2013年12月31日火曜日

337 ビィユー II 12/28

エレイソン・コメンツ 第337回 (2013年12月28日)

     枢機卿(すうききょう)ビィユーが文字(もじ)と教会史(きょうかいし)の主要(しゅよう)な7(なな)つの時代(じだい)との関連性(かんれんせい)を立証(りっしょう)している,単(たん)にアジアの7つの教会(あじあの ななつの きょうかい)の各(かく)名称(めいしょう)( "names" )(エレイソン・コメンツ第336回を参照〈さんしょう〉)( " (cf. “Comments” # 336) " )だけでなく,それら各教会(かく きょうかい)に当(あ)てられた7つの文字(ななつの もじ)の中身(なかみ)に( "contents" )基(もと)づくものです(ヨハネの黙示録〈もくしろく〉第2章および第3章)( "It is not only by the names of the seven Churches of Asia (cf. “Comments”# ) but also by the contents of the seven Letters addressed to them (Apoc. II and III) that Cardinal Billot establishes the connection between the Letters and seven main periods of Church history. " ).ここでとくに興味(きょうみ)をひくのは私たちの現代(げんだい),第5の背教の時代(はいきょうの じだい)に符節(ふせつ)するサルデスSardis( 新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章1-6節 Apoc. III, 1-6 )の教会に当てられた文字(もじ)です( "Especially interesting in this respect is the Letter to the church of Sardis (Apoc. III, 1-6) which would correspond to our own Age, the fifth, the Age of Apostasy. " ).ビィユーはサルデスの有名(ゆうめい)な支配者(しはいしゃ)クロイソスにまつわる富(とみ),贅沢(ぜいたく),物質的繁栄(ぶっしつてき はんえい)を想起(そうき)した後(あと)で,つぎのように書(か)いています:-- ( "After evoking the wealth, luxury and material prosperity associated with Croesus, famous ruler of Sardis, Billot writes:-- " )

     「人々(ひとびと)が想像(そうぞう)するように,この教会(きょうかい)は精神的衰退(せいしんてき すいたい)の状態(じょうたい)にあるように見(み)えます( " “As one might expect, this church seems to be in a state of spiritual decline." ).背教(はいきょう)や脱落(だつらく)がはびこっていますが( "Apostasy and falling away are on all sides, …" ),多数の人々(たすうの ひとびと)が宗教(しゅうきょう)を見捨(みす)てる一方(いっぽう)で( "… but while the majority of souls abandon religion, …" ),少数の人々(しょうすうの ひとびと)はキリスト(きりすと)への忠誠(ちゅうせい)を守り続(まもり つづ)けています( "… there are a few who remain faithful to Christ." ).天使は 「サルデスには衣(ころも)を汚して(けがして)いない名前(名目=人)(なまえ〈めいもく=ひと〉)がいくつかある(=サルデスであなたの中にも衣を汚していない少数の人〈しょうすうの ひと〉がいる.)」 が: 「汝(なんじ)は名前(=名目)で生きて(なまえ〈めいもく=ひと〉で いきて)いようと,実体では死んで(じったいでは しんで)いる!」 と告(つ)げます( "The angel says, ‘Thou hast a few names in Sardis which have not defiled their garments.’ But: ‘Thou hast the name of being alive: and thou art dead !’ " ). 名目(実体のない)(めいもく〈じったいのない〉)( "The name (but not the reality) …" )だけの生活(せいかつ),知識(ちしき),自由(じゆう),文明(ぶんめい),進歩(しんぽ)があっても( "… of life, knowledge, freedom, civilization, progress; …" ),命の光明(いのちの こうみょう),すなわち我が主(わが しゅ)イエズス・キリストを拒(こば)んだため,暗黒と死の影(あんこくと しの かげ)に坐(ざ)しているというわけです( "… and thou art dead, sitting in darkness and the shadow of death, because the light of life, which is Our Lord Jesus Christ, has been rejected." )(訳注後記1). かくして,天使(てんし)はサルデスの司教(しきょう)に 「目を見開き(めを みひらき),残りし者(のこりし もの),死(し)をいとわぬ者(もの)を助け強めよ(たすけ つよめよ)(=警戒して〈けいかい して〉,死(し)にかけている残りの者(のこりの もの)を強(つよ)めよ」 と告(つ)げます ( "Hence the bishop of Sardis is told, ‘Be watchful and strengthen the things that remain, which are ready to die.’ " ). とりわけ,司教は聖なる使徒(せいなる しと)たちのあらゆる伝統(でんとう)を忠実に守り(ちゅうじつに まもり),彼(かれ)らが教会の父たち(きょうかいの ちちたち)(=教父たち〈きょうふ たち〉)( "the Church Fathers" )のために守(まも)ってきた意味(いみ)から,言い訳(いいわけ)したり,深く理解(ふかく りかい)したふりをして,逸脱(いつだつ)しないよう勧告(かんこく)され: ( "And he is above all recommended to cleave unfailingly to all the traditions of the holy Apostles, without in the least way departing from the meaning they held for the Church Fathers, with the excuse or under the appearance of a deeper understanding: …" ) 「それゆえ,汝(なんじ)は自(みずか)らが受け入(うけい)れ,聞(き)いたことを心に留め(こころに とどめ),そして観察(かんさつ)し,罪の償い(つみの つぐない)をせよ」 と告(つ)げられます( " ‘Have in mind therefore what thou hast received and heard: and observe, and do penance.’ " ).これで第5の時代(じだい)のことは終(お)わりです.次に続く(つぎに つづく)のはもう少(すこ)し喜(よろこ)ばしいことでしょう.」( "So much for the Fifth Age. But what follows is a little more rejoicing.” " ) そこで,(ビイユー)枢機卿(すうききょう)は話(はなし)を第6,第7の時代(じだい)に進(すす)めます.( "And the Cardinal goes on to the Sixth and Seventh Ages. " )

     エレイソン・コメンツの読者(どくしゃ)のなかで,私たちの時代(わたしたちの じだい)とのからみで ヨハネ黙示録 (もくしろく) 第3章 ( "Apocalypse III" ) の初(はじ)めの6節を読(よ)んだことがない方(かた)は,一度お読み(いちど およみ)になれば今の時(いまの とき)にその個所(かしょ)を読(よ)むのは興味深い(きょうみ ぶかい)ことだと感(かん)じるでしょう( "Readers who have never read the first six verses of Apocalypse III in connection with our own times should be interested to do so." ).両者(りょうしゃ)の関連性(かんれんせい)は驚(おどろ)くばかりで,決(けっ)して偶然の一致(ぐうぜんのいっち)ではありません( "The connection is remarkable, and not co-incidental." ).

