会の指導者(ゆいいつの まことの かみの ゆいいつの きょうかいの しどうしゃ)たちから生(う)まれた第二バチカン公会議(だいに ばちかん こう かいぎ)は,神の不変の教会(かみの ふへんの きょうかい)( "God’s unchanging Church" )より人間の現代世界(にんげんの げんだい せかい)( "man’s modern world" )を優先(ゆうせん)させるという前代未聞(ぜんだい みもん)の人間のうぬぼれが突出した結果(とっしゅつ した けっか)ではなかったでしょうか?( "Coming from the chief ministers of the one true religion of the one true God, was not Vatican II an unprecedented outburst of human vainglory, preferring man’s modern world to God’s unchanging Church? " )そして,ちっぽけな聖ピオ十世会(せい ぴお じゅっせい かい)( SSPX )はその教会を救(すく)えると考(かんが)えたのでしょうか?( "And the little Society of St Pius X thought that it could save the Church ? " )「抵抗運動」が正当に謙虚さ(せいとうに けんきょさ)をもってその諸々の要求や大志(もろもろの ようきゅうや たいし)を追及(ついきゅう)しなくなれば,目的達成前に消える運命(もくてき たっせい まえに きえる うんめい)を辿(たど)るでしょう( "Unless the “Resistance” remains duly modest in its claims and ambitions, it is doomed in advance." ).
その大志とは何(なん)であるべきでしょうか?( "Then what should those ambitions be ? " )なによりも先(ま)ず,信仰を守る(しんこうを まもる)ことです( "First and foremost, to keep the Faith, …" ).信仰なくしては神に満足して(=喜んで)(しんこう なくしては かみに まんぞく して〈=よろこんで〉)いただくことはできません(新約聖書・ヘブライ人への手紙:第11章6節)(訳注後記2)( "… without which it is impossible to please God (Heb. XI, 6) " ).そして信仰についてはカトリック教信仰宣言に明示される(かとりっくきょう しんこう せんげんに めいじ される)教理,に示されています( "… and which is expressed in doctrine, in the Catholic Creed." ).第二に,その信仰をとくに具体的(ぐたいてき)に,必要(ひつよう)とあれば殉教(じゅんきょう)によって実証(じっしょう)することです(martyr〈=殉教者〈じゅんきょう しゃ〉〉は「witness〈=証人〈しょうにん〉〉」を意味〈いみ〉するギリシア語〈ぎりしあ ご〉です)( "Secondly, to give witness to that Faith, especially by example, if necessary unto martyrdom (“martyr” is the Greek word for “witness”). " ).したがって「抵抗運動(ていこう うんどう)」がどのように組織(そしき)されようと,あるいはされまいと( "So howsoever the “Resistance” is or is not organized, …" ),それは持てる資源(もてる しげん)をたとえわずかなりとも,人々の霊魂が信仰を守る(ひとびとの れいこんが しんこうを まもる)手助け(てだすけ)をすることに捧げ(ささげ)なければなりません( "… it must devote its resources, however meagre, to whatever will help souls to keep the Faith." ).そうすれば,「抵抗運動」の真実(しんじつ)に向(む)けられた立場(たちば)はしかるべく認識(にんしき)されるはずですから( "Then, since its stand for the Truth is bound to be recognizable as such, …" ),それが存在(そんざい)するだけで信仰擁護を実証(しんこうようごを じっしょう)していることになり,失敗に終わる(しっぱいに おわる)ことはありません, ( "… merely by existing it will not be failing, because it will be giving witness." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第2パラグラフの訳注1:
旧約聖書・イザヤの書:第55章8節
Isaias LV, 8
『私の考えはおまえたちの考えと異なり, 私の道はおまえたちの道とは違う.
――主のお告げ――』
"For my thoughts are not your thoughts: nor your ways my ways, saith the Lord. "
『…
主が,見いだされたいとおぼしめす間に,主をさがし求めよ.
主が近くにおられる間にこいねがえ.
悪人はその道を,
邪悪な者はその小道を捨てて,主に帰れ.
主はあわれまれる,
寛大にゆるしをくださる神に帰れ.
私の考えはおまえたちの考えと異なり,
私の道はおまえたちの道とは違う.
――主のお告げ――
天が地よりも高いように,
私の道はおまえたちの道より高く,
私の考えは,おまえたちの考えよりすぐれている.
雨と雪は,天からくだって地をうるおし,肥やし,芽生えさせる.
それは,種まく者に種をまかせ,食べる者にパンを与えるためであり,そうするまで天にはもどらない.そのように,私の口から出たことばは望みどおり行わず,また,私の送ったことを実現せぬままにからでもどってくることはない.
そうだ,おまえたちは喜んで出発し,
平和のうちに連れもどされる.
山と丘は喜びの叫びをあげ,
野の木々は手をうつ.
茨のかわりにいとすぎがのび,
いらくさのかわりにミルトの木が生える.
これは主の光栄のため,
消えることのない永遠のしるしとしてである.』
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訳注を続けます.
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(注:本投稿記事〈第371回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月18日23:30に公開されました.)
2014年8月16日土曜日
370 ディケンズ会議 8/16
エレイソン・コメンツ 第370回 (2014年8月16日)
2週間前(にしゅうかん まえ)にブロードステアーズ(Broadstairs, England = イングランド・ケント州)(ぶろーどすてあーず〈いんぐらんど・けんとしゅう〉)のクイーン・オヴ・マーターズ・ハウス "Queen of Martyrs House" (「諸殉教者の元后の館」〈「しょ じゅんきょうしゃの げんこうの やかた」〉.)(訳注後記1)で開(ひら)かれたディケンズ会議(でぃけんず かいぎ)( “The Dickens Conference” )は,その質素な制約の範囲内(しっそな せいやくの はんい ない)( “within its modest limits” )では上々の運び(じょうじょうの はこび)でした( "The Dickens Conference held two weeks ago at Queen of Martyrs House in Broadstairs, England, went very well, within its modest limits." ).土曜日(どようび)に少し雨が降り(すこし あめが ふり)ましたが,日曜日は快晴(にちようびは かいせい)でした( "On the Saturday there was only a little rain, the Sunday was all sunshine, …" ).会議(かいぎ)にはおよそ30名が参加(さんじゅう めいが さんか)しました.ほとんどは英国(えいこく)からでしたが,デンマーク,フランス,米国(でんまーく・ふらんす・べいこく)からも参加者(さんかしゃ)がありました( "… and nearly 30 participants, mostly from England but also from Denmark, France and the USA, " ).彼ら(かれら)はハウスでの滞在(はうすでの たいざい),カトリック信徒同士(かとりっく しんと どうし)の付き合い(つきあい),デイヴィッド(=デービッド)・ホワイト博士(でーびっど・ほわいと はかせ〈はくし〉)( “Dr. David White” )によるチャールズ・ディケンズ(ちゃーるず・でぃけんず)(1812-1870年)(せん はっぴゃく じゅうに ねん-せん はっぴゃく なな〈しち〉じゅう ねん)の三作品(さん さくひん)についての3回の講義(さんかいの こうぎ)を大いにエンジョイしました(=楽しみました)(おおいに えんじょい しました)〈たのしみ ました〉( "… much enjoyed the house, one another’s Catholic company, and the three lectures of Dr David White on three novels of Charles Dickens (1812-1870), …" ).ディケンズはウイリアム・シェークスピア(うぃりあむ・しぇーくすぴあ)に次いで(ついで)英国で最も愛された作家(えいこくで もっとも あいされた さっか)です( "England’s best loved writer after William Shakespeare." ).
冒頭(ぼうとう)に「質素な制約の範囲内(しっそな せいやくの はんい ない)」と書(か)きましたが( " ‘Within modest limits …”" ),それは土曜,日曜に執り行われたミサ聖祭以外(どよう・にちように とりおこなわれた みさせいさい いがい)に( "… because outside of the devoutly attended Masses on the Saturday and Sunday, …" ),会合の期間中(かいごうのきかんちゅう),外見的(がいけんてき)には神(かみ)にかかわる行事(かみに かかわる ぎょうじ)がほとんどなかったからです( "… there was little outwardly supernatural about the Conference." ).神聖というより健全な会合(しんせい というより けんぜんな かいごう)( “it was a session of sanity rather than sanctity” )だったと申し上げ(もうし あげ)ましょう( "Let us say that it was a session of sanity rather than sanctity, …" ).ただ,私(わたくし)たちは少(すく)なくとも英語(えいご)の “sanity” という言葉(ことば)は “sanctity” という言葉が持つ意味(もつ いみ)の4分の3を占める(よんぶんの さんを しめる)ことに直ちに気づく(ただちに きづく)はずです( "… but we notice immediately that at least in English the word “sanity” makes up three quarters of the word “sanctity”." ).恩寵(おんちょう)( “grace” )は人間性を高め(にんげんせいを たかめ)ます( "Grace builds on nature, …" ).それが私たちの周りの世界(まわりの せかい)が日を追う毎に浸って(ひをおう ごとにひたって)いる人間性の狂気,堕落を助長(にんげんせいの きょうき,だらくを じょちょう)することはまずありえません( "… and it can hardly build on the insanity and corruption of nature to which the world around us is giving itself over, day by day." ).したがって,健全(けんぜん)さは今日(こんにち)かつてないほど重要性を増し(じゅうようせいを まし)ています.それは神にかかわることについてさえ当て(あて)はまることです( "Sanity is therefore more important than ever, even for supernatural purposes." ).もし,現在(げんざい)「抵抗運動」(「ていこう うんどう」)( “the Resistance” )があまり進展(しんてん)していないように見える(みえる)とすれば( "If the “Resistance” is presently making so little apparent headway, …" ),それは人々(ひとびと)が心の腐敗(こころの ふはい)( “mind-rot” )や真の服従(=従順),神聖さの腐敗(まことの ふくじゅう〈=じゅうじゅん〉,しんせいさの ふはい)( “rot of true obedience and sanctity” )に気(き)づいて,それを追い払う(おい はらう)だけの健全さ(けんぜん さ)を相変(あいか)わらず十分に持て(じゅうぶんに もて)ないでいるからではないでしょうか?( "… is it not because there is just not enough sanity still around to recognize and cast out the mind-rot, and the rot of true obedience and sanctity ? " )
ホワイト博士は最初の講義で(ほわいと はかせは さいしょの こうぎで)「デイヴィッド・コパフィールド」(でいびっど・こぱふぃーるど)( “David Copperfield” )について話(はな)されました( "In Dr White’s first lecture he spoke of David Copperfield, …" ).これはディケンズが書いた数多くの小説(かいた かずおおくの しょうせつ)のなかでも自らお気に入りの作品の一つ(みずから おきにいりの さくひんの ひとつ)で( "… Dickens’ own favourite amongst his many novels, …" ),とくにブロードステアーズと深く関わって(ぶろーどすてあーずと ふかく かかわって)います( "… and specially linked to Broadstairs." ).それは彼が愛したこの海辺の町(かれが あいした この うみべの まち)を仕事や休暇で何度も訪れる(しごとや きゅうかで なんども おとずれる)うちに,現在でも海岸近くに残る(げんざいでも かいがん ちかくに のこる)小さな家に住んでいた変わり者の老婦人(ちいさないえに すんでいた かわりものの ろう ふじん)と知り合い(しりあい)になったからです( "This is because on Dickens’ many visits for work or holidays to his beloved seaside town, he came to know an eccentric old lady who lived in a small house still existing on the sea-front." ).この婦人(ふじん)はディケンズに深い印象を与えた(でぃけんずに ふかい いんしょうを あたえた)ため,彼(かれ)は 「デイヴィッド・コパフィールド」 の中に彼女を(「でいびっど・こぱふぃーるど」の なかに かのじょを)ベッツィー・トロットウッド(べっつぃー・とろっとうっど)( “Betsy Trotwood” )として登場(とうじょう)させました( "She so impressed him that he built her into David Copperfield as Betsy Trotwood, …" ).彼女は小説の主人公(しょうせつの しゅじんこう)である孤児を引き受け(こじを ひきうけ),彼が社会で独り立ちするまで面倒を見る(かれが しゃかいで ひとりだち するまで めんどうを みる)という一風変わった老婦人(いっぷう かわった ろう ふじん)です( "… an eccentric old lady who takes in the orphaned hero of the novel and protects him until he finds his way in life." ).ディケンズは自らの清教徒信仰 (でぃけんずは みずからの せいきょうと しんこう) "Puritanism" やカルビン主義(かるびん しゅぎ) "Calvinism" に対する嫌悪感(たいする けんお かん)をこの老婦人に重ね(かさね)ていると,ホワイト博士は解説(ほわいと はかせは かいせつ)しました( "In her mouth Dickens puts his own hatred of Puritanism and Calvinism, said Dr White." ).ディケンズは一生の間(いっしょうの あいだ)に少なくとも一度(すくなくとも いちど)だけカトリック教こそが本物の宗教だと聞かされ(かとりっく きょう こそが ほんものの しゅうきょう だと きかされ)ましたが,カトリック教徒には決して(かとりっく きょうと には けっして)なりませんでした( "At least once in his life Dickens was told that Catholicism is the one true religion, but he never became a Catholic." ).だが,彼はキリストの教義に最高の敬意を抱いて(かれは きりすとの きょうぎに さいこうの けいいを いだいて)いましたし( "However, he had a supreme respect for the Gospel of Christ, …" ),彼の多くの小説(かれの おおくの しょうせつ)ではページ(ぺーじ)のいたるところに生まれつき心の優しい人物が登場(うまれつき こころの やさしい じんぶつが とうじょう)し互いに絡み合い(たがいに からみあい)ます( "… and genuinely good-hearted characters tumble over one another in the pages of his novels." ).
