エレイソン・コメンツ 第350回 (2014年3月29日)
2か月前,自らを無神論者と公言する人物(みずからを むしんろんじゃと こうげんする じんぶつ)がフランス(ふらんす)で85歳の誕生日(はちじゅうごさいの たんじょうび)を迎(むか)えました( "Two months ago a self-declared atheist celebrated in France his 85th birthday, …" ).真の宗教の信者(まことの しゅうきょうの しんじゃ)はすべて,この人物(じんぶつ)に深く感謝(ふかく かんしゃ)しなければなりません( "… to whom all theists of the true religion owe a serious debt of thanks, …" ).なぜなら,嘘(うそ)のあふれる今日の世界(こんにちの せかい)にあって,この人物ロベール・フォーリッソン教授(ろべーる・ふぉーりっそん きょうじゅ)( "Professor Robert Faurisson" )は真実の強力な擁護者(しんじつの きょうりょくな ようごしゃ)であり続(つづ)けているからです( "… because in today’s world of lies Professor Robert Faurisson has been a powerful defender of truth." ).私個人(わたくし こじん)としては,真の神を信じる(まことの かみを しんじる)もっと多くの人々(おおくの ひとびと)が彼(かれ)のように真実を見抜く(しんじつを みぬく)知性(ちせい),正直(しょうじき),そしてその真実を語る勇気(しんじつを かたる ゆうき)を持(も)つよう望(のぞ)みます( "I for one might wish that many more believers in the true God would have his intelligence and honesty in discerning the truth, and his courage to tell it." ).
たとえば,第3帝国(だいさん ていこく)のガス室(がす しつ)で600万人(ろっぴゃく まんにん)が犠牲者(ぎせいしゃ)となったのが歴史的事実(れきしてき じじつ)だったかどうかについて( "For instance, whether or not it is a historical fact that there were six million victims of gassing in gas chambers of the Third Reich, …" ),フォーリッソン教授は,それは感情や立法(かんじょうや りっぽう)でなく,事実と科学的証拠(じじつと かがくてき こんきょ)によって解決すべき歴史問題(かいけつ すべき れきし もんだい)として扱(あつか)うべきだと主張(しゅちょう)しています( "… Prof. Faurisson insists on treating it as a historical question to be settled by the facts and scientific evidence, and not by emotion and legislation …" )――これ以上(いじょう)理に適った見方(りに かなった みかた)があるでしょうか?( "… – what could be more reasonable ? " ) だが,この問題(もんだい)について現代人の多く(げんだいじんの おおく)は理性に耳を貸そう(りせいに みみを かそう)としません( "And yet on this particular question a mass of our contemporaries will not listen to reason." ).彼らの心(かれらの こころ)はまだ機能(きのう)しているのでしょうか?( "Are their minds still functioning ? " ) 教授(きょうじゅ)が優れた(すぐれた)学者らしい心(がくしゃらしい こころ)をもって歴史問題(れきし もんだい)はそれ以外(いがい)でなく歴史の問題(れきしの もんだい)として扱(あつか)うべきだと方向を示して(ほうこうを しめして)いることに心から感謝(こころから かんしゃ)します( "Our warm gratitude goes to the Professor for bringing an excellent and scholarly mind to bear on a historical question as a question of history and not of something else." ).
読者の皆さん(どくしゃの みなさん)は,ほかになにか例(れい)があるかと疑問を感じ(ぎもんを かんじ)ているでしょうか?( "Something else ? " ) 再(ふたた)び,その600万人が歴史的現実(れきしてき げんじつ)であるかどうかについて,同教授(どう きょうじゅ)は彼ら(かれ ら)はいずれにせよ世俗宗教の立場(せぞく しゅうきょうの たちば)を獲得(かくとく)したと述(の)べています( "Again, whether or not the Six Million are a historical reality, it is the Professor who states that they have in any case acquired the status of a secular religion. " ).私たちの時代(わたしたちの じだい)に何(なに)が主たる宗教(しゅたる しゅうきょう)として役立つか(やくだつか)を見極める(み きわめる)のに神を信じない(かみを しんじない)とおもえる人物(じんぶつ)を必要(ひつよう)とするのでしょうか?( "Does it take a supposedly irreligious man to discern what serves as the main religion of our times ? " ) 私は諸カトリック信徒(しょ かとりっく しんと)の中(なか)に自分たちの真の宗教(じぶんたちの まことの しゅうきょう)にとって今日(こんにち)なにが主だったライバル(おも だった らいばる)なのかを見(み)て,口(くち)にする積極性を持つもの(せっきょくせいを もつ もの)が2-3人(に さん にん)でもいたらいいのにとおもいます( "I might wish a few more Catholics would have the gumption to see and say what is today’s main rival to their true religion. " ).フォーリッソン教授(ふぉーりっそん きょうじゅ)が2008年(にせん はちねん)にこの問題(もんだい)について書(か)いた記事の要約(きじの ようやく)を以下(いか)にご紹介(しょうかい)します:-- ( "Here is a very brief overview of an article written on the subject in 2008 by Professor Faurisson:-- " )
(以下記事の要約)
(いか きじの ようやく)
600万人(ろっぴゃく まんにん)は独自(どくじ)の教義(きょうぎ),諸々の戒律(もろもろの かいりつ),布告(ふこく),預言者(よげんしゃ),高僧(こうそう),また聖者(せいじゃ)たちすなわち:… ( "The Six Million constitute a lay religion with its own dogma, commandments, decrees, prophets, high priests and Saints: …" ) …聖アンネ(フランク)( "… St Anne (Frank) " ), 聖サイモン(ビィーゼンタール)( "St Simon (Wiesenthal) " ), 聖エリー(ビーゼル)( "St Elie (Wiesel) " ) を備(そな)えた俗人宗教(ぞくじんしゅうきょう)を構成(こうせい)しています ( "… St Anne (Frank), St Simon (Wiesenthal), St Elie (Wiesel)." ). それは独自(どくじ)の諸聖地(しょ せいち),独自の諸儀式(しょ ぎしき),独自の諸巡礼(しょ じゅんれい)を持(も)っています( "It has its holy places, its rituals and its pilgrimages." ).そして独自の諸神殿(しょ しんでん),独自の諸遺跡(しょ いせき)(積み重ねた石鹸,靴など)(つみかさねた せっけん,くつ など),独自の諸々の殉教者(しょ じゅんきょう しゃ),英雄(えいゆう),奇跡(きせき),および奇跡的生存者(数百万人)(きせきてき せいぞんしゃ)〈すうひゃくまんにん〉,金色の伝説(きんいろの でんせつ),道理(どうり)をわきまえた人々(ひとびと)を持(も)っています( "It has its temples and its relics (bars of soap, piles of shoes, etc.), its martyrs, heroes, miracles and miraculous survivors (millions of them), its golden legend and its righteous people." ).アウシュビッツ(あうしゅびっつ)はその宗教(しゅうきょう)にとってのゴルゴタ(ごるごた)です( "Auschwitz is its Golgotha,…" ).ヒトラー(ひとらー)はその宗教の悪魔(しゅうきょうの あくま)です( "… Hitler is its Satan." ).その宗教はその法(ほう)を諸国(しょこく)に押し付け(おしつけ)ます( "It dictates its law to the nations." ).その宗教心(しゅうきょうしん)はエルサレム(えるされむ)のヤド・ベシェム(やど・べしぇむ)記念館 (きねんかん)(訳注・ホロコーストの犠牲者達〈ぎせいしゃたち〉を追悼〈ついとう〉するためのイスラエルの国立記念館(いすらえるの こくりつ きねんかん)で脈打ち(みゃく うち)ます( "Its heart beats in Jerusalem, at the Yad Veshem monument." ).
それは第二次世界大戦(だいにじ せかい たいせん)いらい華々(はなばな)しい成長(せいちょう)を享受(きょうじゅ)してきた新宗教(しん しゅうきょう)です( "It is a new religion that has enjoyed a meteoric growth since World War II." ).それは西側諸国(にしがわ しょこく)を征服(せいふく)し,いまや世界(せかい)を征服しようとしています( "It has conquered the West and is setting out to conquer the world." ).私たちの消費者社会(しょうひしゃ しゃかい)で科学的な考え方(かがくてきな かんがえ かた)が進(すす)んだため( "Whereas the progress of scientific thinking in our consumer society, …" )人々が宗教の物語の真実(しゅうきょうの ものがたりの しんじつ)や宗教が提供する約束(しゅうきょうが ていきょうする やくそく)をますます疑(うたが)うようになり,あらゆる古典的な宗教(こてんてきな しゅうきょう)の支配力(しはいりょく)が弱(よわ)まってきています( "… has weakened the grip of all the classic religions by making people more and more sceptical as to the truth of religion’s stories and the promises religion holds out,… " ).これと対照的(たいしょう てき)に,この新宗教(しん しゅうきょう)はますます栄(さか)え( "the new religion prospers …" )その基本教義(きほん きょうぎ)を否定する者(ひてい するもの)は「修正主義者(しゅうせい しゅぎしゃ)( "Revisionist" )」の烙印(らくいん)を押(お)され( "… to the point that anybody caught denying its basic dogma is branded as a “Revisionist”,…" ),地域(ちいき)からのけ者(のけもの)にされ( "… is cast out of the community,…" ),かつての異端者(いたんしゃ)と同(おな)じように扱(あつか)われるようになっています( "… and is treated like only heretics used to be treated." ).それは事実上の宗教(じじつじょうの しゅうきょう)であり( "It is in effect a religion,…" ),今日では主要な手段(こんにちでは しゅような しゅだん)( "a major instrument" )となっており( "… and it is today a major instrument,…" ),言(い)ってみれば( "… and, one might say,…" ),神を信(かみをしん)じない新世界秩序(しんせかい ちつじょ)( " the godless New World Order" )の人気宗教です( "… the popular religion of the godless New World Order." ).
(要約終わり)
(ようやく おわり)
フォーリッソン教授は新宗教の成功(しんしゅうきょうの せいこう)は,消費者社会の持つ(しょうひしゃ しゃかいの もつ)宣伝・販売技術(せんでん・はんばい ぎじゅつ)をうまく活用(かつよう)したからだと論(ろん)じています( "The Professor argues that this success can be attributed to its resorting to the consumer society’s own techniques of advertising and selling." ).私はこの点(てん)で,教授(きょうじゅ)が宗教的大局観(しゅうきょうてき たいきょくかん)を欠(か)いているように思(おも)います( "Here I think he does lack the religious perspective." ).成功に対する主な説明(せいこうに たいする おもな せつめい)はなんといってもかつてキリスト教だった諸国(きりすときょう だった しょこく)の背教(はいきょう)でしょう( "Surely the apostasy of the once Christian nations is the main explanation." ).キリストは神(きりすとは かみ)です( "Christ is God." ).神(かみ)が排除(はいじょ)されれば( "When God is pushed out, …" ),神はその背後(はいご)になにかで満(み)たされなければならない大(おお)きな空虚感(くうきょかん)を残(のこ)します( "… he leaves behind him a huge void which must be filled by something." ).新宗教の後援者(しんしゅうきょうの こうえんしゃ)たちは歴史的(れきしてき)に代替宗教を作り出す(だいたいしゅうきょうを つくりだす)という類(たぐい)まれな本能(ほんのう)を持(も)っています( "The promoters of the new religion have by their history a matchless instinct for the fabrication of substitute religions." ).それはさておき( "But be that as it may, …" ),私は疑い深い(うたがい ぶかい)教授(きょうじゅ)が真実(しんじつ)のためにした英雄的行為(えいゆうてき こうい)に,人間的に見れば(にんげんてきに みれば),受けて当然(うけて とうぜん)の神からのご褒美(かみからの ごほうび)がいただけるよう信者(しんじゃ)たちが彼のために祈るよう(かれの ために いのるよう)勧め(すすめ)ます( "… I would invite believers to pray for the unbelieving Professor so that he may collect the divine reward which, humanly seen, he deserves for the heroic services which he has rendered to the truth." ).
キリエ・エレイソン.
要約:( "Summary: …" ) 第二次世界大戦(だいにじ せかい たいせん)で有名(ゆうめい)になった600万人(ろっぴゃく まんにん)は正真正銘の宗教(しょうしん しょうめい の しゅうきょう)に姿(すがた)を変え(かえ)られました( "The famous Six Million of World War II have been turned into a veritable religion …" ). 彼ら(かれら)はそのことを無神論者(むしんろん じゃ)にまで認め(みとめ)させるのでしょうか?( "… – does it take an atheist to recognize that ? " )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(訳注)
「代替宗教」(だいたい しゅうきょう)
=ある宗教に代わる別の宗教(ある しゅうきょうに かわる べつの しゅうきょう)のこと.
2014年3月29日土曜日
2014年3月28日金曜日
349 方舟の現実 3/22
エレイソン・コメンツ 第349回 (2014年3月22日)
私たちの秋田の聖母(あきたの せいぼ)( “Our Lady of Akita” )が警告(けいこく)したような世界的天罰が下る(せかいてき てんばつが くだる)かどうか疑う方(うたがう かた)がいるなら( "If anybody doubts that a worldwide chastisement is possible, such as Our Lady of Akita warned us of, …" ),それが5千年前に起きた(ごせんねん まえに おきた)ことを思い起こして(おもいおこして)ください.再び起きる可能性(ふたたび おきる かのうせい)があるということです( "… let them remember it happened once 5,000 years ago, so it can happen again." ).そして,もし世界的なノアの洪水の時代(せかいてきな のあの こうずい)が実際に起きた(じっさいに おきた)ことを疑う人々(ひとびと)がいるなら( "And if they doubt that the worldwide Flood of Noah’s time actually happened, …" ), 「 “L’Arche de Noe et le Deluge: Preuves Historiques et Scientifiques” 」 (ノアの方舟と大洪水(のあの はこぶねと だいこうずい):歴史的および科学的証拠(れきしてき および かがくてき こんきょ)) と題(だい)するフランス語版映画(ふらんすご ばん えいが)をユーチューブ上(ゆーちゅーぶ じょう)でご覧(らん)になるといいでしょう( "… let them watch on YouTube the fascinating 53-minute film entitled “L’Arche de Noé et le Déluge: Preuves Historiques et Scientifiques”." ).残念(ざんねん)ながら,英語版(えいごばん)ユーチューブにはノアの方舟(はこぶね)に関(かん)する同様な映画(どうような えいが)はないようです.そこには,大量の偽情報(たいりょうの にせじょうほう)が載(の)っているだけです( "Alas. in English YouTube seems to have no equivalent film on Noah’s Ark, but rather a good deal of disinformation." ).神の敵(かみの てき)たちは,ノアの方舟の実在(じつざい)といった聖書の真実(せいしょの しんじつ)を示す(しめす)驚くべき証拠(おどろくべき しょうこ)を私たちから遠(とお)ざけようと躍起(やっき)になっています( "God’s enemies work hard to keep away from us such sensational proof of the truth of the Bible as is the real existence of the Ark of Noah." ).
ノアの方舟(のあの はこぶね)はトルコ・アルメニア国境(とるこ・あるめにあ こっきょう〈くに ざかい〉)にあるアララト山(ああらと ざん〈やま〉)の雪線上(せっせん じょう)の峡谷(きょう こく)をおよそ4,600メートル(よんせん ろっぴゃく めーとる)登(のぼ)ったところに埋(う)もれています( "It nestles some 4,600 meters high up in a canyon on the snowline of Mount Ararat on the Turko-Armenian border." ).一年(いちねん)のほとんどのあいだ氷(こおり)で覆(おお)われており( "It is difficult of access because for most of the year it is covered in ice, …,上(うえ)からはたえず雪崩の危険(なだれの きけん),下(した)では強盗(ごうとう)や地域内戦(ちいき ないせん)の危険(きけん)があるため,そこへ近(ちか)づくのは困難(こんなん)です( "… and from above avalanches threaten at all times of year, while below there is danger from robbers and local civil wars." ).だが,ユーチューブ上(ゆーちゅーぶ じょう)のフランス語映画(ふらんすご えいが)は,ノア(のあ)という共通名称(きょうつう めいしょう)を用(もち)いて多(おお)くの古代言語(こだい げんご)で書(か)かれた洪水(こうずい)についての同一内容(どういつ ないよう)の物語(ものがたり)に触(ふ)れたあと,昔(むかし)からこれまでに同所(どうしょ)を訪(おとず)れた人(ひと)たちの長い名簿(ながい めいぼ)を載(の)せています( "But after referring to the identical account of the Flood in multiple ancient languages, always with the same name of Noah, the French film continues with a long list of known visitors to the Ark down the ages, …" ).映画(えいが)によると,そのうちの34人(さんじゅう よにん)が見(み)たものについての描写(びょうしゃ)は著(いちじる)しく似通(にかよ)っています( "… 34 of whose descriptions of what they saw are remarkably similar, according to the film." ).