     なぜ驚(おどろ)くばかりかと言(い)えば,「残りし者(のこりし もの),死(し)をいとわぬ者(もの)を助け強(たすけ つよ)めよ(=警戒して〈けいかい して〉,死〈し〉にかけている残りの者〈のこりの もの〉を強〈つよ〉めよ)」 ( " “Strengthen the things that remain, which are ready to die” " ) は,カトリック教(きょう)をプロテスタント主義(しゅぎ)から救(すく)った反宗教改革(はん しゅうきょう かいかく)に( " to the Counter-reformation saving Catholicism from Protestantism" ),フランス革命(かくめい)から生き残った教会(いき のこった きょうかい)を救(すく)った反自由主義の教皇(はん じゆうしゅぎの きょうこう)たちに( "to the anti-liberal Popes saving what remained of the Church from the French Revolution" ),バチカン第二公会議(だいに こうかいぎ)から伝統(でんとう)を救(すく)ったルフェーブル大司教(だいしきょう)(および他の方々〈ほかの かたがた〉たち)に( "to Archbishop Lefebvre (and others) rescuing Tradition from Vatican II" ),そして今や聖ピオ十世会が自由主義に陥(おちい)るのを救(すく)おうと戦(たたか)っている抵抗運動(ていこう うんどう)に( " and now to a Resistance battling to save what can be saved from his Society collapsing into liberalism." ),そのままあてはまるからです( "It is remarkable because “Strengthen the things that remain, which are ready to die” corresponds exactly to the Counter-reformation saving Catholicism from Protestantism, to the anti-liberal Popes saving what remained of the Church from the French Revolution, to Archbishop Lefebvre (and others) rescuing Tradition from Vatican II, and now to a Resistance battling to save what can be saved from his Society collapsing into liberalism." ). 必(かなら)ずやカトリック教徒(きょうと)たちはこのような展望(てんぼう)から勇気を得る(ゆうきを える)でしょう(=勇気を得るに違〈ちが〉いありません)( "Surely Catholics may take heart from this perspective, …" ),すなわち,長く続いた(ながく つづいた)希望の持てない(きぼうの もてない)ような後方守備行動(こうほう しゅび こうどう)( "long and seemingly hopeless rearguard action" )(訳注・遠い過去〈とおい かこ〉にカトリック教会に生(しょう)じていらい今日に至る(こんにちに いたる)までカトリック教徒がずっと引き継(ひきつ)いできた〈 "comes from a distant past" 〉希望の持てないような後方守備行動) が,本当(ほんとう)に (=現実的〈げんじつてき〉に) 遠い過去(とおい かこ)から抜け出して(ぬけだして) 最終的(さいしゅうてき)に勝利する未来(しょうりする みらい)に移(うつ)るのだ ( "and does fit into an ultimately triumphant future." )という展望(てんぼう)から勇気(ゆうき)づけられるでしょう ( "… that their long and seemingly hopeless rearguard action comes from a distant past and does fit into an ultimately triumphant future." ). これこそが,私たちにヨハネ黙示録(もくしろく)が与(あた)えられた所以(ゆえん)です ( "That is why we were given the book of the Apocalypse." ).

     上(うえ)に述(の)べた両者(りょうしゃ)の関連性(かんれんせい)は決(けっ)して偶然の一致(ぐうぜんのいっち)ではありません( "Nor is the connection co-incidental." ) .私たちの主イエズス・キリスト( "Our Lord" )は彼の使徒(しと)( "Apostles" )たちに対し,彼の霊(れい),聖霊(せいれい)( "his Spirit, the Holy Ghost" )は彼らおよび彼らの後継者(こうけいしゃ)と共(とも)にあり,時代(じだい)を下(くだ)って彼らが知る必要(しる ひつよう)のあることだけを啓示(けいじ)するだろうと約束(やくそく)されました(新約聖書・ヨハネ聖福音書:第16章12-14節〈 "Jn. XVI, 12-14" 〉)( "Our Lord promised his Apostles (Jn. XVI, 12-14) that his Spirit, the Holy Ghost, would be with them and with their successors down the ages to reveal to them what they would only then need to know." ).尊者(そんしゃ)ホルツハウザーがアジアの7つの教会(ななつの きょうかい)を表す文字(あらわす もじ)に秘(ひ)められた7つの時代(ななつの じだい)を理解(りかい)したのは,30年戦争(30ねん せんそう(1618-1648年)がドイツを荒廃(こうはい)させているときのことでした( "It was only when the Thirty Years War (1618-1648) was ravaging Germany that the Venerable Holzhauser was given his understanding of the Seven Ages hidden within the Letters to the seven churches of Asia." ).同(おな)じように,ロシア革命(かくめい)が勃発(ぼっぱつ)しようとしている時(とき),私たちは聖母(せいぼ)がファティマで,最後(さいご)は聖母自(みずか)らの汚(けが)れなき(=純潔〈じゅんけつ〉な)御心(みこころ)( "her Immaculate Heart" )が勝利(しょうり)を収(おさ)めると保証(ほしょう)してくださることを必要(ひつよう)としました( "Similarly it was only when the Russian Revolution was just about to break out that we needed Our Lady to assure us at Fatima that in the end her Immaculate Heart would triumph." ).教会(きょうかい)が今(いま)まさしく輝(かがや)きを失(うしな)おうとしているのは事実(じじつ)です (最近〈さいきん〉ブラジルで白衣〈はくい〉をまとった聖職者が執り行った(せいしょくしゃが とりおこなった)公(おおやけ)のミサの画像(がぞう)をインターネット上でご覧(らん)になってください)( "True, the Church is right now being eclipsed (see on the Internet the film-clips of the public Mass celebrated recently in Brazil by the churchman in white), …" ).だが,私たちが自由主義者(じゆうしゅぎ しゃ)になる必要性(ひつよう せい)もなければ,それを正当化(せいとう か)する何もの(なにもの)も存在(そんざい)しません( "… but there is still no need or justification for us to become liberals." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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第2パラグラフの訳注1:

(説明)
命の光である主イエズス・キリストに属(ぞく)していない人は,暗闇(くらやみ)の中に生きており,自分がどこへ行くのかを知らない.

新約聖書(しんやくせいしょ)の参照(さんしょう)


ヨハネの第一の手紙,第一章
FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE, CHAPTER I
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN, CHAPITRE PREMIER
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA, CAPUT I

神は光であって,すこしのやみもない.』(5節)

『主が光のうちにましますように,私たちも光のうちを歩んでいるなら,私たちは互いに一致し,み子イエズスの血は私たちの罪をすべて清める.』(7節)

『罪がないと言うなら,それは自分を偽っているのであって,真理は私たちの中にはない.
自分の罪を告白するなら,真実な正しい神は私たちの罪をゆるし,すべての不義を清めてくださる.』(9節)


ヨハネの第一の手紙,第二章
FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE, CHAPTER II
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN, CHAPITRE II
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA, CAPUT II

みことばを守る者はその人の内に神の愛が全(まっと)うされ,それによって私たちは主の中にいることがわかる
また,主の中にいると言う者は,自分も主が歩まれたように歩まねばならぬ.』(5節)

兄弟を愛する人は光にとどまる者であって,彼はつまずく恐れがない.兄弟を憎む人はやみの中にいてやみを歩み,やみに目をくらまされて自分がどこに行くかも知らない.』(11節)

『小さな子らよ,最後の時である.あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが,今や多くの反キリストが現れた.これによって私たちは最後の時が来たことを知る.』(18節)


ヨハネの第一の手紙,第5章
FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE, CHAPTER V
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN, CHAPITRE V
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA, CAPUT V

『イエズスがキリスト(=救世主・メシア〈=メサイア〉)であることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方を愛する人々は,また神から生まれた者をも愛する.
神を愛してそのおきてを行えば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はそのおきてを守ることにあるが,そのおきてはむずかしいものではない.
神から生まれた者は世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である(4節).
イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.