会議参加者は土曜日の午後(かいぎ さんかしゃは どようびの ごご),「ベッツィー・トロットウッド」の住んでいた海辺の家を見学(「べっつぃー・とろっとうっど」の すんでいた うみべの いえを けんがく)しました( "On Saturday afternoon there followed a visit to the sea-front house of “Betsy Trotwood”, …" ).ここは現在(げんざい),ディケンズ博物館(でぃけんず はくぶつかん)になっており,作者縁の記念品が沢山展示(さくしゃ ゆかりの きねんひんが たくさん てんじ)されています.館長もディケンズ愛好家(かんちょうも でぃけんず あいこうか)です( "… now a Dickens Museum; full of Dickensian memorabilia and with a Dickensian curator. " ).会議二日目の講義題目(かいぎ ふつかめの こうぎ だいもく)は 「荒涼館」 (こうりょうかん)( “Bleak House” ) でした( "Then the second conference was on Bleak House, …" ).これは英国が暗い状況に変わって(えいこくが くらい じょうきょうに かわって)いったディケンズ第2期の最初の小説(でぃけんず だいにきの さいしょの しょうせつ)です( "… first novel of Dickens’ second period, when England was growing darker." ).この作品(さくひん) 「荒涼館」 “Bleak House” で彼は弁護士たちとりわけ法律(べんごしたち,とりわけ ほうりつ)に攻撃の矛先を向け(こうげきの ほこさきを むけ)ます( "Bleak House attacks lawyers and the law in particular, …" ).だが,ホワイト博士によれば,ディケンズが全体(ぜんたい)として攻撃の対象(こうげきの たいしょう)とするのは,社会を次第に強くコントロール(しゃかいを しだいに つよく こんとろーる)するようになり,罪のない羊を混乱させ押しつぶす制度(つみの ない ひつじ たちを こんらん させ おし つぶす せいど)( “a System” )です( " … but in general, said Dr White, it attacks a System more and more in control of society, demoralizing and crushing the innocent sheep." ).政治は次第に無意味(せいじは しだいに むいみ)になり,貴族社会(きぞく しゃかい)はますます現実から遊離(げんじつ から ゆうり)していきます( "Politics are becoming meaningless and the aristocracy is losing touch with reality, ….それでも,非人間的な制度(ひにんげん てきな せいど)はどんどん進み(すすみ),結局は偽物であるが故に崩壊(けっきょくは にせもの である がゆえに ほうかい)します( "… but an inhuman System is driving forward until it will finally collapse under its faksehood, …" ).第二バチカン公会議についても同様(だいに ばちかん こうかいぎ についても どうよう)だと,ホワイト博士は付言(ふげん))しました( "… in the manner of Vatican II, added Dr White." ).
博士が日曜日の午前に行われた3番目の講義で取り上げた(はかせが にちようびの ごぜんに おこなわれた さんばんめの こうぎで とりあげた)のは 「ハード・タイムズ」 (はーど・たいむず)( “Hard Times” )でした( "The third lecture presented on Sunday morning Hard Times, …" ).これも暗い時代に書かれた小説(くらい じだいに かかれた しょうせつ)で( "… another of the darker novels, …" ),150年も前の(ひゃく ごじゅう ねんも まえの)! 真の教育の完全欠如を題材(まことの きょういくの かんぜん けつじょを だいざい)にしています( "… about the total lack of real education, 150 years ago ! " ).ディケンズは心の教育(こころの きょういく)がなくなると,人間は冷たく(にんげんは つめたく)なり人間味(にんげん み)がなくなることを知っていました( "Without education of the heart, Dickens knew that human beings will be cold and inhuman." ).ホワイト博士は米国海軍アカデミー(べいこく かいぐん あかでみー)で長年教え(ながねん おしえ)てきた自らの経験(みずからの けいけん)を引き合いに出し(ひきあいに だし)て,歴史,芸術,音楽,文学,とりわけ詩(れきし,げいじゅつ,おんがく,ぶんがく,とりわけ し)をはねつける「教育」が産み出す社会的ロボット(「きょういく」が うみだす しゃかい てき ろぼっと)( “social robots” )の途方もない愚行(とほうも ない ぐこう)についてディケンズが描いた内容を詳しく説明(でぃけんずが えがいた ないようを くわしく せつめい)しました( "Dr White drew on his decades of teaching in the USA Naval Academy to back up Dickens’ portrait of the enormous stupidity of the social robots engineered by an “education” spurning history, the arts, music, literature and especially poetry." ).博士はそうした教育が結果(はかせは そうした きょういくが けっか)として今日の若者(こんにちの わかもの)を果てしなく(はてしなく)ものぐさにしており,それは彼らの完全なニヒリズムの表れだと解説(かれらの かんぜんな にひりずむの あらわれだと かいせつ)しました( "The result, he said, is the boundless boredom of youngsters today, a reflection of pure nihilism." ).
ただし,今回の会議参加者(こんかいの かいぎ さんかしゃ)は退屈にもニヒリスティックにも(たいくつ にも にひりすてぃっくにも)ならず( "feeling neither bored nor nihilistic" ),大いに気持ちをリフレッシュ(おおいに きもちを りふれっしゅ)して( "much refreshed" )(=爽やかな気分になって・元気を回復して〈さわやかな きぶんになって・げんきを かいふくして〉)家路(いえじ)につきました( "However, Conference participants went home feeling neither bored nor nihilistic, but much refreshed." ).神のお蔭(かみの おかげ)です( "Deo Gratias." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注1
「諸殉教者の元后の館」"Queen of Martyrs House" の
「(諸)殉教者の元后」の意味について:
→ヨハネの黙示録:第5,6,7,12,16,21,22等の各章を参照.
I 唯一の真の神の御独り子・救世主イエズス・キリストは,
天地における諸王の王・主君の主君である.
II 人となられた神イエズス・キリストの御母となられた聖母マリアはまた
「神の御母」( "Sancta Dei Génetrix", "Mater Dei" )
(=神すなわち天地の創造主をお生みになった御母)
と呼ばれ
天地の元后("Regina cæli" )
「天使と人類の女王の中の女王・后(きさき)の中の后」
=「元后(げんこう)」
と呼ばれる.
・"Our Lady / Notre Dame / Nostra Signora / Nuestra Señora …" 等は
女王・后(王妃)に対する敬称で,
「天地の我等(天使と全人類)の女王(お后)さま」
(てんちのわれら(てんしとぜんじんるい)のじょおう(おきさき)さま)
という意義(いぎ).
「神」
・元から在す御方(はじめから まします おかた)「三位一体」(さんみ いったい)
①「神である御父(第一位)」
⇒聖マリアは,神の娘の中の娘,諸々の女性の中の女性,母の中の母
→「天使祝詞」"Salutatio angelica" を参照.
"Ave, María, grátia plena: Dóminus tecum:
benedícta tu in muliéribus,
et benedíctus fructus ventris tui, Iesus.
Sancta María, Mater Dei, ora pro nobis peccatóribus,
nunc et in hora mortis nostræ. Amen."
「めでたし,聖寵充ち満てるマリア,
主御身と共に在(ましま)す.
御身は女のうちにて祝せられ,
御胎内の御子(ごたいないのおんこ)
イエズスも祝せられ給う.
天主の御母聖マリア,
罪人なるわれらのために,
今も臨終の時も祈り給え.
アーメン.」
②「神である御独り子(=救世主イエズス・キリスト)(第二位)」
⇒聖マリアは,神の最愛の御母
キリストによって神の御母となった聖マリアは,また
キリストを通して神を信じる全ての人の母となった.
→新約聖書・ヨハネ聖福音書:第19章26-27節を参照.
『(イエズスの十字架のかたわらには,その母と,母の姉妹と,
クロパの妻マリアと,マグダラのマリアが立っていた.)
イエズスはその母と愛する弟子(聖ヨハネ)がそばに立っているのを見られ,
母に「婦人よ,これがあなたの子だ」と言われ,
また弟子には「これがあなたの母だ」と言われた.
その時からその弟子は,マリアを自分の家に引き取った.』
③「神である聖霊(第三位)」
⇒聖マリアは,神の真実・正義・慈愛・善良に信頼し,
「信仰」によって
「自分を無にして神の御意志に完全に従った」ので,
神である聖霊に選ばれて,救世主の母となった.
御独り子キリストもまた,
「信仰」によって
「自分を無にして神の御意志に完全に従った.」
そして,御自分に託された救世の御業を完了された.
(「信仰」は「心」に持つもので,聖霊の恩寵によって,神より授かる.
→「信仰」のはじめは,自分の霊魂・身体・精神の創造主を覚え,従うこと.)
→旧約聖書:コヘレットの書(伝道):第11章7-10節,第12章1-8節を参照.
* * *
教会の希望
→新約聖書:ヨハネ聖福音書:第14章1-6ー11節を参照.
『(イエズスが)
「心を騒がせることはない.神を信じそして私をも信じよ.
私の父の家には住みかが多い.
もしそうでなければあなたたちに知らせていただろう.
私はあなたたちのために場所を準備しに行く.
そして,行って場所を準備したら,
あなたたちをともに連れていくために帰ってくる.
私のいる所にあなたたちも来させたいからである.
私がどこに行くかは,あなたたちがその道を知っている」
と言われると,トマが,
「主よ,私たちはあなたがどこに行かれるかを知りません.
どうしてその道がわかりましょう」と言った.
するとイエズスは言われた,
「私は道であり,真理であり,命である.私によらずには
だれ一人父のみもとには行けない.
私を知れば私の父も知るだろう.…」』
(注釈)
*御子は御父におられ,御父は御子においでになることを
知るのは信仰である.
* * *
「私たちの主キリストと御母聖マリアにならう」
神の真実・正義・慈愛に従う人生は
苦難と屈辱の連続でも,
人生の最期に安らぎをもたらす.
心に悔いを残さずに,最期を迎えることが出来る.
それは,私たちの御父である真の神の御独り子によって,
御父との間に霊魂の平和を得ているからである.
(注)引用聖書を追補いたします.
* * *
(注:本投稿記事〈第370回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月12日23:45に公開されました.)