名簿(めいぼ)は西暦(せいれき)約500年ほど前(やく ごひゃくねん ほど まえ)( "about half a millennium" )(=紀元前500年)(訳注後記1)のカルディア教会司祭(かるでぃあ きょうかい しさい)( “a Chaldean priest” )から始(はじ)まっており,ほかには西暦紀元360年(せいれき きげん)( "360 AD" )のキリスト教司教(きりすときょう しきょう),1269年の有名なイタリア人探検家マルコ・ポーロ(ゆうめいな いたりあじん たんけんか まるこ・ぽーろ)が含(ふく)まれています( "The list begins with a Chaldean priest about half a millennium before Christ. It includes a Christian bishop in 360 AD and the famous Italian explorer, Marco Polo, in 1269, …" )(訳注後記2).1840年に起(お)きた巨大地震(きょだい じしん)は,方舟(はこぶね)が現在位置(げんざい いち)する山の側面(やまの そくめん)を崩(くず)して峡谷(きょうこく)を形成(けいせい)し,方舟(はこぶね)を二つに裂いて(ふたつに さいて)双方(そうほう)を現在(げんざい)のように互(たが)いに30ヤード(さんじゅう やーど)引き離し(ひきはなし)ました( "In 1840 a huge earthquake carved the canyon out of the side of the mountain where the Ark now rests and broke it into two pieces, now 30 yards apart." ).19―20世紀(せいき)にも多くの人々(おおくの ひとびと)が方舟を訪れ(はこぶねを おとずれ)( "In the 19th and 20th centuries there followed numerous visitors to the Ark, …" ),第二次世界大戦中(だいにじ せかいたいせん ちゅう)および戦後(せんご)には多数(たすう)のアメリカ人飛行士が(あめりかじん ひこうし)アララト山(ざん)の上空を飛び(じょうくうを とび),はしけの形(かたち)をした黒っぽい色(くろっぽい いろ)の大(おお)きな人造舟(じんぞう ぶね)をはっきりと確認(かくにん)しました( "… and during and after World War II many American pilots flying over the mountain clearly recognized a huge man-made boat, dark in colour, shaped like a barge." ).彼らはノアの方舟(のあの はこぶね)を目撃(もくげき)したことに疑問(ぎもん)を抱き(いだき)ませんでした( "They had no doubt they were seeing Noah’s Ark." ).時代が下って(じだいが くだって)2007年には,トルコ人探検家(とるこじん たんけんか)チーム(ちーむ)が方舟(はこぶね)の内部(ないぶ)に入りフィルム映像(ふぃるむ えいぞう)を撮(と)りましたが( "Finally in our own time, in 2007, a team of Turkish explorers penetrated inside the Ark and took film footage …" ),それはフランス語映画とは別(べつ)にユーチューブ上(ゆーちゅーぶ じょう)で観(み)ることができます( "… independently of the French film." ).
映画(えいが)は結びの部分(むすびの ぶぶん)で,聖書(せいしょ)にある最も高い山々(もっとも たかい やまやま)(当時)を7メートル(なな めーとる)覆(おお)った( 旧約聖書・創世の書第7章20節)( “Gen. VII, 20” )大洪水(だい こうずい)についての近代科学者(きんだい かがくしゃ)や地質学者(ちしつ がくしゃ)たちの興味深い推測(きょうみ ぶかい すいそく)を紹介(しょうかい)しています( "The film concludes with fascinating speculation of modern scientists and geologists on the mass of water which Scripture says drowned the highest (then) mountains to a depth of 7 meters (Gen. VII, 20)." ).聖書(せいしょ)でとくに注目(ちゅうもく)すべきことは、水(みず)が天(てん)から雨(あめ)となって降(ふ)っただけでなく地下(ちか)からも溢れ出した(あふれだした)と記(しる)している点(てん)です(創世の書第7章全章:,8章2節)( “Gen. VII: VIII, 2” )( "Especially worthy of note in Scripture is how it says that the water not only rained from on high but also burst up from below (Gen. VII, 11: VIII, 2). " ).これについて,映画ではアメリカ人技師(あめりか じん ぎし)ウォルター・ブラウン博士(うぉるたー・ぶらうん はかせ)が説得力のある説明(せっとくりょくの ある せつめい)をしています( "A persuasive explanation is offered on the film by an American engineer, Dr Walter Brown, …" ).彼(かれ)は洪水が起きる前(こうずいが おきる まえ),地表(ちひょう)からおよそ800メートルの深さ(ふかさ)でつながっている複数(ふくすう)の巨大(きょだい)な地下水盤(ちか すいばん)が厚さ(あつさ)10マイル(じゅう まいる)の岩盤の下(がんばんの した)で強く圧縮(つよく あっしゅく)されたと推測(すいそく)しています( "…who posits that before the Flood there were huge subterranean caverns of water, interconnected, some 800 meters deep, fiercely compressed beneath the earth’s surface crust of rock, 10 miles thick." ).これにより生じたひびが2時間で地球を巡り( "It was enough for a split in that crust to run around the earth in two hours, …" ),そのとき膨大な量の地下水(ぼうだいな りょうの ちかすい)が吹き出して(ふきだして),地球の表面を変え(ちきゅうの ひょうめんを かえ)( "… and a mass of that water would explode upwards from below, changing the face of the earth, …" ),私たちが現在見る(げんざい みる)地球の地質(ちきゅうの ちしつ)の多くの特徴(おおくの とくちょう)を作り出した(つくり だした)と,ブラウン博士(はかせ)は論(ろん)じています( "… and explaining many features, Dr Brown argues, of the earth’s geology as we know it today." ).とても興味(きょうみ)をそそる話(はなし)です( "Altogether fascinating." ).(訳注後記3)
だが,今日(こんにち),神は存在(かみは そんざい)すること,罪(つみ)は私たちにとり大きな問題(おおきな もんだい)であること,環境破壊(かんきょう はかい)は懲罰の一形態(ちょうばつの いちけいたい)であることを知(し)りたいと願う人々(ねがう ひとびと)がはたして何人(なんにん)いるでしょうか?( "But how many people today want to know that God exists, that sin matters, and that the wrecking of environments is one way in which sin is punished ? " ) この映画(えいが)が述(の)べているのは,19世紀末(せいき まつ)になると,人々(ひとびと)は方舟を訪れた者(はこぶねを おとずれた もの)が多(おお)くいたにもかかわらず,( "The film says that in the late 19th century, despite the number of visitors to the Ark, …" ),神の存在(かみの そんざい)を明示(めいじ)する方舟(はこぶね)より,神の存在と縁を切る(えんを きる)進化の方(しんかの ほう)により強い関心(つよい かんしん)を示(しめ)すようになったということです( "… people were more interested in Evolution getting rid of God than in the Ark clearly pointing to him." ).神が洪水による罰(こうずいに よるばつ)を再び与える(ふたたび あたえる)ことはないと約束(やくそく)されたのは事実(じじつ)です( “Gen. IX, 15” )( "True, God promised Noah that he would never again punish by a flood of water (Gen. IX, 15), …" ).だが,この約束(やくそく)に世界的な火の雨(せかいてきな ひの あめ)( “a worldwide rain of fire” )は含(ふく)まれていません( "… but that does not exclude a worldwide rain of fire." ).1973年,私たちの秋田の聖母(あきたの せいぼ)は私たちの頭上(ずじょう)に火の雨の危険(ひの あめの きけん)が垂れ込め(たれこめ)ていると話(はな)されました( "Our Lady of Akita spoke in 1973 of the latter hanging over our heads." ).いま確(たし)かに罪(つみ)は制御不能(せいぎょ ふのう)なほど全世界(ぜんせかい)に広(ひろ)がっています( "Certainly sin is today careering out of control, worldwide." ).
キリエ・エレイソン.
ユーチューブでアクセスできる最近のフランス映画(えいが)は( "A recent French film, accessible on YouTube, …" ),今日(こんにち)もなおアララト山上(さんじょう)に存在(そんざい)するノアの方舟の歴史的かつ実際的な証拠(れきしてき かつ じっさいてきな しょうこ)を紹介(しょうかい)しています …( "… presents historical and factual evidence for Noah’s Ark still today existing, high up on Mount Ararat.. " )
リチャード・ウィリアムソン司教
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第3パラグラフの訳注1
「西暦約500年ほど前」( "about half a millennium before Christ" )について
・西暦紀元の約半世紀ほど前.(=紀元前約500年)
(・紀元=救世主イエズス・キリスト生誕元年.)
(・"before Christ" =紀元前.=キリスト生誕年より以前に遡(さかのぼ)って.)
・大洪水という世界的懲罰を神が下した後の
平和・幸福な一千年期("a millennium" ,千年・1000年)
の半分=500年.
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第3パラグラフの訳注2
西暦紀元 "AD" について.
・"before Christ"
=紀元前(=キリスト生誕年以前).
・"AD" =紀元( "ANNNO DOMINO" )
"ANNNO DOMINO"
= 主の年(しゅのとし).救世主(キリスト)生誕元年以降
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第4パラグラフの訳注3.
旧約聖書・創世の書:第2章,第3章.
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訳注を追補いたします.
私たちの秋田の聖母(あきたの せいぼ)( “Our Lady of Akita” )が警告(けいこく)したような世界的天罰が下る(せかいてき てんばつが くだる)かどうか疑う方(うたがう かた)がいるなら( "If anybody doubts that a worldwide chastisement is possible, such as Our Lady of Akita warned us of, …" ),それが5千年前に起きた(ごせんねん まえに おきた)ことを思い起こして(おもいおこして)ください.再び起きる可能性(ふたたび おきる かのうせい)があるということです( "… let them remember it happened once 5,000 years ago, so it can happen again." ).そして,もし世界的なノアの洪水の時代(せかいてきな のあの こうずい)が実際に起きた(じっさいに おきた)ことを疑う人々(ひとびと)がいるなら( "And if they doubt that the worldwide Flood of Noah’s time actually happened, …" ), 「 “L’Arche de Noe et le Deluge: Preuves Historiques et Scientifiques” 」 (ノアの方舟と大洪水(のあの はこぶねと だいこうずい):歴史的および科学的証拠(れきしてき および かがくてき こんきょ)) と題(だい)するフランス語版映画(ふらんすご ばん えいが)をユーチューブ上(ゆーちゅーぶ じょう)でご覧(らん)になるといいでしょう( "… let them watch on YouTube the fascinating 53-minute film entitled “L’Arche de Noé et le Déluge: Preuves Historiques et Scientifiques”." ).残念(ざんねん)ながら,英語版(えいごばん)ユーチューブにはノアの方舟(はこぶね)に関(かん)する同様な映画(どうような えいが)はないようです.そこには,大量の偽情報(たいりょうの にせじょうほう)が載(の)っているだけです( "Alas. in English YouTube seems to have no equivalent film on Noah’s Ark, but rather a good deal of disinformation." ).神の敵(かみの てき)たちは,ノアの方舟の実在(じつざい)といった聖書の真実(せいしょの しんじつ)を示す(しめす)驚くべき証拠(おどろくべき しょうこ)を私たちから遠(とお)ざけようと躍起(やっき)になっています( "God’s enemies work hard to keep away from us such sensational proof of the truth of the Bible as is the real existence of the Ark of Noah." ).
ノアの方舟(のあの はこぶね)はトルコ・アルメニア国境(とるこ・あるめにあ こっきょう〈くに ざかい〉)にあるアララト山(ああらと ざん〈やま〉)の雪線上(せっせん じょう)の峡谷(きょう こく)をおよそ4,600メートル(よんせん ろっぴゃく めーとる)登(のぼ)ったところに埋(う)もれています( "It nestles some 4,600 meters high up in a canyon on the snowline of Mount Ararat on the Turko-Armenian border." ).一年(いちねん)のほとんどのあいだ氷(こおり)で覆(おお)われており( "It is difficult of access because for most of the year it is covered in ice, …,上(うえ)からはたえず雪崩の危険(なだれの きけん),下(した)では強盗(ごうとう)や地域内戦(ちいき ないせん)の危険(きけん)があるため,そこへ近(ちか)づくのは困難(こんなん)です( "… and from above avalanches threaten at all times of year, while below there is danger from robbers and local civil wars." ).だが,ユーチューブ上(ゆーちゅーぶ じょう)のフランス語映画(ふらんすご えいが)は,ノア(のあ)という共通名称(きょうつう めいしょう)を用(もち)いて多(おお)くの古代言語(こだい げんご)で書(か)かれた洪水(こうずい)についての同一内容(どういつ ないよう)の物語(ものがたり)に触(ふ)れたあと,昔(むかし)からこれまでに同所(どうしょ)を訪(おとず)れた人(ひと)たちの長い名簿(ながい めいぼ)を載(の)せています( "But after referring to the identical account of the Flood in multiple ancient languages, always with the same name of Noah, the French film continues with a long list of known visitors to the Ark down the ages, …" ).映画(えいが)によると,そのうちの34人(さんじゅう よにん)が見(み)たものについての描写(びょうしゃ)は著(いちじる)しく似通(にかよ)っています( "… 34 of whose descriptions of what they saw are remarkably similar, according to the film." ).
名簿(めいぼ)は西暦(せいれき)約500年ほど前(やく ごひゃくねん ほど まえ)( "about half a millennium" )(=紀元前500年)(訳注後記1)のカルディア教会司祭(かるでぃあ きょうかい しさい)( “a Chaldean priest” )から始(はじ)まっており,ほかには西暦紀元360年(せいれき きげん)( "360 AD" )のキリスト教司教(きりすときょう しきょう),1269年の有名なイタリア人探検家マルコ・ポーロ(ゆうめいな いたりあじん たんけんか まるこ・ぽーろ)が含(ふく)まれています( "The list begins with a Chaldean priest about half a millennium before Christ. It includes a Christian bishop in 360 AD and the famous Italian explorer, Marco Polo, in 1269, …" )(訳注後記2).1840年に起(お)きた巨大地震(きょだい じしん)は,方舟(はこぶね)が現在位置(げんざい いち)する山の側面(やまの そくめん)を崩(くず)して峡谷(きょうこく)を形成(けいせい)し,方舟(はこぶね)を二つに裂いて(ふたつに さいて)双方(そうほう)を現在(げんざい)のように互(たが)いに30ヤード(さんじゅう やーど)引き離し(ひきはなし)ました( "In 1840 a huge earthquake carved the canyon out of the side of the mountain where the Ark now rests and broke it into two pieces, now 30 yards apart." ).19―20世紀(せいき)にも多くの人々(おおくの ひとびと)が方舟を訪れ(はこぶねを おとずれ)( "In the 19th and 20th centuries there followed numerous visitors to the Ark, …" ),第二次世界大戦中(だいにじ せかいたいせん ちゅう)および戦後(せんご)には多数(たすう)のアメリカ人飛行士が(あめりかじん ひこうし)アララト山(ざん)の上空を飛び(じょうくうを とび),はしけの形(かたち)をした黒っぽい色(くろっぽい いろ)の大(おお)きな人造舟(じんぞう ぶね)をはっきりと確認(かくにん)しました( "… and during and after World War II many American pilots flying over the mountain clearly recognized a huge man-made boat, dark in colour, shaped like a barge." ).彼らはノアの方舟(のあの はこぶね)を目撃(もくげき)したことに疑問(ぎもん)を抱き(いだき)ませんでした( "They had no doubt they were seeing Noah’s Ark." ).時代が下って(じだいが くだって)2007年には,トルコ人探検家(とるこじん たんけんか)チーム(ちーむ)が方舟(はこぶね)の内部(ないぶ)に入りフィルム映像(ふぃるむ えいぞう)を撮(と)りましたが( "Finally in our own time, in 2007, a team of Turkish explorers penetrated inside the Ark and took film footage …" ),それはフランス語映画とは別(べつ)にユーチューブ上(ゆーちゅーぶ じょう)で観(み)ることができます( "… independently of the French film." ).