水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけでなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.
実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.
地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.

私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.
神の子を信じる者は,自分のうちに神の証明をもち,神を信じない者は神を偽(いつわ)り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.
その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである(11節).
み子をもつものは命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ(12節).

私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった.
私たちはみ旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.
そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.

自分の兄弟が死に至らぬ罪を犯しているのを見たなら,彼のために祈れ.そうすれば命が帰るだろう.これは死に至らぬ罪を犯す人々のために言ったことである.死に至る罪がある.私はこれについて祈れとは言わぬ.
すべての不義は罪である.しかし死に至らぬ罪がある.

神から生まれた人はすべて罪を犯さないと私たちは知っている.神から生まれたお方がその人を守られるから,悪者はその人に触れることができない.
私たちが神から出た者であり,世がすべての悪者の配下にあることも私たちは知っている.
また神のみ子がすでに来られ真実のお方を知るための知恵を私たちに授けられたことも知っている.私たちはそのみ子イエズス・キリストによって真実のお方のうちにいる.それは真実の神であって,永遠の命である(20節).
小さな子らよ,偶像を警戒せよ.』



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1・ 訳注の追加を続けます.

2・ ヨハネの黙示録の続きを追加掲載いたします.

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2013年12月25日水曜日

336 ビィユー I 12/21

エレイソン・コメンツ 第336回 (2013年12月21日)

     私はここ数年(すうねん),尊者(そんしゃ)バーソロミュー・ホルツハウザー( "the Venerable Bartholomew Holzhauser" )のヨハネの黙示録(もくしろく)に関する評論(ひょうろん)を基(もと)に教会(きょうかい)の7つの時代(じだい)について講義(こうぎ)をしてきました( "For years I have been giving a conference on the Seven Ages of the Church, based on the Venerable Bartholomew Holzhauser’s Commentary on the book of the Apocalypse." ).ホルツハウザーは1600年代(ねんだい)前半(ぜんはん)に活躍(かつやく)したドイツ人司祭(しさい)で,評論をひらめきによって書き記した(かきしるした)と述(の)べています( "Holzhauser, a German priest of the first half of the 1600’s, said that he wrote it under inspiration." ).私の講義は好評(こうひょう)ですが,それはとりわけ私が現代(げんだい)の狂気(きょうき)を教会史の中(きょうかいしの なか)の似通(にかよ)ったパターンに当(あ)てはめて話(はな)すからでしょう( "The conference has been popular, especially because it fits the craziness of our age into a harmonious pattern of the history of the Church." ).ただ,私がこれまでホルツハウザーについて気(き)づかなかったことがあります( "What I had not realized, however, …" ).ある著名(ちょめい)な古典的神学者(こてんてき しんがくしゃ)が彼のビジョンを共有(きょうゆう)しているという事実(じじつ)です( "… is that Holzhauser’s vision is shared by a famous classical theologian, …" ).このことは,ホルツハウザーを単なる預言者(よげんしゃ)とか「幻影信奉者」(げんえい しんぽうしゃ)( "apparitionist" )と片(かた)づけるのを難(むずか)しくしています( "… making it more difficult to dismiss Holzhauser as a mere visionary or “apparitionist”. " ).

     枢機卿(すうききょう)ルイ・ビィユー( "Cardinal Louis Billot" )(1846-1931)は古典的(こてんてき)な自著(じちょ)「キリストの教会(きょうかい)に関(かん)する論文(ろんぶん)」( "Treatise on the Church of Christ" )第1巻の終章(しゅうしょう)で,ホルツハウザーが説(と)いた教会史(きょうかい し)の主要(しゅよう)な7時代(ななじだい)とヨハネの黙示録第2,第3章を構成(こうせい)するアジアの7つ(ななつ)の教会に当(あ)てはめた7つ(ななつ)の文字(もじ)( "seven Letters to the seven churches of Asia" )との間(あいだ)の符節(ふせつ)( "correspondence" )についてかなり詳細(しょうさい)に説明(せつめい)しています( "It is in an Epilogue to the first volume of his classic Treatise on the Church of Christ that Cardinal Louis Billot (1846-1931) lays out in some detail the correspondence affirmed by Holzhauser between seven main periods of Church history and the seven Letters to the seven churches of Asia that make up Chapters II and III of the book of the Apocalypse." ).ビィユーの終章(しゅうしょう)はホルツハウザーに一切(いっさい)触(ふ)れていませんが,両者の間(りょうしゃの あいだ)に関連性(かんれん せい)がなかったと見(み)るのは難(むずか)しいでしょう( "Billot’s Epilogue never mentions Holzhauser, but it is difficult to imagine that there is no connection. " ).ビィユーはその符節(ふせつ)について,空想(くうそう)やひらめきからでなく,7つ(ななつ)の教会のギリシア名(ぎりしあ めい)から説き起(ときお)こしています( "However, Billot takes care to start out the correspondence not from any vision or inspiration, but from the Greek names of the seven churches." ).この名称(めいしょう)は教会発展の歴史(きょうかい はってんの れきし)を表(あらわ)すのにふさわしいものですが,そのことは見事(みごと)な偶然(ぐうぜん)というか,より的確(てきかく)には神意(しんい)のなせる業(わざ),すなわち神キリストの証(あか)しそのものです!( "The suitability of these names to the Church’s evolving history is either a remarkable coincidence, or more likely a trace of Providence at work – God, the Master of History ! " )

     ビィユーは Ephesusエフェゾ)( ヨハネの黙示録:第2章1-7節)はギリシア語で「出発」(しゅっぱつ)( "starting out" )を意味(いみ)すると言います( "Thus Billot says that Ephesus (Apoc. II, 1-7) signifies in Greek a “starting out”, …" ).これは,まさしく教会(きょうかい)の始(はじ)まりである「使徒の時代」(しとの じだい)(紀元33-70年)( "the Apostolic Age" )を的確(てきかく)に表(あらわ)しています( "… obviously suitable to the Apostolic Age (33-70 AD) with which the Church began." ).Smyrnaスミルナ)(ヨハネの黙示録:第2章8-11節)は第二の教会の名称(めいしょう)で,それは "myrrh" (訳注・「ミルラ」= 香水や香〈こうすいや こう〉を作〈つく〉るのに用(もち)いる樹脂〈じゅし〉)を意味し,教会第2の時代( "the Second Age" )(紀元70-313年)の情熱と苦難(じょうねつ と くなん),すなわち殉教の時代(じゅんきょうの じだい)に符節(ふせつ)します( "Smyrna (Apoc.II, 8-11) names the second church and means “myrrh”, corresponding to the passion and sufferings of the Church’s Second Age (70-313 AD), that of the Martyrs. " ). Pergamusペルガモ) (ヨハネの黙示録:第2章12-17節)は文学(ぶんがく)で有名(ゆうめい)な都市(とし)でした( "Pergamus (Apoc. II, 12-17) was a city famous for literature, …" ).したがって, "pergamum" は物を書き記す材料(ものを かきあらわす ざいりょう)を意味するようになり( "… so that “pergamum” came to mean material on which to write, …" ),教会第3の時代,つまり博士の時代(はかせ〈はくし〉の じだい)( "the Church's Third Age, that of the Doctors" )(紀元313-800年)に属(ぞく)する偉大な教会著述者の一団(いだいな ちょじゅつしゃ のいちだん)と符節します( "… corresponding to the cluster of great Church writers belonging to the Church’s Third Age, that of the Doctors (313-800)." ). Thyatiraティアティラ) は次の時代の教会(つぎの じだいの きょうかい)( ヨハネの黙示録:第2章18-29節)の名称(めいしょう)で,「勝利の輝き」(しょうりの かがやき)( "splendour of triumph" )を意味します( "Thyatira names the next church (Apoc. II, 18-29), and means “splendour of triumph”, …" ).これはシャルルマーニュ大帝(たいてい)(742-814年)( "Charlemagne (742-814) " )からフランス革命(かくめい)(1789年)に至(いた)るまでのカトリック教会の1千年(いっせんねん)の勝利(しょうり)に符節します( "… corresponding to the 1,000-year triumph of the Catholic Church, reaching from Charlemagne (742-814) to the French Revolution (1789). " ).