2週間前(にしゅうかん まえ)にブロードステアーズ(Broadstairs, England = イングランド・ケント州)(ぶろーどすてあーず〈いんぐらんど・けんとしゅう〉)のクイーン・オヴ・マーターズ・ハウス "Queen of Martyrs House" (「諸殉教者の元后の館」〈「しょ じゅんきょうしゃの げんこうの やかた」〉.)(訳注後記1)で開(ひら)かれたディケンズ会議(でぃけんず かいぎ)( “The Dickens Conference” )は,その質素な制約の範囲内(しっそな せいやくの はんい ない)( “within its modest limits” )では上々の運び(じょうじょうの はこび)でした( "The Dickens Conference held two weeks ago at Queen of Martyrs House in Broadstairs, England, went very well, within its modest limits." ).土曜日(どようび)に少し雨が降り(すこし あめが ふり)ましたが,日曜日は快晴(にちようびは かいせい)でした( "On the Saturday there was only a little rain, the Sunday was all sunshine, …" ).会議(かいぎ)にはおよそ30名が参加(さんじゅう めいが さんか)しました.ほとんどは英国(えいこく)からでしたが,デンマーク,フランス,米国(でんまーく・ふらんす・べいこく)からも参加者(さんかしゃ)がありました( "… and nearly 30 participants, mostly from England but also from Denmark, France and the USA, " ).彼ら(かれら)はハウスでの滞在(はうすでの たいざい),カトリック信徒同士(かとりっく しんと どうし)の付き合い(つきあい),デイヴィッド(=デービッド)・ホワイト博士(でーびっど・ほわいと はかせ〈はくし〉)( “Dr. David White” )によるチャールズ・ディケンズ(ちゃーるず・でぃけんず)(1812-1870年)(せん はっぴゃく じゅうに ねん-せん はっぴゃく なな〈しち〉じゅう ねん)の三作品(さん さくひん)についての3回の講義(さんかいの こうぎ)を大いにエンジョイしました(=楽しみました)(おおいに えんじょい しました)〈たのしみ ました〉( "… much enjoyed the house, one another’s Catholic company, and the three lectures of Dr David White on three novels of Charles Dickens (1812-1870), …" ).ディケンズはウイリアム・シェークスピア(うぃりあむ・しぇーくすぴあ)に次いで(ついで)英国で最も愛された作家(えいこくで もっとも あいされた さっか)です( "England’s best loved writer after William Shakespeare." ).
冒頭(ぼうとう)に「質素な制約の範囲内(しっそな せいやくの はんい ない)」と書(か)きましたが( " ‘Within modest limits …”" ),それは土曜,日曜に執り行われたミサ聖祭以外(どよう・にちように とりおこなわれた みさせいさい いがい)に( "… because outside of the devoutly attended Masses on the Saturday and Sunday, …" ),会合の期間中(かいごうのきかんちゅう),外見的(がいけんてき)には神(かみ)にかかわる行事(かみに かかわる ぎょうじ)がほとんどなかったからです( "… there was little outwardly supernatural about the Conference." ).神聖というより健全な会合(しんせい というより けんぜんな かいごう)( “it was a session of sanity rather than sanctity” )だったと申し上げ(もうし あげ)ましょう( "Let us say that it was a session of sanity rather than sanctity, …" ).ただ,私(わたくし)たちは少(すく)なくとも英語(えいご)の “sanity” という言葉(ことば)は “sanctity” という言葉が持つ意味(もつ いみ)の4分の3を占める(よんぶんの さんを しめる)ことに直ちに気づく(ただちに きづく)はずです( "… but we notice immediately that at least in English the word “sanity” makes up three quarters of the word “sanctity”." ).恩寵(おんちょう)( “grace” )は人間性を高め(にんげんせいを たかめ)ます( "Grace builds on nature, …" ).それが私たちの周りの世界(まわりの せかい)が日を追う毎に浸って(ひをおう ごとにひたって)いる人間性の狂気,堕落を助長(にんげんせいの きょうき,だらくを じょちょう)することはまずありえません( "… and it can hardly build on the insanity and corruption of nature to which the world around us is giving itself over, day by day." ).したがって,健全(けんぜん)さは今日(こんにち)かつてないほど重要性を増し(じゅうようせいを まし)ています.それは神にかかわることについてさえ当て(あて)はまることです( "Sanity is therefore more important than ever, even for supernatural purposes." ).もし,現在(げんざい)「抵抗運動」(「ていこう うんどう」)( “the Resistance” )があまり進展(しんてん)していないように見える(みえる)とすれば( "If the “Resistance” is presently making so little apparent headway, …" ),それは人々(ひとびと)が心の腐敗(こころの ふはい)( “mind-rot” )や真の服従(=従順),神聖さの腐敗(まことの ふくじゅう〈=じゅうじゅん〉,しんせいさの ふはい)( “rot of true obedience and sanctity” )に気(き)づいて,それを追い払う(おい はらう)だけの健全さ(けんぜん さ)を相変(あいか)わらず十分に持て(じゅうぶんに もて)ないでいるからではないでしょうか?( "… is it not because there is just not enough sanity still around to recognize and cast out the mind-rot, and the rot of true obedience and sanctity ? " )
ホワイト博士は最初の講義で(ほわいと はかせは さいしょの こうぎで)「デイヴィッド・コパフィールド」(でいびっど・こぱふぃーるど)( “David Copperfield” )について話(はな)されました( "In Dr White’s first lecture he spoke of David Copperfield, …" ).これはディケンズが書いた数多くの小説(かいた かずおおくの しょうせつ)のなかでも自らお気に入りの作品の一つ(みずから おきにいりの さくひんの ひとつ)で( "… Dickens’ own favourite amongst his many novels, …" ),とくにブロードステアーズと深く関わって(ぶろーどすてあーずと ふかく かかわって)います( "… and specially linked to Broadstairs." ).それは彼が愛したこの海辺の町(かれが あいした この うみべの まち)を仕事や休暇で何度も訪れる(しごとや きゅうかで なんども おとずれる)うちに,現在でも海岸近くに残る(げんざいでも かいがん ちかくに のこる)小さな家に住んでいた変わり者の老婦人(ちいさないえに すんでいた かわりものの ろう ふじん)と知り合い(しりあい)になったからです( "This is because on Dickens’ many visits for work or holidays to his beloved seaside town, he came to know an eccentric old lady who lived in a small house still existing on the sea-front." ).この婦人(ふじん)はディケンズに深い印象を与えた(でぃけんずに ふかい いんしょうを あたえた)ため,彼(かれ)は 「デイヴィッド・コパフィールド」 の中に彼女を(「でいびっど・こぱふぃーるど」の なかに かのじょを)ベッツィー・トロットウッド(べっつぃー・とろっとうっど)( “Betsy Trotwood” )として登場(とうじょう)させました( "She so impressed him that he built her into David Copperfield as Betsy Trotwood, …" ).彼女は小説の主人公(しょうせつの しゅじんこう)である孤児を引き受け(こじを ひきうけ),彼が社会で独り立ちするまで面倒を見る(かれが しゃかいで ひとりだち するまで めんどうを みる)という一風変わった老婦人(いっぷう かわった ろう ふじん)です( "… an eccentric old lady who takes in the orphaned hero of the novel and protects him until he finds his way in life." ).ディケンズは自らの清教徒信仰 (でぃけんずは みずからの せいきょうと しんこう) "Puritanism" やカルビン主義(かるびん しゅぎ) "Calvinism" に対する嫌悪感(たいする けんお かん)をこの老婦人に重ね(かさね)ていると,ホワイト博士は解説(ほわいと はかせは かいせつ)しました( "In her mouth Dickens puts his own hatred of Puritanism and Calvinism, said Dr White." ).ディケンズは一生の間(いっしょうの あいだ)に少なくとも一度(すくなくとも いちど)だけカトリック教こそが本物の宗教だと聞かされ(かとりっく きょう こそが ほんものの しゅうきょう だと きかされ)ましたが,カトリック教徒には決して(かとりっく きょうと には けっして)なりませんでした( "At least once in his life Dickens was told that Catholicism is the one true religion, but he never became a Catholic." ).だが,彼はキリストの教義に最高の敬意を抱いて(かれは きりすとの きょうぎに さいこうの けいいを いだいて)いましたし( "However, he had a supreme respect for the Gospel of Christ, …" ),彼の多くの小説(かれの おおくの しょうせつ)ではページ(ぺーじ)のいたるところに生まれつき心の優しい人物が登場(うまれつき こころの やさしい じんぶつが とうじょう)し互いに絡み合い(たがいに からみあい)ます( "… and genuinely good-hearted characters tumble over one another in the pages of his novels." ).
会議参加者は土曜日の午後(かいぎ さんかしゃは どようびの ごご),「ベッツィー・トロットウッド」の住んでいた海辺の家を見学(「べっつぃー・とろっとうっど」の すんでいた うみべの いえを けんがく)しました( "On Saturday afternoon there followed a visit to the sea-front house of “Betsy Trotwood”, …" ).ここは現在(げんざい),ディケンズ博物館(でぃけんず はくぶつかん)になっており,作者縁の記念品が沢山展示(さくしゃ ゆかりの きねんひんが たくさん てんじ)されています.館長もディケンズ愛好家(かんちょうも でぃけんず あいこうか)です( "… now a Dickens Museum; full of Dickensian memorabilia and with a Dickensian curator. " ).会議二日目の講義題目(かいぎ ふつかめの こうぎ だいもく)は 「荒涼館」 (こうりょうかん)( “Bleak House” ) でした( "Then the second conference was on Bleak House, …" ).これは英国が暗い状況に変わって(えいこくが くらい じょうきょうに かわって)いったディケンズ第2期の最初の小説(でぃけんず だいにきの さいしょの しょうせつ)です( "… first novel of Dickens’ second period, when England was growing darker." ).この作品(さくひん) 「荒涼館」 “Bleak House” で彼は弁護士たちとりわけ法律(べんごしたち,とりわけ ほうりつ)に攻撃の矛先を向け(こうげきの ほこさきを むけ)ます( "Bleak House attacks lawyers and the law in particular, …" ).だが,ホワイト博士によれば,ディケンズが全体(ぜんたい)として攻撃の対象(こうげきの たいしょう)とするのは,社会を次第に強くコントロール(しゃかいを しだいに つよく こんとろーる)するようになり,罪のない羊を混乱させ押しつぶす制度(つみの ない ひつじ たちを こんらん させ おし つぶす せいど)( “a System” )です( " … but in general, said Dr White, it attacks a System more and more in control of society, demoralizing and crushing the innocent sheep." ).政治は次第に無意味(せいじは しだいに むいみ)になり,貴族社会(きぞく しゃかい)はますます現実から遊離(げんじつ から ゆうり)していきます( "Politics are becoming meaningless and the aristocracy is losing touch with reality, ….それでも,非人間的な制度(ひにんげん てきな せいど)はどんどん進み(すすみ),結局は偽物であるが故に崩壊(けっきょくは にせもの である がゆえに ほうかい)します( "… but an inhuman System is driving forward until it will finally collapse under its faksehood, …" ).第二バチカン公会議についても同様(だいに ばちかん こうかいぎ についても どうよう)だと,ホワイト博士は付言(ふげん))しました( "… in the manner of Vatican II, added Dr White." ).
博士が日曜日の午前に行われた3番目の講義で取り上げた(はかせが にちようびの ごぜんに おこなわれた さんばんめの こうぎで とりあげた)のは 「ハード・タイムズ」 (はーど・たいむず)( “Hard Times” )でした( "The third lecture presented on Sunday morning Hard Times, …" ).これも暗い時代に書かれた小説(くらい じだいに かかれた しょうせつ)で( "… another of the darker novels, …" ),150年も前の(ひゃく ごじゅう ねんも まえの)! 真の教育の完全欠如を題材(まことの きょういくの かんぜん けつじょを だいざい)にしています( "… about the total lack of real education, 150 years ago ! " ).ディケンズは心の教育(こころの きょういく)がなくなると,人間は冷たく(にんげんは つめたく)なり人間味(にんげん み)がなくなることを知っていました( "Without education of the heart, Dickens knew that human beings will be cold and inhuman." ).ホワイト博士は米国海軍アカデミー(べいこく かいぐん あかでみー)で長年教え(ながねん おしえ)てきた自らの経験(みずからの けいけん)を引き合いに出し(ひきあいに だし)て,歴史,芸術,音楽,文学,とりわけ詩(れきし,げいじゅつ,おんがく,ぶんがく,とりわけ し)をはねつける「教育」が産み出す社会的ロボット(「きょういく」が うみだす しゃかい てき ろぼっと)( “social robots” )の途方もない愚行(とほうも ない ぐこう)についてディケンズが描いた内容を詳しく説明(でぃけんずが えがいた ないようを くわしく せつめい)しました( "Dr White drew on his decades of teaching in the USA Naval Academy to back up Dickens’ portrait of the enormous stupidity of the social robots engineered by an “education” spurning history, the arts, music, literature and especially poetry." ).博士はそうした教育が結果(はかせは そうした きょういくが けっか)として今日の若者(こんにちの わかもの)を果てしなく(はてしなく)ものぐさにしており,それは彼らの完全なニヒリズムの表れだと解説(かれらの かんぜんな にひりずむの あらわれだと かいせつ)しました( "The result, he said, is the boundless boredom of youngsters today, a reflection of pure nihilism." ).