映画(えいが)は結びの部分(むすびの ぶぶん)で,聖書(せいしょ)にある最も高い山々(もっとも たかい やまやま)(当時)を7メートル(なな めーとる)覆(おお)った( 旧約聖書・創世の書第7章20節)( “Gen. VII, 20” )大洪水(だい こうずい)についての近代科学者(きんだい かがくしゃ)や地質学者(ちしつ がくしゃ)たちの興味深い推測(きょうみ ぶかい すいそく)を紹介(しょうかい)しています( "The film concludes with fascinating speculation of modern scientists and geologists on the mass of water which Scripture says drowned the highest (then) mountains to a depth of 7 meters (Gen. VII, 20)." ).聖書(せいしょ)でとくに注目(ちゅうもく)すべきことは、水(みず)が天(てん)から雨(あめ)となって降(ふ)っただけでなく地下(ちか)からも溢れ出した(あふれだした)と記(しる)している点(てん)です(創世の書第7章全章:,8章2節)( “Gen. VII: VIII, 2” )( "Especially worthy of note in Scripture is how it says that the water not only rained from on high but also burst up from below (Gen. VII, 11: VIII, 2). " ).これについて,映画ではアメリカ人技師(あめりか じん ぎし)ウォルター・ブラウン博士(うぉるたー・ぶらうん はかせ)が説得力のある説明(せっとくりょくの ある せつめい)をしています( "A persuasive explanation is offered on the film by an American engineer, Dr Walter Brown, …" ).彼(かれ)は洪水が起きる前(こうずいが おきる まえ),地表(ちひょう)からおよそ800メートルの深さ(ふかさ)でつながっている複数(ふくすう)の巨大(きょだい)な地下水盤(ちか すいばん)が厚さ(あつさ)10マイル(じゅう まいる)の岩盤の下(がんばんの した)で強く圧縮(つよく あっしゅく)されたと推測(すいそく)しています( "…who posits that before the Flood there were huge subterranean caverns of water, interconnected, some 800 meters deep, fiercely compressed beneath the earth’s surface crust of rock, 10 miles thick." ).これにより生じたひびが2時間で地球を巡り( "It was enough for a split in that crust to run around the earth in two hours, …" ),そのとき膨大な量の地下水(ぼうだいな りょうの ちかすい)が吹き出して(ふきだして),地球の表面を変え(ちきゅうの ひょうめんを かえ)( "… and a mass of that water would explode upwards from below, changing the face of the earth, …" ),私たちが現在見る(げんざい みる)地球の地質(ちきゅうの ちしつ)の多くの特徴(おおくの とくちょう)を作り出した(つくり だした)と,ブラウン博士(はかせ)は論(ろん)じています( "… and explaining many features, Dr Brown argues, of the earth’s geology as we know it today." ).とても興味(きょうみ)をそそる話(はなし)です( "Altogether fascinating." ).(訳注後記3)
だが,今日(こんにち),神は存在(かみは そんざい)すること,罪(つみ)は私たちにとり大きな問題(おおきな もんだい)であること,環境破壊(かんきょう はかい)は懲罰の一形態(ちょうばつの いちけいたい)であることを知(し)りたいと願う人々(ねがう ひとびと)がはたして何人(なんにん)いるでしょうか?( "But how many people today want to know that God exists, that sin matters, and that the wrecking of environments is one way in which sin is punished ? " ) この映画(えいが)が述(の)べているのは,19世紀末(せいき まつ)になると,人々(ひとびと)は方舟を訪れた者(はこぶねを おとずれた もの)が多(おお)くいたにもかかわらず,( "The film says that in the late 19th century, despite the number of visitors to the Ark, …" ),神の存在(かみの そんざい)を明示(めいじ)する方舟(はこぶね)より,神の存在と縁を切る(えんを きる)進化の方(しんかの ほう)により強い関心(つよい かんしん)を示(しめ)すようになったということです( "… people were more interested in Evolution getting rid of God than in the Ark clearly pointing to him." ).神が洪水による罰(こうずいに よるばつ)を再び与える(ふたたび あたえる)ことはないと約束(やくそく)されたのは事実(じじつ)です( “Gen. IX, 15” )( "True, God promised Noah that he would never again punish by a flood of water (Gen. IX, 15), …" ).だが,この約束(やくそく)に世界的な火の雨(せかいてきな ひの あめ)( “a worldwide rain of fire” )は含(ふく)まれていません( "… but that does not exclude a worldwide rain of fire." ).1973年,私たちの秋田の聖母(あきたの せいぼ)は私たちの頭上(ずじょう)に火の雨の危険(ひの あめの きけん)が垂れ込め(たれこめ)ていると話(はな)されました( "Our Lady of Akita spoke in 1973 of the latter hanging over our heads." ).いま確(たし)かに罪(つみ)は制御不能(せいぎょ ふのう)なほど全世界(ぜんせかい)に広(ひろ)がっています( "Certainly sin is today careering out of control, worldwide." ).
キリエ・エレイソン.
ユーチューブでアクセスできる最近のフランス映画(えいが)は( "A recent French film, accessible on YouTube, …" ),今日(こんにち)もなおアララト山上(さんじょう)に存在(そんざい)するノアの方舟の歴史的かつ実際的な証拠(れきしてき かつ じっさいてきな しょうこ)を紹介(しょうかい)しています …( "… presents historical and factual evidence for Noah’s Ark still today existing, high up on Mount Ararat.. " )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第3パラグラフの訳注1
「西暦約500年ほど前」( "about half a millennium before Christ" )について
・西暦紀元の約半世紀ほど前.(=紀元前約500年)
(・紀元=救世主イエズス・キリスト生誕元年.)
(・"before Christ" =紀元前.=キリスト生誕年より以前に遡(さかのぼ)って.)
・大洪水という世界的懲罰を神が下した後の
平和・幸福な一千年期("a millennium" ,千年・1000年)
の半分=500年.
* * *
第3パラグラフの訳注2
西暦紀元 "AD" について.
・"before Christ"
=紀元前(=キリスト生誕年以前).
・"AD" =紀元( "ANNNO DOMINO" )
"ANNNO DOMINO"
= 主の年(しゅのとし).救世主(キリスト)生誕元年以降
* * *
第4パラグラフの訳注3.
旧約聖書・創世の書:第2章,第3章.
* * *
訳注を追補いたします.
2014年3月25日火曜日
348 抵抗方針 I 3/15
エレイソン・コメンツ 第348回 (2014年3月15日)
今日,教会と世界(きょうかいと せかい)が破滅状態(はめつ じょうたい)にある中(なか)で,ほかの何(なに)にもまして,二つの主要な原則(ふたつの しゅような げんそく)が働(はたら)いています( "In today’s disastrous state of Church and world there are, amongst others, two central principles in play, …" ).ひとつは恒久的,根本的(こうきゅうてき・こんぽんてき)な原則であり,もうひとつは暫定的,副次的(ざんていてき・ふくじてき)な原則です( "… the one permanent and primary, the other temporary and secondary, …" ).だが,二つはともに中心的な働き(ちゅうしんてき な はたらき)をしています( "… but both are central." ).この二つの原則の相互作用(そうごさよう)が私たちの行動を導く(こうどうを みちびく)のに決定的(けっていてき)な働きをするはずです( "Their interplay should be decisive to guide our actions." ).
恒久的な原則(こうきゅうてきな げんそく)とは「信仰(しんこう)がなければ神を喜ばす(かみを よろこばす)ことはできない」(新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第11章6節."Heb. XI, 6" )というものです( "The permanent principle is that “Without faith it is impossible to please God” (Heb. XI, 6)." ).なぜなら,人はすべて神から生(う)まれたのであり,死(し)にあたって神のもとへ行き,神の至福の姿(しふくの すがた)に接(せっ)することができるように使(つか)える自由意志(じゆう いし)を与(あた)えられているからです( "This is because all men come from God endowed with a free-will which they are meant so to use as to be able to go to God when they die, and enjoy the beatific vision of God for eternity." ).私たちが現世(げんせ)に存在(そんざい)するためにつけられたこの必須条件(ひっす じょうけん)は神がくださったきわめて寛容な提案(かんような ていあん)であり,私たちから見返り(みかえり)に求(もと)められるものがたとえ相対的(そうたい てき)に少(すく)なくても与えられるものです( "旧約聖書・イザイアの書:第64章4節."Is. LXIV, 4" )( "These obligatory terms of our earthly existence constitute an extremely generous offer on God’s part, given how relatively little is required on our part (Is. LXIV, 4), …" ).だが,私たちが先ず(まず)できることは神の存在を認める(かみの そんざいを みとめる)ことです( "… but the very least that we can do, a bare beginning, is to recognize his existence." ).私たちの身の回り(みの まわり)にあふれる神の創造物(=被造物)(そうぞうぶつ=ひぞうぶつ)( "his Creation" )の素晴(すば)らしさを考えれば,神の存在を認めないのは「許(ゆる)されない」ことであり( "新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第1章20節."Rom. I, 20" )( "Given the goodness of his Creation all around us, it is “inexcusable” not to recognize it (Rom. I, 20), …" ),したがって,私たちは神への初歩的(しょほてき)な信仰さえも持(も)たないようでは神を喜ばすことなどできません( "… and therefore without the most elementary faith in him it is impossible to please him. " ).
暫定的な原則(ざんていてきな げんそく)とは,牧者が倒れ(ぼくしゃが たおれ),羊が散り散りに(ひつじが ちりぢりに)なったとき働く原則です(旧約聖書・ザカリアの預言書:第13章7節."Zach. XIII, 7" )( "The temporary principle is that the Shepherd is struck and the sheep are scattered (Zach.XIII, 7), …" ).これは私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園(その)で引用された一文(いんよう された いちぶん)です(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )( "… text quoted by Our Lord in the Garden of Gethsemane (Mt. XXVI, 31)." )(訳注後記1).人類(じんるい)が4千年(よん せん ねん)にわたって繰り返し(くりかえし)堕落し続けた後(だらく しつづけた あと)( "After 4,000 years of man’s repeated decadence, …" ),神は人間的な姿(にんげんてきな すがた)をおびて(この世に降りて来られて〈おりてこられて〉)(訳注後記2)教会を創設(きょうかいを そうせつ)され( "… God took a human nature to found a Church …" ),その後(ご)2千年(に せん ねん)にわたり諸々の人間(もろもろの にんげん)が自(みずか)らの霊魂(れいこん)を救(すく)えるようにしてくださいました( "… to enable men to save their souls for the last 2,000 years of men’s existence on this earth." ).初めの千年(はじめの せんねん)は堕落(だらく)が著(いちじる)しく食い止め(くい とめ)られました( "For the first thousand of those years the decadence was seriously interrupted, …" ).だが,数世紀(すう せいき)もすると堕落が再び始まり(ふたたび はじまり)( "… but after a few more centuries it picked up again …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)とともに神の教会の指導者たち本人(かみの きょうかい しどうしゃたち ほんにん),すなわち教会の命運(きょうかいの めいうん)を託(たく)された教皇たち(きょうこう たち)までが( "… to the point that with Vatican II the very leaders of God’s own Church, the Popes on whom it was designed to depend, …" )著しく堕落(いちじるしく だらく)してしまいました( "… became seriously infected by the decadence." ).その結果(けっか),霊魂(れいこん)をどう救(すく)うかについて神が示(しめ)された方法(ほうほう)を人々が理解(ひとびとが りかい)するのがますます難(むずか)しくなってしまいました( "Thereupon it became much more difficult for men to see how God meant them to save their souls." ).
それ故(ゆえ),一方(いっぽう)では,客観的に言えば(きゃっかんてきに いえば)( "Therefore on the one hand, objectively speaking, …" ),霊魂救済(れいこん きゅうさい)についての恒久的諸真理(こうじょうてき しょ しんり)( "the permanent truths of salvation" )は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちの堕落(だらく)にかかわらず少(すこ)しも変(か)わっておらず( "… the permanent truths of salvation have not been changed one little bit by the fall of the Conciliar Popes, …" ),救われるべき霊魂が一人(ひとり)でも依然(いぜん)として世に残っているなら(よに のこっているなら)(訳注・=最後の一人の霊魂の救済に至るまで),それら諸真理(しょ しんり)を守り続け(まもり つづけ)なければなりません( "… and these truths must be maintained if any souls at all are still to be saved." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の誇り(ほこり)は,堕落した聖職者(だらくした せいしょくしゃ)たちに対抗(たいこう)してこれらの諸真理(しんり)を守(まも)ることでしたが( "It was Archbishop Lefebvre’s glory to uphold those truths against the fallen churchmen and world, …" ),彼の後継者(かれの こうけいしゃ)たちは,そのような聖職者たちとその世界(せかい)に加(くわ)わるため,これら諸真理を傷(きず)つけ大司教の顔に泥を塗りました(かおに どろを ぬりました)(訳注・「…顔に泥を塗る」 "disgrace" =恥をかかせる〈はじを かかせる〉・面目を失わせた〈めんぼくを うしなわせる〉・名誉を傷つける〈めいよを きずつける〉)( "… while it is his successors’ disgrace to be compromising them for the sake of rejoining those churchmen and their world." ).
他方(たほう),主観的に言えば(しゅかんてきに いえば),後継者(こうけいしゃ)たちがおこなった不名誉(ふ めいよ)は教皇たちの堕落によって,その偉大な真理(いだいな しんり)が一時的(いちじ てき)に輝きを失った(かがやきを うしなった)ため幾分(いくぶん)弱(よわ)められています( "On the other hand, subjectively speaking, that disgrace is mitigated by the temporary eclipse of those great truths, due to the fall of the Popes." ).司教(しきょう)たちでさえローマの司教(=教皇,"the Bishop of Rome" )が間違って見えても(まちがってみえても),それを見抜く(みぬく)のは容易(ようい)ではありません( "It is not easy even for bishops to see straight when the Bishop of Rome is seeing crooked." ).したがって,神の恩寵(かみの おんちょう) ― それ以外(いがい)のものではありません ― によって見抜く力(みぬく ちから)を得(え)ている人たちは( "It follows that those who by the grace of God – and by nothing else – see straight, …" ),必(かなら)ずしも自分の誤り(じぶんの ほこり)のためでなく混乱に陥った魂(こんらんに おちいった たましい)のために360度の思(おも)いやり( "a 360-degree compassion" )を持(も)たねばならないということになります( "… must have a 360-degree compassion for souls caught in a confusion not entirely their own fault." ).だから,もしジェームスが自分の霊魂を救う(じぶんの れいこんを すくう)ためには新教会(しん きょうかい)( "the Newchurch" )にとどまらねばならないと信(しん)じているなら,私には彼をそこからむりやり引っ張り出す必要(ひっぱりだす ひつよう)はないだろうと思えます( "Therefore, it seems to me, if James is convinced that to save his soul he must stay in the Newchurch, I need not hammer him to get out of it." ).もしクレアが聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )内(ない)に深刻な問題(しんこくな もんだい)などなにもないと思(おも)いこまされているなら,私がそのようなことはないだろうと無理(むり)やり彼女を説得(かのじょを せっとく)する必要はないでしょう( "If Clare is persuaded that there is no grave problem within the Society of St Pius X, I need not ram down her throat why there is." ).そして,もしジョンが教皇の座(ざ)が空位(くうい)だと信(しん)じなければ自分の信仰(じぶんの しんこう)を保(たも)てないと考えるなら,私ができることはせいぜい,その考え方(かんがえ かた)は義務(ぎむ)ではないと彼に伝える(かれに つたえる)ことぐらいでしょう( "And if John can see no way to keep the Faith without believing that the See of Rome is vacant, I need urge upon him no more than that that belief is not obligatory." ).
だが,羊(ひつじ)たちが散り散り(ちりぢり)になっている現代の状況下(げんだいの じょうきょう か)では( "Yet in all this scattering of the sheep, …" ),誰(だれ)かがお粗末な人(おそまつな ひと)たちに代(か)わって,客観的な真理(きゃっかんてきな しんり)を守り抜き(まもり ぬき),それを羊たちに提供(ていきょう)しなければなりません(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第19章40節."Lk. XIX, 40" )( "… somebody must maintain and make available to them the objective Truth if the poor stones are not to have to do it (Lk. XIX, 40), …" ).なぜなら,私たちの霊魂(れいこん)を救(すく)えるかどうかは,最低限(さいてい げん)でもその真理を求(もと)めるかどうかにかかっているからです( "… because upon at least the seeking of that Truth depends the saving of our souls." ).だが,私たちカトリック教徒(きょうと)は,真理を求める(しんりを もとめる)仲間の羊(なかまの ひつじ)たちが盲目(もうもく)であることに十分気を配る(じゅうぶん きを くばる)ようにしましょう( "However, let Catholics seek it with all due regard for the blindness of their fellow-sheep, …" ).少(すく)なくとも牧者(ぼくしゃ)が倒(たお)れているあいだは( "… for at least as long as the Shepherd remains struck." ).
キリエ・エレイソン.
要約:牧者が倒れて(ぼくしゃが たおれて)いるときは,救済の真理(きゅうさいの しんり)が破(やぶ)られないよう守(まも)らなければなりません( "Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, …" ). だが,「毛(け)を刈り取られた(かり とられた)羊(ひつじ)たちには風を和らげて(かぜを やわらげて)あげなければなりません.」( "… but "The wind must be tempered to the shorn lambs". Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, but "The wind must be tempered to the shorn lambs". " )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第3パラグラフの訳注1
「私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園で引用された一文」
(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )
について
マテオ第26章31節
EVANGELIUM SECUNDUM MATTÆUM XXVI, 31
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST
SELON SAINT MATTHIEU XXVI, 31
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST,
ACCORDING TO ST. MATTHEW XXVI, 31
『そのときイエズスは弟子たちに言われた,
「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.
〈*私は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.」』
"Tunc dicit illis Iesus:
Omnes vos scandalum patiemini in me, in ista nocte.
Scriptum est enim: Percutiam pastorem, et dispergentur
oves gregis."
"Alors Jésus leur dit:
Vous tout vous prendrez du scandale à mon sujet pendant cette nuit ;
car il est écrit : Je frapperai le pasteur, et les brebis
du troupeau seront dispersées."
"Then Jesus said to them:
All you shall be scandalized in me this night.
For it is written:
I will strike the shepherd, and the sheep
of the flock shall be dispersed."
この後,
30-35節「ペトロのつまずきの預言」
→36-46節「ゲッセマニにて」
→47-56節「イエズスの捕らわれ」へと続く.
(注釈)
*31節 旧約聖書・ザカリアの書13章7節.
弟子たちはイエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.
そのイエズスが何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.
牧者〈ぼくしゃ〉
=救世主(メシア)・神の御独子イエズス・キリスト,
また,その代理者たるローマ教皇・諸々の司教.
羊〈ひつじ〉=諸々の司祭.
* * *
第3パラグラフの訳注2
・「全能・唯一(ぜんのう・ゆいいつ)の
*三位一体(聖父+聖子+聖霊)の神」は
また「みことば(御言葉)」と呼ばれる.
・「みことば」は聖霊によって童貞聖マリアの御胎内に宿られ,
人間と同じ肉体を取ってお生まれになった.
(「みことばは人となられた」…新約聖書・ヨハネ聖福音書)
・人「聖マリア」の子となられた「みことば」たる
神の御子イエズス・キリストは,
人間と同じ様に苦難に満ちた人生を生き,
この世の悪〈闇〉の権力に迫害され,「十字架上の死に至るまで」,
神御自身の性質である「無限の愛と真理」に忠実に従った.