     この1千年(いっせんねん)はクロビス( "Clovis" )の改宗(かいしゅう)(496年)前後からプロテスタント主義(しゅぎ)の台頭(たいとう)(1517年)までと見(み)ることもできます( "These thousand years might also be reckoned from around the conversion of Clovis (496) to the outbreak of Protestantism (1517). " ).しかし,キリスト教世界(きりすと きょう せかい)の没落(ぼつらく)の始(はじ)まりを宗教改革(しゅうきょう かいかく)と見るかフランス革命(かくめい)と見(み)るか,ここでは触(ふ)れません( "But whether one marks the decline of Christendom from the Reformation or the Revolution, …" ).いずれにせよ,第5の教会( ヨハネの黙示録:第3章1-6節)の名称(めいしょう)である Sardisサルデス)は,現代(げんだい)を特徴(とくちょう)づける金(かね),物質的繁栄(ぶっしつてき はんえい),精神的衰退(せいしんてき すいたい)を想起(そうき)させる大金持ち(おおがねもち)クロイソスが支配(しはい)した都(みやこ)でした( "… in any case Sardis, naming the fifth church (Apoc. III, 1-6), was the city of Croesus, a fabulously rich man, evoking an abundance of money, material prosperity and spiritual decadence, such as characterize modern times." ).確(たし)かに, Sardis の教会(きょうかい)に対(たい)する警告(けいこく)は私たち自身(じしん)の現代(げんだい)に完全(かんぜん)に符節(ふせつ)します.この点についてはビィユーに関(かん)する次回以降(じかい いこう)のエレイソン・コメンツで触(ふ)れることにします( "Indeed the warnings to the church of Sardis correspond perfectly to our own age today, as we shall see with Billot in further “Comments”. " ).

     私たちは第6の教会,すなわち Philadelphiaフィラデルフィア)(ヨハネの黙示録:第3章7-13節)の教会以降(いこう),はっきりと将来(しょうらい)に足を踏み入れる(あしを ふみいれる)ことになります( "We move clearly into the future with the sixth church, that of Philadelphia (Apoc.III, 7-13), …" ).これは,「兄弟(きょうだい)」( " “brotherhood” (- adelphia) " ) への「愛(あい)」( " “love” (Phil-) " ) を意味します ( "… meaning “love” (Phil-) of “brotherhood” (- adelphia). " ). ビィユー枢機卿(すうききょう)はこの名称(めいしょう)を教会の最後の大勝利(きょうかいの さいごの だいしょうり)に符節させています( "Cardinal Billot has this name correspond to a last great triumph of the Church, …" ).それはとりわけ聖パウロが預言(よげん)したユダヤ人の改宗(かいしゅう)(新約聖書・ローマ人への手紙:第11章12節)によって,またユダヤ人の異邦人(いほうじん=非〈ひ〉ユダヤ人)( "the Gentiles" )との和解(わかい)により,キリストの下(もと)でようやく兄弟(きょうだい)となる( エフェゾ人への手紙:第2章14-16節)という預言によって,象徴(しょうちょう)されています( "… marked notably by the conversion of the Jews as prophesied by St Paul (Rom.XI, 12), and by their reconciliation with the Gentiles, brothers at last in Christ (Eph.II, 14-16). " ).

     だが, Philadelphia の教会は苦難(くなん)がやがて到来(とうらい)すると警告(けいこく)を受(う)けます( ヨハネの黙示録:第3章10節)( "But the church of Philadelphia is warned that tribulation is coming (Apoc.III, 10), …" ).これは最後の第7教会,すなわち Laodiceaラオディキア)( ヨハネの黙示録:第3章14-22節)の教会と符節(ふせつ)します( "… which corresponds to the seventh and last Age of the Church, that of Laodicea (Apoc. III, 14-22), …" ).この名称(めいしょう)は人々(ひとびと)( "the peoples (laon) " )の審判(しんぱん)( "judgment (dike) " )に由来(ゆらい)するものです( "… named from judgment (dike) of the peoples (laon). " ).これは教会にとって最後(さいご)でもっとも恐(おそ)ろしい試練の時代(しれんの じだい)となるでしょう( "It will be the Age of the last and most terrible trial of the Church, …" ).反キリスト教徒の迫害(はんきりすと きょうとの はくがい)( "… the persecution of the Antichrist, …" )に続(つづ)いて,生を受けた(せいを うけた)あらゆる霊魂(れいこん),すなわちすべての人々に対する最後の審判(さいごの しんぱん)( "General Judgment" )がくだされる時(とき)となるでしょう( "… followed by the General Judgment of all souls that will ever have lived, and so of all peoples. " ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


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ヨハネの黙示録

第1章

1 イエズス・キリストの啓示(けいじ).これはすみやかに起こるであろうことをそのしもべたちに示すために神が*キリストにまかせ,キリストはまたその天使を送ってしもベヨハネに告げられたものである.

2 ヨハネは自分の見たことをすべて神のみことばとして,*イエズス・キリストの証(あかし)として証言する.

3 この預言のことばを読み,それを聞いてここに記されたことを守る人は幸せである.*時は近づいているからである.

4 ヨハネより,*アジアにある七(なな)つの教会に.*今在(あ)り,かつて在り, 後に来られる者から,またその玉座(ぎょくざ)の前にいる七つの霊から,

5 また,忠実な証人(ちゅうじつな しょうにん),*死者の中から最初に生まれた者,地上の王の君(きみ)であるイエズス・キリストから,あなたたちに恩寵(おんちょう)と平和があるように.私たちを愛し,その御血(おんち)によって私たちを罪(つみ)から洗い清(あらいきよ)め,

6 その父なる神のために私たちを*司祭の王国の民(たみ)とされたお方に代々に光栄(こうえい)と権能(けんのう)あれ.アメン.

7 イエズスは雲に乗って下られる.すべての目はそれを見るであろう.彼を刺し貫(さしぬ)いた人々も見るであろう.*地上のすべての民は,そのために嘆(なげ)くであろう.そのとおりである.アメン.

8 今在(あ)り,かつて在り,後に来られる主なる全能の神は,「私は*アルファでありオメガである」と仰(おお)せられる.