ただし,今回の会議参加者(こんかいの かいぎ さんかしゃ)は退屈にもニヒリスティックにも(たいくつ にも にひりすてぃっくにも)ならず( "feeling neither bored nor nihilistic" ),大いに気持ちをリフレッシュ(おおいに きもちを りふれっしゅ)して( "much refreshed" )(=爽やかな気分になって・元気を回復して〈さわやかな きぶんになって・げんきを かいふくして〉)家路(いえじ)につきました( "However, Conference participants went home feeling neither bored nor nihilistic, but much refreshed." ).神のお蔭(かみの おかげ)です( "Deo Gratias." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注1
「諸殉教者の元后の館」"Queen of Martyrs House" の
「(諸)殉教者の元后」の意味について:
→ヨハネの黙示録:第5,6,7,12,16,21,22等の各章を参照.
I 唯一の真の神の御独り子・救世主イエズス・キリストは,
天地における諸王の王・主君の主君である.
II 人となられた神イエズス・キリストの御母となられた聖母マリアはまた
「神の御母」( "Sancta Dei Génetrix", "Mater Dei" )
(=神すなわち天地の創造主をお生みになった御母)
と呼ばれ
天地の元后("Regina cæli" )
「天使と人類の女王の中の女王・后(きさき)の中の后」
=「元后(げんこう)」
と呼ばれる.
・"Our Lady / Notre Dame / Nostra Signora / Nuestra Señora …" 等は
女王・后(王妃)に対する敬称で,
「天地の我等(天使と全人類)の女王(お后)さま」
(てんちのわれら(てんしとぜんじんるい)のじょおう(おきさき)さま)
という意義(いぎ).
「神」
・元から在す御方(はじめから まします おかた)「三位一体」(さんみ いったい)
①「神である御父(第一位)」
⇒聖マリアは,神の娘の中の娘,諸々の女性の中の女性,母の中の母
→「天使祝詞」"Salutatio angelica" を参照.
"Ave, María, grátia plena: Dóminus tecum:
benedícta tu in muliéribus,
et benedíctus fructus ventris tui, Iesus.
Sancta María, Mater Dei, ora pro nobis peccatóribus,
nunc et in hora mortis nostræ. Amen."
「めでたし,聖寵充ち満てるマリア,
主御身と共に在(ましま)す.
御身は女のうちにて祝せられ,
御胎内の御子(ごたいないのおんこ)
イエズスも祝せられ給う.
天主の御母聖マリア,
罪人なるわれらのために,
今も臨終の時も祈り給え.
アーメン.」
②「神である御独り子(=救世主イエズス・キリスト)(第二位)」
⇒聖マリアは,神の最愛の御母
キリストによって神の御母となった聖マリアは,また
キリストを通して神を信じる全ての人の母となった.
→新約聖書・ヨハネ聖福音書:第19章26-27節を参照.
『(イエズスの十字架のかたわらには,その母と,母の姉妹と,
クロパの妻マリアと,マグダラのマリアが立っていた.)
イエズスはその母と愛する弟子(聖ヨハネ)がそばに立っているのを見られ,
母に「婦人よ,これがあなたの子だ」と言われ,
また弟子には「これがあなたの母だ」と言われた.
その時からその弟子は,マリアを自分の家に引き取った.』
③「神である聖霊(第三位)」
⇒聖マリアは,神の真実・正義・慈愛・善良に信頼し,
「信仰」によって
「自分を無にして神の御意志に完全に従った」ので,
神である聖霊に選ばれて,救世主の母となった.
御独り子キリストもまた,
「信仰」によって
「自分を無にして神の御意志に完全に従った.」
そして,御自分に託された救世の御業を完了された.
(「信仰」は「心」に持つもので,聖霊の恩寵によって,神より授かる.
→「信仰」のはじめは,自分の霊魂・身体・精神の創造主を覚え,従うこと.)
→旧約聖書:コヘレットの書(伝道):第11章7-10節,第12章1-8節を参照.
* * *
教会の希望
→新約聖書:ヨハネ聖福音書:第14章1-6ー11節を参照.
『(イエズスが)
「心を騒がせることはない.神を信じそして私をも信じよ.
私の父の家には住みかが多い.
もしそうでなければあなたたちに知らせていただろう.
私はあなたたちのために場所を準備しに行く.
そして,行って場所を準備したら,
あなたたちをともに連れていくために帰ってくる.
私のいる所にあなたたちも来させたいからである.
私がどこに行くかは,あなたたちがその道を知っている」
と言われると,トマが,
「主よ,私たちはあなたがどこに行かれるかを知りません.
どうしてその道がわかりましょう」と言った.
するとイエズスは言われた,
「私は道であり,真理であり,命である.私によらずには
だれ一人父のみもとには行けない.
私を知れば私の父も知るだろう.…」』
(注釈)
*御子は御父におられ,御父は御子においでになることを
知るのは信仰である.
* * *
「私たちの主キリストと御母聖マリアにならう」
神の真実・正義・慈愛に従う人生は
苦難と屈辱の連続でも,
人生の最期に安らぎをもたらす.
心に悔いを残さずに,最期を迎えることが出来る.
それは,私たちの御父である真の神の御独り子によって,
御父との間に霊魂の平和を得ているからである.
(注)引用聖書を追補いたします.
* * *
(注:本投稿記事〈第370回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月12日23:45に公開されました.)
2014年8月9日土曜日
369 古代イスラエル人,現代イスラエル人? 8/9
エレイソン・コメンツ 第369回 (2014年8月9日)
(神と古代イスラエル人〈=古代ユダヤ人〉との間で交わされた)旧約(〈かみと こだい いすらえるじん〈=こだい ゆだやじん〉との あいだで かわされた〉 きゅうやく)にあるように( "in the Old Testament" )全能の神(ぜんのうの かみ)がある特定の人々(とくていの ひとびと)を根絶やし(ねだやし)にするべく下された諸々の命令(くだされた もろもろの めいれい)は(例えば,旧約聖書・サミュエル前書:第15章を参照〈たとえば,きゅうやく せいしょ・さみゅえる ぜんしょ:だい じゅうご しょうを さんしょう〉)(訳注後記1),それら異教徒たち自身に向けられた正義と慈悲による行為(いきょうと たちに むけられた せいぎと じひに よる こうい)であり,人の姿をとられた(=人間と同じ肉体を身にまとわれた)神(ひとのすがたをとられた〈=にんげんと おなじ にくたいを みに まとわれた〉かみ( "the Incarnate God" )すなわち私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)( "Our Lord Jesus Christ" )が数世紀(すう せいき)のちに(天より)御降誕されるのに備え(てんより ごこうたん されるのに そなえ)古代イスラエル人に揺りかごを用意させるための行為(こだい いすらえるじんに ゆりかごを ようい させる ための こうい)だったと認(みと)めましょう(エレイソン・コメンツ第368回を参照)( "Let us then grant (EC 368) that the orders of Almighty God to exterminate certain peoples in the Old Testament (e.g. I Sam. XV) were an act of justice and mercy towards the pagans themselves, and an act also designed to help the Israelites forward towards cradling the Incarnate God, Our Lord Jesus Christ, when he would come many centuries later." ).古代イスラエル人たちは,とりわけ祝福された童貞聖マリア(しゅくふく された どうてい まりあ)( “the Blessed Virgin Mary” )を通(つう)じて,この揺りかごを確(たし)かに用意しました( "This cradle the Israelites did provide, especially through the Blessed Virgin Mary, …" ).全人類はこの神の御母(=聖母)となられた聖マリアに限りない感謝の気持ちを持たねば(ぜんじんるいは この かみの おんはは〈=せいぼ〉と なられた せい まりあに かぎりない かんしゃの きもちを もたねば)なりません( "… to whom the entire human race owes a boundless debt of gratitude." ).私たちの誰もが確実に天国へたどり着ける(わたくしたちの だれもが かくじつに てんごくへ たどりつける)としたら( "If any of us does get to Heaven, …" ),それはただ偏に彼女聖母マリアのお取り成しを通して(ひとえに かのじょ せいぼ まりあの おとりなしを とおして)だけなのですから( "… it will be only through her intercession." ).
では,そのようにして救いをもたらす諸々の古代ユダヤ人(すくいを もたらす もろもろの こだい ゆだや じん)(新約聖書・聖ヨハネによる聖福音書:第4章22節を参照)(訳注後記2)とパレスチナ人(ぱれすちな じん)を虐殺(ぱれすちなじんを ぎゃくさつ)もしくは道徳的,金銭的に虐殺を支えて(どうとくてき,きんせんてきに ぎゃくさつを ささえて)いる今日のユダヤ人多数(こんにちの ゆだやじん たすう)との間(あいだ)にどのような関連性(かんれんせい)があるのでしょうか?( "Then what connection can there be between those Jews through whom salvation comes (Jn. IV, 22) and the mass of Jews today, who are either massacring Palestine or supporting the massacre, morally or financially ? " ) 今日のユダヤ人の大多数(こんにちの ゆだやじんの だいたすう)はアシュケナージ・ユダヤ人(あしゅけなーじ・ゆだやじん)( “Ashkenazy Jews” )ですから,アブラハムの血を受け継いだ末裔(あぶらはむの ちを うけついだ まつえい)ではないのでしょう( "The majority of today's Jews being Ashkenazy Jews, they may well be no blood-descendants of Abraham, …" ).だが,それはさておき( "… but be that as it may, …" ),彼らがキリスト教以降のユダヤ教の聖典タルムード(きりすときょう いこうの ゆだやきょうの せいてん たるむーど)( “the Talmud” )を通(とお)して私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が仰せられる(おおせられる)「ファリザイ人とサドカイ人のパン種」(ふぁりざいじんと さどかいじんの ぱんだね)(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第16章11節を参照)(訳注後記3)( “ “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11) ” )を受け入れたのは確か(うけいれた のは たしか)です( "… they have certainly absorbed through the Talmud, the holy book of post-Christian Judaism, what Our Lord called “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11), …" )このパン種とは私たちの主イエズス・キリストを十字架にかけ(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすとを じゅうじかに かけ),それ以来彼キリストの教会と戦って(いらい きょうかいと たたかって)きた不倶戴天の敵の精神を意味(ふぐたいてんの てきの せいしんを いみ)します( "… meaning the spirit of his bitter enemies who crucified him and have fought his Church ever since." ).神の「選民」(かみの せんみん)がどうして神の一貫した最悪の敵(かみの いっかん した さいあくの てき)になったのでしょうか?( "How can his Chosen People have turned into some of his consistently worst enemies ? " )(もし,この疑問を投げ〈ぎもんを なげ〉かけるだけで「反ユダヤ的」〈はん ゆだや てき〉だというなら( " (If the mere question seems “anti-semitic”, …" ),真実は良い〈しんじつはよい〉が「反ユダヤ主義」は悪い〈はん ゆだや しゅぎは わるい〉,したがって,いかなる真実も「反ユダヤ的」でありえないし,いかなる「反ユダヤ的」なものも真実でありえない,という言い方を思い起こす〈いいかたを おもいおこす〉といいでしょう( "… let it be recalled that truth is good while “anti-semitism” is bad, so nothing true can be “anti-semitic” and nothing “anti-semitic” can be true." ).私が以下に述べるのは真実〈いかに のべるのは しんじつ〉であり,いわゆる「反ユダヤ主義」とは全く関係ありません〈いわゆる「はん ゆだや しゅぎ」とは まったく かんけい ありません〉( "What follows is the truth, and has nothing whatsoever to do with so-called “anti-semitism”)." ).)