*「三位一体の神」=「聖父+聖子+聖霊(ちちと こと せいれい) の神」
・聖マリアは「神の御母」と呼ばれる.
・聖ヨハネ聖福音書,
「使徒信経」("CREDO"),
「御告げの祈り」("ÁNGELUS DÓMINI")
を参照.
* * *
訳注の続きを追補いたします.
* * *
今日,教会と世界(きょうかいと せかい)が破滅状態(はめつ じょうたい)にある中(なか)で,ほかの何(なに)にもまして,二つの主要な原則(ふたつの しゅような げんそく)が働(はたら)いています( "In today’s disastrous state of Church and world there are, amongst others, two central principles in play, …" ).ひとつは恒久的,根本的(こうきゅうてき・こんぽんてき)な原則であり,もうひとつは暫定的,副次的(ざんていてき・ふくじてき)な原則です( "… the one permanent and primary, the other temporary and secondary, …" ).だが,二つはともに中心的な働き(ちゅうしんてき な はたらき)をしています( "… but both are central." ).この二つの原則の相互作用(そうごさよう)が私たちの行動を導く(こうどうを みちびく)のに決定的(けっていてき)な働きをするはずです( "Their interplay should be decisive to guide our actions." ).
恒久的な原則(こうきゅうてきな げんそく)とは「信仰(しんこう)がなければ神を喜ばす(かみを よろこばす)ことはできない」(新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第11章6節."Heb. XI, 6" )というものです( "The permanent principle is that “Without faith it is impossible to please God” (Heb. XI, 6)." ).なぜなら,人はすべて神から生(う)まれたのであり,死(し)にあたって神のもとへ行き,神の至福の姿(しふくの すがた)に接(せっ)することができるように使(つか)える自由意志(じゆう いし)を与(あた)えられているからです( "This is because all men come from God endowed with a free-will which they are meant so to use as to be able to go to God when they die, and enjoy the beatific vision of God for eternity." ).私たちが現世(げんせ)に存在(そんざい)するためにつけられたこの必須条件(ひっす じょうけん)は神がくださったきわめて寛容な提案(かんような ていあん)であり,私たちから見返り(みかえり)に求(もと)められるものがたとえ相対的(そうたい てき)に少(すく)なくても与えられるものです( "旧約聖書・イザイアの書:第64章4節."Is. LXIV, 4" )( "These obligatory terms of our earthly existence constitute an extremely generous offer on God’s part, given how relatively little is required on our part (Is. LXIV, 4), …" ).だが,私たちが先ず(まず)できることは神の存在を認める(かみの そんざいを みとめる)ことです( "… but the very least that we can do, a bare beginning, is to recognize his existence." ).私たちの身の回り(みの まわり)にあふれる神の創造物(=被造物)(そうぞうぶつ=ひぞうぶつ)( "his Creation" )の素晴(すば)らしさを考えれば,神の存在を認めないのは「許(ゆる)されない」ことであり( "新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第1章20節."Rom. I, 20" )( "Given the goodness of his Creation all around us, it is “inexcusable” not to recognize it (Rom. I, 20), …" ),したがって,私たちは神への初歩的(しょほてき)な信仰さえも持(も)たないようでは神を喜ばすことなどできません( "… and therefore without the most elementary faith in him it is impossible to please him. " ).
暫定的な原則(ざんていてきな げんそく)とは,牧者が倒れ(ぼくしゃが たおれ),羊が散り散りに(ひつじが ちりぢりに)なったとき働く原則です(旧約聖書・ザカリアの預言書:第13章7節."Zach. XIII, 7" )( "The temporary principle is that the Shepherd is struck and the sheep are scattered (Zach.XIII, 7), …" ).これは私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園(その)で引用された一文(いんよう された いちぶん)です(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )( "… text quoted by Our Lord in the Garden of Gethsemane (Mt. XXVI, 31)." )(訳注後記1).人類(じんるい)が4千年(よん せん ねん)にわたって繰り返し(くりかえし)堕落し続けた後(だらく しつづけた あと)( "After 4,000 years of man’s repeated decadence, …" ),神は人間的な姿(にんげんてきな すがた)をおびて(この世に降りて来られて〈おりてこられて〉)(訳注後記2)教会を創設(きょうかいを そうせつ)され( "… God took a human nature to found a Church …" ),その後(ご)2千年(に せん ねん)にわたり諸々の人間(もろもろの にんげん)が自(みずか)らの霊魂(れいこん)を救(すく)えるようにしてくださいました( "… to enable men to save their souls for the last 2,000 years of men’s existence on this earth." ).初めの千年(はじめの せんねん)は堕落(だらく)が著(いちじる)しく食い止め(くい とめ)られました( "For the first thousand of those years the decadence was seriously interrupted, …" ).だが,数世紀(すう せいき)もすると堕落が再び始まり(ふたたび はじまり)( "… but after a few more centuries it picked up again …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)とともに神の教会の指導者たち本人(かみの きょうかい しどうしゃたち ほんにん),すなわち教会の命運(きょうかいの めいうん)を託(たく)された教皇たち(きょうこう たち)までが( "… to the point that with Vatican II the very leaders of God’s own Church, the Popes on whom it was designed to depend, …" )著しく堕落(いちじるしく だらく)してしまいました( "… became seriously infected by the decadence." ).その結果(けっか),霊魂(れいこん)をどう救(すく)うかについて神が示(しめ)された方法(ほうほう)を人々が理解(ひとびとが りかい)するのがますます難(むずか)しくなってしまいました( "Thereupon it became much more difficult for men to see how God meant them to save their souls." ).
それ故(ゆえ),一方(いっぽう)では,客観的に言えば(きゃっかんてきに いえば)( "Therefore on the one hand, objectively speaking, …" ),霊魂救済(れいこん きゅうさい)についての恒久的諸真理(こうじょうてき しょ しんり)( "the permanent truths of salvation" )は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちの堕落(だらく)にかかわらず少(すこ)しも変(か)わっておらず( "… the permanent truths of salvation have not been changed one little bit by the fall of the Conciliar Popes, …" ),救われるべき霊魂が一人(ひとり)でも依然(いぜん)として世に残っているなら(よに のこっているなら)(訳注・=最後の一人の霊魂の救済に至るまで),それら諸真理(しょ しんり)を守り続け(まもり つづけ)なければなりません( "… and these truths must be maintained if any souls at all are still to be saved." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の誇り(ほこり)は,堕落した聖職者(だらくした せいしょくしゃ)たちに対抗(たいこう)してこれらの諸真理(しんり)を守(まも)ることでしたが( "It was Archbishop Lefebvre’s glory to uphold those truths against the fallen churchmen and world, …" ),彼の後継者(かれの こうけいしゃ)たちは,そのような聖職者たちとその世界(せかい)に加(くわ)わるため,これら諸真理を傷(きず)つけ大司教の顔に泥を塗りました(かおに どろを ぬりました)(訳注・「…顔に泥を塗る」 "disgrace" =恥をかかせる〈はじを かかせる〉・面目を失わせた〈めんぼくを うしなわせる〉・名誉を傷つける〈めいよを きずつける〉)( "… while it is his successors’ disgrace to be compromising them for the sake of rejoining those churchmen and their world." ).
他方(たほう),主観的に言えば(しゅかんてきに いえば),後継者(こうけいしゃ)たちがおこなった不名誉(ふ めいよ)は教皇たちの堕落によって,その偉大な真理(いだいな しんり)が一時的(いちじ てき)に輝きを失った(かがやきを うしなった)ため幾分(いくぶん)弱(よわ)められています( "On the other hand, subjectively speaking, that disgrace is mitigated by the temporary eclipse of those great truths, due to the fall of the Popes." ).司教(しきょう)たちでさえローマの司教(=教皇,"the Bishop of Rome" )が間違って見えても(まちがってみえても),それを見抜く(みぬく)のは容易(ようい)ではありません( "It is not easy even for bishops to see straight when the Bishop of Rome is seeing crooked." ).したがって,神の恩寵(かみの おんちょう) ― それ以外(いがい)のものではありません ― によって見抜く力(みぬく ちから)を得(え)ている人たちは( "It follows that those who by the grace of God – and by nothing else – see straight, …" ),必(かなら)ずしも自分の誤り(じぶんの ほこり)のためでなく混乱に陥った魂(こんらんに おちいった たましい)のために360度の思(おも)いやり( "a 360-degree compassion" )を持(も)たねばならないということになります( "… must have a 360-degree compassion for souls caught in a confusion not entirely their own fault." ).だから,もしジェームスが自分の霊魂を救う(じぶんの れいこんを すくう)ためには新教会(しん きょうかい)( "the Newchurch" )にとどまらねばならないと信(しん)じているなら,私には彼をそこからむりやり引っ張り出す必要(ひっぱりだす ひつよう)はないだろうと思えます( "Therefore, it seems to me, if James is convinced that to save his soul he must stay in the Newchurch, I need not hammer him to get out of it." ).もしクレアが聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )内(ない)に深刻な問題(しんこくな もんだい)などなにもないと思(おも)いこまされているなら,私がそのようなことはないだろうと無理(むり)やり彼女を説得(かのじょを せっとく)する必要はないでしょう( "If Clare is persuaded that there is no grave problem within the Society of St Pius X, I need not ram down her throat why there is." ).そして,もしジョンが教皇の座(ざ)が空位(くうい)だと信(しん)じなければ自分の信仰(じぶんの しんこう)を保(たも)てないと考えるなら,私ができることはせいぜい,その考え方(かんがえ かた)は義務(ぎむ)ではないと彼に伝える(かれに つたえる)ことぐらいでしょう( "And if John can see no way to keep the Faith without believing that the See of Rome is vacant, I need urge upon him no more than that that belief is not obligatory." ).
だが,羊(ひつじ)たちが散り散り(ちりぢり)になっている現代の状況下(げんだいの じょうきょう か)では( "Yet in all this scattering of the sheep, …" ),誰(だれ)かがお粗末な人(おそまつな ひと)たちに代(か)わって,客観的な真理(きゃっかんてきな しんり)を守り抜き(まもり ぬき),それを羊たちに提供(ていきょう)しなければなりません(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第19章40節."Lk. XIX, 40" )( "… somebody must maintain and make available to them the objective Truth if the poor stones are not to have to do it (Lk. XIX, 40), …" ).なぜなら,私たちの霊魂(れいこん)を救(すく)えるかどうかは,最低限(さいてい げん)でもその真理を求(もと)めるかどうかにかかっているからです( "… because upon at least the seeking of that Truth depends the saving of our souls." ).だが,私たちカトリック教徒(きょうと)は,真理を求める(しんりを もとめる)仲間の羊(なかまの ひつじ)たちが盲目(もうもく)であることに十分気を配る(じゅうぶん きを くばる)ようにしましょう( "However, let Catholics seek it with all due regard for the blindness of their fellow-sheep, …" ).少(すく)なくとも牧者(ぼくしゃ)が倒(たお)れているあいだは( "… for at least as long as the Shepherd remains struck." ).
キリエ・エレイソン.
要約:牧者が倒れて(ぼくしゃが たおれて)いるときは,救済の真理(きゅうさいの しんり)が破(やぶ)られないよう守(まも)らなければなりません( "Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, …" ). だが,「毛(け)を刈り取られた(かり とられた)羊(ひつじ)たちには風を和らげて(かぜを やわらげて)あげなければなりません.」( "… but "The wind must be tempered to the shorn lambs". Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, but "The wind must be tempered to the shorn lambs". " )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第3パラグラフの訳注1
「私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園で引用された一文」
(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )
について
マテオ第26章31節
EVANGELIUM SECUNDUM MATTÆUM XXVI, 31
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST
SELON SAINT MATTHIEU XXVI, 31
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST,
ACCORDING TO ST. MATTHEW XXVI, 31
『そのときイエズスは弟子たちに言われた,
「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.
〈*私は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.」』
"Tunc dicit illis Iesus:
Omnes vos scandalum patiemini in me, in ista nocte.
Scriptum est enim: Percutiam pastorem, et dispergentur
oves gregis."
"Alors Jésus leur dit:
Vous tout vous prendrez du scandale à mon sujet pendant cette nuit ;
car il est écrit : Je frapperai le pasteur, et les brebis
du troupeau seront dispersées."
"Then Jesus said to them:
All you shall be scandalized in me this night.
For it is written:
I will strike the shepherd, and the sheep
of the flock shall be dispersed."
この後,
30-35節「ペトロのつまずきの預言」
→36-46節「ゲッセマニにて」
→47-56節「イエズスの捕らわれ」へと続く.
(注釈)
*31節 旧約聖書・ザカリアの書13章7節.
弟子たちはイエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.
そのイエズスが何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.
牧者〈ぼくしゃ〉
=救世主(メシア)・神の御独子イエズス・キリスト,
また,その代理者たるローマ教皇・諸々の司教.
羊〈ひつじ〉=諸々の司祭.
* * *
第3パラグラフの訳注2
・「全能・唯一(ぜんのう・ゆいいつ)の
*三位一体(聖父+聖子+聖霊)の神」は
また「みことば(御言葉)」と呼ばれる.
・「みことば」は聖霊によって童貞聖マリアの御胎内に宿られ,
人間と同じ肉体を取ってお生まれになった.
(「みことばは人となられた」…新約聖書・ヨハネ聖福音書)
・人「聖マリア」の子となられた「みことば」たる
神の御子イエズス・キリストは,
人間と同じ様に苦難に満ちた人生を生き,
この世の悪〈闇〉の権力に迫害され,「十字架上の死に至るまで」,
神御自身の性質である「無限の愛と真理」に忠実に従った.
*「三位一体の神」=「聖父+聖子+聖霊(ちちと こと せいれい) の神」
・聖マリアは「神の御母」と呼ばれる.
・聖ヨハネ聖福音書,
「使徒信経」("CREDO"),
「御告げの祈り」("ÁNGELUS DÓMINI")
を参照.
* * *
訳注の続きを追補いたします.
* * *
2014年3月9日日曜日
347 1950年代主義 3/8
エレイソン・コメンツ 第347回 (2014年3月8日)
少(すく)なくともこれまでのところ,フェレー司教(しきょう)( "Bishop Fellay" )のもとで進(すす)められている聖ピオ10世会(せい ぴお じゅっせい かい)( "the Society of St Pius X=SSPX" )の完全(かんぜん)な方向転換(ほうこう てんかん)に対(たい)し内部(ないぶ)からの抵抗(ていこう)が比較的少ない(ひかくてき すくない)のは,( "If there is, at least up till now, relatively little reaction from within the Society of St Pius X to its complete change of direction under Bishop Fellay, … " ),1950年代(せん きゅうひゃく ごじゅう ねんだい)のカトリック信仰(しんこう)に戻(もど)りたいという願望(がんぼう)があるからではないでしょうか( "… that is because of the desire to return to the Catholicism of the 1950’s." ).これは,英語圏のある SSPX 教会のミサに参列(さんれつ)した一カトリック信徒(女性)(いち かとりっく しんと〈じょせい〉)による観察(かんさつ)です( "So observes a Catholic attending Mass at an SSPX Chapel in the English-speaking world." ).彼女(かのじょ)は最近(さいきん),私(わたくし)に以下(いか)のような手紙(てがみ)をくださいました.-- ( "She wrote to me recently:-- " )
「私たちの世界(わたくしたちの せかい)で抵抗(ていこう)がまったくないのはどうしてでしょうか?( " “Why is there no "Resistance" in our part of the world ? " ) 私にはその理由(りゆう)が分かった気(わかった き)がします( "I think I've figured it out." ).あなたはこれまで何度(なんど)となく SSPX の最初のリーダー(さいしょの りーだー)たちのほとんどはルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)("Archbishop Lefebvre")のことを正しく理解していない(ただしく りかい していない)と言(い)ってこられました( "You've mentioned many times that most of the original leaders of the Society of St Pius X never really understood Archbishop Lefebvre." ) .私の地元(わたしの じもと)について言えば(い えば),同(おな)じことが私たちの教会(きょうかい)の初期の創設者(しょきの そうせつしゃ)たちの多く(おおく)に当(あ)てはまるとおもいます( "Locally, I think that that applies to many of our original chapel founders here, …" ).彼らは SSPX と同会(どう かい)の現在(げんざい)のリーダーたちに固(かた)くしがみついている人たちです( "… who are the ones clinging to the Society and to its present leaders." ).どういうことなのでしょう?( "How come ? " ) 長い間(ながい あいだ),懸命(けんめい)に守り抜こう(まもり ぬこう)としてきたものが内部(ないぶ)からの破壊(はかい)に脅(おびや)かされているのに,彼らがなにも行動(こうどう)しないのはなぜなのでしょうか?( "Why don't they take action, when what they fought so long and hard for is threatened with destruction from within? " )
日曜日(主日)(にちようび〈しゅじつ〉)(訳注後記1)に,ある年配のご婦人(ねんぱいの ごふじん)が私にその理由の概要(その りゆうの がいよう)を示(しめ)してくれました( " “On Sunday, an elderly lady summed it up for me." ).ご婦人と彼女のご主人(かのじょの ごしゅじん)によると,二人(ふたり)は1970年代から1980年代(せん きゅうひゃく ななじゅう ねんだい)にかけて懸命に抵抗(けんめいに ていこう)してきましたが( "As she and her husband see it, they strove valiantly through the 1970s into the early 80s, …" ),結局徒労に終わり(けっきょく とろうに おわり)ました.二人の労力の結果(ふたりの ろうりょくの けっか)が地元教会(じもと きょうかい)のいまの姿(すがた)そのものだというのです( "… and the fruit of their labours is the chapel itself." ).うわべだけの諸々の装飾品(もろもろの そうしょく ひん),小道具(こどうぐ),建物(たてもの),会衆席かいしゅう せき),彫像(ちょうぞう),司祭服(しさい ふく)のあふれるミサ聖祭 -- 抵抗運動(ていこう うんどう)の単なる存在(たんなる そんざい)が脅(おびや)かすものといえば,これがその対象(たいしょう)です!( "The Mass with all the outward trappings, the property, the buildings, the pews, the statues, the vestments -- this is what is threatened by the mere existence of the Resistance! " ).二人(ふたり)がずっと戦って(たたかって)きたのは若い(わかい)ころのカトリック信仰(しんこう)を自分(じぶん)たちのために取り戻す(とりもどす)ためでした( "They fought all those years to restore for themselves the Catholicism of their youth." ).彼ら(かれら)にとって,教理の問題(きょうりの もんだい)などまったく関係(かんけい)ないのです( "For them, it's NOT a question of doctrine at all." ).ご婦人は第三(修道)会( "a Third Order" =第三秩序)(だいさん〈しゅうどう〉かい〈=だいさん ちつじょ〉)(訳注後記2)の会員(かいいん)ですが,教理に関わる物事(きょうりに かかわる ものごと)は司祭や司教たち(しさいや しきょうたち)のためにあるもので,平信徒(ひら しんと)たちには無関係(む かんけい)だと信(しん)じています( "The woman is member of a Third Order, yet she believes doctrinal matters are for priests and bishops, not laity." ).たとえば,諸々の教皇回勅(もろもろの きょうこう かいちょく)( "Papal encyclicals" )を学習(がくしゅう)するのは神(かみ)が教会指導層(きょうかい しどう そう)( "the hierarchy" )に付与(ふよ)したことにちょっかいを出(だ)すようなものだというのです( "For example, to study Papal encyclicals is meddling in affairs that God assigned to the hierarchy." ).