9 あなたたちの兄弟として,イエズスとの一致(いっち)のうちに患難(かんなん)とみ国と忍耐(にんたい)をともにしている私ヨハネは,神のみことばとイエズスの証明のために*パトモスという島にいたが,

10 *主日(しゅじつ)に脱魂状態(だっこん じょうたい)になり,その後でらっぱのような犬声を聞いた.

11 その声は「おまえの幻(まぼろし)を書き記(かきしる)し,エフェゾ,スミルナ,ペルガモ,ティアティラ,サルデス,フィラデルフィア,ラオディキアにある七つの教会に送れ」と言った.

12 そう話した声の方を見ようとして後を振り返ると,七つの金の燭台(しょくだい)があった.

13 燭台の間に*人の子のような者が見えた.彼は長い服を着て,金の帯を胸にしめ,

14 頭と髪の毛は純白(じゅんぱく)の羊毛(ようもう)のように雪(ゆき)のように白(しろ)く,目は燃(も)える炎(ほのお)のようであった.

15 足は炉(ろ)で精練(せいれん)された尊(とうと)い青銅(せいどう)のようであり,声は大水の音のようであった.

16 右の手に七つの星をもち,口から*両刃(もろは)の鋭い剣(するどい けん)が出,顔は照(て)りわたる太陽のようであった.

17 *それを見たとき,私は死んだようにその足もとに倒(たお)れた.すると彼は右の手を私の上に置いて言われた,「恐れるな.*私は初(はじ)めであり終(お)わりであり,

18 生(い)きている者である.私はかつて死んだが,代々(よよ)限(かぎ)りなく生きる.私は死と黄泉(よみ)のかぎを持っている.

19 だから,おまえの見たこと,今あること,後に起こることを書き記(しる)せ.

20 私の右の手に見た七つの金の燭台(しょくだい)の奥義(おくぎ)は次のとおりである.七つの星は七つの*教会の天使であり,七つの燭台は七つの教会である.

(注釈)

前書き(1・1-8)
1 イエズスは天のことを啓示(けいじ)される者である(ヨハネ聖福音書 1:18,5:20,7:16 )
2 イエズス・キリストが証明された神のみことばのこと.
3 キリストの来臨(らいりん).
4 現在の小アジアの南西部.
* 脱出の書(出エジプト記)3:14 参照.
5 最初に復活(ふっかつ)した者.
6 すべての信徒は司祭と一致(いっち)し,神に賛美(さんび)の犠(いけにえ)を捧(ささ)げるからである.
7 黙示録では,「地上の民」とは神の愛を受け入れない人々である.
8 万物の初めと終わり.

幻(まぼろし)の始まり(1・9-20)
9 使徒としてここに監禁(かんきん)されていた.バトモスはエフェゾに近い島である.ローマ人はここを島流(しまなが)しの地としていた.
10 日曜日のこと.教会史上「主日(しゅじつ)」と記されたのは,これが初めてである.
13 ダニエル 7・13,10・6.キリストのこと.
15 不明なことばである.黄金(おうごん)と青銅(せいどう)の合金(ごうきん)であろうか.
16 神のみことばの鋭(するど)さを表(あらわ)す.
17 ダニエルの書 8・18,エゼキエルの書 2・1,イザヤの書 44・6 参照.
* イザヤ 44・6 は,ヤベについてこう言っている.キリストは神と等(ひと)しく,すべての権限をもっている.
20 各教会は一位(いちい)ずつの天使に守護(しゅご)されている.また天使は,ラテン教会の説によると,各教会のかしらのかたどりである.


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引き続き,ヨハネの黙示録・第2章,第3章を追加掲載いたします.
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2013年12月24日火曜日

335  リユ神父 II 12/14

エレイソン・コメンツ 第335回 (2013年12月14日)

     10月6日パリで行われたリユ神父( "Fr Olivier Rioult" )のインタビュー(エレイソン・コメンツ第333回を参照)から,もう一つ別の問題について引用(いんよう)させていただきます( "Let me quote Fr Olivier Rioult from his October 6 interview in Paris (cf. EC 333) on another question, …" ).いまカトリック教抵抗運動(ていこう うんどう)の内部(ないぶ)でしきりに論争(ろんそう)の対象(たいしょう)となっている問題(もんだい) - すなわち組織(そしき)に関(かん)する問題です( "… much disputed within today's Catholic Resistance – the question of organization." ).リユ神父はインタビューで(以下〈いか〉の二つの質問〈しつもん〉について)どう考えるか問(と)われています.すなわち,世界的な組織(せかいてきな そしき)を新(あら)たに作(つく)るのが可能(かのう)と考(かんが)えるか( "… whether he thought it was possible to set up a new worldwide organization, …" ),それとも長年(ながねん)のあいだ教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)たちを結(むす)びつけてきたような一種(いっしゅ)のゆるい自由(じゆう)な組織(そしき)の方が良いと考えるか( "… or would he rather opt for some kind of free association such as has grouped together sedevacantists for a number of years ? " ),を問われています( "Fr Rioult was asked whether he thought it was possible to set up a new worldwide organization, or would he rather opt for some kind of free association such as has grouped together sedevacantists for a number of years ? " ).以下は質問に対する彼の答えです.今回は彼自身かれ じしん)の言葉をそのまま引用します:-- ( "Here is his answer, this time in his very own words:-- " )

(引用はじまり)

     「私は今後(こんご)数か月(すうかげつ)のあいだに,抵抗運動内(ていこう うんどう ない)のほかのカトリック信徒との友情(ゆうじょう)をベースにした幅広い組織(はばひろい そしき)を設立(せつりつ)するかもしれません( "In the months to come I may be setting up a broad kind of association based on friendship with other Catholics in the Resistance, …" ).その際,彼らが教皇空位論者(きょうこう くうい しゅぎ しゃ)であるかどうかは問(とい)ません( "… whether or not they are sedevacantists, …" ).私にとって,教皇空位論は一つの意見(いけん)にしかすぎません ( "… sedevacantism being for me an opinion." ).ただし,いまのところ,そのような組織を立ち上げるには機が熟(き が じゅく)していません( "But the situation is not ripe here and now for such an association." ).いずれにせよ,カトリック教徒なら誰でも私たちの仲間(なかま)です( "In any case whatever is Catholic is ours." ).カトリック教徒として振る舞い(ふるまい),教会内に君臨(くんりん)する近代主義(きんだいしゅぎ)に抵抗(ていこう)する人たちであれば,私たちは誰とでも共(とも)に行動(こうどう)します( "So any Catholics ready to operate as Catholics and to resist the modernism reigning supreme within the Church, we will work with." ).したがって,私の答えは同じ共通(きょうつう)の善(ぜん):すなわちカトリック教会の信仰(しんこう)と礼拝(れいはい),(訳注・全人類に普遍〈ふへん〉の唯一のカトリック教会の)信仰の擁護(ようご)を分かち合う(わかちあう)幅広い(はばひろい)組織(そしき)であればイエス "yes" です ( "Therefore yes, to a broad kind of association sharing the same common good: the Faith and worship of the Catholic Church, the defence of the Faith." ).この共通の善を持つなら私たちの周(まわ)りのあらゆるグループ同士(どうし)のあいだに友情(ゆうじょう)を作り出だせます( "Having this same common good can create friendship amongst all our groups." ).」