まず第一(だいいち)に,もし選民が自らの神に背を向け(せんみんが みずからの かみに せを むけ)たとしたら( "Firstly, if the Chosen People turned against their God, …" ),問題は年代を経て起きたことのように思われる(もんだいは ねんだいを へて おきた ことの ように おもわれる)かもしれませんが( "… the problem may seem chronological …" ),実際(じっさい)はそうではありません( "… but it is not." ).旧約の期間を通し(きゅうやくの きかんを とおし)て神に敵対した古代ユダヤ人(かみに てきたい した こだい ゆだやじん)たちがいました( "Throughout the Old Testament there were Israelites who turned against God, …" ).たとえば,金の子牛( “the Golden Calf” )の崇拝者(きんの こうしの すうはいしゃ)たち( "… for instance the worshippers of the Golden Calf …" ),すなわちバビロンに追放されたユダヤ人(ばびろんに ついほう された ゆだやじん)たちです( "… or the Jews exiled to Babylon." ).神はしばしば「頑な(かたくな)」で( “stiff-necked” )反抗的な人々を罰し(はんこうてきな ひとびとを ばっし)なければなりませんでした( "God frequently had to punish his own “stiff-necked” and rebellious people." ).同(おな)じように,新約の時期から私たちの時代にいたるまで,生粋のユダヤ人である聖パウロ(きっすいの ゆだやじん である せい ぱうろ)のようにキリスト教に改宗した著名なユダヤ人はつねに存在(きりすと きょうに かいしゅう した ちょめいな ゆだやじんは つねに そんざい)しました(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章1-5節; コリント後書〈使徒聖パウロのコリント人への第二の書簡〉:第11章21-22節; 使徒聖パウロのフィリピ人への書簡:第3章4-6節を参照)( "Likewise from the beginning of the New Testament down to our own day there have always been outstanding Jewish converts, like St Paul, who was as Jewish as could be (cf. Rom. IX, 1-5; II Cor. XI, 21-22; Phil. III, 4-6)." ).古代イスラエル人と現代イスラエル人の違い(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの ちがい)は,いつの時代(じだい),どの人種(じんしゅ)にも神を愛する者(かみを あいする もの)と神に反旗を翻す者(かみに はんきを ひるがえす もの)がいた違いと同じ(ちがいと おなじ)ことです.真の「ユダヤ‐キリスト教徒」の 系列( “Judeo-Christian” )(まことの 「ゆだや‐きりすと きょうと」の けいれつ)はアベル “Abel” に始まり,たとえば,アブラハム “Abraham”,モーゼ “Moses”,ダビド “David”,神の御母(=聖母マリア) “the Mother of God” を経て(あべるに はじまり,たとえば,あぶらはむ,もーぜ,だびど,かみのおんはは〈=せいぼ まりあ〉を へて)カトリック教会に( “to the Catholic Church” )繋がって(かとりっく きょうかいに つながって)います( "The true “Judeo-Christian” line stretches from Abel through, for instance, Abraham, Moses, David and the Mother of God to the Catholic Church." ).偽り(いつわり)の「ユダヤ‐キリスト教徒」で真の「ユダヤ‐メーソン会員」の系列(いつわりの ゆだや‐きりすと きょうとで まことの「ゆだや‐めーそん かいいん」の けいれつ)( “Judeo-Masonic” )は咎められたカインに始まり,たとえば,神の預言者の殺害者アンナ “Anas”,カヤファ “Caiphas” を経て(とがめられた かいん に はじまり,たとえば,かみの よげんしゃの さつがいしゃ あんな,かやふぁを へて)近代のフリーメーソン組織( “to modern Freemasonry” )に繋がって(きんだいの ふりーめーそん そしきに つながって)います( "The false “Judeo-Christian” but true “Judeo-Masonic” line stretches from the accursed Cain through, for instance, the killers of God's prophets to Anas and Caiphas to modern Freemasonry, …" ).この組織(そしき)はユダヤ人が創り出した(ゆだやじんが つくり だした)もので,多くの会員は知らない(おおくの かいいんは しらない)でしょうが,いまだにカトリック教と戦う目的(かとりっくきょうと たたかう もくてき)でユダヤ人によって支配され(ゆだやじんに よって しはい され)ています( "… which was created by Jews and is still controlled by them for purposes of fighting the Catholic Church, even if many Masons are ignorant of the fact." ).
ここまでは良い(よい)として,古代イスラエル人と現代イスラエル人の落差はとくに際立って(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの らくさは とくに きわだって)いるのではないでしょうか?( "Well and good, but is not the contrast between Israelites and Israelis especially sharp ? " ) 確かにその通り(たしかに そのとおり)です.それはなぜかと言(い)えば,古い(ふるい)ことわざの通(とお)り「高ければ高いほど,ひどく落ちる(たかければ たかいほど, ひどく おちる)」( “The higher they are, the harder they fall” )ということでしょう( "Yes, because as the old saying goes, “The higher they are, the harder they fall.” " ).選民(せんみん)は神の特別の僕となることを拒み(かみの とくべつの しもべと なることを こばみ)( "Once the Chosen People refused to be the special servants of God, …" ),(神の御独り子〈かみのおんひとりご〉の)御託身(ごたくしん) “the Incarnation” いらいおおむねそうし続(つづ)けてきました( "… as they have largely done from the Incarnation onwards, …" ).それにより彼(かれ)らは悪魔の特別の僕となる運命(あくまの とくべつの しもべとなる うんめい)となったのです( "… they were bound to become the special servants of the Devil." ).彼らにとって,その中間の選択(ちゅうかんの せんたく)などありえませんでした( "For them there could be nothing in between." ).彼(かれ)らが神の僕となるのを拒んだ背景(かみの しもべと なるのを こばんだ はいけい)に何(なに)があったのでしょうか?( "And what was behind that refusal ? " )一言で言えば,自尊心(ひとことで いえば,じそんしん)( “pride” )です( "In one word, pride." ).彼らは神の特別の贈り物(かみの とくべつの おくりもの)を神の御光栄のために使わず(かみの ごこうえいの ために つかわず),その代わり(かわり)に( "Instead of using God's special gifts to them for his glory, …" )自分たちの光栄(じぶんたちの こうえい)のために(=自分たち自身の光栄となるよう〈じぶんたちじしんの こうえいと なるよう〉)転用(てんよう)しました( "… they bent them to their own glory." ).救世主がこの世に来られる前(きゅうせいしゅが このよに こられる まえ),彼らはやがて現(あらわ)れるのは精神的でなく物質的な救世主(せいしんてき でなく ぶっしつてきな きゅうせいしゅ)だと思い違い(おもいちがい)(=誤解・見当違い〈ごかい・けんとうちがい〉)をしました( "Before their Messiah came, they misconceived him as their material instead of spiritual saviour, …" ).そのため,彼らは救世主が現れると,その受け入れを拒み(うけいれを こばみ)ました( "… so that when he came they refused to recognize him, …" ).それ以来(いらい),彼らは神(かみ)が民族固有のモーゼの宗教(みんぞく こゆうの もーぜの しゅうきょう)をあらゆる民族に開かれた包括的なカトリック教に置き換えた(あらゆる みんぞくに ひらかれた ほうかつ てきな かとりっく きょうに おきかえた)として神と戦って(かみと たたかって)きました( "… and from then on they fought him for having replaced their racially exclusive Mosaic religion with the racially all-inclusive Catholic religion, open to all races." ).
では,諸々のカトリック信徒たち(もろもろの かとりっく しんと たち)は,私たちの周り(わたくしたちの まわり)にいるかつての選民(せんみん)たちの圧倒的な物質的優性(=優位性)に対抗(あっとうてきな ぶつりてき ゆうせい〈ゆうい せい〉に たいこう)するには何ができるでしょうか?( "And what can Catholics do to resist the overwhelming material dominance of the once Chosen Ones all around us ? " ) 物質的にできることは皆無(かいむ)に等(ひと)しいでしょう( "Materially, next to nothing, …" ).だが,一人ひとりの霊魂(ひとり ひとりの れいこん)が心の中で誠意を込めて(こころの なかで せいいを こめて)神の王国の来るよう神の御心(=御旨)の為されるよう祈る(かみの おうこくの きたる よう かみの みこころ〈=みむね〉の なされるよう いのる)ならば( "… but a single soul praying spiritually and sincerely for God's kingdom to come and for his will to be done,…" ),物理的な山を動かしていただけるよう神を説得(ぶつりてきな やまを うごかして いただけるよう かみを せっとく)できるでしょう( "… can prevail on God to move material mountains, …" ).これは神にとって簡単(かみに とって かんたん)なこと( “child’s play” )です( "… child's play for God." ).神が彼らの物質的優性を許して(かみが かれらの ぶっしつてき ゆうせいを ゆるして)おられるのは,私たちを神のもとに戻す目的(わたくしたちを かみの もとに もどす もくてき)のためだけです( "He only allows that dominance in order to drive us back to him." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
訳注を追補いたします.
* * *
(注:本投稿記事〈第369回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月07日23:30に公開されました.)
(神と古代イスラエル人〈=古代ユダヤ人〉との間で交わされた)旧約(〈かみと こだい いすらえるじん〈=こだい ゆだやじん〉との あいだで かわされた〉 きゅうやく)にあるように( "in the Old Testament" )全能の神(ぜんのうの かみ)がある特定の人々(とくていの ひとびと)を根絶やし(ねだやし)にするべく下された諸々の命令(くだされた もろもろの めいれい)は(例えば,旧約聖書・サミュエル前書:第15章を参照〈たとえば,きゅうやく せいしょ・さみゅえる ぜんしょ:だい じゅうご しょうを さんしょう〉)(訳注後記1),それら異教徒たち自身に向けられた正義と慈悲による行為(いきょうと たちに むけられた せいぎと じひに よる こうい)であり,人の姿をとられた(=人間と同じ肉体を身にまとわれた)神(ひとのすがたをとられた〈=にんげんと おなじ にくたいを みに まとわれた〉かみ( "the Incarnate God" )すなわち私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)( "Our Lord Jesus Christ" )が数世紀(すう せいき)のちに(天より)御降誕されるのに備え(てんより ごこうたん されるのに そなえ)古代イスラエル人に揺りかごを用意させるための行為(こだい いすらえるじんに ゆりかごを ようい させる ための こうい)だったと認(みと)めましょう(エレイソン・コメンツ第368回を参照)( "Let us then grant (EC 368) that the orders of Almighty God to exterminate certain peoples in the Old Testament (e.g. I Sam. XV) were an act of justice and mercy towards the pagans themselves, and an act also designed to help the Israelites forward towards cradling the Incarnate God, Our Lord Jesus Christ, when he would come many centuries later." ).古代イスラエル人たちは,とりわけ祝福された童貞聖マリア(しゅくふく された どうてい まりあ)( “the Blessed Virgin Mary” )を通(つう)じて,この揺りかごを確(たし)かに用意しました( "This cradle the Israelites did provide, especially through the Blessed Virgin Mary, …" ).全人類はこの神の御母(=聖母)となられた聖マリアに限りない感謝の気持ちを持たねば(ぜんじんるいは この かみの おんはは〈=せいぼ〉と なられた せい まりあに かぎりない かんしゃの きもちを もたねば)なりません( "… to whom the entire human race owes a boundless debt of gratitude." ).私たちの誰もが確実に天国へたどり着ける(わたくしたちの だれもが かくじつに てんごくへ たどりつける)としたら( "If any of us does get to Heaven, …" ),それはただ偏に彼女聖母マリアのお取り成しを通して(ひとえに かのじょ せいぼ まりあの おとりなしを とおして)だけなのですから( "… it will be only through her intercession." ).