私は老夫婦(ろう ふうふ)に自らの信仰(みずからの しんこう)を理解する必要(りかいするひつよう)を感じない(かんじない)のか( " “I asked if they see a need to understand their Faith, …" ),個々人の魂(ここじんの たましい)が己の信仰(おのれの しんこう) )を知(し)ることで神に答えない(かみに こたえない)のか,と尋(たず)ねました( "… if individual souls do not answer to God for knowing their Faith? " ).彼らの答え(こたえ)は誠実(せいじつ)でしたが,私には驚(おどろ)くべきものでした( "Their response was sincere, I believe, but to me it was astonishing." ) .二人は『とんでもない!カトリック信徒の責任(しんとの せきにん)は彼の上に位する方々(かれの うえに くらいする かたがた)( "superiors" )(訳注後記3)=すなわち「教会指導層」=聖職者=司教・司祭たち=平信徒より上位の階層に位する) に従(したが)う ( "to obey" ) ことです』と,言いました( "They said, ‘No! The responsibility of the Catholic is to obey his superiors.’ " ).では,その上位の方々(じょういの かたがた)が間違(まちが)っているときは(どうするのか)?(,と私は尋〈たず〉ねました)( "And if the superiors are in error? " ). 『とにかく従うのです! そうしないと謀反(むほん)( "rebellion" ) になります』と答えが返って(こたえが かえって)きました( " ‘Obey anyway! To do otherwise is rebellion.’ " ) .カトリック信徒にとって,彼の上に位する方々に『自分に関わりのないこと(自分に かかわりの ない こと)』,すなわち教理(きょうり)など,について質問(しつもん)することさえ『謀反の証(むほんの あかし)』になるというのです( "It is for a Catholic ‘a sign of rebellion’ to even question his superiors ‘in matters that do not concern him,’ i.e. doctrine." ).もしその上の方(うえの かた)が間違っていれば,神がお裁(さば)きになるでしょう ―― 『司祭に従えば(しさいに したがえば)けっして間違った方向へ行きません(まちがった ほうこうへ いきません)』(と,夫婦は言いました)( "If the superior is wrong, God will judge him – ‘You will never go wrong obeying the priest.’ " ).私はこれで分(わ)かりました( "So there you have it." ) .抵抗者(ていこうしゃ)たちは反抗的で罰当たりな謀反人(はんこうてきで ばちあたりな むほんにん)です( "The Resistants are rebels, disobedient, disrespectful." ).上の者(うえの もの)に質問(しつもん)するなどとんでもない( "How dare they question the superior? " ).教理を学習(きょうりを がくしゅう)するとか,上の方々に教理についていろいろ質問するなど,どうしてできるでしょうか? ( "How dare they presume to study doctrine, to ask questions of their superiors about it? " ) 抵抗者たちは悪(ていこうしゃたちは あく)です( "The Resistants are evil, …" ).それは彼(かれ)らが教理的(きょうり てき)に間違(まちが)っているからではなく( "… not because they are doctrinally wrong, …" ),その言動(げんどう)が1950年代(せん きゅうひゃく ごじゅう ねんだい)のカトリック信仰(しこう)を脅(おびや)かすからです( "… but because their words and actions threaten the Catholicism of the 1950’s." ).
だが,盲従(もうじゅう)はばかげたことです!( " “But blind obedience is ridiculous! " )牧者(ぼくしゃ)がやられ,羊(ひつじ)が散り散り(ちりぢり)になったとき,わたしたち子羊(こひつじ)はどうすればいいのでしょう?( "What are we lambs to do when the Shepherd is struck and the sheep are scattered ? " ) 何事(なにごと)もなかったように平静を装い(へいせいを よそおい)( "Pretend all is well, …" ),従順の名(じゅうじゅんの な)のもとにオオカミ(狼)(おおかみ)に貪り食われる(むさぼり くわれる)にまかせよというのでしょうか?(訳注後記4)( "… and let ourselves be devoured by wolves in the name of obedience ? " )そういう人たちに何と言えばいいのでしょう( "What can one say to such people? " ).彼らは意図的な無知(いとてきな むち)が美徳(びとく)だと信(しん)じて,故意(こい)に無知(むち)を装(よそお)っているのです!( "They are wilfully ignorant in the belief that wilful ignorance is a virtue! " )こうした考え方(かんがえ かた)はどこからくるのでしょうか?( "Where does such a mindset come from ? " )どのような誤(あやま)りが教会に忍び入り(しのび いり),カトリック信徒たちに考えることをやめさせたのでしょうか?( "What error crept into the Church to make Catholics switch off their minds? " ) 私がせいぜい言えるのは,もしSSPXがロボトミー手術(ろぼとみー しゅじゅつ)を受(う)けたような羊の群れの集まり(ひつじの むれの あつまり)なら( "All I can say is that if the SSPX is left with flocks of lobotomised sheep, …" ),ローマ教皇庁(きょうこう ちょう)が伝統(でんとう)の最後の砦(さいごの とりで)を一掃(いっそう)するのは簡単(かんたん)だろうということぐらいです( "… it will be easy for Rome to wipe out the last fortress of Tradition! " ).SSPX の諸聖堂(しょせいどう)は正式な合意(せいしきな ごうい)によって地元司教の管轄(じもと しきょうの かんかつ)に身を委ねる(みを ゆだねる)か,あるいは新典礼文下(しん てんれいぶん か)ミサ聖祭派(みさ せいさい は)司祭(しさい)たち( "Novus Ordo priests" ) の事実上の協力を得る(じじつじょうの きょうりょくを える)だけでいいのです( "The SSPX chapels need only to be handed over to the jurisdiction of the local bishop by formal agreement, or by de facto cooperation with Novus Ordo priests, …" ).これが,私が地元の教会(じもとの きょうかい)で観察(かんさつ)したことです.」( "… which we have seen locally.” " )」
この女性信徒(じょせい しんと)が,ローマ教皇庁が明白な合意(めいはくな ごうい)でなく,徐々に進める合併(じょじょに すすめる がっぺい)により SSPX を吸収(きゅうしゅう)する可能性(かのうせい)に注意喚起(ちゅうい かんき)した点(てん)に注目(ちゅうもく)してください( "Notice her evocation of the possibility of Rome absorbing the SSPX no longer by any clear-cut agreement, but by a gradual merger." ).それこそが本当の危険(ほんとうの きけん)です( "It is a real danger." ).私は SSPX 本部(ほんぶ)( "SSPX HQ (=Head Quarter)" )がローマの「新しい友人たち(あたらしい ゆうじん)」から,そうするようアドバイス(あどばいす)を受(う)けているのではないかと思(おも)っています( "I wonder if that is not what SSPX HQ is being advised to do by its “new friends” in Rome. Kyrie eleison" )
キリエ・エレイソン.
SSPX のリベラル志向に対する抵抗(りべらる しこうに たいする ていこう)がない理由の一部(りゆうの いちぶ)は ( "A lack of resistance to the liberal slide of the SSPX,…" )1950年代に戻ること(せん きゅうひゃく ごじゅうねん だいに もどる こと)だけを願う人々(ねがう ひとびと)がいることで説明(せつめい)できます( "… is partly explained by souls only wanting to return to the 1950’s." ).
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第3パラグラフの訳注1
「主日」の意味について:
・「日曜日」の本来の趣旨(しゅし)を意味する.
・旧約聖書・「創世の書」に記される通り,主なる神 ( "Lord God" ) は,
すなわち,世の初めから存在される方(よの はじめからそんざいされるかた),
(「私は『在る(ある)』という者…」 - 神が預言者(よげんしゃ)モーゼに仰(おお)せられた御言葉(みことば)-)(旧約聖書〈きゅうやく せいしょ〉),
・万物の創造主(ばんぶつの そうぞうしゅ) ・唯一の真の神(ゆいいつの まことの かみ) ・全ての被造物と人間の「主」である神(すべての ひぞうぶつと にんげんの しゅ である かみ)は,
・天地創造の際(てんち そうぞうの さい), 最初の5日間で,あらゆる物体(水・光・空気・天地のあらゆる鉱物・植物)を創造され,
・6日目に動物,最後に「神格に似た人格」を持つ人間を創造され,
・7日目に全ての創造の御業を休まれてこの日を「神聖な日」と定められた.
・それで,この日は「主日(=主の日)」(しゅじつ・しゅの ひ)( "Dies Dominica" )と呼ばれる.
・この世に肉体を持って母から生まれる人間が,ある日神に呼ばれ,神を呼び求め,
・「霊魂を持たずに肉体だけを所有するただの動物のよう」にとどまらずに,
・「神格」由来(「しんかく」ゆらい)の「人格」を所有する(「じんかく」をしょゆうする)「神の被造物」(「かみの ひぞうぶつ」)として,
・神への信仰(かみへの しんこう)によって「肉体(にくたい)」の他(ほか)に 「霊魂」をも所有する(「れいこん」をも しょゆうする)「人格を持った存在」(じんかくを もった そんざい)へと生まれ変わり(うまれ かわり),
・以来(いらい),神なる聖霊に導かれて生きる(かみなる せいれいに みちびかれて いきる)ようになり, 「永遠の命」(えいえんの いのち)をも所有(しょゆう)するようになることを,
・永遠の創造主,私たち人間の御父なる神(えいえんの そうぞうしゅたる かみ)は望まれる(のぞまれる).
・動物(どうぶつ)は,「肉体 〈精神+感情〉」(「にくたい〈せいしん+かんじょう〉」)を持(も)っていても,「霊魂(れいこん)」を持(も)たない.
・人間は「肉体〈精神+感情〉」 (にくたい〈せいしん+かんじょう〉) の他(ほか)に「霊魂」を持つ (れいこんをもつ) が,
・「霊魂」が「人格」を所有(れいこんが じんかくを しょゆう)するようになるのは,
人間(にんげん)が個人(こじん)として(にんげんが こじん として)
「自らの信仰(みずからの しんこう)」によって,
「万物の創造主たる神(ばんぶつの そうぞうしゅ たる かみ)」を認(みと)め,
神を自分の霊魂と身体の真の御父と信じる
(かみを じぶんの れいこんと からだの まことの おんちち と しんじる)
ことによる.
・神は霊(かみは れい)であるから,霊によって信じ,礼拝(しんじ,れいはい)しなければならない.
・人間(にんげん)は,神に創られた「被造物」(かみに つくられた ひぞうぶつ)に過(す)ぎず,
神のように「創造主」になろうとする傲慢な試みは
(かみの ように「そうぞうしゅ」に なろうとする ごうまんな こころみ は)
必ず創造主たる神によって挫(くじ)かれる
(かならず そうぞうしゅ たる かみに よって くじかれる).
***
「主の日」
・Κυριακή (=Kyriakí〈キ(ュ)リアキ〉, “The Lord’s Day”)
- ( ο Κύριος (=kýrios〈キュリオス〉, “The Lord” ) ) (ギリシア語)
・Dies Dominica (ラテン語)
・Il Giorno del Signore - Domenica (イタリア語)
・Le Jour du Seigneur - Dimanche (フランス語)
・O Dia do Senhor - Domingo (ポルトガル語)
・El Día del Señor - Domingo(スペイン語)
・The Lord’s Day – Sunday (英語)
・Der Tag des Herrn - Sonntag (ドイツ語)
* * *
第3パラグラフの訳注2
「第三(修道)会(=第三の秩序)」 "The Third Order" について:
・カトリック教会〈以下,「教会」〉には伝統的(でんとうてき)に,上下に序列化(じょうげ に じょれつか)された位階制(いかいせい)の秩序 (ちつじょ)(=ヒエラルキー "a hierarchy" ) が存在(そんざい)する.
・教会の初期(しょき)から,唯一の真の神の御独り子(ゆいいつの まことのかみの おんひとりご)・救世主(きゅうせいしゅ)たるイエズス・キリストの御教え(いえずす
・きりすと の みおしえ)に則(のっと)って,
教会に所属(しょぞく)しつつ共同生活を送る(きょうどう せいかつを おくる)
修道会(しゅうどうかい)(=司祭会・兄弟会・姉妹会など)
(=しさいかい・きょうだいかい・しまいかい)
が生(う)まれるようになった.
・その典型例(てんけいれい)としては,歴史的(れきしてき)に,
先ず(まず)特定(とくてい)の「男子修道会(だんし しゅうどうかい)」が創(つく)られ,
・それに付随(ふずい)してその指導の下(しどうの もと)で「女子修道会(じょし しゅうどうかい)」が創られ〈例・フランチスコ会からクララ会など〉,
・さらにそれら主修道会(おも しゅうどうかい)に付随して,それら修道会の指導下(しどう か)に,「世俗社会に身を置いて生活する一般平信徒たち
(せぞくしゃかいに みをおいて せいかつする いっぱん ひら しんと)」
が所属(しょぞく)できる「第三の会(だいさんの かい)」が創られる.
・この場合の
「男子修道会」(=聖職者〈せいしょくしゃ〉〈司教(しきょう)と司祭(しさい)〉・男子修道者(だんし しゅうどうしゃ)〈=兄弟(きょうだい)〉)を「第一秩序〈=第一〈修道〉会〉」,
・この修道会に付随する「女子修道会」を「第二秩序〈第二〈修道〉会」,
・上記二種類の修道会に付随して創られる「世俗社会で生活する一般信徒が所属できる会」を「第三秩序〈第三〈修道〉会」という序列に位置付ける.
・「第三の〈修道〉会」は,『在俗〈者の修道〉会』 "The Third Order" とも呼ばれる.
* * *
第4パラグラフの訳注3
"superiors" 「上の方々(うえのかたがた)」の意味について:
・1950年代以前において「一般平信徒の上に位する方」"his superior" とは,「教会指導層」すなわち聖職者を指す.
・すなわち,
*「階層制(かいそうせい)」=「ヒエラルキー」( "the hierarchy" )
*「ピラミッド形(けい)に上下に序列化(じょうげに じょれつか)された位階制の秩序や組織(いかいせいの ちつじょや そしき)」,
*「教会組織の階層秩序(きょうかい そしきの かいそう ちつじょ)」
*「本来は『ローマ‐カトリック教会における天使群の序列のこと』」 (「大辞林〈三省堂〉」参照).
・上述のような「教会の位階制」において,平信徒よりも上位の階層に位置している人,すなわち「司教」「司祭」を指す.
* * *
第5パラグラフの訳注4
「牧者がやられ(=打たれ),羊が散り散りになったとき,わたしたち子羊はどうすればいいのでしょう?」について:
《預言書と聖福音書》からの引用:
・神の御独り子・救世主イエズス・キリストの受難(じゅなん)直前の聖木曜日,
「最後の晩餐」(さいごの ばんさん)(「過ぎ越しの食事(すぎこしの しょくじ)」)の後で,
主イエズス・キリストが弟子たちに仰せになった,旧約時代の預言者ザカリアの預言の引用.
①マテオによる聖福音書:第26章31節
(②マルコによる聖福音書:第14章27-28節)
『…イエズスは弟子たちに言われた,「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.
《私は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〈わたしは ぼくしゃを うち ひつじの むれは ちる〉》
と書かれているからだ.