     「私たちが終末の時(しゅうまつの とき)に近(ちか)づけば近づくほど,より多くのカトリック教徒は原理原則(げんり げんそく)でなく実践的(じっせん てき)に無政府主義者(むせいふ しゅぎしゃ)にならざるをえないだろうと私は考えます( " "I think that the closer we come to the end times, the more Catholics will have to be anarchists, not in principle but in practice." ).私が言いたいのは,カトリック教徒はあらゆる権力者(けんりょくしゃ)に逆(さか)らわざるをえないだろうということです( "By which I mean, they will have to be against all the powers that be, …" ).なぜなら,権力者は自然の秩序に反して行動するため,中和させ,弱らせ,倒さなければならないからです( "… because these will all have been neutralized, undermined or subverted, operating contrary to the natural order." ).だがら,カトリック教徒は教会(きょうかい),国家(こっか)を問(と)わずあらゆる権力者に抵抗(ていこう)せざるをえないでしょう( "Hence, in practice, Catholics will have to stand up to them all, in Church or State... " ).そうしなければ,カトリック教徒はフリーメーソンの影響(えいきょう)( "Masonic influence" )で歪(ゆが)められ,結局は現世の君主(げんせのくんしゅ)(=この世の君〈きみ〉"the Prince of this world" )に仕(つか)えることになるからです( "… because they will all be twisted out of shape, under Masonic influence... serving in any case the Prince of this world." )(訳注後記1).そういうわけで,私はより世界的な組織を作るのは極めて難しいと考えます( "So I think it will be very difficult to create any more worldwide structures." ).フランス人のドミニコ会司祭ロジェ・カルメル神父( "Fr Roger Calmel" )は物事(ものごと)について明確な考え(めいか くな かんがえ)を持った人物(もった じんぶつ)でした( "The French Dominican priest, Fr Roger Calmel, had a clear view of things." ).彼は1970年にすでに,組織内(そしきない)で自然(しぜん)に指導者の地位(しどうしゃの ちい)につく人たちは自らの職務(みずからの しょくむ)がその組織内で輝(かがや)くようにし( "As far back as 1970 he said that the natural leaders in any given place will have to make their ministry shine out in that one place, …" ),他(た)の組織の指導者たちと友情以上(ゆうじょう いじょう)の絆(きずな)で結(むす)びつきあわなければならないと述(の)べています( "… being tied by bonds of no more than friendship to the leaders in any other place." ) .」

     「彼は1970年,フランスの定期刊行物(ていき かんこうぶつ)「Itineraires (イティネレール)〈旅程〈りょてい〉〉」誌(し) "Itineraires"(149号)で次のように書いています( " "In 1970, in the French periodical "Itineraires" (#149), he wrote: …" ).『信仰を守る戦いは,きっちりとした世界的な組織(せかいてきな そしき)に入ることを拒(こば)む小(ちい)さなグループでなされなければならない( " "The fight for the Faith will have to be fought by little groups refusing to enter into any structured or universal organizations." ).そのようなさまざまなグループ,たとえば小さな学校(がっこう)( "a small school" ),粗末(そまつ)な女子修道会(じょし しゅうどうかい)( "a humble convent" ),祈祷集会(きとう しゅうかい)( "a prayer group" ),キリスト教徒(きょうと)の家族たちの集会(しゅうかい)( "a gathering of Christian families" ),巡礼(じゅんれい)の準備(じゅんび)・手配(てはい)をする集会でも( "… or the organizing of a pilgrimage, …" ),その権威(けんい)が本物(ほんもの)であり,誰(だれ)からも受け入れ(うけいれ)られていれば十分(じゅうぶん)である( "… the authority is real and accepted by everybody... " )( "Within these various groups, such as a small school, a humble convent, a prayer group, a gathering of Christian families or the organizing of a pilgrimage, the authority is real and accepted by everybody... " )….必要(ひつよう)なことは,個々(ここ)のカトリック教徒が自らの恩寵(おんちょう)の限界(げんかい)まで到達(とうたつ)し( "each Catholic to reach as far as his grace" ),権威者(けんいしゃ)が自(みずか)ら確実(かくじつ)に率(ひき)いる小さな領域(ちいさな りょういき)に身を置き(みを おき)( "… and authority will carry him in the little sphere which is certainly his to lead" ),自分を強要(きょうよう)するような大きな行政組織(ぎょうせい そしき)を上に持たず(うえに もたず),自らの職務(みずからの しょくむ)を果たす(はたす)ことである( "and which he will take charge of without having over him any grand administrative structures to make him do so" )( "All that is needed is for each Catholic to reach as far as his grace and authority will carry him in the little sphere which is certainly his to lead, and which he will take charge of without having over him any grand administrative structures to make him do so'. " " ).』」

(引用終わり)

     もし,カルメル神父が1970年当時(とうじ)の状況(じょうきょう)に照(て)らして上記(じょうき)のことを書(か)いたとすれば,彼はあまりにも先(さき)を見通(みとお)していたと言う人(いう ひと)がいるかもしれません( "If Fr. Calmel wrote that in 1970 for the circumstances of 1970, one might say either that he was seeing too far ahead, …" ).あるいは,人はルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )が SSPX ( = "the Society of St Pius X" = 聖ピオ10世会)を創設(そうせつ)することにより,1970年にはまだ他にできることがあったことを実証(じっしょう)したと言うかもしれません( "… or that Archbishop Lefebvre proved by organizing the Society of St Pius X what could still be done in 1970. " ).だが,私はカルメル神父が長い目(ながい め)で見て正(ただ)しかったと考えます( "But I do think that Fr. Calmel was right in the long run." ). SSPX に昨年(さくねん)起(お)きたことを見て,人は同会が砂に埋もれる(すなに うもれる)宿命(しゅくめい)にあったと言うかもしれません( "One might say, watching what happened to the Society last year, that it was bound to run into the sand." ).ルフェーブル大司教は教皇聖ピオ10世と同じように,驚くばかりの(カトリック教)延命工作(えんめい こうさく)をなされました( "Archbishop Lefebvre, like Pope St Pius X, conducted a marvelous rearguard action, …" ).同教皇より70年遅れて誕生したルフェーブル大司教がなされたことは,その分だけ少ないということなどなかったと人々は注目しています( "… but one notes how much less the Archbishop could achieve, coming70 years later than the Pope, …" ).私たちは大司教から40年遅れての誕生です( "… and now we are 40 years on from the Archbishop." ).破滅(はめつ)に向かう世界にあって,カルメル神父の預言の実現(よげんの じつげん)をいつまでも遅(おく)らせることはできません( "In a world marching to its ruin the realization of Fr. Calmel’s prophecy could not be indefinitely delayed. " ). 親愛なる読者の皆さん,私たちが私たちの主 "Our Lord" と共にとどまることを望(のぞ)むなら,気を引き締めて(きを ひきしめて)奮い立つ(ふるいたつ)以外(いがい)に選択(せんたく)はありません( "Dear readers, if we wish to stay with Our Lord, we have no choice but to gird our loins." ).私はカルメル神父もリユ神父も共に正しいと考えます( "In my opinion, Fr Calmel and Fr Rioult are right." ).神の御母(かみの おんはは),キリストを信じる私たちすべての最大の御助け(さいだいの おんたすけ)となられる方よ( "Help of Christians" ),お助け下さい!( "Mother of God, Help of Christians, help !" )(訳注)

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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第3パラグラフの訳注1
「この世の君〈きみ〉」 "the Prince of this world" について:

・サタン=悪魔〈あくま〉のこと.
・神(万物の創造主〈ばんぶつの そうぞうしゅ〉)に反逆〈はんぎゃく〉したサタン〈悪魔〉(被造物〈ひぞうぶつ〉)は,天から地(=現世)に落とされた.
・現世は堕落〈だらく〉した悪魔の支配下にある.
・悪魔は,唯一の真の創造主たる神の被造物たる全人類のうち,神を認めない人間の上に,現世における君主として君臨(くんりん)し,その支配(しはい)を及(およ)ぼしている.
・地上の人間が作り出したものはすべて,この世の君たるサタン(悪魔)の支配下にある.
・悪魔の代名詞は,「権力」「能力」「美」( Power )であり,これらにより悪魔は人間を惑(まど)わす.