では,そのようにして救いをもたらす諸々の古代ユダヤ人(すくいを もたらす もろもろの こだい ゆだや じん)(新約聖書・聖ヨハネによる聖福音書:第4章22節を参照)(訳注後記2)とパレスチナ人(ぱれすちな じん)を虐殺(ぱれすちなじんを ぎゃくさつ)もしくは道徳的,金銭的に虐殺を支えて(どうとくてき,きんせんてきに ぎゃくさつを ささえて)いる今日のユダヤ人多数(こんにちの ゆだやじん たすう)との間(あいだ)にどのような関連性(かんれんせい)があるのでしょうか?( "Then what connection can there be between those Jews through whom salvation comes (Jn. IV, 22) and the mass of Jews today, who are either massacring Palestine or supporting the massacre, morally or financially ? " ) 今日のユダヤ人の大多数(こんにちの ゆだやじんの だいたすう)はアシュケナージ・ユダヤ人(あしゅけなーじ・ゆだやじん)( “Ashkenazy Jews” )ですから,アブラハムの血を受け継いだ末裔(あぶらはむの ちを うけついだ まつえい)ではないのでしょう( "The majority of today's Jews being Ashkenazy Jews, they may well be no blood-descendants of Abraham, …" ).だが,それはさておき( "… but be that as it may, …" ),彼らがキリスト教以降のユダヤ教の聖典タルムード(きりすときょう いこうの ゆだやきょうの せいてん たるむーど)( “the Talmud” )を通(とお)して私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が仰せられる(おおせられる)「ファリザイ人とサドカイ人のパン種」(ふぁりざいじんと さどかいじんの ぱんだね)(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第16章11節を参照)(訳注後記3)( “ “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11) ” )を受け入れたのは確か(うけいれた のは たしか)です( "… they have certainly absorbed through the Talmud, the holy book of post-Christian Judaism, what Our Lord called “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11), …" )このパン種とは私たちの主イエズス・キリストを十字架にかけ(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすとを じゅうじかに かけ),それ以来彼キリストの教会と戦って(いらい きょうかいと たたかって)きた不倶戴天の敵の精神を意味(ふぐたいてんの てきの せいしんを いみ)します( "… meaning the spirit of his bitter enemies who crucified him and have fought his Church ever since." ).神の「選民」(かみの せんみん)がどうして神の一貫した最悪の敵(かみの いっかん した さいあくの てき)になったのでしょうか?( "How can his Chosen People have turned into some of his consistently worst enemies ? " )(もし,この疑問を投げ〈ぎもんを なげ〉かけるだけで「反ユダヤ的」〈はん ゆだや てき〉だというなら( " (If the mere question seems “anti-semitic”, …" ),真実は良い〈しんじつはよい〉が「反ユダヤ主義」は悪い〈はん ゆだや しゅぎは わるい〉,したがって,いかなる真実も「反ユダヤ的」でありえないし,いかなる「反ユダヤ的」なものも真実でありえない,という言い方を思い起こす〈いいかたを おもいおこす〉といいでしょう( "… let it be recalled that truth is good while “anti-semitism” is bad, so nothing true can be “anti-semitic” and nothing “anti-semitic” can be true." ).私が以下に述べるのは真実〈いかに のべるのは しんじつ〉であり,いわゆる「反ユダヤ主義」とは全く関係ありません〈いわゆる「はん ゆだや しゅぎ」とは まったく かんけい ありません〉( "What follows is the truth, and has nothing whatsoever to do with so-called “anti-semitism”)." ).)
まず第一(だいいち)に,もし選民が自らの神に背を向け(せんみんが みずからの かみに せを むけ)たとしたら( "Firstly, if the Chosen People turned against their God, …" ),問題は年代を経て起きたことのように思われる(もんだいは ねんだいを へて おきた ことの ように おもわれる)かもしれませんが( "… the problem may seem chronological …" ),実際(じっさい)はそうではありません( "… but it is not." ).旧約の期間を通し(きゅうやくの きかんを とおし)て神に敵対した古代ユダヤ人(かみに てきたい した こだい ゆだやじん)たちがいました( "Throughout the Old Testament there were Israelites who turned against God, …" ).たとえば,金の子牛( “the Golden Calf” )の崇拝者(きんの こうしの すうはいしゃ)たち( "… for instance the worshippers of the Golden Calf …" ),すなわちバビロンに追放されたユダヤ人(ばびろんに ついほう された ゆだやじん)たちです( "… or the Jews exiled to Babylon." ).神はしばしば「頑な(かたくな)」で( “stiff-necked” )反抗的な人々を罰し(はんこうてきな ひとびとを ばっし)なければなりませんでした( "God frequently had to punish his own “stiff-necked” and rebellious people." ).同(おな)じように,新約の時期から私たちの時代にいたるまで,生粋のユダヤ人である聖パウロ(きっすいの ゆだやじん である せい ぱうろ)のようにキリスト教に改宗した著名なユダヤ人はつねに存在(きりすと きょうに かいしゅう した ちょめいな ゆだやじんは つねに そんざい)しました(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章1-5節; コリント後書〈使徒聖パウロのコリント人への第二の書簡〉:第11章21-22節; 使徒聖パウロのフィリピ人への書簡:第3章4-6節を参照)( "Likewise from the beginning of the New Testament down to our own day there have always been outstanding Jewish converts, like St Paul, who was as Jewish as could be (cf. Rom. IX, 1-5; II Cor. XI, 21-22; Phil. III, 4-6)." ).古代イスラエル人と現代イスラエル人の違い(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの ちがい)は,いつの時代(じだい),どの人種(じんしゅ)にも神を愛する者(かみを あいする もの)と神に反旗を翻す者(かみに はんきを ひるがえす もの)がいた違いと同じ(ちがいと おなじ)ことです.真の「ユダヤ‐キリスト教徒」の 系列( “Judeo-Christian” )(まことの 「ゆだや‐きりすと きょうと」の けいれつ)はアベル “Abel” に始まり,たとえば,アブラハム “Abraham”,モーゼ “Moses”,ダビド “David”,神の御母(=聖母マリア) “the Mother of God” を経て(あべるに はじまり,たとえば,あぶらはむ,もーぜ,だびど,かみのおんはは〈=せいぼ まりあ〉を へて)カトリック教会に( “to the Catholic Church” )繋がって(かとりっく きょうかいに つながって)います( "The true “Judeo-Christian” line stretches from Abel through, for instance, Abraham, Moses, David and the Mother of God to the Catholic Church." ).偽り(いつわり)の「ユダヤ‐キリスト教徒」で真の「ユダヤ‐メーソン会員」の系列(いつわりの ゆだや‐きりすと きょうとで まことの「ゆだや‐めーそん かいいん」の けいれつ)( “Judeo-Masonic” )は咎められたカインに始まり,たとえば,神の預言者の殺害者アンナ “Anas”,カヤファ “Caiphas” を経て(とがめられた かいん に はじまり,たとえば,かみの よげんしゃの さつがいしゃ あんな,かやふぁを へて)近代のフリーメーソン組織( “to modern Freemasonry” )に繋がって(きんだいの ふりーめーそん そしきに つながって)います( "The false “Judeo-Christian” but true “Judeo-Masonic” line stretches from the accursed Cain through, for instance, the killers of God's prophets to Anas and Caiphas to modern Freemasonry, …" ).この組織(そしき)はユダヤ人が創り出した(ゆだやじんが つくり だした)もので,多くの会員は知らない(おおくの かいいんは しらない)でしょうが,いまだにカトリック教と戦う目的(かとりっくきょうと たたかう もくてき)でユダヤ人によって支配され(ゆだやじんに よって しはい され)ています( "… which was created by Jews and is still controlled by them for purposes of fighting the Catholic Church, even if many Masons are ignorant of the fact." ).
ここまでは良い(よい)として,古代イスラエル人と現代イスラエル人の落差はとくに際立って(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの らくさは とくに きわだって)いるのではないでしょうか?( "Well and good, but is not the contrast between Israelites and Israelis especially sharp ? " ) 確かにその通り(たしかに そのとおり)です.それはなぜかと言(い)えば,古い(ふるい)ことわざの通(とお)り「高ければ高いほど,ひどく落ちる(たかければ たかいほど, ひどく おちる)」( “The higher they are, the harder they fall” )ということでしょう( "Yes, because as the old saying goes, “The higher they are, the harder they fall.” " ).選民(せんみん)は神の特別の僕となることを拒み(かみの とくべつの しもべと なることを こばみ)( "Once the Chosen People refused to be the special servants of God, …" ),(神の御独り子〈かみのおんひとりご〉の)御託身(ごたくしん) “the Incarnation” いらいおおむねそうし続(つづ)けてきました( "… as they have largely done from the Incarnation onwards, …" ).それにより彼(かれ)らは悪魔の特別の僕となる運命(あくまの とくべつの しもべとなる うんめい)となったのです( "… they were bound to become the special servants of the Devil." ).彼らにとって,その中間の選択(ちゅうかんの せんたく)などありえませんでした( "For them there could be nothing in between." ).彼(かれ)らが神の僕となるのを拒んだ背景(かみの しもべと なるのを こばんだ はいけい)に何(なに)があったのでしょうか?( "And what was behind that refusal ? " )一言で言えば,自尊心(ひとことで いえば,じそんしん)( “pride” )です( "In one word, pride." ).彼らは神の特別の贈り物(かみの とくべつの おくりもの)を神の御光栄のために使わず(かみの ごこうえいの ために つかわず),その代わり(かわり)に( "Instead of using God's special gifts to them for his glory, …" )自分たちの光栄(じぶんたちの こうえい)のために(=自分たち自身の光栄となるよう〈じぶんたちじしんの こうえいと なるよう〉)転用(てんよう)しました( "… they bent them to their own glory." ).救世主がこの世に来られる前(きゅうせいしゅが このよに こられる まえ),彼らはやがて現(あらわ)れるのは精神的でなく物質的な救世主(せいしんてき でなく ぶっしつてきな きゅうせいしゅ)だと思い違い(おもいちがい)(=誤解・見当違い〈ごかい・けんとうちがい〉)をしました( "Before their Messiah came, they misconceived him as their material instead of spiritual saviour, …" ).そのため,彼らは救世主が現れると,その受け入れを拒み(うけいれを こばみ)ました( "… so that when he came they refused to recognize him, …" ).それ以来(いらい),彼らは神(かみ)が民族固有のモーゼの宗教(みんぞく こゆうの もーぜの しゅうきょう)をあらゆる民族に開かれた包括的なカトリック教に置き換えた(あらゆる みんぞくに ひらかれた ほうかつ てきな かとりっく きょうに おきかえた)として神と戦って(かみと たたかって)きました( "… and from then on they fought him for having replaced their racially exclusive Mosaic religion with the racially all-inclusive Catholic religion, open to all races." ).
では,諸々のカトリック信徒たち(もろもろの かとりっく しんと たち)は,私たちの周り(わたくしたちの まわり)にいるかつての選民(せんみん)たちの圧倒的な物質的優性(=優位性)に対抗(あっとうてきな ぶつりてき ゆうせい〈ゆうい せい〉に たいこう)するには何ができるでしょうか?( "And what can Catholics do to resist the overwhelming material dominance of the once Chosen Ones all around us ? " ) 物質的にできることは皆無(かいむ)に等(ひと)しいでしょう( "Materially, next to nothing, …" ).だが,一人ひとりの霊魂(ひとり ひとりの れいこん)が心の中で誠意を込めて(こころの なかで せいいを こめて)神の王国の来るよう神の御心(=御旨)の為されるよう祈る(かみの おうこくの きたる よう かみの みこころ〈=みむね〉の なされるよう いのる)ならば( "… but a single soul praying spiritually and sincerely for God's kingdom to come and for his will to be done,…" ),物理的な山を動かしていただけるよう神を説得(ぶつりてきな やまを うごかして いただけるよう かみを せっとく)できるでしょう( "… can prevail on God to move material mountains, …" ).これは神にとって簡単(かみに とって かんたん)なこと( “child’s play” )です( "… child's play for God." ).神が彼らの物質的優性を許して(かみが かれらの ぶっしつてき ゆうせいを ゆるして)おられるのは,私たちを神のもとに戻す目的(わたくしたちを かみの もとに もどす もくてき)のためだけです( "He only allows that dominance in order to drive us back to him." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注を追補いたします.
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(注:本投稿記事〈第369回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月07日23:30に公開されました.)