だが私はよみがえってのち,あなたたちに先立ってガリラヤに行く(あなたたちに さきだって ガリラヤに いく)」.…』
(聖木曜日にゲッセマニの園で,受難前夜を一晩,苦悶(くもん)のうちに祈り明かす直前(いのりあかす ちょくぜん)に,救世主イエズス・キリストが仰(おお)せられた御言葉(みことば)
③ザカリアの書:第13章7節
『剣(つるぎ)よ,立(た)って,私の牧者(ぼくしゃ)と,
私にくみしているものを攻(せ)めよ.
――万軍の主のお告げ――
牧者を殺せ,
そうすれば,羊は散る(ぼくしゃをころせ,そうすれば,ひつじはちる).
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.
全地は,こうなる――主のお告げ――
そこにいる三分の二は,まったく滅(ほろ)ぼされ,
三分の一は,残(のこ)りものとして残される.
私は,この三分の一(さんぶんの いち)を火のなかに入れ,
銀を清める(ぎんを きよめる)ように,それを清め,
金を試す(きんを ためす)ように,それを試(ため)す.
彼は,私の名(わたしの な)をこいねがい,
私はそれに答(こた)えていう,
「彼は,私の民(かれは わたしの たみ」,
そして,彼はいう,
「主は,私の神(しゅは,わたしの かみ)」と.』
*「牧者」は神の御独子であり救世主である,
私たちの主イエズス・キリスト,および,
キリストの代理者たるローマ教皇(=ローマの司教),その他,諸国の司教・大司教.
(ぼくしゃは かみの おんひとりご であり きゅうせいしゅ である,
わたしたちの しゅ いえずす・きりすと,および,
きりすとの だいりしゃ たる きょうこう(=ろーましきょう),そのた,しょこくのしきょう・だいしきょう.
*「羊」は司祭(ひつじは しさい),
*「子羊」は一般平信徒(こひつじは いっぱん ひら しんと)のこと.
* * *
訳注の続きを追加掲載いたします.
* * *
少(すく)なくともこれまでのところ,フェレー司教(しきょう)( "Bishop Fellay" )のもとで進(すす)められている聖ピオ10世会(せい ぴお じゅっせい かい)( "the Society of St Pius X=SSPX" )の完全(かんぜん)な方向転換(ほうこう てんかん)に対(たい)し内部(ないぶ)からの抵抗(ていこう)が比較的少ない(ひかくてき すくない)のは,( "If there is, at least up till now, relatively little reaction from within the Society of St Pius X to its complete change of direction under Bishop Fellay, … " ),1950年代(せん きゅうひゃく ごじゅう ねんだい)のカトリック信仰(しんこう)に戻(もど)りたいという願望(がんぼう)があるからではないでしょうか( "… that is because of the desire to return to the Catholicism of the 1950’s." ).これは,英語圏のある SSPX 教会のミサに参列(さんれつ)した一カトリック信徒(女性)(いち かとりっく しんと〈じょせい〉)による観察(かんさつ)です( "So observes a Catholic attending Mass at an SSPX Chapel in the English-speaking world." ).彼女(かのじょ)は最近(さいきん),私(わたくし)に以下(いか)のような手紙(てがみ)をくださいました.-- ( "She wrote to me recently:-- " )
「私たちの世界(わたくしたちの せかい)で抵抗(ていこう)がまったくないのはどうしてでしょうか?( " “Why is there no "Resistance" in our part of the world ? " ) 私にはその理由(りゆう)が分かった気(わかった き)がします( "I think I've figured it out." ).あなたはこれまで何度(なんど)となく SSPX の最初のリーダー(さいしょの りーだー)たちのほとんどはルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)("Archbishop Lefebvre")のことを正しく理解していない(ただしく りかい していない)と言(い)ってこられました( "You've mentioned many times that most of the original leaders of the Society of St Pius X never really understood Archbishop Lefebvre." ) .私の地元(わたしの じもと)について言えば(い えば),同(おな)じことが私たちの教会(きょうかい)の初期の創設者(しょきの そうせつしゃ)たちの多く(おおく)に当(あ)てはまるとおもいます( "Locally, I think that that applies to many of our original chapel founders here, …" ).彼らは SSPX と同会(どう かい)の現在(げんざい)のリーダーたちに固(かた)くしがみついている人たちです( "… who are the ones clinging to the Society and to its present leaders." ).どういうことなのでしょう?( "How come ? " ) 長い間(ながい あいだ),懸命(けんめい)に守り抜こう(まもり ぬこう)としてきたものが内部(ないぶ)からの破壊(はかい)に脅(おびや)かされているのに,彼らがなにも行動(こうどう)しないのはなぜなのでしょうか?( "Why don't they take action, when what they fought so long and hard for is threatened with destruction from within? " )
日曜日(主日)(にちようび〈しゅじつ〉)(訳注後記1)に,ある年配のご婦人(ねんぱいの ごふじん)が私にその理由の概要(その りゆうの がいよう)を示(しめ)してくれました( " “On Sunday, an elderly lady summed it up for me." ).ご婦人と彼女のご主人(かのじょの ごしゅじん)によると,二人(ふたり)は1970年代から1980年代(せん きゅうひゃく ななじゅう ねんだい)にかけて懸命に抵抗(けんめいに ていこう)してきましたが( "As she and her husband see it, they strove valiantly through the 1970s into the early 80s, …" ),結局徒労に終わり(けっきょく とろうに おわり)ました.二人の労力の結果(ふたりの ろうりょくの けっか)が地元教会(じもと きょうかい)のいまの姿(すがた)そのものだというのです( "… and the fruit of their labours is the chapel itself." ).うわべだけの諸々の装飾品(もろもろの そうしょく ひん),小道具(こどうぐ),建物(たてもの),会衆席かいしゅう せき),彫像(ちょうぞう),司祭服(しさい ふく)のあふれるミサ聖祭 -- 抵抗運動(ていこう うんどう)の単なる存在(たんなる そんざい)が脅(おびや)かすものといえば,これがその対象(たいしょう)です!( "The Mass with all the outward trappings, the property, the buildings, the pews, the statues, the vestments -- this is what is threatened by the mere existence of the Resistance! " ).二人(ふたり)がずっと戦って(たたかって)きたのは若い(わかい)ころのカトリック信仰(しんこう)を自分(じぶん)たちのために取り戻す(とりもどす)ためでした( "They fought all those years to restore for themselves the Catholicism of their youth." ).彼ら(かれら)にとって,教理の問題(きょうりの もんだい)などまったく関係(かんけい)ないのです( "For them, it's NOT a question of doctrine at all." ).ご婦人は第三(修道)会( "a Third Order" =第三秩序)(だいさん〈しゅうどう〉かい〈=だいさん ちつじょ〉)(訳注後記2)の会員(かいいん)ですが,教理に関わる物事(きょうりに かかわる ものごと)は司祭や司教たち(しさいや しきょうたち)のためにあるもので,平信徒(ひら しんと)たちには無関係(む かんけい)だと信(しん)じています( "The woman is member of a Third Order, yet she believes doctrinal matters are for priests and bishops, not laity." ).たとえば,諸々の教皇回勅(もろもろの きょうこう かいちょく)( "Papal encyclicals" )を学習(がくしゅう)するのは神(かみ)が教会指導層(きょうかい しどう そう)( "the hierarchy" )に付与(ふよ)したことにちょっかいを出(だ)すようなものだというのです( "For example, to study Papal encyclicals is meddling in affairs that God assigned to the hierarchy." ).
私は老夫婦(ろう ふうふ)に自らの信仰(みずからの しんこう)を理解する必要(りかいするひつよう)を感じない(かんじない)のか( " “I asked if they see a need to understand their Faith, …" ),個々人の魂(ここじんの たましい)が己の信仰(おのれの しんこう) )を知(し)ることで神に答えない(かみに こたえない)のか,と尋(たず)ねました( "… if individual souls do not answer to God for knowing their Faith? " ).彼らの答え(こたえ)は誠実(せいじつ)でしたが,私には驚(おどろ)くべきものでした( "Their response was sincere, I believe, but to me it was astonishing." ) .二人は『とんでもない!カトリック信徒の責任(しんとの せきにん)は彼の上に位する方々(かれの うえに くらいする かたがた)( "superiors" )(訳注後記3)=すなわち「教会指導層」=聖職者=司教・司祭たち=平信徒より上位の階層に位する) に従(したが)う ( "to obey" ) ことです』と,言いました( "They said, ‘No! The responsibility of the Catholic is to obey his superiors.’ " ).では,その上位の方々(じょういの かたがた)が間違(まちが)っているときは(どうするのか)?(,と私は尋〈たず〉ねました)( "And if the superiors are in error? " ). 『とにかく従うのです! そうしないと謀反(むほん)( "rebellion" ) になります』と答えが返って(こたえが かえって)きました( " ‘Obey anyway! To do otherwise is rebellion.’ " ) .カトリック信徒にとって,彼の上に位する方々に『自分に関わりのないこと(自分に かかわりの ない こと)』,すなわち教理(きょうり)など,について質問(しつもん)することさえ『謀反の証(むほんの あかし)』になるというのです( "It is for a Catholic ‘a sign of rebellion’ to even question his superiors ‘in matters that do not concern him,’ i.e. doctrine." ).もしその上の方(うえの かた)が間違っていれば,神がお裁(さば)きになるでしょう ―― 『司祭に従えば(しさいに したがえば)けっして間違った方向へ行きません(まちがった ほうこうへ いきません)』(と,夫婦は言いました)( "If the superior is wrong, God will judge him – ‘You will never go wrong obeying the priest.’ " ).私はこれで分(わ)かりました( "So there you have it." ) .抵抗者(ていこうしゃ)たちは反抗的で罰当たりな謀反人(はんこうてきで ばちあたりな むほんにん)です( "The Resistants are rebels, disobedient, disrespectful." ).上の者(うえの もの)に質問(しつもん)するなどとんでもない( "How dare they question the superior? " ).教理を学習(きょうりを がくしゅう)するとか,上の方々に教理についていろいろ質問するなど,どうしてできるでしょうか? ( "How dare they presume to study doctrine, to ask questions of their superiors about it? " ) 抵抗者たちは悪(ていこうしゃたちは あく)です( "The Resistants are evil, …" ).それは彼(かれ)らが教理的(きょうり てき)に間違(まちが)っているからではなく( "… not because they are doctrinally wrong, …" ),その言動(げんどう)が1950年代(せん きゅうひゃく ごじゅう ねんだい)のカトリック信仰(しこう)を脅(おびや)かすからです( "… but because their words and actions threaten the Catholicism of the 1950’s." ).
だが,盲従(もうじゅう)はばかげたことです!( " “But blind obedience is ridiculous! " )牧者(ぼくしゃ)がやられ,羊(ひつじ)が散り散り(ちりぢり)になったとき,わたしたち子羊(こひつじ)はどうすればいいのでしょう?( "What are we lambs to do when the Shepherd is struck and the sheep are scattered ? " ) 何事(なにごと)もなかったように平静を装い(へいせいを よそおい)( "Pretend all is well, …" ),従順の名(じゅうじゅんの な)のもとにオオカミ(狼)(おおかみ)に貪り食われる(むさぼり くわれる)にまかせよというのでしょうか?(訳注後記4)( "… and let ourselves be devoured by wolves in the name of obedience ? " )そういう人たちに何と言えばいいのでしょう( "What can one say to such people? " ).彼らは意図的な無知(いとてきな むち)が美徳(びとく)だと信(しん)じて,故意(こい)に無知(むち)を装(よそお)っているのです!( "They are wilfully ignorant in the belief that wilful ignorance is a virtue! " )こうした考え方(かんがえ かた)はどこからくるのでしょうか?( "Where does such a mindset come from ? " )どのような誤(あやま)りが教会に忍び入り(しのび いり),カトリック信徒たちに考えることをやめさせたのでしょうか?( "What error crept into the Church to make Catholics switch off their minds? " ) 私がせいぜい言えるのは,もしSSPXがロボトミー手術(ろぼとみー しゅじゅつ)を受(う)けたような羊の群れの集まり(ひつじの むれの あつまり)なら( "All I can say is that if the SSPX is left with flocks of lobotomised sheep, …" ),ローマ教皇庁(きょうこう ちょう)が伝統(でんとう)の最後の砦(さいごの とりで)を一掃(いっそう)するのは簡単(かんたん)だろうということぐらいです( "… it will be easy for Rome to wipe out the last fortress of Tradition! " ).SSPX の諸聖堂(しょせいどう)は正式な合意(せいしきな ごうい)によって地元司教の管轄(じもと しきょうの かんかつ)に身を委ねる(みを ゆだねる)か,あるいは新典礼文下(しん てんれいぶん か)ミサ聖祭派(みさ せいさい は)司祭(しさい)たち( "Novus Ordo priests" ) の事実上の協力を得る(じじつじょうの きょうりょくを える)だけでいいのです( "The SSPX chapels need only to be handed over to the jurisdiction of the local bishop by formal agreement, or by de facto cooperation with Novus Ordo priests, …" ).これが,私が地元の教会(じもとの きょうかい)で観察(かんさつ)したことです.」( "… which we have seen locally.” " )」
この女性信徒(じょせい しんと)が,ローマ教皇庁が明白な合意(めいはくな ごうい)でなく,徐々に進める合併(じょじょに すすめる がっぺい)により SSPX を吸収(きゅうしゅう)する可能性(かのうせい)に注意喚起(ちゅうい かんき)した点(てん)に注目(ちゅうもく)してください( "Notice her evocation of the possibility of Rome absorbing the SSPX no longer by any clear-cut agreement, but by a gradual merger." ).それこそが本当の危険(ほんとうの きけん)です( "It is a real danger." ).私は SSPX 本部(ほんぶ)( "SSPX HQ (=Head Quarter)" )がローマの「新しい友人たち(あたらしい ゆうじん)」から,そうするようアドバイス(あどばいす)を受(う)けているのではないかと思(おも)っています( "I wonder if that is not what SSPX HQ is being advised to do by its “new friends” in Rome. Kyrie eleison" )
キリエ・エレイソン.
SSPX のリベラル志向に対する抵抗(りべらる しこうに たいする ていこう)がない理由の一部(りゆうの いちぶ)は ( "A lack of resistance to the liberal slide of the SSPX,…" )1950年代に戻ること(せん きゅうひゃく ごじゅうねん だいに もどる こと)だけを願う人々(ねがう ひとびと)がいることで説明(せつめい)できます( "… is partly explained by souls only wanting to return to the 1950’s." ).
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第3パラグラフの訳注1
「主日」の意味について:
・「日曜日」の本来の趣旨(しゅし)を意味する.
・旧約聖書・「創世の書」に記される通り,主なる神 ( "Lord God" ) は,
すなわち,世の初めから存在される方(よの はじめからそんざいされるかた),
(「私は『在る(ある)』という者…」 - 神が預言者(よげんしゃ)モーゼに仰(おお)せられた御言葉(みことば)-)(旧約聖書〈きゅうやく せいしょ〉),
・万物の創造主(ばんぶつの そうぞうしゅ) ・唯一の真の神(ゆいいつの まことの かみ) ・全ての被造物と人間の「主」である神(すべての ひぞうぶつと にんげんの しゅ である かみ)は,
・天地創造の際(てんち そうぞうの さい), 最初の5日間で,あらゆる物体(水・光・空気・天地のあらゆる鉱物・植物)を創造され,
・6日目に動物,最後に「神格に似た人格」を持つ人間を創造され,
・7日目に全ての創造の御業を休まれてこの日を「神聖な日」と定められた.
・それで,この日は「主日(=主の日)」(しゅじつ・しゅの ひ)( "Dies Dominica" )と呼ばれる.
・この世に肉体を持って母から生まれる人間が,ある日神に呼ばれ,神を呼び求め,
・「霊魂を持たずに肉体だけを所有するただの動物のよう」にとどまらずに,
・「神格」由来(「しんかく」ゆらい)の「人格」を所有する(「じんかく」をしょゆうする)「神の被造物」(「かみの ひぞうぶつ」)として,
・神への信仰(かみへの しんこう)によって「肉体(にくたい)」の他(ほか)に 「霊魂」をも所有する(「れいこん」をも しょゆうする)「人格を持った存在」(じんかくを もった そんざい)へと生まれ変わり(うまれ かわり),
・以来(いらい),神なる聖霊に導かれて生きる(かみなる せいれいに みちびかれて いきる)ようになり, 「永遠の命」(えいえんの いのち)をも所有(しょゆう)するようになることを,
・永遠の創造主,私たち人間の御父なる神(えいえんの そうぞうしゅたる かみ)は望まれる(のぞまれる).
・動物(どうぶつ)は,「肉体 〈精神+感情〉」(「にくたい〈せいしん+かんじょう〉」)を持(も)っていても,「霊魂(れいこん)」を持(も)たない.
・人間は「肉体〈精神+感情〉」 (にくたい〈せいしん+かんじょう〉) の他(ほか)に「霊魂」を持つ (れいこんをもつ) が,
・「霊魂」が「人格」を所有(れいこんが じんかくを しょゆう)するようになるのは,
人間(にんげん)が個人(こじん)として(にんげんが こじん として)
「自らの信仰(みずからの しんこう)」によって,
「万物の創造主たる神(ばんぶつの そうぞうしゅ たる かみ)」を認(みと)め,
神を自分の霊魂と身体の真の御父と信じる
(かみを じぶんの れいこんと からだの まことの おんちち と しんじる)
ことによる.