* * *

第6パラグラフの訳注

「聖マリアの連禱(祷)(れんとう)」 "Litaniæ Laurentanæ Beatæ Mariæ Virginis" からの引用:

「キリスト信者の助け」
"Auxílium christianórum" (Latinæ)
"Help of Christians" (English)
"Secours des chrétiens" (Français)

→ 聖マリアの称号の一つ

聖マリアは
・主(キリスト)の御降誕ミサ聖祭(クリスマス= Christmas = Christ+mass )で
・最もお側(傍)近くに留まられ(もっとも おそば ちかくに とどまられ)
・キリストを信じる私たちの最大の御助け(さいだいの おんたすけ)となられる方( "Help of Christians" )


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2013年12月14日土曜日

334 大西洋にまたがる抵抗運動 12/7

エレイソン・コメンツ 第334回 (2013年12月7日)

     私は晩秋(ばんしゅう)の旅行期間中(りょこう きかん ちゅう),カナダ,米国,メキシコのカトリック教抵抗運動(ていこう うんどう)の拠点(きょてん)を見てきましたが( "From a late autumn journey I made through centres of Catholic Resistance in Canada, the United States and Mexico, …" ),抵抗運動は参加者(さんかしゃ)の人数では弱(よわ)いものの信仰心(しんこうしん)では強く,間違(まちが)いなく将来(しょうらい)は有望(ゆうぼう)であるとの印象(いんしょう)を受(う)けました( "… it seems as though the Resistance may be weak in numbers but it is strong in the Faith, which means that it certainly has a future." ).信心深(しんじんぶか)い人々の物語(ものがたり)が再び(ふたたび)繰り返(くりかえ)されようとしています( "Once more the story of a faithful remnant is being repeated." ).神にとって価値(かち)あることは質(しつ)であり量(りょう)ではありません( "With God it is quality and not quantity that counts." ).

     かつてカナダで最(もっと)もカトリック教が強い州(つよい しゅう)だったケベックは,第二バチカン公会議により大きな打撃(だげき)を受けました( "Québec, once the most Catholic province of Canada, was devastated by Vatican II, …" ).しかし,公会議後,聖ピオ十世会( "the Soceity of St Pius X" = SSPX )がモントリオールとケベック市近郊のレビ( "Levis" )に重要)じゅうよう)な伝統派(でんとうは)の拠点(きょてん)を設立(せつりつ)しました( "… but after the Council the Society of St Pius X built up important Traditional centres in Montreal and in Lévis, near the city of Québec." ).いまレビでは,信仰(しんこう)の厚(あつ)い人たちは SSPX 内部の新教会( "the Newchurch" )に向(む)かう危険(きけん)な変化(へんか)に気づいているため,伝統派が二つに分裂(ぶんれつ)しつつあります( "In Lévis now the Traditionalists are being divided, as souls strong in the Faith pick up on the Society’s dangerous change of course towards the Newchurch." ).伝統派の分裂は大いに恥(は)ずべきことですが( "The split amongst Traditionalists is a great shame, …" ),信仰が第一であり( "…but the Faith must come first, …" ),人々は抵抗運動に加わる恩寵(おんちょう)を授(さず)けられていると分(わ)かっています( "… as souls can see that are being given the grace to join the Resistance. " ).この分裂には新教会にはない将来があります( "It has the future that the Newchurch has not." ).

     米国(べいこく)での抵抗運動にとって大(おお)いに興味(きょうみ)ある点(てん)はケンタッキー州(しゅう)でジョゼフ・ファイファー神父( "Fr Joseph Pfeiffer" )が進(すす)めている神学校計画(しんがっこう けいかく)です( "A major interest for the future of the Resistance in the USA is Fr Joseph Pfeiffer’s seminary initiative in Kentucky, …" ).私が11月に同州を訪れた時点(じてん)では,この計画で神学校が6校設立(せつりつ)されていました( "… which had six seminarians when I passed through in early November." ).私はファイファー神父が今日の常軌を逸した状況(こんにちの じょうきを いっした じょうきょう)に対処(たいしょ)するため,これまでとは違う形(ちがう かたち)の司祭養成(しさい ようせい)を考えている事実(じじつ)に感心(かんしん)しました( "I admire the fact that Fr Pfeiffer is envisaging a different kind of priestly formation for today’s insane circumstances." ).新世界秩序(しんせかい ちつじょ)( "the New World Order" )に真剣(しんけん)に反対する「反逆者(はんぎゃくしゃ)( "rebels" )」を受け入れる(うけいれる)インターン施設(しせつ)が全米各地(ぜんべ いかくち)に用意(ようい)されており( "Since internment camps have been prepared all over the USA for any “rebels” who will seriously oppose the New World Order, …" ),将来(しょうらい)の司祭たちに児童用(じどうよう)に書(か)かれた公教要理(こうきょう ようり)と聖書の歴史(せいしょの れきし)を心(こころ)で学(まな)ばせるというファイファー神父の考え方が私にはよく理解(りかい)できました( "… it makes sense to me to be thinking of making future priests learn by heart a catechism and a Bible history, as written for children ! " ).というのも,これまでの SSPX の古典的な神学校は果(は)たして抵抗運動の必要性(ひつようせい)を十分(じゅうぶん)に理解(りかい)できるほどの強い信仰心(つよい しんこうしん)を持った司祭を多(おお)く生み出(うみだ)してきた(have … produced)でしょうか?( "For have the Society’s classical seminaries produced many priests strong enough in the Faith to see the need for Resistance ? " )(訳注後記1). 第二バチカン公会議直後(ちょくご)と同じように,いまどれほど多くの「善良な」( "good" )司祭たちがただ単に皆で一緒に従っている(ただ たんに みなで いっしょに したがっている)だけ(の状態〈じょうたい〉)であることでしょう( "As after Vatican II, how many “good” priests are just following along." ).