2014年8月2日土曜日
368 神のお仕置き? 8/2
エレイソン・コメンツ 第368回 (2014年8月2日)
ガザに住む(がざに すむ)ほとんど無防備のパレスチナ人(むぼうびの ぱれすちな じん)に向(む)けられた新たな恐るべき攻撃(あらたな おそるべき こうげき)は,真の神への真の崇拝(まことの かみへの まことの すうはい)にとっての一つの障害(ひとつの しょうがい)を多くの人々の心の中(おおくの ひとびとの こころの なか)にもたらしています( "The latest horrible onslaught let loose against the virtually defenceless Palestinians in Gaza raises in many people's minds an obstacle to the true worship of the true God, …" ).なぜなら,現代イスラエル人の多数(げんだい いすらえる じんの たすう)が旧約(きゅうやく)いらい,パレスチナ人の占拠する土地(せんきょする とち)すべてを必要(ひつよう)なら武力を用いてでも奪い取る権利(ぶりょくをもちいてでもうばいとるけんり)を神から与えられていると主張(かみから あたえられていると しゅちょう)しているのは広く知られ(ひろく しられ)ていることだからです( "… because it is well known that many of today's Israelis claim that they have from the Old Testament a God-given right to take all the land occupied by the Palestinians, by force if necessary." )(訳注後記1).道理(どうり)をわきまえた人(ひと)なら次の二つの疑問(つぎの ふたつの ぎもん)を投(な)げかけるでしょう( "A reasonable person might ask two questions: …" ):そのような蛮行(ばんこう)と,その残酷さを非難する国際世論(その ざんこくさを ひなんする こくさい よろん〈せろん〉)を歯牙にも掛けない態度(しが にも かけない たいど)を「正当化(せいとうか)」するのに一体(いったい)どのような神(かみ)を引っ張り出せる(ひっぱり だせる)のだろうか?" )( "… what kind of a God can even remotely be pulled in to 'justify' such barbarous cruelty, together with such utter contempt for any world opinion condemning that barbarity ? " )イスラエル人はいかなる種類(しゅるい)の「選民(せんみん)」なのだろうか?( "And what kind of a 'Chosen People' are these ? " ) この二つの疑問に対する答え(たいする こたえ)は,あらゆる人類の歴史(じんるいの れきし)にかかわっている私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)にかかわりがあります( "The answer to both questions turns around Our Lord Jesus Christ, around whom of course all human history turns." ).(訳注1・「旧約」=真の神と古代イスラエル人〈まことの かみと こだい いすらえる じん〉〈始祖アブラハム・預言者モーセ〉〈しそ あぶらはむ・よげんしゃ もーせ〉が交わした旧い契約〈かわした ふるい けいやく〉)
旧約聖書はキリスト以前の人類(きりすと いぜんの じんるい)( "The Old Testament tells the story of mankind before Christ, …" ),とりわけ古代イスラエル人についての物語を語って(こだい いすらえる じんに ついての ものがたりを かたって)います( "… especially the story of the Israelites, …" ).彼らは人の姿をお取りになった神(ひとの すがたを おとりに なった かみ),イエズス・キリストの天からの御降誕(いえずす・きりすとの てん からの ごこうたん)に備え(そなえ)その揺りかごとしての役割を果たす(ゆりかごと しての やくわりを はたす)べく( "to act as the cradle" )神が人類の中から選び出した人々(かみが じんるいの なか から えらび だした ひとびと)です( "… the people that God chose out from the rest of the human race to act as the cradle for the coming down from Heaven of the Incarnate God, Jesus Christ." ).アダムの時代からおよそ千年後(あだむの じだい から およそ せんねんご),人類はひどく堕落(だらく)してしまったため神はすべてを押し流し(おし ながし)ノアの方舟(のあ の はこぶね)( "Noah's Ark" )で救われた8人(すくわれた はちにん)だけで再出発(さい しゅっぱつ)せざるをえませんでした( "About a thousand years after Adam, mankind had grown so corrupt that God had to wash it out and start again with the eight souls saved on Noah's Ark." ).それから更に千年後(さらに せんねんご),人類は再びひどく堕落(じんるいは ふたたび ひどく だらく)してしまい( "About another thousand years later, mankind is again so corrupt …" ),神は堕落した都市ウル(だらくした とし うる)( "the degenerate city of Ur" )からアブラハムを選び出し(あぶらはむを えらびだし)( "… that God has to pull Abraham out of the degenerate city Ur that God has to pull Abraham out of the degenerate city Ur …" ),その揺りかごの役を果たす(ゆりかごのやくをはたす)のにふさわしいほど清廉潔白(せいれん けっぱく)になるため,あらゆる周囲の人類の汚れを遠ざけ(しゅういの じんるいの けがれを とおざけ)て清廉潔白なままに留まり続けなければならない(せいれん けっぱくな ままに とどまり つづけなければ ならない)( "must stay clear" )人種の創設者(じんしゅの そうせつしゃ)とします( "… to be the founder of a race that must stay clear of all surrounding human contamination in order to be clean enough to act as that cradle." ).これが以来ユダヤ人の中に見て取れる(いらい ゆだや じんの なかに みて とれる)ようになった人種的排他性(じんしゅてき はいたせい)( "racial exclusivity" )の始(はじ)まりです( "Here is the origin of that racial exclusivity observable in Jews ever since." ).それは神で始(かみで はじ)まったものですが,人間で終わって(にんげんで おわって)しまいました( "It began with God, but it has finished with men." ).
確(たし)かにユダヤ人(ゆだや じん)はかつてイエズス・キリストのための選民(いえずす・きりすとの ための せんみん)でした( "The Jews were indeed once, for the sake of Jesus Christ, the Chosen People." ).それゆえ聖トマス・アキナス(せい とます・あきなす)( "St Thomas Aquinas" )は自著「神学大全」( "Summa Theologiae" )の中(じちょ「しんがく たいぜん」のなか)に見事な記事を書き残し(みごとな きじを かきのこし),古代イスラエル人(こだい いすらえる じん)たちがエルサレムに築いた聖堂の調度品(えるされむに きずいた せいどうの ちょうどひん)のいかに細部(さいぶ)までもがイエズス・キリストに向け(いえずす・きりすとに むけ)られていたかを示(しめ)しています(Ia IIae, 102, 4)( "Thus St Thomas Aquinas has a tremendous article in his Summa Theologiae where he shows how every single detail in the furnishing of the Israelites' exclusive Temple in Jerusalem pointed forward to Jesus Christ (Ia IIae, 102, 4)." ).だが,全能の神(ぜんのうの かみ)が一度(いちど)ならず古代イスラエル人たちに対し(こだい いすらえるじん たちに たいし)彼らに約束された土地(かれらに やくそく された とち)( "the Promised Land" )を奪取(だっしゅ)するため,そこを占拠する異教徒(せんきょ する いきょうと)たちを完全に根絶(かんぜんに こんぜつ)させる命令を与えた(めいれいを あたえた)ことに疑問の余地(ぎもんの よち)はありません( "However, to clear the Promised Land for the Israelites to take over, there is no question that Almighty God gave them more than once the command to exterminate utterly the pagans occupying the land, …" ).そして神はその命令を字義通り守(かみは その めいれいを じぎ どおり まも)らなかったとしてサウル王を厳しく罰し(さうる おうを きびしく ばっし)ました(I Sam XV)( "… and He punished King Saul severely for not observing this command to the letter (I Sam XV). " ).そのような命令を正当化した根拠(せいとうか した こんきょ)はなんだったのでしょうか?( "What could justify such a command ? " )
それはノアの時代(のあの じだい)に神が(8人を除く〈はちにんを のぞく〉)全人類を根絶(ぜんじんるいを こんぜつ)させたのを正当化した根拠と同じ(せいとうか した こんきょと おなじ)です( "It is the same as what justified God for exterminating all mankind (except eight souls) in Noah's time." ).第一の根拠は諸々の人間の犯した罪(だいいちの こんきょは もろもろの にんげんの おかした つみ)です( "Firstly men's sins." ).神はあらゆる人間を天へ向かうよう創造(にんげんを てんへ むかうよう そうぞう)されるのに諸人間(しょ にんげん)は地獄にふさわしい罪を選び(じごくに ふさわしい つみを えらび)ます( "God creates men for Heaven, they choose sin that deserves Hell." ).罪は何にも増して神に背く(逆らう,反する,=神を怒らせる)(つみは なに にも まして かみに そむく〈さからう,はんする,=かみを おこらせる〉)ものです( "For indeed sin offends God first of all. " ).神の意識と罪の意識(かみの いしきと つみの いしき)は,今日(こんにち)私たちの周り(わたくしたちの まわり)にある全て(すべて)のものと同(おな)じように,一体となって失われ(いったいと なって うしなわれ)ます( "The sense of God and the sense of sin get lost together, as all around us today." ).私たちの時代と同じ(わたくしたちの じだいと おなじ)ような神を信じない世代(かみを しんじない せだい)は神の正義(かみの せいぎ)などおそらく理解(りかい)できないでしょう( "A godless generation like ours cannot possibly understand the justice of God. " ).第二の根拠は神の御慈悲(だいにの こんきょは かみの ごじひ)です( "Secondly, God's mercy, …" ).神の御慈悲(かみの ごじひ)は神の御正義(かみの ごせいぎ)と切り離(きり はな)せません( "… which goes hand in hand with His justice, …" ).現代(げんだい)では神の御慈悲は御正義と同じように誤解(おなじ ように ごかい)されています( "… and is today equally misunderstood." ).だが,地獄の現実を考え(じごくの げんじつを かんがえ)るなら( "But given the reality of Hell, …" ),神が人間を突き離し(かみが にんげんを つき はなし),人間が死ぬ前(にんげんが しぬまえ)に悔い改め(くい あらため)るか,さもなくば少(すく)なくともさらに深く地獄に落ち(ふかく じごくに おち)なくてすむよう罪を犯(つみを おか)さないようにさせるのは神の御慈悲(かみの ごじひ)ではないでしょうか?( "… is it not a mercy of God if he cuts men off so that they can repent before they die, or at least be stopped from sinning so as not to deserve to go any deeper in Hell? " )
古代イスラエル人の異教徒の敵(いきょうとの てき)について,神がアブラハムとイエズス・キリストの関係(あぶらはむと いえずす・きりすとの かんけい)をもたらされたのは御慈悲(ごじひ)からでしょう( "That is how it will have been with the pagan enemies of the Israelites between Abraham and Jesus Christ. " ).旧約聖書を読む(きゅうやくせいしょを よむ)と,古代イスラエル人がいかに頻繁(ひんぱん)に真の神を見捨て(まことの かみを みすて)て自分(じぶん)たちの周(まわ)りの異教徒(いきょうと)たちの悪魔を崇拝(あくまを すうはい)する気持ち(きもち)になったかが分(わ)かります( "To read the Old Testament is to see how often the Israelites were tempted to abandon the true God and to worship devils by the pagans all around them." ).アルスの教区司祭(=アルスの主任司祭)(あるすの きょうく しさい・しゅにん しさい)( "the Curé of Ars" )がかつて述(の)べたように「司祭(しさい)をいなくすると25年(にじゅう ごねん)もすれば人間は諸々の獣を崇拝(にんげんは もろもろの けだものを すうはい)するようになります」( "As the Curé of Ars once said, 'Get rid of the priest, and within 25 years men will be worshipping beasts'." ).救世主(きゅうせいしゅ)のために( "for the Messiah" )揺(ゆ)りかごを提供(ていきょう)するのに確かに成功(たしかに せいこう)したのは古代イスラエル人の永遠の功績(こだい いすらえるじんの えいえんの こうせき)です( "It is to the eternal credit of the Israelites that they did succeed in providing the cradle for the Messiah, …" ).たとえば,聖ヨアキムと聖アンナ(せい よあきむと せい あんな)( "St Joachim and St Anne" ),とりわけ彼らの子(かれらの こ)すなわち神の御祝福を受けた童貞マリア(かみの おんしゅくふくを うけた どうてい まりあ),(キリストの)十二(12)使徒(きりすとの じゅうに しと)と救世主のカトリック教会( "their Messiah's Catholic Church" )(きゅうせいしゅの かとりっく きょうかい)を打ち立てる助け(うちたてる たすけ)をした他の善良なイスラエル人(たの ぜんりょうな いすらえる じん)たちです( "… for instance St Joachim and St Anne, especially their child, the Blessed Virgin Mary, the twelve Apostles and all other good Israelites who helped to launch their Messiah's Catholic Church." ).現代のイスラエル人(げんだいの いすらえる じん)については来週(らいしゅう)のエレイソン・コメンツ(えれいそん・こめんつ)をお読(よ)みください( "For today's Israelis see next week." ).
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(注:本投稿記事〈第368回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月02日23:58に公開されました.)
(追加の注記〈2014年9月30日付〉:)
第368回エレイソン・コメンツ「神のお仕置き?」には,
通常付している,コメンツ本文末尾の
祈願「キリエ・エレイソン」は付してありません.