・神は霊(かみは れい)であるから,霊によって信じ,礼拝(しんじ,れいはい)しなければならない.
・人間(にんげん)は,神に創られた「被造物」(かみに つくられた ひぞうぶつ)に過(す)ぎず,
神のように「創造主」になろうとする傲慢な試みは
(かみの ように「そうぞうしゅ」に なろうとする ごうまんな こころみ は)
必ず創造主たる神によって挫(くじ)かれる
(かならず そうぞうしゅ たる かみに よって くじかれる).
***
「主の日」
・Κυριακή (=Kyriakí〈キ(ュ)リアキ〉, “The Lord’s Day”)
- ( ο Κύριος (=kýrios〈キュリオス〉, “The Lord” ) ) (ギリシア語)
・Dies Dominica (ラテン語)
・Il Giorno del Signore - Domenica (イタリア語)
・Le Jour du Seigneur - Dimanche (フランス語)
・O Dia do Senhor - Domingo (ポルトガル語)
・El Día del Señor - Domingo(スペイン語)
・The Lord’s Day – Sunday (英語)
・Der Tag des Herrn - Sonntag (ドイツ語)
* * *
第3パラグラフの訳注2
「第三(修道)会(=第三の秩序)」 "The Third Order" について:
・カトリック教会〈以下,「教会」〉には伝統的(でんとうてき)に,上下に序列化(じょうげ に じょれつか)された位階制(いかいせい)の秩序 (ちつじょ)(=ヒエラルキー "a hierarchy" ) が存在(そんざい)する.
・教会の初期(しょき)から,唯一の真の神の御独り子(ゆいいつの まことのかみの おんひとりご)・救世主(きゅうせいしゅ)たるイエズス・キリストの御教え(いえずす
・きりすと の みおしえ)に則(のっと)って,
教会に所属(しょぞく)しつつ共同生活を送る(きょうどう せいかつを おくる)
修道会(しゅうどうかい)(=司祭会・兄弟会・姉妹会など)
(=しさいかい・きょうだいかい・しまいかい)
が生(う)まれるようになった.
・その典型例(てんけいれい)としては,歴史的(れきしてき)に,
先ず(まず)特定(とくてい)の「男子修道会(だんし しゅうどうかい)」が創(つく)られ,
・それに付随(ふずい)してその指導の下(しどうの もと)で「女子修道会(じょし しゅうどうかい)」が創られ〈例・フランチスコ会からクララ会など〉,
・さらにそれら主修道会(おも しゅうどうかい)に付随して,それら修道会の指導下(しどう か)に,「世俗社会に身を置いて生活する一般平信徒たち
(せぞくしゃかいに みをおいて せいかつする いっぱん ひら しんと)」
が所属(しょぞく)できる「第三の会(だいさんの かい)」が創られる.
・この場合の
「男子修道会」(=聖職者〈せいしょくしゃ〉〈司教(しきょう)と司祭(しさい)〉・男子修道者(だんし しゅうどうしゃ)〈=兄弟(きょうだい)〉)を「第一秩序〈=第一〈修道〉会〉」,
・この修道会に付随する「女子修道会」を「第二秩序〈第二〈修道〉会」,
・上記二種類の修道会に付随して創られる「世俗社会で生活する一般信徒が所属できる会」を「第三秩序〈第三〈修道〉会」という序列に位置付ける.
・「第三の〈修道〉会」は,『在俗〈者の修道〉会』 "The Third Order" とも呼ばれる.
* * *
第4パラグラフの訳注3
"superiors" 「上の方々(うえのかたがた)」の意味について:
・1950年代以前において「一般平信徒の上に位する方」"his superior" とは,「教会指導層」すなわち聖職者を指す.
・すなわち,
*「階層制(かいそうせい)」=「ヒエラルキー」( "the hierarchy" )
*「ピラミッド形(けい)に上下に序列化(じょうげに じょれつか)された位階制の秩序や組織(いかいせいの ちつじょや そしき)」,
*「教会組織の階層秩序(きょうかい そしきの かいそう ちつじょ)」
*「本来は『ローマ‐カトリック教会における天使群の序列のこと』」 (「大辞林〈三省堂〉」参照).
・上述のような「教会の位階制」において,平信徒よりも上位の階層に位置している人,すなわち「司教」「司祭」を指す.
* * *
第5パラグラフの訳注4
「牧者がやられ(=打たれ),羊が散り散りになったとき,わたしたち子羊はどうすればいいのでしょう?」について:
《預言書と聖福音書》からの引用:
・神の御独り子・救世主イエズス・キリストの受難(じゅなん)直前の聖木曜日,
「最後の晩餐」(さいごの ばんさん)(「過ぎ越しの食事(すぎこしの しょくじ)」)の後で,
主イエズス・キリストが弟子たちに仰せになった,旧約時代の預言者ザカリアの預言の引用.
①マテオによる聖福音書:第26章31節
(②マルコによる聖福音書:第14章27-28節)
『…イエズスは弟子たちに言われた,「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.
《私は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〈わたしは ぼくしゃを うち ひつじの むれは ちる〉》
と書かれているからだ.
だが私はよみがえってのち,あなたたちに先立ってガリラヤに行く(あなたたちに さきだって ガリラヤに いく)」.…』
(聖木曜日にゲッセマニの園で,受難前夜を一晩,苦悶(くもん)のうちに祈り明かす直前(いのりあかす ちょくぜん)に,救世主イエズス・キリストが仰(おお)せられた御言葉(みことば)
③ザカリアの書:第13章7節
『剣(つるぎ)よ,立(た)って,私の牧者(ぼくしゃ)と,
私にくみしているものを攻(せ)めよ.
――万軍の主のお告げ――
牧者を殺せ,
そうすれば,羊は散る(ぼくしゃをころせ,そうすれば,ひつじはちる).
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.
全地は,こうなる――主のお告げ――
そこにいる三分の二は,まったく滅(ほろ)ぼされ,
三分の一は,残(のこ)りものとして残される.
私は,この三分の一(さんぶんの いち)を火のなかに入れ,
銀を清める(ぎんを きよめる)ように,それを清め,
金を試す(きんを ためす)ように,それを試(ため)す.
彼は,私の名(わたしの な)をこいねがい,
私はそれに答(こた)えていう,
「彼は,私の民(かれは わたしの たみ」,
そして,彼はいう,
「主は,私の神(しゅは,わたしの かみ)」と.』
*「牧者」は神の御独子であり救世主である,
私たちの主イエズス・キリスト,および,
キリストの代理者たるローマ教皇(=ローマの司教),その他,諸国の司教・大司教.
(ぼくしゃは かみの おんひとりご であり きゅうせいしゅ である,
わたしたちの しゅ いえずす・きりすと,および,
きりすとの だいりしゃ たる きょうこう(=ろーましきょう),そのた,しょこくのしきょう・だいしきょう.
*「羊」は司祭(ひつじは しさい),
*「子羊」は一般平信徒(こひつじは いっぱん ひら しんと)のこと.
* * *
訳注の続きを追加掲載いたします.
* * *
ラベル:
Corpus Christi,
カトリック修道会の第三会,
キリストの受難,
キリストの聖体,
過ぎ越しの食事,Pasqua,
教会の位階制秩序,
在俗修道会,
四旬節,
聖木曜日
2014年3月1日土曜日
346 真理が先 3/1
エレイソン・コメンツ 第346回 (2014年3月1日)
最近(さいきん)のエレイソン・コメンツの議論(ぎろん)には多くの異論(おおくの いろん)があるに違(ちが)いありません( "There must be many objections to the argument of recent issues of these “Comments” that, …" ).(その議論とはすなわち,)神の説く(=神聖な)真理(かみの とく しんせいな しんり)は人間教師たち(にんげん きょうし たち)( "human teachers" )に先立つ(さきだつ)ものであるから( "… divine truth being prior to human teachers, …" ),私たちは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)についてさほど深(ふか)く心を悩ます(こころを なやます)ことはないのだ( "… then the fallibility of Popes need not concern us all that much…" ).何故(なぜ)なら真の信仰(まことの しんこう)は教皇(きょうこう)たちの後ろ盾(うしろだて)であり,彼等を(かれら)超越(ちょうえつ)し上位(じょうい)に位置(いち)するものであるから( "…because the true Faith is behind, beyond and above them." ),というものです.だが,ここに一つ(ひとつ)の古典的な異論(こてんてきな いろん)があります.すなわち( "But here is a classic objection: …" ),カトリック教の真理(しんり)そのものは人間教師(にんげん きょうし)の上位(じょうい)にあるだろうが( "… the Truth in itself may be above them- " ),私たち人間には,それ(=真理)はただ(同じ人間である)彼ら(=人間教師たる聖職者たち)を通(とお)してのみ届(とど)く――(つまり,)「信仰は耳から入る」(しんこうは みみから はいる)( = 「信仰は宣教による(しんこうは せんきょうに よる)」)(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡(しょかん):第10章17節)( "-faith us by hearing" (Rom. X, 17) )というものです( "… but to us human beings it only comes through them – “faith is by hearing” (Rom.X, 17)." ) (訳注後記1). そのため,私たちの主(しゅ)イエズス・キリストはペトロ(すなわち教皇たち)に対(たい)し(信仰がなくならぬよう)兄弟(きょうだい)たち(= "his brethren" ),の心を固める(かためる)という任務を与えた(にんむを あたえた) ( 新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章31-32節) (訳注後記2) のであり ( "Thus Our Lord entrusted to Peter (i.e. the Popes) the task of confirming his brethren in the faith (Lk.XXII, 31-32)." ) ,したがって私たちカトリック教徒(わたくしたち かとりっく きょうと)にとって,教師たちは彼らなしには私たちが受け取れない真理(うけとれない しんり)より上位に立つ(じょういに たつ)というのです ( "So to us Catholics the teachers are prior to the Truth which we cannot receive without them." ). しかも,聖霊(せいれい)は教師(きょうし)たちを指導(しどう)する ( 新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第16章13節) (訳注後記3) のだから ( "Moreover the Holy Ghost guides them (Jn.XVI, 13), …" ) ,私がどうして彼(=教師)がそのようなことをするとかしないとか,するとすればいつそうするのかなどと言(い)えるのか,というわけです ( "… so how can I possibly tell if or when he is not doing so ? " ).
聖書の中にも答(こた)えがあります ( "Also in Scripture lies the answer." ). 聖パウロは信仰を説(と)いた会衆(かいしゅう)たちに向け「私たち自身であるにせよ,天からの天使(てんからの てんし)であるにせよ,私たちがあなたたちに伝(つた)えたのとは異なる福音(ことなる ふくいん)を告げる者(つげる もの)にはのろいあれ.」 ( “Though we, or an angel from heaven, preach a gospel to you besides that which we have preached to you, let him be anathema.” ) と書(か)いています.そして,この点(てん)はとても大事(だいじ)なことなので,聖パウロはすぐそれを繰り返(くりかえ)します( "And the point is so important that St Paul immediately repeats it: …" ).「私は前に言ったことを今また繰り返す.あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ.」 (使徒聖パウロのガラツィア人への書簡(しょかん)・第1章8-9節) (訳注・以下,「ガラツィア書簡」と記す.) ( " “…As we said before, so now I say again: If anyone preach to you a gospel, besides that which you have received, let him be anathema” (Gal.I, 8-9) " ).
だが,ガラツィア人は次のように異を唱えた(いを となえた)かもしれません( "But, a Galatian might have objected, …" ).私たちはなぜ,あなたが二度目(にどめ)にガラツィアを訪(おとず)れて説(と)くまったく別の真実(べつの しんじつ)でなく,最初(さいしょ)に訪れて説く真実を信(しん)じなければならないのでしょうか? ( "… why should we believe your gospel on your first visit to Galatia and not an eventually different one on your second ? " ) 聖パウロは直(ただ)ちに最初の理由(さいしょの りゆう)を与(あた)えます ( "St. Paul immediately gives a first reason: …" ).「私の告げた福音(わたしの つげた ふくいん)は人間(にんげん)によるものではない.また,人間から受(う)けたものでも教(おし)えられたものでもなく,イエズス・キリストの啓示(けいじ)( "the revelation of Jesus Christ" )によるものである.」 (ガラツィア書簡・第1章11-12節) ( " “…The gospel which was preached by me is not according to man. For neither did I receive it of man, nor did I learn it, but by the revelation of Jesus Christ” (Gal.I, 11-12) " ). そして聖パウロは,彼が人々に宣教を始める前に,自分(じぶん)に教(おし)えてくれた者(もの)たち,すなわち他の使徒(たの しと)たちとほとんど接触(せっしょく)していないことを話(はな)し,その後(あと)で彼らが検証(けんしょう)できる事実(じじつ)を説(と)くことによって,そのことを確認(かくにん)します (第1章15-19節) ( "And St Paul confirms this by narrating how little contact he had with those who might have taught him, the other Apostles, before he began preaching (I, 15-19), a fact obviously verifiable by them, …" ). そして,彼はガラツィア人たちに自分がけっして嘘(うそ)をついていないと誓(ちか)います (第1章20節) ( "… and he swears to the Galatians that he is not lying (I, 20). " ). 彼はしばらくして2番目の理由(りゆう)を与(あた)えます.それは,ガラツィア人たち自身が聖パウロの最初の訪問で行(おこな)った説教(せっきょう)の直接の結果(ちょくせつの けっか)として目撃(もくげき)した聖霊(せいれい)による諸々の奇跡と経験(もろもろの きせきと けいけん)( "the miracles and experience of the Holy Spirit" ) (第3章2-5節) です( "A second reason he gives a little later, which is the miracles and experience of the Holy Spirit (III, 2-5) that the Galatians themselves had witnessed as the direct result of the preaching of Paul’s first visit." ).
このようにして,聖パウロは最初の訪問(ほうもん)で説(と)いた真理(しんり)およびその真理とガラツィア人たちが自らの魂(みずからの たましい)を救(すく)いたいと願(ねが)うなら,自(みずか)ら見分(みわ)けることができるだけでなく,またそうせざるを得ない(えない)別の真理(べつの しんり)との間(あいだ)の矛盾(むじゅん)を神が自分(じぶん)に教(おし)えてくださり,ガラツィア人たちのために確(たし)かめてくださったことを証明(しょうめい)します( "Thus Paul proves that God both taught him, and confirmed for the Galatians, the gospel of that first visit, and the contradiction between it and any different gospel the Galatians would be not only able but also obliged to discern for themselves, if they wished to save their souls." ).そして,たとえ別の真理を説く者が天使あるいはパウロ自身(じしん) ――もしくは教皇!(きょうこう)――であるにしても (第1章8節) ガラツィア人たちはパウロの説く最初の真理(ぱうろの とく さいしょの しんり)に固執(こしつ)する絶対的な義務(ぜったいてきな ぎむ)があります( "And no matter if (I,8) the preacher of the different gospel were an angel or Paul himself – or a Pope ! – the Galatians would still have the absolute duty to stay with Paul’s first gospel." ).ガラツィア人たちは彼らの前(まえ)に示(しめ)された真実(しんじつ) (第3章1節) を認(みと)めて受け入れた(うけいれた)のです (第3章3節) ( "The truth that had been set before them (III,1) the Galatians had recognized and accepted it (III, 3), …" ).それは,あたかも私たちが2+2が4であるのを認めるようなもので,その真実はそれに矛盾(むじゅん)する真実を説くいかなる教師(きょうし)よりも優位(ゆうい)に立(た)ちます( "…just as one recognizes that 2 and 2 are 4, so it would have priority over any teacher eventually contradicting it, …" ).彼がいかなる権限(けんげん)を持(も)っているように見(み)える場合(ばあい)もそうです (第1章9節) ( "…whatever authority to teach he might appear to have (I,9)." ). (訳注後記4…ガラツィア書簡全章)
そういうわけで,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )は生前(せいぜん),聖パウロから第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)までの19世紀(じゅうきゅう せいき)のあいだ,教会(きょうかい)は神が示し(かみが しめし),神が何度も確かめられた(かみが なんども たしかめられた)まさしく同じ真理( "おなじ しんり" )を説(と)いてきたと,口癖(くちぐせ)のように言(い)っておられました( "Thus Archbishop Lefebvre used to say that for the 19 centuries between St Paul and Vatican II the Church had preached exactly the same gospel, coming from God and ever and again confirmed by him." ).神により啓示(けいじ)された,その真理とは,聖職者(せいしょくしゃ)たちが伝(つた)えてきた,ヨハネ黙示録(よはね もくしろく)( "Revelation" )であり( "That gospel is, as revealed by God, Revelation; as handed down by churchmen, Tradition; …" ),権威(けんい)をもって教会とその通常(つうじょう)および特別教導権(とくべつ きょうどうけん)が教(おし)えてきた伝統(でんとう)です( "…That gospel is, as revealed by God, Revelation; as handed down by churchmen, Tradition; as taught with authority by the Church, its Ordinary and Extraordinary Magisterium." ).その真理(しんり)と第二バチカン公会議との矛盾(むじゅん)は明白(めいはく)です( "Between that gospel and Vatican II the contradiction is obvious, …" ).したがって,私たちは自らの魂(みずからの たましい)を救(すく)いたいと願(ねが)うなら,教会の見かけだけの権威者(きょうかいの みかけだけの けんいしゃ)がなんと言おうと,伝統(でんとう)を受け入れ(うけいれ),信(しん)じなければなりません ( "…so we must accept and believe Tradition, if we wish to save our souls, whatever the apparent authorities of the Church may say to the contrary." ).神よ,私たちをお救(すく)いください( "So help us God." ).ルフェーブル大司教ご自身(じしん)の聖ピオ十世会がどうして第二バチカン公会議当局者(とうきょくしゃ)たちとの和解(わかい)を正式(せいしき)に求(もと)めることができるのでしょうか?( "How then can the Archbishop’s own Society of St Pius X be officially seeking reconciliation with the authorities of Vatican II ? " )
キリエ・エレイソン.