     私はテキサス州で,現在(げんざい) アメリカン・フリー・プレス ( "the American Free Press" )と名を変えた, スポットライト 新聞( "the Spotlight newspaper" )の下(もと)に結集(けっしゅう)し,自国を反愛国者(はん あいこくしゃ)たちから守(まも)ろうとしている,右派(うは)の愛国者たちの会合(かいごう)に出席(しゅっせき)し話をしました( "In Texas I addressed a meeting of right-wing patriots who have for many years rallied around the Spotlight newspaper, now the American Free Press, to defend their country from anti-patriots." ).彼らはすべてがカトリック教徒というわけではありませんが( "By no means all of them are Catholics, …" ),米国の政治(せいじ)に深刻な問題(しんこくな もんだい)があることを良く理解(よく りかい)しています( "… but they do grasp that there is a serious problem in their nation’s politics." ).いずれにせよ,彼らは私の主張論拠(しゅちょう ろんきょ)(=論点〈ろんてん〉)すなわち政治は宗教(しゅうきょう)もしくは宗教の欠如(しゅうきょうの けつじょ)から生まれた単(たん)なるスピルオーバー( "spill-over" )にすぎないという論拠,そして問題(もんだ+い)の唯一の解決(ゆいいつの かいけつ)はカトリック教に戻(もど)ることだという論拠を注意深(ちゅういぶか)く聴(き)いてくれました( "In any case they listened attentively to the argument that politics are merely a spill-over from religion, or from its lack, and that the only solution is a return to Catholicism." ). 

     メキシコ北部(ほくぶ)では,チリ "Chile" から来た元 SSPX司祭のレネ・トリンカード神父( "Fr René Trincado" )がいくつかの抵抗運動の教会を開き活況(かつきょう)を呈(てい)していました( "In northern Mexico a former SSPX priest from Chile, Fr René Trincado, is building up thriving Resistance chapels …" ).私はチワワとサルティリョ( "Chihuahua and Saltillo" )にある彼の教会を訪(たず)ねました( "… which I visited in Chihuahua and Saltillo, …" ).まもなくグアダラハラ( "Guadalajara" )にも抵抗運動の一大拠点(いちだい きょてん)ができるようです( "… and it looks as though another major Resistance centre will soon emerge in Guadalajara, …" ).ここは1920年代にクリステロ( "the Curisteros" )の有名なカトリック教徒反乱(はんらん)の中心地となった大都市です( "… a major city which was at the centre of the famous Catholic uprising of the Cristeros in the 1920’s." ).事実,抵抗運動は世界中(せかいじゅう)で組織化(そしきか)されずに自然発生(しぜんはっせい)しつつある伝統派カトリック教徒たちの反乱なのです( "In fact the Resistance is an unorganised and spontaneous uprising of Traditional Catholics all over the world." ). SSPX の上層部(じょうそうぶ)が押(お)しつけている主流派教会(しゅりゅうは きょうかい)への方向転換(ほうこう てんかん)に対し,彼らの信仰感覚(しんこう かんかく)(=本物〈ほんもの〉の信仰のセンス)( "sense of the Faith" )が本能的(ほんのうてき)に反応(はんのう)( "reacting instinctively" )しているのです( "Their sense of the Faith is reacting instinctively to the change of direction towards the mainstream Church being imposed from the top of the Society." ).新教会 "Newchurch" へ戻ろうとする結束(けっそく)は信仰の自殺( "suicide of the Faith" )のための結束です( "Unity in a return to that Newchurch is unity in suicide of the Faith." ).

     私は最後(さいご)にメキシコ・シティーを訪(おとず)れました( "My last stop was Mexico City, …" ).1521年に起きたエルナン・コルテス( "Hernan Cortes" )の有名(ゆうめい)なメキシコ軍事征服(ぐんじ せいふく)の舞台(ぶたい)だったところです( "… scene of Hernan Cortes’ famous military conquest of Mexico in 1521. " ).これよりもっと有名なのが,聖母マリアがこの10年後,グアダルーペでの御出現( "apparitions in Guadalupe" )により同国を霊的〈れいてき〉)に征服(せいふく)された奇跡(きせき)です( "Even more deserving of fame is Our Lady’s miraculous spiritual conquest of the land by her apparitions in Guadalupe ten years later, …" ).聖母マリアはこれによりメキシコに真新(まあたら)しいカトリック教国家を創り出(つくりだ)されました( "… creating a brand-new Catholic country." ).今日に至(こんにちに いた)るまで,彼女ゆかりの聖地は毎年数百万人の巡礼者(じゅんれいしゃ)を惹(ひ)きつけています( "To this day her shrine attracts millions of pilgrims, …" ).そして,同じく信仰の本能(ほんのう)( "… the same instinct of the Faith" )がもうひとりの元 SSPX 司祭,ウーゴ・ルイス神父( "Fr Hugo Ruiz" )に,間違(まちが)いなく抵抗運動の重要拠点(きょてん)となる場所(ばしょ)を彼の祖国(そこく)メキシコの首都(しゅと)に設立(せつりつ)させようとしています( "… and it is the same instinct of the Faith that is enabling another former SSPX priest, Fr Hugo Ruiz, to begin building up what will surely become an important Resistance centre in his nation’s capital city. " ).

     手短(てみじか)に言えば,世界は大混乱(だいこんらん)に陥(おちい)りつつあるかもしれませんし, SSPX 主流派はその没落(ぼつらく)を阻止(そし)する努力を諦(あきら)めているのかもしれませんが( "In brief, the world may be plunging into chaos and the mainstream SSPX may be giving up on the effort to resist that plunge, …" ),僅かに残った人々(わずかにのこったひとびと,=真の信仰 "the Faith" に留(とど)まっている僅かな人々)( "a remnant of souls" )は何が起(お)きつつあるのか実感(じっかん)しており( "… but a remnant of souls are realizing what is happening, …" ),彼らは信仰を失わない(しんこうを うしなわない)ようにしようと行動(こうどう)を起こしています( "… and they are taking action to preserve the Faith." ).信仰は地下(ちか)に潜(もぐ)らなければならないかもしれませんが,途絶(とだ)えることはありません( "It may have to go into hiding, but it will not die." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



* * *



第3パラグラフの訳注1:
(意訳と説明)

・SSPX の古典的な神学校における真の信仰心が弱体化(じゃくたいか)してきたところへ,
・第二バチカン公会議の影響(えいきょう)で,
・抵抗運動〈ていこう うんどう〉の意義(いぎ)
・必要性(ひつようせい)
・重要性(じゅうようせい)を十分に理解〈りかい〉しにくくなり,
・抵抗運動を将来〈しょうらい〉に引き継〈ひきつ〉いでいけるほどに強い信仰心を持った司祭たちを生み出しにくくなっている.

* * *

神の御言葉(新約聖書)からの引用(いんよう):

ローマ人への手紙:第8章13節
Epistle of Saint Paul the Apostle to the Romans VIII, 13
Épître de Saint Paul aux Romains VIII, 13
Epistola Beati Pauli Apostoli ad Romanos VIII, 13

『あなたたちが,肉に従って生きるなら死に定められており,霊によって体(からだ)の行いを殺すならあなたたちは生きる.』

"For if you live according to the flesh, you shall die: but if by the Spirit you mortify the deeds of the flesh, you shall live."

"Car si c’est selon la chair que vous vivez, vous mourrez ; mais si par l’esprit vous mortifiez les œuvres de la chair, vous vivez."

"Si enim secundum carnem vixeritis, moriemini : si autem spiritu facta carnis mortificaveritis, vivetis."


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訳注を追補いたします.
・使徒聖パウロのローマ人への手紙:第8章
・使徒聖パウロのエフェゾ人への手紙:第6章

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