ガザに住む(がざに すむ)ほとんど無防備のパレスチナ人(むぼうびの ぱれすちな じん)に向(む)けられた新たな恐るべき攻撃(あらたな おそるべき こうげき)は,真の神への真の崇拝(まことの かみへの まことの すうはい)にとっての一つの障害(ひとつの しょうがい)を多くの人々の心の中(おおくの ひとびとの こころの なか)にもたらしています( "The latest horrible onslaught let loose against the virtually defenceless Palestinians in Gaza raises in many people's minds an obstacle to the true worship of the true God, …" ).なぜなら,現代イスラエル人の多数(げんだい いすらえる じんの たすう)が旧約(きゅうやく)いらい,パレスチナ人の占拠する土地(せんきょする とち)すべてを必要(ひつよう)なら武力を用いてでも奪い取る権利(ぶりょくをもちいてでもうばいとるけんり)を神から与えられていると主張(かみから あたえられていると しゅちょう)しているのは広く知られ(ひろく しられ)ていることだからです( "… because it is well known that many of today's Israelis claim that they have from the Old Testament a God-given right to take all the land occupied by the Palestinians, by force if necessary." )(訳注後記1).道理(どうり)をわきまえた人(ひと)なら次の二つの疑問(つぎの ふたつの ぎもん)を投(な)げかけるでしょう( "A reasonable person might ask two questions: …" ):そのような蛮行(ばんこう)と,その残酷さを非難する国際世論(その ざんこくさを ひなんする こくさい よろん〈せろん〉)を歯牙にも掛けない態度(しが にも かけない たいど)を「正当化(せいとうか)」するのに一体(いったい)どのような神(かみ)を引っ張り出せる(ひっぱり だせる)のだろうか?" )( "… what kind of a God can even remotely be pulled in to 'justify' such barbarous cruelty, together with such utter contempt for any world opinion condemning that barbarity ? " )イスラエル人はいかなる種類(しゅるい)の「選民(せんみん)」なのだろうか?( "And what kind of a 'Chosen People' are these ? " ) この二つの疑問に対する答え(たいする こたえ)は,あらゆる人類の歴史(じんるいの れきし)にかかわっている私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)にかかわりがあります( "The answer to both questions turns around Our Lord Jesus Christ, around whom of course all human history turns." ).(訳注1・「旧約」=真の神と古代イスラエル人〈まことの かみと こだい いすらえる じん〉〈始祖アブラハム・預言者モーセ〉〈しそ あぶらはむ・よげんしゃ もーせ〉が交わした旧い契約〈かわした ふるい けいやく〉)
旧約聖書はキリスト以前の人類(きりすと いぜんの じんるい)( "The Old Testament tells the story of mankind before Christ, …" ),とりわけ古代イスラエル人についての物語を語って(こだい いすらえる じんに ついての ものがたりを かたって)います( "… especially the story of the Israelites, …" ).彼らは人の姿をお取りになった神(ひとの すがたを おとりに なった かみ),イエズス・キリストの天からの御降誕(いえずす・きりすとの てん からの ごこうたん)に備え(そなえ)その揺りかごとしての役割を果たす(ゆりかごと しての やくわりを はたす)べく( "to act as the cradle" )神が人類の中から選び出した人々(かみが じんるいの なか から えらび だした ひとびと)です( "… the people that God chose out from the rest of the human race to act as the cradle for the coming down from Heaven of the Incarnate God, Jesus Christ." ).アダムの時代からおよそ千年後(あだむの じだい から およそ せんねんご),人類はひどく堕落(だらく)してしまったため神はすべてを押し流し(おし ながし)ノアの方舟(のあ の はこぶね)( "Noah's Ark" )で救われた8人(すくわれた はちにん)だけで再出発(さい しゅっぱつ)せざるをえませんでした( "About a thousand years after Adam, mankind had grown so corrupt that God had to wash it out and start again with the eight souls saved on Noah's Ark." ).それから更に千年後(さらに せんねんご),人類は再びひどく堕落(じんるいは ふたたび ひどく だらく)してしまい( "About another thousand years later, mankind is again so corrupt …" ),神は堕落した都市ウル(だらくした とし うる)( "the degenerate city of Ur" )からアブラハムを選び出し(あぶらはむを えらびだし)( "… that God has to pull Abraham out of the degenerate city Ur that God has to pull Abraham out of the degenerate city Ur …" ),その揺りかごの役を果たす(ゆりかごのやくをはたす)のにふさわしいほど清廉潔白(せいれん けっぱく)になるため,あらゆる周囲の人類の汚れを遠ざけ(しゅういの じんるいの けがれを とおざけ)て清廉潔白なままに留まり続けなければならない(せいれん けっぱくな ままに とどまり つづけなければ ならない)( "must stay clear" )人種の創設者(じんしゅの そうせつしゃ)とします( "… to be the founder of a race that must stay clear of all surrounding human contamination in order to be clean enough to act as that cradle." ).これが以来ユダヤ人の中に見て取れる(いらい ゆだや じんの なかに みて とれる)ようになった人種的排他性(じんしゅてき はいたせい)( "racial exclusivity" )の始(はじ)まりです( "Here is the origin of that racial exclusivity observable in Jews ever since." ).それは神で始(かみで はじ)まったものですが,人間で終わって(にんげんで おわって)しまいました( "It began with God, but it has finished with men." ).
確(たし)かにユダヤ人(ゆだや じん)はかつてイエズス・キリストのための選民(いえずす・きりすとの ための せんみん)でした( "The Jews were indeed once, for the sake of Jesus Christ, the Chosen People." ).それゆえ聖トマス・アキナス(せい とます・あきなす)( "St Thomas Aquinas" )は自著「神学大全」( "Summa Theologiae" )の中(じちょ「しんがく たいぜん」のなか)に見事な記事を書き残し(みごとな きじを かきのこし),古代イスラエル人(こだい いすらえる じん)たちがエルサレムに築いた聖堂の調度品(えるされむに きずいた せいどうの ちょうどひん)のいかに細部(さいぶ)までもがイエズス・キリストに向け(いえずす・きりすとに むけ)られていたかを示(しめ)しています(Ia IIae, 102, 4)( "Thus St Thomas Aquinas has a tremendous article in his Summa Theologiae where he shows how every single detail in the furnishing of the Israelites' exclusive Temple in Jerusalem pointed forward to Jesus Christ (Ia IIae, 102, 4)." ).だが,全能の神(ぜんのうの かみ)が一度(いちど)ならず古代イスラエル人たちに対し(こだい いすらえるじん たちに たいし)彼らに約束された土地(かれらに やくそく された とち)( "the Promised Land" )を奪取(だっしゅ)するため,そこを占拠する異教徒(せんきょ する いきょうと)たちを完全に根絶(かんぜんに こんぜつ)させる命令を与えた(めいれいを あたえた)ことに疑問の余地(ぎもんの よち)はありません( "However, to clear the Promised Land for the Israelites to take over, there is no question that Almighty God gave them more than once the command to exterminate utterly the pagans occupying the land, …" ).そして神はその命令を字義通り守(かみは その めいれいを じぎ どおり まも)らなかったとしてサウル王を厳しく罰し(さうる おうを きびしく ばっし)ました(I Sam XV)( "… and He punished King Saul severely for not observing this command to the letter (I Sam XV). " ).そのような命令を正当化した根拠(せいとうか した こんきょ)はなんだったのでしょうか?( "What could justify such a command ? " )
それはノアの時代(のあの じだい)に神が(8人を除く〈はちにんを のぞく〉)全人類を根絶(ぜんじんるいを こんぜつ)させたのを正当化した根拠と同じ(せいとうか した こんきょと おなじ)です( "It is the same as what justified God for exterminating all mankind (except eight souls) in Noah's time." ).第一の根拠は諸々の人間の犯した罪(だいいちの こんきょは もろもろの にんげんの おかした つみ)です( "Firstly men's sins." ).神はあらゆる人間を天へ向かうよう創造(にんげんを てんへ むかうよう そうぞう)されるのに諸人間(しょ にんげん)は地獄にふさわしい罪を選び(じごくに ふさわしい つみを えらび)ます( "God creates men for Heaven, they choose sin that deserves Hell." ).罪は何にも増して神に背く(逆らう,反する,=神を怒らせる)(つみは なに にも まして かみに そむく〈さからう,はんする,=かみを おこらせる〉)ものです( "For indeed sin offends God first of all. " ).神の意識と罪の意識(かみの いしきと つみの いしき)は,今日(こんにち)私たちの周り(わたくしたちの まわり)にある全て(すべて)のものと同(おな)じように,一体となって失われ(いったいと なって うしなわれ)ます( "The sense of God and the sense of sin get lost together, as all around us today." ).私たちの時代と同じ(わたくしたちの じだいと おなじ)ような神を信じない世代(かみを しんじない せだい)は神の正義(かみの せいぎ)などおそらく理解(りかい)できないでしょう( "A godless generation like ours cannot possibly understand the justice of God. " ).第二の根拠は神の御慈悲(だいにの こんきょは かみの ごじひ)です( "Secondly, God's mercy, …" ).神の御慈悲(かみの ごじひ)は神の御正義(かみの ごせいぎ)と切り離(きり はな)せません( "… which goes hand in hand with His justice, …" ).現代(げんだい)では神の御慈悲は御正義と同じように誤解(おなじ ように ごかい)されています( "… and is today equally misunderstood." ).だが,地獄の現実を考え(じごくの げんじつを かんがえ)るなら( "But given the reality of Hell, …" ),神が人間を突き離し(かみが にんげんを つき はなし),人間が死ぬ前(にんげんが しぬまえ)に悔い改め(くい あらため)るか,さもなくば少(すく)なくともさらに深く地獄に落ち(ふかく じごくに おち)なくてすむよう罪を犯(つみを おか)さないようにさせるのは神の御慈悲(かみの ごじひ)ではないでしょうか?( "… is it not a mercy of God if he cuts men off so that they can repent before they die, or at least be stopped from sinning so as not to deserve to go any deeper in Hell? " )
古代イスラエル人の異教徒の敵(いきょうとの てき)について,神がアブラハムとイエズス・キリストの関係(あぶらはむと いえずす・きりすとの かんけい)をもたらされたのは御慈悲(ごじひ)からでしょう( "That is how it will have been with the pagan enemies of the Israelites between Abraham and Jesus Christ. " ).旧約聖書を読む(きゅうやくせいしょを よむ)と,古代イスラエル人がいかに頻繁(ひんぱん)に真の神を見捨て(まことの かみを みすて)て自分(じぶん)たちの周(まわ)りの異教徒(いきょうと)たちの悪魔を崇拝(あくまを すうはい)する気持ち(きもち)になったかが分(わ)かります( "To read the Old Testament is to see how often the Israelites were tempted to abandon the true God and to worship devils by the pagans all around them." ).アルスの教区司祭(=アルスの主任司祭)(あるすの きょうく しさい・しゅにん しさい)( "the Curé of Ars" )がかつて述(の)べたように「司祭(しさい)をいなくすると25年(にじゅう ごねん)もすれば人間は諸々の獣を崇拝(にんげんは もろもろの けだものを すうはい)するようになります」( "As the Curé of Ars once said, 'Get rid of the priest, and within 25 years men will be worshipping beasts'." ).救世主(きゅうせいしゅ)のために( "for the Messiah" )揺(ゆ)りかごを提供(ていきょう)するのに確かに成功(たしかに せいこう)したのは古代イスラエル人の永遠の功績(こだい いすらえるじんの えいえんの こうせき)です( "It is to the eternal credit of the Israelites that they did succeed in providing the cradle for the Messiah, …" ).たとえば,聖ヨアキムと聖アンナ(せい よあきむと せい あんな)( "St Joachim and St Anne" ),とりわけ彼らの子(かれらの こ)すなわち神の御祝福を受けた童貞マリア(かみの おんしゅくふくを うけた どうてい まりあ),(キリストの)十二(12)使徒(きりすとの じゅうに しと)と救世主のカトリック教会( "their Messiah's Catholic Church" )(きゅうせいしゅの かとりっく きょうかい)を打ち立てる助け(うちたてる たすけ)をした他の善良なイスラエル人(たの ぜんりょうな いすらえる じん)たちです( "… for instance St Joachim and St Anne, especially their child, the Blessed Virgin Mary, the twelve Apostles and all other good Israelites who helped to launch their Messiah's Catholic Church." ).現代のイスラエル人(げんだいの いすらえる じん)については来週(らいしゅう)のエレイソン・コメンツ(えれいそん・こめんつ)をお読(よ)みください( "For today's Israelis see next week." ).
リチャード・ウィリアムソン司教
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(注:本投稿記事〈第368回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月02日23:58に公開されました.)
(追加の注記〈2014年9月30日付〉:)
第368回エレイソン・コメンツ「神のお仕置き?」には,
通常付している,コメンツ本文末尾の
祈願「キリエ・エレイソン」は付してありません.
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