新約聖書・使徒聖パウロのガラツィア人への手紙:第1章8-9節 ( "Galatians I, 8-9" ) は権威に対する(けんいに たいする)真理の優位(しんりの ゆうい),すなわち,今日の(こんにちの)ローマ教皇庁の権威(ろーま きょうこう ちょうの けんい)に対(たい)するカトリック教伝統の優位(かとりっく でんとうの ゆうい)を証明(しょうめい)する古典的な教科書(こてんてきな きょうかしょ)です ( "Galatians I, 8-9 is a classic text to prove the priority of truth over authority, i.e. of Catholic Tradition over today’s Rome." ).
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(訳注1)
新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡第10章17節
(Rom.X, 17) → The Epistle of St. Paul the Apostle to the Romans 10, 17
『信仰は宣教により,宣教は*¹キリストのみことばによる.』
"Faith then cometh by hearing by the word of Christ."
(注釈)「キリストのみことば」は,キリストの命令(めいれい)のこと.
(訳注2)
新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章31-32節
(Lk.XXII, 31-32) → The Holy Gospel of Jesus Christ according to St. Luke
『(イエズス・キリストのみことば)シモン(=ペトロ), シモン, サタン(=悪魔)はあなたたちを麦(むぎ)のようにふるいにかけることができたが,*²私はあなたのために信仰(しんこう)がなくならぬようにと祈った.あなたは心(こころ)を取(と)りもどし,兄弟(きょうだい)たちの心を固めよ(こころを かためよ).』
"(31) And the Lord said: Simon, Simon, behold Satan hath desired to have you, that he may sift you as wheat:(32) But I have prayed for thee, that thy faith fail not: and thou, being once converted, confirm thy brethren."
(注釈)*² カトリック神学は,ペトロの後継者(こうけいしゃ)の教導権と不可謬性(きょうどうけんと ふかびゅうせい)を証明(しょうめい)するために,このところも挙げる(あげる).
(訳注3)
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第16章13節
(Jn.XVI, 13) → The Holy Gospel of Jesus Christ according to St. John
《主イエズス・キリストの聖福音》
『(13)…その方(かた)つまり真理の霊(しんりの れい)の来(く)るとき,霊はあなたたちをあらゆる真理(しんり)に導(みちび)かれるであろう.それは,自(みずか)ら語るのではなく,聞いたことを語って未来のことを示されるであろう.(14)また霊は私に光栄を与えられる.なぜなら,霊は私のものを受け,それをあなたたちに知らせるからである.(15)父のものはすべて私のものである.だから私は,霊が私のものを受けて,それをあなたたちに知らせると言ったのである.』
"(13) But when he, the Spirit of truth, is come, he will teach you all truth. For he shall not speak of himself; but what things soever he shall hear, he shall speak; and the things that are to come, he shall shew you. (14) He shall glorify me; because he shall receive of mine, and shall shew it to you. (15) All things whatsoever the Father hath, are mine. Therefore I said, that he shall receive of mine, and shew it to you."
(訳注4)
新約聖書・使徒聖パウロのガラツィア人への書簡:全章
(Galatians I-III) → Epistle of St. Paul to the Galatians I-VI
* * *
訳注を追加掲載いたします.
* * *
最近(さいきん)のエレイソン・コメンツの議論(ぎろん)には多くの異論(おおくの いろん)があるに違(ちが)いありません( "There must be many objections to the argument of recent issues of these “Comments” that, …" ).(その議論とはすなわち,)神の説く(=神聖な)真理(かみの とく しんせいな しんり)は人間教師たち(にんげん きょうし たち)( "human teachers" )に先立つ(さきだつ)ものであるから( "… divine truth being prior to human teachers, …" ),私たちは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)についてさほど深(ふか)く心を悩ます(こころを なやます)ことはないのだ( "… then the fallibility of Popes need not concern us all that much…" ).何故(なぜ)なら真の信仰(まことの しんこう)は教皇(きょうこう)たちの後ろ盾(うしろだて)であり,彼等を(かれら)超越(ちょうえつ)し上位(じょうい)に位置(いち)するものであるから( "…because the true Faith is behind, beyond and above them." ),というものです.だが,ここに一つ(ひとつ)の古典的な異論(こてんてきな いろん)があります.すなわち( "But here is a classic objection: …" ),カトリック教の真理(しんり)そのものは人間教師(にんげん きょうし)の上位(じょうい)にあるだろうが( "… the Truth in itself may be above them- " ),私たち人間には,それ(=真理)はただ(同じ人間である)彼ら(=人間教師たる聖職者たち)を通(とお)してのみ届(とど)く――(つまり,)「信仰は耳から入る」(しんこうは みみから はいる)( = 「信仰は宣教による(しんこうは せんきょうに よる)」)(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡(しょかん):第10章17節)( "-faith us by hearing" (Rom. X, 17) )というものです( "… but to us human beings it only comes through them – “faith is by hearing” (Rom.X, 17)." ) (訳注後記1). そのため,私たちの主(しゅ)イエズス・キリストはペトロ(すなわち教皇たち)に対(たい)し(信仰がなくならぬよう)兄弟(きょうだい)たち(= "his brethren" ),の心を固める(かためる)という任務を与えた(にんむを あたえた) ( 新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章31-32節) (訳注後記2) のであり ( "Thus Our Lord entrusted to Peter (i.e. the Popes) the task of confirming his brethren in the faith (Lk.XXII, 31-32)." ) ,したがって私たちカトリック教徒(わたくしたち かとりっく きょうと)にとって,教師たちは彼らなしには私たちが受け取れない真理(うけとれない しんり)より上位に立つ(じょういに たつ)というのです ( "So to us Catholics the teachers are prior to the Truth which we cannot receive without them." ). しかも,聖霊(せいれい)は教師(きょうし)たちを指導(しどう)する ( 新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第16章13節) (訳注後記3) のだから ( "Moreover the Holy Ghost guides them (Jn.XVI, 13), …" ) ,私がどうして彼(=教師)がそのようなことをするとかしないとか,するとすればいつそうするのかなどと言(い)えるのか,というわけです ( "… so how can I possibly tell if or when he is not doing so ? " ).
聖書の中にも答(こた)えがあります ( "Also in Scripture lies the answer." ). 聖パウロは信仰を説(と)いた会衆(かいしゅう)たちに向け「私たち自身であるにせよ,天からの天使(てんからの てんし)であるにせよ,私たちがあなたたちに伝(つた)えたのとは異なる福音(ことなる ふくいん)を告げる者(つげる もの)にはのろいあれ.」 ( “Though we, or an angel from heaven, preach a gospel to you besides that which we have preached to you, let him be anathema.” ) と書(か)いています.そして,この点(てん)はとても大事(だいじ)なことなので,聖パウロはすぐそれを繰り返(くりかえ)します( "And the point is so important that St Paul immediately repeats it: …" ).「私は前に言ったことを今また繰り返す.あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ.」 (使徒聖パウロのガラツィア人への書簡(しょかん)・第1章8-9節) (訳注・以下,「ガラツィア書簡」と記す.) ( " “…As we said before, so now I say again: If anyone preach to you a gospel, besides that which you have received, let him be anathema” (Gal.I, 8-9) " ).
だが,ガラツィア人は次のように異を唱えた(いを となえた)かもしれません( "But, a Galatian might have objected, …" ).私たちはなぜ,あなたが二度目(にどめ)にガラツィアを訪(おとず)れて説(と)くまったく別の真実(べつの しんじつ)でなく,最初(さいしょ)に訪れて説く真実を信(しん)じなければならないのでしょうか? ( "… why should we believe your gospel on your first visit to Galatia and not an eventually different one on your second ? " ) 聖パウロは直(ただ)ちに最初の理由(さいしょの りゆう)を与(あた)えます ( "St. Paul immediately gives a first reason: …" ).「私の告げた福音(わたしの つげた ふくいん)は人間(にんげん)によるものではない.また,人間から受(う)けたものでも教(おし)えられたものでもなく,イエズス・キリストの啓示(けいじ)( "the revelation of Jesus Christ" )によるものである.」 (ガラツィア書簡・第1章11-12節) ( " “…The gospel which was preached by me is not according to man. For neither did I receive it of man, nor did I learn it, but by the revelation of Jesus Christ” (Gal.I, 11-12) " ). そして聖パウロは,彼が人々に宣教を始める前に,自分(じぶん)に教(おし)えてくれた者(もの)たち,すなわち他の使徒(たの しと)たちとほとんど接触(せっしょく)していないことを話(はな)し,その後(あと)で彼らが検証(けんしょう)できる事実(じじつ)を説(と)くことによって,そのことを確認(かくにん)します (第1章15-19節) ( "And St Paul confirms this by narrating how little contact he had with those who might have taught him, the other Apostles, before he began preaching (I, 15-19), a fact obviously verifiable by them, …" ). そして,彼はガラツィア人たちに自分がけっして嘘(うそ)をついていないと誓(ちか)います (第1章20節) ( "… and he swears to the Galatians that he is not lying (I, 20). " ). 彼はしばらくして2番目の理由(りゆう)を与(あた)えます.それは,ガラツィア人たち自身が聖パウロの最初の訪問で行(おこな)った説教(せっきょう)の直接の結果(ちょくせつの けっか)として目撃(もくげき)した聖霊(せいれい)による諸々の奇跡と経験(もろもろの きせきと けいけん)( "the miracles and experience of the Holy Spirit" ) (第3章2-5節) です( "A second reason he gives a little later, which is the miracles and experience of the Holy Spirit (III, 2-5) that the Galatians themselves had witnessed as the direct result of the preaching of Paul’s first visit." ).
このようにして,聖パウロは最初の訪問(ほうもん)で説(と)いた真理(しんり)およびその真理とガラツィア人たちが自らの魂(みずからの たましい)を救(すく)いたいと願(ねが)うなら,自(みずか)ら見分(みわ)けることができるだけでなく,またそうせざるを得ない(えない)別の真理(べつの しんり)との間(あいだ)の矛盾(むじゅん)を神が自分(じぶん)に教(おし)えてくださり,ガラツィア人たちのために確(たし)かめてくださったことを証明(しょうめい)します( "Thus Paul proves that God both taught him, and confirmed for the Galatians, the gospel of that first visit, and the contradiction between it and any different gospel the Galatians would be not only able but also obliged to discern for themselves, if they wished to save their souls." ).そして,たとえ別の真理を説く者が天使あるいはパウロ自身(じしん) ――もしくは教皇!(きょうこう)――であるにしても (第1章8節) ガラツィア人たちはパウロの説く最初の真理(ぱうろの とく さいしょの しんり)に固執(こしつ)する絶対的な義務(ぜったいてきな ぎむ)があります( "And no matter if (I,8) the preacher of the different gospel were an angel or Paul himself – or a Pope ! – the Galatians would still have the absolute duty to stay with Paul’s first gospel." ).ガラツィア人たちは彼らの前(まえ)に示(しめ)された真実(しんじつ) (第3章1節) を認(みと)めて受け入れた(うけいれた)のです (第3章3節) ( "The truth that had been set before them (III,1) the Galatians had recognized and accepted it (III, 3), …" ).それは,あたかも私たちが2+2が4であるのを認めるようなもので,その真実はそれに矛盾(むじゅん)する真実を説くいかなる教師(きょうし)よりも優位(ゆうい)に立(た)ちます( "…just as one recognizes that 2 and 2 are 4, so it would have priority over any teacher eventually contradicting it, …" ).彼がいかなる権限(けんげん)を持(も)っているように見(み)える場合(ばあい)もそうです (第1章9節) ( "…whatever authority to teach he might appear to have (I,9)." ). (訳注後記4…ガラツィア書簡全章)
そういうわけで,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )は生前(せいぜん),聖パウロから第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)までの19世紀(じゅうきゅう せいき)のあいだ,教会(きょうかい)は神が示し(かみが しめし),神が何度も確かめられた(かみが なんども たしかめられた)まさしく同じ真理( "おなじ しんり" )を説(と)いてきたと,口癖(くちぐせ)のように言(い)っておられました( "Thus Archbishop Lefebvre used to say that for the 19 centuries between St Paul and Vatican II the Church had preached exactly the same gospel, coming from God and ever and again confirmed by him." ).神により啓示(けいじ)された,その真理とは,聖職者(せいしょくしゃ)たちが伝(つた)えてきた,ヨハネ黙示録(よはね もくしろく)( "Revelation" )であり( "That gospel is, as revealed by God, Revelation; as handed down by churchmen, Tradition; …" ),権威(けんい)をもって教会とその通常(つうじょう)および特別教導権(とくべつ きょうどうけん)が教(おし)えてきた伝統(でんとう)です( "…That gospel is, as revealed by God, Revelation; as handed down by churchmen, Tradition; as taught with authority by the Church, its Ordinary and Extraordinary Magisterium." ).その真理(しんり)と第二バチカン公会議との矛盾(むじゅん)は明白(めいはく)です( "Between that gospel and Vatican II the contradiction is obvious, …" ).したがって,私たちは自らの魂(みずからの たましい)を救(すく)いたいと願(ねが)うなら,教会の見かけだけの権威者(きょうかいの みかけだけの けんいしゃ)がなんと言おうと,伝統(でんとう)を受け入れ(うけいれ),信(しん)じなければなりません ( "…so we must accept and believe Tradition, if we wish to save our souls, whatever the apparent authorities of the Church may say to the contrary." ).神よ,私たちをお救(すく)いください( "So help us God." ).ルフェーブル大司教ご自身(じしん)の聖ピオ十世会がどうして第二バチカン公会議当局者(とうきょくしゃ)たちとの和解(わかい)を正式(せいしき)に求(もと)めることができるのでしょうか?( "How then can the Archbishop’s own Society of St Pius X be officially seeking reconciliation with the authorities of Vatican II ? " )
キリエ・エレイソン.
新約聖書・使徒聖パウロのガラツィア人への手紙:第1章8-9節 ( "Galatians I, 8-9" ) は権威に対する(けんいに たいする)真理の優位(しんりの ゆうい),すなわち,今日の(こんにちの)ローマ教皇庁の権威(ろーま きょうこう ちょうの けんい)に対(たい)するカトリック教伝統の優位(かとりっく でんとうの ゆうい)を証明(しょうめい)する古典的な教科書(こてんてきな きょうかしょ)です ( "Galatians I, 8-9 is a classic text to prove the priority of truth over authority, i.e. of Catholic Tradition over today’s Rome." ).
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(訳注1)
新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡第10章17節
(Rom.X, 17) → The Epistle of St. Paul the Apostle to the Romans 10, 17
『信仰は宣教により,宣教は*¹キリストのみことばによる.』
"Faith then cometh by hearing by the word of Christ."
(注釈)「キリストのみことば」は,キリストの命令(めいれい)のこと.
(訳注2)
新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章31-32節
(Lk.XXII, 31-32) → The Holy Gospel of Jesus Christ according to St. Luke
『(イエズス・キリストのみことば)シモン(=ペトロ), シモン, サタン(=悪魔)はあなたたちを麦(むぎ)のようにふるいにかけることができたが,*²私はあなたのために信仰(しんこう)がなくならぬようにと祈った.あなたは心(こころ)を取(と)りもどし,兄弟(きょうだい)たちの心を固めよ(こころを かためよ).』
"(31) And the Lord said: Simon, Simon, behold Satan hath desired to have you, that he may sift you as wheat:(32) But I have prayed for thee, that thy faith fail not: and thou, being once converted, confirm thy brethren."
(注釈)*² カトリック神学は,ペトロの後継者(こうけいしゃ)の教導権と不可謬性(きょうどうけんと ふかびゅうせい)を証明(しょうめい)するために,このところも挙げる(あげる).
(訳注3)
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第16章13節
(Jn.XVI, 13) → The Holy Gospel of Jesus Christ according to St. John
《主イエズス・キリストの聖福音》
『(13)…その方(かた)つまり真理の霊(しんりの れい)の来(く)るとき,霊はあなたたちをあらゆる真理(しんり)に導(みちび)かれるであろう.それは,自(みずか)ら語るのではなく,聞いたことを語って未来のことを示されるであろう.(14)また霊は私に光栄を与えられる.なぜなら,霊は私のものを受け,それをあなたたちに知らせるからである.(15)父のものはすべて私のものである.だから私は,霊が私のものを受けて,それをあなたたちに知らせると言ったのである.』
"(13) But when he, the Spirit of truth, is come, he will teach you all truth. For he shall not speak of himself; but what things soever he shall hear, he shall speak; and the things that are to come, he shall shew you. (14) He shall glorify me; because he shall receive of mine, and shall shew it to you. (15) All things whatsoever the Father hath, are mine. Therefore I said, that he shall receive of mine, and shew it to you."
(訳注4)
新約聖書・使徒聖パウロのガラツィア人への書簡:全章
(Galatians I-III) → Epistle of St. Paul to the Galatians I-VI
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訳注を追加掲載いたします.
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